48. 木下實氏からメールをいただく:木下正中と「木下文書」

♪「江戸東京」を読んだ感想を、木下實(きのした・みのる)氏(東京大学名誉教授)からいただきました。木下實氏は、明治33年(1900)4月に濱田玄達のあとを継いで、東京帝國大学醫科大學の産科学・婦人科学教室主任(教授)となった木下正中(きのした・せいちゅう)(1869-1952)の孫にあたられる方です。

木下 正中(出典:「産科と婦人科」5巻7号[巻頭頁]昭和12年)

 

若き日の木下正中

 

♪メールには、木下正中が、スクリバ、ベルツの指導を受け、醫科大學を卒業後、すぐにスクリバの助手となったこと、杉田玄白と同じく若狭國小濱の出身であること、本家には、杉田家(玄白、白玄、立卿、成卿、廉卿)から木下家に宛てた書簡が保管されていたこと、その書簡を、曾祖父の木下煕(きのした・ひろむ)が、三上参次にみせ序文を識してもらっていること、三上参次が、これを「木下文書」と名付けたこと、また、晩年に、木下正中は、医学用語に関心を持ち、日本医学会医学用語整理委員長を務め、「医学用語集」を刊行、「世界医学人名辞典」の編纂にも着手したことなどが書かれてありました。

小濱市街全景(絵葉書)

♪「江戸東京」では、『解體新書』や、その翻訳のもととなった蘭訳本、独逸原本など「ターヘル・アナトミア」に関するすべての原典を慶應義塾図書館に寄贈した杉田鶴子(杉田玄白の子孫)の事績や、東京大学史料編纂所に関係の深い三上参次のことも取り上げていましたので不思議な縁を感じました。

♪その後、木下實氏からは、お忙しい中、何度もメールをいただき、木下正中が、教授を退任した後は、浜町産婦人科病院(日本橋浜町三丁目)を、関東大震災後は、木下産婦人科病院(麹町九段)を開設・経営したことなども、ご教示いただきました。浜町産婦人科病院のすばらしい外観写真も拝借できましたので、「江戸東京」のなかで、紹介させていただけたらと思っております。

♪木下實氏からのメールによって、「江戸東京」が、杉田玄白、緒方洪庵の流れとともに、産婦人科学の歴史の流れをつくり、医学用語を扱うシソーラス研究会とも繋がってきたようにも思われ、不思議な縁を感じます。

♪さらに不思議なのは、木下産婦人科病院の場所を特定しようと思い、現在の市ヶ谷駅周辺や一口坂あたりの古地図をみていて、榊俶(さかき・はじめ)(東京帝國大学醫科大學初代精神病学教室教授)の次弟である榊順次郎が経営していた榊病院(産婦人科)の病院の印をみつけたことです。いままで、不明だった榊順次郎の病院の場所が特定できたのでした。産婦人科医の榊順次郎と木下正中が麹町でつながりました。なにかに導かれているような思いです。

九段坂からニコライ堂を望む

♪木下正中の生まれ故郷である小濱(旧福井県遠敷郡小濱町西津)、小学校時代を過ごした京都、学生・教授時代を過ごした東京本郷台町・森川町、教授退任後、晩年にかけて過ごした日本橋浜町、麹町・九段界隈の風情。そして明治初年から昭和初期にかけての小濱、京都、本郷への思いが、木下實氏のメールで浮き上がってきました。

 

♪小濱藩の侍医であった木下家の事績、そして「木下文書」の調査など、「江戸東京」は、最新のデジタル通信技術を利用し、いろいろな方々の助けを借りながら、原典探索、散歩の範囲を、徐々に広げてゆけたらと思っています。

 

(平成22年1月15日 記)(平成30年6月18日 追加)

47. 榊順次郎の墓

墓石の場所:染井霊園(東京都豊島区駒込5-5-1)1種イ5号5側

正 面:榊家墓

 

裏 面:西暦紀元一千九百十五年(大正4年は、弟順次郎が長兄俶の準[順]養子となった年にあたる)7)8)

♪東京帝國醫科大學(現在の東京大学医学部)の初代精神病学教室教授をつとめた榊俶(さかき・はじめ)には,二人の弟がいました。順次郎と保三郎です。

 

 

榊 順次郎(1859-1939)7)

 

榊 保三郎(1870-1929)8)

♪二人の弟とも東京帝國大學醫科大學を卒業し,順次郎は産婦人科学を保三郎は兄・俶と同じ精神病学を専門として巣鴨癲狂院に勤務したのち,九州帝國大學醫科大學の教授となっています。

♪榊三兄弟の父は,榊綽(ゆたか)(令輔 れいすけ・令一)といい,開成所時代には活字御用をつとめ,明治元年(1868)には駿府に移り,静岡学問所教授から沼津兵学校三等教授方並(図画方)に転じています。和蘭商館長から幕府に贈呈されたスタンホープ印刷機は,沼津に運ばれて,榊綽が操作したといわれています1)2)

♪榊俶の妹で岡田和一郎に嫁した徳子によると,父・榊綽は杉田梅里(成卿)の塾で呉秀三の祖父・箕作阮甫と同門であり,その縁で,呉秀三の姉・りき(のち日高秩父(ひだか・ちちぶ)氏夫人)は榊俶の洋画の弟子であったとのことです3)

♪榊綽の長男・俶が,沼津兵学校附属小学校に通ったことは,「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」4)のなかで触れましたが,弟の順次郎も,この沼津兵学校附属小学校の出身であり,また杉田玄端の息子の雄(いさお),盛(さかり)も,同附属小学校に在学して医者となったことは木下實氏(東京帝国大学医科大学産婦人科教授木下正中(きのした・せいちゅう)の孫、東京大学名誉教授)からのご教示ではじめて知りました。

♪さらに,宇野朗(ほがら)(帝國大學醫科大學第一醫院・外科学,繃帯学・皮膚病及黴毒學担当)(皮膚病黴毒科講座初代教授)も杉田玄端の塾にいたことが,『宇野朗覚書』(私家版)でわかりました。

♪『宇野朗覚書』は,以前に,宇野朗三上参次(みかみ・さんじ)の子孫である宇野彰男氏から,そのコピーをいただいていたのですが,杉田玄端の事績を調査していて,なぜか,気になって,ファイルを開いてみたのです。すると,そこには,維新後,杉田玄端が江戸の杉田塾をたたんで,塾生の宇野朗とともに三島を経て沼津に移る様子が書かれていました。磁力が働いて文献に引き寄せられた思いがしました。

♪それと,木下家と杉田家の墓所の文献調査の過程で,榊順次郎の墓の所在がわかりました。安西安周(あんざい・やすちか)(医史学者)が,杉野大澤の筆名で『日本医事新報』誌に「東都掃苔記」を長期連載していました。大変な労作で,第1回「土肥家累代之墓・片山家之墓」(昭和29年8月28日発行)5)から第100回「宇野家の墓・清野家の墓」(昭和31年7月21日発行)6)まで続くことになります。

♪その第49回(第1631号)7)と第50回(第1632号)8)で染井霊園にある榊家の墓所が取り上げられ,榊順次郎の墓についても,詳しく書かれていました。安西安周が榊家と姻戚関係にある緒方規雄(おがた・のりお)(千葉医大細菌学教室初代教授)(緒方正規[まさのり]の息子)に話を聞いたものでした。榊俶の姉(長女)である小梅が緒方正規(東京帝國大學醫科大學衛生学教室初代教授)の妻であったため,緒方規雄が情報を提供したものと思われます。(なお千葉医大細菌学教室の第3代教授が,木下正中の六女・弘子(ひろこ)を妻にした川喜田愛郎(よしお)です。)

♪記事7)8)によると,大正4年(1915),榊保三郎は,長兄・榊俶の準[順]養子となり,榊順次郎は別家をたてて,墓所も別地に設けたとありました。

♪杉野大澤は,榊順次郎について,つぎのように書いています7)。

「順次郎博士は綽翁の次男として安政六年六月十三日生,初め横須賀の造船学校に学んだが,その廃校によって東大醫學部の別科生となり,荒木[寅三郎]・遠山[椿吉]・金杉[英五郎]諸博士と同期に卒業した。」注)

「婦人科千葉稔次郎教授の助手となり,教授の死後私費を以て獨乙に遊学,帰朝後は四谷、次に市ヶ谷見附に産科婦人科病院を開設し,併せて半蔵門に産婆学校を設けた。」

(注)荒木は荒木寅三郎(京都帝國大學総長・学習院院長),遠山は遠山椿吉(東京市衛生試験所長・東京顕微鏡院院長),金杉は金杉英五郎(東京慈恵会医科大学初代学長)

🌸🌸🌸

♪すっかり,葉桜となった平成22年(2010)4月25日(日)に染井霊園を訪ねました。染井霊園には,染井通りの突き当りの正面入口から入り,巣鴨方面へ抜ける広い墓道(南そめいよしの通り)を進みました。三上参次の墓(1種イ13号1側)をお参りしてから,二葉亭四迷(1種イ5号37側)の墓への案内標柱がある細い墓道へ入りました。

♪二葉亭四迷の墓を左手にみて,やや進むと右手に「榊家墓」と刻まれた立派な墓石があらわれます(1種イ5号5側)。そこが,榊順次郎の墓でした。いつも,この墓所の前を通るときに,榊俶の榊家とは,どのような関係にある墓なのだろうかと思っていました。墓石の裏面には「西暦紀元一千九百十五年」と刻まれていました。西暦1915年は大正4年にあたります。この榊家の墓は,大正4年(1915)に榊順次郎が分家した時期に建てられたものと思われます。

♪榊順次郎は,昭和14年(1939)11月16日に狭心症で亡くなっています。享年80歳でした。

♪榊順次郎が市ヶ谷見附(九段)に開業した榊病院の場所9)は,木下正中が経営した木下産婦人科病院を調べていて確認できました。さらに業績については,緒方正清が著した『日本産科學史』10)のなかに,木下正中と並んで掲載されていることもわかりました。

♪榊順次郎は,『脚気病ト穀物トノ原因上関係』(明治25年12月出版)(丸屋善七発売)を著し,脚気論争にも関係した人物です。

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♪緒方洪庵の墓所からはじまった「江戸東京」の散歩は,点が線になりつつあります。

 

参 考 文 献

1)『沼津兵學校及其人材 -附属小學校並沼津病院-』(大野虎雄著 昭和14年刊 田中屋印刷所)

2)『旧幕臣の明治維新 -沼津兵学校とその群像』(樋口雄彦著)(歴史文化ライブラリ― 201)(吉川弘文館 2005)

3)岡田 徳子:岡田和一郎の思い出(5)-結婚の媒酌‐.『日本医事新報』 第1466号,p.36-37. 1952.

4)堀江 幸司:「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」医学図書館 43(3):361-368. 1996.

5)杉野大澤:東都掃苔記 [1] 土肥家累代之墓・片山家之墓. 『日本医事新報』第1583号,p.34. 1954.

6)杉野大澤:東都掃苔記 [100] 宇野家の墓・清野の墓. 『日本医事新報』 第1682号,p.52. 1956.

7)杉野大澤:東都掃苔記[49] 榊俶の墓,榊順次郎博士の墓.『日本医事新報』第1631号,p.52. 1955.

8)杉野大澤:東都掃苔記[50] 榊保三郎博士の墓,緒方正規先生の墓.『日本医事新報』第1632号,p.114. 1955.

9)九段上の電車通り(新東京・医学きまぐれ散歩).『日本医事新報』 第1466号,p.37-38. 1952.

10)『日本産科學史』(緒方正清著 大正8年刊 丸善)

 

(平成22年5月15日 記す)(平成30年6月9日 訂正)

46. 映画「狂った一頁」(2):川端康成の「撮影日記」

♪東京府巣鴨病院(前・東京府癲狂院)が茂原郡松澤村上北澤に移転して,東京府松澤病院(現在の東京都立松沢病院)となったのは,大正8年(1919)11月7日のことでした1)。榊俶のあとを継いだ呉秀三の理想に基づいて建設され,広大な構内には農場や庭園なども設けられました。

東京府松澤病院正門(絵葉書)
東京府松澤病院(病院鳥瞰)(絵葉書)
東京府松澤病院(病室の外観)(絵葉書)
東京府松澤病院(庭園の一部)(絵葉書)
東京府松澤病院(レントゲン室・治療室)(絵葉書)

♪当時,松澤病院に入院していた葦原将軍2)3)こと芦原金次郎(嘉永3年―昭和12年)は,明治43年(1910)7月9日に乃木希典(陸軍大将)と面会するなど,精神病者として新聞紙上を賑わした患者で,乃木を案内したのが呉秀三でした。明治から大正,昭和へと続く軍国化のなかで,精神病者への対応など「脳病院」が注目された時代でした。

♪衣笠貞之助が,いつ松澤病院を取材したか,その月日や院内を案内した医長については,わかりませんが,大正14年(1925)6月30日に呉秀三院長が退職して,三宅鑛一(三宅秀の長男)が院長になっていました。

♪開院当時の松澤病院は,病院全体がコロニーを形成しており,広大な敷地のなかに畑,水田,畜産場,園芸用地のほか,作業場などもあって「作業療法」も実施されていました。4)5)6)作業療法の建物には,男病者工作場(封筒貼り作業場),女病者工作場(裁縫作業場),大工工作場,印刷場などがあり,衣笠貞之助は,これらの施設も見学してまわったものと思われます。

 

(参考絵葉書)山形脳病院(現・山形さくら町病院)の作業療法

山形脳病院の作業療法(1)(絵葉書)
山形脳病院の作業療法(2)(絵葉書)

 

◆下賀茂松竹撮影所(京都)と川端康成の「撮影日記」

♪『狂った一頁』の撮影は,京都の下賀茂の松竹撮影所で行われました。撮影所は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(下鴨神社)の「糺(だだす)の森」の近く、加茂川沿いにありました。

♪「撮影のための宿舎からは、糺の森が見え、暗闇のなかでの脳病院風景の撮影は、恐ろしく、高笑いする女優の演技は、まさしく狂えるようなものであった」と川端康成は書いています。6)

下鴨神社と糺の森(絵葉書)
賀茂御祖神社(下賀茂神社)の賀茂祭(葵祭)

 

・・・踊子,気狂病院の病室にて踊り狂ふ卵色に塗りしトタン張りに鉄格子あるセットなり。踊子,支那米封筒の如き服を纏へり。肩腰など痛ましく破れ,腕と脚は露わにして素足なり。元来この狂へる踊子の役,格別に意味はなけれど,脳病院における小使と狂人の群の描写が大部分を占むるこの映画に色彩を与へ,時々気分を花(ママ)やかならしむる点において,甚だ重要なる役目なり。
始め須田美子出演の由を知り大いに喜びて,特にこの役を書き加へしなり。しかるに,高田雅夫氏の舞台の都合にて,出演せず,と聞きしかば,僕の失望甚だし。踊子なしでは,このシナリオの撮影不可能にあらずやと思ひし程なり。されば,踊子として現れたる南栄子氏は一人の救いの神なり。

15日
葵祭の日なり。
同志社大学の小壮教授谷川徹三氏注3)楽屋合宿所に来る。水上譲太郎氏より紹介さる。一高を僕より二三年前に出た人。一高の話少々。映画の観賞家なり。午後西田幾太郎博士の講義あればとて帰る。・・・
聯盟諸君は楽屋に合宿せり。井上正夫氏一党の俳優,渡瀬淳子氏一党の俳優は別に借家せり。働く者総勢七十名。経費莫大。世間の注目あり。且つ第一回作品なれば,シナリオ作者の肩重き以上に痛し。もし失敗せば,大半は僕の責任となるべし。聯盟員が粉骨砕身せる京都の地は二度と踏み難かるべし。

16日
隣室の井上正夫氏と話す。共に近所の玉突へ行く井上氏百点,僕当たらず。
・・・愛宕山なるべし。西の山へ紅色に沈む夕日を見る。宿の東はただすの森なり。・・・
今日も夜間撮影なり。小使が狂へる妻を盗み出さんとする場面なり。深夜の狂人の姿二。半裸体にて寝てゐる踊子。秋本梅子氏の扮せる女狂人の高笑ひ。クロズアップの壁の影と共に笑ひて,恐ろしきばかり狂へる深夜の感じなり。子供見るべからざる映画なり。
・・・三時過ぎ終る。宿に帰って眠れず。青磁色の暁をみる。(「撮影日記」)7)

注3) 谷川徹三:詩人・谷川俊太郎の父で哲学者

♪実験映画として評価される『狂った一頁』は,松澤病院で行われていた作業療法の「封筒貼り」の場面を再現することによって,精神病院の実態の一部を,記録として残そうとする映画でもあったのではないか・・・衣笠貞之助監督の精神科医療に対する冷静な眼を感じさせる映画と感じました。

 

◇封切館:旧武蔵野館(東京・新宿)

♪映画「狂った一頁」が上映された新宿の旧武蔵野館のあった場所へ行ってみることにしました。

♪映画『狂った一頁』が封切上映されたのは,洋画封切館の武蔵野館(大正9年[1920]6月30日開館)(3階建 定員600名)8)9)で大正15年[1926]9月24日のことでした。

♪当時,日本一の映画劇場といわれ,洋画ファンのメッカであった武蔵野館での上映が決まるまでには,いろいろの人の好意があり,徳川夢声もそのひとりで,上映の際に舞台で解説をしたそうです。

♪武蔵野館は,新宿通りに面した新宿三越があった場所にありました。三越が閉鎖(2012年3月閉店)されたあとビックロ(ビックカメラ+ユニクロ)となっています。なお,三越新宿店南館(1997年7月閉館)があった場所は,かつて新宿新歌舞伎座があった場所で,現在はIDC大塚家具の新宿ショールームとなっています。

 旧武蔵野館があった場所に建つビックロ (平成26年9月22日 堀江幸司撮影
戦前の新宿通り(絵葉書)(平成26年10月11日 追加) (左に伊勢丹、右に新宿三越、高野フルーツパーラーの看板。三越の場所に旧武蔵野館がありました)

♪新宿武蔵野館が現在地に移転したのは,昭和3年(1928)のことで,その建物も昭和41年(1966)に取り壊され,現在のビル(武蔵野ビル 東京都新宿区新宿3-27-10)に建て替えられています。新宿武蔵野館は,ビルの3階に入っています。

新宿武蔵野館(平成26年9月22日 堀江幸司撮影)

♪最近は,紀伊国屋書店新宿本店に行かなくなったせいか,JR新宿駅の東口側には,ほとんど降りなくなりました。画材・額縁の専門店の世界堂に行くのにも,四谷三丁目まで続く地下道を通って行くために,新宿通りを歩くということが,ほとんどなくなりました。

オークヴィレッジの東京ショールームが紀伊国屋書店新宿本店7階から自由が丘に移転してからは,なおさら新宿東口は,縁遠くなっていたのですが,今回,『狂った一頁』が,また東口への道を繋げてくれました。

参考文献

1)『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)
2)「将軍狂笑」:『明治医事往来』(立川昭二著 新潮社 1986)pp.375-382.
3)「芦原将軍のこと」:『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)pp.261-277.
4)「墳墓発掘」:『明治医事往来』(立川昭二著 新潮社 1986)pp.368-378.
5)「精神病の治療」:『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)pp.109-133.
6) 「第二章 移転直後の医療」:『私説松沢病院史―1879-1980』:pp.455-488.
7)「『狂った一頁』撮影日記」(川端康成著):『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(上演パンフ)PP.43-44.
8)『映画の殿堂新宿武蔵野館』(開発社 2011)
9)『新宿盛り場地図』(東京新宿区立新宿歴史博物館 平成17年5月発行)

(平成26年9月23日 記す)(平成30年3月28日 追記)

45. 映画『狂った一頁』(1):原作(川端康成)と作業療法場面

♪メールで高崎俊夫氏(映画評論家)から映画の制作に「江戸東京医史学散歩」にアップしてあるニコライ堂の絵葉書を借用したいとの連絡をいただきました。

聖橋とニコライ堂

♪「ヒロインの少女が戦前へとタイムスリップし,晩年の北原白秋が入院している杏雲堂病院を見舞う場面」があって,北原白秋の心象風景として,杏雲堂病院から見えるニコライ堂が写った絵葉書を使用したいという内容でした。

杏雲堂医院表門

♪さらに日本橋,東京駅,銀座,浅草など,戦前の東京を記録した絵葉書も映画のアニメーション部分の制作に参考になりそうだということでした。

♪東京の戦前の絵葉書をGoogleマイマップ「絵葉書で見る隅田川十九橋とその周辺」のなかで公開していたことが幸いしたようです。クランクインも迫っているということで,JR駒込駅前のアルプス洋菓子店の2階の喫茶室でお会いして絵葉書の現物を見ていただくことにしました。・・・

♪雑談のなかで,「ドクトルジバコ」「ミクロの決死圏」「白い巨塔」など医療に触れた映画が好きだとお話すると川端康成が原作を書いた『狂った一頁』(新感覚派映画連盟/1926年度作品)という大正末期に制作された無声映画について教えてくださいました。「脳病院」を舞台にした1920年代のアヴァンギャルドの代表作品ということでした。

♪あとで知ったことなのですが,高崎俊夫氏は,映画評論家で映画関係の書籍の編集者でもあり,「高崎俊夫の映画アットランダム」(清流出版)という連載記事を執筆されている方なのでした。

♪川端康成は,震災後の大正13年(1924)に東京帝國大學國文學科を卒業し,映画『狂った一頁』の原作を書いた大正15年(1926)は,松林秀子(青森県八戸出身)との結婚生活に入った年にあたります1)。

♪川端康成は、学生時代から,浅草には銀座と違った「きたない美しさ」という美意識を持っていて,のちに『浅草紅團』『浅草の九官鳥』『浅草祭』など浅草ものの作品を残しています。浅草蔵前の親戚(母方の従兄)をたよって上京したのが,大正6年(1917)のことで,この年の9月に第一高等学校に入学しています。映画街として知られる浅草公園(六区)にもよく出かけたようです。震災で倒壊する前の凌雲閣(十二階)があったころです。そのころから機会があったら映画の原作を書きたいと思っていたのかもしれません。

浅草六区と十二階(浅草公園)

♪映画『狂った一頁』は,ソフト化される計画もあったようですが,DVDは見つからず,YOUTUBE上に公開されているものを観ることができました。

 

『狂った一頁』(新感覚派映画聯盟第一回作品)

監督者 衣笠貞之助

主演者 井上正夫

原作者 川端康成

配光  内田昌夫

撮影補助 円谷英一 注1)

注1)特殊撮影の第一人者となる円谷英一(本名)は,のちに英二と名乗る。

 

配 役

小使 井上正夫

妻  中川芳江

娘  飯島綾子

青年 根本 弘

医師 関 操

狂人A 高勢 実

狂人B 高松 恭助

狂人C 坪井 哲

踊り子 南 栄子

 

♪無声映画で字幕もなく,映像だけで映画の内容を理解するしかありません。物語は,狂って「脳病院」に入院中の妻のために小使となって病院に住み込み妻を看る夫と家族の苦悩を描いています。娘の結婚問題の中で,狂った妻のために夫としてなにをしたらよいのか,妻を強制的に病院から連れ出すことも考えます。しかし,妻は,暗闇の中,「脳病院」から出ることを拒絶します。夫は,医者をなぐり殺してでも妻を連れ出すことを試みるのですが,それらは,全て夢なのでした。夢から覚めた夫は,「脳病院」での小使としての日常の生活に戻ることになります。病院の廊下を掃除する場面で映画は終わります。

♪映像からだけでは物語の繋がりがよくわかりません。原作を探してみました。幸い古本屋から岩波ホールで上映された際に編集されたパンフレットを入手することができました。2)注2)

♪そのなかに詳しい原作が載っていました。それによると,原作には,制作当時より映像となっていない場面(●印)があることがわかりました。

([注2] 原作は『川端康成全集』3)に収載されている)

『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(プログラム)

♪夫が妻を虐待して,その結果,妻が脳病院に入院することになったという経緯は,原作をみてはじめて知ることができました。

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□原作にあって映像にない場面

  • 明るい洋室.時計,8時を打つ.娘,後ろ向きに立って雨合羽を着る.青年,テーブルで悪戯書きをしていたが,振り返って娘を見る.娘,露台へ出る窓を開いて,外を眺める.
  • 船員時代の生活の情景,二,三.当時,妻を虐待した小使い.妻を棄てて放浪した彼が,立ち寄った港や町.
  • 青年の明るい洋室.誰もいない.その部屋の美しい花束が,娘と青年との明日の結婚を物語っている.

□原作にはなく映像にある場面:脳病院内での作業療法(封筒貼り)の場面

♪脳病院の門,看護婦との院内散歩,病室内での医者の診察,院内花壇,作業場での封筒貼り,手鎖の女性患者,外国人医師,医務室と炊事場,鉄格子の病室など,脳病院内の情景が物語の背景として映し出されます。とくに患者が封筒貼りをする場面はリアルに表現されています。2カットありました。

(1) 脳病院内の封筒貼りの作業療法場面

(2) 脳病院内の封筒貼りの作業療法場面

(女性患者が手鎖されている次のカット)

♪それでは,封筒貼りの場面は,原作ではどのように書かれているのでしょうか。調べてみることにしました。しかし,原作には記述がありませんでした。原作とは関係なく映像が挿入されたようです。

♪衣笠貞之助は,はじめ映画の舞台をサーカス一座とする予定だったそうですが,それを「脳病院」に変更したのは,ある体験からでした。横光利一の家を訪ねたときに,駅頭で見た異様な光景が脳裡に焼き付いていたようです。次のように懐古しています4)。

「・・・わたしが駅頭で見かけたのは,ある高貴な方の一行であった。この高貴な方が精神病にかかられているということは,ひそひそ話で人はすでに耳にして知っていたことだったが,このご旅行中の一行にも,どこか常ではない,おかしなところがあった。・・・その印象が,わたしにいろんなことを考えさせたのである。・・・狂気の人が劇的な成因となってドラマの大きな要素となることを考えて,ともかく精神病院を見学してみようと,そう思いついたのであった。」(「『狂った一頁』の実験―新感覚派映画連盟時代」)4)

♪衣笠貞之助は,誰の紹介状も持たずに,当時,精神病院として有名であった松澤病院を取材するのですが,その時のことを,次のように書いています。4)5)

東京府立松澤病院(大正8年に巣鴨駕籠町より移転)

「行ったのは,そのころはまだ東京の郊外であった世田谷の松沢病院である。ここには,そのころ話題の「葦原将軍」という患者のいることで,その名が一般にもよく知らせていた。何の紹介ももたず,縁故もなく訪ねたわたしを,医長さんはくまなく案内して,いちいちていねいな説明をあたえてくださった。いまから思っても,ほんとにありがたいことであった。『狂った一頁』について,その方面の人からも,わりあいに正しく狂気の患者の生態を描いてある,めだったまちがいはないと言ってもらえたのは,そのおかげであったにちがいない。」(「『狂った一頁』の実験―新感覚派映画連盟時代」)4)

「その時,東京の松沢脳病院で取材した記憶は今でも鮮明だ。幾棟かに隔離された病棟には,施療あり,重患あり.水風呂に入っている者,一糸まとわぬ若い女,鉄板の個室の真中に突っ立って,虚ろな眼で空間を見つめている老女.自分の糞尿に,細かく引き裂いた浴衣をかけ,小切れで隅々まで拭き掃除している男.大の字に寝ている者.封筒をそ知らぬ顔で貼っている者,個室の中を,何か口走りながら歩き廻っている者など,気の毒で,二目とは見られなかった.当時,有名な誇大妄想狂,葦原将軍は,2,30人もいる大部屋の隣の3畳で4,5匹の子猫を飼っていた.・・・」(<シナリオ>狂った一頁■監督のことば)5)

 

参考文献

 

1)『川端康成』(新潮日本文学アルバム 16)(新潮社 1984)

2)「<シナリオ>狂った一頁 監督のことば」:『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(上演パンフ)(岩波ホール 高野悦子編 1975)pp.30-33.

3)「狂った一頁」:『川端康成全集第二巻』(全35巻版)(新潮社 1980)pp.387-418.

4)「『狂った一頁』の実験―新感覚派映画連盟時代」:『わが映画の青春 日本映画史の一側面』(衣笠貞之助著 中央公論社 1977)pp.57-82.

5)『狂った一頁』始末」(衣笠貞之助著):『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(上演パンフ)PP.8-9.

 

(平成26年9月23日 記す)(平成30年3月9日 追記)

 

 

 

 

44. 榊俶:ドイツ留学・相馬事件そして死

♪榊俶は、榊綽(ゆたか)(令輔)の長男として、安政4年(1875)8月28日、江戸下谷に生まれました。1)2)3)4)5)6) 父・榊綽は、開成所において蘭学の教師を務め、活版・銅版を初めてわが国に広めた人物です。

榊俶肖像
榊俶肖像画

 

♪榊俶は、幼名を善太郎といい、のち俶と改め、明治元年(1886)、両親について駿府に行き、静岡藩学に入りました。沼津に移転後、沼津小学校に入り、卒業後、杉田玄瑞、石橋好一等の門で英語を学んでいます。

♪明治5年(1872)、東京に出て、下谷和泉橋畔の三崎嘯の塾に入って濁逸語学を講習しました。同年10月に東京第一大学医学校医科予科生となって、明治7年(1874)に基本科に進み、明治13年(1880)3月18日、東京大学医学部(第一次)を卒業、5月31日、東京大学医学部雇となりました。明治14年(1881)7月12日、医学士の学位を受け、同月15日、東京大学準判任御用係に任じています。第一医院眼科担当医として眼科学を研究し、井上達也(神田駿河台眼科医)の依嘱によって診察したこともありました。

♪明治15年(1882)2月2日、ドイツに学び、ベルリン大学で精神病学を専攻、ウィルヒョウ(Rudolf Ludwig Karl Virchow, 1821-1902)の病理学教室では、神経系統の病理解剖を研究しています。当時のドイツへの留学生の中には、森林太郎(鴎外)、青山胤通、片山國嘉などがいました。

独逸留学記念(出典『青山胤通』鵜崎熊吉著)    

後列左から:佐藤三吉、青山胤通、榊俶、加藤照麿、三浦守治、中島一可、佐藤佐、小金井良精 

前列左から:宮本仲、伊東盛雄、樫村清徳、佐々木政吉、橋本綱常

 

♪森鴎外は『濁逸日記』の中で、榊俶について次のように書いています。

「・・・名を榊俶といふ。身の丈高く色白く、洋人に好かるる風采あり。故郷一婦あるをも顧みずして、巧に媚を少女に呈した。・・・」 (『濁逸日記』明治十八年九月二十七日)7)

♪榊俶は、明治19年(1886)10月20日、帰朝後、帝国大学医科大学にはじめて精神病学講座を設け、11月11日、その教授となり、東京府巣鴨病院(小石川区巣鴨駕籠町・現在の文京区本駒込6丁目)を監督することになります。

♪明治20年(1887)4月19日には、相馬疑獄事件において、相馬誠胤(ともたね)子爵の精神鑑定を主任医として行い、ベルツ(Erwin von Baelz, 1849-1913)(帝国大学医科大学教師)および佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、この鑑定に同意することになります。8)32歳のときのことでした。

・・・・・・・・・・・

♪榊俶は、明治29年(1896)夏頃より咽頭の病気にかかり、金杉英五郎(東京慈恵会医科大学<旧制>初代学長、耳鼻咽喉科の草分け)らの治療を受けますが回復せず、第一医院へ入院、明治30年(1897)2月6日午後1時半、41歳の若さで亡くなることになります。9)

♪死の前日の午前9時、三浦守治病理学教授が病床を見舞いました。このとき、榊俶は「我病屌にして多少医学に資することを得ば本望なり。吾が死したる後、願くは大学々生諸君の眼前にて、遠慮なく思ふ存分に解剖して呉よ」と遺言したといいます。10) 剖検は、三浦教授の執刀によって6日午後2時45分着手され、4時45分に終わりました。病理解剖診断は食道癌、顕微鏡診断は偏平上皮癌でした。それにしても若く、惜しまれる死でした。

♪病院・大学業務の多忙、そして相馬事件の裁判では、自身の家庭問題(親に毒を盛った疑義)11) も持ち出され、心労も重なっていたのではないかと思われます。

榊俶の剖検をした三浦守治教授

♪葬儀は9日に行われました。12) 葬列は1千人を超え、午後1時に駒込西片町(現在の文京区西片2丁目)の邸宅を出発、駒込通り(現在の本郷通り)に出て追分を左折し、駒込曙町(現在の文京区本駒込2丁目)より東京府巣鴨病院前を通り、染井墓地に向かいます。濱田玄達(医科大学長)が弔辞を読み、呉秀三(精神病教室総代)、田口和美(東京医学会総代)が、これに続きましした。13)14)15) 家族、親族、会葬者の焼香のあと墓地に葬られました。大きな染井吉野桜の木々が傍に立つ場所でした。

関連連載:第38回 染井霊園 榊俶の墓

♪翌明治31年(1898)、遺像の制作が計画され、12月5日午後3時より、その建像式が医科大学精神病学教室において挙行されています。発起人の片山國嘉(有志者代表)の式辞に続き、菊池大麓(東京帝国大学総長・理学博士)の告文朗読があり、その後、遺族を代表して榊保三郎の謝辞を述べ、小金井良精(よしきよ)の決算報告をしたとのことです。16)

♪榊俶のあと、精神病学教室の教授となったのが、呉秀三で、三代目が三宅鑛一(三宅秀の長男)17)となります。榊俶が若くして亡くならなければ、東京大学精神科教室の歴史も変わっていたかもしれません。

 

参考文献

1)故医科大学教授医学博士榊俶先生之傳(呉秀三謹撰).東京医学会雑誌 1897;11(5):220-30.

2)医学博士榊俶君略傳.東京医事新誌 1897;985:326-8.

3)金子嗣郎.日本の精神医学100年を築いた人々① 第1回 榊俶 臨床精神医学1978;7(11):1297-304.

4)岡田靖雄.榊俶:精神病学の礎石をおいた人.松下正明.続・精神医学を築いた人びと(上巻).東京:ワールドプランニング,1994.pp.147-59.

5)故医学博士榊俶先生(肖像).医事新聞 1909;791:口絵.

6)内村祐之.榊俶先生と東京帝国大学医学部精神医学教室の創設.精神神経学雑誌1940 ; 44.

7)濁逸日記.「鴎外全集」第35巻収載.東京:岩波書店,1975.pp.111-2.

8)故相馬誠胤子の病症を論す.国家医学 1892;1:3−30.

9)精神医学の泰斗榊博士矣.東京医事新誌 1897;984:283-4.

10)三浦守治.故医学博士榊俶君之病屌.東京医学雑誌 1897;11(5):187-9.

11)『新聞集成明治編年史』第9巻 p.41 (相馬事件と榊博士:親に毒を盛った嫌疑で疑更に深し[明治27年3月16日 日日]

12)榊博士の葬儀.東京医事新誌.1897;984:284.

13)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;984:284-5.

14)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;985:330-5.

15)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;986:480-1.

16)故医学博士榊俶氏建像式.医談 1899;55:37.

17)福田雅代.桔梗:三宅秀とその周辺.神奈川:編者,1985.

(平成30年2月24日 追記)

43. 相馬事件:相馬誠胤の死因と墳墓発掘

♪相馬誠胤(そうま・ともたね)(1852-1892)(陸奥国中村藩六万石第13代藩主)は、明治25年(1892)2月22日の朝6時、「心臓麻痺」によって死去しました。

♪榊俶の病床日誌(手記)と相馬家が書いた[日誌]には、次のように記録(抜粋)されています。

✉✉✉

明治25年(1892)2月19日

[相馬家日誌]

大雪 午前6時半御起床 時々放歌あり 再三度看護室の處まで御出ありたり

8時頃に至り甘酒を飲して呉れよとて看護室に御出2杯斗召し上り

舌運動も充分ならさる如ら尿利増加して1時間に6、7回ありたり

2月20日

(榊手記)

診する時午後5時 患者安静に仰臥し精神少々興奮 頭部に充血の徴あり 眼光鋭くして言語活発なり。

訴えて曰く一週間前より咽喉大いに渇し飲を引くこと一回に一桝余尿量も亦甚だしく増加し一時間に6回の尿利をみる

四肢「チアイーゼ」を呈し皮膚乾燥、体温36度5分 脉博弱小にして108

又弱視を訴ふるに由り眼底を検す 静脈性鬱血あり 瞳孔は中等大にして反応なし 膝蓋腱反射機亢進(前日は消失せり)尿は透明淡黄色(蛋白・糖分)

[相馬家日誌]

午前7時30分御起床 午前8時中井[常次郎]氏来診 午後4時榊医学博士・中井医士来診

2月21日

(榊手記)

午後7時「ベルツ」氏と共に診 独語 言語応答不明 脉博百至心動き極めて微弱且不正[整] 体温36度2分 四肢の「チアイノーゼ」 口内乾燥舌苔あり 瞳孔は昨日に比して少し狭小なり 諸極めて不良

[相馬家日誌]

午前9時片山・中井両氏来診 中井医に向ひ便秘を訴へ「ひまし油」を請求せられたり 中井氏曰く御食事少料なれば随て便通なきは当然

2月22日

(榊・手記)

今朝6時心臓麻痺に由て逝く 今朝最後に得たる尿を検するに渾濁不透明にして亜児加里性の反応を呈し葡萄糖を含む但し蛋白質なし

[死の状態]

今朝4時 脉125 意識朦朧 時々反側し四肢の肉振 右側顔面神経の不全麻痺あり 遂に眠るが如くにして逝く

[相馬家日誌]

龍脳油を注射し稍々復蘇するも午前6時遂に終息す

✉✉✉

♪相馬誠胤が死去する前に診察した医師には次の人々がいました。

中井常次郎(東京府癲狂院長)
榊 俶(醫科大學教授医學博士)
ドクトル・ベルツ(醫科大學教師)
片山國嘉(醫科大學教授医學博士)

 

♪検視は山根正次(警察醫長)によっておこなわれました。山根は、明治15年(1882)医科大学を卒業して、明治20年(1887)司法省の命によりドイツ、フランス、オーストラリア、イタリア、イギリスの各国をまわり法医学を修めました。

♪『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)に、「明治二十一年於伯林醫學関係者」と題する写真が掲載されていますが、このなかに山根正次のほか、江口襄、森林太郎、隈川宗雄、片山國嘉の顔がみえます。前列左から二人目が山根正次、中央が片山國嘉 右から二人目が隈川宗雄、二列目左端が森林太郎、右端が江口襄です。相馬事件に関わった多くの医学者の顔があります。

 

♪主治医の中井常次郎が榊俶と連名で麹町区長宛に出された死亡届は、以下のようなものでした。

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死 亡 届

 

麹町區内幸町一丁目六番地 華族

相 馬 誠 胤 四十年

 

一 時発性躁狂兼尿崩及糖尿病

一 経過 十五年

一 心臓麻痺に由り当月廿二日午前六時死す

 

右拙者等施治患者に候處頭書之通死去候に付此段及御届候也

明治廿五年二月

 

芝區櫻川町九番地

主任醫 中井常次郎

本郷區西片町十番地

醫學博士 榊 俶

 

麹町區長宛

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

♪この死亡届に疑義を持つものがありました。錦織剛清(にしごり・たけきよ)(旧中村藩士)です。誠胤の死が毒殺ではないかとして、順胤(よりたね)(異母弟)と家令志賀直道(志賀直哉の祖父)らを明治26年(1893)7月17日に告発します。

♪誠胤が死亡したときに臨検が行われ、その際に口中より流出した血液が警視庁に保管されており、その血液が証拠として分析されることになります。その分析に、相馬家では、当時、帝国大学医科大学で病理化学を担当していた隈川宗雄(くまかわ・むねお 福島藩出身)を立ち会わせたいと予審判事に申請するのですが、認められることはありませんでした。

♪9月8日朝7時、青山墓地に葬られていた誠胤の遺骸が発掘され、江口襄(えぐち・のぼる)が、胃部、心臓部などの局部を解剖し、毒殺の真偽を調べるための標本があつめられることになります。

♪解剖した江口襄は、明治24年(1891)6月に陸軍軍医学校において裁判医学(精神科)を講義していました。明治20年(1887)10月8日には、陸軍省より裁判医学および精神医学研究のためドイツに留学しています。東京医学校では森鴎外と同期で陸軍一等軍医正・警視廰御用掛(警察医長)を務めました。

 

陸軍戸山学校(絵葉書)

 

♪次回に当時の新聞から墳墓発掘の様子をみてみることにします。

(平成14年10月5日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

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♪明治26年(1893)9月14日付けの『郵便報知』は、青山墓地における相馬誠胤の墓の発掘の模様を以下のように報じています。

📰📰📰

発掘着手

準備整いて、午前七時に発掘に着手せり。午後四時に至り全く発掘を終え、棺蓋を開く。憲兵、巡査を遠ぞけ、総立ち会いにて棺の蓋を開けば、故誠胤氏は宛然(えんぜん)眠れるがごとく、ただ顔色蒼然たるを見るのみなりしという。

 

局部解剖

江口軍医及び田原技師は徐々に刀を取り、遺骸の要部なる胃部、心臓部等の局部を解剖し、分析に必要なる部分を取り、これを茶筒大の硝子瓶と長さ二尺五寸、高さ一尺位の厳重なる箱とにおさめ、その他棺中に流動したる濃液のごときものをもことごとく瓶中におさめ、しかして後、遺骸は元のごとく棺中に安臥せしめ、仮に蓋を覆い、立会人に引き渡し、墓地周囲の警戒を解きて、掛り官等は一同青山を引きあげたり。これが午後八時十分頃なりし。解剖に着手したるは四時三十分にして、これを了したるは午後七時なり。

📰📰📰📰

♪当時の青山墓地周辺(青山大膳亮:美濃郡上藩4万8千石下屋敷跡)は、田畑のほか樹木も多く、鬱蒼としていました。そんな中で、夕暮れ時から日が落ちてまでも解剖が続けられた模様です。

♪棺から遺骸を引きずり出し、異臭を放つ胃・心臓を摘出した江口の心境はどんなものだったのでしょうか。また、真相解明の裁判のためとはいえ、殿様の遺骸を掘り起こされた親族・家臣たちの思いを考えると胸がつまります。法医学の厳しさ、難しさを感じます。

(平成14年10月 6日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

参考文献

1)『相馬実伝 晴天白日

2)『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)(石黒忠悳著 昭和11年)

42. 相馬事件:スクリバの鑑定書

♪相馬事件では、榊俶とベルツのほかに、スクリバと三宅秀・原田豊も鑑定書(同意書)を書いていました。スクリバ(Julius Karl Scriba, 1845-1905)は、明治14年(1881)に教師として来日し、おもに外科を担当しました。

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★スクリバ(三宅秀・原田豊)の鑑定書・診断名:「狂躁発作を有する鬱憂病と認む可き精神障碍症」:明治18年(1885)1月3日

★榊 俶(ベルツ)の鑑定書・診断名:「時発性躁暴狂」:明治20年(1887)4月19日

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ベルツとスクリバの草津温泉での交流

♪スクリバとベルツは私的にも交流があり、明治24年(1891)には草津温泉に旅行して一井旅館(現・ホテル一井)の別荘に滞在したこともありました。

スクリバ(Julius Karl Scriba, 1845-1905)
草津温泉一井旅館でのスクリバ(後列右)とベルツ(後列左)(出典:『ベルツと草津温泉』市川善三郎著 口絵)(後列中央は横浜独逸病院院長グリーンワイルド 前列は横浜第十三号商館某)

一井旅館の別荘(絵葉書)

♨♨♨

♪相馬誠胤が、小石川區巣鴨駕町の東京府癲狂院(巣鴨病院)を抜け出したあと、連れ戻されて醫科大學第一醫院(東大・本郷)に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日のことでしたが、それ以前には、、向ヶ丘(本郷彌生町)にあった東京府癲狂院(中井常次郎院長)に入院していました。また、東京府本郷區田町(現・文京区西片町)にあった加藤瘋癲病院に入院していたこともありました。相馬誠胤は、本郷界隈にあった精神病院を転々としたことになります。

♪加藤瘋癲病院に入院したのは、明治17年(1884)3月10日から一週間、東京府癲狂院(向ヶ丘)に入院したのは、明治17年(1884)7月17日から明治18年(1885)7月20日までのことでした。この時、東京大学医学部から、スクリバとともに、三宅秀、原田豊の3名が出張して、病状についての鑑定書を書いています。

相馬誠胤の入院先

(1)加藤瘋癲病院[本郷區田町28番地]

明治17年(1884)3月10日から一週間

加藤瘋癲病院(本郷區田町)(出典:『東京盛閣圖録』新井藤次郎編 明治18年)(国立国会図書館デジタル)(加藤照業が本郷區田町6番地に精神病専門病院を開業したのは、明治8年[1875]2月のことで、28番地に移ったのは明治11年[1878]12月18日、明治31年[1898]10月失火、12月5日廃院となる)
加藤瘋癲病院の位置(画面上方向が本郷通り 右隅に森川町にあった映世神社が見える)

(2)東京府癲狂院[向ヶ丘・彌生町 のち第一高等学校となった場所)

明治17年(1884)7月17日ー明治18年(1885)7月20日

11月22日に錦織剛清が乱入する。

明治18年(1885)1月3日 スクリバが鑑定書を作成

明治18年(1885)3月12日 スクリバの鑑定書に三宅秀と 原田豊が同意する

東京府癲狂院(向ヶ丘時代)(東京府癲狂院の標札がみえる)
向ヶ丘時代の東京府癲狂院略図(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著)(国立国会図書館デジタル)(画面右の道路は、現在の言問通り。病院門は、のちの第一高等学校裏門があった幽霊坂の上あたりに開いていた。第一高等学校前の電車通り[現・本郷通り]から根津方向に抜ける道路の左側である)

(3)東京府癲狂院(巣鴨病院)(小石川區巣鴨駕町)

明治19年(1886)6月21日 「東京府癲狂院」が小石川区巣鴨駕籠町・本郷区上富士前町(現・文京グリーンコート周辺)に新築・移転、相馬家は特別病室(2室)をつくり、誠胤を入院させる。

明治20年(1887)1月31日 夜半 錦織が誠胤を特別病室から連れ出す。

(4)医科大学第一医院(本郷・東京大学医学部)

明治20年(1887)3月10日 医科大学第一医院(本郷旧加賀藩上屋敷跡 赤門を入って正面にあった)へ入院。

明治20年(1887)3月11日 錦織剛清の公判が午前9時50分より開廷。

明治20年(1887)4月19日 榊俶(主任医)・佐々木政吉によって「時発性躁暴狂」と診断される。ベルツも診断に関わる。

明治25年(1892)2月22日 誠胤逝去。享年40年.

死亡届「時発性躁暴狂兼尿崩兼糖尿病」

(主治医・中井常次郎 医学博士・榊俶)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

♪明治18年(1885)当時、榊俶は、まだ、ドイツ留学中でした。そして、明治19年(1886)帰朝後、精神病学講座の教授となった時は、30歳の若さでした。その若さで、相馬事件に遭遇することになる訳です。

♪榊俶は、大学卒業後、スクリバに、第一醫院で眼科の指導を受けています。眼科当直医として、眼科を専攻し、井上達也(神田駿河台眼科医)の委嘱によって診察をしたこともあったといいます。

♪それが、明治15年(1882)のドイツ留学時に専門が眼科から精神病学に変更になっています。なにが、そうさせたのかわかりませんが、スクリバからの影響もあったと思われます。

♪相馬事件を調査していて、スクリバとともに、三宅秀も同事件に関係していたことを知り、少し長くなりますが、スクリバが書いた鑑定書(明治18年[1885]1月3日作成)と、それに同意した三宅秀と 原田豊の同意書(明治18年[1885]3月12日作成)を引用しておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鑑 定 書

華族相馬誠胤齢三十年身体の発育及栄養共に良全にして且強健なり 自を云ふ幼時小児病を患ふるの外曾て重病に罹りしことなし 母は幼年の時死亡し父は今尚ほ健存し既に齢六旬に達せり 又一妹一弟あり 皆健存し伯父一人及伯母二人は既に死亡せり 其他数多く親戚ありと雖も其健否を詳にする能はず 近来悄々記臆力を減し至要の事件と雖も屡々之を遺忘するに至る 且つ宗族中曾て狂病に罹りしものなしと 然れども癲狂院醫員の説述する所に拠れは実母叔母祖父及伯父は数々精神病を発せしことあり 相馬氏自ら陳述する所は余は久しく東京に住し夙に外國語を學ひ后ち明治四年まて武術に従事し曾て政事上に関せしことなし 明治十年西南の役に際し故岩倉公の委嘱に因て兵士募集の為め郷里に帰りしことあり 同氏は十五歳にして戸主と為り 明治三年妻を迎へしに伉儷和せす室を同ふすること甚た罕なり 偶々對語するときは動もすれは喧争をなせり 明治十二年まては常に強壮なりしか此年初めて精神病に罹りたるにや禁錮の身となりしか 本年七月千八百八十四年に至り僅に数日の自由を得たるも此間尚本郷區田町瘋癲病院に在り 幾もなく又本院に投したりと依て何を以て精神病に罹れりと思考せしやと問へは答曰数々憤怒に堪る能はさると殊に一室に閉居せられたるとを以てなりと 又曰く同年中従来居住せし家屋破壊せしを以て更に粗悪の矮屋に移轉せさるへからさるの時に際し 甚た不満に堪へさるの余り不忠の家人を罰せんかため鎗劒刀等の凶器を以て家扶等を脅迫せしこと数回之れあり 就中家令富田某なるものは二年以来頗る情誼不和にて日を送りしか故に尤も之を嫌忌せり 其後尚ほ斯く如き憤怒を発すること屡々之れありしも既に脅迫するの器なく又脅迫すへきの人なきか為めに啻に憤怒を座右の器具に漏せしのみ 而して斯く如き憤怒は毫も前兆なくして突然発するを常とせり 然れとも后に至ては却て不快を覚ゆること屡々之あり

癲狂院醫員の説述する所に據れは斯の如き発作は入院以来絶てなく唯時として睡眠中高聲を発することあるのみと 依て何故自家に在りてのみ斯の如く卒然憤怒することありやと問うに答曰他家にては自ら怒気を抑制することを知るも自家に在ては家長なるか故に他に配慮する者なけれはなりと 又曰時として窓外娼妓の喧噪せるか如き或は笑ふへく或は楽む可き愉快なる語聲を聞くことあり 又は色蒼白にして顔面膨張せる婦人黒色の衣服を着け之に梅花を挿みて行歩するを見しこと屡々なりしか 近来は絶えて之を見す 又斯の如き娼妓の語聲を聞くときは自を笑ひ或は時として唱歌することあり 然れとも渠れと共に談話することなかりしと

相馬氏は元来酒量大ならす 唯愉快なる宴会に臨ては好んて之を飲みしか 明治十年家令滋賀某の諌に従ひ断酒せり 夜中は能く安眠せり 唯夏時は炎熱と蚊の為め快寝を得さりしと

同氏は曾て外傷を受けしことなし 又時としては書翰を認め古人の詩を記する等のことあれども直に之を裂き破れり云ふ

顔貌は沈鬱して愁嘆心痛の状を呈し其言笑するや恰も羞を帯るものの如く且顔面及眼瞼圍の時々肉膕するを見る 其音聲は低調にして沈滞するか如しと雖とも能く之を聴取するを得へく答弁の如きは甚た鋭利にして且明瞭なり 唯遺忘の為めに往々老衰せるか如き状あり

右千八百八十四年(明治十七年)十一月十二日三宅原田の二氏と共に癲狂院に於て記載する所なり 然して余の親しく視問診査せる要領に據れは余は亳も判官の記録及其他の證據に係はらす単に左の如く決定するを以て至當なりと信するなり

抑々相馬誠胤氏は往時に在ては則一の諸侯たるへきの人にして當時同氏は発病の前日及ひ今日の状態と全く相異なる所の生育を享け其地位を占有せり 然るに漸次世の変遷に由り其権力を失してより身体と精神に不和を生するに至りしなり 是其病源の一なり 又同氏の配偶宜を得す且不幸にして曾て一子を擧けす 是其病原の二なり 此二事は則ち遺傳の素因之れなきも實に精神病を発する原因を作すに足るものなり况んや其状態は単に憤怒のみに止らすして数様の音聲を聞き或は異形の現象を視るか如き精神病の主徴たる視聴の錯誤あるに於てをや 故に同氏は醫學上に於て狂躁発作を有する鬱憂病と認む可き精神障碍症に罹れるものと断定す 但近来稍々快復に趣きたるか故に適應の療養を加ふれは全然治癒するの目的あるものとす

千八百八十五年[明治18年]一月三日

ドクトル、スクリバ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

華族相馬誠胤氏精神病の有無鑑定のため下に記名する両人は「ドクトル、スクリバ」氏と共に本郷弥生町癲狂院に行きて親く誠胤氏の状況事歴を検査し爾来同氏の滞院中に発顯する症状は同癲狂院長中井常次郎氏の報告を得彼是参互し果して「ドクトル、スクリバ」氏の断定せる狂躁発作を有する鬱憂病なりとの鑑定に同意し茲に其意見なきを證明す

明治十八年三月十二日

東京大學教授 三宅 秀

同      原田 豊

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(平成14年8月25日 記)(平成14年8月27日 記)平成30年1月14日 追記)

41. 日本医師会館・文京グリーンコート:旧理化学研究所跡・東京府巣鴨病院跡

場  所:文京区本駒込2丁目(旧巣鴨駕籠町)

周辺地図:

♪JR駒込駅から本郷通りを東京大学方向に進むと、上富士前交差点で不忍通りにぶつかります。この上富士前交差点を右折して不忍通りに入ると、左側に文京区立昭和高齢者在宅サービスセンター、国立国会図書館支部東洋文庫(現・東洋文庫ミュージアム)、駒込警察署、日本医師会館、文京グリーンコート、都立小石川高校と続きます。

東洋文庫ミュージアム(平成29年12月撮影)
駒込警察署(平成29年12月撮影)
日本医師会館(平成29年12月撮影)
都立小石川中学校・高校の生垣(不忍通り側)(平成29年12月撮影)

♪不忍通りを挟んで右側には、六義園(りくぎえん)(柳沢吉保築園・回遊式山水庭園)と戦前からの高級住宅地である大和郷(やまとむら)があります。政治家の若槻礼次郎や東大医学部の外科教授の佐藤三吉邸も、この大和郷(やまとむら)にありました。普通、街角にある消火器をいれるケースは赤色ですが、大和郷会が設置しているものは、青色となっています。

大和郷区域図(昭和12年)(出典:『大和郷遠近物語』)(文献1)
昭和初期の染井橋(鉄道記録写真)

山手線駒込駅踏切(昭和14年1月12日)
山手線駒込駅踏切(昭和14年1月12日)
山手線駒込駅踏切(昭和14年1月12日)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 駒込駅001-3.jpg です
駒込駅(昭和50年代)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 巣鴨駅001-1.jpg です
巣鴨駅(昭和50年代)

♪小津安二郎監督が昭和24年に制作した映画「晩春」(笹智衆、原節子出演)には、染井能楽堂(現在、染井能楽堂の舞台は横浜能楽堂に移築)で能を親子で鑑賞したあと、六義園横の大和郷の道を歩くシーンがでてきます。

♪日本医師会館が神田駿河台2丁目(旧神田駿河台鈴木町12番地)から、この本駒込の地に新築移転してきたのは平成2年(1990)2月24日・25日のことでした。(文献2)当時、この場所は、旧理化学研究所の跡地で、科研製薬の所有となっていました。

♪「江戸東京」で、榊俶の事跡を調べていて、都立小石川高校、文京グリーンコートのある旧岩槻街道(本郷通り)と中山道(旧白山通り)に挟まれた周辺一帯が、明治から大正のはじめまで東京府癲狂院(のち東京府巣鴨病院と改称)(明治19年6月21日新築)(旧小石川区巣鴨駕籠町から旧本郷区上富士前町)の敷地であったことがわかりました。『日本精神科医療史』(文献3)に「東京府巣鴨病院全図」が載っていますが、病院の構内には、樹木が多数あったようです。

東京府巣鴨病院略図(明治20年代)(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著)
東京府巣鴨病院略図(明治30年頃(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著))
東京府巣鴨病院略図(大正期)(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著)(文献4)
東京府巣鴨病院門(複製絵葉書)
東京府巣鴨病院(東京帝国大学医科大学精神科教室)正門(絵葉書)(堀江幸司蔵)
東京府立巣鴨病院 左手の建物が精神科教室の臨床講堂(絵葉書)(堀江幸司蔵)
東京府立巣鴨病院のレンガ造りの病棟(絵葉書)(堀江幸司蔵)

♪自宅から、六義園の裏の道を通り、大和郷(やまとむら)を抜けて、不忍通り沿いの文京グリーンコート(高層オフィスビル・高層住宅・商業ビル)(平成9年10月竣工)前にでました。1階には、輸入雑貨の店、ブティックや書店などがあり、地下にはスーパー(大丸ピーコック)が入っています。アートグッズを扱っているお店(Za Gallery)はお気に入りです。

Peacock入口付近(平成29年12月撮影)

♪高層オフィスビルの周囲は散策できるようなっています。旧理化学研究所当時からの染井吉野桜や銀杏などの樹木の一部が残されています。ベンチの横に案内版が建てられていました。次回紹介します。

文京グリーン中庭(平成14年撮影)

文京グリーンコート

(平成14年11月20日記)

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♪文京グリーンコートのオフィスビルの不忍通りに面した部分には、銀杏などの樹木の間に小径がつくられ、旧理化学研究所の構内の面影を残しています。東京府巣鴨病院時代から、この辺りは樹木が多く、六義園とともに、本駒込の静寂な景観をつくっていました。

文京グリーン内の小径(1)(平成29年12月撮影)
文京グリーンコート内の小径(2)(平成29年12月撮影)

♪文京グリーンコートの裏手に、「理化学研究所駒込分所・理研OB会」の建物(旧43号館)があります。(現在は解体され別の建物が建っています)その隣が、広場になっていて、染井吉野桜の大木が残されています。オフィスビルとよく調和して、独特の環境をつくりだしています。

理化学研究所駒込分所跡(平成29年12月撮影) 
旧理化学研究所駒込分所跡の裏道(旧白山通りと旧岩槻街道とを繋ぐ道・相馬誠胤が逃走した道)

♪広場のベンチの横に、案内版が建てられていました。理化学研究所の歴史に触れていますので紹介しておきます。

文京グリーンコート中庭(平成14年撮影)

「~四季折々の彩り~ 理化学研究所(理研)の改組により、株式会社科学研究所(現・科研製薬)に受け継がれたこの敷地内には、さくら、いちょう、ヒマラヤ杉などが頭上高く生い茂っていた。樹々と赤煉瓦の建物が調和し、都会の中にありながら、アカデミックなたたずまいをかもしだしていた。そとの喧噪と違って閑静なところであり、春は桜花を愛で、新緑や黄葉など四季折々の彩りが楽しめ、人々の心を和ませていた。この広場のさくらやグリーンスクエアにあるいちょうなどは、理研設立当時の樹々を保存しており、時が流れた現在(いま)でも、自然に恵まれた環境をつくりだしている。」

参考ホームページ

日本医師会

理化学研究所の沿革

科研製薬の歴史

(平成14年11月26日記)

参考文献

1.『大和郷遠近物語 -大和郷会90年のあゆみー』(大和郷会 会史編纂委員会 平成27年)

2. 日本医師会雑誌 第103巻 第7号/平成2年4月1日(付録)(日本医師会新旧会館記録集)

3. 『日本精神科医療史』 岡田靖雄著、医学書院、2002.

4.『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(呉秀三著 大正)

40. 相馬事件:相馬誠胤の特別病室と榊俶が書いた「診断書」「退院後の取扱心得」

♪錦織剛清が、相馬誠胤(ともたね)を、東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)の特別室(相馬室)から連れ出したのは、明治20年(1887)1月30日夜のことでした。

♪相馬室は、相馬家が東京府癲狂院が明治19年(1886)6月20日に移転新築される際に東京府に出願(転院の翌日)して誠胤のために自費で建築した別棟の病室です。10畳、8畳の2室に廊下・便所・玄関などからなる離れとして設計されました。長引くであろう入院生活を配慮してのものでした。本棟とは渡り廊下で繋がっていました。8月7日に落成しています。

図面1文献1)の左手に位置する縦一列に並ぶ隔離病棟の一番上の隔離室の右手に見える、本棟から斜めに突き出した建物が、相馬室にあたります。図面2が相馬室の拡大図です。ピッタリと一致します。(文献2)2つの文献を付き合わせることによって、相馬室の構造と位置関係を特定できました。

図面1)明治20年頃の東京府癲狂院(赤く囲った建物が相馬室)

図面2)相馬室平面図(本棟から渡り廊下で繋がる)

♪相馬室の上に見える細い道を左に進むと岩槻街道(現在の本郷通り)の富士前町(富士神社))に出られます。夜の八時ごろだったといいます。裏門(非常門)から暗闇のなかを錦織ほか数名と街道筋に向かい、人力車に押し込められることになります。

富士神社(冨士神社)(平成29年1月撮影)

)「ふじ神社」の漢字表記:ふじ・神社の「ふじ」は、境内の石碑では、「士」とあり、鳥居の額には、「士」とあります。

♪この時の誠胤の心持ちを想像してみます。やっと狭い病室から抜け出せたという開放感とともに、深々とした闇夜のなかを人力車でひた走り、これからどこに向かうのかという不安が広がっていたのではないでしょうか。本当に自由になれたという気持ちは、なかったのかも知れません。

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♪『相馬実伝』(文献1)から、病室から脱出した誠胤の足取りを探ってみます。本郷富士前町から人力車(車夫・小島重蔵)で九段坂の堀留まで向かい、鈴木写真館(横浜の支店・鈴木眞一)に立ち寄ります。そこから馬車をしたてて後藤新平邸(東京府麻布)へ急行、診察を受けることになります。その後、川崎(會津屋で一泊)、小田原(幸町仲松旅亭に投宿)、熱海温泉(澤兵之助方に寓居)、沼津(元問屋方に止宿)へと逃走。そして、一週間後、2月8日、静岡(井筒屋方)で捕縛され、誠胤は、東京へ連れ戻されることになります。

♪この一週間ほどの誠胤の症状がどうであったのか気になるところではあります。平穏であったのでしょうか。連れ歩いた家臣も大変な思いをしたことは確かではないでしょうか。

♪熱海温泉行を強行したのには、誠胤の環境を変え、温泉湯治的なことも考えての錦織や家臣の行動ではなかったのか、そんな一面も感じます。向ヶ丘時代の東京府癲狂院に入院していた頃の誠胤は、家臣と連れだって、上野公園周辺を院外散歩、鶯谷伊香保温泉(伊香保楼)に行ったこともあったようです。

熱海温泉(絵葉書)

(1月30日夜)東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)→[人力車(本郷富士前町の車夫小松重蔵)]→九段下堀留→[徒歩]→鈴木写真館→[馬車]→後藤新平邸(麻布)→川崎(會津屋)→小田原(仲松旅亭)→[駕籠]→熱海温泉(2,3日逗留)→沼津(元問屋方)→静岡(井筒屋方)(2月8日朝)

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♪のち明治27年(1894)2月12日午前10時15分から開廷された相馬事件の裁判で、長森藤吉郎検事は、錦織剛清が相馬誠胤を連れ出した経緯について、以下のように申し立てています。(『相馬事件裁判明細録』[国立国会図書館デジタル])(文献3)この裁判には、後藤新平も出廷していました。

[検事の申し立て]

1) 誠胤を奪い取って拾養して見ようと考へて、明治廿年一月三十日に或る2、3の同志を語らひまして、東京府癲狂院に夜中侵入して、私に誠胤を誘出して同夜被告後藤新平方に連れて参りました。

2) 同所に於て相馬誠胤の錦織剛清に対する総代理人の委任状と云うものを署名拇印せしめる。

3) 翌日誠胤と共に熱海に参った。熱海に参りまして5,6日滞留して居ますと、丁度相馬家より誠胤が熱海に居ると云うことを嗅ぎ附けて追手を向けたと云うことが剛清の方に報知があった。そこで、剛清は誠胤を連れたまま静岡の方へ参りました。

4) 静岡に於て予て相馬家からの通知に依りて警察官の捕押へる所となって、誠胤は其儘取戻され、被告剛清は、また拘留されました。

 

錦織剛清.・肖像画(出典:『相馬事件裁判明細録  第1巻』)

錦織剛清(肖像写真)(出典『軟文學研究』第1巻第5号 明治文化特輯)

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♪静岡から連れ戻された相馬誠胤が、医科大学第一医院に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日までの41日間でした。また、息苦しい病棟生活がはじまります。

写真出典:『青山胤通』(鵜崎熊吉著 青山内科同窓會 昭和5年)

 

『東京帝国大学一覧 明治24年―明治25年』(出典:国立国会図書館デジタル)(赤く囲った建物が第一医院)

東京帝国大学本郷構内風景(絵葉書)

♪その主任医となったのが、榊俶で、ベルツ(帝国大学医科大学教師)と佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、その「診断書」に同意しています。

♪「診断書」の全文が、「国家医学」誌に載っていました。(文献4)その時代の診断書の形式や医学用語を知る手がかりともなると思いますので、少し長くなりますが、書き写しておきます。

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診 断 書

麹町区内幸町一丁目六番地

東京府華族 従四位 相 馬 誠 胤

嘉永五年八月生

右は明治二十年三月十日帝国大学医科大学第一医院に入院し同年四月十九日に至る在院中の症状並に既往症に依り左の如く診定す

遺伝歴)遺伝歴は青田綱三より出さしめ猶ほ誠胤へも訊問して定むる所なり 即ち誠胤の血族中殊に母方には精神及脳病の系統あり 父方の祖父は弘化二年に於て中風症に罹り五十歳にして卒す 又母方にては誠胤の祖父母共に卒中症にて死し 母は二十六歳の時より発狂して治せす終に四十歳に至り卒中症にて死し 其弟(即ち誠胤の叔父)は平素狂人に齋しき所行ありて明治十七年六月より発狂し十八年九月本郷癲狂院に於て死し 其妹(叔母)は明治七年発狂し後癒へ同十一年肺炎症にて死去すと

既往症)幼児の際数回痙攣を発せしことあり 又性来癇癖の気質ありて小事に付き憤怒し易すしと云ふ 其他脚気及背癰を除くの外曾て重症に罹りしことなし 明治九年頃より些事に疑心を起して憤怒し往々乱行あり 愛憎喜怒常に定らす 侍士侍女を呵責し憤怒すること枚挙に遑あらす 若年の時頻りに飲酒せしも此時より禁酒せりと云ふ 十二年春以来病状大に増進し其四月一室に鎖錮するに到れり

檻内にては平時は沈黙して人と接するを忌避するか如しと雖も発作時に至れは器具を擲ち高声に朗吟し仏経を誦する等総て躁狂状を呈す 十七年中頻りに独語し人を殺さんとするの状ありと云ふ 明治二十年三月十日医科大学第一医院に入院す

現在症)三月十日検査する所にして只其要点を擧く 体格中等栄養佳良にして皮下脂質良く発育し顔面は稍や蒼白にして容貌少しく怒気を含むものの如し 頭蓋は稍や屋背形を為し膝蓋腱反射機全く消失す 又精神の異常を擧れは記臆力の僅に減衰すると感情の遅鈍なるとの他別に病状なし

入院中経過)自最初六日間は別に癲狂状のことなし 只夜間安眠せさると便秘あるとを訴ふるのみ 午前は主に臥床に在りて新聞等を読み 或は何事をもなさす獨り安臥し 午後は遊歩沐浴等をなす 十六日に至り擧動活発となり音声悄々高く多弁となる加之夜間往々幻聴を起す 例之天井に男女の声ありて雑話せりと云うか如きあり 身体の擧動甚た不安となり 或は廊下に走出して急に便所に至り 或は室に帰りて足踏す 若し其故を問へは今日は空気濃厚となり咽喉部に苦悶を覚ゆ故に此行をなすと云へり 顔面は紅を潮し眼光鋭くして濕潤せる如く 脈は百二十博を数ふに到れり 此症状漸々増進し廿二日の夜卒然看護人(大学の小使)の両耳を捕へ爪を以て外傷を負はしめ甚しく出血せしむ 又暫時にして再ひ顔面に負傷せしむ 其故を問へは曰彼の小使は顔貌狸の如くにして時々室内を窺ふを以て如此處置せり 別に原因あることなしと 二十五日諸症減退し彼の暴行を悔悟せり 四月二日頃再ひ幻聴を発し精神活発となる 四日夜起て暴行せんと欲す 依て投薬し種々説解を加へて漸く安静ならしむ 夫れより病勢悄々減退せりと雖も十日の夕刻に至り一の原因なくして飯杓子を以て看護人(患者方より附添へ)の頭部を打ち負傷せしめ出血甚たしく終に外科施療を行ふに到れり 其后精神常に復し大に悔悟し状を呈はし今日迄暴行なし

診断)以上掲載する者を総括するは誠胤は神経病家の血統に屬し齢二十六歳の時より発病し今猶ほ精神病に罹る者とす 之に医学上の名称を附すれは時発性躁暴狂なる者とす 而して遠因は遺伝歴に依り明瞭なれも近因は不明なり

右之通診断仕候也

明治二十年四月十九日

主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶 印

右は拙者共に於ても同意に候也

帝国大学医科大学教師 ベルツ

帝国大学医科大学教授 従六位 佐々木政吉 印

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「退院後の取扱心得」

麹町区内幸町一丁目六番地
東京府華族
従四位 相 馬 誠 胤

右者別紙診断書に掲載せる如く時発性躁暴狂に罹るを以て今后時々発作あるものとす 依で左に其取扱方法を告示す

第一 癲狂院に入るを要せす 盖し病勢亢盛するときは此の限にあらす

第二 自宅療養を可とす

第三 居室は平常の造構にして快闊なるを良しとす

第四 室内には刃物類縄類等の如き凡て人を害する懼れある器具を一切置くへ からす

第五 檻鎖するを許さす 若し暴行発作あるときは看護人静かに之を取押ゆへし 而して可成く患者に抵抗する取扱をなささる様注意すへし 但し暴行甚くして不徳巳るときは其発作間縛衣を着用せしむ可し

第六 看護人は温和懇切にして筋力あるものを撰み絶えす患者を守護せしむへし 若し暴行発作あるときは不寝番をなさしむるは勿論たるへし

第七 遊歩は患者の隋意に任すと雖も暴風大雨等の節は見合する方を良しとす

第八 在宅中読書唱歌書画等をなすは患者の随意に任す

第九 食料は滋養品を撰み適宜の量を與ふへし

第十 入浴は其度数及ひ温度等常習に従ふへし 夏季は全冷水拭法を施すを良しとす 又時々頭部を冷却すべし

第十一 夜間安眠を要す故に就寝前に茶コーヒー類を喫するを禁す 而して遊歩或は入浴を以て安眠を催進すへし然れども猶ほ安眠せさるときは薬用す可し

第十二 薬用は必す医士の命に従ふへし 売薬等を濫用す可らす 又患者は便秘の癖あるを以て宜しく此に注意し医士に乞ひ適当の療法を受く可し

第十三 頭痛あるときは氷罨法を頭部に施すへし

第十四 患者他人と面会するは随意たるへしと雖ども家事或は国政談等の如き神思を労する談話を為すを許さす

第十五 酷暑中は日光等の如き山地に於て避暑を兼ね遊歩するを良しとす

右に掲載したる條々の外猶ほ詳細の方法は口授す

明治二十年四月十八日
主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶

参考文献

1)『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(呉秀三著 創造出版 2003)

2)『相馬実伝:晴天白日』(相馬旧臣事務所編 明治26.11)

3)『相馬事件裁判明細録  第1巻』(西脇今太郎編 日本書行 明治27.3)

4)山谷徳治郎 故相馬誠胤子の病症を論す 「国家医学」1:3-30、1892.

 

(平成14年7月17日 記)(平成29年11月15日 追加)

39. 榊俶の同級生と二人の妹

 

参考文献

東都掃苔記(50)」榊保三郎博士の墓・緒方正規先生の墓:『日本醫事新報』第1632号,p.114(昭和30年8月6日)

♪榊俶(さかき・はじめ 1857-1897 東京大学医学部精神病学教室初代教授)は明治13年(1880)東京大学医学部の卒業ですが、同級生には、緒方正規(おがた・まさのり 衛生学)、小金井良精(よしきよ)(解剖学)、長尾精一(千葉医学専門学校)、濱田玄達(げんたつ)(産婦人科学)、弘田長(つかさ)(小児科学)がおり、1年上に片山國嘉(くによし)(法医学)がいて、1年下に、森林太郎(鴎外)がいました。

♪榊俶には、二人の妹がおり、妹小梅(1861-1887)は緒方正規(衛生学)に、妹徳子(1865-1955)は岡田和一郎(耳鼻咽喉科学)に嫁いでいます。緒方正規と小梅の墓は、染井霊園で榊俶の墓の隣にあります。二葉亭四迷の墓の近くです。以前、緒方家の墓所を詣でたときは、「緒方正規墓」の左隣に「榊小梅子墓」の墓石があったと思いましたが、最近、墓域が整理されたようです。榊家と緒方家の墓の近くには、桜の大木があり、桜が散る時期になると、舞い落ちる花びらが、墓域を埋めています。

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榊綽(ゆたか)(父)・幸(母)

榊綽・妻幸の墓

(子供たち)

俶(はじめ)(精神科)(沼津兵学校附属小学校卒)

順次郎(産婦人科)(沼津兵学校附属小学校卒)

保三郎(精神科)

小 梅(緒方正規妻)

徳 子(岡田和一郎妻)

 

墓道の左手が緒方家墓所、奥が榊家墓所

緒方家墓所

緒方正規の墓

 

♪妹徳子の墓も、同じく染井霊園にある岡田家の墓所にあります。高村光太郎の墓の近くです。兄妹が染井霊園の中で、それぞれ別の墓域に眠っていることになり、なにか因縁を感じます。

岡田家の墓所

注) 現在、榊家・岡田家の墓域は、改修されています。

(平成14年7月14日 記)(平成29年11月7日 追記)