52. 「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物):講談社内で発見、木下家から国立国会図書館へ寄贈

♪木下實氏(東京大学名誉教授)(木下凞の曾孫)より『先徳遺芳』」と題した冊子を贈っていただきました。(図1

図1.『先徳遺芳』表紙(木下實編・平成23年[2011]刊 私家版)
♪この冊子は,「『先徳遺芳』(木下文書)」の巻物が,国立国会図書館に寄贈されることになったのを機会に木下實氏によって編集されたものです。

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前書きに代えて

『先徳遺芳』は,曽祖父木下凞が残したもので,杉田玄白とその子孫から木下家の代々に宛てられた書翰などを集めた四巻の巻物である。三上参次先生(元東京帝国大学文科大学教授兼史料編纂)によって「木下文書」と命名された。ここでは巻物を開いて個々の文書に分けて収録した。

平成廿三年七月

木下 實

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♪冊子は第一部,第二部,第三部に分けて編集されています。原文と解読文とから構成されているのですが,木下實氏による補足説明もあり,巻末には,「木下凞・正中・東作の略年譜」も作成されています。『先徳遺芳』(木下文書)」(巻物)の全容を知る上で大変,貴重な冊子となっています。

第一部:原文[奉先記事][源淵寶墨][立卿・成卿先生遺墨][名士墨蹟][貴重書翰]

第二部:原文と解読文

第三部:収録資料目録(主に木下恭二保存の資料と文献から集めた資料)

付録一 木下家・杉田家系譜

付録二 木下家関係参考書

付録三 木下凞翁懐舊談(京都医事衛生誌,明治四十年)(文献1参照, 文献2参照)1)2)

補足資料集

木下凞・正中・東作の略年譜

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♪「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物は,昭和55年(1980)に木下正一(せいいつ)(木下正中の長男・木下實氏の伯父)から講談社野間科学医学研究資料館(当時の責任者は緒方富雄,理事は川喜田愛郎(よしお)[木下正中の娘婿・元千葉大学学長])に寄贈されました3)が、その後,野間科学医学研究資料館が平成15年(2003)に閉館され,その所在が確認できないでいました。

♪『先徳遺芳』の行方について木下實氏による継続的な探索の結果,巻物は,講談社内に,別置して大切に保管されていたことが確認されました。探索にあたっては、「江戸東京」でも、所在調査に必要な文献検索に協力させていただきました。

国際日本文化研究センター(京都)の「西洋医学史古典文献」(野間文庫)に行ったと思われていた巻物が東京に残されていたことがわかったのです。幸い保存状態が良く,痛みもなかったそうです。巻物が,眼前に現れたときの感激は如何ばかりであったでしょう。巻物と対面されたとお知らせをいただいたときは,発見できた喜びとともに、古文書の香りが,こちらまで伝わってくるようでした。

図2. 外函と内函の蓋の表裏(富岡鐡齋画伯の筆) [二重の桐函に巻物が収められている](写真:木下實氏提供)

図3. 『先徳遺芳』(木下文書)全四巻[写真:木下實氏提供] (内函のなかに四巻の巻物が収められている)
第一軸(題簽 「奉先記事」) [自序(明治卅七年八月 木下凞ひろむ謹識, 鐡齋富岡百錬代書)]

第二軸(題簽 「源淵寶墨」) [男爵石黒忠悳書簡翰(木下凞ひろむ宛 明治四十年五月二日):三上参次序 (明治四十年十一月念八日)・杉田玄白五世孫 武・杉田玄白翼書翰(木下宗伯宛)など]

第三軸(題簽 「立卿・成卿先生遺墨」 [杉田立卿・杉田成卿書翰]

第四軸(題簽 「名士墨蹟」) [川本幸民の書翰など]

 

♪「『先徳遺芳』(木下文書)」は,木下實氏からの依頼で講談社から木下家に返却(平成23年[2011]8月29日)されることになりました。その後,木下家での話し合いの結果,国立国会図書館に寄贈(平成23年[2011]9月16日)されることになったとのこと,川喜田愛郎先生も,さぞかし安心されたことと思います。

♪講談社からの返却時に,現物からの写真撮影が行われています。その結果,「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物(巻物)は国立国会図書館に,影写本が東京大学史料編纂所に,そしてデジタルデータが木下實氏の手元に,保管されることとなりました。文化財的な史料の永久保存,安全保管としては,万全の方策がとられたことになります。

講談社で撮影された『先徳遺芳』

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♪巻物は,二重の桐函(図2・図3)に収められているのですが,富岡鐡齋の筆による書(題字・函裏の書)(図4)も鮮明に読み取れます。木下正一によると,もともと,内函だけがあったものを,富岡画伯がその貴重さを思い,表函を作らせ,友人である木下凞のために,筆をとったとのことです3)。(文献3参照)

図4. 内函の裏書(富岡鐡齋画伯書)(写真:木下實氏提供)

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杉田玄白先生は,若狭小濵の藩,従って京都に住み,始めて西洋医学を唱えて海内を騒動す。偉人と言うべし。その子成卿業を襲え,連綿の盛,世の賞嘆するところなり。わが家の祖先,同藩の故を以て業を杉田家に受くる數世,故に子弟親密の交,朱陳も啻ただならず。これを以て平生質問往復書の夥き數うべからず,豈あに寶愛せざるべけんや。余その散佚を恐れ,整理して巻となし,以て子孫に伝う。蓋し胎厥孫謀(いけつそんぼう)の意,またこれに外ならず,是に於てか識す

明治四十二年五月 木下凞

友人鐡齋外史代書

注)胎厥孫謀(いけつそんぼう):父祖が子孫に遺すはかりごと

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「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物)国立国会図書館寄贈までの流れを下記にまとめておきます。

 明治37年(1904)8月:木下凞「自序」(富岡鐡齋代書)

 明治39年(1906)9月:三上参次により影写本「木下文書」が作成される(影写本は東京大学史料編纂所が所蔵

 明治40年(1907)11月28日:三上参次「序文」

 明治41年(1908)春:杉田武「書翰」

 明治42年(1909)5月:友人の富岡鐡齋 表函・内函の表題・裏書の筆をとる

 昭和31年(1956)3月4日:「木下文書」の一部が医家先哲追薦会4)5)(場所:日本医師会館大講堂・大食堂)で展覧・陳列される

[安西安周の求めによって木下正一が提供する]6)(文献6参照)

 昭和55年(1980):木下正一から野間科学医学研究資料館(講談社)へ寄贈(委託)される(文献3参照)

 平成15年(2003):野間科学医学研究資料館が閉館、資料は国際日本文化研究センター(京都)に寄贈(西洋医学史古典文献・野間文庫)されることとなる

(一時、行方不明)

 平成22年(2010)12月講談社(野間佐和子社長・当時)で発見される

 平成23年(2011)8月29日:木下實氏の依頼により木下家に返却されることとなる(このとき講談社で現物からの写真撮影が行われる)

 平成23年(2011)9月16日国立国会図書館に寄贈される。その後,国立国会図書館のOPAC(「木下文書」で検索)に登録,古典籍資料室に保管される。

平成26年(2014):国立国会図書館の企画展「あの人の直筆」で展示される。

その後、「木下文書」は、国立国会図書館でもデジタルコレクションに登録され、インターネット上で閲覧可能となる。

 

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♪第二軸(題簽 「源淵寶墨」)に,杉田武(1852-1920)(杉田玄端の長男,杉田本家7代)(杉田玄白五世孫)7)8)9)の書翰が収められています。(図5

図5. 杉田武(杉田玄白五世孫)からの書翰(写真:木下實氏提供)

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余曽て凞木下君と同窓の友なり,君の家世々余の家と師弟の交あり,君其家祖と余の家祖との間に往復せる書簡数通を秘蔵す,頃日君表装して永く家寶とせらる。啻ただに君の家の宝のみならむ,實に醫界の寶なり,謹みて誌す。

杉田玄白五世孫

明治四十一年春

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♪木下凞は,横濱時代(木下實著)(文献10)の明治4年[1871]から明治6年[1873]まで丸屋薬局(丸善の前身)に杉田武と同宿して,早矢仕有的の塾(靜々舎診察所)で勉学を共にしていました。このころから,木下凞は,木下家に伝わる杉田玄白や川本幸民などからの貴重な文書類を,後世に伝える方策を考えていたように思えます。立派な表装と二重の桐函によって,貴重な文書が,確かに,後世に伝えられることになるのです。

横濱グランドとヘボン邸

♪さらに「『先徳遺芳』(木下文書)」は,国立国会図書館に寄贈されたことによって,杉田武のいう「木下家の家寶」が「醫界の寶」となったともいえるでしょう。

♪杉田家にとっても寶といえる文書類が,国立国会図書館に収まったことを,木下凞と杉田武は,共に喜びあっているのではないでしょうか。

 

(平成24年9月3日 記す 平成30年8月18日 追記)

 

参考文献

1) 「木下凞翁懐舊談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

2) 「木下凞翁懐舊談 [承前]」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

3) 「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)

4) 「醫家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)

5) 「醫家先哲祭盛況―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)

6) 安西安周著:「蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註」.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)

7) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

8) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

9) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

10)木下實著:「曽祖父 木下 凞 ―横浜での生活―」(私家版)

51. 永利満雄氏からのメール:「京都駆黴院図」の発見

♪京都の永利満雄氏(京都府立医科大学臨床検査部・元京都府立洛東病院臨床検査室勤務)より,「江戸東京」の木下凞(ひろむ)に関する項を読んで,感想などのメールをいただきました。

♪永利満雄氏は,木下凞(ひろむ)が初代院長になった京都駆黴院(のちの京都府八坂病院)から発展した京都府立洛東病院(平成17年閉院)に勤務する傍ら,病院の歴史を調査1)2)。京都医学史研究会にも参加して,木下凞(ひろむ)に関する資料は,杉立義一先生(産婦人科医・故人)より得ていたそうです。

♪杉立義一先生は,『京の医史跡探訪』(思文閣出版)の著者です。わたしも京都の光悦寺や玉樹寺へ水原秋桜子の歌碑などを探しに行った折には参考にさせていただきました。

♪7年前の7月,夕立を避けながら木屋町通りを歩き,お洒落な喫茶店に飛び込んで,ひとり雨宿りした情景を思い出しながらメールを読ませていただきました。

♪メールには,昨年,青山霊園に木下凞(ひろむ)の墓所を探したが,あいにく見つからなかったこと,「江戸東京」の記事をみて,その場所を知ったことなども記されていました。「江戸東京」が,少しは,お役に立ったようです。

♪3枚の画像が添付されていました。貴重なものばかりでした。3枚目の写真は,『京の医史跡探訪』に「京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門」として掲載されていた写真と同じものでしたが,永利満雄氏が送ってくださったものは,そのオリジナル・プリントから作成されたファイルのようにも思えました。

1枚目:京都駆黴院を描いた日本画(部分)(京都国立近代美術館蔵)
2枚目:検査室内の様子を写したもの(部分)(永利満雄氏提供)
3枚目:京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門(永利満雄氏提供)

♪一枚目の日本画は,永利満雄氏が洛東病院の歴史調査の過程で病院の倉庫のなかで発見されたもので,その後,この日本画は,洛東病院の職員の方々の努力と,当時,兵庫県立近代美術館(現在・兵庫県立美術館の王子分館「原田の森ギャラリー」)の学芸員であった山野英嗣氏(現在・京都国立近代美術館・学芸課長)と木下直之氏(現在・東京大学文学部文化経営学教授),末中哲夫氏(当時・京都教育大学教授),杉田博明氏(京都新聞社),大橋乗保氏(田村宗立の研究家,当時・京都工芸繊維大学助教授),そして田村宗立の子孫である田村泰隆氏を紹介した原田平作氏(京都市美術館学芸員・のち大阪大学文学部教授)など,多くの方々の意志ある熱意と協力を得て,京都国立近代美術館に寄贈されることになったとのことでした。

京都国立近代美術館

場 所:〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町

電 話:  (075) 761-4111

♪「京都駆黴院図」は,国立近代美術館(東京国立近代美術館京都国立近代美術館国立西洋美術館国立国際美術館)のサイトに登録されており,作品全体をみることができるとありました。早速,国立美術館が管理・運営する「所蔵作品総合目録検索システム」を検索してみました。

♪「京都駆黴院図」は,田村宗立(たむら・そうりゅう)(1846-1918)の描いた絹本墨画で明治18年(1885)の作品であることがわかりました。背景には,東山の山並みが描かれ,八坂の塔もみえます。駆黴院全体も,診察室・病室まで非常に丁寧に描かれています。当時の京都駆黴院の規模,建築の様式などを知ることができるように思われました。

京都・八坂の塔(絵葉書)(平成26年6月29日 追加)

♪永利満雄氏に,この「京都駆黴院図」を洛東病院で発見してから,京都国立近代美術館に寄贈されるまでの経緯を書いた文献などがないか,お尋ねしてみました。すぐに返信をいただきました。メールとともに,発見した当時の新聞記事を送ってくださいました。

♪昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)3)は,永利満雄氏と宗立(そうりゅう)の孫・田村泰隆氏を取材して,次のように報じていました。

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府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に

「見つけたのは,府立洛東病院臨床検査室の永利満雄さん(33)。きっかけは京都医学史研究会の会員であり,たまたま,洛東病院の歴史を調べているうちに,病院の倉庫にホコリをかぶった絵をみつけて調査,病院の前身の駆黴院を描いた絵とわかった。」「制作年は明治十八年。ちょうど療病院から独立した時期で,これを記念に,当時,京都府画学校で,わが国に導入されたばかりの西洋画の教鞭をとっていた田村宗立(そうりゅう)に依頼されたらしい。山や木立などには,日本画の描法がうかがえるが,建物は百年前とは合理的な溝引きを使った建築設計図のような透視図の手法がとられている。」『京都の医学史』の編さんにあたった京都医史学研究会の杉立義一さんの話「駆黴院についてはこれまで,どういう規模でどういう活動をしていたかわからなかった。この絵で病院の規模もよく分かり,当時の医療活動をしのぶことができる貴重な資料だと思う。」

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♪なにしろ,永利満雄氏の「京都駆黴院図」を後世に残したいという強い思いが,兵庫・京都の美術館を中心とした田村宗立に関わる人々を動かし,医史学的にも貴重な日本画が京都国立近代美術館に残ったことは確かなことです。

♪明治14年(1881)1月19日,仮駆黴院にはじめて院長を置くことになり,このとき院長になったのが,木下凞ひろむ先生。祇園花見小路の4400坪の土地が京都府に寄付され,駆黴院が新築されることになり,翌年,明治15年(1882)11月24日に竣工・開院しています。

♪花見小路は,建仁寺の近くです。今年も祇園祭(八坂神社の夏祭り)の時期となり,「京都の動く美術館」4)といわれる絢爛豪華な様子がニュースで流れています。125年前の京都花見小路。病に苦しむ女性たち,そして,医師,看病婦たちは,どのような思いのなかで,八坂の祇園祭を迎えていたのでしょうか。

♪永利満雄氏からは,別便で,駆黴院に関する文献や明治期の病院の様子を写した写真などを送っていただいています。また,こちらでも東京から京都府八坂病院に派遣された医師についての調査を進めた結果,大正4年(1915)10月には,東京醫科大學皮膚科教室醫局(土肥慶蔵教授)から京都府八坂病院長として,三戸雄輔(みと・ゆうすけ)醫學士が赴任5)したことなどが,わかってきました。当時の皮膚科教室醫局には,太田正雄醫學士(木下杢太郎)が在籍していました。

♪宇野朗の関係で求めておいた『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』6)のなかの「思い出の写真」には,皮膚科醫局内で撮影された「大正4年10月 三戸雄輔 京都八坂病院長 赴任送別会」の集合写真が掲載されていることもわかりました。この集合写真には,土肥慶蔵教授と三戸雄輔醫學士が並んですわり,太田正雄醫學士も右端の出入り口付近に立って写っています。独特の雰囲気を感じさせる白衣姿です。

♪「江戸東京」は,いろいろなご縁で,京都と繋がりをみせはじめています。

参 考 文 献

1)    永利満雄,藤本文朗,渋谷光美. 京都東山の洛東病院の歴史を探る ―語られなかった歴史的事実にせまる―.「いのちとくらし研究所報」第28号,pp.38-47. 2009年9月.

2)    永利満雄.京都駆黴院の変遷について.「啓迪」第5号,pp.14-19. 昭和62年4月.

3)    ―府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に―.昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)

4)    八坂神社と祇園祭.「京」(日本新薬の広報誌) no.164. pp.14-19.(日本新薬「京」編集委員会編 平成22年7月23日発行)

5)    三戸學士の赴任(雑報記事).「皮膚科及泌尿器科雑誌」15(10):p.76.(大正4年10月)

6)    「思い出の写真」「同窓会々員名簿(東京大学医学部皮膚科教室泌尿器科教室[明治26年頃作成])」:『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』(東京大学医学部泌尿器科学教室編 平成14年)

(平成22年8月1日 記す 平成30年8月11日 追記)

50. 木下正中の息子たち:正一,恭二,謹三 ― 巻物「先徳遺芳(傳家寶墨)」:「木下文書」の継承 ―  

長男・正一[後列左から二人目],次男・恭二[後列右から3人目],三男・謹三[後列右端学生服姿] (前列中央が木下正中、左が妻の素子)(昭和7年撮影)(木下實氏提供)

♪木下正中(せいちゅう)(若狭小濱藩医・木下家五代目)と妻・泰子(やすこ)との間には,三男七女という大勢の子供がいました1)。お正月,三月の雛祭り,端午の節句,夏休みの葉山海岸や畑毛の別荘行きなど,華やかで,にぎやかな,日々であったことでしょう。

 長女・篤子(あつこ)(木下益雄室)

 次女・道子(みちこ)(7歳で病没)

 三女・直子(なおこ)(石川正臣(まさおみ)室)

 長男・正一(せいいつ)

 四女・宣子(よしこ)(栗原純一室)

 次男・恭二(きょうじ)

 五女・定子(さだこ)(楠 隆光室)

 三男・謹三(きんぞう)(戦没)

 六女・弘子(ひろこ)(川喜田愛郎(よしお)室)

 七女・静子(しずこ)

♪木下正中の三人の息子(長男・正一,次男・恭二,三男・謹三)は,いずれも東京帝國大學を卒業しています。正一は医学部,恭二は理学部(化学科),謹三は農学部(農芸化学科)と,それぞれ,自然科学系の別分野を学びます。医学部だけに拘らない正中の学問に対する視野の広さと息子たちに対する信頼が感じられます。

 

♪長男・正一(1901-1987)

明治34年(1901):6月24日 本郷森川町に生まれる。

昭和2年(1927):東京帝國大學医学部を卒業。九州大学産婦人科教室に入局。父・正中の弟子であった白木正博教授に学ぶ。

昭和7年(1932):木下産婦人科病院長となる。

昭和32年(1957):賛育会病院長となる。

昭和42年(1967):11月15日 婦人関係の諸問題に関する懇談会委員を委嘱される。

昭和62年(1987):3月8日逝去。享年85歳。

 

♪次男・恭二(1906-1995)

明治39年(1906):5月22日 本郷森川町に生まれる。

大正13年(1924):府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校)卒業。

昭和2年(1927):静岡高等学校卒業。

昭和5年(1930):鮫島実三郎教授の指導で卒業研究を行ない,東京帝國大學理学部(化学科)を卒業。

昭和15年(1940):横浜高等工業学校(のち横浜高等工業専門学校)教授となる。

昭和24年(1949):横浜国立大学工学部教授となる。図書館長・評議員をつとめる。

昭和38年(1963)文部省海外化学研究施設調査に派遣。

昭和47年(1972)横浜国立大学退官,名誉教授となる。新設の埼玉医科大学教授となり,正中の弟・東作の長男で,東大を定年退官した木下治雄教授とともに大学創設に尽力する。

昭和51年(1976):勲二等瑞宝章を授与される。

平成7年(1995):10月12日逝去。享年90歳。

 

♪三男・謹三(1911-1945)

明治44年(1911):7月1日,本郷森川町に生まれる。東京高等師範附属小学校・中学校卒業。静岡高等学校卒業。

昭和10年(1935):東京帝國大學農学部(農芸化学科)卒業。昭和産業株式会社に入社。麻布第三連隊に入隊。千葉陸軍通信学校卒業。

昭和13年(1938):藤井よし枝と結婚。

昭和19年(1944):北方派遣部隊に所属して,千島最北端の幌筵島(ほろむしろとう)・占守島(しゅむしゅとう)へ転属。

昭和20年(1945):4月19日,大誠丸で沖縄へむかう途中,北海道日高郡門別 村沖合で,米国潜水艦の攻撃を受け沈没。戦死。享年34歳。

♪この家族写真は,昭和7年(1932)に撮られています。この年,正一は,父・正中が経営する九段・一口坂の木下産婦人科病院を引き継ぎ,院長になるため,九州大学の産婦人科教室(白木正博教授)のから呼び戻され,東京に家族を連れて帰ってきました。

♪正中は,前列中央に座り,博多からやってきた孫娘・恵子を大事に抱きかかえています。恵子を挟んで,泰子も,やさしく微笑んでいます。泰子の後ろには,定子(五女),弘子(六女),そして正中の横には,静子(七女)が寄り添っています。

♪次男の恭二にとっても,この昭和7年(1932)は,節目の年でした。山本陽子と結婚。恭二の右手側に陽子が立っています。

♪三男の謹三は,東京帝國大學農学部の学生でした。後列,右端に学生服姿で立っています。謹三の隣に並んでいるのが,正一の妻・綾子(あやこ)です。

♪恭二が通った府立第五中学校は,大正7年(1918)の創立で,初代の校長には,伊藤長七が就任しています。この府立第五中学校が開校した巣鴨駕籠町あたり一帯には,かつて榊俶はじめ(東京帝國大學医科大学精神病学初代教授)が医長をつとめた東京府巣鴨病院がありました。現在の日本医師会館や文京グリーンコート・科研製薬(旧理化学研究所跡)があるあたりです。多くの樹木が繁った広大な敷地を有しました。

♪正中が,嫁の綾子に,「日本医師会館だよ。東京医師会館ではない。駿河台の方だよ。連雀町の方ではないよ」といって出かけたという日本医師会館は,駿河台から駒込の地に移ってきています。本郷通りと不忍通りが交差する上富士前交差点の近くです。不忍通りをはさんだ向こう側には,六義園(柳沢吉保下屋敷庭園跡)があります。

♪東京帝國大學を目指すような優秀な人材を多数輩出した歴史ある都立小石川高等学校(旧府立第五中学校)も,平成23年(2011)には,閉校される予定とのことです。(現在は東京都立小石川中等教育学校に完全移行されています。)

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♪正一(木下家六代目)には,木下産婦人科病院の経営とともに,長男として,木下家の家宝である巻物「先徳遺芳(傳家寶墨)」(明治四十二年五月)(木下家四代目 木下凞作成)を子孫に伝える役目がありました2)3)

♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家(若狭小濱藩医・初代・木下宗白)に代々伝わる杉田家(若狭小濱藩医・初代・杉田元伯)からの書簡や遺墨などを,表装して巻物にまとめたものです4)5)6)

 注)杉田家の第三代目が蘭書を翻訳して『解體新書』を刊行した杉田玄白(名翼,号 齋又九幸,享保18年(1733)9月13日生,文化14年(1817)4月17日卒,85歳)。

♪この「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,全4巻からなります。第1巻「奉先記事」,第2巻「源淵寶墨」,第3巻「立卿成卿先生遺墨」,第4巻「名士墨蹟」の4巻です。

講談社内で発見された「先徳遺芳」

♪その一部を影写したものが『木下文書』(影写本)(65丁 文書27点 1906年作成大きさ37cm)として東京大学史料編纂所に残っています。『木下文書』という題は,杉田家からの書簡類を,東京大学史料編纂掛に保存するため影写したときに,三上参次がつけたものです。

♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,二重の桐箱に収められ,表箱(外箱)の表題である「先徳遺芳」と内箱の表題である「傳家寶墨」の題字は,いずれも,木下凞と親交のあった富岡鐡齋画伯の書によるものです。

講談社内で発見された「先徳遺芳」

♪また,内箱に裏書された外史(明治四十二年五月),そして,「奉先記事」に収められている自序も富岡鐡齋が筆をとりました。それほどに,木下凞と富岡鐡齋との友情は深かったと思われます。「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,その内容とともに,富岡鐡齋画伯の書風を知る貴重な資料となりました。

♪このような,医史学的,文化遺産として貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,戦時中,安全に,保管することは,正中(木下家五代目)はもちろん,正一も,大変,神経を使ったと思われます。

♪戦災により,一口坂の木下産婦人科病院や正中が独逸から多数収集していた蔵書類などは,全て焼失してしまいます。そして,戦争で,なによりも,三男の謹三を亡くします。木下家にとって,たくさんの大切なものを失いましたが,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,残りました。

♪第二次大戦後,10年を過ぎた昭和31年(1956)3月4日(午後2時から午後4時),正一は,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,安西あんざい安周やすちか(日本医史学会理事)(筆名:杉野大澤)の求めに応じて,医家先哲祭に出品しています7)

♪医家先哲祭8)の主催は,日本医師会で,後援は,日本医史学会,日本医事新報社。会場は,日本医師会館の大会議室。遺墨などの陳列は,大食堂で行われました。このとき,緒方富雄が「蘭学の流れ」,安西安周が「杉田家系譜について」と題して,記念講演を行っています9)

♪「木下文書」を公開するのは,木下凞自身が,明治40年(1907)に京都医学会総会の医史料展覧会で一部を展覧して以来のことでした。

♪このような貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,どのような形で,後世へ伝えるかについて,正一は,次弟の恭二とも,相談していたのではないか,と思われます。

♪恭二の次男にあたる木下實氏によると,恭二は写真が趣味で,正中から贈られたローライフレックスのカメラで旅行写真や孫などを撮影。その腕前はなかなかだったとのことです。晩年を過ごした鎌倉のお邸には,そのアルバムが書斎に沢山あるとのことでした。

♪木下實氏よりメールをいただきました。その内容は,次のようなものでした。

鎌倉で父のアルバムの一部を調べていて,発見したことがあります。野間科学医学研究資料館が『木下文書』を受け入れたときのことを,同館が発行している『科学医学資料研究』第75号(昭和55年7月)に記載しています。ここに,木下文書全4巻の写真も載っているようです。また,この文書を受け入れたときの理事が川喜田愛郎であったようです。

♪早速,文献を取り寄せました。まさしく,探索していた文献でした。正一が,「先徳遺芳(傳家寶墨)」(いわゆる「木下文書」)を野間科学医学研究資料館に寄贈したいきさつが,詳しく書かれていました。全4巻の巻物を桐の内箱に収めた写真,富岡鐡齋の手による内箱の表題と裏書の写真が掲載されていました。探し求めていた巻物が眼前に現れた思いでした10)

傳家寶墨 (出 典:『科学医学資料研究』第75号 昭和55年7月15日発行)

♪昭和55年(1980),正一,恭二,川喜田愛郎(六女弘子の夫)らが協力して,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,「安全で,なお学究の徒がいかなる時でも閲覧可能な場所10)」に,寄贈したのでした。

♪ここに,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家の手をはなれて,公的な文化遺産として,後世に受け継がれることになりました。当時の,野間科学医学研究資料館の責任者は緒方富雄で,正一,恭二,謹三の義弟にあたる川喜田愛郎(元千葉大学学長)が理事をつとめていました。緒方富雄は,『医学用語集(第一次選定)』で,正中のもとで働いたこともありました。

♪講談社の支援を受けた野間科学医学研究資料館は,平成15年(2003)に閉館。その全資料が国際日本文化研究所京都)に譲られることになります11)

(その後の調査で、『先徳遺芳』は、講談社に保管されていることがわかり、木下家に返却され、現在は国立国会図書館内に寄贈されています。この経緯については後述します)

◆◆◆

♪謹三のすぐ下の妹が弘子(六女)です。弘子と川喜田愛郎との結婚は昭和11年(1936)のことで,その2年後の昭和13年(1938)に,兄の謹三が,藤井よし枝と結婚しています。謹三と弘子は,年が近いせいか仲がよかったようです。弘子は,兄謹三を「きんちゃん」と呼び,その思い出を次のように書いています1)

「サッカーが好きで,畑毛に行くと広い芝庭があったのでよくドリブルの練習をしていた。転げて芝だらけになって私も遊んだ。」

「謹ちゃんのおはなれの部屋と母屋の十帖の窓が向い合っていて,お互いにじゃれあって悪態ついていたのが懐かしい。」

「登山も好きだった。山岳部に入っていて,五万分の一の地図を数枚ケースに入れ,飯盒や水筒,米,塩,味噌などの入った大きなリュックをしょって,ゲートルをまいて出かけて行った姿が,目に浮かぶ」

♪木下實氏に提供していただいた森川町の木下邸の平面図によると,一階の中廊下で母屋と離れの部屋が,繋がっていました。

♪お庭には,四季折々の花々が咲き乱れ,蝶が舞い,鶯が鳴く。蛍が飛び,夏の夕暮れには蜩(ひぐらし)の蝉の声。満天の星。天の川。秋のはじまりを知らせる赤とんぼの群れ。本郷台地を吹き抜ける風。冬が来ると,庭木は雪化粧。そして霜柱。周辺には,枳殻の垣根を持った家もあったかもしれません。そんな,自然豊かな,森川町のお邸で,兄弟姉妹は,楽しい,青春のひとときを,過ごしたことでしょう。

♪天上の人となった謹三は,富岡鐡齋画伯による「先徳遺芳(傳家寶墨)」の題字を,北海道の空の上から,どのように見ているのでしょうか。兄や妹の夫となった方たちの努力によって,家宝が安全な場所に移され,後世に遺されたことを喜でいるのではないでしょうか。

♪木下家墓所は,青山霊園12)の1種イ21号16側13番にあります13)14)。杉田家第六代目にあたる杉田玄端の墓(1種イ1号22側1番)も,この青山霊園にあります15)。杉田家の墓域には,慶應義塾大学に『解體新書』を寄贈した杉田つる(玄端の孫)も眠っています16)

♪霊園内の外人墓地には,スクリバ(Julius K. Scriba)(東京帝国大学名誉教師)(北2種イ1側),シモンズ(Duane B. Simmons)(南1種イ4側)などの外国人医師たちのお墓もあります。

♪青山霊園は,桜の名所としても知られています。ちょうど,桜の季節を迎えます。園内を散策しながら,木下三兄弟に思いを馳せ,日本古来の山桜を探してみたいと思います。

 

参 考 文 献

1)「木下家三代電子版(私家版)」(木下實氏作成)

2)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

3)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

4)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

5)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

6)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

7)安西安周:蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)

8)「医家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)

9)「医家先哲祭―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)

10)「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)

11)『野間文庫目録』巻頭序:山折哲雄.国際日本文化研究センター(2005)

12)『青山霊園』(田中 きよし著)郷学舎,1981.(東京公園文庫33)

13)『東京掃苔録』(藤浪和子著)八木書店,1973.

14)「東都掃苔記(77)木下家の墓」 『日本医事新報』 No.1659.p.60.(昭和31.2.11)

15) 「東都掃苔記(84)杉田家の墓」 『日本医事新報』 No.1666.p.64.(昭和31.3.31)

16)『杉田つる博士小傳』石原兵永編.杉田追悼文集刊行会,1958.

(平成22年3月13日 しるす)(平成22年8月26日 訂正)(平成30年6月21日 訂正追記)

49. 木下正中一家の家族写真:父・凞,母・準子を囲んで

♪木下實氏から,本郷森川町の木下正中邸の玄関前で撮られた正中(せいちゅう)一家の家族写真をお借りしました。写真は,正中の父・凞(ひろむ)と母・準子(じゅんこ)を囲む形で撮られています。当時の正中は,東京帝國大學醫科大學・産科學婦人科學教授でした。

本郷森川町・木下正中一家の家族写真(大正2年頃)(木下實氏提供): 左から恭二,準子,定子(のち楠),正一,正中,凞,宜子(のち栗原),篤子(のち木下),謹三,泰子,直子(のち石川)

♪木下凞(ひろむ)(木下宗伯)(1844-1914)は,若狭國小濱(現在の福井県小浜市)の藩医・木下家の第四代目(「樹恵堂 じゅけいどう」)にあたります。同じく小濱藩医であった杉田玄白(1733-1817)をはじめとする杉田家とは,親交があり,木下家には,杉田家との往復書簡類などが,代々,伝わっていたそうです。

関連連載:小濱藩医:杉田家・木下家々譜

♪安政5年(1858),小濱から江戸に出て川本幸民(かわもと・こうみん)(1810-1871)に入門。川本幸民は,坪井信道(つぼい・しんどう)(1795-1848)とともに,青地林宗(あおち・りんそう)(1775-1833)の女婿の一人でした。木下凞(ひろむ)は,川本幸民のもとで,3年間,学んでいます。

♪その後,京都の広瀬元恭(ひろせ・げんきょう)(1821-1870)の私塾(時習堂)に転じます。元恭の死後,明治4年(1871),横濱で,杉田玄白の子孫である杉田武(杉田つる伯父・玄白五世)と居を共にしながら,ヘボン(James Curtis Hepburn)(1815-1911)やシモンズ(Duane B. Simmons)(1834-1889)から,英書および西洋医学の実地指導を受けています。また,藩命により長崎にも赴き,英書を学びました。木下凞(ひろむ)は,英学を中心に医術を学び,学問に生きた人であったようです。

横濱グランドホテルとヘボン邸(絵葉書)

♪明治6年(1873),京都療病院(現在の京都府立医科大学)に採用されたときから,京都に住み,明治9年(1876)6月3日,建仁寺内福聚院に仮駆黴院(駆梅院)が開かれたときには,検梅医員になっています。

♪明治10年(1877),医務取締,産婆取締となり,明治14年(1881)1月19日,駆黴院に院長が置かれることになったとき,木下凞(ひろむ)が,初代院長に任じられました。

♪明治18年(1885)以来,自宅(上京区麩屋町通り御池下る中白山町六番戸)で開業し,京都の産婦人科の中心人物として,京都医会に多大の功績をのこしました。

♪京都での診療を休止したのが明治44年(1911)3月,廃業したのが大正2年(1913)2月のことで、家族写真は,その後,東京へ移ってきた頃の写真だそうです。

♪洋間から運んだのでしょうか,椅子が3脚,庭先に間隔をおいて置かれます。その中央には,正中(木下家五代目)の父・凞(ひろむ),右手側に母・準子が座ります。そして,左手側に,明治44年(1911)生まれの謹三(きんぞう)(三男)を抱いた妻・泰子(やすこ)(下瀬謙太郎の妹)が座ります。

♪正中自身は,後列に,学生服姿の正一(せいいつ)(長男・木下家六代目)の右肩に手をかけて,立っています。

♪正中は,明治27年(1894),醫科大學4年生のとき,ペストが流行している香港へ調査・研究のため,青山胤通(あおやま・たねみち)(1859-1917)(内科学教授)に同行,助手・通訳として活躍しました。

♪正中の妻・泰子は,正中と東京帝國大學醫科大學で同級生の親友・下瀬謙太郎の妹でした。下瀬謙太郎は,陸軍軍医学校校長をつとめた人物で,東京帝國大學では,北島多一とも同級でした。

♪泰子が,学生生活を過ごした明治女学校は,麹町にありましたが,その後,巣鴨に移転しています。現在,巣鴨の明治女学校跡には,特別養護老人ホーム「菊かおる園」が建っています。

♪左端に着物姿に学生帽を被っているのが,恭二(次男)。お人形を持って,祖母(準子)に身を寄せているのが,定子(五女)。後列の篤子(長女)の前に立つのが,宣子(よしこ)(四女)。右端に立つ直子(三女)と同じように,頭にかわいらしくリボンをのせています。

♪足元には,門から本玄関へと続く飛び石がみえます。門構えといい,庭木といい,大正初期の古きよき時代の日本家屋がみえます。この写真が撮られた本郷森川町界隈には,まだ,江戸の風景が残り,映世神社の境内は,樹木で鬱蒼としていたのでしょうか。

♪画面には,自然のやわらかい光が溢れ,正中の家族に対する愛情が感じられます。

♪写真が撮られた本郷森川町の木下正中邸跡は、現在、「旅館・鳳明館森川別館」(東京都文京区本郷6-23-5)となっています。

 

参考文献

1.「木下文書」(東京大学史料編纂所蔵):自序(木下凞ひろむ)
2.「木下家三代電子版」(石川純・栗原純夫編集の私家版を木下實が電子化したもの)
3.「木下凞(ひろむ)について」「木下正中」「木下文書について」(木下實著)
4.「京都の医学史」(京都府医師会医学史編纂室,1980)
5.「青山胤通」(青山内科同窓会,1930)

(平成22年2月7日 記す)(平成23年8月9日 訂正)(平成30年6月18日 追記訂正)

48. 木下實氏からメールをいただく:木下正中と「木下文書」

♪「江戸東京」を読んだ感想を、木下實(きのした・みのる)氏(東京大学名誉教授)からいただきました。木下實氏は、明治33年(1900)4月に濱田玄達のあとを継いで、東京帝國大学醫科大學の産科学・婦人科学教室主任(教授)となった木下正中(きのした・せいちゅう)(1869-1952)の孫にあたられる方です。

木下 正中(出典:「産科と婦人科」5巻7号[巻頭頁]昭和12年)

 

若き日の木下正中

 

♪メールには、木下正中が、スクリバ、ベルツの指導を受け、醫科大學を卒業後、すぐにスクリバの助手となったこと、杉田玄白と同じく若狭國小濱の出身であること、本家には、杉田家(玄白、白玄、立卿、成卿、廉卿)から木下家に宛てた書簡が保管されていたこと、その書簡を、曾祖父の木下煕(きのした・ひろむ)が、三上参次にみせ序文を識してもらっていること、三上参次が、これを「木下文書」と名付けたこと、また、晩年に、木下正中は、医学用語に関心を持ち、日本医学会医学用語整理委員長を務め、「医学用語集」を刊行、「世界医学人名辞典」の編纂にも着手したことなどが書かれてありました。

小濱市街全景(絵葉書)

♪「江戸東京」では、『解體新書』や、その翻訳のもととなった蘭訳本、独逸原本など「ターヘル・アナトミア」に関するすべての原典を慶應義塾図書館に寄贈した杉田鶴子(杉田玄白の子孫)の事績や、東京大学史料編纂所に関係の深い三上参次のことも取り上げていましたので不思議な縁を感じました。

♪その後、木下實氏からは、お忙しい中、何度もメールをいただき、木下正中が、教授を退任した後は、浜町産婦人科病院(日本橋浜町三丁目)を、関東大震災後は、木下産婦人科病院(麹町九段)を開設・経営したことなども、ご教示いただきました。浜町産婦人科病院のすばらしい外観写真も拝借できましたので、「江戸東京」のなかで、紹介させていただけたらと思っております。

♪木下實氏からのメールによって、「江戸東京」が、杉田玄白、緒方洪庵の流れとともに、産婦人科学の歴史の流れをつくり、医学用語を扱うシソーラス研究会とも繋がってきたようにも思われ、不思議な縁を感じます。

♪さらに不思議なのは、木下産婦人科病院の場所を特定しようと思い、現在の市ヶ谷駅周辺や一口坂あたりの古地図をみていて、榊俶(さかき・はじめ)(東京帝國大学醫科大學初代精神病学教室教授)の次弟である榊順次郎が経営していた榊病院(産婦人科)の病院の印をみつけたことです。いままで、不明だった榊順次郎の病院の場所が特定できたのでした。産婦人科医の榊順次郎と木下正中が麹町でつながりました。なにかに導かれているような思いです。

九段坂からニコライ堂を望む

♪木下正中の生まれ故郷である小濱(旧福井県遠敷郡小濱町西津)、小学校時代を過ごした京都、学生・教授時代を過ごした東京本郷台町・森川町、教授退任後、晩年にかけて過ごした日本橋浜町、麹町・九段界隈の風情。そして明治初年から昭和初期にかけての小濱、京都、本郷への思いが、木下實氏のメールで浮き上がってきました。

 

♪小濱藩の侍医であった木下家の事績、そして「木下文書」の調査など、「江戸東京」は、最新のデジタル通信技術を利用し、いろいろな方々の助けを借りながら、原典探索、散歩の範囲を、徐々に広げてゆけたらと思っています。

 

(平成22年1月15日 記)(平成30年6月18日 追加)

47. 榊順次郎の墓

墓石の場所:染井霊園(東京都豊島区駒込5-5-1)1種イ5号5側

正 面:榊家墓

 

裏 面:西暦紀元一千九百十五年(大正4年は、弟順次郎が長兄俶の準[順]養子となった年にあたる)7)8)

♪東京帝國醫科大學(現在の東京大学医学部)の初代精神病学教室教授をつとめた榊俶(さかき・はじめ)には,二人の弟がいました。順次郎と保三郎です。

 

 

榊 順次郎(1859-1939)7)

 

榊 保三郎(1870-1929)8)

♪二人の弟とも東京帝國大學醫科大學を卒業し,順次郎は産婦人科学を保三郎は兄・俶と同じ精神病学を専門として巣鴨癲狂院に勤務したのち,九州帝國大學醫科大學の教授となっています。

♪榊三兄弟の父は,榊綽(ゆたか)(令輔 れいすけ・令一)といい,開成所時代には活字御用をつとめ,明治元年(1868)には駿府に移り,静岡学問所教授から沼津兵学校三等教授方並(図画方)に転じています。和蘭商館長から幕府に贈呈されたスタンホープ印刷機は,沼津に運ばれて,榊綽が操作したといわれています1)2)

♪榊俶の妹で岡田和一郎に嫁した徳子によると,父・榊綽は杉田梅里(成卿)の塾で呉秀三の祖父・箕作阮甫と同門であり,その縁で,呉秀三の姉・りき(のち日高秩父(ひだか・ちちぶ)氏夫人)は榊俶の洋画の弟子であったとのことです3)

♪榊綽の長男・俶が,沼津兵学校附属小学校に通ったことは,「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」4)のなかで触れましたが,弟の順次郎も,この沼津兵学校附属小学校の出身であり,また杉田玄端の息子の雄(いさお),盛(さかり)も,同附属小学校に在学して医者となったことは木下實氏(東京帝国大学医科大学産婦人科教授木下正中(きのした・せいちゅう)の孫、東京大学名誉教授)からのご教示ではじめて知りました。

♪さらに,宇野朗(ほがら)(帝國大學醫科大學第一醫院・外科学,繃帯学・皮膚病及黴毒學担当)(皮膚病黴毒科講座初代教授)も杉田玄端の塾にいたことが,『宇野朗覚書』(私家版)でわかりました。

♪『宇野朗覚書』は,以前に,宇野朗三上参次(みかみ・さんじ)の子孫である宇野彰男氏から,そのコピーをいただいていたのですが,杉田玄端の事績を調査していて,なぜか,気になって,ファイルを開いてみたのです。すると,そこには,維新後,杉田玄端が江戸の杉田塾をたたんで,塾生の宇野朗とともに三島を経て沼津に移る様子が書かれていました。磁力が働いて文献に引き寄せられた思いがしました。

♪それと,木下家と杉田家の墓所の文献調査の過程で,榊順次郎の墓の所在がわかりました。安西安周(あんざい・やすちか)(医史学者)が,杉野大澤の筆名で『日本医事新報』誌に「東都掃苔記」を長期連載していました。大変な労作で,第1回「土肥家累代之墓・片山家之墓」(昭和29年8月28日発行)5)から第100回「宇野家の墓・清野家の墓」(昭和31年7月21日発行)6)まで続くことになります。

♪その第49回(第1631号)7)と第50回(第1632号)8)で染井霊園にある榊家の墓所が取り上げられ,榊順次郎の墓についても,詳しく書かれていました。安西安周が榊家と姻戚関係にある緒方規雄(おがた・のりお)(千葉医大細菌学教室初代教授)(緒方正規[まさのり]の息子)に話を聞いたものでした。榊俶の姉(長女)である小梅が緒方正規(東京帝國大學醫科大學衛生学教室初代教授)の妻であったため,緒方規雄が情報を提供したものと思われます。(なお千葉医大細菌学教室の第3代教授が,木下正中の六女・弘子(ひろこ)を妻にした川喜田愛郎(よしお)です。)

♪記事7)8)によると,大正4年(1915),榊保三郎は,長兄・榊俶の準[順]養子となり,榊順次郎は別家をたてて,墓所も別地に設けたとありました。

♪杉野大澤は,榊順次郎について,つぎのように書いています7)。

「順次郎博士は綽翁の次男として安政六年六月十三日生,初め横須賀の造船学校に学んだが,その廃校によって東大醫學部の別科生となり,荒木[寅三郎]・遠山[椿吉]・金杉[英五郎]諸博士と同期に卒業した。」注)

「婦人科千葉稔次郎教授の助手となり,教授の死後私費を以て獨乙に遊学,帰朝後は四谷、次に市ヶ谷見附に産科婦人科病院を開設し,併せて半蔵門に産婆学校を設けた。」

(注)荒木は荒木寅三郎(京都帝國大學総長・学習院院長),遠山は遠山椿吉(東京市衛生試験所長・東京顕微鏡院院長),金杉は金杉英五郎(東京慈恵会医科大学初代学長)

🌸🌸🌸

♪すっかり,葉桜となった平成22年(2010)4月25日(日)に染井霊園を訪ねました。染井霊園には,染井通りの突き当りの正面入口から入り,巣鴨方面へ抜ける広い墓道(南そめいよしの通り)を進みました。三上参次の墓(1種イ13号1側)をお参りしてから,二葉亭四迷(1種イ5号37側)の墓への案内標柱がある細い墓道へ入りました。

♪二葉亭四迷の墓を左手にみて,やや進むと右手に「榊家墓」と刻まれた立派な墓石があらわれます(1種イ5号5側)。そこが,榊順次郎の墓でした。いつも,この墓所の前を通るときに,榊俶の榊家とは,どのような関係にある墓なのだろうかと思っていました。墓石の裏面には「西暦紀元一千九百十五年」と刻まれていました。西暦1915年は大正4年にあたります。この榊家の墓は,大正4年(1915)に榊順次郎が分家した時期に建てられたものと思われます。

♪榊順次郎は,昭和14年(1939)11月16日に狭心症で亡くなっています。享年80歳でした。

♪榊順次郎が市ヶ谷見附(九段)に開業した榊病院の場所9)は,木下正中が経営した木下産婦人科病院を調べていて確認できました。さらに業績については,緒方正清が著した『日本産科學史』10)のなかに,木下正中と並んで掲載されていることもわかりました。

♪榊順次郎は,『脚気病ト穀物トノ原因上関係』(明治25年12月出版)(丸屋善七発売)を著し,脚気論争にも関係した人物です。

◆◆◆

♪緒方洪庵の墓所からはじまった「江戸東京」の散歩は,点が線になりつつあります。

 

参 考 文 献

1)『沼津兵學校及其人材 -附属小學校並沼津病院-』(大野虎雄著 昭和14年刊 田中屋印刷所)

2)『旧幕臣の明治維新 -沼津兵学校とその群像』(樋口雄彦著)(歴史文化ライブラリ― 201)(吉川弘文館 2005)

3)岡田 徳子:岡田和一郎の思い出(5)-結婚の媒酌‐.『日本医事新報』 第1466号,p.36-37. 1952.

4)堀江 幸司:「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」医学図書館 43(3):361-368. 1996.

5)杉野大澤:東都掃苔記 [1] 土肥家累代之墓・片山家之墓. 『日本医事新報』第1583号,p.34. 1954.

6)杉野大澤:東都掃苔記 [100] 宇野家の墓・清野の墓. 『日本医事新報』 第1682号,p.52. 1956.

7)杉野大澤:東都掃苔記[49] 榊俶の墓,榊順次郎博士の墓.『日本医事新報』第1631号,p.52. 1955.

8)杉野大澤:東都掃苔記[50] 榊保三郎博士の墓,緒方正規先生の墓.『日本医事新報』第1632号,p.114. 1955.

9)九段上の電車通り(新東京・医学きまぐれ散歩).『日本医事新報』 第1466号,p.37-38. 1952.

10)『日本産科學史』(緒方正清著 大正8年刊 丸善)

 

(平成22年5月15日 記す)(平成30年6月9日 訂正)

46. 映画「狂った一頁」(2):川端康成の「撮影日記」

♪東京府巣鴨病院(前・東京府癲狂院)が茂原郡松澤村上北澤に移転して,東京府松澤病院(現在の東京都立松沢病院)となったのは,大正8年(1919)11月7日のことでした1)。榊俶のあとを継いだ呉秀三の理想に基づいて建設され,広大な構内には農場や庭園なども設けられました。

東京府松澤病院正門(絵葉書)
東京府松澤病院(病院鳥瞰)(絵葉書)
東京府松澤病院(病室の外観)(絵葉書)
東京府松澤病院(庭園の一部)(絵葉書)
東京府松澤病院(レントゲン室・治療室)(絵葉書)

♪当時,松澤病院に入院していた葦原将軍2)3)こと芦原金次郎(嘉永3年―昭和12年)は,明治43年(1910)7月9日に乃木希典(陸軍大将)と面会するなど,精神病者として新聞紙上を賑わした患者で,乃木を案内したのが呉秀三でした。明治から大正,昭和へと続く軍国化のなかで,精神病者への対応など「脳病院」が注目された時代でした。

♪衣笠貞之助が,いつ松澤病院を取材したか,その月日や院内を案内した医長については,わかりませんが,大正14年(1925)6月30日に呉秀三院長が退職して,三宅鑛一(三宅秀の長男)が院長になっていました。

♪開院当時の松澤病院は,病院全体がコロニーを形成しており,広大な敷地のなかに畑,水田,畜産場,園芸用地のほか,作業場などもあって「作業療法」も実施されていました。4)5)6)作業療法の建物には,男病者工作場(封筒貼り作業場),女病者工作場(裁縫作業場),大工工作場,印刷場などがあり,衣笠貞之助は,これらの施設も見学してまわったものと思われます。

 

(参考絵葉書)山形脳病院(現・山形さくら町病院)の作業療法

山形脳病院の作業療法(1)(絵葉書)
山形脳病院の作業療法(2)(絵葉書)

 

◆下賀茂松竹撮影所(京都)と川端康成の「撮影日記」

♪『狂った一頁』の撮影は,京都の下賀茂の松竹撮影所で行われました。撮影所は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(下鴨神社)の「糺(だだす)の森」の近く、加茂川沿いにありました。

♪「撮影のための宿舎からは、糺の森が見え、暗闇のなかでの脳病院風景の撮影は、恐ろしく、高笑いする女優の演技は、まさしく狂えるようなものであった」と川端康成は書いています。6)

下鴨神社と糺の森(絵葉書)
賀茂御祖神社(下賀茂神社)の賀茂祭(葵祭)

 

・・・踊子,気狂病院の病室にて踊り狂ふ卵色に塗りしトタン張りに鉄格子あるセットなり。踊子,支那米封筒の如き服を纏へり。肩腰など痛ましく破れ,腕と脚は露わにして素足なり。元来この狂へる踊子の役,格別に意味はなけれど,脳病院における小使と狂人の群の描写が大部分を占むるこの映画に色彩を与へ,時々気分を花(ママ)やかならしむる点において,甚だ重要なる役目なり。
始め須田美子出演の由を知り大いに喜びて,特にこの役を書き加へしなり。しかるに,高田雅夫氏の舞台の都合にて,出演せず,と聞きしかば,僕の失望甚だし。踊子なしでは,このシナリオの撮影不可能にあらずやと思ひし程なり。されば,踊子として現れたる南栄子氏は一人の救いの神なり。

15日
葵祭の日なり。
同志社大学の小壮教授谷川徹三氏注3)楽屋合宿所に来る。水上譲太郎氏より紹介さる。一高を僕より二三年前に出た人。一高の話少々。映画の観賞家なり。午後西田幾太郎博士の講義あればとて帰る。・・・
聯盟諸君は楽屋に合宿せり。井上正夫氏一党の俳優,渡瀬淳子氏一党の俳優は別に借家せり。働く者総勢七十名。経費莫大。世間の注目あり。且つ第一回作品なれば,シナリオ作者の肩重き以上に痛し。もし失敗せば,大半は僕の責任となるべし。聯盟員が粉骨砕身せる京都の地は二度と踏み難かるべし。

16日
隣室の井上正夫氏と話す。共に近所の玉突へ行く井上氏百点,僕当たらず。
・・・愛宕山なるべし。西の山へ紅色に沈む夕日を見る。宿の東はただすの森なり。・・・
今日も夜間撮影なり。小使が狂へる妻を盗み出さんとする場面なり。深夜の狂人の姿二。半裸体にて寝てゐる踊子。秋本梅子氏の扮せる女狂人の高笑ひ。クロズアップの壁の影と共に笑ひて,恐ろしきばかり狂へる深夜の感じなり。子供見るべからざる映画なり。
・・・三時過ぎ終る。宿に帰って眠れず。青磁色の暁をみる。(「撮影日記」)7)

注3) 谷川徹三:詩人・谷川俊太郎の父で哲学者

♪実験映画として評価される『狂った一頁』は,松澤病院で行われていた作業療法の「封筒貼り」の場面を再現することによって,精神病院の実態の一部を,記録として残そうとする映画でもあったのではないか・・・衣笠貞之助監督の精神科医療に対する冷静な眼を感じさせる映画と感じました。

 

◇封切館:旧武蔵野館(東京・新宿)

♪映画「狂った一頁」が上映された新宿の旧武蔵野館のあった場所へ行ってみることにしました。

♪映画『狂った一頁』が封切上映されたのは,洋画封切館の武蔵野館(大正9年[1920]6月30日開館)(3階建 定員600名)8)9)で大正15年[1926]9月24日のことでした。

♪当時,日本一の映画劇場といわれ,洋画ファンのメッカであった武蔵野館での上映が決まるまでには,いろいろの人の好意があり,徳川夢声もそのひとりで,上映の際に舞台で解説をしたそうです。

♪武蔵野館は,新宿通りに面した新宿三越があった場所にありました。三越が閉鎖(2012年3月閉店)されたあとビックロ(ビックカメラ+ユニクロ)となっています。なお,三越新宿店南館(1997年7月閉館)があった場所は,かつて新宿新歌舞伎座があった場所で,現在はIDC大塚家具の新宿ショールームとなっています。

 旧武蔵野館があった場所に建つビックロ (平成26年9月22日 堀江幸司撮影
戦前の新宿通り(絵葉書)(平成26年10月11日 追加) (左に伊勢丹、右に新宿三越、高野フルーツパーラーの看板。三越の場所に旧武蔵野館がありました)

♪新宿武蔵野館が現在地に移転したのは,昭和3年(1928)のことで,その建物も昭和41年(1966)に取り壊され,現在のビル(武蔵野ビル 東京都新宿区新宿3-27-10)に建て替えられています。新宿武蔵野館は,ビルの3階に入っています。

新宿武蔵野館(平成26年9月22日 堀江幸司撮影)

♪最近は,紀伊国屋書店新宿本店に行かなくなったせいか,JR新宿駅の東口側には,ほとんど降りなくなりました。画材・額縁の専門店の世界堂に行くのにも,四谷三丁目まで続く地下道を通って行くために,新宿通りを歩くということが,ほとんどなくなりました。

オークヴィレッジの東京ショールームが紀伊国屋書店新宿本店7階から自由が丘に移転してからは,なおさら新宿東口は,縁遠くなっていたのですが,今回,『狂った一頁』が,また東口への道を繋げてくれました。

参考文献

1)『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)
2)「将軍狂笑」:『明治医事往来』(立川昭二著 新潮社 1986)pp.375-382.
3)「芦原将軍のこと」:『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)pp.261-277.
4)「墳墓発掘」:『明治医事往来』(立川昭二著 新潮社 1986)pp.368-378.
5)「精神病の治療」:『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)pp.109-133.
6) 「第二章 移転直後の医療」:『私説松沢病院史―1879-1980』:pp.455-488.
7)「『狂った一頁』撮影日記」(川端康成著):『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(上演パンフ)PP.43-44.
8)『映画の殿堂新宿武蔵野館』(開発社 2011)
9)『新宿盛り場地図』(東京新宿区立新宿歴史博物館 平成17年5月発行)

(平成26年9月23日 記す)(平成30年3月28日 追記)

45. 映画『狂った一頁』(1):原作(川端康成)と作業療法場面

♪メールで高崎俊夫氏(映画評論家)から映画の制作に「江戸東京医史学散歩」にアップしてあるニコライ堂の絵葉書を借用したいとの連絡をいただきました。

聖橋とニコライ堂

♪「ヒロインの少女が戦前へとタイムスリップし,晩年の北原白秋が入院している杏雲堂病院を見舞う場面」があって,北原白秋の心象風景として,杏雲堂病院から見えるニコライ堂が写った絵葉書を使用したいという内容でした。

杏雲堂医院表門

♪さらに日本橋,東京駅,銀座,浅草など,戦前の東京を記録した絵葉書も映画のアニメーション部分の制作に参考になりそうだということでした。

♪東京の戦前の絵葉書をGoogleマイマップ「絵葉書で見る隅田川十九橋とその周辺」のなかで公開していたことが幸いしたようです。クランクインも迫っているということで,JR駒込駅前のアルプス洋菓子店の2階の喫茶室でお会いして絵葉書の現物を見ていただくことにしました。・・・

♪雑談のなかで,「ドクトルジバコ」「ミクロの決死圏」「白い巨塔」など医療に触れた映画が好きだとお話すると川端康成が原作を書いた『狂った一頁』(新感覚派映画連盟/1926年度作品)という大正末期に制作された無声映画について教えてくださいました。「脳病院」を舞台にした1920年代のアヴァンギャルドの代表作品ということでした。

♪あとで知ったことなのですが,高崎俊夫氏は,映画評論家で映画関係の書籍の編集者でもあり,「高崎俊夫の映画アットランダム」(清流出版)という連載記事を執筆されている方なのでした。

♪川端康成は,震災後の大正13年(1924)に東京帝國大學國文學科を卒業し,映画『狂った一頁』の原作を書いた大正15年(1926)は,松林秀子(青森県八戸出身)との結婚生活に入った年にあたります1)。

♪川端康成は、学生時代から,浅草には銀座と違った「きたない美しさ」という美意識を持っていて,のちに『浅草紅團』『浅草の九官鳥』『浅草祭』など浅草ものの作品を残しています。浅草蔵前の親戚(母方の従兄)をたよって上京したのが,大正6年(1917)のことで,この年の9月に第一高等学校に入学しています。映画街として知られる浅草公園(六区)にもよく出かけたようです。震災で倒壊する前の凌雲閣(十二階)があったころです。そのころから機会があったら映画の原作を書きたいと思っていたのかもしれません。

浅草六区と十二階(浅草公園)

♪映画『狂った一頁』は,ソフト化される計画もあったようですが,DVDは見つからず,YOUTUBE上に公開されているものを観ることができました。

 

『狂った一頁』(新感覚派映画聯盟第一回作品)

監督者 衣笠貞之助

主演者 井上正夫

原作者 川端康成

配光  内田昌夫

撮影補助 円谷英一 注1)

注1)特殊撮影の第一人者となる円谷英一(本名)は,のちに英二と名乗る。

 

配 役

小使 井上正夫

妻  中川芳江

娘  飯島綾子

青年 根本 弘

医師 関 操

狂人A 高勢 実

狂人B 高松 恭助

狂人C 坪井 哲

踊り子 南 栄子

 

♪無声映画で字幕もなく,映像だけで映画の内容を理解するしかありません。物語は,狂って「脳病院」に入院中の妻のために小使となって病院に住み込み妻を看る夫と家族の苦悩を描いています。娘の結婚問題の中で,狂った妻のために夫としてなにをしたらよいのか,妻を強制的に病院から連れ出すことも考えます。しかし,妻は,暗闇の中,「脳病院」から出ることを拒絶します。夫は,医者をなぐり殺してでも妻を連れ出すことを試みるのですが,それらは,全て夢なのでした。夢から覚めた夫は,「脳病院」での小使としての日常の生活に戻ることになります。病院の廊下を掃除する場面で映画は終わります。

♪映像からだけでは物語の繋がりがよくわかりません。原作を探してみました。幸い古本屋から岩波ホールで上映された際に編集されたパンフレットを入手することができました。2)注2)

♪そのなかに詳しい原作が載っていました。それによると,原作には,制作当時より映像となっていない場面(●印)があることがわかりました。

([注2] 原作は『川端康成全集』3)に収載されている)

『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(プログラム)

♪夫が妻を虐待して,その結果,妻が脳病院に入院することになったという経緯は,原作をみてはじめて知ることができました。

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□原作にあって映像にない場面

  • 明るい洋室.時計,8時を打つ.娘,後ろ向きに立って雨合羽を着る.青年,テーブルで悪戯書きをしていたが,振り返って娘を見る.娘,露台へ出る窓を開いて,外を眺める.
  • 船員時代の生活の情景,二,三.当時,妻を虐待した小使い.妻を棄てて放浪した彼が,立ち寄った港や町.
  • 青年の明るい洋室.誰もいない.その部屋の美しい花束が,娘と青年との明日の結婚を物語っている.

□原作にはなく映像にある場面:脳病院内での作業療法(封筒貼り)の場面

♪脳病院の門,看護婦との院内散歩,病室内での医者の診察,院内花壇,作業場での封筒貼り,手鎖の女性患者,外国人医師,医務室と炊事場,鉄格子の病室など,脳病院内の情景が物語の背景として映し出されます。とくに患者が封筒貼りをする場面はリアルに表現されています。2カットありました。

(1) 脳病院内の封筒貼りの作業療法場面

(2) 脳病院内の封筒貼りの作業療法場面

(女性患者が手鎖されている次のカット)

♪それでは,封筒貼りの場面は,原作ではどのように書かれているのでしょうか。調べてみることにしました。しかし,原作には記述がありませんでした。原作とは関係なく映像が挿入されたようです。

♪衣笠貞之助は,はじめ映画の舞台をサーカス一座とする予定だったそうですが,それを「脳病院」に変更したのは,ある体験からでした。横光利一の家を訪ねたときに,駅頭で見た異様な光景が脳裡に焼き付いていたようです。次のように懐古しています4)。

「・・・わたしが駅頭で見かけたのは,ある高貴な方の一行であった。この高貴な方が精神病にかかられているということは,ひそひそ話で人はすでに耳にして知っていたことだったが,このご旅行中の一行にも,どこか常ではない,おかしなところがあった。・・・その印象が,わたしにいろんなことを考えさせたのである。・・・狂気の人が劇的な成因となってドラマの大きな要素となることを考えて,ともかく精神病院を見学してみようと,そう思いついたのであった。」(「『狂った一頁』の実験―新感覚派映画連盟時代」)4)

♪衣笠貞之助は,誰の紹介状も持たずに,当時,精神病院として有名であった松澤病院を取材するのですが,その時のことを,次のように書いています。4)5)

東京府立松澤病院(大正8年に巣鴨駕籠町より移転)

「行ったのは,そのころはまだ東京の郊外であった世田谷の松沢病院である。ここには,そのころ話題の「葦原将軍」という患者のいることで,その名が一般にもよく知らせていた。何の紹介ももたず,縁故もなく訪ねたわたしを,医長さんはくまなく案内して,いちいちていねいな説明をあたえてくださった。いまから思っても,ほんとにありがたいことであった。『狂った一頁』について,その方面の人からも,わりあいに正しく狂気の患者の生態を描いてある,めだったまちがいはないと言ってもらえたのは,そのおかげであったにちがいない。」(「『狂った一頁』の実験―新感覚派映画連盟時代」)4)

「その時,東京の松沢脳病院で取材した記憶は今でも鮮明だ。幾棟かに隔離された病棟には,施療あり,重患あり.水風呂に入っている者,一糸まとわぬ若い女,鉄板の個室の真中に突っ立って,虚ろな眼で空間を見つめている老女.自分の糞尿に,細かく引き裂いた浴衣をかけ,小切れで隅々まで拭き掃除している男.大の字に寝ている者.封筒をそ知らぬ顔で貼っている者,個室の中を,何か口走りながら歩き廻っている者など,気の毒で,二目とは見られなかった.当時,有名な誇大妄想狂,葦原将軍は,2,30人もいる大部屋の隣の3畳で4,5匹の子猫を飼っていた.・・・」(<シナリオ>狂った一頁■監督のことば)5)

 

参考文献

 

1)『川端康成』(新潮日本文学アルバム 16)(新潮社 1984)

2)「<シナリオ>狂った一頁 監督のことば」:『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(上演パンフ)(岩波ホール 高野悦子編 1975)pp.30-33.

3)「狂った一頁」:『川端康成全集第二巻』(全35巻版)(新潮社 1980)pp.387-418.

4)「『狂った一頁』の実験―新感覚派映画連盟時代」:『わが映画の青春 日本映画史の一側面』(衣笠貞之助著 中央公論社 1977)pp.57-82.

5)『狂った一頁』始末」(衣笠貞之助著):『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(上演パンフ)PP.8-9.

 

(平成26年9月23日 記す)(平成30年3月9日 追記)

 

 

 

 

44. 榊俶:ドイツ留学・相馬事件そして死

♪榊俶は、榊綽(ゆたか)(令輔)の長男として、安政4年(1875)8月28日、江戸下谷に生まれました。1)2)3)4)5)6) 父・榊綽は、開成所において蘭学の教師を務め、活版・銅版を初めてわが国に広めた人物です。

榊俶肖像
榊俶肖像画

 

♪榊俶は、幼名を善太郎といい、のち俶と改め、明治元年(1886)、両親について駿府に行き、静岡藩学に入りました。沼津に移転後、沼津小学校に入り、卒業後、杉田玄瑞、石橋好一等の門で英語を学んでいます。

♪明治5年(1872)、東京に出て、下谷和泉橋畔の三崎嘯の塾に入って濁逸語学を講習しました。同年10月に東京第一大学医学校医科予科生となって、明治7年(1874)に基本科に進み、明治13年(1880)3月18日、東京大学医学部(第一次)を卒業、5月31日、東京大学医学部雇となりました。明治14年(1881)7月12日、医学士の学位を受け、同月15日、東京大学準判任御用係に任じています。第一医院眼科担当医として眼科学を研究し、井上達也(神田駿河台眼科医)の依嘱によって診察したこともありました。

♪明治15年(1882)2月2日、ドイツに学び、ベルリン大学で精神病学を専攻、ウィルヒョウ(Rudolf Ludwig Karl Virchow, 1821-1902)の病理学教室では、神経系統の病理解剖を研究しています。当時のドイツへの留学生の中には、森林太郎(鴎外)、青山胤通、片山國嘉などがいました。

独逸留学記念(出典『青山胤通』鵜崎熊吉著)    

後列左から:佐藤三吉、青山胤通、榊俶、加藤照麿、三浦守治、中島一可、佐藤佐、小金井良精 

前列左から:宮本仲、伊東盛雄、樫村清徳、佐々木政吉、橋本綱常

 

♪森鴎外は『濁逸日記』の中で、榊俶について次のように書いています。

「・・・名を榊俶といふ。身の丈高く色白く、洋人に好かるる風采あり。故郷一婦あるをも顧みずして、巧に媚を少女に呈した。・・・」 (『濁逸日記』明治十八年九月二十七日)7)

♪榊俶は、明治19年(1886)10月20日、帰朝後、帝国大学医科大学にはじめて精神病学講座を設け、11月11日、その教授となり、東京府巣鴨病院(小石川区巣鴨駕籠町・現在の文京区本駒込6丁目)を監督することになります。

♪明治20年(1887)4月19日には、相馬疑獄事件において、相馬誠胤(ともたね)子爵の精神鑑定を主任医として行い、ベルツ(Erwin von Baelz, 1849-1913)(帝国大学医科大学教師)および佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、この鑑定に同意することになります。8)32歳のときのことでした。

・・・・・・・・・・・

♪榊俶は、明治29年(1896)夏頃より咽頭の病気にかかり、金杉英五郎(東京慈恵会医科大学<旧制>初代学長、耳鼻咽喉科の草分け)らの治療を受けますが回復せず、第一医院へ入院、明治30年(1897)2月6日午後1時半、41歳の若さで亡くなることになります。9)

♪死の前日の午前9時、三浦守治病理学教授が病床を見舞いました。このとき、榊俶は「我病屌にして多少医学に資することを得ば本望なり。吾が死したる後、願くは大学々生諸君の眼前にて、遠慮なく思ふ存分に解剖して呉よ」と遺言したといいます。10) 剖検は、三浦教授の執刀によって6日午後2時45分着手され、4時45分に終わりました。病理解剖診断は食道癌、顕微鏡診断は偏平上皮癌でした。それにしても若く、惜しまれる死でした。

♪病院・大学業務の多忙、そして相馬事件の裁判では、自身の家庭問題(親に毒を盛った疑義)11) も持ち出され、心労も重なっていたのではないかと思われます。

榊俶の剖検をした三浦守治教授

♪葬儀は9日に行われました。12) 葬列は1千人を超え、午後1時に駒込西片町(現在の文京区西片2丁目)の邸宅を出発、駒込通り(現在の本郷通り)に出て追分を左折し、駒込曙町(現在の文京区本駒込2丁目)より東京府巣鴨病院前を通り、染井墓地に向かいます。濱田玄達(医科大学長)が弔辞を読み、呉秀三(精神病教室総代)、田口和美(東京医学会総代)が、これに続きましした。13)14)15) 家族、親族、会葬者の焼香のあと墓地に葬られました。大きな染井吉野桜の木々が傍に立つ場所でした。

関連連載:第38回 染井霊園 榊俶の墓

♪翌明治31年(1898)、遺像の制作が計画され、12月5日午後3時より、その建像式が医科大学精神病学教室において挙行されています。発起人の片山國嘉(有志者代表)の式辞に続き、菊池大麓(東京帝国大学総長・理学博士)の告文朗読があり、その後、遺族を代表して榊保三郎の謝辞を述べ、小金井良精(よしきよ)の決算報告をしたとのことです。16)

♪榊俶のあと、精神病学教室の教授となったのが、呉秀三で、三代目が三宅鑛一(三宅秀の長男)17)となります。榊俶が若くして亡くならなければ、東京大学精神科教室の歴史も変わっていたかもしれません。

 

参考文献

1)故医科大学教授医学博士榊俶先生之傳(呉秀三謹撰).東京医学会雑誌 1897;11(5):220-30.

2)医学博士榊俶君略傳.東京医事新誌 1897;985:326-8.

3)金子嗣郎.日本の精神医学100年を築いた人々① 第1回 榊俶 臨床精神医学1978;7(11):1297-304.

4)岡田靖雄.榊俶:精神病学の礎石をおいた人.松下正明.続・精神医学を築いた人びと(上巻).東京:ワールドプランニング,1994.pp.147-59.

5)故医学博士榊俶先生(肖像).医事新聞 1909;791:口絵.

6)内村祐之.榊俶先生と東京帝国大学医学部精神医学教室の創設.精神神経学雑誌1940 ; 44.

7)濁逸日記.「鴎外全集」第35巻収載.東京:岩波書店,1975.pp.111-2.

8)故相馬誠胤子の病症を論す.国家医学 1892;1:3−30.

9)精神医学の泰斗榊博士矣.東京医事新誌 1897;984:283-4.

10)三浦守治.故医学博士榊俶君之病屌.東京医学雑誌 1897;11(5):187-9.

11)『新聞集成明治編年史』第9巻 p.41 (相馬事件と榊博士:親に毒を盛った嫌疑で疑更に深し[明治27年3月16日 日日]

12)榊博士の葬儀.東京医事新誌.1897;984:284.

13)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;984:284-5.

14)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;985:330-5.

15)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;986:480-1.

16)故医学博士榊俶氏建像式.医談 1899;55:37.

17)福田雅代.桔梗:三宅秀とその周辺.神奈川:編者,1985.

(平成30年2月24日 追記)

43. 相馬事件:相馬誠胤の死因と墳墓発掘

♪相馬誠胤(そうま・ともたね)(1852-1892)(陸奥国中村藩六万石第13代藩主)は、明治25年(1892)2月22日の朝6時、「心臓麻痺」によって死去しました。

♪榊俶の病床日誌(手記)と相馬家が書いた[日誌]には、次のように記録(抜粋)されています。

✉✉✉

明治25年(1892)2月19日

[相馬家日誌]

大雪 午前6時半御起床 時々放歌あり 再三度看護室の處まで御出ありたり

8時頃に至り甘酒を飲して呉れよとて看護室に御出2杯斗召し上り

舌運動も充分ならさる如ら尿利増加して1時間に6、7回ありたり

2月20日

(榊手記)

診する時午後5時 患者安静に仰臥し精神少々興奮 頭部に充血の徴あり 眼光鋭くして言語活発なり。

訴えて曰く一週間前より咽喉大いに渇し飲を引くこと一回に一桝余尿量も亦甚だしく増加し一時間に6回の尿利をみる

四肢「チアイーゼ」を呈し皮膚乾燥、体温36度5分 脉博弱小にして108

又弱視を訴ふるに由り眼底を検す 静脈性鬱血あり 瞳孔は中等大にして反応なし 膝蓋腱反射機亢進(前日は消失せり)尿は透明淡黄色(蛋白・糖分)

[相馬家日誌]

午前7時30分御起床 午前8時中井[常次郎]氏来診 午後4時榊医学博士・中井医士来診

2月21日

(榊手記)

午後7時「ベルツ」氏と共に診 独語 言語応答不明 脉博百至心動き極めて微弱且不正[整] 体温36度2分 四肢の「チアイノーゼ」 口内乾燥舌苔あり 瞳孔は昨日に比して少し狭小なり 諸極めて不良

[相馬家日誌]

午前9時片山・中井両氏来診 中井医に向ひ便秘を訴へ「ひまし油」を請求せられたり 中井氏曰く御食事少料なれば随て便通なきは当然

2月22日

(榊・手記)

今朝6時心臓麻痺に由て逝く 今朝最後に得たる尿を検するに渾濁不透明にして亜児加里性の反応を呈し葡萄糖を含む但し蛋白質なし

[死の状態]

今朝4時 脉125 意識朦朧 時々反側し四肢の肉振 右側顔面神経の不全麻痺あり 遂に眠るが如くにして逝く

[相馬家日誌]

龍脳油を注射し稍々復蘇するも午前6時遂に終息す

✉✉✉

♪相馬誠胤が死去する前に診察した医師には次の人々がいました。

中井常次郎(東京府癲狂院長)
榊 俶(醫科大學教授医學博士)
ドクトル・ベルツ(醫科大學教師)
片山國嘉(醫科大學教授医學博士)

 

♪検視は山根正次(警察醫長)によっておこなわれました。山根は、明治15年(1882)医科大学を卒業して、明治20年(1887)司法省の命によりドイツ、フランス、オーストラリア、イタリア、イギリスの各国をまわり法医学を修めました。

♪『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)に、「明治二十一年於伯林醫學関係者」と題する写真が掲載されていますが、このなかに山根正次のほか、江口襄、森林太郎、隈川宗雄、片山國嘉の顔がみえます。前列左から二人目が山根正次、中央が片山國嘉 右から二人目が隈川宗雄、二列目左端が森林太郎、右端が江口襄です。相馬事件に関わった多くの医学者の顔があります。

 

♪主治医の中井常次郎が榊俶と連名で麹町区長宛に出された死亡届は、以下のようなものでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

死 亡 届

 

麹町區内幸町一丁目六番地 華族

相 馬 誠 胤 四十年

 

一 時発性躁狂兼尿崩及糖尿病

一 経過 十五年

一 心臓麻痺に由り当月廿二日午前六時死す

 

右拙者等施治患者に候處頭書之通死去候に付此段及御届候也

明治廿五年二月

 

芝區櫻川町九番地

主任醫 中井常次郎

本郷區西片町十番地

醫學博士 榊 俶

 

麹町區長宛

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

♪この死亡届に疑義を持つものがありました。錦織剛清(にしごり・たけきよ)(旧中村藩士)です。誠胤の死が毒殺ではないかとして、順胤(よりたね)(異母弟)と家令志賀直道(志賀直哉の祖父)らを明治26年(1893)7月17日に告発します。

♪誠胤が死亡したときに臨検が行われ、その際に口中より流出した血液が警視庁に保管されており、その血液が証拠として分析されることになります。その分析に、相馬家では、当時、帝国大学医科大学で病理化学を担当していた隈川宗雄(くまかわ・むねお 福島藩出身)を立ち会わせたいと予審判事に申請するのですが、認められることはありませんでした。

♪9月8日朝7時、青山墓地に葬られていた誠胤の遺骸が発掘され、江口襄(えぐち・のぼる)が、胃部、心臓部などの局部を解剖し、毒殺の真偽を調べるための標本があつめられることになります。

♪解剖した江口襄は、明治24年(1891)6月に陸軍軍医学校において裁判医学(精神科)を講義していました。明治20年(1887)10月8日には、陸軍省より裁判医学および精神医学研究のためドイツに留学しています。東京医学校では森鴎外と同期で陸軍一等軍医正・警視廰御用掛(警察医長)を務めました。

 

陸軍戸山学校(絵葉書)

 

♪次回に当時の新聞から墳墓発掘の様子をみてみることにします。

(平成14年10月5日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

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♪明治26年(1893)9月14日付けの『郵便報知』は、青山墓地における相馬誠胤の墓の発掘の模様を以下のように報じています。

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発掘着手

準備整いて、午前七時に発掘に着手せり。午後四時に至り全く発掘を終え、棺蓋を開く。憲兵、巡査を遠ぞけ、総立ち会いにて棺の蓋を開けば、故誠胤氏は宛然(えんぜん)眠れるがごとく、ただ顔色蒼然たるを見るのみなりしという。

 

局部解剖

江口軍医及び田原技師は徐々に刀を取り、遺骸の要部なる胃部、心臓部等の局部を解剖し、分析に必要なる部分を取り、これを茶筒大の硝子瓶と長さ二尺五寸、高さ一尺位の厳重なる箱とにおさめ、その他棺中に流動したる濃液のごときものをもことごとく瓶中におさめ、しかして後、遺骸は元のごとく棺中に安臥せしめ、仮に蓋を覆い、立会人に引き渡し、墓地周囲の警戒を解きて、掛り官等は一同青山を引きあげたり。これが午後八時十分頃なりし。解剖に着手したるは四時三十分にして、これを了したるは午後七時なり。

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♪当時の青山墓地周辺(青山大膳亮:美濃郡上藩4万8千石下屋敷跡)は、田畑のほか樹木も多く、鬱蒼としていました。そんな中で、夕暮れ時から日が落ちてまでも解剖が続けられた模様です。

♪棺から遺骸を引きずり出し、異臭を放つ胃・心臓を摘出した江口の心境はどんなものだったのでしょうか。また、真相解明の裁判のためとはいえ、殿様の遺骸を掘り起こされた親族・家臣たちの思いを考えると胸がつまります。法医学の厳しさ、難しさを感じます。

(平成14年10月 6日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

参考文献

1)『相馬実伝 晴天白日

2)『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)(石黒忠悳著 昭和11年)