79. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1)

 
♪戦後,昭和20年代の『日本醫事新報』誌に連載された「東都掃苔記」の一覧表を作成するために,バックナンバーを取り寄せて調査していたところ,同時期に「新東京・醫學きまぐれ散歩」という連載記事があることがわかりました。一冊一冊,雑誌にあたっていくなかで気がつきました。

♪「新東京・醫學きまぐれ散歩」の連載は,『日本醫事新報』誌の昭和26年10月20日号(第1434号)からはじまります。戦争で焼野原となった東京の医科大学(病院)の復興の様子や復興住宅の状況を,写真を交えて執筆しています。貴重な連載記事と思われ,のちのちのために,これらも一覧表に纏めておく必要を感じました。

♪筆者のS.M.氏は,戦後,3年間,病[結核]に倒れるのですが,ストレプトマイシン(抗生物質)のお蔭で病が癒え,リハビリを兼ねて,自宅のあった東大赤門前から,東大構内の散策をはじめます。その散歩の記録が,この「新東京・醫學きまぐれ散歩」のエッセイとなったそうです。

♪本郷通り界隈など,戦後の復興しつつある東京の街並みのなかを歩きながら,自分の体も復調してきていることを実感するS.M.氏。生きることの喜びを,散歩のなかで出会う旧友との会話の中に感じているようです。ざっくばらんな語り口です。ちょっと,毒舌家でもあったようです。交際範囲は広く,木下正中(せいちゅう),木下正一(せいいつ),下瀬謙太郎の自宅も訪問しています。

♪S.M.氏は,連載の第1回となる「東大そぞろある記」の「前口上」(下記参照)のなかで,本郷村の自宅周辺の様子を書いています。その辺り一面は,麦畑と野菜畑が広がり,庭には,菜の花が咲き乱れて,裏には墓地がありました。いまも赤門前の本郷通りをちょっと入った所に,樋口一葉ゆかりの法真寺があります。S.M.氏の住居は,この辺りであったのかもしれません。

♪これらの文献をたよりに,60年後の東京を歩き,「江戸東京」のなかに,現在の様子を記録として残せればと思います。

(平成23年6月9日 記す)(令和元年[2019]10月20日 追記)

新東京・醫學きまぐれ散歩(1)

東大そぞろある記(1)

 前 口 上

 三年越しの病気で寝ているうちに,だんだん復興が進んで,起きて見ると新東京なるものが出来上っていた。思い出すのも不愉快だが,戦争中に赤門前の旧宅を間引疎開というやつに強奪されてから,牛込で焼かれ,静岡へ逃げて二十日目にまたも焼かれて関西の郷里へ落ちて行き,終戦直後に帰って来たものの,まだ東京の焼野原はキナ臭くて,貸間も見つからないので,探しに探した揚句,千葉県佐倉の医史に名高い順天堂の,たぶんその昔,塾生たちが合宿していたものだろうと思われる黒光りの門部屋に巣くっていたが,旧居に十二坪かっきりの制限住宅ができたので帰って来て,ホッとした途端に気がゆるんだのか,倒れこんだのである。

 一時はいよいよおさらばかと思っていたが,アメリカから取り寄したスト・マイが利いたのか段々よくなって,病床から濡縁越しに早春の庭を眺めるようにもなった。そうなると,庭先に一本,梅もほしくなる。というのは,辺り一面が麦畑野菜畑で,裏は墓地という本郷村の一軒家なので,僕の庭にも菜の花が咲いていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

 それにてつれて,三年越しに会わない,あちらこちらの友人知己が,なつかしく思い浮ぶ。出しぬけに訪ねて行ったら,どんなに驚くだろう。何しろ「曲りなりの復興」が,いきなり目の前に現われるわけだから。そんな童話じみた思いで一杯になって,家の中にあぐらをかいて澄ましてなどいられない気持になる。そこでぶらぶら,せめて近所あるきでもして見たくなった。遠出すると主治医に叱られるおそれがあるから,足馴しだと理屈をつけて,先ず東大からぶらつく事にした。何の目的もあるわけではない。だから何の予定もない。気が向いたら,のっそり研究室や教授室へはいって行くかもしれない。また先生方の家がどうなっているか,見に行きたくなったら行くつもりだ。どうせ消える好奇心ではあるけれど,「復興」の目に映る復興の新東京は,興味があるに違いない。

(S.M.)

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連載記事「新東京・醫學きまぐれ散歩」一覧表(堀江幸司作成)

(画像をクリックするとEvernote内に保存してある大きな表にリンクします)

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(1) 日本医事新報(1434)(昭和26年10月20日)

(1) 東大そぞろある記(1)

(2) 日本医事新報(1435)(昭和26年10月27日)

東大そぞろある記(2)

(3) 日本医事新報(1436)(昭和26年11月3日)

東大そぞろある記(3)

(4) 日本医事新報(1437)(昭和26年11月10日)

東大初期の思い出話

(5) 日本医事新報(1438)(昭和26年11月17日)

本郷元町・弓町・真砂町

(6) 日本医事新報(1439)(昭和26年11月24日)

済生学舎の跡を訪ねる(1)

(7) 日本医事新報(1440)(昭和26年12月1日)

済生学舎の跡を訪ねる(2)


(8) 日本医事新報(1441)(昭和26年12月8日)

順天堂醫院と同大學

(9) 日本医事新報(1442)(昭和26年12月15日)

東京醫科歯科大學

(10) 日本医事新報(1443)(昭和26年12月22日)

本郷南部とびある記

(1444号には、連載なし)

(11) 日本医事新報(1445)(昭和27年1月5日)

(令和元年[2019]10月20日 記す)

78. 太田圓三君像(太田圓三記念碑):相生橋と神田橋

記念碑の場所:相生橋中島公園(昭和6年)から神田橋公園に移転(昭和30年)

太田圓三記念碑(神田橋公園内)(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)

♪隅田川の東京湾への出口に位置する相生橋は,詩人・木下杢太郎(本名・太田正雄・東京大学医学部皮膚科学教授)の兄にあたる太田圓三(帝都復興院土木局長)が,関東大震災後の復興橋梁のひとつとして設計した橋です。永代橋の下流(隅田川の派川)に架かる橋です。

♪昭和6年(1931),相生橋が完成したのを機会に,小橋(越中島との間)と大橋(月島との間)の中継地となった中之島に太田圓三を顕彰する彫像が建立されました。復興橋梁に命をかけた太田圓三の没後,5年目のことでした。

♪終戦後,彫像は,災禍で損傷した部分を修復の上,昭和30年(1955)春,神田橋公園内に移設されています。

♪相生橋が建設された当時の小橋と大橋とが,どのような位置関係で繋がっていたのか,気になっていました。相生橋の側面や橋上を走る路面電車と中之島の一部をとらえた写真(絵葉書)はあるのですが,全景がわかりませんでした。

写真: 相生橋(絵葉書)(東京大十六橋)(堀江幸司所蔵)

♪絵葉書古書店のリストのなかに相生橋を上空から撮影した絵葉書「機上ヨリ見タル月島相生橋及商船學校附近」を見つけ,幸い入手することができました。

♪隅田川のなかの中之島,大橋と小橋,そして商船學校(現在の東京海洋大学越中島キャンパス)も写っています。帆船(画面下・中央)も見えます。

写真:
「機上ヨリ見タル月島相生橋及商船學校附近」(絵葉書)

♪梅が咲き,雪柳(ユキヤナギ),杏の花が咲きはじめています。まだ,朝は冷え込みますが,それでも春が,確かに,訪れてきています。染井吉野桜も,そろそろ開花しそうな気配を感じさせています。越中島キャンパス内には,いろいろな史跡が残っているようです。

♪中の島公園から,いまの永代橋は,どのように見えるのでしょうか。太田正雄(木下杢太郎)が兄を想う気持ちは,相生橋・中之島から見た江戸情緒の残る永代橋の風景のなかにあったのかもしれません。

(平成25年3月12日 追記)

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♪太田圓三の記念碑が,神田橋畔の神田橋公園のなかにあることを,伊東市のホームページに記載されている「木下杢太郎の兄・太田圓三」のなかの写真で知りました。

♪その写真は,記念碑を遠景で捉えていて,太田圓三の彫像や碑文がよくわかりません。そこで,この太田圓三の記念碑を確認しに行くことにしました。

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♪平成23年(2011)1月16日(日),今日は,大学入試センター試験の二日目。三重,新潟,鳥取などでは雪ため交通機関が混乱して,試験開始時間が繰り下げられるなどの対策がとられたと新聞・テレビは報じていました。東京は,朝から曇り空で,寒さが身に沁みる一日のはじまりとなりました。

♪寒さの中,愛車のカローラ・フィルダーを走らせ本郷通りをまっすぐ神田橋に向かいました。駒込方面から東京大学本郷キャンパスの前を通って,「本郷丁三丁目」交差点を直進,蔵前橋通りの起点となる「サッカーミュージアム入口」交差点を過ぎて「湯島聖堂前」交差点を右折すると,聖橋にでます。聖橋は,神田川の深い堀割をわたって本郷と神田を連絡する橋です。震災後に架橋された復興橋梁のひとつです。

♪聖橋(復興局土木部橋梁課設計)(大正13年 [1924] 9月着手)1) 2)は,復興局橋梁課長補佐を務めた成瀬勝武(のち日大教授)も構造設計に関係したそうですが,隅田川に架かる鉄橋とは,趣を異にします。橋脚などの橋のデザインは,近隣の湯島聖堂やニコライ堂の建物とも調和しています。

♪神田川の断崖から現れた地下鉄が地上を走り,JR総武線・中央本線とも交差するなど,聖橋,御茶ノ水橋界隈は,石橋と鉄橋が美しい景観をつくり出しています。江戸から東京への移り変わりを,空間のなかに感じられる不思議な場所です。聖橋は,そのなかの中心的な存在となっています。聖橋からの眺めは,鉄道のジオラマを見るようでもあります。

御茶ノ水・両国間高架線(昭和7年7月1日開通)

♪右手にニコライ堂を見ながら駿河台の坂を下ると低地の小川町,神田美土代町にでます。以前,神田美土代町には,東京基督教青年会館(東京YMCA)があり,明治30年(1897)には,そのなかに神田衛生会を中心にして「日本医学図書館」3)が置かれました。コンドルによって設計された東京基督教青年会館の建物も,残念ながら,いまでは見ることができません。

東京基督教青年会館(コンドル設計)
東京基督教青年会館(YMCA)

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♪前方に「神田橋」の交差点が見えてきました。本郷通りから逸れて,裏道に入り,路上バーキングを探しました。山川書店の前に駐車できました。若い女性3人が,iPadで地図を表示しながら,歩いています。「江戸東京」もiPadに対応できるだろうか,そんなことを考えながら車外にでました。(現在(2019)、「改訂版・江戸東京」ではiPadに対応しています)

♪カメラを担いで,風が冷たく感じられる日陰を,ひとり,神田橋の畔に向かいました。太田圓三の記念碑は,本郷通りの交差点の方を向いて,神田橋の親柱(北詰東側)の脇に建っていました。

神田橋公園(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)
神田橋公園(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)

♪「かんだばし」の橋名鈑がつけられた灯籠風の親柱は,太田圓三らが復興橋梁4)のために設計したデザインを模しているようです。

♪神田橋は,外濠(御堀)に架かる江戸時代のはじめからある橋で,「大炊殿橋」「神田口橋」とも呼ばれ,大手町側から神田の町へ通じる重要な橋でした。

♪震災後,神田橋は,復興局によって架け替えられることになります。大正13年(1924)8月10日に起工,本小松石を使用した本格的な石橋でした。大正14年(1925)11月15日に開通式が行われています。この神田橋については,復興局技師時代の成瀬勝武が「神田橋改築工事」5)と題して報告しています。

♪土木図書館では「震災復興橋梁工事写真」として復興橋梁の工事の様子を写した写真を約1000点デジタル化して公開しています。隅田川六大橋は,もちろんのこと,聖橋,神田橋の工事過程も写真で詳しく記録に残しています。神田橋や聖橋の工事写真には,神田橋上を走る路面電車や神田川の土手の様子なども写り込んでいて,大変,貴重な史料となっています。

♪日本橋の榛原(はいばら)に向かうときなどは,いつも,この神田橋を渡っていたのですが,この太田圓三の記念碑には,気がつきませんでした。

♪太田圓三の彫像に対面して感激しました。隅田川六大橋に命をかけた太田圓三の顔がそこには,ありました。

太田圓三君像(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)

★ 隅田川六大橋(創設年)

1.永代橋:元禄11年(1698)[大正15年(1926)復興]

2.相生橋:明治36年(1903)[大正15年(1926)復興]

3.駒形橋:昭和2年(1927)

4.蔵前橋:昭和2年(1927)

5.言問橋:昭和3年(1928)

6.清洲橋:昭和3年(1928)

♪彫像には,太田圓三の姿と,その背景に淸洲橋の一部が描かれていました。太田圓三のやさしい眼と,きりっとした口元が印象的です。家族を想った顔です。彫像の下には,「太田圓三君像」の文字が刻まれていました。

♪「太田圓三君像」は,昭和6年(1931)に相生橋の中島公園内に建てられていたものを,戦後,昭和30年(1955)に修理して移したものでした。相生橋は,隅田川六大橋のなかで,一番目に竣工した橋で,太田圓三が永代橋附近からの眺めと将来の架け替えの簡便さを考えて設計した橋でもありました4)

相生橋は突桁式の鈑桁を連続して架設するものであります。相生橋は御承知の通り海岸近くのことでありますから,一部錆びた場合とか将来改築する場合に便利の様に,又永代橋附近から見て廣い天空の眺を邪魔しない様にと云ふ考へから,此の様な構造を撰んだ次第であります。

♪太田圓三は,隅田川の橋の設計にあたっては,橋のデザインのなかに風景も取り入れていたことがわかります。さらに,鉄橋は,塩害によって,万全なものでもないことを知っての設計だったことがわかります。太田圓三は,隅田川の風景そのものを愛していたのでしょう。その想いは,永代橋の畔で,「パンの会」に参加していた弟の木下杢太郎(太田正雄)にも通じるものでした。

♪当時の,相生橋6) 7)は,中之島を挟んで,越中島との間に架かる小橋と月島との間に架かる大橋との2つの橋からなっていました。復興橋梁の完成後,その中之島に,太田圓三の功績を顕彰する彫像が置かれることになります。昭和6年(1931),太田圓三の死8) 9) 10)から5年目のことでした。

♪相生橋中島公園で4月21日に太田圓三の記念建造物の序幕式が挙行されたときの写真が,雑誌「土木建築工事画報」(第7巻6号)(1931)に載っています8)。ちょうど,80年前のこととなります。そこには,未亡人と嗣子・陽三の姿がありました。ここでも,記録を,写真で残す大切さが伝わってきます。

♪相生橋中島公園内の記念碑の周りには,休憩所もできました。遺族や友人たちは,相生橋から永代橋を眺めて,その橋上に自分たちをみている太田圓三の姿を感じていたのかも知れません。

♪「太田圓三君像」の彫像の下に相生橋畔から,この神田橋畔に記念碑が移された経緯を書いた碑文がありました。隅田川六大橋(復興橋梁)の完成を見ずに亡くなってしまった太田圓三の想いを後世に伝えようとする方々の気持ちが伝わってきます。

大正十二年関東大震災の直後,氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ,復興事業の根幹で然も極めて難事業であった區画整理,および,これに基く土木工事の計画遂行に直面して,献身的努力をなすこと二年余,事業の基礎漸くなった大正十五年春,心身疲勞の極 事業の犠牲として,惜しくもその生命を絶ったのであります。

昭和六年復興事業の完成に當り,先輩知友相寄り,氏の功績を偲び記念としてこの彫像を,深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが,太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので,昭和三十年春それを修復の上,この地に移設したのであります。

♪「太田圓三君像」の彫像と神田橋の橋名鈑などを撮影して,神田橋公園をでました。寒桜が咲いているのに気がつきました。太田圓三に会いに来て,一本の寒桜をみる。本格的な春の訪れが待たれる桜との出会いでした。

♪神田橋の方を振り返ると,日本橋の方向の空は高速道路で狭くなっています。太田圓三の記念碑の周りは,高層ビルや高速道路ばかりで,夕陽もすぐにビルの陰に隠れてしまいました。

♪東京の下町を愛した太田圓三。風が渡たり,川面に陽が輝く,眺望のよい隅田川沿いを,桜やすかんぽが咲く頃,歩いてみたいと思いながら,神田橋の交差点を渡って,帰路につきました。

むかしの仲間

むかしの仲間も遠く去ればまた日ごろ顔あはせねば知らぬ昔と変りなきはかなさよ春になれば草の雨三月桜四月すかんぽの花のくれなゐまた五月には杜若花とりどり人ちりぢりの眺め窗の外の入日雲

(木下杢太郎)

参 考 文 献

1) 聖橋工事(二圖).土木建築工事画報  第1巻 第2号 p.22.(1925)

2) 聖橋設計側面図(一圖).土木建築工事画報  第1巻 第2号 p.23.(1925)

3) 「日本医学図書館」-神田駿河台周辺と明治35年以降の「日本医学図書館」-.医学図書館 32(3):290-7, 1985.

4) 「六. 橋梁」 :太田圓三著:『帝都復興事業に就て』(復興局土木部 大正13年)

5) 成瀬勝武:復興型橋梁・神田橋改築工事.土木建築工事画報  第2巻 第1号 p.24-25.(1926)

6) 釘宮 盤:三種の工法を用ひたる相生橋橋脚工事.土木建築工事画報  第2巻 第2号 p.30-39.(1926)

7) 復興局:相生橋締切工事(二圖).土木建築工事画報  第1巻 第1号 p.10-11.(1925)

8) 太田円三氏記念像.土木建築工事画報 第7巻 第6号 p46.(1931)

9) 故太田円三氏を悼む.土木建築工事画報  第2巻 第5号 p.2-3.(1926)

10) 太田円三氏を想う.土木建築工事画報  第2巻 第5号 p.4.(1926)

参考ホームページ:土木学会附属土木図書館・デジタルアーカイブス・「土木建築工事画報

(平成23年1月21日 記す

77. 木下杢太郎・兄太田圓三と永代橋・両國橋(2)

 
♪木下杢太郎は,永代橋畔の「永代亭」や両國橋畔の西洋料理屋で,北原白秋,谷崎潤一郎,石川啄木,高村光太郎などと「パンの會」の催しを持ちました。「パン」(Pan)とは,ギリシャ神話の「アルカディアの森や山に住む牧羊や羊飼いたちの守護神」(歌舞音曲に秀でた神)のことです。

  『パンの會の回想』 (木下杢太郎)[青空文庫]

♪このパン(Pan)は「養育するもの,牧するもの」という意味を持ち,食べるパン(Bread)と同義で,パニック(Panic)という言葉の起源でもあったそうです。

♪両國橋畔で行われた「パンの會」は,社会主義者の集会と間違われたことがありました。明治42年(1909)5月25日付けの『讀賣新聞』は次のように報じています。

警視庁ではパンの會と云うのに,希臘(ギリシャ)時代からの故事があろうなどと,そんな風流な処には気が着かぬから,パンの會と云えばこれやてっきり社会主義者の会合に違いないと,飛んだ処へ早合点をまわして,開会当日の朝から会場の近辺へ角袖巡査を派すこと約五十名,万一不穏な弁論や形勢があればと,用意周到に固めていた。さて会員等はそんなこととは夢にも知らず,上田敏氏の仏国文学論などいろいろ芸術談に花の咲いた後,宴が崩れて来ると鯨飲乱舞,随分騒ぎ立てていい頃に散会した。

♪『食後の歌』(明治四十三年)のなかで,両國橋の錦絵的な江戸情調を「両國」と題して,木下杢太郎は,次ぎのように詠んでいます。

両 國

   両國の橋の下へかかりや
   大船は檣を倒すよ,
   やあれそれ船頭が懸聲をするよ。
   五月五日のしつとりと
   肌に冷き河の風,
   四ツ目から来る早船の緩かな艪拍子や,
   牡丹を染めた袢纏の蝶蝶が波にもまるる。

   灘の美酒,菊正宗,
   薄玻璃の杯へなつかしい香を盛つて
   西洋料理舗の二階から
   ぼんやりとした入日空
   夢の國技館の圓屋根こえて
   遠く飛ぶ鳥の,夕鳥の影を見れば
   なぜか心のみだるる。

(注1) 両國橋は,米沢町(現在の中央区東日本橋2丁目あたり)と本所元町(現在の墨田区両国1丁目あたり)を結ぶ橋で,本所の地が,もと下総國に属しており,武蔵と下総の両國を結ぶ橋という意味で,両國橋と名付けられたといわれています。橋の東西は広小路(火除地・ひよけち)となり,盛り場として栄えました。木下杢太郎が「パンの會」で北原白秋らと通った時代の両國界隈は,いまとは違って,江戸情緒が幾分かは,味わえたのかもしれません。

(注2) 檣:(帆柱・マスト・ほばしら)

(注3) 四ツ目:本所のさきの地名で,有名な本所四ツ目芍薬(牡丹園)があり,両國橋のたもとから牡丹園行きの早船が出て,船頭が蝶々と牡丹を染め抜いた半纏を着ていたそうです。四ツ目之橋は,堅川たてかわに架かり北は本所茅場町三丁目(現在の墨田区江東橋3丁目)と南は深川本村町(現在の江東区毛利1・2丁目)を連絡する橋でした。牡丹園は,現在の江東区毛利1丁目21番地あたりにあったようですが,竪川沿いには首都高速7号小松川線が走り,永井荷風が『牡丹の客』のなかで書いた下町の水辺の風景は残っていません。

(注4) 国技館:圓屋根(まるやね)(ドウム)ができたのは明治42年(1909)6月2日のことでした。午後2時から挙行された開館式では,後藤新平が治療したこともある板垣退助が式辞を述べています。

両國橋の景観 対岸に國技館を観る(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪江戸幕府は,大川に五つの橋を架けました。上流から千住大橋(文永3年[1594]),吾妻橋(安永3年[1774],両國橋(万治2年[1659],新大橋(元禄6年[1693]),永代橋(元禄11年[1698])の順になります。

隅田川の橋:

♪一番古く架橋されたのが,千住大橋で,両國橋が2番目,永代橋が3番目となります。一番下流に位置する勝鬨かちどき橋ばしが架けられたのは,昭和15年(1940)のことで,創設当時のままの形を残しています。

♪千住大橋は,徳川家康が伊奈いな忠次ただつぐ(普請奉行・代官頭)に命じて,江戸開府前の豊臣政権下に架けさせた橋で,その費用は,伊達政宗が用立てたといわれています。皮肉なことに,徳川最後の将軍,徳川慶喜は,この千住大橋を渡って,水戸の地に帰ることになります。

♪両國橋は,明暦の大火(明暦3年[1657])の2年後の万治2年(1659)に防災と都市計画のもとに架けられましたが,明治30年(1897)の花火のときには,見物衆が橋上に殺到して欄干が崩れ落ちました。

♪江戸の面影を残す大川端,浜町河岸は,江戸を懐かしみ,明治の新時代の息吹を感じさせる場所でもありました。「両國」の詩のなかに,菊正宗と西洋料理舗レストラントが同居しています。

♪「パンの會」のメンバーは,大川の夕景を,灘の美酒を酌み交わしながら,椅子に腰をかけて三味線をひく女たちと,楽しんだのかもしれません。粋ななかに異国情緒を感じさせます。

♪隅田川界隈は,医史跡のほかに文学散歩を楽しむような場所も多く,春の桜の花や川風を肌で感じ,永井荷風や芥川龍之介の足跡を辿ると,あらたな「江戸東京」に巡り合えるかもしれません。

(平成15年11月9日 記)(平成24年1月20日 リンク・絵葉書追加)(令和元年10月2日 追記)

76. 木下杢太郎・兄太田圓三と永代橋・両国橋(1)

   
♪木下杢太郎(本名・太田正雄)の兄太田圓三は,東京大學土木工學科卒業の土木技術者で,鉄道省と関東大震災後の復興局(東京市土木部長)で仕事をし,隅田川に新しく橋を架けました。

太田圓三:『帝都復興事業に就いて

♪太田圓三は,東京大學工學部教授・田中豊を引き抜いて橋梁課長とし,相生橋(1926),永代橋(1926),清洲橋(1928),蔵前橋(1927),駒形橋(こまがたばし)(1927),言問橋(ことといばし)(1928)の六つの橋をデザインおよび工法を変えて架橋する計画をたてています。

相生橋(絵葉書)
永代橋(絵葉書)
清洲橋(絵葉書)
蔵前橋(絵葉書)
駒形橋(絵葉書)
言問橋(絵葉書)

♪このとき,復興局で活躍していたのが後藤新平(水沢藩出身)(1857-1929)でした。太田圓三は,後藤新平の思いを胸に,隅田川全体の調和と美観にこだわった橋を架けることに情熱を傾けることになります。

♪清洲橋,蔵前橋,駒形橋,言問橋の4橋は,当時の東京市民の投票によって,橋名が決まったそうです。隅田川の橋には,いまでも,この名前が使われています。

♪木下杢太郎は,兄圓三とは,明治35年(1902)に義父・惣兵衛が本郷・白山御殿町に新築した住宅に同居するなど,東京生活を通して,仲のよい兄弟でしたが,太田圓三は大正15年(1926)3月21日,「隅田川六大橋」の完成をみないで,神経衰弱のため自殺します。

永代橋開通記念絵葉書(大正十五年十二月)

◆◆◆

♪木下杢太郎は,亡き兄圓三が心血を注いで設計した永代橋を想って,『春のおち葉』のなかで次のような詩を詠んでいます。

永代橋工事

 過ぎし日の永代の木橋は
  まだ少年であつたわたくしに
  ああ,どれほどの感激を與へたらう。
  人生は悲しい。
  またなつかしい,面白いと,
  親兄弟には隠した
  酒あとのすずろ心で,
  傳奇的な江戸の幻想に足許危く
  眺めもし,佇みもした。
  それを,ああ,あの大地震,
  いたましい諦念,
  歸らぬ愚痴。
  それから前頭の白髪を気にしながら
  橋に近い旗亭の窓から
  あの轟轟たる新橋建設の工事を
  うち眺め,考へた。
  これも仕方がない,
  時勢は移る。
  基礎はなるべく近世的科學的にして,
  建築様式には出来るだけ古典的な
  荘重の趣味を取り入れて造つて貰ひたい。
  などと空想して得心した。

それだのに,同じ工事を見ながら,
  今は希望もなく,感激もなく
  うはの空にあの轟轟たる響を聴き,
  ゆくりなくもさんさん涙ながれる。

あんなに好きであつた東京,
  そして漫漫たる隅田のながれ。
  人生は悲しい,
  ここは三界の火宅だと
  ――ああ恐ろしい遺傳――
  多分江戸の時代に
  この橋の上で誰かが考へたに相違ない,
  それと同じ心持が今のわたくしに湧く。

水はとこしへに動き,
  橋もまた百年の齢(よはひ)を重ねるだらう。
  わたくしの今のこの心持は
  ただ水の面にうつる雲の影だ。

    ×

  行く水におくれて淀む花の屑

  永代の新橋は亡兄の心血をそそぐ濺ぎ設計せるものにてありけるなり。

♪詩のなかに出てくる「三界の火宅」という言葉は,法華経の「欲令衆」にあります。朝の「朝夕のおつとめ」のなかで唱えられます。

三界は安きことなし。なお火宅の如ごとし。衆苦充満して,はなはだ怖畏すべし。常に生老病死の憂患あり。かくの如き等の火,熾然としてやまず。如来はすでに三界の火宅をはなれて,寂然として閑居し。林野に安処せり。

♪兄圓三が,すでに,「林野」いることを知っていても,大地震のあと,隅田川橋梁の復興に全力を捧げた兄への想いを,永代橋の上にたち,隅田の流れをみて,感じていた太田正雄が,そこにいます。

♪工事の基礎は,近代的科学的にして,その設計様式は,古典的なものにする。太田圓三の設計思想は,東日本大震災の復興計画にも,活かされるべき考え方のひとつではないでしょうか。いつも,こころのなかに,林野を持ちたいものです。

(平成15年11月1日 記)(平成24年1月16日 堀江幸司 記す)

75.「東都掃苔記」(51-100)と「GoogeMyMap 医家墓所掃苔録」(2)

  (承前


♪雑誌『日本醫事新報』誌上に、連載「東都掃苔記」を執筆した杉野大澤の本名は、安西安周(あんざい・やすちか)(1889-1969)(医史学者)です。そのことを,自らの師である木村博昭のお墓を掃苔するときに明らかにしています67)。

♪木村博昭(1866-1931)は,浅田宗伯(あさだ・そうはく)(1815-1894)の晩年の門人で,大正から昭和にかけて町医として流行した漢方医でした。安西安周は,大正末期から昭和6年(1931)まで,木村博昭について,浅田宗伯の医術の伝授を受けたとのことです。


♪安西安周が収集した明治初年の医学資料は,現在,国立教育政策研究所教育研究情報センター教育図書館に安西安周文庫(特殊コレクションの一部)として所蔵されているようです。閲覧には,予約などの手続きが必要なようですが,一度,手続きを進め,安西安周文庫に,どのような資料が収蔵されているかを,確認してこようと思います。「東都掃苔記」に登場した医家の伝記的資料も含まれているのではないでしょうか。訪問が楽しみです。

国立教育政策研究所教育研究情報センター教育図書館

東京都千代田区霞が関3-2-2 中央合同庁舎 第7号館 5階・6階(03-6733-6536)

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Googe My Map医家墓所掃苔録(染井霊園・雑司ヶ谷霊園・谷中霊園)

染井霊園

雑司ヶ谷霊園(製作中)

谷中霊園(製作中)

谷中五重塔(絵葉書)
谷中五重塔(絵葉書)
谷中五重塔(絵葉書)

「東都掃苔記」(51-100)(『日本医事新報』誌の連載記事より一覧表を作成)

人物所属・専門墓所位置
51) 岡田 和一郎東大耳鼻咽喉科講座の開祖染井霊園一種四號七側
51) 岡田 清三郎横田氏,岡田家の養嗣子となり和一郎の長女和子を配す。染井霊園一種四號七側
 東大青山内科,千葉醫科大學,名古屋帝國大學教授  
52) 田口 和美日本解剖學會の會頭,大學教授解剖學教室を主宰染井霊園一種イ一號十四側
52) 田口 硯臣 千葉醫専の解剖學教授染井霊園一種イ一號十四側
52) 加藤 照業本郷瘋顛病院長染井霊園一種一號二十側
53) 須田 経哲名々堂眼科(春日町)染井霊園一種イ一號七側
53) 須田 哲造細井氏,初代の長女イソと婚す  廣島病院兼井学校長染井霊園一種イ一號七側
 内田氏,東京醫學専門學校教授(眼科)染井霊園一種イ一號七側
54) 阿久津 資生湯島の佐藤順天堂醫院創立功労者の一人染井霊園一種ロ6號五側
54) 阿久津三郎東大,順天堂泌尿器科科長,私立阿久津病院染井泰宗寺 
55) 大瀧 富三順天堂創立功労者の一人染井霊園一種八號三側
55)大瀧 潤家東大卒,駒込病院醫局員,順天堂内科醫長染井霊園一種八號三側
56)高 良齋シーボルト門下染井霊園一種三號一側
56) 坪井 信良幕末蘭學大家坪井信道の養子,人類学者坪井正五郎の父染井霊園一種八號六側
56) 小峰 茂之王子脳病院(滝野川西原),小峰病院染井霊園一種四號二十側
57) 川上元治郎日本眼科學會創立者の一人,「日本醫事新報」の創刊者護國寺文京區音羽
57) 桂 秀馬侍醫護國寺文京區音羽
57) 桂 秀三 護國寺文京區音羽
58) 高山 正雄東大卒,福岡醫科大學教授(法医學)染井霊園一種十二號三側
58) 菅野 徹三済生學舎卒,阿久津三郎博士の長兄吉祥寺駒込
58) 田中苗太郎外語濁語卒,帝大醫科卒,軍醫,鹿児島病院長(外科)染井霊園一種十二號一側
59) 梅錦 之丞東京大學醫學部卒,醫學部講師と第一醫院眼科主任延壽寺足の神さまの寺,台東區上三崎南町七六
59) 井上達也大學東校卒,東京駿河台井上眼科病院の創設者大龍寺北區田端町
60) 大谷 周庵熊本・長崎醫學校に奉職,侍醫,赤坂の自宅で開業講安寺豊島區巣鴨庚申塚停留所の近く
60) 疋田復次郎東京帝國醫科大學卒,廣島病院長護國寺 
60) 右田 朝子井上達也の養子,済生學舎卒,井上眼科病院長大龍寺北區田端町
61) 宮本 叔駒込病院長雑司ヶ谷霊園一種十八號三側
61) 山本 景行海軍軍醫,横須賀海軍病院長雑司ヶ谷霊園一種九號二側
62) 小池 正直陸軍軍醫監雑司ヶ谷霊園一種二號二側
62) 大塚 蘭渓茨木病院長雑司ヶ谷霊園小池家の隣り
63) 弘田 長東京帝國大學醫科大學・小児科學教授雑司ヶ谷霊園一種十四號七側
63) 荻野 吟子わが國最初の女醫雑司ヶ谷霊園五號廿四側
64) 濱田 玄達濱田病院の創設者,日醫新會長雑司ヶ谷霊園一種二號十一側
64) 中濱東一郎中濱万次郎の長男,福島醫學校教授,岡山・金澤病院長雑司ヶ谷霊園一種十五號
65) 林 春雄福岡醫大教授,東大教授(薬理學),公衆衛生院長雑司ヶ谷霊園一種十六號九側
65) 上林 豊明皮膚科土肥教授門下,飯田橋に近い江戸川端に開業雑司ヶ谷霊園一種十四號十一側
66) 下瀬謙太郎陸軍軍醫監,十九代陸軍軍醫學校校長兼教官染井霊園一種ロ十二號
66) 狩野 武十(燕汁)東大眼科狩野信一助教授の先考雑司ヶ谷霊園二十號七側
67) 加藤 弘之東大総長文學法學博士雑司ヶ谷霊園四號三側
67) 加藤照麻呂東大医学部卒(小児科)宮内省侍醫雑司ヶ谷霊園四號三側
67) 木村 博昭浅田宗伯晩年の門人,安西安周の師雑司ヶ谷霊園十九號七側
68) 吾妻 勝剛東大卒(産科婦人科),木下博士門下,京大教授本妙寺墓地豊島區巣鴨四丁目
68) 楠田 譲蔵兵庫醫學校卒,淡路に開業,濱町病院(産科婦人科)谷中霊園甲四號一側
68) 伊東 徹太東大卒(皮膚科),千葉醫専教授(皮膚花柳病學担任)谷中霊園甲八號九側
69) 本間 貞佐漢蘭折衷派の大成者本間棘軒の男谷中霊園甲八號十二側
69) 増山 守正南湖院長高田畔安博士の実父谷中霊園甲新十六號四側
70) 三浦 守治東大病理學教室最初の主任教授谷中霊園甲二號三側
70) 坪井 為春坪井信良の義兄弟谷中霊園甲二號八側
71) 遠田 澄庵明治11年,神田表神保に脚気病院(洋方と漢方)の漢方日蓮宗本立寺雑司ヶ谷霊園近く
71) 江馬 春熈駿河台脚気病院(洋方家)蓮光寺文京區蓬来町
72) 中島 一可解剖學者,大學東校卒,陸軍二等軍醫正蓮光寺文京區蓬来町
72) 山田 椿庭伊澤蘭軒門下蓮光寺文京區蓬来町
72) 青山 景通青山胤通の先考蓮光寺文京區蓬来町
73) 緒方 洪庵史跡指定,森鴎外の追賁碑あり高林寺駒込蓮光寺墓地の隣寺
73) 岡 了節(節齋)江戸侍醫で小児科の名家岡櫟仙院一族の墓高林寺駒込蓮光寺墓地の隣寺
74) 森 鴎外鴎外森林太郎一家の墓禅林寺中央線三鷹駅の南方
74) 佐藤 應渠曾津藩に種痘を初めて輸入した人浅草正覚寺池上本門寺域
75) 司馬 凌海明治5年わが国最初の濁和対訳の字書を刊行青山霊園一種イ六號四側
75) 山根 正次司馬凌海の春風社の門下,醫政家,醫事衛生・醫學教育青山霊園一種ロ八號警視廳墓域
76) 櫻井郁二郎産科婦人科専門矢の倉の櫻井病院の創立者青山霊園一種二十一號十四側
76) 柳井 貴三櫻井病院に一生を捧げる青山霊園櫻井家の墓地に接して背中合せにある
77) 木下 熈木下正中の先考青山霊園一種二十一號十六側
77) 木下 正中産科婦人科の泰斗青山霊園一種二十一號十六側
78) 荒木寅三郎京大総長,学習院院長立的塚群馬県安中町字板鼻の小丘
79) 井上豊太郎麹町區飯田町の東京眼科病院院長青山霊園一種一號十九側
79) 高橋 傳吾愛知醫専教諭眞珠院墓地小石川傳通院西側
80) 松本 順近代日本醫界の元勲妙大寺大磯
80) 太田 雄寧蘭疇門下の秀才,「東京醫事新誌」の創刊者浄榮寺牛込薬王寺町
81) 庄司秋次郎千葉醫専卒,眼科開業医,静的学者肌の書斎人建長寺北鎌倉
81) 内田 孝蔵明々堂眼科の前院長須田卓爾博士の実弟東慶寺北鎌倉驛より程近く
82) 唐澤 光徳慶大小児科教授青原寺中野區昭和通り
82) 柴田 元泰江戸幕醫の唖科青原寺中野區昭和通り
83) 清川 菖軒蘭門の五哲のひとり妙源寺(もと本所)葛飾區堀切
83) 森 枳園蘭門の五哲のひとり洞雲寺池袋(三ノ一六〇五)
84) 杉田 玄端杉田立卿の養子,蕃書調所教授手傳青山霊園一種イ一號
84) 杉田武・雄・盛・六蔵 杉田雄は杉田つる博士の先考青山霊園一種イ一號
84) 前野 良澤蘭学開祖慶安寺杉並區堀の内一ノ一三七
84) 中川 淳庵観臓三先哲のひとり金剛寺中野區上高田二の三一一
  (落合火葬場の裏側)
85) 大槻 盤水(玄澤)「重訂解體新書」を完成,「蘭学階梯」を刊行東禅寺墓域下高輪
85) 大槻 盤渓盤水の男東禅寺墓域下高輪
85) 大槻 如電盤水の孫東禅寺墓域下高輪
85) 宇田川槐園蘭學の名醫宇田川家 初代多磨霊園第五區乙五側
85) 宇田川榛齋蘭學の名醫宇田川家 二代多磨霊園第五區乙五側
85) 宇田川榕庵蘭學の名醫宇田川家 三代多磨霊園第五區乙五側
85) 坪井 信道(誠軒)注)伊東玄朴・戸塚静海と共に幕末蘭方三大家多磨霊園第五區乙三側(宇田川家墓の近く)
86) 柴田 洛南江戸末期の唖科名醫総泉寺板橋區志村
86) 菊池 康庵秋田佐竹藩の侍醫総泉寺板橋區志村
87) 田村 春吉前名古屋大學総長眞光寺大田區南六郷一ノ一七
88) 平野 革谿多紀桂山の門妙國寺南品川
88) 新井春次郎慈恵醫大の解剖學教授青松寺裏の墓地港區
88) 古賀玄三郎東京市築地林病院,盛岡市盛岡病院外科部長,北里研究所清正公で有名な寺港區
89) 松山 棟庵福沢諭吉の主治醫漕渓寺港區古川橋近く
89) 松山陽太郎松山病院の二代院長,慈恵醫大名誉教授漕渓寺港區古川橋近く
89) 三輪信太郎小児科延壽堂病院長(神田)小石川傳通院 
90) 千葉彌次馬帝國大學醫科大學卒業,開業(眼科),土肥・呉・宮入と同期永吉千葉邸つづきの小丘 
90) 内藤 隆一牛込柳町に眼科専門で開業十念寺福島懸須賀川市税務所通り
91) 橋本 綱常初代の陸軍省醫務局長,醫科大學教授,日本赤十字社病院長長谷寺麻布笄町,永平寺東京別院長谷寺
91) 橋本 綱維大阪鎮台病院長麟祥院墓地文京區役所本郷出張所の隣
92) 瀬川 昌耆東大卒,宮城醫學校長,本所の江東病院,駿河台の小児科病院長青山霊園一種イ五號
92) 尼子 四郎鹿児島醫學校卒,富士川博士と同期,「醫學中央雑誌」を設立一音寺文京區本郷東片町一〇八
93) 太田 三郎福島醫學校出身,郡山太田綜合病院の創設者善導寺墓地病院前の寺
93) 鈴木万次郎福島醫學校出身,神田神保院の開設者郷社の裏故郷須賀川諏訪町
94) 橋田 邦彦開戦当時の文相,東京帝國大學教授醫學博士浄心寺文京區蓬来町
94) 小泉 親彦元厚相(陸軍軍醫中将)青山霊園一種イ十一號七側
95) 木下 藤一土肥慶蔵博士の最初の助手,本郷千駄木に木下皮膚科病院を開設興善寺文京區初音町
95) 加治時次郎「ドクトル加藤時次郎」,平民病院,平民食堂を主唱創設池上本門寺五重塔のもと
95) 小川劍三郎東大卒(眼科),池之端小川眼科病院の創立者多磨霊園十三區甲種廿一側
96) 宇都野研東大卒,本郷の小児科院長多磨霊園十二區甲種一側
97) 石阪 堅荘(秋朗)シーボルト門下の一人,石阪桑亀の男多磨霊園十區甲六側
97) 石阪 惟寛石阪桑亀の孫,第三代軍醫学校長,第六代醫務局長多磨霊園十區甲六側
97) 鈴木 重道海軍軍醫,横須賀海軍病院長多磨霊園十五區甲十五側
97) 鈴木寛之助海軍軍醫,金澤醫専卒,海軍軍醫学校長多磨霊園三區乙八側
97) 鈴木 裕三海軍軍醫,呉海軍病院長多磨霊園三區甲八側
98) 川島 震一胃腸病院長,博士の夫人は平山金蔵博士の息女多磨霊園三區甲三十四側
98) 平山 金蔵胃腸病院長,長與称吉博士の歿後院長多磨霊園六區甲五側
98) 神保孝太郎胃腸病院副院長,神保消化器病院(水道端)多磨霊園十四區甲十側
99) 山川章太郎東大青山内科門下生,東北帝國大學教授(内科)多磨霊園三區甲九側
99) 柿沼 冥作東大青山内科門下生,岡山醫科大學教授,東京帝國大學教授多磨霊園十二區甲十六側
100) 宇野 朗樂山堂病院長(浅草小島町)常林寺境内駿州三島
100) 清野 一學富士山麓上野の旧家(第十二代の眼科醫)大石寺富士山麓にある日蓮宗本山の一つ
100) 清野 勇東大第一回卒,岡山縣病院長・醫學校長,大阪府醫學校長

注)85)坪井信道(誠軒)の墓石は、現在、染井霊園にあります。

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東都掃苔記」(51)から(100)までの文献一覧

51)「東都掃苔記(51)」岡田家の墓・岡田先生遺徳碑・岡田清三郎先生記念碑:『日本醫事新報』第1633号,p.46.(昭和30年8月13日)

52)「東都掃苔記(52)」田口家の墓・加藤家の墓:『日本醫事新報』第1634号,p.68.(昭和30年8月20日)

53)「東都掃苔記(53)」須田氏の墓:『日本醫事新報』第1635号,p.62.(昭和30年8月27日)

54)「東都掃苔記(54)」阿久津資生翁の墓・阿久津三郎博士の墓:『日本醫事新報』第1636号,p.50.(昭和30年9月3日)

55)「東都掃苔記(55)」大瀧家の墓・大瀧潤家博士の墓:『日本醫事新報』第1637号,p.66.(昭和30年9月10日)

56)「東都掃苔記(56)」高良齋の墓・坪井信良の墓・小峰茂之博士の墓:『日本醫事新報』第1638号,p.46.(昭和30年9月17日)

57)「東都掃苔記(57)」川上元治郎氏の墓・桂父子の墓:『日本醫事新報』第1639号,p.54.(昭和30年9月24日)

58)「東都掃苔記(58)」高山正雄博士の墓・菅野徹三氏の墓・田中苗太郎博士の墓:『日本醫事新報』第1640号,p.54.(昭和30年10月1日)

59)「東都掃苔記(59)」梅錦之丞先生の墓・井上達也先生の墓:『日本醫事新報』第1641号,p.52.(昭和30年10月8日)

60)「東都掃苔記(60)」大谷周庵翁の墓・疋田復次郎氏の墓・女醫右田朝子の碑:『日本醫事新報』第1642号,p.48.(昭和30年10月15日)

61)「東都掃苔記(61)」宮本 叔博士の墓・山本景行総監墓:『日本醫事新報』第1643号,p.48.(昭和30年10月22日)

62)「東都掃苔記(62)」小池家累代の墓・大塚蘭渓の墓:『日本醫事新報』第1644号,p.46.(昭和30年10月29日)

63)「東都掃苔記(63)」弘田長先生の墓・女醫荻野吟子女史の墓:『日本醫事新報』第1645号,p.46.(昭和30年11月5日)

64)「東都掃苔記(64)」濱田玄達先生の墓・中濱東一郎博士の墓:『日本醫事新報』第1646号,p.54.(昭和30年11月12日)

65)「東都掃苔記(65)」林家の墓・上林博士の墓:『日本醫事新報』第1647号,p.50.(昭和30年11月19日)

66)「東都掃苔記(66)」下瀬家の墓・鹿野氏の墓:『日本醫事新報』第1648号,p.50.(昭和30年11月26日)

67)「東都掃苔記(67)」加藤家の墓・木村博昭の墓:『日本醫事新報』第1649号,p.54.(昭和30年12月3日)

68)「東都掃苔記(68)」吾妻家の墓・楠田譲蔵氏の墓・伊東徹太博士の墓:『日本醫事新報』第1650号,p.56.(昭和30年12月10日)

69)「東都掃苔記(69)」本間貞佐翁の墓・増山守正翁の墓:『日本醫事新報』第1651号,p.66(昭和30年12月17日)

70)「東都掃苔記(70)」三浦守治博士の墓・坪井為春翁の墓:『日本醫事新報』第1652号,p.66.(昭和30年12月24日)

71)「東都掃苔記(71)」遠田澄庵の墓・江馬家の墓:『日本醫事新報』第1653号,p.32.(昭和30年12月31日)

72)「東都掃苔記(72)」中島一可の墓・椿庭山田翁の墓・青山景通之墓:『日本醫事新報』第1654号,p.88.(昭和31年1月7日)

73)「東都掃苔記(73)」緒方洪庵夫妻の墓・岡家の墓:『日本醫事新報』第1655号,p.85.(昭和31年1月14日)

74)「東都掃苔記(74)」鴎外の墓・佐藤應渠の墓:『日本醫事新報』第1656号,p.62.(昭和31年1月21日)

75)「東都掃苔記(75)」司馬凌海の墓・山根正次の墓:『日本醫事新報』第1657号,p.64.(昭和31年1月28日)

76)「東都掃苔記(76)」櫻井郁二郎院長の墓・柳井貴三翁の墓:『日本醫事新報』第1658号,p.66.(昭和31年2月4日)

77)「東都掃苔記(77)」木下家の墓:『日本醫事新報』第1659号,p.60.(昭和31年2月11日)

78)「東都掃苔記(78)」荒木鳳岡の墓:『日本醫事新報』第1660号,p.64.(昭和31年2月18日)

79)「東都掃苔記(79)」井上豊太郎一家の墓・高橋傳吾博士の墓:『日本醫事新報』第1661号,p.50.(昭和31年2月25日)

80)「東都掃苔記(80)」蘭疇松本順一家の墓・太田家の墓:『日本醫事新報』第1662号,p.50.(昭和31年3月3日)

81)「東都掃苔記(81)」庄司秋次郎博士の墓・内田孝蔵博士の墓:『日本醫事新報』第1663号,p.52.(昭和31年3月10日)

82)「東都掃苔記(82)」唐澤家の墓・柴田長松の墓:『日本醫事新報』第1664号,p.54.(昭和31年3月17日)

83)「東都掃苔記(83)」清川家の墓・森枳園の墓:『日本醫事新報』第1665号,p.66.(昭和31年3月24日)

84)「東都掃苔記(84)」杉田家の墓・前野蘭化先生の墓・中川淳庵先生の碑:『日本醫事新報』第1666号,p.64.(昭和31年3月31日)

85)「東都掃苔記(85)」大槻家の墓・宇田川家の墓・坪井誠軒の墓:『日本醫事新報』第1667号,p.68.(昭和31年4月7日)

86)「東都掃苔記(86)」柴田家の墓・菊池康庵の墓:『日本醫事新報』第1668号,p.54.(昭和31年4月14日)

87)「東都掃苔記(87)」田村名大総長の墓・平野革谿一家の墓:『日本醫事新報』第1669号,p.68.(昭和31年4月21日)

88)「東都掃苔記(88)」新井春次郎夫妻の墓・古賀玄三郎博士の墓:『日本醫事新報』第1670号,p.68.(昭和31年4月28日)

89)「東都掃苔記(89)」松山棟庵一家の墓・三輪信太郎博士の墓:『日本醫事新報』第1671号,p.64.(昭和31年5月5日)

90)「東都掃苔記(90)」千葉彌次馬の墓・内藤隆一の墓:『日本醫事新報』第1672号,p.58.(昭和31年5月12日)

91)「東都掃苔記(91)」橋本家の墓:『日本醫事新報』第1673号,p.64.(昭和31年5月19日)

92)「東都掃苔記(92)」瀬川昌耆夫妻の墓・尼子四郎翁の墓:『日本醫事新報』第1674号,p.64.(昭和31年5月26日)

93)「東都掃苔記(93)」太田三郎翁の墓・鈴木家の墓:『日本醫事新報』第1675号,p.60.(昭和31年6月2日)

94)「東都掃苔記(94)」橋田家の墓・小泉家の墓:『日本醫事新報』第1676号,p.64.(昭和31年6月9日)

95)「東都掃苔記(95)」木下藤一翁の墓・加治時次郎翁の墓:『日本醫事新報』第1677号,p.50.(昭和31年6月16日)

96)「東都掃苔記(96)」小川劍三郎博士の墓・宇都野家の墓:『日本醫事新報』第1678号,p.62.(昭和31年6月23日)

97)「東都掃苔記(97)」石阪家の墓・鈴木三海軍軍醫の墓:『日本醫事新報』第1679号,p.52.(昭和31年6月30日)

98)「東都掃苔記(98)」川島家の墓・平山家の墓・神保孝太郎博士の墓:『日本醫事新報』第1680号,p.56.(昭和31年7月7日)

99)「東都掃苔記(99)」山川章太郎教授の墓・柿沼冥作教授の墓:『日本醫事新報』第1681号,p.50(昭和31年7月14日)

100)「東都掃苔記(100)」宇野家の墓・清野家の墓:『日本醫事新報』第1682号,p.52.(昭和31年7月21日)

(平成22年7月7日 雨の七夕の日に記す)

74.「東都掃苔記」(1-50)と「GoogeMyMap 医家墓所掃苔録」(1)

♪「東都掃苔記」の著者,杉野大澤は、漢方医で医史学者であった安西安周(あんざい・やすちか)の筆名です。2年間にわたって,毎週,一度の休みもなく,一頁のなかに,文章,墓石の写真,肖像写真,遺墨などが,きれいに,割り付けられています。

♪これだけの,記事を書くとなると,普段から相当の資料を,収集していたと思います。さらに、執筆にあたっては,文献だけに頼らずに、子孫を訪ねるなど,取材も,しっかり,なされたようです。編集者の協力もあったとは思いますが,大変な労作です。

♪「掃苔録」の基本文献としては,戦前に発刊され,昭和48年(1973)に八木書店によって再刊された『東京掃苔録』(藤浪和子著)があります。平成5年(1993)に神田の古書店「慶文堂書店」で,『東京掃苔録』を入手したとき,将来,医家の掃苔録をつくりたいと思っていました。

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♪「江戸東京医史学散歩」を進めて行く過程で、『日本醫事新報』誌のなかに,近代医家のお墓を,まとめて,取り扱った連載記事(「東都掃苔記」)があることを知り,早速,本学図書館の保存書庫から,借り出して確認してみることにしました。

♪第1回(昭和29年8月28日発行)の土肥慶蔵からはじまって,最終回の第100回(昭和31年7月21日発行)の宇野朗(うの・ほがら)までをみてみると,いままで,知りたいと思っていた医家のお墓の場所が,ほとんど,載っていました。近代名医の掃苔記を完成させるという強い意思を感じさせる連載記事です。

♪60年近く前の記事ですので,現在では,風化などの理由により整理されている墓石などもあるかとは思いますが,これらのお墓を「江戸東京」で,再び訪ねて,墓誌や石碑などを,デジタル画像で記録し,顕彰してゆけば,後世に繋がるのではないか。そんな思いに捉われました。

♪そこで、今回、「改訂版・江戸東京」では、GoogleMyMapの機能を活用して各霊園別の地図を作成しインターネット上で公開、データを共有できるようにしました。地図上の墓石の位置を示すポイントボタンを押すと、関係する写真などの画像が表示できます。

 参考文献:「江戸東京医史学散歩」とGoogleマイマップ:オンライン検索 32(3・4), 118-125, 2011-09.

♪染井霊園の医家のお墓については、ほとんど実地調査が終わり、医家の墓石の位置を確認できたのですが、雑司ヶ谷霊園、谷中霊園は、まだ調査継続中です。掃苔を続けてゆければと思います。多磨霊園、青山霊園についても、調査予定です。気長な散歩になりそうです。

♪「東都掃苔記」を一覧表にまとめ,2回(1-50)(51-100)にわけて,掲載しておきます。各記事の画像をクリックすると、Evernotesに保管してある大きな画像にリンクします。

◆◆◆「東都掃苔記」に登場する人物と墓所

人 物所属・専門墓 所位 置
1) 土肥 慶蔵東大皮膚科教授多磨霊園七區甲一側
1) 片山 國嘉東京帝國大學・法醫學多磨霊園七區甲五側
2) 河本 重次郎東京帝國大學・眼科多磨霊園九區甲三側
2) 桐淵 鏡次東大卒,桐淵眼科病院多磨霊園八區甲一側
3) 呉 秀三東京帝國大學・精神病學多磨霊園五區甲一側
3) 宮本 仲東大別課卒,開業。正岡子規の主治医多磨霊園廿二區の裏門近く
4) 宮入 慶之助東大卒,九州大學名誉教授,寄生虫學多磨霊園七區乙十九側
4) 秦佐 八郎岡山第三高等學校醫學部卒,慶大細菌学教授多磨霊園十四區甲廿一側
5) 藤浪 剛一名墓顕彰會・日本醫史學會の主宰者多磨霊園九區甲十側
5) 草間 滋東大卒,慶應義塾大學醫學部教授・細菌学多磨霊園六區甲十六側
6) 近藤 次繁東京帝國大學・外科学多磨霊園二十二區一種二十二側
6) 呉 建東京帝國大學・内科学多磨霊園廿一區甲廿五側
7) 井上 通泰東大卒,岡山醫専教授多磨霊園十九區甲十二側
7) 遠山 郁三東大皮膚科二代目教授多磨霊園十九區甲四十四側
8) 太田 正雄東大皮膚科三代目教授多磨霊園十六區甲十二側
8) 長尾 折三千葉醫専卒,開業多磨霊園廿一區と廿二區の中間域
9) 高木 友枝東大卒,伝染病研究所多磨霊園廿二區甲五側
台北病院長
9) 川村 麟也慶大教授・病理学多磨霊園十九區甲十側
10) 山谷徳治郎日新醫學社社長多磨霊園七區甲十六側
10) 中泉 行徳東大助教授・眼科多磨霊園八區甲七側
11) 八代 豊雄宮内省侍醫・外科多磨霊園七區甲六側
11) 南 大曹南胃腸病院長・胃腸病多磨霊園十區甲二側
12) 菅沼 定男京大卒,慶大教授・眼科多磨霊園廿一區甲一側
12) 荒井 實東大内科物療學助教授多磨霊園十一區甲三側
13) 眞鍋嘉一郎東大内科物療學教授梅窓院港區青山
13) 飯島 茂千葉醫専卒,軍醫學校長梅窓院港區青山
14) 竹内 玄同幕府侍醫梅窓院港區青山
14) 中泉 正軍醫監梅窓院港區青山
15) 長與 専齋醫事衛生の確立者青山霊園一種イ十三號二側
15) 長與 称吉消化器病学青山霊園一種イ十三號二側
15) 長與 又郎病理学・東京大學総長青山霊園一種イ十三號二側
16) 稲田 龍吉東大・内科(青山内科の後を継ぐ)青山霊園一種イ十三號二側
16) 久保猪之吉九大・耳鼻咽喉科青山霊園一種ロ第二十號
17) 高木 兼寛慈恵医大草創者青山霊園一種イ十號
17) 高木 喜寛青山霊園一種イ十號
17) 高木 兼二慈恵医大教授・内科青山霊園一種イ十號
18) 北里柴三郎伝染病研究所・北里研究所所長青山霊園一種ロ十九號
18) 浅川 範彦北里研究所部長青山霊園一種ロ十八號
18) 柴山五郎作北里研究所部長青山霊園一種イ一號
19) 後藤 新平満鐵総裁・愛知病院長青山霊園一種イ五號
19) 金杉英五郎東京醫科大學別課卒,衆議院議員青山霊園一種ロ三號
20) 實吉 安純慈恵醫専・東京病院の學校長・醫院長青山霊園一種イ十八號
20) 鶴田禎次郎陸軍省醫務局長青山霊園一種ロ八號
21) 栗本 東明東大卒,大森病院長青山霊園二種十二號
21) 澤崎 寛制東大卒,病理学,内科学。駒込病院,青山霊園一種イ十號
臨床細菌学。長岡病院長。
22) 斎藤 茂吉東大卒,巣鴨病院医員,長崎醫専教授青山霊園一種イ二號
22) 大鳥 次東大醫科卒・薬物学青山霊園一種イ一號
23) 大野 豊太大野病院長・性病醫,俳諧青山霊園一種イ十號
23) 岡 玄郷明治天皇の侍醫頭,津山藩青山霊園一種イ廿二號
24) 杉田 玄端杉田立卿の養子,蕃書調所教授手傳青山霊園一種イ一號
24) 杉田 盛横濱で開業,震災後,大森の蘭崎庵に住す青山霊園一種イ一號
24) ユリウス・スクリバ東京帝國大學名誉教師・外科青山霊園外人墓地
24) フリッツ・スクリバ日本醫科大學教師青山霊園外人墓地
25) 佐藤 進順天堂第二代吉祥寺文京区駒込
25) 佐藤 恒久帝國大學醫科卒,順天堂副院長吉祥寺文京区駒込
25) 佐藤 健醫學博士吉祥寺文京区駒込
25) 佐藤 篤海軍軍醫大佐醫學博士吉祥寺文京区駒込
26) 大澤 謙二東大生理学教授吉祥寺文京区駒込
26) 西郷 吉義陸軍軍醫監・侍醫・宮中顧問官吉祥寺文京区駒込
27) 賀古鶴所陸軍軍醫監・耳鼻科・森鴎外の親友吉祥寺文京区駒込
27) 橋本 節齋小石川病院長・新内科全書の著者吉祥寺文京区駒込
28) 澤 弌醫文學者,済生學舎に學ぶ吉祥寺文京区駒込
28) 石津 寛東大卒,軍醫少佐,牛込薬王寺開業,眼科愛染院練馬区春日町二
29) 入澤 達吉東京帝國大學醫科大學・内科教授谷中霊園一種乙第二號
29) 三輪徳寛千葉醫大初代學長・外科谷中霊園一種乙第二號
30) 足立 寛陸軍軍醫監,東京大學醫學部教授谷中天王寺
30) 戸塚 静海幕末洋方三大家の一人谷中天王寺
30) 戸塚 文海海軍軍醫総監谷中天王寺
30) 戸塚 文雄谷中天王寺
31) 佐藤 信圭(泰然)佐倉順天堂谷中天王寺国電線路に沿った崖上
31) 佐藤 尚中谷中霊園一種甲第九號
31) 佐藤 佐東京順天堂副院長谷中霊園乙八號四側
32) 片山 國棟法醫學の祖片山國嘉の實兄谷中霊園事務所前から五重塔までの大通りの右側
32) 奈須 柳村「本朝醫談」の著者,醫史學の先哲
33) 片山 芳林  (よしもと)東大卒,森鴎外と同期。宮内省,侍醫頭谷中霊園片山國棟墓誌の右側を数間入ったところ
33) 片山 荘次駒込病院醫局長谷中霊園片山國棟墓誌の右側を数間入ったところ
34) 石黒 忠悳陸軍軍醫監,枢密顧問官谷中霊園五重塔の前,十字路の角
34) 長谷川 泰済生學舎の創立者谷中霊園一種乙第一號
35) 大野 松齋種痘醫谷中天王寺足立・戸塚両家の墓地に入る途中
35) 大野 恒徳陸軍一等軍醫谷中天王寺足立・戸塚両家の墓地に入る途中
35) 馬島 瑞園會津藩士,馬島瑞伯の門,眼科谷中天王寺戸塚家の墓地の近く
36) 三宅 艮斎三宅秀の父谷中天王寺
36) 三宅 秀西洋醫學所の教授谷中天王寺
36) 三浦 道生福島県下寒村の開業醫谷中五重塔の天王寺より角
36) 三浦謹之助東大教授,三浦内科谷中五重塔の天王寺より角
37) 今田 束東大助教授・解剖學谷中霊園甲種乙第十號廿一側
37) 樫村 清徳私立山龍堂醫院長谷中霊園甲九號九側
38) 浅田 宗伯(栗園)明治漢方界の代表的人物谷中霊園甲種乙第八號十側
38) 浅田 宗叔(棕園)浅田宗伯の長女と婚して浅田を名のる谷中霊園乙七號九側
39) 島村 鼎醫を適塾の緒方洪庵に修めた谷中霊園佐藤尚中墓の近く
39) 島村 俊一帝大醫科大學卒,第一醫院勤務,京都府立谷中霊園佐藤尚中墓の近く
療病院長(英米醫學者)
39) 小林 義直東京養育院治療掛(英米醫學者)谷中霊園甲種乙十三號
40) 高松 凌雲緒方洪庵に學ぶ,函館病院,鶯渓醫院谷中霊園一種乙五號
40) 石川 良信(櫻所)凌雲翁の師,陸軍軍醫監谷中霊園高松家墓地の近く
41) 池田 玄仲幕府の醫官谷中霊園徳川家墓地
41) 池田 謙斎陸軍軍醫監,一等侍醫,東京大學醫學部総理谷中霊園徳川家墓地
41) 青山 胤通帝大青山内科教授谷中霊園池田家墓地と背中合せの位地
42) 今村 了庵明治漢方界の雄谷中霊園甲六號十五側
42) 中村 昌恵岩手醫大の學長藤田敏彦博士夫人の先考谷中霊園乙十三條左五側
43) 林 紀軍醫総監谷中霊園甲種甲第八號五側・五重塔裏手
43) 花岡 真節大學東校当時の桐原真節・内外科兼皮膚科梅毒科教官谷中霊園乙十號九側
43) 前田 元温薩人・明治前後のわが國醫事衛生で活躍した醫家谷中霊園石川櫻所の墓の近く
44) 清水郁太郎東京大學産科婦人科の初代教授谷中霊園甲一號三側小林家墓地
44) 安藤 正胤大槻俊齋・伊東玄朴の門下,大學種痘館醫員谷中霊園入澤先生墓の近く
45) 田代 基徳整形外科學の鼻祖谷中天王寺戸塚・三宅両家の墓地近く
46) 佐々木東洋杏雲堂醫院長谷中霊園一種甲九號
46) 佐々木政吉東洋先生の養子,帝國大學醫科大學内科教授の鼻祖谷中霊園谷中霊園
46) 島園順次郎東大島園内科教授谷中霊園一種甲八號
47) 佐藤 三吉東大佐藤外科教授谷中天王寺戸塚・足立・田代・三宅・大野諸家の近く
47) 樫田亀一郎東大卒,三浦内科,侍醫,日本橋に開業谷中霊園一種乙四號
47) 樫田 五郎東大卒,呉秀三教授の巣鴨病院に精神科を研究谷中霊園一種乙四號
48) 林 洞海幕末の名醫,種痘館設立の一人,大阪醫學校長吉祥寺文京区駒込
48) 伊東玄朴幕末蘭醫の第一人者天龍院谷中三崎町
48) 伊東 方成玄朴の養子,本邦最初の海外留醫生,侍醫天龍院谷中三崎町
49) 榊 綽杉田成卿の塾生,銀板写真や活版石版の鼻祖染井霊園一種イ五號
49) 榊 俶東京帝國醫科大學教授・精神病學染井霊園一種イ五號
49) 榊順次郎産科婦人科病院長染井霊園一種イ五號の隣
50) 榊保三郎九大精神科教授染井霊園一種イ五號
50) 緒方正規東京帝國醫科大學教授染井霊園榊家の隣地

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1)「東都掃苔記(1)」土肥家累代之墓・片山家之墓:『日本醫事新報』第1583号,p.34[3614](昭和29年8月28日)

「東都掃苔記(1)」

2)「東都掃苔記(2)」河本重次郎墓・桐淵家之墓:『日本醫事新報』第1584号,p.66[3730](昭和29年9月4日)

「東都掃苔記(2)」

3)「東都掃苔記(3)」呉家累代墓・宮本 仲之墓:『日本醫事新報』第1585号,p.35[3816](昭和29年9月11日)

「東都掃苔記(3)」

4)「東都掃苔記(4)」宮入家墓・秦家墓:『日本醫事新報』第1586号,p.62[3930](昭和29年9月18日)

「東都掃苔記(4)」

5)「東都掃苔記(5)」藤浪剛一博士の墓・草間家之墓:『日本醫事新報』第1587号,p.30[4018](昭和29年9月25日)

「東都掃苔記(5)」

6)「東都掃苔記(6)」近藤次繁之墓・呉家之墓:『日本醫事新報』第1588号,p.48[4120](昭和29年10月2日)

「東都掃苔記(6)」

7)「東都掃苔記(7)」井上家之墓・遠山家墓:『日本醫事新報』第1589号,p.30[4226](昭和29年10月9日)

「東都掃苔記(7)」

8)「東都掃苔記(8)」太田正雄之墓・長尾家之墓:『日本醫事新報』第1590号,p.50[4330](昭和29年10月16日)

「東都掃苔記(8)」

9)「東都掃苔記(9)」高木夫妻の墓・川村家之墓:『日本醫事新報』第1591号,p.28[4428](昭和29年10月23日)

「東都掃苔記(9)」

10)「東都掃苔記(10)」山谷家之墓・中泉家之墓:『日本醫事新報』第1592号,p.54[4538](昭和29年10月30日)

「東都掃苔記(10)」

11)「東都掃苔記(11)」八代家之墓・南家之墓:『日本醫事新報』第1593号,p.30[4634](昭和29年11月6日)

「東都掃苔記(11)」

12)「東都掃苔記(12)」菅沼家墓・荒井實之墓:『日本醫事新報』第1594号,p.50[4738](昭和29年11月13日)

「東都掃苔記(12)」

13)「東都掃苔記(13)」眞鍋家之墓・飯島家諸霊之墓:『日本醫事新報』第1595号,p.28[4836](昭和29年11月20日)

「東都掃苔記(13)」

14)「東都掃苔記(14)」竹内玄同の墓・中泉正軍醫監の墓:『日本醫事新報』第1596号,p.50[4942](昭和29年11月27日)

「東都掃苔記(14)」

15)「東都掃苔記(15)」長與家の墓:『日本醫事新報』第1597号,p.28[5040](昭和29年12月4日)

「東都掃苔記(15)」

16)「東都掃苔記(16)」稲田龍吉墓・久保家の墓:『日本醫事新報』第1598号,p.50[5146](昭和29年12月11日)

「東都掃苔記(16)」

17)「東都掃苔記(17)」高木家の墓:『日本醫事新報』第1599号,p.36[5252](昭和29年12月18日)

「東都掃苔記(17)」

18)「東都掃苔記(18)」北里家之墓・浅川範彦之墓・柴山五郎作之墓:『日本醫事新報』第1600号,p.32[5332](昭和29年12月25日)

「東都掃苔記(18)」

19)「東都掃苔記(19)」後藤新平伯之墓・金杉英五郎之墓:『日本醫事新報』第1601号,p.86[86](昭和30年1月1日)

「東都掃苔記(19)」

20)「東都掃苔記(20)」實吉家之墓・鶴田家之墓:『日本醫事新報』第1602号,p.94[230](昭和30年1月8日)

「東都掃苔記(20)」

21)「東都掃苔記(21)」栗本東明之墓・澤崎寛制墓:『日本醫事新報』第1603号,p.58[326](昭和30年1月15日)

「東都掃苔記(21)」

22)「東都掃苔記(22)」茂吉之墓・大鳥次郎墓:『日本醫事新報』第1604号,p.46[466](昭和30年1月22日)

「東都掃苔記(22)」

23)「東都掃苔記(23)」大野家之墓・岡 玄卿墓:『日本醫事新報』第1605号,p.66[570](昭和30年1月29日)

「東都掃苔記(23)」

24)「東都掃苔記(24)」杉田家の墓・スクリバの墓:『日本醫事新報』第1606号,p.40[664](昭和30年2月5日)

「東都掃苔記(24)」

25)「東都掃苔記(25)」佐藤家の墓:『日本醫事新報』第1607号,p.66[774](昭和30年2月12日)

「東都掃苔記(25)」

26)「東都掃苔記(26)」大澤家之墓・西郷家之墓:『日本醫事新報』第1608号,p.28[856](昭和30年2月19日)

「東都掃苔記(26)」

27)「東都掃苔記(27)」賀古家之墓・橋本家之墓:『日本醫事新報』第1609号,p.42[1002](昭和30年2月26日)

「東都掃苔記(27)」

28)「東都掃苔記(28)」澤 弌氏の墓・石津博士の墓:『日本醫事新報』第1610号,p.14[1156](昭和30年3月5日)

「東都掃苔記(28)」

29)「東都掃苔記(29)」入澤先生の墓・三輪博士の墓:『日本醫事新報』第1611号,p.70[1298](昭和30年3月12日)

「東都掃苔記(29)」

30)「東都掃苔記(30)」足立家の墓・戸塚家の墓:『日本醫事新報』第1612号,p.38[1386](昭和30年3月19日)

「東都掃苔記(30)」

31)「東都掃苔記(31)」佐藤泰然夫妻の墓・佐藤尚中夫妻の墓・佐藤左の墓:『日本醫事新報』第1613号,p.68[1500](昭和30年3月26日)

「東都掃苔記(31)」

32)「東都掃苔記(32)」片山國棟の墓・奈須柳村の墓:『日本醫事新報』第1614号,p.38[1590](昭和30年4月2日)

「東都掃苔記(32)」

33)「東都掃苔記(33)」片山家の墓:『日本醫事新報』第1615号,p.66[1714](昭和30年4月9日)

「東都掃苔記(33)」

34)「東都掃苔記(34)」况翁石黒忠悳の墓・長谷川夫妻の墓:『日本醫事新報』第1616号,p.28[1792](昭和30年4月16日)

「東都掃苔記(34)」

35)「東都掃苔記(35)」大野恒徳の墓・馬島瑞園夫妻の墓:『日本醫事新報』第1617号,p.70[1914](昭和30年4月23日)

「東都掃苔記(35)」

36)「東都掃苔記(36)」三宅家之墓・三浦博士夫妻の墓:『日本醫事新報』第1618号,p.48[2012](昭和30年4月30日)

「東都掃苔記(36)」

37)「東都掃苔記(37)」今田束氏の墓・樫村清徳の墓:『日本醫事新報』第1619号,p.50[2114](昭和30年5月7日)

「東都掃苔記(37)」

38)「東都掃苔記(38)」浅田家の墓:『日本醫事新報』第1620号,p.32[2200](昭和30年5月14日)

「東都掃苔記(38)」

39)「東都掃苔記(39)」島村家の墓・小林義直の墓:『日本醫事新報』第1621号,p.66[2318](昭和30年5月21日)

「東都掃苔記(39)」

40)「東都掃苔記(40)」高松凌雲夫妻の墓・石川櫻所の墓:『日本醫事新報』第1622号,p.46[2418](昭和30年5月28日)

「東都掃苔記(40)」

41)「東都掃苔記(41)」池田家の墓・青山胤通の墓:『日本醫事新報』第1623号,p.64[2536](昭和30年6月4日)

「東都掃苔記(41)」

42)「東都掃苔記(42)」今村了庵の墓・中村家の墓:『日本醫事新報』第1624号,p.52[2644](昭和30年6月11日)

「東都掃苔記(42)」

43)「東都掃苔記(43)」林紀軍醫総監の墓・花岡真節の墓・前田元温の墓:『日本醫事新報』第1625号,p.58[2754](昭和30年6月18日)

「東都掃苔記(43)」

44)「東都掃苔記(44)」清水郁太郎教授の墓・安藤正胤墓:『日本醫事新報』第1626号,p.62[2870](昭和30年6月25日)

「東都掃苔記(44)」

45)「東都掃苔記(45)」田代家の墓・田代基徳夫妻の墓:『日本醫事新報』第1627号,p.48(昭和30年7月2日)

「東都掃苔記(45)」

46)「東都掃苔記(46)」佐々木家の墓・島園家の墓:『日本醫事新報』第1628号,p.62(昭和30年7月9日)

「東都掃苔記(46)」

47)「東都掃苔記(47)」佐藤三吉夫妻の墓・樫田家の墓:『日本醫事新報』第1629号,p.54(昭和30年7月16日)

「東都掃苔記(47)」

48)「東都掃苔記(48)」林 洞海の墓・伊東玄朴父子の墓:『日本醫事新報』第1630号,p.62(昭和30年7月23日)

「東都掃苔記(48)」

49)「東都掃苔記(49)」榊俶の墓・榊順次郎博士の墓:『日本醫事新報』第1631号,p.52(昭和30年7月30日)

「東都掃苔記(49)」

50)「東都掃苔記(50)」榊保三郎博士の墓・緒方正規先生の墓:『日本醫事新報』第1632号,p.114(昭和30年8月6日

「東都掃苔記(50)」

73. 染井霊園:医家墓所掃苔録

♪ 染井霊園は,明治5年(1871)11月28日に染井墓地として開設された神葬地で, 明治7年(1873)9月1日,共葬墓地となりました。神葬地としては,染井のほかに,青山,雑司ヶ谷,深川がありました。昭和10年(1935)5月に名称が染井墓地から染井霊園に改められ,現在は東京都公園協会(TOKYO霊園さんぽ)によって管理されています。

♪染井霊園は,もと播州(ばんしゅう)林田藩主・建部(たけるべ)内匠頭の下屋敷跡で、面積67,911㎡,都営霊園の中では最も規模が小さい霊園です。春になると、園内には,江戸時代,この辺りにあった染井植木屋によって品種改良された染井吉野桜が咲き乱れます。染井霊園があった染井村は、染井吉野桜の発祥地です。

♪都立霊園の墓地には墓域毎に「住所」がついています。東京都染井霊園事務所で入手できる「染井霊園案内図」(東京都公園協会発行)にも、この「住所」が載っています。

♪有名人のお墓の場所は、霊園内の案内図に載っているのですが、医家のお墓の掲載はありません。そこで拙宅が近くにあることもあり、医家のお墓をお参りさせていただきながら、染井霊園に眠る医家達の墓石の位置を特定してみることにしました。

♪以下に記載してある墓石の位置は、実地調査をして、霊園内の各所に建っている「住所」を示す標柱をもとに作成しました。

染井霊園医家墓所案内図(堀江幸司作成)

♪染井霊園に眠る医家達は、そのほとんどが東京帝国大学医学部の出身です。地方から東京に出て帝国大学に入学、のち教授となり、お墓を染井の地に求めた方も多かったようです。その方々が、名古屋帝国大学医学部(名古屋大学医学部)、千葉医科大学(千葉大学医学部)、昭和医学専門学校(昭和大学医学部)などとも関係しています。

♪また染井霊園には、東京大学医学部の草創期に活躍した人物だけでなく、順天堂医院の創立に貢献した人々のお墓もあります。

染井霊園医家関係図(1)(堀江幸司作成)
染井霊園医家関係図(2)(堀江幸司作成)

参考文献

(1)染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.

(2)染井霊園:医家の名簿を探る② 榊俶・田口和美.医学図書館 1996:43(3):361-368.

(3)『東京掃苔録』(藤浪和子著 八木書店 1973)(本書は昭和15年刊行された図書が再刊されたもの)

(4)「東都掃苔記」(題目一覧)(PDF)記事PDF

(「東都掃苔記」は、漢方医で医史学者であった安西安周(あんざい・やすちか)(筆名・杉野大澤)が昭和29年(1954)から昭和31年(1956)にかけて週刊誌『日本醫事新報』に連載したものです。)

染井霊園に眠る医家の方々(名前の50音順)

(医家ではありませんが、 今村有隣、濱尾新、古市公威、三上参次は、東京帝国大学関係者として収録しました。)

(1) 阿久津資生(あくつ・しせい)(1846-1915)(軍医)

(2) 井上元章(いのうえ・もとあき) (1834-1878)(軍医)

(3) 今村有隣(いまむら・ゆうりん)(1845-1924)(東京高等学校教授・フランス語学者)

(4) 大瀧富三(おおたき・とみぞう)(1841-1902)(順天堂設立)・潤家(おおたき・ますえ)(1876-1948)(内科)

(5) 岡田和一郎(おかだ・わいちろう)(1864-1938)(耳鼻咽喉科)

(6) 岡田清三郎(おかだ・せいさぶろう)(1885-1946)(内科)

(7) 緒方正規(おがた・まさのり)(1853-1919)(衛生学)

(8) 緒方規雄(おがた・のりお)(1887-1970)(細菌学)

(9) 尾澤主一(おざわ・しゅいち)(1858-1889)(小児科)

(10) 勝沼精蔵(かつぬま・せいぞう)(1886-1963)(血液学)・晴雄(1916-1985)(衛生学)

(11) 高 良齋(こう・りょうさい)(1799-1846) (蘭学者 シーボルト門下)

(12) 小峰茂之(こみね・しげゆき)(1883-1942)(精神医学)

(13) 榊俶(さかき・はじめ)(1857-1897)(精神医学)

(14) 榊保三郎(さかき・ほさぶろう)(1870-1929)(精神医学)

(15) 榊順次郎(さかき・じゅんじろう)(1859-1939)(産婦人科)

(16) 下條通春(しもじょう・みちはる)(1827-1885)(漢方医)

(17) 下瀬謙太郎(しもせ・けんたろう)(1868-1944)(軍医)

(18) 須田卓爾(すだ・たくじ)(1869-1910)(眼科)

(19) 田口和美(たぐち・かずよし)(1839-1904)(解剖学)

(20) 田口碩臣(たぐち・ひろとみ)(1880-1923)(解剖学)

(21) 高階経徳(たかしな・つねのり)(1834-1889) (明治天皇の侍医)

(22) 高山正雄(たかやま・まさお) (1871-1944) (法医学)

(23) 田中苗太郎(たなか・なえたろう)(1869-1910)(外科)

(24) 坪井信道(誠軒)(つぼい・しんどう)(1795-1848)(蘭方医)・信良(しんりょう)(1825-1904)(静岡病院(藩立駿府病院))

(25) 濱尾 新(はまお・あらた)(1849-1925)(東京帝國大學総長)

(26) 古市公威(ふるいち・こうい)(1854-1934)(工科)

(27) 三上参次(みかみ・さんじ)(1865-1939)(史料編纂)

(28) 水原豊(秋桜子)(みずはら・ゆたか<しゅうおうし>(産婦人科)

(29) 山内豊城(やまうち・とよき)(佐藤泰然と関係)

🌸🌸🌸🌸🌸

(1) 阿久津資生(あくつ・しせい)(1846-1915)

墓石の位置:1種ロ6号5側

阿久津資生肖像

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順天堂医院創立功労者のひとり。阿久津家は下野大田原藩の藩医。弘化3年10月20日生。大正4年9月20日没。軍医として活躍したあと、順天堂の佐藤進院長を補佐。

文献:「東都掃苔記(54)」:阿久津資生翁の墓・阿久津三郎博士の墓. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/be19ea20-8fd2-4c1f-9475-a85f6425f420/328747ce8f8e3008fbe4cf8221f365fa)

(2) 井上元章(いのうえ・もとあき)(1834-1878)

墓石の位置:1種イ5号1側

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陸軍軍医 旧土佐藩士
碑文のなか:明治十一年十月十一日 四十有四年

記念碑の正面:正七位勳五等井上元章君碑

(3) 今村有隣(いまむら・ゆうりん)(1845-1924)(第一高等学校教授・フランス語学者)

墓石の位置:一種イ2号7側

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この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は pwCWH4IW-plR_qUcwRkephap7lEpKjgwzJf5Gi7NeK2k4SsZVwpgP-jGohVtbZXq6AommDNaVvUpXB_BJw=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は KtC-PeEUmISdzL6WQ4oIsrN4iE71TtoTz5OcRayVlB0y3Be1CLZIYfJc8JUK819eMIavIJljNSWrYvZj2A=w578-h770-rw です

(今村有隣の息子の今村新吉は、京都帝国大学京都医科大学精神医学講座の初代教授)

(4) 大瀧富三(おおたき・とみぞう)(1841-1902)・潤家(おおたき・ますえ) (1876-1948)

墓石の位置:1種イ8号3側

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この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は xQOeEpoelVrpkGSVVL-yExC8on7m6FcAd796c8OxMsJwlR1Yjge8YtL1iJG4pi11TQMMWjDVlg-ngsmtaw=w495-h660-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 1-U4ivwErBV2_o0D1tyrupS5QENr15KkDdj9GlY3Fx3kGkLjIiMKDKBKNNgtoFvNjMD_hJmpuYlPCW_ebw=w495-h660-rw です

大瀧潤家(おおたき・ますえ)は佐藤尚中の五男で大瀧富三の養子、駒込病院、順天堂医院内科に務めました。

文献:「東都掃苔記(55)」:大瀧家の墓・大瀧潤家博士の墓. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/72fe2aa8-c632-48bd-8ebb-f52cc32c5174/4a4589cd647412ad33b818ddf44cf634)

(5) 岡田和一郎(おかだ・わいちろう) (1864-1938)

墓石の位置:1種イ4号8側
正 面:岡田家之墓
右側面:昭和二十二年三月改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:東京帝國大學名譽教授 正三位勲二等醫學博士 天祥院殿名譽昭和鐵山大居士 岡田和一郎 昭和十三年五月三十日薨去 行年七十五才

岡田和一郎(肖像)

東京帝国大学医学部教授・耳鼻咽喉科学

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墓域内に「岡田先生遺徳碑」があります。(題額は若槻禮次郎)

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この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は OkadahiRGB.jpg です

(6) 岡田清三郎(おかだ・せいさぶろう)(1885-1946)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:岡田家之墓
右側面:昭和二十二年三月 改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:名古屋帝國大學教授 正三位勲二等醫學博士 眞性院清譽覺月淨光居士 岡田清三郎 昭和二十一年三月十日薨去 行年六十二才

岡田清三郎(肖像)

千葉医科大学第二内科教授・名古屋帝国大学教授・昭和医科大学理事・消化器内科。墓域内に「岡田清三郎先生記念碑」があります。

(7) 緒方正規(おがた・まさのり)(1853-1919)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:東京帝國大學教授正三位勲一等醫學博士緒方正規墓
背 面:法号顕正院釈規眞居士 嘉永六年十一月五日於熊本縣八代郡川俣村生 大正八年七月三十日於東京薨去 行年六十七歳

緒方正規(肖像

東京帝国大学医学部教授・衛生学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 044-1.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 041-4.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 035-2.jpg です
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8) 緒方規雄(おがた・のりお)(1887-1970)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:緒方家之墓
右側面:覚證院釋仁信居士昭和四十五年二月六日俗名規雄

千葉医科大学教授・帝国女子医学専門学校教授・日本歯科大学教授・細菌学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Ogata-Masanori1-1.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Ogata-Masanori2.jpg です

第7回[仙台・昭和8年]と第8回[大阪・昭和9年]の日本医学図書館協会総会に千葉医科大学の附属図書館長として参加。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 第7回協議会(東北)昭和8年集合写真.jpg です
第7回協議会集合写真(東北・昭和8年)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 第7回協議会集合写真名前一覧.jpg です
第7回協議会集合写真名前一覧(東北・昭和8年)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 緒方規雄集合写真(第8回総会・大阪帝国大学昭和).jpg です
第8回協議会集合写真(大阪帝国大学 昭和9年)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 緒方規雄集合写真名前.jpg です
第8回協議会集合写真名前一覧(大阪帝国大学 昭和9年)

(9) 尾澤主一(おざわ・しゅいち) (1858-1889)

墓石の位置:1種イ5号32側正面:醫學士尾澤主一之墓
裏面:明治廿二年六月廿一日

尾澤主一(独逸伯林留学中の集合写真より)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は OyXAdnCJxtMazh1DrJ7PG7P0ynfLYq6X__ARj48N-wDyF9RFx2T4pfgATHWruF5q6pt-UX-Nj5_0Xi2ud3LF9QX1SO1fdJPnrcw9GtV0Ow=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は -lG8PWZhGtp9tCAfm8v91y5RwhCslbMN7iWneK2DuY6H4D9OzSFY8PPUpmoFSMDXehpgMOA2Z5UgRlXnWHh0VhPgb0sc9Qd4XyyN_XVvzw=w578-h770-rw です

尾澤主一は、同じ染井霊園に眠る田口和美(解剖学)らと独逸伯林に衛生制度見学ため派遣されたことがありました。その時の集合写真が、『石黒忠悳 懐旧九十年』(昭和十一年 石黒忠悳著)に載っています。尾澤主一の隣りには隈川宗雄、後ろには江口襄、北里柴三郎が写っています。森林太郎、中濱東一郎、河本重次郎、山根正次、片山國嘉、濱田玄達の顔を見えます。

尾澤主一は、帝国大学医科大学で小児科を担当していましたが、任を辞してまで留学するのですが、この独逸留学の帰途、病を得て、清国上海の旅館で亡くなります。明治22年(1889)6月21日のことでした。32歳の若さでした。(参考図書:『明治二十一年六月三日 鴎外「ベルリン写真」の謎を解く』(山田光夫著 講談社 2012))

「明治二十一年 於伯林 医学関係者」(出典:「石黒石黒忠悳 懐旧九十年」)

(10) 勝沼精蔵(かつぬま・せいぞう) (1886-1963)

墓石の位置:1種イ4号19側
正 面:勝沼家之墓
背 面:昭和三十一年十月建之

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 勝沼家の墓.jpg です

息子の勝沼晴雄<1916-1985>は東京大学医学部公衆衛生学教授・医学部長、杏林大学副学長

(11) 高 良齋(こう・りょうさい)(1799-1846)

墓石の場所:1種イ3号1側

高良斎(肖像)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は sFcERb1XGYPtFk2lh6xk0lusOhdEne3FlcIRZrYVJd0_ZxEA3V4QN19p9pXnUDmorB44rY41JVHgNCkR0g=w578-h770-rw です

蘭学者。寛政11年(1898)5月19日、徳島城下助任村(現在の徳島県常三島町)に生まれる。シーボルトについて医学(眼科)を学ぶ。

(12) 小峰茂之(こみね・しげゆき)(1883-1942)(精神医学)

墓石の位置:1種イ4号20側

小峰茂之肖像

幣原喜重郎の墓の裏手にあたります。墓域には、「保證責任東京醫師建築信用購買利用組合」の献燈が一対、置かれています。

小峰茂之:明治16年(1883)生れ。昭和17年(1942)1月10日没。王子脳病院院長。小峰病院院長。

王子脳病院 (東京府北豊島郡滝ノ川西ヶ原899)は、現在の北区立飛鳥中学校(北区西ヶ原3-5-12)の辺りにありました。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は BDNWT_GfEQNpwkGLWhTHbgIo5GWhJ231MwC1LVQ80vUWzhx-GWDMxeawy55nPYokg6VGXXcVyPm_SB-M_YXrnCuEVOIh4XheyoYbTjdO4w=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は ZndClU2LL836APVsZBd6tJqts9mT-yf85VG73jFbYJpbv6rWyYp6h3-EgeZQRIVySzv4q3OEDYrRv8oIxFUkB6TI4QfzK69UYAgStpNCPw=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は w29qnynvV99Q8x0BAMUqIVcrUEd_W75Y_mBoMvvuqq5a02Wbqe0XVsB3eDS2hJkp-W-pg9pws3X6xTWVNi3quL5s4UM4AbJzzDaPLSaLbA=w578-h770-rw です

(13) 榊俶(さかき・はじめ)(1857-1897)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:東京帝國醫科大學教授従五位醫學博士榊俶墓
右側面:高樹院顕譽光徳俶睿居士
左側面:明治三十年二月六日歿 享年四十一

東京帝国大学医学部教授・精神医学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は %E6%A6%8A%E4%BF%B6-300x292.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Sakaki-Hosaburo-1.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Sakaki-Hajime.jpg です

(14) 榊保三郎(1870-1929)(さかき・ほさぶろう)

墓石の位置:1種イ4号8側
正 面:榊家之墓
右側面:従四位勲三等醫學博士文學博士昭和四年三月十九日歿 栴檀院殿精譽不撓永保居士 榊保三郎 享年六拾歳

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は %E6%A6%8A%E4%BF%9D%E4%B8%89%E9%83%8E001.jpg です

九州帝国大学医科大学教授・精神医学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Sakaki-Hosaburo-1.jpg です

(15) 榊順次郎 (さかき・じゅんじろう)(1859-1939)

墓石の位置:榊俶のお墓に入る墓道の手前(二葉亭四迷のお墓と墓道を挟んで斜め前)

榊順次郎(榊病院長・産婦人科) は榊俶の弟。別家。(関連:第47回参照

(16) 下條通春(しもじょう・みちはる)(1827-1885)

墓石の位置:1種ロ2号4側

下條通春は、松本藩御殿医。下條康麿は、政治家・統計学者。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は ZPT1UfOOgFB3-fLbez833ib24gbGgMXoVIduj2pgAyOHYwcXqimD2bqdYz_aB2n3Dgsd9sSpN_QgMsWZtw=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は xr_iUD457O2_9tPtvEb-Hn0RqC8Q8ZV0v46LNcyuuqf7ZmoxTQvVGitbWgntmb0-6Y1oRgMc6pt8CNX4mA=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は tcsWLKOY_9KsNe8ALp7djclfW4F0_u2QhMKZdakuiDPt6o9sjJQ4Bt3GFzXxSyyHxyEF8af4eU3xsh8trA=w578-h770-rw です

(17) 下瀬謙太郎(しもせ・けんたろう)(1868-1944)

墓石の位置:1種ロ12号

墓石の正面:下瀬家之墓

墓石の裏面:昭和五年五月二十一日改修 豊後高田下瀬氏

このお墓は、昭和5年(1930)、下瀬謙太郎自身によって改修されたものです。

墓誌:下瀬謙太郎 昭和十九年三月二十九日 行年 七十六才

下瀬謙太郎(肖像)

陸軍軍医監、陸軍軍医学校長(19代)。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は U_hZFtyBJ-X-By0Hq5gD1i2xdY506lC9rWOPgRdV3qWR9gM3QgCLk9Ob1mmBE8RDSn4ywyXR7wj6vAC0Avb_tNLZdRcvnE5Nz1uxWqi5ng=w578-h770-rw です

文献:「東都掃苔記(66)」:下瀬家の墓. https://www.evernote.com/l/ALRk6ECCBTdFbpxQHC605tX7vO73eZSXxys/

(18) 須田卓爾(すだ・たくじ)(1869-1910)(眼科)

墓石の位置:1種イ1号11側

須田卓爾(肖像)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は bU0ods31ssEkHBvBeRCCcRPYnJ_amhl4Uek27XGSnf3gkeL7QPjuanxeue-3EBvcAWLWrwpYHJe3xv4AZTxZGIuxedF3k5g3cVTOQzdFuQ=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は j0QDsP9WrEKYEQYI-s-Tkr1OSKE2Bhp6fzqQZ-CENdKGoycXfmsPRQvEmWv1MHTLCK8S53cuWInnnCXuvE3-lF5nlhtx2F5crrA79kGoaw=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は vGIAetNFqohEtCin9d7kBzibxrev86uEXX1WguVB9fR6pvSuyAvkpOB9qn93dwS6d9to5RVPN4zglth5DDT3nn-gLRJgj0j4AvdJZf6qFg=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Vi9LQzTdScTZubOiDKWaBi5Tf273UbQZtQBsetnfcxDONbZq-dvAfYJ0TDPVAjILV6VdJri3umufXb45-d5trcGDkCeCET6F0VB7chDffQ=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は mNklclCwAsRywy7szOsR2D-lWGxf-L4xoUYqZYvKt0Mx50sttkRrZyczPfgNXsZZr6hLJaPfUl3gDHm5F0jXAUaA5CzlbXxBVvf055gkog=w578-h770-rw です
「須田卓爾先生墓誌」

明々堂眼科として知られた春日町の須田家の墓。「須田卓爾先生墓誌」の冒頭には、以下のように刻まれています。

先生ハ信州高遠内田文皐ノ長男明治二年九月廿九日生ル、同廿二年第二高等中学校醫學部卒業 須田哲造ノ養嫡子トナル 同年独逸國ニ留學シ「ドクトルメディチーネ」ノ學位ヲ得 同廿九年帰朝シ家業を継承シテ明々堂眼科醫院長トナル

墓道を挟んで、ちょうど田口和美の墓と向かい合っています。染井通りにつながる霊園の正面から入り、霊園事務所横の墓道を進むと左手に階段のついた墓域があります。そこが、須田家の墓域です。生垣が、きれいに整備されていました。

文献:「東都掃苔記(53)」:須田氏の墓 (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/a288b009-c48c-49b4-a6c3-53a68bc85b83/1da011f87ee4f40f98538f2598607b2d)

(19) 田口和美(たぐち・かずよし)(1839-1904)(解剖学)

墓石の位置:1種イ1号12側
正 面:正四位勳二等醫學博士田口和美墓

東京帝国大学医学部教授・解剖学教授

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Taguti33.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 011.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 008-2.jpg です

(20) 田口碩臣(たぐち・ひろとみ)(1880-1923)(解剖学)

墓石の位置:1種イ1号12側(田口和美と同じ墓域)
正 面:正四位勳四等醫學博士田口碩臣墓 室 田口ツル墓
右側面:皎月院殿淨誉碩臣大居士 大正十四年九月三十日歿 行年四十六歳
左側面:貞照院慈光妙鶴大姉 昭和二十六年五月廿八日歿 行年六十歳

千葉医科大学(千葉大学医学部)・解剖学教授

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 008-2.jpg です

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は bMmJkY0rF5o-mQFRsrQ2qkhSArij3u3tR94OX7aOcNu5BVnwLioFk6tsxMQEpQo_K9rzgvbUoaFg0dpKxJ3lT1NETERsaR9ggyP-dJgQ5w=w578-h770-rw です

(21) 高階経徳(たかしな・つねのり)(1834-1889)

墓石の位置:1種イ3号1側
墓石の正面:高階家之墓
墓石の裏面:昭和六十二年十一月吉日 施主 高階経和建之

京都出身。明治天皇の侍医。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 1QQ13_aLXAAy8kxw39e7hceN0SLcSoQKiMzLGQSidnTUhB10gevIvuXCVGDJAzCL_DWJGgDQSrqrZj5HjEN_YrOEDaj1JqW6IUeKkdV6Ug=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は TTgAulXp0ygdNQAKF50NXIT8pJFYK0sPcKT7gDO-k2UzuQPdb-M3OKVKBpyBLcweIRmelff1ymWQ6JnlmCMz85KKmBdqk1GAeXXuVON37g=w578-h770-rw です

(22) 高山正雄(たかやま・まさお) (1871-1944) (法医学)

墓石の位置:1種イ12号3側
墓石の正面: 高山家累代之墓
墓石の裏面: 明治四十五年七月八日建立 醫學博士 高山正雄

右側: 高山正雄 昭和十九年十月十日歿 行年七十四歳

高山正雄(肖像)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は FKc5WSNLjmQxaIx_5dtsHDZtk-jzc4VYoJ8qGmjG76jSvajNW16WQwwCx3h3kZX0lkadATUMCELpO7XORQ=w578-h770-rw です

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明治32年(1899)、東大助教授となり、同36年(1903)独逸に留学し、同39年(1906)に帰朝。京都帝國大学福岡醫科大學教授(現在の九州大学医学部)(法医学を担任)。夫人は中濱東一郎の長女。九州帝国大学医科大学教授総長 長崎医科大学学長

文献:「東都掃苔記(58)」:高山正雄博士の墓・菅野徹三氏の墓・田中苗太郎博士の墓. https://www.evernote.com/l/ALR4DRWyexVF7Jqg0_TnG6JHSelIMgGpVCs/

(23) 田中苗太郎(たなか・なえたろう)(1869-1910)

墓石の位置:1種イ12号1側

田中苗太郎(肖像)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は -jcwDvEYeMg1p-rpmiYMhSmStq0v3Rgszkqi8AGO8sCrLWMldBmraVfj286G9Dv9YeWHXAf32QMf-mi8KA=w578-h770-rw です
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永楽病院外科医長を務め、明治39年(1906)には、鹿児島病院長兼外科医長嘱託。病を得て、明治42年(1909)に鹿児島病院長を辞し兵庫県西宮で療養後、明治43年(1910)に上京。同年12月15日、本郷千駄木町で逝去。享年42歳。

文献:「東都掃苔記(58)」:高山正雄博士の墓・菅野徹三氏の墓・田中苗太郎博士の墓. https://www.evernote.com/l/ALR4DRWyexVF7Jqg0_TnG6JHSelIMgGpVCs/

(24) 坪井信道(誠軒)(つぼい・しんどう)(1795-1848)(蘭方医) ・信良(しんりょう)(1825-1904)(静岡病院[藩立駿府病院])

墓石の位置:1種イ8号6側
正  面:誠軒先生之墓
左側面:墓誌
裏 面:墓誌

没年月日:嘉永元年(1848)11月8日(54歳) 緒方洪庵の師。

坪井信道が、はじめ葬られた浅草誓願寺は,田島山快樂院と号し,浄土宗江戸4ケ寺の一つで天正18年(1590)相模小田原に創建されたお寺です。のち江戸に移り,神田白銀町(須田町)を経て,明暦大火後,寛文元年(1661)浅草田島町に移っています。

誓願寺の子院には,坪井信道の墓のほかに,小野蘭山,宇田川榛斎などの著名人の墓が数多くありました。のち誓願寺は多磨霊園近くに移転し,坪井信道,宇田川榛斎の墓も多摩霊園(府中市多磨町4丁目)に移されています。

『東京掃苔録』(昭和15年刊)によると,坪井信道の墓は,多摩霊園の第五区乙三側と記載されていますが,その後,現在の染井霊園に改葬されたようです。

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坪井信良墓(墓域の正面)

墓石の位置:1種イ8号6側
正 面:坪井信良・與能子之墓
側 面:坪井信良略歴・墓誌
背 面:後妻與能子墓誌

坪井信良は、坪井信道の養子で、静岡病院(藩立駿府病院)では、戸塚文海とともに副院長を務めた人物です。

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染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.

(25) 濱尾 新(はまお・あらた)

墓石の位置:1種イ4号1側
墓石の正面:従一位勳一等子壽濱尾新墓 室作子


没年月日:大正14年(1925)9月25日(77歳)

「濱尾子爵略歴・葬儀概況」(学士会月報)第451号. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/a20065f4-02cf-4a81-b188-37e10a48faff/8da0b07cf9c3699cc25e3bfe17d89624)


東京帝國大學総長(明治26年)、枢密院議長(大正13年)

濱尾新の銅像が東京大学本郷構内にあります。

(26) 古市公威(ふるいち・こうい)(1854-1934)

墓石の位置:1種ロ6号8側

墓石の表面:工學博士男爵古市公威墓 室 幸子墓

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は zgqbEL6wfwLIw3ZdKkWQ8ZXS70diQDADOmxlg_I_OfE2c8fmo-QuWsCnv1ndXGSO8Y5f7n2ppCdv9aFuCRUe5u12YeSXLIK9OTxK7QgkGA=w578-h770-rw です

帝国大学工科大学初代学長:東京大学本郷構内に銅像があります。

(27) 三上参次(みかみ・さんじ)(1865-1939)

墓石の位置:1種イ13号1側
墓石の正面:三上参次 室晴子 墓
墓石の側面:崇文院殿三長明観大居士 昭和十四年六月七日薨 享年七十五

史料編纂所掛事務主任、東京帝國大學文科大學教授。「明治天皇記」を編纂。貴族院議員。 医科大学で皮膚泌尿器科教授をつとめた宇野朗とは姻戚関係。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 13KEzXuu1EhcY_XHVVLNabnMNuyg294IeCgexycM61YFbd5K5nwyOmIBuuLOCa3369hPzqJplctjrpycdqVZRS39ZUknz5uNcRhdhwZovw=w1026-h770-rw です
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(28) 水原豊(秋桜子)(みずはら・ゆたか<しゅうおうし>)(1892-1981)

墓石の位置:1種イ3号1側
正 面:水原秋桜子 妻しづ之墓
裏 面:昭和五十六年十月 水原春郎建之

昭和医学専門学校教授・産婦人科学・俳人「ホトトギス」で活躍、「馬酔木(あしび)」を主宰

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は r8TEmeZ8aGVElEB_LmKiAOlW4yn9le58uqFLyVLVavVAdcCDp13yfkJz7BTu1ON9tY0QWwwQa29lZGhqc2UlBMCCN2hPOIMVGrijuxOpHQ=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は DRNOXJAizrfgo6rGOrYbWeQPaL7EthZHMMCMgDfCoXEF38l4zjw6mV-O6HS-ibzQz5iNmEb-XkE_-6YqpA=w1026-h770-rw です

(墓石には水原秋桜子と刻まれていますが、墓域内にある墓誌には、水原豊<昭和五十六年七月十七日八十八才>と本名が刻まれています)

(29) 山内豊城(やまうち・とよき)

墓石(五輪塔)の位置:1種イ1号19側

山内豊城(やまうち・とよき)の妻(河端清子)の妹が、佐藤泰然の妻。山内豊城と佐藤泰然は、義兄弟の関係。山内堤雲(ていうん)(六三郎)(箱館戦争、のち開拓使)は豊城の3男。山内恭彦(たかひこ)(東京帝国大学理学部)は孫。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は P1kxXAbaBgpJPquF96GnNSRSG12Xy2WFbILFkkbdvr1XLJtHSm7lQYu_TvNPjaXEW1Siuw-lcytz3ViydQ=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は S8oEr5JVnoIfi_JWbam27HnWVUA55YO7FtC1ZYCvrDhqrX6HgMlTaWu19k-6RJmVPFevdz7c8BwPL5XF9g=w495-h660-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 8TjLsJSKDXshTYW68J0-I7zwkG2p54fiuQb1CfiA5JaZ_M8rEi0MUB9LpnJyMzgWi7c4HwRhjRxgvGa1IQ=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は e08F5cTYNf2puR-VHDu46QovBl5sRcmhcggYUW2v2cYIz3Wv97_Y-_HYp-XfmHWVCfx-_EC16rI92mK2ww=w578-h770-rw です

(平成14年7月28日 記) (令和元年[2019]9月6日 追記)

72. 池田京水のお墓を探す

場所:東京都雑司ヶ谷霊園(1種10号1側)

(はじめ向島の嶺松寺(れいしょうじ)に葬られたが、のち染井墓地を経て雑司ヶ谷墓地に遷された[森鴎外による調査])

雑司ヶ谷鬼子母神(絵葉書)

♪少し医学図書館員らしいことを考えてみました。森鴎外が情熱を傾けて探した池田京水のお墓の所在についての調査です。

♪まず、鴎外が探索した年は、大正のはじめのことですから、昭和15年(1940)に発刊された『東京掃苔録』(藤波和子著 八木書店 昭和48年再刊)には、収載されているのではないかと思い調べてみました。載っていました。それによると池田京水のお墓は雑司ヶ谷墓地(豊島区)にあるとありました。

♪『東京掃苔録』の雑司ヶ谷墓地の池田京水の項には、以下のように記述されています。

 「池田京水(醫家)名大淵、通稱瑞英。瑞仙の男。種痘を以て知らる。著書痘科學要、痘科曾通等あり。天保七年十一月十四日歿。年五十一。宗經軒京水瑞英居士。」

♪次にインターネット上でも、調べてみました。『ルーツを訪ねて 江戸の疱瘡醫 池田京水とその一族』(中尾英雄著 平成7年)という書籍がありました。

自費出版図書館(2016年閉館)で所蔵しており、郵送での借り出しが可能なことがわかりました。送られてきた図書によると、著者の中尾英雄氏は、池田京水の子孫にあたる方で、父方の祖母(中尾喜代氏)が、京水の孫であるとのことです。

(令和元年[2019]8月 弘南堂書店[札幌]より入手)

♪中尾英雄氏は、文藝春秋に連載された松本清張の「二医官伝」を読んで、祖母の実家「池田家」について書かれていることを知り、池田家ルーツの探究をスタートさせ、ついに、池田分家の墓と円柱状の石碑(四世痘科京水池田瑞英先生門人誓書埋蔵之表)が、雑司ヶ谷霊園の1種10号1側(後掲写真参照)にあることを突き止めています。

♪実際に池田京水の墓域を発見したのは、探募の調査に協力していた中尾氏の友人(出版社勤務)であったそうです。雑司ヶ谷霊園を散策していて偶然に円柱の形をした石碑が目に入り、それが池田京水に関係するものであることに気づいたとのことです。

♪また、のちに長尾氏は、池田本家のお墓を谷中霊園(乙9-14)に発見しています。これには、東京大学総合図書館の「鴎外文庫」に収載されている「池田氏事蹟」(森鴎外が執筆のために調査したことをまとめた手稿)のなかに「谷中墓地管理者茶屋金子」と記載があったのが手がかりとなったとのことです。

池田分家の墓を発見 pp.109-112. 池田本家の墓見つかる pp.113-115.

東京大学総合図書館所蔵 鴎外文庫本書入本画像データベース

(平成14年(2002)7月23日記)(令和元年[2019]8月16日 追記)

🌸

♪平成14年[2002]7月21日(日)に豊島区立中央図書館に雑司ヶ谷霊園関係の資料を探すために行ってきました。『豊島の墓(著名人の墓 その2 雑司が谷霊園)(豊島あちらこちら 第9集)』(東京都豊島区教育委員会 昭和58年)をみつけたあと、中尾英雄氏が参考にした「二医官伝」[『松本清張全集 64 両像・森鴎外』(文藝春秋刊)]を見てみることにしました。(「ニ医官傳」は、雑誌「文藝春秋」に連載されたあと「両像・森鴎外」と題して出版された。)

♪いろいろ探索しているうちに『伊澤蘭軒』(『鴎外全集』 第17巻 収載)の「その二百十八」以降に池田京水のお墓の所在の手がかりとなる記述があることがわかりました。「その二百二十」に二世全安の話しとして、次ぎのようにあります。

 「嶺松寺(れいしょうじ)の廢せらるるに當つて、二世全安は祖父京水の卑屬(ひぞく)たる池田分家並に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てて「池田家累世之墓」と題した。・・・・・然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、亳も得る所なくして帰つたのは何故であつたか。墓地の管理をする家の女は、わたくしに墓には皆檀家あり、檀家に池田氏なきを以て答へたのであった。そして女はわたくしを欺かなかった。二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙(うつ)した。わたくしの巣鴨に往つたのは此遷徙(せんし)の後であった」

♪この鴎外の記述を読んで、疑問に思ったことがあります。まず、鴎外は『渋江抽齋』(『鴎外全集 第16巻 収載』)のなかでは「染井共同墓地」と表記をしているのに、なぜ、ここでは「巣鴨共同墓地」として染井ではなく巣鴨の地名を使っているのか。これは、染井共同墓地の住所(場所)が、北豊島郡巣鴨町であったためと思われますが、ちょっと不自然に感じました。鴎外は、谷中共同墓地のことを上野共同墓地とも書いています。

♪さらに二世全安(まさやす)(池田分家入婿・京水の孫あぐりの夫)が、嶺松寺(れいしょうじ)(向島)にあった池田京水のお墓を、「染井共同墓地」に遷したあと、どのような理由で、再度、お墓を「雑司谷共同墓地」に遷したのかという疑問です。「染井共同墓地」と「雑司谷共同墓地」とは、距離的にも、そんなには離れている訳ではありません。鴎外が大正5年(1916)の正月に「染井共同墓地」を訪ねて、お墓が発見できなかった時に、他の共同墓地(谷中・雑司ヶ谷・青山など)は、調査の対象にならなかったのか・・・。そんな疑問も浮かびました。

♪幸い、雑司ヶ谷霊園は、職場からの帰り道にあたります。資料も揃いましたので、近々、池田京水の墓域を確認しに行ってこようと思います。

(平成14[2002]年7月23日 記)(令和元年[2019]8月18日 追記)

🌸

♪雑司ヶ谷霊園は、おおまかにいうと首都高速の護国寺の出入口がある交差点の池袋寄りの所にあります。霊園からは、サンシャインビルがよく見えます。

東京都雑司ヶ谷霊園前の小篠坂

♪都電荒川線(三ノ輪橋―早稲田)の「雑司ヶ谷」駅で降りて行くことができます。霊園に入ってみて、騒々しい霊園だと感じました。霊園の中には、車道が走り、空には高速道路が丸見えです。墓道にも、雑草が生え、霊園全体の手入れもあまり行き届いていないようにも思いました。

 ♪中尾英雄氏の著書にあった池田京水のお墓(池田分家のお墓)の住所(1種10号1側4)を頼りに、霊園内を歩きました。途中、「塩田家之墓」の墓石が、なぜか目に入り、たぶん塩田広重先生(東京帝国大学教授・附属医院長・日本医科大学長・外科学)のお墓ではないかと思いました。墓域内をみると東京大学医学部塩田外科門下生が昭和41年(1966)5月に建てた顕彰碑が建っていました。

塩田広重墓(雑司ヶ谷霊園)1
塩田広重墓(雑司ヶ谷霊園)2

♪池田分家のお墓と「四世痘科京水池田瑞英先生門人誓書埋蔵之表」の石碑は、霊園の中を走る「いちょう通り」に面してありました。ブロック塀に囲まれて墓域が整備されています。それぞれの墓石は、湮滅が激しく墓石に刻まれた文字がよく確認できないところもありました。石碑の右隣に「池田家代々墓」がありましたが、二世全安が「巣鴨共同墓地」に建てたという「池田家累世之墓」との関係はわかりませんでした。

雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(1)
雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(2)

雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(3)
雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(4)

雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(5)

♪雑司ヶ谷霊園には、竹久夢二、夏目漱石、永井荷風、泉鏡花、小泉八雲、成島柳北、島村抱月などのお墓のほかに、医家のお墓も点在しています。少し涼しくなったら、雑司ヶ谷、鬼子母神界隈を散策して美味しい珈琲店を探したいと思います。

(平成14年[2002]7月30日 記)(令和元年[2019]8月18日 追記)

71. 森鴎外と染井共同墓地


♪森鴎外は『渋江抽齋』(『鴎外全集』[岩波書店] 第16巻 収載)の中で、染井霊園についてふれています。「抽齋の痘科の師となるべき池田京水(いけだ・けいすい)」の墓を探す経緯が書かれています。

 

青空文庫:『渋江抽齋』

その十七

「わたしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初になった。・・・嶺松寺(れいしょうじ)の廃せられた時、其事に與った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家が無かったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であった。・・・しかしわたしは念晴しのために、染井へ尋ねて往った。・・・墓にまいる人に樒(しきみ)や線香を売り、足を休めさせて茶を飲ませる家で、三十計の怜悧(かしこ)そうなお上さんがいた。わたくしは此女の口から絶望の答を聞いた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然(せいぜん)たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中うちには池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。

「それでも新聞に、行倒(ゆきだお)れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往いく所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払とりはらいになって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁はんばくを試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣やる人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角(せっかく)尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合うけあい申しますから。」こういって女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容いれずに引き返した。

♪『大正五年日記』(『鴎外全集』 第35巻 収載)を繰ってみると、鴎外が染井共同墓地を訪ねたのは、大正5年(1916)の1月10日(月)[晴。 白雲。]だったことが、わかりました。『渋江抽齋』を「東京日日新聞」に連載し始めるが、1月13日(木)のことですから、その前に、染井共同墓地を訪ねたことになります。

♬染井霊園の正面入口の横に「山田屋本店」(休憩案内所)と「信照庵本店」(御案内所)があります。鴎外もここに立ち寄っていろいろ訊ねたのでしょうか。

 

染井霊園入口(染井通り)
染井霊園入口にある山田屋本店
染井霊園入口にある信照庵

 

♪その時、鴎外はどの道筋を通って染井共同墓地にきたのでしょう。 当時、鴎外は、本郷千駄木の観潮楼に住んでいましたから、団子坂上から本郷通り(岩槻街道・旧日光御成道)に出て右折、吉祥寺前を通り、上富士前を過ぎ、現在の六義園染井門のある駒込橋交差点から分岐する染井通りに入ったと思います。

♪その日は、前夜からの雨も上がり、暖かい日和だったようですが、どんな仕度をしてやってきたのでしょう。染井植木屋が多くあった染井通り(江戸時代からいまに残る道)には、まだ、お正月の雰囲気が残っていたかもしれません。いろいろと当時のことを想像するだけでも興味がつきません。

♪「江戸東京」の散歩の機会に、森鴎外が探した池田京水のお墓を探索してみたいとおもいます。

染井霊園入口から見た染井通り 画面奥が、六義園の染井門方向で、本郷通り(旧岩槻街道)に繋がる。

本郷通りを歩く(堀江幸司著)

(平成14年7月20日記)(令和元年(2019)8月26日 追記)

70. 東京都染井霊園:ローダスカ・ワイリックのお墓 :Gravestone of Loduska J. Wirick (1856-1914) She is buried in Somei Cemetery, Toshima-ku, Tokyo.


 

染井霊園:東京都豊島区駒込5-5-1

♪染井霊園を正面入口である染井門(駒込駅方面口)から入って,霊園事務所横の墓道を左折して巣鴨門方面に向かうと,染井吉野桜で囲まれた休憩広場があります。

♪この休憩広場には,ベンチが置かれ,春のお花見のシーズンになるとシートが敷かれて,宴会が行なわれます。また,老人会によるゲートボールも,この休憩広場で行なわれます。散歩した今日は,さわやかな秋の日差しが葉陰をつくり,お年寄りがベンチでおしゃべりに興じていました。

♪休憩広場の横を通って,ややしばらく行くと,左側に外人墓地の一角があります。ここにも,染井吉野桜の大木が何本かあり,幹から枝が血管のように伸びています。

♪この外人墓地の辺りを散策していたら,平成13年(2001)初秋に染井霊園によって建てられた「東洋のナイチンゲール ローダスカ・ワイリック 永眠の地」の標柱と説明板があることに気がつきました。お墓(石碑)の石柱の部分に「ローダスカ・ワイリック先生之碑」,台座の部分に「WIRICK」と刻まれています。

♪墓石の形にもいろいろありますが,ローダスカ・ワイリックのお墓は,とくに美しい形をしています。教会の説教台の上に聖書を開いて置いた形となっています。「ローダスカ・ワイリック先生之碑」の文字の上には,菊の紋章のようなものも彫られています。西洋的な概観の中に日本的なデザインがよく調和しています。

 ♪ローダスカ・ワイリック(Loduska J. Wirick)(1856-1914)のお墓の横の墓道に説明板が建てられています。記録のために,その全文を書き写しておきます。

 ロダスカ・ワイリック(1856-1914)

 アメリカ合衆国オハイオ州に生まれ,1890年(明治23)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日,5年間にわたり伝道活動に携わり,一時帰国。翌1896年再び来日し,教会を開いて伝道に努める一方,学習院や府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教えたり,多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。また,当時偏見の強かったハンセン病施設で患者の世話をしたり,四ッ谷鮫河橋スラム街での奉仕活動にも尽した。日露戦争(1904-5)が始まると看護婦と医師の資格を有するワイリックは戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし,献身的な看護に当たった。
 いつしか,「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになり,日本政府や東京府からも表彰された。人類愛と奉仕活動に尽くした信念の人ロダスカ・ワイリックは1914年(大正3)4月30日東京赤坂の病院で死去。享年五七歳。ここ染井霊園で永遠の眠りに就く。

 ♪この説明板の中に「都立戸山高校」「戸山の陸軍病院」が出てきます。昼休みの散歩をかねて,都立戸山公園には,四季の花々を撮影しによく出かけますが,今後は,ワイリックの足跡を訪ねて,国立国際医療センター(旧陸軍軍医学校跡地:都立戸山公園箱根山地区)の周辺も調査したいと思います。

(平成14年11月7日 記)(平成22年10月1日 リンク訂正・英文タイトル追加)(令和元年8月8日 追記)