94.「二本榎保存之碑」(西ヶ原一里塚): 拓本

所在地:東京都北区西ヶ原2-47

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♪北区西ヶ原の滝野川警察署前の道(本郷通り)の真ん中に、「二本榎保存之碑」(大正5年6月)の記念碑が建っています。

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♪この碑の存在は以前から知っていましたが、今回、三上参次の事跡を調べていて、その撰文が三上参次によることがわかりました。

♪日光御成道(旧岩槻街道)の一里目の一里塚である「本郷追分」(東京大学農学部前・高崎屋酒店角)については、連載第9回で取り上げましたが、その時は、二里目の一里塚にある「二本榎保存之碑」の碑文が、まさか、旧東京医学校本館に関係のある三上参次によるものであるとは思ってもいませんでした。

♪宇野彰男氏(三上参次の曾孫)に、お尋ねしたところ、この記念碑の撰文についてはご存じないとのことでしたので、西ヶ原は自宅からも近いので、自転車で行って撰文を確認してみることにしました。

♪染井通りの中程に本郷学園(高等学校・中学校・幼稚園)がありますが、その斜め前に染井坂に入る道の入口があります。染井坂のはじまりの右手が駒込小学校で、左手が西福寺(さいふくじ)です。西福寺には徳川吉宗にかわいがられ江戸城内の庭師も勤めた伊藤伊兵衛政武(いとう・いへえ・まさたけ)の墓(東京都指定旧跡・昭和35年2月13日)があります。


♪染井坂を下り切り、道なりに行くと、染井銀座商店街通にぶつかります。この商店街は、昭和の初めに暗渠となった谷戸川に沿った道が発展してできました。谷戸川の水源は、染井霊園の裏の東京外国語大学西ヶ原キャンパス(移転して公園・老人ホーム・マンションなどに再開発されている)のグランド付近であったといわれています。(外国語大跡地周辺まちづくりニュース

♪染井銀座商店街通を横切って、上州屋質店前の路地をさらに真っ直ぐに進み、坂を上り詰めると本郷通りの滝野川消防署前にでます。

♪本郷通りを渡って、王子に向かって右側の歩道を進みました。滝野川消防署、東京都北区防災センター、北区立滝野川公園、印刷局東京病院(現・花と森の東京病院)、財務省印刷局滝野川工場(誠心堂書店)で入手しましたので、以下に紹介しておきます。

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3.

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

4.

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

5.

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

6.

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

7.

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

8.

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

9.

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

10.

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

11.

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

12.

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

13.

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん

14.


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

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「二本榎保存之碑」の碑文

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二 本 榎 保 存 之 碑

公 爵 徳 川 家 達 題

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

(裏 面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり

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♪碑文によると南側の「二本榎保存之碑」がある土地(本郷通り中央の緑地帯)は、飛鳥山公園の附属地となっています。

♪飛鳥山公園の一部としてまで、塚と榎を保存しようとした三上参次や澁澤栄一の史蹟に対する強い思いを感じます。

♪本郷通りの車の往来による排気ガスによって、この辺り一帯も環境が随分と悪化していますが、七社神社の境内の静寂さの中に「二本榎保存之碑」が設置された大正のはじめの頃の薫りを感じ取ることができます。散歩した当日は、ちょうど碑のまわりの緑地帯の草刈りが行われていました。

♪碑文をみていて、この「二本榎保存之碑」の碑文が廣群鶴(こう・ぐんかく)(御碑銘彫刻師)によって刻まれていることに気がつきました。高林寺にある緒方洪庵の墓と岡節斎の記念碑の石碑を鐫刻(せんこく)した谷中の石屋です。

♪石碑を刻んだ廣群鶴によって、緒方洪庵と三上参次が繋がったようにも思えました。

♪廣群鶴については、連載第2回で触れましたが、廣群鶴はほかに、「澁江抽斎之碑」(台東区感應寺)、「佐藤尚中之碑」(台東区谷中霊園)、「戸塚文海墓碑銘」(台東区天王寺)などの石碑を鐫刻しているようです。(文献参照)このうち「戸塚文海墓碑銘」の題額は「二本榎保存之碑」と同じく徳川家達によるといいます。

♪廣群鶴の刻んだ石碑の確認をかねて、これからの「江戸東京」の散歩は、しばらく谷中界隈が中心となりそうです。

(参考文献)
 廣群鶴と谷中の石屋. 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の四十二(谷根千工房 1995年3月30日発行)pp.2-17.
 

(平成14年10月27日 記)(令和2年(2020)5月18日 追記)