88.『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』写真帳と医学部構内絵葉書(Googleマイマップ 東北帝国大学医学部構内)

♪『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』を入手しましたので、その一部と、これまでに収集していた東北帝国大学医学部関係の絵葉書を紹介します。

『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』(写真帳)
東北帝国大学医学部附属病院玄関(絵葉書)

♪「明治45年卒業記念写真集」からの写真と絵葉書を挿入した「東北帝国大学医学部構内」と題するGoogleマイマップにまとめてみました。

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♪明治45年(1912)当時の皮膚科教授は、のちに、土肥慶三のあとを継いで東京帝国大学医学部の教授となる遠山郁三でした。帝大を退職後の遠山郁三は、戦中、立教大学学長(1937-1943)をも務めることになります。

♪職員のなかには、魯迅(魯迅と東北大学)の恩師として知られる藤野厳九郎(解剖学)や井上達一(眼科)の名も見えます。皮膚科に太田正雄(詩人・木下杢太郎)が教授として赴任するのは、大正15年(1926)のことでした。

東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(1989.12.5 堀江幸司撮影)
東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(2020.2.15 加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館])

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 ・明治20年(1887)第二高等中学校医学部設置

 ・明治34年(1901)仙台医学専門学校設置(片平地区)

第二高等学校(仙台医学専門学校)(絵葉書)

 ・明治45年(1912)東北帝国大学医学専門部(星稜地区)

宮城病院建築平面図1(出典:宮城病院一覧
宮城病院建築平面図2(出典:宮城病院一覧

 ・大正4年(1915)東北帝国大学医科大学開設

東北帝国大学医学専門部・東北帝国大学医科大学正門(絵葉書)

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♪写真帳によると東北帝国大学医学専門部の職員は、以下の通りです。

大学総長(文学士)澤柳政太郎

主事(医学博士)山形仲藝(やまがた・なかき)

教授(医学博士)内田守一

教授(医学士)栗原永之助(産婦人科)

教授(薬学士)佐藤喜代作

教授(医学得業士)敷波重治郎(しきなみ・じゅうじろう)

 (得業士とは:医学専門学校の卒業生に与えられた称号 Diplom)

教授(医学士)柿澤信義(かきざわ・のぶよし)

教授(医学士)東 自助

教授 小高 玄

教授(医学士)小塚文治

教授(医学士)遠山郁三(とおやま・いくぞう)(皮膚科)

教授(文学士)古川義天

教授(医学士)小玉龍蔵

教授     藤野厳九郎(ふじの・げんくろう)(解剖学)

教授(医学士)加藤豊治郎(かとう・とよじろう)(内科)

教授(薬学士)細井美水

教授(薬学士)井川寛一郎

教授(医学士)和田徳治郎

教授(医学得業士)玉造弥七郎

教授(医学士)井上達一

助教授(薬学得業士)篠原吉祥

助教授       國岡三樹

助教授(医学得業士)大関隆輔

講師(薬学得業士)石丸生駒

講師(医学士)恒遠 新

教員(陸軍歩兵中尉)大石敬太夫

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[写真帳]

(左)主事 医学博士 山形仲藝先生 (右)病院長 医学博士 内田守一先生
(明治45年写真帳より)
宮城病院正門及本館(明治45年写真帳より)

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♪宮城病院(のちの東北帝国大学医学部附属病院)の正門は、現在の県道31号線(旧国道48号線)[北四番丁通り]と264号線[木町通り]とが交わる交差点(附属病院敷地の南東角)にありました。(病院前の道路、国道(48号線)は、2016年に県道となり、現在は県道31号線と呼ばれています。)

♪この東北帝国大学医学部附属病院正門には、4つの立派な門柱があり、平成2年(1990)に復元されましたが、その後、平成16年(2004)に、現在の場所(県道31号[北四番丁通り]に面した病院正門の左手)に移転整備されています。

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上段 校舎(左) 裏門(右)
下段 東北帝国大学医学専門部正門
(明治45年写真帳より)

現在の流体科学研究所(片平)のあたり

人物上段左から
大石教官、国岡助教授、古川教授、小高教授
人物下段左から
菅原書記、武田書記、宮崎書記、田総書記

庶務室  書籍室


(明治45年写真帳より)
上段 外科手術室外景(左) 病院外景(右)
下段 講義室(左) 婦人科手術室外景(右)
(明治45年写真帳より)
藤野厳九郎教授と解剖実習室(明治45年写真帳より)
上段 遠山教授(左) 皮膚科診察室(右)
下段 皮膚科手術室(左) 皮膚科標本室(右)
(明治45年写真帳より)
四年級応援団(大運動会)(明治45年写真帳より)

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[絵葉書]

東北帝国大学医学部附属医院(絵葉書)
東北帝国大学医学部(絵葉書)
東北帝国大学医学部本館と同附属医院本館(絵葉書)

山形仲藝寿像とレリーフ

大正8年(1919)7月14日に除幕式が行われましたが、戦中の昭和18年(1943)7月3日に銅像は、供出されることになります。

戦後、昭和29年(1954)、艮陵同窓会創立70周年記念事業の一環としてレリーフをはめ込んだ記念碑が作られることになります。(医学部構内 一号館前)

山形仲藝博士レリーフ像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)

参考:

1)「東北大学百年史編纂室ニュース」(第4号 1999.8.31)

2) 冨永悌二(巻頭言 ~創立50年の年に)(PDF

東北帝国大学医学部(絵葉書) 山形仲藝寿像が写る(大正8年7月建築)
山形仲藝博士寿像(絵葉書)

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外科手術室と婦人科手術室の場所(出典:宮城病院一覧
東北帝国大学医学部附属病院 婦人科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに外科手術室とあるのは婦人科手術室の誤りと思われる)
東北帝国大学医学部附属病院 外科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに婦人科手術室とあるのは外科手術室の誤りと思われる)

参考:東北大学関係写真データベース

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(2020年1月12日 16日 記す)

87.「わが師わが友 (5)」(No.121-No.150)(「日本医事新報」)(最終回)

♪「わが師わが友」のデジタル化は、今回が最終回になります。欠ページがあるところもあり、完全とは言えませんが、先にデジタル化をした「東都掃苔記」「新東京・醫學きまぐれ散歩」とともに、明治から昭和にかけて活躍された医学者や事績を検索するときの手がかりとなればと思います。

♪各記事は、個人研究用にPDF化してEvernoteの共有ファイルとしてあります。将来的に各記事で出てくる人名索引のようなものが作成できればとも思っています。

「わが師わが友 No.121-No.150」(PDF)

121.久保猪之吉先生の思い出 先生の御勤務(山川強四郎) 或る日の先生(宮城冱山) 先生の片鱗(執行作彌) 1381 41[2777]-42[2778] 昭和25年10月14日

122.井街 謙君を思う (淺山亮二) 1385 34[3034] 昭和25年11月11日

123.楠木長三郎先生 (布施信良) 1386 37[3105]-38[3106]4段目 昭和25年11月18日

124.眞鍋嘉一郎先生 (三澤敬義) 1388 25[3237926[3238] 昭和25年12月2日

125.林 文雄博士を思う (塩沼英之助) 1391 33[3457]、32[3456]3段目 昭和25年12月25日

126.中西亀太郎先生 (三戸時雄) 1393 61[61]、60[60]3段目 昭和26年1月6日

127.浅田宗伯の師友喜多村栲窓 (安西安周) 1394 59[135]60[136] 昭和26年1月13日

128.堀内次雄先生と台湾 (森下 馨) 1398 23[387]-24[388] 昭和26年2月10日

129.島薗順次郎先生 (林 良材) 1399 26[450]-28[452] 昭和26年2月17日

130.島村俊一先生 (土屋榮吉) 1401 33[577] 昭和26年3月3日

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131.長與門下の三羽烏 (平野啓司) 1402 25[637]、24[636]4段目 昭和26年3月10日

132.京大創立時代の人々(其の一) (里見三男) 1404 29[769]、28[768]3段目 昭和26年3月24日

133.京大創立時代の人々(其の二) (里見三男) 1405 29[837]、28[836]3段目 昭和28年3月31日

134.石川知福博士 誠實と努力の業績(勝木新次)石川先生の思い出(松岡修吉) 1406 25[901]-27[903]  昭和26年4月7日

135.教授と将軍 (里見三男) 1410 35[1207]、37[1209]4段目 昭和26年5月5日

136.磐瀬雄一先生 (安井修平) 1412 29[1353]-30[1354] 昭和26年5月19日

137.噫!田村於兎博士 (寺師義信) 1414 23[1491] 昭和26年6月2日

138.北里・緒方両先生 (緒方規雄) 1415 29[1565]-30[1566] 昭和26年6月9日

139.明朗な近代的學究 中島 實先生 (小島 克) 1418 31[1771]-32[1772] 昭和26年6月30日

140.中村 登先生 (牟田哲三郎) 1420 29[1921] 昭和26年7月14日

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141.城井尚義のことども 上原太朗 1422 49[2077]、50[2078] 昭和26年7月28日

142.寺邑政徳君 秋田縣内小友村開業の恙虫病の研究家 緒方規雄 1423 55[2159]-56[2160] 昭和26年8月4日

143.宮路重嗣先生 伊藤泰一 1432 33[2777]-34[2778] 昭和26年10月6日

144.二木謙三先生 村山達三 1437 27[3131] 昭和26年11月3日

145.志賀先生を語る(一) 松岡憲固 1438 31[3207] 昭和26年11月17日

146.志賀先生を語る(二) 松岡憲固 1441 27[3419]-28[3420] 昭和26年12月8日

147.卒業五十年の同窓を語る(一) 小池 重 1442 31[3495]-32[3496] 昭和26年12月15日

148.卒業五十年の同窓を語る(二) 小池 重 1443 31[3563]-32[3564] 昭和26年12月22日

149.佐々木東洋先生と佛教醫學 安西安周 1446 53[169]-54[170] 昭和27年1月12日

150.泌尿器科學と土肥慶蔵先生 高橋 明 1450 35[495]-37[497] 昭和27年2月9日

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(令和元年[2019]12月13日 作成 堀江幸司)

86.「わが師わが友 (4)」(No.101-No.120)(「日本医事新報」)

♪今回の「わが師わが友」には、「江戸東京」にも関係深い、ウイリス(No.112)とポンぺ(No.119)が含まれています。また、東京大学医学部関係では、初代解剖学教授を務めた田口和美(No.109)が含まれています。

「わが師わが友(101-120)」PDF

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101.京大解剖の創設者 鈴木文太郎先生 國友 鼎 1347 21[429]-22[430]、20頁[428]4段目 昭和25年2月18日

102.飯島 魁先生 吉田 貞雄 1348 23[491]-24[492]、22頁[490]4段目 昭和25年2月25日

103.大五組の人々 西宮金三郎 1349 25[553]-26[554] 昭和25年3月4日

104.海人草の研究者田中正鐸 田中正太 1351 21[669]-22[670] 昭和25年3月18日

105.芳賀榮次郎君 三浦謹之助 1352 20[728]-21[729] 昭和25年3月25日

106.Dr. H. Heinemann 中澤 進 1355 46[958]-47[959] 昭和25年4月15日

107.大原八郎博士と野兎病の研究 岩永幾太郎 1356 32[1020]-33[1021] 昭和25年4月22日

108.田口和美先生を偲ぶ 大串菊太郎 1357 31[1087]-32[1088] 昭和25年4月29日

109.三宅速先生の思い出 須藤 求、隈 鎭雄 1359 28[1220]-29[1221] 昭和25年5月13日

110.武谷 廣君を憶う 小池 重 1360 29[1289]-30[1290] 昭和25年5月20日

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111.氏家信君を憶う 梅室痩庵 1362 33[1429]-34[1430] 昭和25年6月3日

112.ウイリスの事ども 鮫島近二 1363 27[1499]-28[1500] 昭和25年6月10日

113.村田宮吉先生 安田龍夫 1365 30[1646]-31[1647] 昭和25年6月24日

114.角尾先生を偲ぶ 楠井賢造 1371 41[2073]-42[2074] 昭和25年8月5日

115.淺井猛郎先生 戸苅近太郎 1372 43[2151]、44[2152]の4段目 昭和25年8月12日

116.關場不二彦先生の事ども 鮫島龍水 1374 32[2292]-33[2293]、34[2294]3段目 昭和25年8月26日

117.岡本梁松先生の逸話 小南又一郎 1375 26[2354] 昭和25年9月2日

118.山崎正薫先生を憶う 谷口彌三郎 1377 34[2498]、33[2497]4段目 昭和25年9月16日

119.蘭醫ポムぺの事 佐藤恒二 1378 29[2561]-30[2562] 昭和25年9月23日

120.佐多愛彦先生 吉田貞雄・大野内記 1379 27[2627]28[2628]2段目まで、29[2629]3段目から30[2630]4段目27行目 昭和25年9月30日

(令和元年[2019]12月7日 記す)

85.「わが師わが友 (3)」(No.61-No.100)(「日本医事新報」)

♪今回、紹介する「わが師わが友」の連載記事のなかで、第70回(入澤達吉先生の側面)は、長文のため2週(1313号、1314号)にわけて掲載されています。

♪No.74で取り上げられている「岩熊哲先生」は、『解體新書を中心とする解剖書誌』の執筆者です。「改訂版江戸東京」の第25回を書いていたとき、岩熊哲先生について知りたいと思っていたのですが、今回、「わが師わが友」の記事で、岩熊哲先生の人物像が見えてきました。

「わが師わが友」PDF(No.61-No.100)

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61.石黒忠悳先生 (平井政遒) 1304:21[773] 昭和24年4月23日

62.小澤修造先生のことども (福島寛四) 1305:26[830] 昭和24年4月30日

63.アシヨフ先生のことども (小池 重) 1306 : 25[831]-26[832] 昭和24年5月7日

64.唐澤光徳先生 (鎭目専之助) 1307:25[933] 昭和24年5月11日

65.石川 修先生の思ひ出 (梅室痩庵) 1308 : 25[985]-26[986] 昭和24年5月21日

66.三田定則先生 (古畑種基) 1309:24[1036] 昭和24年5月28日

67.遠藤 滋君 (北島多一 ) 1310:24[1088]-25[1089] 昭和24年6月4日

68.草間滋さんの半面 (高野六郎) 1311:23[1139]-24[1140] 昭和24年6月11日

69.田村君の片鱗 (高橋 明) 1312:22[1190]-23[1191] 昭和24年6月18日

70.入澤達吉先生の側面 (宮川米次) 1313 : 20[1240]-22[1242] 昭和24年6月25日

70.入澤達吉先生の側面(続) (宮川米次) 1314 : 21[1293]-22[1294],20[1292] 昭和24年7月2日

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71.守山恒太郎君を語る (里見三男 ) 1315 20[1344]-21[1345] 昭和24年7月9日

72.井上嘉都治先生 (高田 蒔) 1316 22[1398]-23[1399] 昭和24年7月16日

73.高木喜寛先生 (永山武美) 1317 20[1448]-21[1449] 昭和24年7月23日

74.病床の醫史家 岩熊哲先生 (米山千代子) 1318 22[1502]-23[1503] 昭和24年7月30日

75.市井の名醫 木堅田次郎氏 (及熊謙一) 1319 23[1555]、前頁3段目へ続く 昭和24年8月6日

76.伊東祐彦先生の思い出 (遠城寺宗徳) 1320 33[1617]-34[1618] 昭和24年8月13日

77.木村孝蔵先生 (藤田小五郎) 1321 21[1665] 昭和24年8月20日

78.久保猪之吉先生 (山川強四郎) 1322 21[1717]-23[1719] 昭和24年8月27日

79.小川劔三郎先生 (戸田 亨) 1323 22[1773], 21頁4段目へ続く 昭和24年9月3日

80.秦 勉造君 (小池 重) 1324 27[1835]-28[1836] 昭和24年9月10日

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81.エーリッヒ・レキセル先生の追慕 (村山小七郎) 1325 22[1890]-24[1892] 昭和24年9月17日

82.佐藤秀三先生を憶う (黒屋政彦) 1326 19[1939]-20[1940] 昭和24年9月24日

83.〇九會の人々 (村山達三) 1327 31[2003]-32[2004] 昭和24年10月1日

84.名醫 濱田玄達先生 (田澤多吉) 1328 23[2055]-24[2056] 昭和24年10月8日

85.畏友 三浦謹之助君 (芳賀榮次郎) 1329 33[2117] 昭和24年10月15日

86.井上善次郎先生 (花岡和夫) 1330 21[2165]-22[2166] 昭和24年10月22日

87.亡友の俤[おもかげ] (飯島 茂) 1331 25[2221] 昭和24年10月29日

88.佐多愛彦先生 (熊谷謙三郎) 1332 27[2283]-28[2284] 昭和24年11月5日

89.佐々木秀一先生 (若林東一郎) 1333 26[2342]-27[2343] 昭和24年11月12日

90.大森治豊先生 (溝口喜六、芳賀榮次郎) 1334 25[2401]-26[2402] 昭和24年11月19日

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91.古瀬安俊博士 (梅室痩庵) 1335 23[2459] 昭和24年11月26日

92.晩年の松本順 (松本本松) 1336 29[2525]-30[2526] 昭和24年12月3日

93.大澤岳太郎先生 (井上通夫) 1337 22[2578] 昭和24年12月10日

94.山極勝三郎先生を憶う (石橋松蔵) 1338 21[2637] 昭和24年12月17日

95.三五會の人々 (樫田十次郎) 1339 20[2688]-22[2690] 昭和24年12月24日

96.三浦守治先生 (佐多愛彦) 1341 64[64]-65[65], 63頁3段目へ続く 昭和25年1月7日

97.Bernou先生 (篠原研三) 1343 69[221] 昭和25年1月21日

98.一九四九年ノーベル醫學賞授賞者 ワルター・ルドルフ・ヘス先生 (筒井徳光) 1344 22[250]-24[252] 昭和25年1月28日

99.島峰 徹先生 (金森虎男) 1345 34[322]-35[323] 昭和25年2月4日

100.葛西勝彌君 (高野六郎) 1346 21[369]-22[370] 昭和25年2月11日

84.「わが師わが友 (2)」(No.51-No.60)

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「わが師わが友」No.51-No.60(PDF)

51.片山國嘉先生を偲ぶ 三田定則 1294 19[279]-20[280] 昭和24年2月12日

52.宮入慶之助先生 大平得三 1295 19[327]-20[328] 昭和24年2月19日

53.目黒庸三郎先生 中富猪熊 1296 21[377] 昭和24年2月26日

54.父井上達也 井上達二 1297 19[423] 昭和24年3月5日

55.慈恵の恩師  新井春次郎先生・生沼曹六先生・木村哲二先生・朝倉文三先生・加藤義夫先生・ 實吉、大角両先生  飯田喜久 1298 21[473]-22[474] 昭和24年3月12日

56.恩師ベルツ先生の傳 三浦謹之介 1299 19[519] 昭和24年3月19日

57.佐々木政吉先生 小池 重 1300 19[567]-20[569[ 昭和24年3月26日

58.高木友枝さんの思出 荒井 惠 1301 19[615] 昭和24年4月2日

59.藤浪 鑑先生 森 茂樹 1302 23[671]-24[672] 昭和24年4月9日

60.佐藤邦雄先生の追憶 竹内 勝 1303 37[737]-38[738] 昭和24年4月16日

(令和元年[2019]11月24日 記す)

83. 「わが師わが友」(1)(第1回から第50回)

♪「東都掃苔記」と「新東京・醫學きまぐれ散歩」の一覧表を作成するために,戦後の『日本醫事新報』(週刊)の雑誌に一冊一冊あたっていて,別の連載記事があることがわかりました。「わが師わが友」という連載記事です。

♪「わが師わが友」には,単行本の形で伝記が出版されていない医家の貴重な伝記的な記述が多く含まれており,この連載記事も,一覧表の形で集積しておきたいと思います。長期(全150回)(昭和23年1月から昭和27年2月)にわたる連載なので,一覧表(デジタルアーカイブス)づくりは,根気作業となりそうです。

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♪「わが師わが友」の第1回は,昭和23年(1948)1月1日(第1242号)の「青山胤通先生」(稲田龍吉著)からはじまっていました。第2回は,「北里柴三郎博士」(中山壽彦著)を取り上げています。連載の冒頭に,明治から大正にかけて活躍した国立と私立の医科大学の中心人物を取り上げた形になっています。青山胤通と北里柴三郎は,明治27年(1894)6月,香港で発生したペスト調査のために共に,内務省から派遣された仲でもありました。

♪この連載記事は,長期にわたるのですが,とりあえず第1回から第50回までの連載記事を一覧表に纏めてみました。帝國醫科大學時代の蒼々たる教授たちが取り上げられ,その執筆陣も著名な方ばかりです。第10回の小金井良精の項では,紹介記事を西成甫が書き、第40回の三宅秀については、佐藤物外[恒二]が書いています。

♪取り上げる人物の肖像写真が,本文中に挿入されていますので,その点でも,貴重な連載記事となっています。

「わが師わが友(1-50)」(PDF)

1.青山胤通先生 稲田龍吉 1242 22[22]-23[23] 昭和23年1月1日

2.北里柴三郎博士 中山壽彦 1243 14[66]-15[67] 昭和23年1月21日

3.長與又郎先生 田宮猛雄 1244 15[107] 昭和23年2月1日

4.呉建先生の思ひ出 冲中重雄 1245 14[146]-15[147] 昭和23年2月11日

5.森島先生のことども 阿部勝馬 1246 21[193] 昭和23年2月21日

6.平井毓太郎先生 竹内薫兵 1247 12[225] 昭和23年3月1日

7.若き日の野口英世博士 石塚三郎 1248 18[262]-19[263] 昭和23年3月11日

8.意志と情熱の學者 布施現之助先生 内田三千太郎 1249 25[309]-27[311] 昭和23年3月21日

9.北川正惇先生の追憶 田村 一 1250 13[345] 昭和23年4月1日

10.小金井先生を偲ぶ 西 成甫 1251 14[378]-15[379] 昭和23年4月11日

11.恩師秦佐八郎先生 小林六造 1252 16[420]-17[421] 昭和23年4月21日

12.呉秀三先生 杉田直樹 1253 17[461] 昭和23年5月1日

13.石川日出鶴丸先生を語る 浦本政三郎 1255 13[521]-14[522] 昭和23年5月15日

14.宮本叔先生 村山達三 1256 13[545] 昭和23年5月22日

15.横手千代之助先生 古瀬安俊 1257 15[579] 昭和23年5月29日

16.太田正雄博士の思い出 梅室痩庵 1258 13[609] 昭和23年6月5日

17.恩師島薗順次郎先生を憶ふ 柳金太郎 1259 15[643] 昭和23年6月12日

18.川村麟也先生 伊藤辰治 1260 15[675] 昭和23年6月19日

19.金杉英五郎先生 石川光昭 1261 11[703] 昭和23年6月26日

20.南 大曹先生 桑野佐源太 1262 15[739] 昭和23年7月3日

21.茂木蔵之助先生の憶い出 島田信勝 1263 13[769]-14[770] 昭和23年7月10日

22.高木兼寛先生を語る 小田部荘三郎 1264 15[803] 昭和23年7月17日

23.中原和郎君 矢追秀武 1265 13[833], 17[837] 頁の下段へ続く 昭和23年7月24日

24.岡田清三郎先生 青山進午 1266 13[865] 昭和23年7月31日

25.土肥慶蔵先生を語る 高橋 明 1267 13[897]-14[898] 昭和23年8月7日

26.恩師大澤謙二先生 永井 潜 1268 19[935] 昭和23年8月14日

27.ドクター・トイスラー  橋本寛敏 1269 11[967]-12[968]
昭和23年8月21日

28.恩師瀬尾貞信博士 中山恒明 1270 13[1001]-14[1002] 昭和23年8月28日

29.心の父 富士川游先生 佐藤美實 1271 29[1049]-30[1050] 昭和23年9月4日

30.河北眞太郎君 小島三郎 1272 13[1073] 昭和23年9月11日

31.河本重次郎先生 庄司義治 1273 13[1105] 昭和23年9月18日

32.田代義徳先生 名倉重雄 1274 11[1135] 昭和23年9月25日

33.木村徳衛先生を憶う 荒井恒雄 1275 13[1169]-14[1170] 昭和23年10月2日

34.恩師スクリバ先生 芳賀榮次郎 1276 12[1200]-13[1201] 昭和23年10月9日

35.中村文平先生 守山安夫 1277 19[1239] 昭和23年10月16日

36.岡嶋敬治先生 平澤 興 1278 13[1273] 昭和23年10月23日

37.太田原豊一先生 六反田藤吉 1279 21[1313] 昭和23年10月30日

38.小口忠太先生 中島 實 1280 29[1361] 昭和23年11月6日

39.猪子止戈之助先生の事ども 鳥潟隆三 1281 13[1385]-14[1386] 昭和23年11月13日

40.三宅 秀先生 佐藤物外[恒二] 1282 17[1421] 昭和23年11月20日

41.足立文太郎先生 清野謙次 1283 17[1461] 昭和23年11月27日

42.桂田富士郎先生 戸田 享 1284 17[1501] 昭和23年12月4日

43.森鴎外先生 山田弘倫 1285 25[1549] 昭和23年12月11日

44.水尾源太郎先生 中村文平 1286 13[1577] 昭和23年12月18日

45.私の見た荒木寅三郎先生 古武彌四郎 1288 39[39] 昭和24年1月1日

46.弘田 長先生 栗山重信 1289 11[79] 昭和24年1月8日

47.入澤先生千古不易の教 西川義方 1290 23[115]-24[116] 昭和24年1月15日

48.大瀧潤家君を偲ぶ 二木謙三 1291 17[149] 昭和24年1月22日

49.菅 之芳先生 若山茂雄 1292 19[191] 昭和24年1月29日

50.伊藤準三先生の事ども 鳥潟隆三 1293 21[233]-22[234] 昭和24年2月5日

(令和元年[2019]11月23日)

82. 「建築寫眞類聚 特種建築」

♪大正9年(1920)に出版された「建築寫眞類聚 特種建築」(建築寫眞類聚刊行會編輯兼発行 洪洋社)という資料のなかに、当時の病院建築を写した写真がありました。

♪この「建築寫眞類聚 特種建築」は、46判の紙に印刷された50点の写真が、帙(ちつ)に包まれています。バラバラになりやすく、国立国会図書館に収蔵されているものにも欠けている写真(9. 東京 川村小児科病院)があります。幸い、50枚の写真が完全に揃ったものを入手しましたのでデジタル化しておきます。

「建築寫眞類聚 特種建築」(PDF)

🚙🚙🚙

♪各写真(50点)のキャプションは下記の通りです。

1.東京 瀬川小児病院

2.東京 瀬川小児病院

3.東京 瀬川小児病院

4.東京 瀬川小児病院

5.東京 土田外来診察所

6.東京 原田醫院

7.東京 原田醫院

8.東京 原田醫院

9.東京 川村小児科病院

10.東京樋口病院

11.東京 ニコライ會堂

12.東京 ニコライ會堂

13.東京 ニコライ會堂

14.東京 ニコライ會堂

15.東京 ニコライ會堂

16.東京 ニコライ會堂

17.東京 バプテスト教會

18.東京 バプテスト教會

19.東京 メソヂスト銀座教會

20.東京 霊南坂教會

21.東京 霊南坂教會

22.東京 日本基督教青年會同盟本部

23.東京 日本基督教青年會同盟本部

24.東京 日本基督教青年會同盟本部

25.東京 佛教青年傳道會

26.東京 佛教青年傳道會

27.東京 天主公教會

28.東京 天主公教會

29.東京 天主公教會

30.東京 天主公教會

31.神戸 基督青年會館

32.奈良ホテル

33.奈良ホテル

34.奈良ホテル

35.奈良ホテル

36.神戸 オリエンタルホテル

37.横濱記念會館

38.横濱記念會館

39.横濱記念會館

40.横濱記念會館

41.神戸 カフェー・パウリスタ

42.神戸 カフェー・ブラジル

43.東京 西洋料理 中央亭

44.東京 西洋料理 中央亭

45.東京 カフェー・清新軒

46.大阪 新世界 通天閣

47.大阪 新世界 通天閣

48.大阪 活動寫眞・日本倶樂部

49.大阪 活動寫眞館 樂天地

50.神戸 活動寫眞聚樂館

🚙🚙🚙

1.東京 瀬川小児病院

2.東京 瀬川小児病院

3.東京 瀬川小児病院

4.東京 瀬川小児病院

5.東京 土田外来診察所

6.東京 原田醫院

7.東京 原田醫院

8.東京 原田醫院

9.東京 川村小児科病院

10.東京 樋口病院

11.東京 ニコライ會堂

12.東京 ニコライ會堂

13.東京 ニコライ會堂

14.東京 ニコライ會堂

15.東京 ニコライ會堂

16.東京 ニコライ會堂

17.東京 バプテスト教會

18.東京 バプテスト教會

19.東京 メソヂスト銀座教會

20.東京 霊南坂教會

21.東京 霊南坂教會

22.東京 日本基督教青年會同盟本部


23.東京 日本基督教青年會同盟本部

24.東京 日本基督教青年會同盟本部

25.東京 佛教青年傳道會

26.東京 佛教青年傳道會

27.東京 天主公教會

28.東京 天主公教會

29.東京 天主公教會

30.東京 天主公教會

31.神戸 基督青年會館

32.奈良ホテル

33.奈良ホテル

34.奈良ホテル

35.奈良ホテル

36.神戸 オリエンタルホテル

37.横濱記念會館

38.横濱記念會館

39.横濱記念會館

40.横濱記念會館

41.神戸 カフェー・パウリスタ

42.神戸 カフェー・ブラジル

43.東京 西洋料理 中央亭

44.東京 西洋料理 中央亭

45.東京 カフェー・清新軒

46.大阪 新世界 通天閣

47.大阪 新世界 通天閣

48.大阪 活動寫眞・日本倶樂部

49.大阪 活動寫眞館 樂天地

50.神戸 活動寫眞聚樂館

(令和元年[2019]年11月11日 記す)

81. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(3)(最終回)(「日本医事新報」 No.1463-No.1475)

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1):「日本医事新報」No.1434-N.1445

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(2):「日本医事新報」No.1446-No.1462

🚙🚙🚙

♪ 今回は、「新東京・醫學きまぐれ散歩」第3回(最終回)として下記の「日本医事新報」のなかから、第1463号から第1475号を紹介します。

新東京・医学きまぐれ散歩(PDF)

S.M.氏が見た戦後の復興風景

九段界隈

電車通りは一面の焼け跡で,復興はしているものの實に哀れな復興ぶりだ。靖國神社の外部の植込も焼けてしまって,参道の銀杏並木や露店がジカに見えるので,何だか空白ができたようで,賑わいを呈していながら,うら寂しい感がある。濠端の方へと辿ると,もう人影もなく,向う岸は青草の土手の上に石垣をめぐらせた江戸城の面影を残し,ひっそりと美しい景観をなしている。

僕が一口坂の停留所から市ヶ谷見附までぶらついたのは,四月廿七日の日曜日で,逓信病院の方面を歩いたついでだったが,その後,番町を歩いて見て,昔のブルジョア住宅地帯が如何にサンタンたる有様であるかを初めて知った。それに比べると,一口坂から市ヶ谷見附に至る電車通りは,先ず先ずこの辺りで復興の早い部分だと云えるかも知れぬ。

麹町・番町界隈

飯田橋から牛込方面を望む

番町は戦災で丸焼けになったと云ってよい。どうにか残ったのはコンクリートの大建築ばかりだ。大邸宅は門と塀だけを残して,中に焼土蔵がツッ立っているのもある。空地には雑草が茂って白い花をつけ,牛込台地の新緑がヂカに眺められる所があったり,建築工事にとり掛っている所もある。そうした中に,応急バラック群が屋根のトタンも錆び,板張りの壁に隙間が生じたりして,わびしくうずくまっている。かと思うと,やけにモダンな住宅があったり,工場か寮かといったような木造ペンキ塗の二階家が不愛想にツッ立っていたりする。人影もなくひっそりしているのに,五月幟がふらふらしている。                                           

築地界隈

築地新富座
築地精養軒

築地へやって来て,東京劇場を前に眺める橋――萬年橋といったように思うが,橋名を彫んだ銅版が剥ぎとられているので,はっきりわからないのも戦後風景だ。東劇・郵便局と続く一画は焼残りだが,反対側や橋の手前は歌舞伎座方面にかけて一帯の焼け跡だ。が,すっかり復興して元のような繁昌振りを呈している。橋を渡って,河岸にそって東劇の前を過ぎると,堀割が屈折する対岸に新橋演舞場が立っている。堀割はそこで真直ぐに大河に向って下る。一方わかれて濱離宮方面に向い,そこで大河にそそぐ堀割に合流している。

 築地は,縦横に流れる堀割によって處々に面白い景観を作っているが,演舞場と堀割を隔てて相対しているところに築地病院と元の海軍々醫學校があって,河岸の此方は純日本式の花柳街だが,そこばかりは外人居留地といった風景だ。・・・堀割にそった並木道は綺麗で静かで,全体がアンリ・ルウソーの風景畫みたいに落着いている。

聖路加旧館裏の並木街に出ると,大河を背にして立ち並んでいる住宅街は,たぶん焼けなかったのだろうと僕は思っているが,或は焼けた所もあるのかなと思われる跡も残っている。・・・とにかく昔は,東に佃島から木場・洲崎を眺め,南方遥かに台場から品川・羽田方面を眺め,前面には東京湾を一望におさめていたものだ。今では前に月島が出来,その沖に晴海町などの埋立地が出来て,大河の一部になり,河風は昔のように涼しかろうが,並木街もまだ荒れたままで,ここに大きな丸太ん棒を積み上げたりしている。それに続いて,東京都築地産院なるものがあって,その先に聖路加國際病院の新館が出来ている。

(注)旧都立築地病院(海軍醫學校跡地):現在、この場所には、国立がん研究センター中央病院が建っています。

濱町・両國橋界隈

元の日本橋區は京橋と合併して中央區となっているが,昔から東京の中心として榮えていたので,醫家も昔から名家が多かった。その中でも,濱町から矢の倉にかけて多かったが,殊に聞えた花街であったから気風が派手だった。大正の震災はそうした名家を焼きつくしたが,今とは違って醫家華やかな時代だったので,銀行がどしどし金を貸し,そこで競争的な復興となって豪華な病院がぞくぞくと出来た。何と云っても,いい時代だったなあと懐旧の情にそそられる。ところが今度の戦災で,濱町から矢の倉にかけて一面の焼野原となり,醫家も全滅の形になったが,さてその跡はどうなっているだろう?僕は戦後はじめて足を踏みこんで見たが,震災後の復興と,何て甚だしい差であろう。日本の頂点期は震災後にあったように思われ,今度の復興が,そこまで達するには,どれだけの年月を要するだろうかを考えさせられる。

昔,杉田玄白が濱町の辺りに住んでいたことがある。その邸跡は道路になったが,裏庭にあった山伏井戸が公園のどこかに残っているということを聞いていたので,行ってみた。新大橋から両國橋に続く河岸に桟敷の木組が出来つつある。川開きが近いことを思わせる。・・・打ち続く待合の間の空間にも高桟敷が出来つつある。河の中からドンドン花火が打ち上げられ,成金族や特権族で賑わうことだろう。戦前には醫家連中も桟敷の真ん中に陣取って顔を利かしたことだろうが,今では昔の夢になってしまった。対岸には國技館の圓蓋がどっしりと見える。

🚙🚙🚙

(28) 日本医事新報(1463)(昭和27年5月10日)

九段上から飯田町(1)大村益次郎の像
 九段坂病院
 警察病院

(29) 日本医事新報(1464)(昭和27年5月17日)

九段上から飯田町(2)眞鍋邸の跡
 飯田町一巡
 帰途の道草
飯田橋から牛込方面を望む

(30) 日本医事新報(1465)(昭和27年5月24日)

麹町富士見町朝倉病院の跡
 東京逓信病院
 陸軍々醫學校の跡
 北島・河本・木下邸

(31) 日本医事新報(1466)(昭和27年5月31日)

九段上の電車通り 概観した情景
通りの醫院
岡田・榊・室橋
東亜醫學校の事

(32) 日本医事新報(1467)(昭和27年6月7日)

麹町番町今昔(1)寂れた風景
 三番町の邊り
 東郷公園附近

(33) 日本医事新報(1468)(昭和27年6月14日)

麹町番町今昔(2)二番町舊住の醫家

(34) 日本医事新報(1469)(昭和27年6月21日)

内幸町から丸の内胃腸病院前にて
 漱石の入院日記
 内幸町一ノ三
 宮島博士遭難地
 永樂病院の跡
長与胃腸病院

(35) 日本医事新報(1470)(昭和27年6月30日)

銀座東西(1)癌研と保坂
 大野と古宇田
 加藤と菊地
築地三吉橋と南胃腸病院(のちの癌研
癌研

(36) 日本医事新報(1471)(昭和27年7月5日)

銀座東西(2)大日本衛生會の跡長與専斎、北里柴三郎
  山根正次、緒方正規
  高木友枝、大澤謙二
  三宅秀、金杉英五郎
  青山胤通、片山國嘉
  弘田長、三島通良
 川上と本田川上元治郎、金杉英五郎
  坂口勇、本田雄五郎、
  岡田和一郎
 林と中泉林春雄、中泉行正
  中泉行徳、中泉正徳
 高木と醫學講習所高木兼寛、高木喜寛

(37) 日本医事新報(1472)(昭和27年7月12日)

築地界隈(1)海軍々醫學校跡 
 高杉博士を思う 
 林・山田の病院跡 
 戸塚氏について 
築地海軍参考館
築地病院

(38) 日本医事新報(1473)(昭和27年7月19日)

築地界隈(2)トイスラーの遺業
 中央保健所
 聖路加國際病院
 東京都職員病院
 京橋から越前堀

(39) 日本医事新報(1474)(昭和27年7月26日)

濱町と矢の倉(1)長尾と濱町病院
 中洲病院の跡

(40) 日本医事新報(1475)(昭和27年8月2日)

濱町と矢の倉(2)山村病院の跡
 濱町公園
 明治座附近
 河岸のあたり

(平成23年7月14日 記す)(令和元年[2019]11月1日 追記)

80. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(2)(「日本医事新報」 No.1446-No.1462)

(承前)

♪今回は、前回に引き続き「新東京・醫學きまぐれ散歩」のうち、第1446号から第1461号の記事を紹介します。著者のS.M.氏は、神田・御茶ノ水界隈を散歩しています。

明治30年代当時の神田駿河台周辺略図(堀江作成)
眼鏡橋(元万世橋もとよろづよばし)(右側の橋)を中心とした鳥瞰図(明治32年)(地図参照)−右上にニコライ堂がみえる−

♪なお、一覧表(PDF)は、連載記事のはじめから最後までを収録しています。書誌的事項のほかに、記事にあらわれる登場人物なども、項目として入れてみました。ご参考になれば幸いです。

図をクリックすると、大きな画像がみられます。

  新東京・医学きまぐれ散歩(PDF)

神田川に架かる御茶ノ水橋とニコライ堂(橋の左が本郷台、右が駿河台)

♪本郷台地と駿河台は,神田川で分断され橋で繋がっています。御茶ノ水橋と聖橋です。神田駿河台周辺には,江戸時代,武家屋敷・旗本屋敷が多くあったのですが,明治中期以降になると,東京帝國大學出身者によって開業された専門醫院が立ち並ぶ病院町となっていました。武士の町が,医者の町となったのです。本郷には,医学校の病院が多かったのに対して,駿河台には私立病院が多くありました。

♪眼科(井上眼科病院[井上達也]),東京耳鼻咽喉科医院(金杉病院[金杉英五郎]),産婦人科(濱田病院[濱田玄達]),内科(杏雲堂醫院[佐々木東洋]),小児科(瀬川小児病院[瀬川昌耆])などの病院とともに,医家の邸宅も数多くありました。S.M.氏は,戦後の焼け野原となった病院町の様子や風景を記録しています。

最初の金杉病院(明治29年建設 神田區南甲賀町)
産婦人科濱田病院正門
杏雲堂醫院表門
瀬川小児病院(外観)(絵葉書)
瀬川小児病院(病室・病室廊下)(絵葉書)

瀬川小児病院

♪聖橋からの眺望や,御茶ノ水橋から水道橋に向かって下るサイカチ坂から見た風景を次ぎのように描写しています。

「お茶の水橋からの四周の眺めは美しい。だが,聖橋の上に立つと一層美しい。前後にニコライ堂と湯島聖堂とを控え,眼下に川筋の上下を眺める風景は東京第一だ。殊に夏の夕方は涼風袖を払うというやつで,納涼地としても第一だろう。」

「日本医師会館を出ると横町を隔てて木立も豊かな広い空地をもつ音楽学校の分校からピアノの音が聞えたりする。その前が,フランスの別荘風だとかいう日仏協会。行く手には震災前までサイカチの木が残っていたというサイカチ坂が,水道橋駅に向って下り,右側には家が絶えお茶の水川を隔てて本郷元町の小公園から都立工藝學校,続いて後楽園球場から小石川の台地を展望するという風景が開ける。」(S.M.)

🚙🚙

♪この駿河台周辺を,昭和60年代に,重いカメラを何台もぶら下げて歩いたことがありました。神田美土代町の東京基督教青年会館のなかにあった「日本医学図書館」について調べていたころのことです。もう,25年も前のことになります。ニコライ堂(東京復活大聖堂)の近くに,井上眼科病院の新しいビルが建ったころのことです。紅梅坂や幽霊坂を上ったり下りたりして,写真を撮りました。夏の暑い日のことでした。蝉の鳴き声が聞こえていました。

1980年代の紅葉坂(堀江幸司撮影)

♪そのとき撮った駿河台周辺の写真のネガが,まだ,アルバムのなかで,たくさん眠っています。S.M氏が見た30年後の駿河台附近の病院の姿が写っています。この機会に,デジタル化して,記録に残しておきたいと思います。

(平成23年6月30日 記す)(令和元年[2019]10月26日 追記)

🚙🚙🚙

(前号からの続き)

(12) 日本医事新報(1446)(昭和27年1月12日)

學者街の西片町新舊風景杉田直樹、山極勝三郎
  片山國嘉、榊俶、吾妻
  勝剛
 在住の大家連名倉英二、石井吉太郎
  石川正臣、加藤義夫
  坂本恒雄、都築正男
  前田武雄、太田正雄
  小原辰三、青柳登一
  村山達三、平松濤平
  横尾安夫、栗山重信
  鹽谷卓爾、佐々廉平
 富士川邸跡富士川游

(1447号には連載なし)

(13) 日本医事新報(1448)(昭和27年1月26日)

日本醫科大學敷地の現状中原徳太郎、塩田廣重
 ワン・マンの精力塩田廣重
 復興計畫 

(14) 日本医事新報(1449)(昭和27年2月2日)

根津権現界隈彌生町邊り
神泉病院跡
 
 東京府立病院跡 
 千駄木町 

(15) 日本医事新報(1450)(昭和27年2月9日)

觀潮樓跡・曙町・洪庵墓森鴎外史蹟 
 駒込曙町 
 洪庵先生の墓緒方洪庵

(16) 日本医事新報(1451)(昭和27年2月16日)

動坂と駕籠町駒込病院宮本叔、入澤達吉、青山胤通、
  北里柴三郎、緒方規雄、橋本節齋、
  二木謙三、村山達三、高木逸麿、
  内山圭梧、後藤新平
 駕籠町焼跡棟方定次、平野啓司、宮川米次、
  入澤達吉、白木政博、三澤敬義、
  佐藤三吉
 巣鴨病院跡長谷川泰、榊俶、三宅秀、
  呉秀三、三宅鑛一、澁澤榮一
   
 栄研の跡[厚生大臣官房統計調査部]



東京府巣鴨病院

(17) 日本医事新報(1452)(昭和27年2月23日)

文京西部一巡り丸山町の焼跡 
   
   
   
 大塚公園の中 
 東大分院 
東京市養育院(大塚本院)正面

(18) 日本医事新報(1453)(昭和27年3月1日)

二名家の跡を訪ねる三宅家の跡三宅艮斎
 小池家の跡小池正直

(19) 日本医事新報(1454)(昭和27年3月8日)

醫業中心駿河台(1)日醫通りの入口 
 三樂と日醫 
三楽病院外観(絵葉書)
三楽病院病室・待合室(絵葉書)

(20) 日本医事新報(1455)(昭和27年3月15日)

醫業中心駿河台(2)日醫副會長を訪う 
 稲田博士邸 
 呉博士邸 
 濱田病院濱田玄達

(21) 日本医事新報(1456)(昭和27年3月22日)

醫業中心駿河台(3)前田眼科跡 
 三浦邸前にて 
 佐々木邸の邊り 
 延壽堂と山龍堂 
 佐野神経科醫院 

(22) 日本医事新報(1457)(昭和27年3月29日)

醫業中心駿河台(4)金杉病院跡 
 近藤病院跡 
 日本大學病院 
 杏雲堂と研究所 

金杉英五郎(東京耳鼻咽喉科病院・金杉病院院長)
金杉病院(金杉英五郎院長)
杏雲堂醫院表門
杏雲堂醫院胃腸科
杏雲堂醫院病室之一部
駿河台日本大学病院(絵葉書)

(23) 日本医事新報(1458)(昭和27年4月5日)

醫業中心駿河台(5)瀬川小児科病院 
 井上眼科病院 
 體協と保健所 
 名倉外科病院 
 阿久津病院 
 同和病院 
瀬川小児病院

(24) 日本医事新報(1459)(昭和27年4月12日)

聖堂から和泉町(1)湯島聖堂 
 途上の道草 
 練塀町界隈 

(25) 日本医事新報(1460)(昭和27年4月19日)

聖堂から和泉町(2)三井病院跡 
 舊幕の醫學所 
 お玉が池 

(26) 日本医事新報(1461)(昭和27年4月26日)

神田の南西部(1)宮本小児科の跡 
 杉本胃腸病院の跡 

(27) 日本医事新報(1462)(昭和27年5月3日)

神田の南西部(2)藁科松伯のこと 
 神保町附近 
 三崎町界隈 
 東亜醫學校 
神田神保町通り

(令和元年[2019]10月26日 追記)



79. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1)(「日本医事新報」 No.1434-No.1445)

 
♪戦後,昭和20年代の『日本醫事新報』誌に連載された「東都掃苔記」の一覧表を作成するために,バックナンバーを取り寄せて調査していたところ,同時期に「新東京・醫學きまぐれ散歩」という連載記事があることがわかりました。一冊一冊,雑誌にあたっていくなかで気がつきました。

♪「新東京・醫學きまぐれ散歩」の連載は,『日本醫事新報』誌の昭和26年10月20日号(第1434号)からはじまります。戦争で焼野原となった東京の医科大学(病院)の復興の様子や復興住宅の状況を,写真を交えて執筆しています。貴重な連載記事と思われ,のちのちのために,これらも一覧表に纏めておく必要を感じました。

♪筆者のS.M.氏は,戦後,3年間,病[結核]に倒れるのですが,ストレプトマイシン(抗生物質)のお蔭で病が癒え,リハビリを兼ねて,自宅のあった東大赤門前から,東大構内の散策をはじめます。その散歩の記録が,この「新東京・醫學きまぐれ散歩」のエッセイとなったそうです。

♪本郷通り界隈など,戦後の復興しつつある東京の街並みのなかを歩きながら,自分の体も復調してきていることを実感するS.M.氏。生きることの喜びを,散歩のなかで出会う旧友との会話の中に感じているようです。ざっくばらんな語り口です。ちょっと,毒舌家でもあったようです。交際範囲は広く,木下正中(せいちゅう),木下正一(せいいつ),下瀬謙太郎の自宅も訪問しています。

♪S.M.氏は,連載の第1回となる「東大そぞろある記」の「前口上」(下記参照)のなかで,本郷村の自宅周辺の様子を書いています。その辺り一面は,麦畑と野菜畑が広がり,庭には,菜の花が咲き乱れて,裏には墓地がありました。いまも赤門前の本郷通りをちょっと入った所に,樋口一葉ゆかりの法真寺があります。S.M.氏の住居は,この辺りであったのかもしれません。

♪これらの文献をたよりに,60年後の東京を歩き,「江戸東京」のなかに,現在の様子を記録として残せればと思います。

(平成23年6月9日 記す)(令和元年[2019]10月20日 追記)

新東京・醫學きまぐれ散歩(1)

東大そぞろある記(1)

 前 口 上

 三年越しの病気で寝ているうちに,だんだん復興が進んで,起きて見ると新東京なるものが出来上っていた。思い出すのも不愉快だが,戦争中に赤門前の旧宅を間引疎開というやつに強奪されてから,牛込で焼かれ,静岡へ逃げて二十日目にまたも焼かれて関西の郷里へ落ちて行き,終戦直後に帰って来たものの,まだ東京の焼野原はキナ臭くて,貸間も見つからないので,探しに探した揚句,千葉県佐倉の医史に名高い順天堂の,たぶんその昔,塾生たちが合宿していたものだろうと思われる黒光りの門部屋に巣くっていたが,旧居に十二坪かっきりの制限住宅ができたので帰って来て,ホッとした途端に気がゆるんだのか,倒れこんだのである。

 一時はいよいよおさらばかと思っていたが,アメリカから取り寄したスト・マイが利いたのか段々よくなって,病床から濡縁越しに早春の庭を眺めるようにもなった。そうなると,庭先に一本,梅もほしくなる。というのは,辺り一面が麦畑野菜畑で,裏は墓地という本郷村の一軒家なので,僕の庭にも菜の花が咲いていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

 それにてつれて,三年越しに会わない,あちらこちらの友人知己が,なつかしく思い浮ぶ。出しぬけに訪ねて行ったら,どんなに驚くだろう。何しろ「曲りなりの復興」が,いきなり目の前に現われるわけだから。そんな童話じみた思いで一杯になって,家の中にあぐらをかいて澄ましてなどいられない気持になる。そこでぶらぶら,せめて近所あるきでもして見たくなった。遠出すると主治医に叱られるおそれがあるから,足馴しだと理屈をつけて,先ず東大からぶらつく事にした。何の目的もあるわけではない。だから何の予定もない。気が向いたら,のっそり研究室や教授室へはいって行くかもしれない。また先生方の家がどうなっているか,見に行きたくなったら行くつもりだ。どうせ消える好奇心ではあるけれど,「復興」の目に映る復興の新東京は,興味があるに違いない。

(S.M.)

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連載記事「新東京・醫學きまぐれ散歩」一覧表(堀江幸司作成)

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(1) 日本医事新報(1434)(昭和26年10月20日)

東大そぞろある記(1)前口上 
 混乱期の思い出 
 赤門に向って 

(1) 東大そぞろある記(1)