58. 盛岡行(3) 啄木、結婚前後の書簡より:駒込神明町442番地:駒込吉祥寺の側

♪啄木が駒込神明町にみつけたという新居となるはずの家は、どんな家であったのでしょうか。明治38年(1905)5月11日に牛込から出した上野広一宛の書簡に啄木は次のように書いています。1)

牛込より:5月11日 上野広一宛

「・・・家はもう見付けた、駒込神明町四百四十二番地の新らしい静かな所、吉祥寺の側に候。ヒドクよい所に候。炊事係の婆さんも頼んで置き候。兄を迎ふる時、青葉の中の我が新居、久し振りに画の話しでも可仕候。・・・」

 

11日夜 中館兄の机の上にて 啄木生

「・・・せつ子には御伝へ被下度候。天下の呑気男なる啄木の妻となるには、駒込名物の薮蚊に喰はれる覚悟で上京せなくてはならぬと。家の取片付け済み次第、せつ子を呼び寄せるつもりに候。ザット一週間の後ならむ。皆様に御心配かけたる段は真平御免。 小生の呑気にもあきれ候。しかし之れも一興也」

♪啄木が書簡を出した相手の上野広一(うえの・こういち)(1886-1964)は、中学時代の友人で、堀合節子との結婚に際して仲人を務めた人物で、のちに洋画家を目指して、同郷の政治家原敬の援助でフランスに留学しました。

♪当時の駒込神明町の天祖神社(神明社)周辺は、樹木も多く、春には杏や梅の花々が咲き乱れ、鶯のさえずりが聞こえるような、のどかで、自然に満ちあふれた場所でした。駒込名物の薮蚊も多かったことでしょうが、春になると、花々の間を、沸き上がるように、蝶たちが飛び交っていたのではないでしょうか。

♪『 明治四十年一月調査 東京市本郷區全圖』によると駒込神明町422番地は、岩槻街道(本郷通り)から天祖神社に向かう道の右手、現在、文京区立第九中学校が建っている先あたりです。近くには、もと鷹匠屋敷(避病院[東京都立駒込病院]の場所)もありました。相馬事件にも登場する富士神社の近くでもあります。

 

東京市本郷區全圖(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)


駒込天祖神社(神明社)

 

東京都立駒込病院(堀江幸司撮影)
富士神社(堀江幸司撮影)(平成28年10月

♪駒込吉祥寺の前を通る道が、岩槻街道[現在の本郷通り]です。街道をニ本榎のある西ヶ原一里塚の方向へと進むと、藍染川(現在の霜降り橋交差点)を過ぎたあたりから、樹木の陰で暗闇となるような淋しい場所も、まだまだ、残っていたようです。

♪駒込神明町442番地からは、森鴎外の住む観潮楼(駒込千駄木町21)、高村光太郎の住居(駒込千駄木林町)にも近く、啄木にとって、駒込という場所は、文学の香り高い場所であったのかもしれません。

♪そんな駒込神明町442番地での新婚生活をあきらめて、啄木は、上野から仙台経由で、ふるさとの好摩に向かうことになります。手紙からは、啄木の故郷を思う気持ちとともに東京での生活を諦め切れない思いも感じられます。盛岡での自分の結婚式に出ずに好摩に向かうのです。花嫁にはなんとも残酷なことでした。

 

仙台より:5月22日 金田一京助宛

「ふる里の閑古鳥聴かむと俄かに都門をのがれ来て、一昨夕よりこの広瀬川の岸に枕せる宿に夢の様なる思いに耽り居候、月末までには再び都門に入るつもり、この落人の心のかずかず、うさたのしさハ凡て故里より申上げ候」

好摩より:5月30日[結婚式の当日]上野広一宛

「友よ友よ、生は猶活きてあり、
二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。
三十日午前十一時十五分
好摩ステーションに下りて はじめ」

 

参考文献

1)『石川啄木全集 第七巻 書簡』(筑摩書房 1979)

(平成18年5月30日 記)(平成30年9月14日 追記)

57. 盛岡行 (2)盛岡『啄木新婚の家』と故郷・好摩

啄木新婚の家

場 所:盛岡市中央通三丁目17―18
電 話:019―624―2193

 

♪石川啄木が、婚約者の堀合節子と帷子小路(かたびらこうじ)八番戸(現在の中央通三丁目)で新婚生活を送ったのは、明治38年(1905)6月4日から24日までの3週間のことでした。

♪結婚式は、5月30日に行うはずでしたが、啄木は処女詩集『あこがれ』を東京で出版して帰郷する途中に、仙台で仙台医学専門学校(のちの東北大学医学部)に在学中の郷友の猪狩見竜、小林茂雄に合い、結婚式には帰りませんでした。

東北帝国大学医学部正門(絵葉書)

♪啄木との結婚に反対する友人たちに節子は、そのときの気持を手紙のなかで、次のように述べています。

「吾はあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候」

♪級友上野宏一の媒酌による「花婿のいない結婚式」が行われることになりました。

♪この明治38年(1905)1月には、父一禎(いつてい)が宗費滞納で曹洞宗(寶徳寺)の住職を免じられる問題がおき、帷子小路の新居には、妻節子のほかに、両親と妹光子が一緒に住むことになります。

盛岡渋民村寶徳寺

♪夫啄木の家族と住むことからくる節子の心労は、新婚当初より、大変なものだったに違いありません。

♪実は、啄木は、新婚生活を東京の本郷・駒込吉祥寺(きちじょうじ)に近接した貸家で送る予定でした。その場所は、駒込神明町442番地(現在の東京都文京区本駒込三丁目の天祖神社[神明社]の近く)であったといわれています1)。しかし、この駒込神明町の新居については、東京での新婚生活を切望していた啄木の嘘であったともいわれています2)。

♪駒込吉祥寺は、啄木の母カツの兄・仏禎(ぶつてい)=対月(たいげつ)が、5年間に亘って役僧を勤めた寺で、現在、その境内には、経蔵が残っています。

駒込吉祥寺山門(堀江幸司撮影)

 

駒込吉祥寺の鐘楼と經堂(堀江幸司撮影)
駒込吉祥寺經堂(堀江幸司撮影)

♪啄木は、あこがれの新天地、本郷・駒込神明町で新婚生活をはじめながら、詩壇への道を歩みたかったのかもしれせん。それが叶わず、故郷に帰り、好摩(こうま)の停車場に下り立った啄木の気持ちはどんなだったのでしょうか。

🌸🌸

♪好摩駅構内にあるという啄木の歌碑を探しに行きました。好摩駅は、盛岡駅から「いわて銀河鉄道」(盛岡駅ーー目時駅)に乗って6つ目の駅です。

盛岡(もりおか)

青山(あおやま)

厨川(くりやがわ)

巣子(すご)

滝沢(たきざわ)

渋民(しぶたに)

好摩(こうま)

岩手川口(いわてかわぐち)

いわて沼宮内(ぬまくない)

御堂(みどう)

奥中山高原(おくなかやまこうげん)

小繋(こつなぎ)

小鳥谷(こずや)

一戸(いちのへ)

二戸(にのへ)

斗米(とまい)

金田一温泉(きんたいちおんせん)

目時(めとき)

 

🌸🌸🌸

♪好摩の駅舎は、昔ながらの雰囲気を残す駅舎で、待合室には、ストーブが置かれ、駅員さんも、一人しかいません。駅前には、古びた駅前食堂がひとつあり、赤い郵便ポストと一台の客待ちのタクシーが印象的でした。

好摩駅前(平成21年3月23日 堀江幸司撮影)(平成23年の東日本大震災後、この建物は取り壊され、現在は新駅舎になっています)

♪駅員さんに、好摩の駅にあるはずの、啄木の歌碑についてたずねてみました。改札口を入った駅舎際(構内)にあることを、とても親切に教えてくださいました。石に刻んだものではなく、木に書いたものでした。

場所:岩手県盛岡市好摩字上山2-14 好摩駅構内

建立:昭和29年4月(木製)

 

啄 木

露ふかき好摩の原の

停車場の

朝の虫こそすずろなりけれ

 

参考文献

1)「石川啄木の誕生と駒込(文京区)」:ホームページ:

2)昆 豊著:『警世詩人 石川啄木』新典社、1986.

3)『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986)

(平成18年5月20日 記)(平成30年9月11日 追記)

56. 盛岡行 (1)『啄木盛岡駅前歌碑』

場 所:盛岡駅東口・駅前広場

啄 木

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 

碑陰

石川啄木五十回忌記念

盛岡市

盛岡啄木会

協賛 興産相互銀行

昭和三十七年十一月

🌸🌸🌸

♪5月の連休を利用して盛岡に行ってきました。石川啄木にゆかりの地を少し訪ねてみようと、思いきって遠出することにしました。

♪6日(土)の午後、東北新幹線「はやて23号」(上野15:02)八戸行きで盛岡に向かいました。盛岡着は17:22。宿は、いつもは民芸品を扱う光原社分店が一階にある「北ホテル」に泊まることが多いのですが、今回は、駅に隣接している「ホテルメトロポリタン盛岡(本館)」にしました。

光原社本店(材木町

 

ホテルメトロポリタン盛岡(本館)

場 所:岩手県盛岡市盛岡駅前通1―44
電 話:019―625―1211

♪夕食の場所は、東京を発つ前に、「和かな」(ステーキ・鉄板料理)を予約しておきました。「和かな」は政府登録国際観光レストランだそうで、岩手県産の前沢牛と三陸産の海の幸を、カウンター前の鉄板で直接、シェフが調理してくれます。コースのものを頼みましたが、さすがに国産の本物は違いました。お店の雰囲気といい、味といい絶品でした。

和かな
場 所:盛岡市大沢川原1―3―33
電 話:019(653)3333

♪翌朝、駅ビルのなかにある観光案内所に行き、盛岡市内の観光案内地図(『歩いてたのしむまち 盛岡 MAP』)をもらいました。地方都市の史跡などの写真を撮りに行くときは、できるだけ、地元の観光案内所に立寄ります。新鮮な情報を得ることができるからです。係りの方に「でんでんむし」と名付けられた「盛岡都心循環バス」があることを教えていただきました。

盛岡の観光

駅前広場(バスターミナル)に降りて、早速、「でんでんむし」の一日乗車券(大人300円)を購入しました。

「でんでんむし」バス停の名前

(1)盛岡駅東口(『啄木盛岡駅前歌碑』

(2)旭 橋

(3)材木町南口

(4)啄木新婚の家口(『啄木新婚の家』)・・・・・→(『北風に立つ少年啄木像』



(5)中央通三丁目

(6)中央通二丁目

(7)中央通一丁目

(8)岩手医大前

(9)本町通一丁目

(10)上の橋

(11)上の橋町

(12)若園町

(13)バスセンター(神明町)

(14)バスセンター(中三前)(もりおか 啄木・賢治青春館

(15)県庁・市役所前

(16)岩手公園(『啄木歌碑』

(17)菜園川徳前

(18)柳新道

(19)開運橋(『啄木であい道』


(20)盛岡駅東口(『啄木盛岡駅前歌碑』)

♪盛岡駅東口の駅前広場は、チューリップで埋まっていました。綺麗に咲いています。チューリップの背景となる駅ビルの正面に「もりおか 啄木」の文字が掲げられています。この文字は、啄木自筆の文字を集字して使用されたものだそうです。盛岡の方々の気持がいまに伝わってくるように感じました。

♪盛岡駅東口の駅前広場に石川啄木の歌碑が建っています。これは、石川啄木の50回忌を記念して、昭和37年(1962)11月に盛岡市と盛岡啄木会によって建立されたものです。

♪この歌碑は、啄木の歌碑のなかでも最も大きなもので、東北新幹線の開通に伴う駅前の改修工事の際に、一時的に盛岡市立図書館内に移されました。工事終了後に駅前にもどされることになるのですが、歌碑の重量が25トンもあり、安全を考えて開運橋を通らず、新築の旭橋を通ってもどされたとのことです。

♪「ふるさとは遠きにありて思うもの」と歌った詩人(室生犀星)もいますが、ふるさとの山や川の風景は、どんな環境にあっても、わすれることができるものではないのでしょう。ふるさとの風や水の流れは、体感となって、いつまでも、五感に残っているのではないでしょうか。

 

参考文献

『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986)

 

 

(平成18年5月8日 記)(平成30年9月8日 追記)

55. 啄木、入院中の歌より

♪啄木は、入院中に、いろいろな歌を創っています。当時の看護婦、回診してくる医者の様子、家族のこと、自分のからだのことなど、薄暗い病室の寝台の上で、経済的な心配をしながら、歌っています。

♪啄木は、大の愛煙家だったようですが、病院での小さな自由のひとつは、病室の窓にもたれて、煙草を吸うことだったようです。その気持ちも、歌っています。

♪歌のなかに、寝台(ねだい)という言葉が使われています。狭い日本家屋に住んでいた啄木にとっては、寝台の上が、一時的ではあったにしろ、自分に居場所ができたように感じたのかもしれません。

♪病院の夜。それは、夜明けを待つ、長い時間です。西洋的な寝台の上で、ふくれた腹を撫でながら、母と妻子のこと。経済的なこと。創作活動のこと。それらを、思い悩みながら、生活の糧のひとつとして、必死で歌を創っていたのかもしれません。

♪当時の内科病室は、現在の竜岡門(当時は南新門)を入って、4つ角を過ぎた右手にありました。中央道路を挟んで前には、運動場が広がっていました。深々とした夜には、病棟の廊下に灯る電球の光を見て、眠れぬ夜を過ごしたのではないでしょうか。

石川啄木が入院していた当時の東京帝国大学構内(出典:「東京帝国大学一覧 明治42年から明治43年」)(国立国会図書館デジタルコレクション
東京帝国大学運動場
明治末の赤門

 

重い荷を下ろしたやうな
気持なりき、
この寝台(ねだい)の上に来ていねしとき。

病院に入りて初めての夜といふに
すぐ寝入りしが、
物足らぬかな。

晴れし日のかなしみの一つ!
病室の窓にもたれて
煙草を味ふ。

ふくれたる腹を撫でつつ、
病院の寝台に、ひとり、
かなしみてあり。

目をさませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて夜明くるを待つ。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな。

(平成17年5月21日記)(平成30年8月30日 追記)

◆◆

♪入院生活中の啄木の心配事は、経済的のことのほかに、妻と母のいさかいが、常に頭の中にあったようです。寝台の上に、自分の身の置きどころを見い出しながらも、いまごろ、妻と母は、どのように過ごしているか、気掛かりでたまらなかったようです。

 

もうお前の心底をよく見届(みとど)けたと、
夢に母来て
泣いてゆきしかな。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我(われ)にかへりけるかな。

解けがたき
不和(ふわ)のあひだに身を処(しょ)して、
ひとりかなしく今日(けふ)も怒(いか)れり。

 

♪また、入院中は、看護婦や医者の態度やひとことが、気にかかるものです。からだの痛みにたえながら、啄木は、ひとり、長い時間を過ごしながら、回診にくる医者になんて言ってやろうか、考えてもいたようです。

 

そんならば生命(いのち)が欲(ほ)しくないのかと、
医者に言はれて、
だまりし心!

脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり。

ぢつとして寝(ね)ていらつしゃいと
子供(こども)にでもいふがごとくに
医者のいふ日かな。

廻診(くわいしん)の医者の遅(おそ)さよ!
痛(いた)みある胸に手をおきて
かたく眼をとづ。

 

(平成17年12月23日 記)(平成30年8月30日 追記)

54. 太田正雄(木下杢太郎)、啄木を診察する

♪太田正雄が、木下杢太郎の筆名を使いはじめたのは、明治42年(1909)の頃のことでした。永井荷風、小山内薫、高村光太郎、黒田清輝らとの「パンの会」が全盛期を迎えた時期にあたります。

♪「パンの会」が行われた場所について高村光太郎は、「ヒウザン会とパンの会」のなかで次のように書いています。

・・・・・・・・・・・

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。

永代橋
鎧橋
両国橋橋詰

・・・・・・・・・・・・・・・・

♪この明治42年(1909)には、『スバル』が啄木を編集発行人として創刊され、杢太郎は、創刊号に『荒布橋』、二月号に『南蛮寺門前』、そして、明治44年(1911)の二月には、『和泉屋染物店』を発表しています。

◆◆◆

♪啄木が、慢性腹膜炎を患ったのは明治44年(1911)2月のことです。その当時、杢太郎(太田正雄)は、東京帝國大學醫科大學の医学生で、卒業する年のことでした。医者になるべきか、文芸活動を続けるべきか、悩んでいた時期でもありました。啄木が、病や金で苦労していたとのは、また、別の苦しみでありました。

東京帝国大学構内中央道路

♪結局、太田正雄は、明治44年(1911)12月に東京帝國大學醫科大學を卒業して、明治45年・大正元年(1912)1月、衛生学教室(緒方正規教授)の研究生となります。森鴎外の勧めで、皮膚科教室(土肥慶蔵教授)に入室するのは、7月になってからのことでした。

土肥教授と皮膚科泌尿器科病室

♪杢太郎も同世代の啄木の病は、気掛かりで、卒業する前で、まだ一人前の医者とはいえないまでも、求めに応じて、診察したのでしょう。

♪啄木の「明治四十四年当用日記」の2月3日、4日には、啄木が杢太郎に診察して貰い、入院する経緯が次ぎのように記されています。

二月三日 晴 温

午前に太田正雄君が久しぶりでやつて来た。診察して貰ふと、矢張入院しなければならぬが、胸には異常がないと言つてゐた。そのうちに丸谷君が来、土岐君が来た。雑誌のことはすべて予の入院後の経過によつて発行日その他を決することになった。夜、若山牧水君が初めて訪ねて来た。予は一種シニツクな心を以て予の時世観を話した。声のさびたこの歌人は、「今は実際みンなお先真暗でござんすよ。」と癖のある言葉で二度言つた。

二月四日 晴 温

今日以後、病院生活の日記を赤いインキで書いておく。どうせ入院するなら、一日も早い方がいい。そう思つた。早朝妻が俥で又木、太田二君を訪ねたが要領を得なかつた。更に予自身病院に青柳学士、太田君を訪ねたが、何方も不在。午後に再び青柳学士を訪ねてその好意を得た。早速入院することにして、一旦家へかへり、手廻りの物をあつめて二時半にこの大學病院青山内科十八号室の人となつた。同室の人二人。夕方有馬学士の診察。夕食は普通の飯。病院の第一夜は淋しいものだつた。何だかもう世の中から遠く離れて了つたやうで、今迄うるさかつたあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになつた。長い廊下に足音が起つては消えた。本を読むには電燈が暗すぎた。そのうちにいつしか寝入つた。入院のしらせの葉書を十枚出した。

◆◆◆

♪入院当時、啄木が住んでいたのは、本郷區弓町二―十八新井喜之床)方の二階で、杢太郎は、小石川の白山御殿町一〇九番地に住んでいました。いまの「本郷通り」を、啄木と杢太郎は、行き来していたのかもしれません。それにしても、普段、俥など使ったことがないと思われる啄木の妻が、夫の一大事に入院を頼み廻る気持ちは、どんなものであったのでしょうか。医薬料の工面もあって、さぞかし、辛いものがあったと思われます。

 

(平成17年4月24日 記)(平成30年8月29日 追記)

53. 石川啄木、慢性腹膜炎を患う

♪すがすがし春の光りを感じながら、この五月の連休に小石川植物園下の千川通りから桜並木のある播磨坂を上がって、石川啄木の終焉地(文京区小石川5丁目11-7)(旧小石川区久堅町74番地)まで、散歩してみようと思っています。桜は、もう葉桜となっていますが、雨に濡れ、光りを反射する新緑の桜並木も美しいものです。

♪小石川植物園内には、旧東京医学校本館遺構(現・東京大学総合研究博物館小石川分館)があり、小石川久堅町(ひさかたまち)は、三宅秀が住んだ小石川竹早町(81番地)にも近い町です。

◆◆

♪平成17年4月19日付の『東京新聞』によると、「播磨坂さくら並木」に緑色の桜の木が1本あるそうです。この桜は、サトザクラの一種で、「黄桜」の別名を持つ「ウコン」とのこと。明るい黄緑色をしており、中央の赤みが次第に増すそうです。そういえば、わたしの職場の敷地内にも、このような桜の木がありました。

 

♪播磨坂に出かける前に、『石川啄木全集 第六巻』(筑摩書房)から「明治四十四年当用日記」の部分をみておくことにしました。

♪啄木は、亡くなる前年(明治44年)の2月1日に東京帝國大學醫科大學の三浦内科(注1)で慢性腹膜炎の診断を受け、2月4日から3月15日まで、青山内科(注2)の18号室に入院することになります。

石川啄木が診察を受けた三浦内科の病室:左手の奥に東京医学校本館の時計塔が見える

 

日記」は、入院するまでの経過を次のように記しています。

一月二十七日  晴 温

五六日前から腹が張つてしやうがない。飯も食へるし、通じもある。それでゐて腹一帯が堅く張つて坐つたり立つたりする時多少の不自由を感じる。

一月二十九日  晴 温

何だか身体の調子[が変]だつた。腹がまた大きくなつたやうで、坐つてゐても多少苦しい。社に電報を打たせて休んだ。

二月一日 晴 温

午前に又木君が来て、これから腹を診察して貰ひに行かうといふ。大学の三浦内科へ行つて、正午から一時までの間に青柳医学士から診て貰つた。一目見て「これは大変だ」と言ふ。病名は慢性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事だつた。そうして帰つたが、まだ何だかホントらしくないやうな気がした。然し医者の話をウソとも思へない。社には又木君に行つて貰つて今日から社を休むことにした。
医者は少くとも三ヶ月かかると言つたが、予はそれ程とは信じなかつた。然しそれにしても自分の生活が急に変るといふことだけは確からしかつた。予はすぐに入院の決心をした。そして土岐、丸谷、並木三君へ葉書を出した。
夜になつて丸谷、並木二君がおどろいて訪ねて来た。

(注記)

(1) 三浦内科:(明治28―大正13)三浦謹之助教授が主宰した教室。三浦謹之助、東京大学医学部内科学教室(第一講座)の初代教授。

(2) 青山内科:(明治20―大正6年)青山胤通(あおやま・たねみち)教授が主宰した教室。青山胤通は、東京大学医学部内科学教室(第三講座)の初代教授。

(平成17年4月21日 記)(平成30年8月25日 追記)

52. 「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物):講談社内で発見、木下家から国立国会図書館へ寄贈

♪木下實氏(東京大学名誉教授)(木下凞の曾孫)より『先徳遺芳』」と題した冊子を贈っていただきました。(図1

図1.『先徳遺芳』表紙(木下實編・平成23年[2011]刊 私家版)
♪この冊子は,「『先徳遺芳』(木下文書)」の巻物が,国立国会図書館に寄贈されることになったのを機会に木下實氏によって編集されたものです。

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前書きに代えて

『先徳遺芳』は,曽祖父木下凞が残したもので,杉田玄白とその子孫から木下家の代々に宛てられた書翰などを集めた四巻の巻物である。三上参次先生(元東京帝国大学文科大学教授兼史料編纂)によって「木下文書」と命名された。ここでは巻物を開いて個々の文書に分けて収録した。

平成廿三年七月

木下 實

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♪冊子は第一部,第二部,第三部に分けて編集されています。原文と解読文とから構成されているのですが,木下實氏による補足説明もあり,巻末には,「木下凞・正中・東作の略年譜」も作成されています。『先徳遺芳』(木下文書)」(巻物)の全容を知る上で大変,貴重な冊子となっています。

第一部:原文[奉先記事][源淵寶墨][立卿・成卿先生遺墨][名士墨蹟][貴重書翰]

第二部:原文と解読文

第三部:収録資料目録(主に木下恭二保存の資料と文献から集めた資料)

付録一 木下家・杉田家系譜

付録二 木下家関係参考書

付録三 木下凞翁懐舊談(京都医事衛生誌,明治四十年)(文献1参照, 文献2参照)1)2)

補足資料集

木下凞・正中・東作の略年譜

◆◆◆◆◆

♪「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物は,昭和55年(1980)に木下正一(せいいつ)(木下正中の長男・木下實氏の伯父)から講談社野間科学医学研究資料館(当時の責任者は緒方富雄,理事は川喜田愛郎(よしお)[木下正中の娘婿・元千葉大学学長])に寄贈されました3)が、その後,野間科学医学研究資料館が平成15年(2003)に閉館され,その所在が確認できないでいました。

♪『先徳遺芳』の行方について木下實氏による継続的な探索の結果,巻物は,講談社内に,別置して大切に保管されていたことが確認されました。探索にあたっては、「江戸東京」でも、所在調査に必要な文献検索に協力させていただきました。

国際日本文化研究センター(京都)の「西洋医学史古典文献」(野間文庫)に行ったと思われていた巻物が東京に残されていたことがわかったのです。幸い保存状態が良く,痛みもなかったそうです。巻物が,眼前に現れたときの感激は如何ばかりであったでしょう。巻物と対面されたとお知らせをいただいたときは,発見できた喜びとともに、古文書の香りが,こちらまで伝わってくるようでした。

図2. 外函と内函の蓋の表裏(富岡鐡齋画伯の筆) [二重の桐函に巻物が収められている](写真:木下實氏提供)

図3. 『先徳遺芳』(木下文書)全四巻[写真:木下實氏提供] (内函のなかに四巻の巻物が収められている)
第一軸(題簽 「奉先記事」) [自序(明治卅七年八月 木下凞ひろむ謹識, 鐡齋富岡百錬代書)]

第二軸(題簽 「源淵寶墨」) [男爵石黒忠悳書簡翰(木下凞ひろむ宛 明治四十年五月二日):三上参次序 (明治四十年十一月念八日)・杉田玄白五世孫 武・杉田玄白翼書翰(木下宗伯宛)など]

第三軸(題簽 「立卿・成卿先生遺墨」 [杉田立卿・杉田成卿書翰]

第四軸(題簽 「名士墨蹟」) [川本幸民の書翰など]

 

♪「『先徳遺芳』(木下文書)」は,木下實氏からの依頼で講談社から木下家に返却(平成23年[2011]8月29日)されることになりました。その後,木下家での話し合いの結果,国立国会図書館に寄贈(平成23年[2011]9月16日)されることになったとのこと,川喜田愛郎先生も,さぞかし安心されたことと思います。

♪講談社からの返却時に,現物からの写真撮影が行われています。その結果,「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物(巻物)は国立国会図書館に,影写本が東京大学史料編纂所に,そしてデジタルデータが木下實氏の手元に,保管されることとなりました。文化財的な史料の永久保存,安全保管としては,万全の方策がとられたことになります。

講談社で撮影された『先徳遺芳』

◆◆◆

♪巻物は,二重の桐函(図2・図3)に収められているのですが,富岡鐡齋の筆による書(題字・函裏の書)(図4)も鮮明に読み取れます。木下正一によると,もともと,内函だけがあったものを,富岡画伯がその貴重さを思い,表函を作らせ,友人である木下凞のために,筆をとったとのことです3)。(文献3参照)

図4. 内函の裏書(富岡鐡齋画伯書)(写真:木下實氏提供)

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杉田玄白先生は,若狭小濵の藩,従って京都に住み,始めて西洋医学を唱えて海内を騒動す。偉人と言うべし。その子成卿業を襲え,連綿の盛,世の賞嘆するところなり。わが家の祖先,同藩の故を以て業を杉田家に受くる數世,故に子弟親密の交,朱陳も啻ただならず。これを以て平生質問往復書の夥き數うべからず,豈あに寶愛せざるべけんや。余その散佚を恐れ,整理して巻となし,以て子孫に伝う。蓋し胎厥孫謀(いけつそんぼう)の意,またこれに外ならず,是に於てか識す

明治四十二年五月 木下凞

友人鐡齋外史代書

注)胎厥孫謀(いけつそんぼう):父祖が子孫に遺すはかりごと

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「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物)国立国会図書館寄贈までの流れを下記にまとめておきます。

 明治37年(1904)8月:木下凞「自序」(富岡鐡齋代書)

 明治39年(1906)9月:三上参次により影写本「木下文書」が作成される(影写本は東京大学史料編纂所が所蔵

 明治40年(1907)11月28日:三上参次「序文」

 明治41年(1908)春:杉田武「書翰」

 明治42年(1909)5月:友人の富岡鐡齋 表函・内函の表題・裏書の筆をとる

 昭和31年(1956)3月4日:「木下文書」の一部が医家先哲追薦会4)5)(場所:日本医師会館大講堂・大食堂)で展覧・陳列される

[安西安周の求めによって木下正一が提供する]6)(文献6参照)

 昭和55年(1980):木下正一から野間科学医学研究資料館(講談社)へ寄贈(委託)される(文献3参照)

 平成15年(2003):野間科学医学研究資料館が閉館、資料は国際日本文化研究センター(京都)に寄贈(西洋医学史古典文献・野間文庫)されることとなる

(一時、行方不明)

 平成22年(2010)12月講談社(野間佐和子社長・当時)で発見される

 平成23年(2011)8月29日:木下實氏の依頼により木下家に返却されることとなる(このとき講談社で現物からの写真撮影が行われる)

 平成23年(2011)9月16日国立国会図書館に寄贈される。その後,国立国会図書館のOPAC(「木下文書」で検索)に登録,古典籍資料室に保管される。

平成26年(2014):国立国会図書館の企画展「あの人の直筆」で展示される。

その後、「木下文書」は、国立国会図書館でもデジタルコレクションに登録され、インターネット上で閲覧可能となる。

 

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♪第二軸(題簽 「源淵寶墨」)に,杉田武(1852-1920)(杉田玄端の長男,杉田本家7代)(杉田玄白五世孫)7)8)9)の書翰が収められています。(図5

図5. 杉田武(杉田玄白五世孫)からの書翰(写真:木下實氏提供)

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余曽て凞木下君と同窓の友なり,君の家世々余の家と師弟の交あり,君其家祖と余の家祖との間に往復せる書簡数通を秘蔵す,頃日君表装して永く家寶とせらる。啻ただに君の家の宝のみならむ,實に醫界の寶なり,謹みて誌す。

杉田玄白五世孫

明治四十一年春

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♪木下凞は,横濱時代(木下實著)(文献10)の明治4年[1871]から明治6年[1873]まで丸屋薬局(丸善の前身)に杉田武と同宿して,早矢仕有的の塾(靜々舎診察所)で勉学を共にしていました。このころから,木下凞は,木下家に伝わる杉田玄白や川本幸民などからの貴重な文書類を,後世に伝える方策を考えていたように思えます。立派な表装と二重の桐函によって,貴重な文書が,確かに,後世に伝えられることになるのです。

横濱グランドとヘボン邸

♪さらに「『先徳遺芳』(木下文書)」は,国立国会図書館に寄贈されたことによって,杉田武のいう「木下家の家寶」が「醫界の寶」となったともいえるでしょう。

♪杉田家にとっても寶といえる文書類が,国立国会図書館に収まったことを,木下凞と杉田武は,共に喜びあっているのではないでしょうか。

 

(平成24年9月3日 記す 平成30年8月18日 追記)

 

参考文献

1) 「木下凞翁懐舊談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

2) 「木下凞翁懐舊談 [承前]」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

3) 「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)

4) 「醫家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)

5) 「醫家先哲祭盛況―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)

6) 安西安周著:「蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註」.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)

7) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

8) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

9) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

10)木下實著:「曽祖父 木下 凞 ―横浜での生活―」(私家版)

51. 永利満雄氏からのメール:「京都駆黴院図」の発見

♪京都の永利満雄氏(京都府立医科大学臨床検査部・元京都府立洛東病院臨床検査室勤務)より,「江戸東京」の木下凞(ひろむ)に関する項を読んで,感想などのメールをいただきました。

♪永利満雄氏は,木下凞(ひろむ)が初代院長になった京都駆黴院(のちの京都府八坂病院)から発展した京都府立洛東病院(平成17年閉院)に勤務する傍ら,病院の歴史を調査1)2)。京都医学史研究会にも参加して,木下凞(ひろむ)に関する資料は,杉立義一先生(産婦人科医・故人)より得ていたそうです。

♪杉立義一先生は,『京の医史跡探訪』(思文閣出版)の著者です。わたしも京都の光悦寺や玉樹寺へ水原秋桜子の歌碑などを探しに行った折には参考にさせていただきました。

♪7年前の7月,夕立を避けながら木屋町通りを歩き,お洒落な喫茶店に飛び込んで,ひとり雨宿りした情景を思い出しながらメールを読ませていただきました。

♪メールには,昨年,青山霊園に木下凞(ひろむ)の墓所を探したが,あいにく見つからなかったこと,「江戸東京」の記事をみて,その場所を知ったことなども記されていました。「江戸東京」が,少しは,お役に立ったようです。

♪3枚の画像が添付されていました。貴重なものばかりでした。3枚目の写真は,『京の医史跡探訪』に「京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門」として掲載されていた写真と同じものでしたが,永利満雄氏が送ってくださったものは,そのオリジナル・プリントから作成されたファイルのようにも思えました。

1枚目:京都駆黴院を描いた日本画(部分)(京都国立近代美術館蔵)
2枚目:検査室内の様子を写したもの(部分)(永利満雄氏提供)
3枚目:京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門(永利満雄氏提供)

♪一枚目の日本画は,永利満雄氏が洛東病院の歴史調査の過程で病院の倉庫のなかで発見されたもので,その後,この日本画は,洛東病院の職員の方々の努力と,当時,兵庫県立近代美術館(現在・兵庫県立美術館の王子分館「原田の森ギャラリー」)の学芸員であった山野英嗣氏(現在・京都国立近代美術館・学芸課長)と木下直之氏(現在・東京大学文学部文化経営学教授),末中哲夫氏(当時・京都教育大学教授),杉田博明氏(京都新聞社),大橋乗保氏(田村宗立の研究家,当時・京都工芸繊維大学助教授),そして田村宗立の子孫である田村泰隆氏を紹介した原田平作氏(京都市美術館学芸員・のち大阪大学文学部教授)など,多くの方々の意志ある熱意と協力を得て,京都国立近代美術館に寄贈されることになったとのことでした。

京都国立近代美術館

場 所:〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町

電 話:  (075) 761-4111

♪「京都駆黴院図」は,国立近代美術館(東京国立近代美術館京都国立近代美術館国立西洋美術館国立国際美術館)のサイトに登録されており,作品全体をみることができるとありました。早速,国立美術館が管理・運営する「所蔵作品総合目録検索システム」を検索してみました。

♪「京都駆黴院図」は,田村宗立(たむら・そうりゅう)(1846-1918)の描いた絹本墨画で明治18年(1885)の作品であることがわかりました。背景には,東山の山並みが描かれ,八坂の塔もみえます。駆黴院全体も,診察室・病室まで非常に丁寧に描かれています。当時の京都駆黴院の規模,建築の様式などを知ることができるように思われました。

京都・八坂の塔(絵葉書)(平成26年6月29日 追加)

♪永利満雄氏に,この「京都駆黴院図」を洛東病院で発見してから,京都国立近代美術館に寄贈されるまでの経緯を書いた文献などがないか,お尋ねしてみました。すぐに返信をいただきました。メールとともに,発見した当時の新聞記事を送ってくださいました。

♪昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)3)は,永利満雄氏と宗立(そうりゅう)の孫・田村泰隆氏を取材して,次のように報じていました。

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府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に

「見つけたのは,府立洛東病院臨床検査室の永利満雄さん(33)。きっかけは京都医学史研究会の会員であり,たまたま,洛東病院の歴史を調べているうちに,病院の倉庫にホコリをかぶった絵をみつけて調査,病院の前身の駆黴院を描いた絵とわかった。」「制作年は明治十八年。ちょうど療病院から独立した時期で,これを記念に,当時,京都府画学校で,わが国に導入されたばかりの西洋画の教鞭をとっていた田村宗立(そうりゅう)に依頼されたらしい。山や木立などには,日本画の描法がうかがえるが,建物は百年前とは合理的な溝引きを使った建築設計図のような透視図の手法がとられている。」『京都の医学史』の編さんにあたった京都医史学研究会の杉立義一さんの話「駆黴院についてはこれまで,どういう規模でどういう活動をしていたかわからなかった。この絵で病院の規模もよく分かり,当時の医療活動をしのぶことができる貴重な資料だと思う。」

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♪なにしろ,永利満雄氏の「京都駆黴院図」を後世に残したいという強い思いが,兵庫・京都の美術館を中心とした田村宗立に関わる人々を動かし,医史学的にも貴重な日本画が京都国立近代美術館に残ったことは確かなことです。

♪明治14年(1881)1月19日,仮駆黴院にはじめて院長を置くことになり,このとき院長になったのが,木下凞ひろむ先生。祇園花見小路の4400坪の土地が京都府に寄付され,駆黴院が新築されることになり,翌年,明治15年(1882)11月24日に竣工・開院しています。

♪花見小路は,建仁寺の近くです。今年も祇園祭(八坂神社の夏祭り)の時期となり,「京都の動く美術館」4)といわれる絢爛豪華な様子がニュースで流れています。125年前の京都花見小路。病に苦しむ女性たち,そして,医師,看病婦たちは,どのような思いのなかで,八坂の祇園祭を迎えていたのでしょうか。

♪永利満雄氏からは,別便で,駆黴院に関する文献や明治期の病院の様子を写した写真などを送っていただいています。また,こちらでも東京から京都府八坂病院に派遣された医師についての調査を進めた結果,大正4年(1915)10月には,東京醫科大學皮膚科教室醫局(土肥慶蔵教授)から京都府八坂病院長として,三戸雄輔(みと・ゆうすけ)醫學士が赴任5)したことなどが,わかってきました。当時の皮膚科教室醫局には,太田正雄醫學士(木下杢太郎)が在籍していました。

♪宇野朗の関係で求めておいた『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』6)のなかの「思い出の写真」には,皮膚科醫局内で撮影された「大正4年10月 三戸雄輔 京都八坂病院長 赴任送別会」の集合写真が掲載されていることもわかりました。この集合写真には,土肥慶蔵教授と三戸雄輔醫學士が並んですわり,太田正雄醫學士も右端の出入り口付近に立って写っています。独特の雰囲気を感じさせる白衣姿です。

♪「江戸東京」は,いろいろなご縁で,京都と繋がりをみせはじめています。

参 考 文 献

1)    永利満雄,藤本文朗,渋谷光美. 京都東山の洛東病院の歴史を探る ―語られなかった歴史的事実にせまる―.「いのちとくらし研究所報」第28号,pp.38-47. 2009年9月.

2)    永利満雄.京都駆黴院の変遷について.「啓迪」第5号,pp.14-19. 昭和62年4月.

3)    ―府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に―.昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)

4)    八坂神社と祇園祭.「京」(日本新薬の広報誌) no.164. pp.14-19.(日本新薬「京」編集委員会編 平成22年7月23日発行)

5)    三戸學士の赴任(雑報記事).「皮膚科及泌尿器科雑誌」15(10):p.76.(大正4年10月)

6)    「思い出の写真」「同窓会々員名簿(東京大学医学部皮膚科教室泌尿器科教室[明治26年頃作成])」:『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』(東京大学医学部泌尿器科学教室編 平成14年)

(平成22年8月1日 記す 平成30年8月11日 追記)

50. 木下正中の息子たち:正一,恭二,謹三 ― 巻物「先徳遺芳(傳家寶墨)」:「木下文書」の継承 ―  

長男・正一[後列左から二人目],次男・恭二[後列右から3人目],三男・謹三[後列右端学生服姿] (前列中央が木下正中、左が妻の素子)(昭和7年撮影)(木下實氏提供)

♪木下正中(せいちゅう)(若狭小濱藩医・木下家五代目)と妻・泰子(やすこ)との間には,三男七女という大勢の子供がいました1)。お正月,三月の雛祭り,端午の節句,夏休みの葉山海岸や畑毛の別荘行きなど,華やかで,にぎやかな,日々であったことでしょう。

 長女・篤子(あつこ)(木下益雄室)

 次女・道子(みちこ)(7歳で病没)

 三女・直子(なおこ)(石川正臣(まさおみ)室)

 長男・正一(せいいつ)

 四女・宣子(よしこ)(栗原純一室)

 次男・恭二(きょうじ)

 五女・定子(さだこ)(楠 隆光室)

 三男・謹三(きんぞう)(戦没)

 六女・弘子(ひろこ)(川喜田愛郎(よしお)室)

 七女・静子(しずこ)

♪木下正中の三人の息子(長男・正一,次男・恭二,三男・謹三)は,いずれも東京帝國大學を卒業しています。正一は医学部,恭二は理学部(化学科),謹三は農学部(農芸化学科)と,それぞれ,自然科学系の別分野を学びます。医学部だけに拘らない正中の学問に対する視野の広さと息子たちに対する信頼が感じられます。

 

♪長男・正一(1901-1987)

明治34年(1901):6月24日 本郷森川町に生まれる。

昭和2年(1927):東京帝國大學医学部を卒業。九州大学産婦人科教室に入局。父・正中の弟子であった白木正博教授に学ぶ。

昭和7年(1932):木下産婦人科病院長となる。

昭和32年(1957):賛育会病院長となる。

昭和42年(1967):11月15日 婦人関係の諸問題に関する懇談会委員を委嘱される。

昭和62年(1987):3月8日逝去。享年85歳。

 

♪次男・恭二(1906-1995)

明治39年(1906):5月22日 本郷森川町に生まれる。

大正13年(1924):府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校)卒業。

昭和2年(1927):静岡高等学校卒業。

昭和5年(1930):鮫島実三郎教授の指導で卒業研究を行ない,東京帝國大學理学部(化学科)を卒業。

昭和15年(1940):横浜高等工業学校(のち横浜高等工業専門学校)教授となる。

昭和24年(1949):横浜国立大学工学部教授となる。図書館長・評議員をつとめる。

昭和38年(1963)文部省海外化学研究施設調査に派遣。

昭和47年(1972)横浜国立大学退官,名誉教授となる。新設の埼玉医科大学教授となり,正中の弟・東作の長男で,東大を定年退官した木下治雄教授とともに大学創設に尽力する。

昭和51年(1976):勲二等瑞宝章を授与される。

平成7年(1995):10月12日逝去。享年90歳。

 

♪三男・謹三(1911-1945)

明治44年(1911):7月1日,本郷森川町に生まれる。東京高等師範附属小学校・中学校卒業。静岡高等学校卒業。

昭和10年(1935):東京帝國大學農学部(農芸化学科)卒業。昭和産業株式会社に入社。麻布第三連隊に入隊。千葉陸軍通信学校卒業。

昭和13年(1938):藤井よし枝と結婚。

昭和19年(1944):北方派遣部隊に所属して,千島最北端の幌筵島(ほろむしろとう)・占守島(しゅむしゅとう)へ転属。

昭和20年(1945):4月19日,大誠丸で沖縄へむかう途中,北海道日高郡門別 村沖合で,米国潜水艦の攻撃を受け沈没。戦死。享年34歳。

♪この家族写真は,昭和7年(1932)に撮られています。この年,正一は,父・正中が経営する九段・一口坂の木下産婦人科病院を引き継ぎ,院長になるため,九州大学の産婦人科教室(白木正博教授)のから呼び戻され,東京に家族を連れて帰ってきました。

♪正中は,前列中央に座り,博多からやってきた孫娘・恵子を大事に抱きかかえています。恵子を挟んで,泰子も,やさしく微笑んでいます。泰子の後ろには,定子(五女),弘子(六女),そして正中の横には,静子(七女)が寄り添っています。

♪次男の恭二にとっても,この昭和7年(1932)は,節目の年でした。山本陽子と結婚。恭二の右手側に陽子が立っています。

♪三男の謹三は,東京帝國大學農学部の学生でした。後列,右端に学生服姿で立っています。謹三の隣に並んでいるのが,正一の妻・綾子(あやこ)です。

♪恭二が通った府立第五中学校は,大正7年(1918)の創立で,初代の校長には,伊藤長七が就任しています。この府立第五中学校が開校した巣鴨駕籠町あたり一帯には,かつて榊俶はじめ(東京帝國大學医科大学精神病学初代教授)が医長をつとめた東京府巣鴨病院がありました。現在の日本医師会館や文京グリーンコート・科研製薬(旧理化学研究所跡)があるあたりです。多くの樹木が繁った広大な敷地を有しました。

♪正中が,嫁の綾子に,「日本医師会館だよ。東京医師会館ではない。駿河台の方だよ。連雀町の方ではないよ」といって出かけたという日本医師会館は,駿河台から駒込の地に移ってきています。本郷通りと不忍通りが交差する上富士前交差点の近くです。不忍通りをはさんだ向こう側には,六義園(柳沢吉保下屋敷庭園跡)があります。

♪東京帝國大學を目指すような優秀な人材を多数輩出した歴史ある都立小石川高等学校(旧府立第五中学校)も,平成23年(2011)には,閉校される予定とのことです。(現在は東京都立小石川中等教育学校に完全移行されています。)

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♪正一(木下家六代目)には,木下産婦人科病院の経営とともに,長男として,木下家の家宝である巻物「先徳遺芳(傳家寶墨)」(明治四十二年五月)(木下家四代目 木下凞作成)を子孫に伝える役目がありました2)3)

♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家(若狭小濱藩医・初代・木下宗白)に代々伝わる杉田家(若狭小濱藩医・初代・杉田元伯)からの書簡や遺墨などを,表装して巻物にまとめたものです4)5)6)

 注)杉田家の第三代目が蘭書を翻訳して『解體新書』を刊行した杉田玄白(名翼,号 齋又九幸,享保18年(1733)9月13日生,文化14年(1817)4月17日卒,85歳)。

♪この「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,全4巻からなります。第1巻「奉先記事」,第2巻「源淵寶墨」,第3巻「立卿成卿先生遺墨」,第4巻「名士墨蹟」の4巻です。

講談社内で発見された「先徳遺芳」

♪その一部を影写したものが『木下文書』(影写本)(65丁 文書27点 1906年作成大きさ37cm)として東京大学史料編纂所に残っています。『木下文書』という題は,杉田家からの書簡類を,東京大学史料編纂掛に保存するため影写したときに,三上参次がつけたものです。

♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,二重の桐箱に収められ,表箱(外箱)の表題である「先徳遺芳」と内箱の表題である「傳家寶墨」の題字は,いずれも,木下凞と親交のあった富岡鐡齋画伯の書によるものです。

講談社内で発見された「先徳遺芳」

♪また,内箱に裏書された外史(明治四十二年五月),そして,「奉先記事」に収められている自序も富岡鐡齋が筆をとりました。それほどに,木下凞と富岡鐡齋との友情は深かったと思われます。「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,その内容とともに,富岡鐡齋画伯の書風を知る貴重な資料となりました。

♪このような,医史学的,文化遺産として貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,戦時中,安全に,保管することは,正中(木下家五代目)はもちろん,正一も,大変,神経を使ったと思われます。

♪戦災により,一口坂の木下産婦人科病院や正中が独逸から多数収集していた蔵書類などは,全て焼失してしまいます。そして,戦争で,なによりも,三男の謹三を亡くします。木下家にとって,たくさんの大切なものを失いましたが,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,残りました。

♪第二次大戦後,10年を過ぎた昭和31年(1956)3月4日(午後2時から午後4時),正一は,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,安西あんざい安周やすちか(日本医史学会理事)(筆名:杉野大澤)の求めに応じて,医家先哲祭に出品しています7)

♪医家先哲祭8)の主催は,日本医師会で,後援は,日本医史学会,日本医事新報社。会場は,日本医師会館の大会議室。遺墨などの陳列は,大食堂で行われました。このとき,緒方富雄が「蘭学の流れ」,安西安周が「杉田家系譜について」と題して,記念講演を行っています9)

♪「木下文書」を公開するのは,木下凞自身が,明治40年(1907)に京都医学会総会の医史料展覧会で一部を展覧して以来のことでした。

♪このような貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,どのような形で,後世へ伝えるかについて,正一は,次弟の恭二とも,相談していたのではないか,と思われます。

♪恭二の次男にあたる木下實氏によると,恭二は写真が趣味で,正中から贈られたローライフレックスのカメラで旅行写真や孫などを撮影。その腕前はなかなかだったとのことです。晩年を過ごした鎌倉のお邸には,そのアルバムが書斎に沢山あるとのことでした。

♪木下實氏よりメールをいただきました。その内容は,次のようなものでした。

鎌倉で父のアルバムの一部を調べていて,発見したことがあります。野間科学医学研究資料館が『木下文書』を受け入れたときのことを,同館が発行している『科学医学資料研究』第75号(昭和55年7月)に記載しています。ここに,木下文書全4巻の写真も載っているようです。また,この文書を受け入れたときの理事が川喜田愛郎であったようです。

♪早速,文献を取り寄せました。まさしく,探索していた文献でした。正一が,「先徳遺芳(傳家寶墨)」(いわゆる「木下文書」)を野間科学医学研究資料館に寄贈したいきさつが,詳しく書かれていました。全4巻の巻物を桐の内箱に収めた写真,富岡鐡齋の手による内箱の表題と裏書の写真が掲載されていました。探し求めていた巻物が眼前に現れた思いでした10)

傳家寶墨 (出 典:『科学医学資料研究』第75号 昭和55年7月15日発行)

♪昭和55年(1980),正一,恭二,川喜田愛郎(六女弘子の夫)らが協力して,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,「安全で,なお学究の徒がいかなる時でも閲覧可能な場所10)」に,寄贈したのでした。

♪ここに,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家の手をはなれて,公的な文化遺産として,後世に受け継がれることになりました。当時の,野間科学医学研究資料館の責任者は緒方富雄で,正一,恭二,謹三の義弟にあたる川喜田愛郎(元千葉大学学長)が理事をつとめていました。緒方富雄は,『医学用語集(第一次選定)』で,正中のもとで働いたこともありました。

♪講談社の支援を受けた野間科学医学研究資料館は,平成15年(2003)に閉館。その全資料が国際日本文化研究所京都)に譲られることになります11)

(その後の調査で、『先徳遺芳』は、講談社に保管されていることがわかり、木下家に返却され、現在は国立国会図書館内に寄贈されています。この経緯については後述します)

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♪謹三のすぐ下の妹が弘子(六女)です。弘子と川喜田愛郎との結婚は昭和11年(1936)のことで,その2年後の昭和13年(1938)に,兄の謹三が,藤井よし枝と結婚しています。謹三と弘子は,年が近いせいか仲がよかったようです。弘子は,兄謹三を「きんちゃん」と呼び,その思い出を次のように書いています1)

「サッカーが好きで,畑毛に行くと広い芝庭があったのでよくドリブルの練習をしていた。転げて芝だらけになって私も遊んだ。」

「謹ちゃんのおはなれの部屋と母屋の十帖の窓が向い合っていて,お互いにじゃれあって悪態ついていたのが懐かしい。」

「登山も好きだった。山岳部に入っていて,五万分の一の地図を数枚ケースに入れ,飯盒や水筒,米,塩,味噌などの入った大きなリュックをしょって,ゲートルをまいて出かけて行った姿が,目に浮かぶ」

♪木下實氏に提供していただいた森川町の木下邸の平面図によると,一階の中廊下で母屋と離れの部屋が,繋がっていました。

♪お庭には,四季折々の花々が咲き乱れ,蝶が舞い,鶯が鳴く。蛍が飛び,夏の夕暮れには蜩(ひぐらし)の蝉の声。満天の星。天の川。秋のはじまりを知らせる赤とんぼの群れ。本郷台地を吹き抜ける風。冬が来ると,庭木は雪化粧。そして霜柱。周辺には,枳殻の垣根を持った家もあったかもしれません。そんな,自然豊かな,森川町のお邸で,兄弟姉妹は,楽しい,青春のひとときを,過ごしたことでしょう。

♪天上の人となった謹三は,富岡鐡齋画伯による「先徳遺芳(傳家寶墨)」の題字を,北海道の空の上から,どのように見ているのでしょうか。兄や妹の夫となった方たちの努力によって,家宝が安全な場所に移され,後世に遺されたことを喜でいるのではないでしょうか。

♪木下家墓所は,青山霊園12)の1種イ21号16側13番にあります13)14)。杉田家第六代目にあたる杉田玄端の墓(1種イ1号22側1番)も,この青山霊園にあります15)。杉田家の墓域には,慶應義塾大学に『解體新書』を寄贈した杉田つる(玄端の孫)も眠っています16)

♪霊園内の外人墓地には,スクリバ(Julius K. Scriba)(東京帝国大学名誉教師)(北2種イ1側),シモンズ(Duane B. Simmons)(南1種イ4側)などの外国人医師たちのお墓もあります。

♪青山霊園は,桜の名所としても知られています。ちょうど,桜の季節を迎えます。園内を散策しながら,木下三兄弟に思いを馳せ,日本古来の山桜を探してみたいと思います。

 

参 考 文 献

1)「木下家三代電子版(私家版)」(木下實氏作成)

2)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

3)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

4)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

5)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

6)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

7)安西安周:蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)

8)「医家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)

9)「医家先哲祭―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)

10)「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)

11)『野間文庫目録』巻頭序:山折哲雄.国際日本文化研究センター(2005)

12)『青山霊園』(田中 きよし著)郷学舎,1981.(東京公園文庫33)

13)『東京掃苔録』(藤浪和子著)八木書店,1973.

14)「東都掃苔記(77)木下家の墓」 『日本医事新報』 No.1659.p.60.(昭和31.2.11)

15) 「東都掃苔記(84)杉田家の墓」 『日本医事新報』 No.1666.p.64.(昭和31.3.31)

16)『杉田つる博士小傳』石原兵永編.杉田追悼文集刊行会,1958.

(平成22年3月13日 しるす)(平成22年8月26日 訂正)(平成30年6月21日 訂正追記)

49. 木下正中一家の家族写真:父・凞,母・準子を囲んで

♪木下實氏から,本郷森川町の木下正中邸の玄関前で撮られた正中(せいちゅう)一家の家族写真をお借りしました。写真は,正中の父・凞(ひろむ)と母・準子(じゅんこ)を囲む形で撮られています。当時の正中は,東京帝國大學醫科大學・産科學婦人科學教授でした。

本郷森川町・木下正中一家の家族写真(大正2年頃)(木下實氏提供): 左から恭二,準子,定子(のち楠),正一,正中,凞,宜子(のち栗原),篤子(のち木下),謹三,泰子,直子(のち石川)

♪木下凞(ひろむ)(木下宗伯)(1844-1914)は,若狭國小濱(現在の福井県小浜市)の藩医・木下家の第四代目(「樹恵堂 じゅけいどう」)にあたります。同じく小濱藩医であった杉田玄白(1733-1817)をはじめとする杉田家とは,親交があり,木下家には,杉田家との往復書簡類などが,代々,伝わっていたそうです。

関連連載:小濱藩医:杉田家・木下家々譜

♪安政5年(1858),小濱から江戸に出て川本幸民(かわもと・こうみん)(1810-1871)に入門。川本幸民は,坪井信道(つぼい・しんどう)(1795-1848)とともに,青地林宗(あおち・りんそう)(1775-1833)の女婿の一人でした。木下凞(ひろむ)は,川本幸民のもとで,3年間,学んでいます。

♪その後,京都の広瀬元恭(ひろせ・げんきょう)(1821-1870)の私塾(時習堂)に転じます。元恭の死後,明治4年(1871),横濱で,杉田玄白の子孫である杉田武(杉田つる伯父・玄白五世)と居を共にしながら,ヘボン(James Curtis Hepburn)(1815-1911)やシモンズ(Duane B. Simmons)(1834-1889)から,英書および西洋医学の実地指導を受けています。また,藩命により長崎にも赴き,英書を学びました。木下凞(ひろむ)は,英学を中心に医術を学び,学問に生きた人であったようです。

横濱グランドホテルとヘボン邸(絵葉書)

♪明治6年(1873),京都療病院(現在の京都府立医科大学)に採用されたときから,京都に住み,明治9年(1876)6月3日,建仁寺内福聚院に仮駆黴院(駆梅院)が開かれたときには,検梅医員になっています。

♪明治10年(1877),医務取締,産婆取締となり,明治14年(1881)1月19日,駆黴院に院長が置かれることになったとき,木下凞(ひろむ)が,初代院長に任じられました。

♪明治18年(1885)以来,自宅(上京区麩屋町通り御池下る中白山町六番戸)で開業し,京都の産婦人科の中心人物として,京都医会に多大の功績をのこしました。

♪京都での診療を休止したのが明治44年(1911)3月,廃業したのが大正2年(1913)2月のことで、家族写真は,その後,東京へ移ってきた頃の写真だそうです。

♪洋間から運んだのでしょうか,椅子が3脚,庭先に間隔をおいて置かれます。その中央には,正中(木下家五代目)の父・凞(ひろむ),右手側に母・準子が座ります。そして,左手側に,明治44年(1911)生まれの謹三(きんぞう)(三男)を抱いた妻・泰子(やすこ)(下瀬謙太郎の妹)が座ります。

♪正中自身は,後列に,学生服姿の正一(せいいつ)(長男・木下家六代目)の右肩に手をかけて,立っています。

♪正中は,明治27年(1894),醫科大學4年生のとき,ペストが流行している香港へ調査・研究のため,青山胤通(あおやま・たねみち)(1859-1917)(内科学教授)に同行,助手・通訳として活躍しました。

♪正中の妻・泰子は,正中と東京帝國大學醫科大學で同級生の親友・下瀬謙太郎の妹でした。下瀬謙太郎は,陸軍軍医学校校長をつとめた人物で,東京帝國大學では,北島多一とも同級でした。

♪泰子が,学生生活を過ごした明治女学校は,麹町にありましたが,その後,巣鴨に移転しています。現在,巣鴨の明治女学校跡には,特別養護老人ホーム「菊かおる園」が建っています。

♪左端に着物姿に学生帽を被っているのが,恭二(次男)。お人形を持って,祖母(準子)に身を寄せているのが,定子(五女)。後列の篤子(長女)の前に立つのが,宣子(よしこ)(四女)。右端に立つ直子(三女)と同じように,頭にかわいらしくリボンをのせています。

♪足元には,門から本玄関へと続く飛び石がみえます。門構えといい,庭木といい,大正初期の古きよき時代の日本家屋がみえます。この写真が撮られた本郷森川町界隈には,まだ,江戸の風景が残り,映世神社の境内は,樹木で鬱蒼としていたのでしょうか。

♪画面には,自然のやわらかい光が溢れ,正中の家族に対する愛情が感じられます。

♪写真が撮られた本郷森川町の木下正中邸跡は、現在、「旅館・鳳明館森川別館」(東京都文京区本郷6-23-5)となっています。

 

参考文献

1.「木下文書」(東京大学史料編纂所蔵):自序(木下凞ひろむ)
2.「木下家三代電子版」(石川純・栗原純夫編集の私家版を木下實が電子化したもの)
3.「木下凞(ひろむ)について」「木下正中」「木下文書について」(木下實著)
4.「京都の医学史」(京都府医師会医学史編纂室,1980)
5.「青山胤通」(青山内科同窓会,1930)

(平成22年2月7日 記す)(平成23年8月9日 訂正)(平成30年6月18日 追記訂正)