103. 『二本榎保存碑』(拓本)誠心堂書店で発見

誠心堂書店
場 所:東京都千代田区神田神保町2-24
電 話:03-3262-5947

二本榎保存之碑:東京都北区西ヶ原2丁目13(Google Earth)

関連連載94 「二本榎保存之碑」(西ヶ原一里塚):飛鳥山公園の附属地:三上参次と澁澤栄一

🌲高村光太郎のアトリエ跡を訪ねて旧駒込林町界隈(現在の文京区千駄木5丁目と3丁目の一部)を散策していた昨年の暮れに、智恵子の記念碑について、インターネットで検索していました。そのとき、偶然に誠心堂書店のホームページに入り込み、三上参次が碑文を書いた「二本榎保存之碑」(大正五年六月)の拓本『二本榎保存碑』を発見しました。

🌲日光御成道(旧岩槻街道)の二里目の一里塚(西ヶ原)にある記念碑「二本榎保存之碑」を調べ始めたときには、その拓本があることは知りませんでした。

🌲ちょっと興奮して、誠心堂書店に連絡してみました。在庫しているとのことでした。拓本が残されていることにも驚きましたが、その価格が貴重なものの割には、安価であることにも驚かされました。早速、入手しておくことにしました。

🌲拓本は、写し取った和紙を一行づつに裁断して、折本形式の台紙に貼付けられ、一帖となっていました。しかし、残念なことに記念碑の最後に刻まれていた「廣群鶴刻」の文字と裏面の説明文は、摺り取られていませんでした。

🌲また、この拓本は誰がいつ作ったものなのか。折本に書誌的記載がなく定かなことはわかりません。墨で写し取られた碑面の状態からみると、記念碑が建てられた直後というわけではないような気がしました。

🌲高村光太郎・智恵子の事跡を調べていて、三上参次の『二本榎保存碑』(拓本)に出会う。なにか不思議な縁を感じずにはいられませんでした。

🌲『二本榎保存碑』(拓本)は、たいへん貴重な史料だと思いますので、折本の全体をデジタル化して記録に残しておこうと思います。

(平成15年10月9日記)

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○ 『二本榎保存碑』(拓本

https://www.evernote.com/shard/s180/sh/a2f1a85e-c044-483e-b7fe-1086ef22f405/957d4bb91425a930828801538f38697f


(三宅参次撰文 阪正臣書 帖仕立拓本 一帖)
(縦:35.5cm 横:22.5cm 厚さ:7mm)

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん

大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

🌲題字を書いた徳川家達(とくがわ・いえさと)(1863-1940)は、御三卿(ごさんきょう、田安・一橋・清水)のひとつ田安家の出身で、幼名を田安亀之助といい、明治元年(1868)、六歳のとき、徳川慶喜(第15代将軍)が処分されたあとをうけて、徳川宗家(将軍家)(駿河府中七十万石)を相続し静岡知事になりました。この「二本榎保存之碑」の題字を書いた大正5年(1916)は、年表によると、徳川家達は華族会館館長・貴族院議長を務めていた時期にあたります。夏目漱石、菊池大麓が亡くなり、理化学研究所が設立されたのも大正5年(1916)のことでした。


🌲後年、徳川家達は、佐野常民(さの・つねたみ)(1822-1902)(参考文献1)と大給恒(おぎゅう・ゆずる)(1839-1910)が、西南戦争の最中の明治10年(1877)5月1日に「博愛社」として創設し、明治20年(1887)5月20日に「日本赤十字社」と改称・発展させた第六代の社長を務めています。また、昭和10年(1935)には、第12回国際オリンピック大会招致委員会会長なども務めました。

                  徳川宗家(将軍家)

水戸家―――――――→一橋家――――慶喜(よしのぶ)(15代将軍)
                     ↓
           田安家――――――→家達(いえさと)
                     ↓
                     家正(いえまさ)


🌲大給恒(おぎゅう・ゆずる)(1839-1910)は、幕末の龍岡藩主(田野口藩)であった松平乗謨(まつだいら・のりかた)のことで、明治に入ってから大給恒と改名しました。元老院議官を務め松平十三家の代表者でもありました。龍岡藩は、現在の長野県佐久市田口にあり、龍岡城跡(星形稜堡)は田口小学校の敷地になっているそうです。

(平成15年10月18日記)

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🌲本郷通りと不忍通りがぶつかる交差点の上富士前を上野不忍池方向に向かうと動坂下、道灌山下、団子坂下と続きます。この不忍通りの右手側、本郷台地上に動坂上と団子坂上を繋ぐ江戸時代から続く道があります。

🌲この道は、現在の住所でいうと文京区千駄木3丁目で、かつて大給恒が住んだことがあるそうです。不忍通りを保健所通りを繋ぐ細い坂を大給坂といい、その名を残しています。

🌲団子坂界隈は、菊人形でも有名な地で、現在、音羽にある講談社(旧大日本雄弁會講談社)(本郷區駒込坂下町)の発祥地もこのあたりでした。

(令和3年(2021)1月12日 追記)