108.染井の書棚より:協会史編纂部会に参加して

医学図書館 1989;36(2):120-121.

「日本医学図書館協会六十年略史」編纂部会(日本医学図書館協会将来計画委員会・協会史編纂部会)

担当理事:大久保 泰雄(日本大学歯学部)
担当理事:井上  英新(東邦大学医学部)

部会長:大澤 充(慶應義塾大学医学情報センター)

細井 昌文(日本医科大学図書館)
青木  仕(順天堂大学図書館)
今井 義訓(東京医科大学図書館)
堀江 幸司(東京女子医科大学図書館)
竹内 和代(東京慈恵会医科大学医学情報センター)
坂本 智子(東京歯科大学図書館)

協会史編纂部会:左から今井義訓(東京医科大学図書館)堀江幸司(東京女子医科大学図書館)大澤 充(慶應義塾大学医学情報センター)大久保泰雄(日本大学歯学部図書館)坂本智子(東京歯科大学図書館)細井昌文(日本医科大学図書館)(撮影:青木 仕 順天堂大学図書館)(欠席:竹内和代 東京慈恵会医科大学医学情報センター)
左端:青木 仕(順天堂大学図書館)

🌲🌲🌲 🌲🌲🌲

🌲🌲

🌲🌲

(令和3年3月12日 記す)

107. 染井の書棚より:「日本医学図書館協会創始者のひとり 渡邊正亥(わたなべ・まさい)」

医学図書館 31(3):298,1984

 

♪渡邊正亥先生は、現在の日本医学図書館協会の創始者のひとりで、昭和2年11月に創立された官立医科大学附属図書館協議会の第1回協議会に新潟医科大学附属図書館から開催館の実務者として参加されています。

♪新潟医科大学時代は、「醫科大学共同學術雑誌目録」(昭和6年初版 昭和10年第2版)(醫科大學附属図書館協議会)の編纂に努め、戦後は、新潟県立図書館長、順天堂大学図書館長などを歴任されました。

「醫科大學共同學術雑誌目録」(渡邊正亥編 醫科大學附属図書館 昭和六年)

 

「醫科大學共同學術雑誌目録 (第二版)」(渡邊正亥編 醫科大學附属図書館 昭和十年)

 

新潟医科大学附属図書館

♪このエッセイは、習志野の先生のお宅に、本協会の創立時の写真を拝借に行ったときのものです。先生に、総会の集合写真を見ながら、撮影されている方々のお名前を、一人ひとり、思い出していただき、確認して記録したことが、思い出されます。

🌲🌲

(令和4年6月17日 追記)

106.染井の書棚より:「第2回協議会・第14回協議会の記念写真を求めて」

医学図書館 32(1):20, 1985

♪日本医学図書館協会(はじめは官立医科大学附属図書館協議会)の歴史に興味を持ち、ちょうど創立60周年(1987)も間近ということもあって、毎年、一度、開催された協議会のたびに撮られた記念写真を集めることに、やっきになっていました。当時は、国立大学の図書館にも、医学図書館畑専門という方々が各地におられて、いろいろ、教えていただきました。

♪新潟で開催された第1回協議会に、開催館の一員として参加された渡邊正亥(わたなべ・まさい)先生が、習志野でご健在のことを知り、渡邊先生から、昭和2年(1927)の第1回協議会(新潟医科)から昭和18年(1943)の第15回協議会(東京帝國大學医学部)までのほとんどの記念写真を拝借できました。

♪しかし、第2回(岡山医科)と第14回(千葉医科)の協議会の記念写真だけは、渡邊先生の手元にもなく、あきらめかけていました。そこで、不思議な力が働いたようです。「医学図書館」誌の編集で、ご縁のあった青木公男(あおき・きみお)さんのお力添えがあり、千葉の故北村清氏宅で、第14回協議会の貴重な写真を発見できたのです。

♪このエッセイは、千葉市内の北村家を、1984年11月17日に、お訪ねしたときのもの。奥様とお嬢様が、丁寧に応対してくださり、写真の掲載を許可してくださったことが、昨日のことのように、思い出されます。

左から取材に協力していただいた青木公男さん(千葉)、半田光子さん(千葉)。北村清氏の奥様、お嬢様
北村清一家家族写真 女学校入学の初夏(昭和14年夏休み)

🌲🌲🌲

(令和3年 2021年2月6日 記す)

105. 染井の書棚より:「津山に箕作阮甫の史跡を訪ねて」    

医学図書館 34(1):82-84, 1987] 

 [平成21年10月13日 個人リポジトリ登録]

♪津山の静かな駅前から、旧出雲街道を進み、古い町並みのなかに、旧宅跡をみつけました。裏手の林田の丘にある箕作家の墓所から眺めた吉井川の景観が、蘇ります。

津山林田の丘からの景観と箕作家墓所

津山洋学資料館:岡山県津山市川崎823番地(平成22年西新町5に新築移転)

🌲🌲🌲
♪今年、平成21年(2009)の5月30日に、、箕作阮甫旧宅跡の隣に建築中であった津山洋学資料館の新館が完成して、その竣工式が行われたようです。前庭には、市内各所に点在していた洋学者のブロンズ像が集められ、来年3月のオープンを目指して準備中とのこと。桜咲く、津山を再訪してみたいものです。

🌲🌲🌲🌲🌲・・・・・・・・・・・・・・

🌲・・・・・・・・・・・・・・・・・・

🌲・・・・・・・・・・・・・・・・・

🌲・・・・・・・・・・・・・・・・・

🌲・・・・・・・・・・・・・・・・・

🌲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

🌲・・・・・・・・・・・・・

🌲・・・・・・・・・・・・・・・・・・

🌲🌲🌲

(令和3年(2021)1月26日 追記)

104. 染井の書棚:医史学散歩 (1)

🌲ソネット(SONY)のサーバーを利用して、「染井の書棚」というホームページを作成して、私が在職中から書いてきたエッセイなどをデジタル化して公開していたのですが、2021年1月28日をもって、ソネットのホームページ作成サービスが中止されることになりました。

🌲私の書いたもののなかには、Wikipediaの参考文献となっているものもありますので、「染井の書棚」で公開していたものを、一部、本「改訂版・江戸東京医史学散歩」に移しておくことにしました。

🌲1)「日本医学図書館」と金杉英五郎

🌲2)「日本医学図書館」―神田駿河台周辺と明治35年以降の「日本医学図書館」

🌲3)拓本『二本榎保存碑』

🌲4)東京医学校本館遺構

🌲5)加賀谷凡秋と第14回医科大学附属図書館協議会

♪加賀谷凡秋(勇之助)は、ホトトギス同人で、千葉医科大学の法医学教授を務めた。昭和15年(1940)5月9日~11日、千葉を会場として開催された第14回医科大学附属図書館協議会を附属図書館長として主宰している。このエッセイは、昭和59年(1984)から昭和61年(1986)にかけて、凡秋先生の足跡を辿り、千葉大学医学部猪鼻構内や、その周辺の猪鼻城址を散策したときのもの。

103. 『二本榎保存碑』(拓本)誠心堂書店で発見

誠心堂書店
場 所:東京都千代田区神田神保町2-24
電 話:03-3262-5947

二本榎保存之碑:東京都北区西ヶ原2丁目13(Google Earth)

関連連載94 「二本榎保存之碑」(西ヶ原一里塚):飛鳥山公園の附属地:三上参次と澁澤栄一

🌲高村光太郎のアトリエ跡を訪ねて旧駒込林町界隈(現在の文京区千駄木5丁目と3丁目の一部)を散策していた昨年の暮れに、智恵子の記念碑について、インターネットで検索していました。そのとき、偶然に誠心堂書店のホームページに入り込み、三上参次が碑文を書いた「二本榎保存之碑」(大正五年六月)の拓本『二本榎保存碑』を発見しました。

🌲日光御成道(旧岩槻街道)の二里目の一里塚(西ヶ原)にある記念碑「二本榎保存之碑」を調べ始めたときには、その拓本があることは知りませんでした。

🌲ちょっと興奮して、誠心堂書店に連絡してみました。在庫しているとのことでした。拓本が残されていることにも驚きましたが、その価格が貴重なものの割には、安価であることにも驚かされました。早速、入手しておくことにしました。

🌲拓本は、写し取った和紙を一行づつに裁断して、折本形式の台紙に貼付けられ、一帖となっていました。しかし、残念なことに記念碑の最後に刻まれていた「廣群鶴刻」の文字と裏面の説明文は、摺り取られていませんでした。

🌲また、この拓本は誰がいつ作ったものなのか。折本に書誌的記載がなく定かなことはわかりません。墨で写し取られた碑面の状態からみると、記念碑が建てられた直後というわけではないような気がしました。

🌲高村光太郎・智恵子の事跡を調べていて、三上参次の『二本榎保存碑』(拓本)に出会う。なにか不思議な縁を感じずにはいられませんでした。

🌲『二本榎保存碑』(拓本)は、たいへん貴重な史料だと思いますので、折本の全体をデジタル化して記録に残しておこうと思います。

(平成15年10月9日記)

🌲🌲🌲🌲🌲

○ 『二本榎保存碑』(拓本

https://www.evernote.com/shard/s180/sh/a2f1a85e-c044-483e-b7fe-1086ef22f405/957d4bb91425a930828801538f38697f


(三宅参次撰文 阪正臣書 帖仕立拓本 一帖)
(縦:35.5cm 横:22.5cm 厚さ:7mm)

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん

大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

🌲題字を書いた徳川家達(とくがわ・いえさと)(1863-1940)は、御三卿(ごさんきょう、田安・一橋・清水)のひとつ田安家の出身で、幼名を田安亀之助といい、明治元年(1868)、六歳のとき、徳川慶喜(第15代将軍)が処分されたあとをうけて、徳川宗家(将軍家)(駿河府中七十万石)を相続し静岡知事になりました。この「二本榎保存之碑」の題字を書いた大正5年(1916)は、年表によると、徳川家達は華族会館館長・貴族院議長を務めていた時期にあたります。夏目漱石、菊池大麓が亡くなり、理化学研究所が設立されたのも大正5年(1916)のことでした。


🌲後年、徳川家達は、佐野常民(さの・つねたみ)(1822-1902)(参考文献1)と大給恒(おぎゅう・ゆずる)(1839-1910)が、西南戦争の最中の明治10年(1877)5月1日に「博愛社」として創設し、明治20年(1887)5月20日に「日本赤十字社」と改称・発展させた第六代の社長を務めています。また、昭和10年(1935)には、第12回国際オリンピック大会招致委員会会長なども務めました。

                  徳川宗家(将軍家)

水戸家―――――――→一橋家――――慶喜(よしのぶ)(15代将軍)
                     ↓
           田安家――――――→家達(いえさと)
                     ↓
                     家正(いえまさ)


🌲大給恒(おぎゅう・ゆずる)(1839-1910)は、幕末の龍岡藩主(田野口藩)であった松平乗謨(まつだいら・のりかた)のことで、明治に入ってから大給恒と改名しました。元老院議官を務め松平十三家の代表者でもありました。龍岡藩は、現在の長野県佐久市田口にあり、龍岡城跡(星形稜堡)は田口小学校の敷地になっているそうです。

(平成15年10月18日記)

🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

🌲本郷通りと不忍通りがぶつかる交差点の上富士前を上野不忍池方向に向かうと動坂下、道灌山下、団子坂下と続きます。この不忍通りの右手側、本郷台地上に動坂上と団子坂上を繋ぐ江戸時代から続く道があります。

🌲この道は、現在の住所でいうと文京区千駄木3丁目で、かつて大給恒が住んだことがあるそうです。不忍通りを保健所通りを繋ぐ細い坂を大給坂といい、その名を残しています。

🌲団子坂界隈は、菊人形でも有名な地で、現在、音羽にある講談社(旧大日本雄弁會講談社)(本郷區駒込坂下町)の発祥地もこのあたりでした。

(令和3年(2021)1月12日 追記)

102. 日本橋川に架かる3つの「ときわ橋」

 

常磐橋(旧常磐橋):日本銀行本店前(Googe earth)

(1)常磐橋(旧常盤橋)(明治10[1877] 石橋 2連アーチ橋)

(2)新常盤橋(大正9年[1920] 3連アーチ橋)(路面電車開通時に架橋)(昭和63年[1988]改架)

(3)常盤橋(復興橋梁)(大正15年12月 竣工 2連アーチ橋)

 

🌲🌲🌲

♪「常磐橋(旧常盤橋)」,「新常盤橋」、「常盤橋」は,どれも日本橋川(外濠の一部を含む)に架かる橋です。読み方は「ときわばし」と同じなのですが,「わ」の漢字表記が違います。「」と「」が使い分けられています。石と皿の違いです。

🌲日本橋川(外濠の一部を含む)に架かる橋

 

日本橋川略図(クリックするとGoogle地図が開きます)

 

神田川(小石川橋)

三崎橋(日本橋川の起点)

新三崎橋

あいあい橋(旧新飯田橋の場所)

新川橋

掘留橋

南掘留橋

俎橋(靖国通り)

宝田橋

雉子橋

一ツ橋(白山通り)

錦橋

神田橋(本郷通り)

鎌倉橋(外堀通り)

新常盤橋(江戸通り)(旧都電通り)

常磐橋

常盤橋

(↑外濠)

 

一石橋(外堀通り)(旧・日本橋区北鞘町(きたさやちょう) 現・中央区日本橋本石町一丁目と同区西河岸 現・八重洲一丁目を結ぶ橋)

西河岸橋

日本橋(中央通り)

江戸橋(昭和通り)

鎧橋

茅場橋(新大橋通り)

湊橋

豊海橋(日本橋川の終点)

隅田川(永代橋の近く)

 

🌲🌲

(1)常磐橋(明治10年[1877] 石橋架橋)

♪「常磐橋(旧常盤橋)」は,日本銀行本店前に架かる石橋で,明治10年(1877)に木橋から石造りの2連アーチ橋に架け替えられた橋です。石造りとなったからでしょうか,「わ」の字が皿から石に変わりました。江戸時代には,ここに「常盤橋」(木橋)が架けられていました。

♪江戸時代の「常盤橋」(木橋)は,『江戸名所図会』(国立国会図書館デジタル化資料)の「八見橋」のなかに描かれています。八見橋は一石橋(いちこく)の異名で,この橋上からは,川筋に架かる常盤橋(常磐)(ときわ),銭瓶橋(ぜにかめ),道三橋(どうさん),呉服橋,日本橋,江戸橋,鍛冶橋が,見渡せたといいます。江戸の高台からは,川筋,それに続く江戸湾,富士山,筑波山などが,遠望できたのでしょう。川の流れとともに緑豊かな自然が,江戸にはありました。

 

八見橋(一石橋):国立国会図書館デジタルコレクション
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: ACtC-3d9oeSjWKJ5Eam-SGj3o91ns4Lk3ux3k5sLcQg0cRcp4UslyYCu7s8F1kvh41gY0d-XULc1Tt6GaWtQ7ZUV0S_rZ50QjpDMMfqzIa7C6VY8MZGG_8tkgFcLwXvbGyszxky1K8AVCJUPiLSh7X86D8t5=w1785-h1316-no

 

御本丸の大手より東の方,本町への出口にして,御門あり。橋の東詰北の方に,御高札を建てらる。『金葉集』に,「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤波」といへる古歌の意を,松平の御称号にとりまじへ,御代を賀し奉りての号なりといへり。

♪「日本銀行」の絵葉書(彩色)に「常磐橋(旧常盤橋)」が写っていました。日本銀行との位置関係がよくわかります。長崎の眼鏡橋を思わせる石橋です。美しい2連アーチの橋の姿が,日本銀行の建築によくマッチしています。日本銀行の右隣の建物(横濱正金銀行東京支店)の屋根についたドームが印象的です。横濱正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)を想わせます。

♪日本銀行(明治29年[1896]建設竣工)の建物は,東京駅の建築で有名な辰野金吾によります。コンドルのあとをうけて工部学校(現在の東京大学工学部)の教授に就任した人物です。

日本銀行と「常磐橋」(絵葉書)(堀江幸司蔵) 画面右手の建物は、横浜銀行正金銀行東京支店
写真:
日本銀行と常磐橋(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
日本銀行と常磐橋船着き場(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

🍂常磐橋の皇居側の現在、常盤橋公園(東京都千代田区立)となっている一帯(常盤橋門跡)には、明治9年(1876)10月10日に紙幣寮(大蔵省印刷局)(ポアイン・ベル設計)が竣功しています。跡地には、渋沢栄一の銅像が建てられています。(常盤橋公園は、令和2年現在、周辺の再開発工事のため閉鎖中)

 

 

 

(2)新常盤橋(3連アーチ橋)(大正9年)

♪常磐橋(旧常盤橋)の上流側にある新常盤橋(3連アーチ橋)は,大正9年(1920)に路面電車(市電)の開通に合わせて架けられたものです。系統17番(池袋駅⇔数寄屋橋)と系統31番(三ノ輪橋⇔都庁前)が交差する場所でした。昭和63年(1988)の東北新幹線の高架建設に伴って架け替えられ現在に至っています。

 日本銀行前を走行する市電

都電17系統(池袋駅前―数寄屋橋)

(池袋駅前)―(日ノ出町三)―(日ノ出町二)―(大塚坂下町)―(護国寺前)―(大塚仲町)―(大塚窪町)―(教育大学前)―(清水谷町)―(文京区役所前)―(同心町)―(伝通院前)―(富坂二)―(春日町)―(後楽園前)―(水道橋)―(三崎町)―(神保町)―(一ツ橋)―(錦町河岸)―(神田橋)―(鎌倉河岸)―(新常盤橋)―(日本銀行前)―(呉服橋)―(東京駅東口)―(鍛冶橋)―(有楽橋)―(数寄屋橋)

都電31系統(三ノ輪橋―都庁前)

(三ノ輪橋)―(三ノ輪車庫前)―(龍泉寺町)―(千束町)―(入谷町)―(合羽橋)―(菊屋橋)―(三筋町)―(蔵前一)―(浅草橋駅前)―(浅草橋)―(馬喰町)―(小伝馬町)―(本町三)-(室町三)―(新常盤橋)―(丸ノ内一)―(東京駅降車口)―(東京駅乗車口)―(都庁前)

 

🌲🌲🌲

 

🌲🌲🌲

♪一石橋の背景には,外濠に架かる常盤橋(2連アーチ橋),常磐橋(旧常盤橋)(2連アーチ橋),新常盤橋(3連アーチ橋)の3橋が,綺麗に写っています。画面の左上隅に,新常盤橋の3連アーチが,かすかに見えます。自然光による撮影のため,橋への太陽光線のあたり具合とアングルを考えての撮影だったと思われます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: ACtC-3fMUR3PEo2KZ_008HwdQpzhUZCwemhF0eL5XHt0KID4SSnc9qj59xED81JXQ8_WRfLcwtb9hTVQu8iB0jIiJeuxtoBRjwR6fHa0M0cI1PFy_Uo4E5DetQRzSr3fy778AEY8OnXqMpiWZBbo2jP5q3y3=w1516-h1316-no

 

(3)常盤橋(復興橋梁)(大正15年竣功)

♪「常磐橋(旧常盤橋)」の下流(一石橋側)に位置する「常盤橋」は,関東大震災の復興計画のなかで架けられた橋です。常盤橋の復興工事の写真が,土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス(震災復興橋梁工事写真[橋梁No.28])のなかにもありました。

 

写真: 常盤橋(絵葉書)(大東京の十六大橋)(堀江幸司所蔵)
常盤橋(復興雄橋梁)(絵葉書 堀江幸司所蔵)

♪「常盤橋」(復興橋梁)の絵葉書は「大東京の十六大橋」のなかにもありました。背景に日本銀行と横濱正金銀行東京支店の建物が見えます。横濱正金銀行東京支店は,工事期間中に関東大震災に会うのですが,昭和2年(1927)に竣工しています。設計は長野宇平治でした。

 

常盤橋(復興橋梁)

位 置:麹町區鐡砲町 日本橋區北鞘町間(外濠架設)

橋 長:39メートル

橋 幅:27メートル

竣 工:大正15(1926)年12月

土木図書館のアーカイブスのなかに,一石橋と常盤橋(復興橋梁)が写っている絵葉書もありました。タイトルは「丸の内に通ずる新常盤橋及一石橋を望む」となっています。この新常盤橋とは,現在の常盤橋のことと思われます。震災後,常磐橋(旧常盤橋)の下流に新たに橋を架橋したために「新常盤橋」と表記したものと思われます。

 

 

丸の内に通ずる新常盤橋及一石橋を望む(ここで新常盤橋とあるのは現在の常盤橋)

 

🌲日本橋川に架かる橋

三崎橋→新三崎橋→あいあい橋(旧新飯田橋の場所)→新川橋→掘留橋→南掘留橋→俎橋→宝田橋→雉子橋→一ツ橋→錦橋→神田橋→鎌倉橋→新常盤橋→常磐橋→常盤橋→(←外濠)→

一石橋→→西河岸橋→日本橋→江戸橋→鎧橋→茅場橋→湊橋→豊海橋→隅田川

 

新常盤橋(大正9年[1920] 3連アーチ橋 都電) (昭和63年[1988]改架)(東北新幹線)

常磐橋(旧常盤橋)(明治10[1877]年 石橋 2連アーチ橋)

常盤橋(復興橋梁)(大正15年12月竣工 2連アーチ橋)

 

🌲🌲🌲

♪当時の工事写真や絵葉書から,外濠や日本橋川上のひろびろとした空,静かであったころの江戸・東京が想像されます。

♪春の訪れとともに,街道筋の散歩に加えて,隅田川,日本橋川,神田川などの川筋の散策も続けたいと思います。散歩を通して,記憶し,過去の文献とともに記録に残すことがいかに重要なことかと,改めて,感じています。

🌲🌲

♪外濠(御堀)は一石橋で日本橋川に分かれて,西河岸橋→日本橋→江戸橋→鎧橋→茅場橋→湊橋→豊海橋と続き,隅田川に流れ込みます。

♪一石橋を外濠側から見た絵葉書を入手しました。絵葉書のタイトルは「日本銀行」となっているのですが,前景に外濠,遠景(画面右側)に改架前の一石橋が写っていました。外濠と日本橋川が繋がる部分です。一石橋がアーチ橋に改架されるのは,震災前の大正11年(1922)12月のことです1)。

写真:
写真: 左から日本銀行・横濱正金銀行東京支店・東京火災保険株式會社(外濠と日本橋川分岐点の一石橋際)

 

♪外濠には,舟が浮かんでいます。これから,一石橋をくぐり,日本橋川を下って隅田川に出るのでしょうか。江戸は舟運で繁盛しました。

♪外濠に沿って,建物が並んでいます。画面左が日本銀行,中央が横濱正金銀行東京支店(震災前の建物)(東京銀行の前身・現在の三菱東京UFJ銀行日本橋支店および貨幣博物館の場所・東京都中央区本石町一丁目[旧本両替町]),その右隣が東京火災保険株式會社(明治36年[1903]8月起工,明治38年[1905]7月竣工・旧北鞘町)の建物です。

横濱正金銀行東京支店(正金銀行出張所)
写真: 東京火災保険株式會社(日本橋區北鞘町一番地 一石橋際・辰野金吾設計・明治39年8月1日)
東京火災保険株式会社
写真: 東京火災保険株式會社と一石橋(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
東京火災保険株式会社新築落成移転記念(絵葉書)

 

◇🌲🌲

♪日本橋白木屋の上空から俯瞰した絵葉書がありました。画面左に外濠,そこから分かれて日本橋川が流れています。外濠には,復興後に架けられた常盤橋(復興橋梁)(大正15年[1926]12月竣工)が見えます。日本橋川に入って,一石橋,西河岸橋,日本橋と橋が架かっているのがわかります。

写真: 日本橋上空から見た日本橋川・外濠(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
白木屋上空から見た日本橋川・外濠(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

 

 

参考文献

1) 『東京の橋 生きている江戸の橋』(石川悌二著 新人物往来社 1977)

2) 『新訂江戸名所図会1』(巻之一天枢之部)(市古夏生・鈴木健一校訂 ちくま学芸文庫 1996)

3) 『帝都復興記念帖』(昭和5年 復興局)

4) 『都電が走った町 今昔』(林順信著 JTB日本交通公社出版事業局 1996)

5) 『都電が走った町 今昔II』(林順信著 JTB日本交通公社出版事業局 1998)

6) 長野宇平治:「横浜正金銀行東京支店建築概要」.土木建築工事画報 3(2):22-26, 1927.(土木図書館デジタルアーカイブス 「土木建築工事画報」)

7) 『東京の銅像を歩く』(木下直之著)(祥伝社 2011)

 

🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

🌲「東京新聞」(2020.11.08)によると、東日本大震災によって被害を受けた常盤橋の修復工事が完成したそうです。

常盤橋(Google earth)

 

 

写真:
復元工事中の常磐橋(平成25年5月 堀江幸司撮影)
写真:
復元工事中の常磐橋(平成25年5月 堀江幸司撮影)

(平成25年3月27日 記す)(平成25年5月11日 追加 記す)(令和2年11月22日 追記)

101. 日本赤十字社病院:本館と外来診察所(設計:片山東熊と岡田信一郎)

現在地日本赤十字社医療センター:渋谷区広尾4丁目(旧南多摩渋谷村御料地・渋谷区宮代町1丁目)

(1)本館(明治23年)(片山東熊設計)

明治23年(1890)6月竣功 設計:片山東熊(長州藩出身 コンドルの一期生)(参考:建築学会写真データベース

🌲現在の日本赤十字社医療センターは、もと佐倉藩・堀田下屋敷跡にあり、「日本赤十字社病院全景」の絵葉書に写る大木は、手術室の裏庭にあった「宗吾の松」かと思われます。敷地内には、多くの松のほかに、大イチョウ、大椎、大桑の木があったそうです。この「宗吾の松」は、関東大震災後、昭和初期に枯れ、その後、敷地内に一株だけの残った松が、二代目の「宗吾の松」として、医療センターの新築工事(2010年落成)の際に現在地(日本赤十字看護大学広尾キャンパス構内)に移植されています。

参考:日本赤十字社医療センター建物建設工事

日本赤十字社病院全景(絵葉書)
渋谷赤十字の宗吾松(東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書. 第2冊 (天然記念物老樹大木の調査))(国立国会図書館デジタルコレクション)

日本赤十字社病院(絵葉書)(本館は正門を入って右手)

日本赤十字社病院本館荘園(絵葉書)

(2)本館の再建(大正14年[1925])(岡田信一郎設計)

🌲岡田信一郎(東京帝国大学工科大学建築学科)が日本赤十字社病院の設計顧問となったのは、大正4年(1915)のことで、岡田による日本赤十字社病院関連の設計には、震災後の大正14年(1925)に竣功した本館のほかにも、外来診察所、分病室、産院など多数ありました。(参考:「岡田信一郎岡田捷五郎建築設計原図集成 内容一覧」国立国会図書館デジタルコレクション

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 日本赤十字社病院前庭001-1024x644.jpg
日本赤十字社病院前庭(右手に見える建物が本館、左手の植木の後ろに見える建物が外来診察所)

🌲🌲🌲

(3)外来診察所(明治37年[]1904)

「外来患者の増加にともない明治35年本社に増築委員会を設け、同年7月工事い着手、同38年にかけて、外来診察所が完成。このとき、分病室(伝染病室)、寄宿舎、教場なども完成。」

明治35年には、長年、日本赤十字社の社長を務めた佐野常民(さの・つねたみ)(佐賀藩)が死去し、後任として、松方正義(まつかた・まさよし)(薩摩藩)が就任して、副社長も大給恒(おぎゅう・ゆずる)(奥殿藩)にかわって小澤武雄(おざわ・たけお)(小倉藩)(陸軍士官学校校長・陸軍中将・貴族院議員)が就任しています。

日本赤十字社創立貳拾五年記念祝典記念(絵葉書)(佐野常民社長・花房義質副社長・大給恒副社長)
「第九囘万国赤十字総会参列日記 : 明治四十五年五月」(国立国会図書館デジタルコレクション)
(日本赤十字社社長・松方正義 副社長・小澤武雄 副社長・花房義質)

小沢男爵講話百題 : 日本赤十字社副社長

少将小沢武雄士官学校長被命ノ件

(4)外来診察所(大正11年[1922]11月)(岡田信一郎設計)(のちに外来別館として使用)

(5)新外来診察所(昭和11年[1936])

「昭和10年7月9日地鎮祭を行って工事に着手し、翌年11月に完成。鉄筋コンクリート4階建で、一部に地階をもち外面は白色タイル張、本館と薬剤科、レントゲン科に区分されている」

日本赤十字社中央病院構内圖(昭和41年当時)(病院創立80周年)

参考文献

「日本赤十字社中央病院80年史」(日本赤十字社中央病院 昭和41年刊)

(令和2年[2020]8月23日 コロナ渦中 記す)

100.『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)(2)

🌲前回からの続きです。絵葉書と組み合わせて紹介します。

『日本赤十字社病院寫眞帖』(PDF)

設立経緯:

参考:

1)「日本赤十字社中央病院80年史」

2)「日本赤十字社病院沿革及現况」(国立国会図書館デジタルコレクション)

3)「日本赤十字社歴史画談」(国立国会図書館デジタルコレクション)

明治19年(1886)

 5月 陸軍軍医総監 橋本綱常の提出した病院設立建議書に基づいて本社臨時会議で病院建設を可決

 8月 陸軍軍医監 石黒忠悳の斡旋で麹町區飯田町付近の土地を陸軍省から借り入れ病院の建築起工

博愛社(日本赤十字社の前身)
日本赤十字社(飯田町)(絵葉書)

日本赤十字社跡記念碑(東京都千代田区神田佐久間町4丁目9番地)

 10月 院長陸軍軍医総監橋本綱常、副院長陸軍軍医監石坂惟寛 以下病院職員を嘱託

 11月17日 開院式を挙行し博愛社病院と命名

明治20年((1887)

 博愛社が日本赤十字社と改名されたのに伴い、博愛社病院も日本赤十字社病院と改名される

明治21年(1888)

 12月 現在の地(渋谷区広尾)である南多摩御料地(豊多摩郡渋谷村御料地)の拝借を許可

 🌲この御料地内では、照憲皇太后(明治天皇の皇后)が奨励された養蚕のため、桑の木などが栽培された時期もあったようです。

明治23年(1890)

 12月 新築病院はほとんど落成 

明治24年(1891)

 5月 病院新築成り現在地(現・渋谷区広尾)に移転開院

「新築の病院はドイツのハイデルベルヒ大学病院を模したもので、・・・この新病院は、三宅大学教授が持ち帰ったハイデルベルヒ大学病院の設計図によって汚水の消毒まで完備したもので、・・・設計監督は片山[東熊]工学博士による」

二階建てのレンガ造りの本館の背後に内庭があり、その廻りを病室が囲む形で設計されています。この病棟の一部は、現在、明治村に移築(昭和48年[1973]解体・昭和49年[1974]移築)されて、現存しています。

🌲🌲🌲

日本赤十字社病院正門(渋谷)(絵葉書)

日本赤十字社病院本館正面(絵葉書)

明治25年(1892)

 6月17日 新築病院開院式挙行

日本赤十字社病院開院式:「中央医事新報」(294)

明治45年・大正元年(1912)

 10月 飯田町にあった本社、芝の現在地に移転。博愛社時代に本館として使われていた建物は、看護婦集会室として広尾の構内に移築される。

[写真]

芝の日本赤十字社本社(現・港区芝大門1丁目1ー3)

日本赤十字社病院(現・日本赤十字社医療センター 渋谷区広尾4丁目1-22

日本赤十字社本部(芝)(絵葉書)

大正11年(1922)

 外来診察所を新築。

[写真]

大正14年(1925)

 10月 本館、理学診察所、第1区東別室、北病棟、調乳室、分病室南棟、販売所落成。

[写真]

昭和11年(1936)

 11月 病院創立五十周年記念式典並に外来本館落成式挙行。新築外来本館で診察開始。

[写真]

昭和12年(1937)

 3月 旧外来診察所、薬室のあとを病棟に改め入院患者を収容する

🌲🌲🌲(前回の続き)

16、『日本赤十字社病院寫眞帖』
17、『日本赤十字社病院寫眞帖』
18、『日本赤十字社病院寫眞帖』
19、『日本赤十字社病院寫眞帖』
20、『日本赤十字社病院寫眞帖』
21、『日本赤十字社病院寫眞帖』
22、『日本赤十字社病院寫眞帖』
23、『日本赤十字社病院寫眞帖』
24、『日本赤十字社病院寫眞帖』
25、『日本赤十字社病院寫眞帖』
26、『日本赤十字社病院寫眞帖』
27、『日本赤十字社病院寫眞帖』
28、『日本赤十字社病院寫眞帖』
29、『日本赤十字社病院寫眞帖』
30、『日本赤十字社病院寫眞帖』
31、『日本赤十字社病院寫眞帖』
32、『日本赤十字社病院寫眞帖』
33、『日本赤十字社病院寫眞帖』
34、『日本赤十字社病院寫眞帖』
35、『日本赤十字社病院寫眞帖』
36、『日本赤十字社病院寫眞帖』

(令和2年(2020)8月17日 東京は新型コロナ禍 酷暑・37度 記す)

99.『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)(1)

🌲『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)を入手しましたので、デジタル化して紹介します。(2回にわけて掲載します)

場 所:東京市渋谷區宮代町一番地(現・東京都渋谷区広尾4丁目)

略 歴

🌲明治19年(1886)11月麹町區飯田町に当院の前身の博愛社病院創立、翌明治20年(1887)5月、日本赤十字社病院と改称。

🌲昭和16年(1941) 日本赤十字社中央病院と改称

🌲昭和47年(1972) 日本赤十字社産院を統合して、日本赤十字社医療センターとなる

参考:日本赤十字看護大学校歌・貞明皇后御歌「四方のくに」

(次回へ続く)

(令和2年(2020)8月5日 記す)