115.「鶚軒文庫」:東京医科歯科大学図書館へわたった経緯

♪鶚軒(がっけん)は、東京帝國大學醫科大學の皮膚科梅毒学講座主任教授を務めた土肥慶蔵(どひ・けいぞう)の号です。土肥慶蔵は、鶚軒先生と呼ばれていました。昭和6年(1931)11月6日に、麹町の自邸において、肝臓癌のため逝去。享年66歳。戒名は「智德院殿譽光鶚軒大居士」といい、鶚軒の文字が入っています。

Google earth 東京大学医学部(本郷キャンパス)

東京帝國大學一覧(昭和12年度)平面図(国立国会図書館デジタルコレクション)

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♪土肥慶蔵は、慶應2年(1866)6月9日、越前武生(たけふ)藩医であった石渡宗伯の二男として福井県越前府中松原(旧武生市(たけふし)・現越前市)に生まれ、明治22年(1889)24歳のとき、叔父土肥淳朴の養嗣子として入籍しています。

♪土肥慶蔵は、安政の大獄で処刑された橋本左内(はしもと・さない)(1834-1859)と同郷(越前国)の人です。左内の実弟は、陸軍軍医総監となり、東京大学醫科大學教授(外科)も務めた橋本綱常(はしもと・つなつね)(1845-1909)でした。

♪明治35年(1902)3月6日、土肥慶蔵が37歳のとき、結婚して妻となった多越子は、三井財閥の三井元之助の妹でした。のちに土肥慶蔵の蔵書が「三井文庫」に寄贈された所以です。

♪土肥慶蔵の歿後、どういう経緯で、「鶚軒文庫」の一部が、「三井文庫」の手を離れて、母校の東京大学だけでなく、東京医科歯科大学にもわたることになったのか、気になっていました。その手がかりを求めて、東京医科歯科大学図書館の石井保志氏に連絡してみました。石井氏とは、『医学図書館』誌の編集で、ご一緒したことがありました。

♪早速、調べてくださり、『東京医科歯科大学図書館報』のなかに、次の記事をみつけて、そのコピーを送ってくださいました。

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『東京医科歯科大学図書館報』(No.22 Oct. 1980)

「鶚軒文庫」の由来について 「鶚軒文庫」は約1年6カ月の年月を要して整理が完了し、目録を刊行することができた。しかし同文庫の由来については、何分にも戦時中の古いことで、現在の図書館職員のなかでその由来を承知している者がいない。このたびの整理を完了した機会に、萬年図書館長から当時のことをご存知の初代図書館長であった岡田正弘名誉教授にご照会したところ、鄭重なご返事をいただきその経緯が明らかとなった。それによれば「鶚軒文庫」の購入は終戦前の藤田恒太郎第2代図書課長時代(昭和16年から同20年)のことで、東京の爆撃が激しくなり、土肥家の疎開がはじまり、蔵書を売払うこととなった。和漢書及び洋書の稀覯書は天理大学東京大学で買い、後の残りを全部本学の前進である東京医学歯学専門学校で購入したものである。

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♪昭和55年(1980)2月に刊行された『鶚軒文庫目録』(東京医科歯科大学図書館)の序文に、図書館長の萬年甫(昭和22年東大卒・神経解剖学)は、次のような序文を寄せています。

明治から昭和初期にかけての医学者で、皮膚科学、性病学および泌尿器科学の大家である土肥慶蔵(号は鶚軒)先生が生前に収集された御蔵書の一部が本学の図書館に保存されていた。この蔵書には医学以外の他の分野のものもいくらか含まれているが、主として皮膚科学および黴毒学に関する洋書(主にドイツ語)で、洋書1,340冊、和書232冊である。この中には土肥先生御自身の手で表紙の裏に「珍本」と書き込まれたものが49冊あり、また先生がその名著「世界黴毒史」を執筆されるに当って、収集し参考とされた貴重な文献もいくつか含まれている。

♪また、平成元年(1989)2月には、『鶚軒文庫目録 雑誌編』が刊行されています。この中には、雑誌のほかに、皮膚疾患および性病関係の写真をまとめて製本したものも含まれています。

♪土肥慶蔵は、大正初期から、古本漁りをしていたようです。当時の古本の展覧即売会は、神田明神境内の旗亭、開化樓、のちに江東両国橋畔の美術倶楽部で行われていて、黴毒史関係、詩集類、および性病予防に関する古本を求めたようです。これらの古本の蒐集が、「鶚軒文庫」のもととなるわけです。

鶚軒文庫の所在

1.東京大学附属図書館総合図書館

2.東京医科歯科大学図書館

3.天理図書館

4.国立国会図書館「鶚軒文庫蔵書目録. 和漢書分類之部」「鶚軒文庫日本詩文書目録

5.CA607 – カリフォルニア大学バークレー校「三井プロジェクト」終了 / 中井万知子

5.カリフォルニア大学東アジア図書館所蔵 日本関連特殊コレクション

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♪神田明神や両国橋で目的の古本を入手した土肥慶蔵の気持ちは、どんなだったのだろうか。古本に染み付いた時代の香りとともに、すぐそこにあった「江戸時代」を感じていたのかもしれません。皮膚科泌尿器科教授として土肥慶蔵のあとを継いだ太田正雄(木下杢太郎)の両国の詩が浮かんできます。

♪「鶚軒文庫」が東京医科歯科大学附属図書館にあるのは、当時の図書課長で、戦後、東京大学の解剖学教授となった藤田恒太郎によるところが大きかったようですが、終戦前の東京大学の館長(医院図書室)が太田正雄(皮膚科教授)、医学部長代理をつとめた西成甫が解剖学教授であったことも、記録に留めておく必要がありそうです。

(平成19年10月27日 記)(令和4年2月16日 追記)