13. 赤門の背景に写る旧東京医学校本館(旧史料編纂所)[絵葉書]

Google My Map 東京大学本郷キャンパス構内医史跡案内

♪週末の静かな本郷キャンパスを歩きます。三四郎池の周辺の紅葉は,もう終わりに近づき,空気がひんやりと感じられます。それでも,色づいた葉を通り抜ける光には,まだ,秋の気配を感じます。恋人らしい二人連れとすれ違いました。家族連れも歩いています。都会の大学の構内とは思えない,庭園のような場所です。六義園のなかを歩いているような錯覚を覚えました。

♪東大構内にも,「コミュニケーションセンター」などという施設ができ,オリジナルグッズなどを売っています。一昔前の東大では,考えられなかったことです。法人化によって,東大も開かれた大学になっています。書籍も扱っていて『東京大学本郷キャンパス案内』(木下直之/岸田省吾/大場秀章著 東京大学出版会 2005)1)は,ここで買いました。

コミュニケーションセンター

 

♪「コミュニケーションセンター」は,赤門(昭和6年[1931]12月14日 重要文化財)を入って左手にあります。史料編纂所の前に位置しています。明治期につくられ図書館製本所として使われた建物を再生したのだそうです。当時の外観は,赤煉瓦造りだったのですが,改修されて,正面は,ガラス張りになってしまいました。正面の外壁も,赤煉瓦を残した方が,レトロな感じで,赤門とともに,歴史ある東大の建築遺産となったと思われるだけに残念です。

史料編纂所

 

♪医学部・附属病院では,平成20年(2008)5月9日,創立150周年の節目の日を迎えました。記念事業の一環として,構内が整備され,青山胤通(内科教授),佐藤三吉(外科教授)の銅像,そしてドイツ医学導入の恩人である相良知安の記念碑なども,場所を移動させられています。新入院棟の周辺は,コンクリートの建物だらけになり,緑が少なく,ちょっと,息苦しい感じがします。

 

♪明治9年[1876],東京医学校本館は,富山藩(加賀藩の支藩)の御殿跡に建てられました2)。無縁坂に通じる坂上です。「龍岡町通り」に面していました。現在,病院・南研究棟となっている場所です。ここに鉄門があって,森鴎外や北里柴三郎などが出入りしていたことになります。『雁』(森鴎外)に登場する岡田(モデルは緒方収二郎[緒方洪庵の六男])の下宿もこのあたりでした。鉄門を入って前庭があり,その正面に東京医学校本館(時計台)が建っていたことになります3)

鉄門と東京医学校本館(東京大学医学部の表札がみえる)[無縁坂上時代] (出典:『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』[古畑種基編輯 非賣品 昭和十八年]3))

 

♪創立150年の記念事業の一環4)として,鉄門が再建されています。大学構内に新しい門を設けるのは,管理上も,いろいろ問題はあったでしょうが,医学部の方々の鉄門を復活させるという強い意思を感じます。

再建された鉄門

 

鉄門の由来 案内板

♪旧東京医学校本館が,現在の経済学部のある場所,赤門を入って右手の位置に移築されて史料編纂所として使われていた時代がありました。三上参次の史料編纂所です。

♪三上参次は,後年,旧東京医学校の建物について懐旧談5)のなかで,次のように述べています。

・・・・・・・・・・・・・・・ところが,そこへ行ってから二年足らずであったが,私が朝出勤してみると御殿の周囲の枯芝がよほど焼けている。どうしたかと糺すと,宿直の小使が,休みにくる病院の患者が煙草を吸って燃やしたのだと言うのです。これを聞いて実に危いことだ。どうかしてもっと安全な所へ行きたいと思っている間に,医学部の古い建物,これは時計台と言っておって,木造建築の西洋風の建物で,この種の建物としては最も早い。大きいものであったが,これが取り払われるということになった。この建物はちょうど,マッチ箱を二つ集めたようなもので,真中に廊下を挟んで北側と南側に建物があった。それを真中の廊下から二つに割き,一半は赤門の所へ持って来て,たしか今は会計課か営繕課かになっておりますが,他の一半はこの一ツ橋へ持って来て学士会館にしたが,これはその後焼けてしまった。それで我々は赤門の所へ持って来た建物へ引越して,自由にかなり広く使えることになった。この建物と外部の道路は隔たってはありますけれども,よほど近かった。・・・・・・・

 

♪この赤門を写した絵葉書は,古書店で,よく見かけるのですが,いずれも正面からのものばかりで,赤門の背景に旧東京医学校が写ったものをみたことがありませんでした。ところが,今回,東京大学の本郷キャンパスを散策するにあたって,絵葉書専門店のポケットブックスのホームページをみていたところ,赤門の背景に旧東京医学校本館が写った絵葉書をみつけました。時計台が写っていました。赤門の絵葉書というと,正面から写したものが多く,背景の建物が写り込んでいる絵葉書は,貴重であると思います。

帝國大學赤門(絵葉書)[赤門の右手に旧東京医学校がみえる]

 

東京帝國大學赤門[赤門と旧東京医学校本館](絵葉書)

 

東京大学赤門と旧東京医学校本館(絵葉書)(昭和30年代の撮影と思われる)

 

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三上参次と東京医学校本館の変遷

 明治9年(1876):11月,東京医学校を本郷旧加賀藩邸(旧富山藩邸内)に移す。本館竣工。校長は長與専斎。

明治10年(1877):4月12日,「東京大学」設立。東京医学校は東京大学医学部(第一次)となる。この時,綜理となったのが池田謙斎。

明治28年[1895]:4月,文科大学内に史料編纂掛が設けられ,三上参次が史料編纂委員となる。(当時の史料編纂掛の場所は森川町に面した法文学部の建物の二階の半分)

明治32年[1899]:三上参次、東京帝国大学文科大学教授・史料編纂掛主任となる。

明治38年[1905]三上参次、史料編纂掛事務主任[現在の史料編纂所長]になる。(当時の史料編纂掛の場所は山上御殿にあった。)

明治44年(1911):1月14日から7月20日までの期間をかけて解体。前半部が赤門横に移築され,史料編纂掛の建物となる。解体された後半部は,神田錦町の学士会館の建物となる。

 

昭和30年(1955):東京大学営繕課となる。

昭和40年(1965):用途廃止となる。

昭和44年(1969):3月,明治44年(1911)当時の外観に復元され,小石川植物園内に移築される。

昭和45年(1970):6月8日,重要文化財の指定を受ける。

平成14年(2002):1月12日,東京大学総合博物館小石川分館となる。

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♪この旧東京医学校本館は,現在,東京大学総合研究博物館小石川分館として利用されています。三宅秀6)(明治7年[1874]東京医学校長心得)の曾孫にあたる中村明男氏(前日本橋・榛原社長)と,小石川分館で,三宅秀に関する展示会が開催されたのを機会に,小石川植物園を訪ねたことを思い出します。東京医学校と小石川療養所の御薬園がマッチしている植物園内を歩きました。

東京医学校本館遺構(重要文化財)
東京医学校本館遺構と日本庭園
旧東京医学校本館(東京大学)案内板

 

♪旧東京医学校本館(旧史料編纂所)は,実に,よい場所を得て,時代にあった使われ方をしているように思います。春の訪れを待って,また,小石川植物園内を歩いてみたいと思います。天上の人となった中村氏の面影に,どこかで会えるのではないか。周辺の開発も,ほどほどにして,いつまでも,昔の名残が感じられる小石川植物園であってほしいと願っています。

 

 

参考文献

 1)『東京大学本郷キャンパス案内』(木下直之/岸田省吾/大場秀章著 東京大学出版会 2005)

2)『石黒忠悳 懐舊九十年』(石黒忠悳著 非賣品 昭和十一年)

3) 『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』[古畑種基編輯 非賣品 昭和十八年]

4)「東大病院だより」No.54 (平成18年8月31日発行)

p.2-3.医学部附属病院「鉄門」再建記念式典,”90年振りの鉄門の再建”

5)『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 平成三年)

6)『桔梗 ―三宅秀とその周辺―』(福田雅代編纂 岩波ブックセンター信山社 昭和六十年)

 

 

(平成23年12月26日 記す(平成29年6月1日 訂正・追記))

 

12. 「醫科大學ベルツ・スクリバ両博士銅像」の旧位置

Google MyMap  東京大学本郷キャンパス構内銅像案内

♪現在,ベルツ・スクリバの銅像は,東京大学本郷キャンパスの龍岡門(旧南新門)(写真1)を入って,しばらく進み,四つ角を渡って左手の広場(健康と医学の博物館前庭の隣,運動場の手前)にあります。(写真2 写真3

(注:「健康と医学の博物館」は、平成31年4月18日、南研究棟1階に移転、リニューアルオープンされています。)

写真1 龍岡門(画面左手が入口)

 

写真2 健康と医学の博物館(2019年4月18日(木)この場所から南研究棟に移転、リニューアルオープンされた
写真3 ベルツ・スクリバ胸像へ向かう途中の前庭

♪この銅像は,設立当時は,現在,医学図書館(医学部総合中央館)が建っているところにあった病理学教室の崖下に位置していました。(図1)病理学教室の建物ができる前までは,「第一医院本院」があった場所です。「第一医院本院」は,赤門を入った正面から四つ角の方向に続く広大な建物でした。(『東京帝国大学一覧. 明治32-33年』[近代デジタルライブラリー]

 

図1 現在の医学部総合中央館(医学図書館)前の坂(戦前)

♪銅像の除幕式は,明治40年(1907)4月4日の午後3時に挙行されています。銅像の前庭には、日独両国旗が飾られ、銅像製作委員長の青山胤通教授から、大学総長の濱尾新へ引き渡しが行われました。

 

文 献

ベルツ・スクリーバ両教師銅像除幕式.『中外醫事新報』 第650号 明治40.4.20

ベルツ・スクリバ両教授銅像除幕式.「東京医事新報」 第1507号 52[756]-55[759] 明治40年4月13日発行

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♪「醫科大學ベルツ・スクリバ両博士銅像」と題する絵葉書(実逓)を入手しました。(図2)消印は,明治42年(1909)となっています。神田區にあった蓬莱館内から岡山県倉敷に出されています。

図2 醫科大學ベルツ・スクリバ両博士銅像(絵葉書)

♪『東京帝國大學一覧』(明治41-42年)(近代デジタルライブラリー)のなかにある「東京帝國大學平面図」(図3)で銅像の位置が確認できました。(崖側:図2 赤色の場所)絵葉書の背景に写っている病理学教室との位置関係もわかります。

図3. ベルツ・スクリバ両博士銅像:設立時の場所(出 典:『東京帝國大學一覧』(明治41-42年)』)

♪震災,戦災を経て,この銅像が残ったことは,当時の東京大学医学部の方々や,それに続く多くの方々の努力があってのことでしょう。ベルツ・スクリバの銅像は,医療の近代化のなかにあっても,歴史を重んじることの大切さを,後世に伝えています。

♪ソチ・冬季オリンピックの開会式が行われた深夜から,東京は,13年ぶりの大雪となりました。書斎から見る山茶花の枝も雪景色です。風も強まり,雪が舞っています。

♪医学図書館前の桜が開花する春の訪れには,まだ,しばらく時間がかかりそうです。(写真4)(写真5)春の日差しが待たれます。

写真4 1980年代の医学図書館・薬学部前庭
写真5.東京大学医学図書館(医学部中央館)と桜

(平成26年2月8日 記)(平成29年5月31日 訂正・追記)(令和元年[2019]11月23日 文献を追加)

11. 続・本郷東京大学構内:高島秋帆墓からベルツ・スクリバ胸像へ向かう

地図(Googe My Map) 本郷界隈:医史跡案内

♪また、ベルツ・スクリバの胸像を見に行ってきました。今回も地下鉄南北線で「東大前」で下車し、直接ベルツ・スクリバの胸像に向かう予定でした。

♪「東大前」で下車したまではよかったのですが、高崎屋酒店(文京区向丘1-1-17)が目に入り、ここにあったという追分一里塚の石碑が気になりました。高崎屋は江戸時代から続く老舗で、現金安売りで繁昌した酒店です。両替商もしたそうですが、現在の建物に昔の面影はありません。

♪ここは、日本橋を起点として中山道の一里目(約4キロ)にあたり、日光御成道・旧岩槻街道との分岐点で、かつては榎(えのき)がありました。石碑が置かれ旅の安全が祈られたといいます。

♪その石碑は、今ではここにはなく、大円寺(だいえんじ)境内(文京区向丘1-11-3)に移されています。大円寺は高島秋帆(たかしま・しゅうはん 1798-1866 幕末の砲術家)の墓があることで有名です。

高島秋帆の墓・斎藤緑雨の墓の案内板
高島秋帆の墓


♪高崎屋の前から中山道を大円寺に向かったのですが、思いのほか距離がありました。中山書店の前を通り、もうすぐ白山上の交差点の近くに大円寺はありました。境内にはシーボルトにも関係がある紫陽花が咲き乱れていました。

高島秋帆の墓に続く墓道


♪大円寺で本郷・追分一里塚の石碑を確認したあと、あらためて、東京大学構内に向かいました。ベルツ・スクリバの胸像は、その説明版(石版)によると1907年4月4日に建てられたとあります。

ベルツ・スクリバ胸像の説明板(石板)

東京大学名誉教師ベルツ先生(在職1876-1902)同スクリバ先生(在職1881-1901)は本学部創始のころ20年以上にわたってそれぞれ内科学外科学を教授指導し、わが国近代医学の真の基礎を築いた恩人である。この碑は両先生の功績を記念するため明治40年4月4日(1907)建設せられたが、このたび医学部総合中央館の新築にともなって昭和36年11月3日(1961)原位置の北方60メートルのこの地点に移した。 東京大学医学部

♪ベルツ(Baelz, Erwin von 1849-1913)は、ドイツの医者で、1876年に招かれて来日し、東京医学校、東京大学医学部、帝国大学医科大学の教師となり、生理学、病理学、内科学などを講じました。1902年まで在職し、その後、名誉教師となり、1905年に帰国しました。つまり、今年(2002)は、ベルツの退職後100年ということになります。

東京大学本郷キャンパス内のベルツ・スクリバの胸像

ベルツの胸像

♪胸像の横に、「秋桜子」の句碑が建っていました。どうして、ここに「秋桜子」の歌碑があるのか、板橋瑞夫さん(シソ研会長)はご存じでしょうか?調査を続けたいと思います。

水原秋桜子の歌碑


♪帰りは、龍岡門を出て、本郷通りにもどり文光堂の前を通って、「東大赤門前」から都バスで駒込にもどりました。 

(平成14年6月16日 記)(平成29年5月30日 訂正・追加)

 
ベルツ先生(明治27年写す)(絵葉書)
スクリバ

9. 本郷・東京大学構内 : ベルツ・スクリバの銅像

♪この1週間ほど少し風邪気味でした。無理をしないで、東大構内へは自転車でなく、地下鉄南北線で向かいました。「駒込」から南北線に乗ると「本駒込」、「東大前」となります。

♪「東大前」といっても、本郷通りと中山道の交差点辺り(農学部の近く)に駅の出入口があり、東大正門からは、随分離れています。医学部には本郷通りを本郷3丁目方向に歩いて正門を過ぎ、赤門から入ると正面が医学部本館になります。

明治後半の赤門(絵葉書)

♪医学部本館の横を通って、医学部中央館(医学図書館)の裏にベルツ・スクリバの胸像があります。新しく建築された病院前のバス通りに面ています。このベルツ・スクリバの銅像がある辺りは、春になると桜が咲き乱れます。

ベルツ・スクリバの銅像の除幕式が行われたのは、明治40年(1907)4月4日のことでした。晴れ渡った空に大小無数の日独両国の国旗が美しく飾られ、銅像建設委員長の青山胤通教授から濱尾新総長に銅像が引き渡されたそうです。

出典:ベルツ・スクリバ両教授銅像除幕式(東京医事新報:1507号 52[756]-55[759])明治40.4.13発行
 
平成23年12月16日撮影(堀江幸司)
 
 
戦前のベルツ・スクリバ像(絵葉書)
 
 
 
 
 
 
 
 
♪東大構内には、ベルツ・スクリバの銅像のほかにも、医史跡が点在しています。おいおい紹介します。

 
 
 

(平成14年6月2日 記)(平成29年5月30日 訂正・追加)(平成30年11月29日 絵葉書を追加)

(令和元年[2019]11月23日 文献を追加)

 

4.緒方洪庵の13人の子供たち

♪緒方洪庵(1810-1863)は、妻八重(1822-1886)との間に、七男六女、13人の子供をもうけました。(第五子、第六子は夭折)

♪洪庵に13人の子供がいたことは、高林寺にある洪庵の墓石(侍醫兼學法眼緒方洪庵之墓)の裏に刻まれている墓誌(茶渓古賀増撰 三澤精確書)のなかにも、記されています。(写真参照

緒方洪庵墓の碑文の一部(平成21年3月 堀江幸司撮影)

「家娶億川氏生六男七女嫡夭次洪哉承後次名四郎其三幼女嫡大槻玄俊次配養子拙齋」

「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」墓誌全文(緒方富雄著 「中外醫事新報」1239号別刷 昭和12年1月28日発行)

高林寺・緒方洪庵墓域(1993.3.28 堀江幸司撮影)

♪洪庵の没後、家長となったのが、次男の惟準(これよし)(1843-1909)。今年、平成21年(2009)は、惟準の没後、100年にあたります。

緒方惟準 (出典:『医譚』第17号:pp.45-66. 1944.)(緒方銈次郎著:東京に在りし適々斎塾)
緒方惟準(出典:「中外医事新報」 第704号 pp.1070-1072 明治42年7月20日刊行

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♪緒方富雄先生は、「緒方洪庵の子、緒方惟直のこと(未定稿)」と題して(「蘭学資料研究会 研究報告」(第274号))、以下のように書かれています。(文献4)

洪庵の子

緒方洪庵(1810-63)と夫人八重(1822-86)とのあいだに13人の子がうまれた。そのうち男の子5人と女の子4人が成人した。その男の子はつぎの5人である。

惟準(これよし)幼名平三、洪哉。第三子、次男(1843-1909)

惟孝(これたか)幼名四郎、城次郎。第四子、三男(1844-1905)

惟直(これなお)幼名十郎。第十子、五男(1853-78)

収二郎(しゅうじろう)第十二子、六男(1857-1943)

重三郎(じゅうざぶろう)第十三子、七男(1858-85)

 

◆◆◆

♪緒方家の家系図については、『故大熊房太郎先生寄贈図書目録』(聖マリアンナ医科大学附属図書館、1983)のなかに『緒方氏系図』(緒方富雄編、1966)があり、一度、実見したいと思っていましたが、実現できないままになっています。(国立国会図書館にも所蔵があるようです)

♪西岡まさ子氏の小説『緒方洪庵の息子たち』(河出書房新社、1992)は、洪庵没後の息子たちの足跡を追って、豊富な資料と取材に基づき、描かれています。また、西岡まさ子氏には、洪庵の妻(八重)を描いた『緒方洪庵の妻』(河出書房新社、1988)という小説もあり、こちらも、史実に基づいて、丹念に書かれています。

♪この2册の歴史小説は、緒方富雄先生が著された『緒方洪庵傳』(初版)『緒方洪庵伝』(第2版)とともに、洪庵を知るための、貴重な資料となっています。

♪『緒方洪庵の息子たち』の巻末に参考文献として『緒方氏系図』の記載があり、「緒方家・億川家系図」が収録されていました。

♪この「緒方家・億川家系図」と『緒方洪庵伝』(第2版)の巻末の年表から、洪庵の子供たちの名前と生誕年月日の一覧を作成してみました。

 

 

緒方家家系図

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♪久しぶりに東京大学医学図書館(本郷)を訪ねて、2階閲覧室に置かれている明治に刊行された和雑誌をブラウジングしていたら、「東京医事新誌」の第1624号(明治42年7月24日刊行)に「洪庵先生略傳」という記事を見つけました。そのなかに「故洪庵先生夫人八重子並緒方一家の寫眞」があって、緒方準一先生、緒方安雄先生、緒方富雄先生の子供のころの顔がありました。(令和元年[2019年10月23日 追記]

故洪庵先生夫人八重子並緒方一家の寫眞(出典:「東京医事新誌」1624:28-35[1508-1515] 明治42年7月24刊行)

参考文献

1)『緒方洪庵傳』(初版)(緒方富雄著 岩波書店 1942)

2)『緒方洪庵伝』(第2版)(緒方富雄著 岩波書店 1963)

3)『医の系譜 緒方家五代 洪庵・惟準・銈次郎・淳一・惟之』(緒方惟之著 燃焼社 2007)

4)「緒方洪庵の子、緒方惟直のこと(未定稿)」(緒方富雄著):蘭学資料研究会研究報告 第274号 pp.4-23. 1973,

5)洪庵先生略傳 「東京医事新誌」第1624号 28-35[1508-1515] 明治42年7月24日刊行

6)緒方惟準翁小傳 「中外醫事新報」第704号 1070-1072 明治42年7月20日刊行

7)『医譚』第17号:pp.45-66. 1944. 緒方銈次郎著:東京に在りし適々斎塾