23. 『日本橋榛原商店新築記念』(昭和5年)(袋付2枚)(絵葉書)

はいばら

①創業地:文化3年(1806) 日本橋区通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番あたり)

②昭和5年(1930) 中央区日本橋2丁目7-6へ新築移転

[平成23年(2011) 日本橋2丁目再開発のため仮店舗(中央区日本橋2-8-11 旭洋ビル2F)で営業]

③平成27年(2015) 中央区日本橋2-7-1 東京日本橋タワーへ新築移転

 

★★

♪竹下夢二が描いた団扇や、雁皮(ガンピ)という植物からつくられた雁皮紙で有名な日本橋の「榛原(はいばら)」の創業は、文化3年(1806)のことでした。今年、平成18年(2006)は、創業200年の節目の年となります。

♪「はいばら(榛原)」の初代佐助は、紀州栖原村(すはらむら)〔現在の和歌山県湯浅町〕の出身で、須原屋茂兵衛に年季奉公に上がり、年季あけに独立して、和紙、墨、薬などを扱う小間紙屋を営みました。

和歌山県湯浅町観光ガイド

♪須原屋は、杉田玄白の『解体新書』(安永3年・1774)を出版した江戸の東武書林(室町二町目)として知られています。

解体新書』(内藤記念くすり博物館 収蔵品デジタルアーカイブ)

♪佐助は、はじめ、通四丁目にあった金花堂(書物問屋)を買い取り、文化3年(1806)、通一丁目にあった「榛原」(小間紙)を買い取ります。この通一丁目の日本橋のたもとが「榛原(はいばら)」の創業地ということになります。現在の町名でいうと中央区日本橋一丁目7番地のあたりで、近くには、「西川(にしかわ)」(寝具)があります。

 

♪『築地八丁堀 日本橋南之図』(嘉永2年 1849)によると「通(とおり)」には通一丁目、同二丁目、同三丁目、同四丁目とあります。この「通」は、現在の日本橋交差点から銀座4丁目交差点方向に続く「中央通り」にあたり、西川(寝具)、黒江屋(漆器)、山本山(銘茶)などの名店が、江戸からののれんを守っています。

西川(寝具)

黒江屋(漆器):

山本山(銘茶)

♪「榛原(はいばら)」が、日本橋のたもとから現在地に移転、新築したのは、関東大震災後の昭和5年(1930)のことで、当時としては、大変モダンな鉄筋5階建てのビルでした。

日本橋記念絵葉書(明治44年)

♪連載第134回で取り上げた古書店「古書 街の風」から『目録第11号』(平成18年4月)が送られてきました。なにげなく頁を繰っていると、『日本橋榛原商店新築記念』(袋付2枚)(Post Card)が掲載されていることに気づきました。早速、購入しました。

♪このPost Card(絵葉書)は、「榛原(はいばら)」の六代目社長で、三宅秀(みやけ・しゅう〔ひいず〕)(1848-1938)の曾孫にあたられる中村明男氏に見せていただいたことがありました。

♪中村明男氏とは、白山(はくさん)にある東京大学の小石川植物園や本郷の医学部構内を歩いたことがあります。平成14年(2002)8月15日(木)の夏の暑い日でした。園内の日差の強さが、昨日のように思い出されます。三宅秀にゆかりの旧東京医学校本館の建物のなかに入り、展示されている診察器具などを見て回りました。(改訂版・連載第20回第21回第22回

♪その中村明男氏が、平成18年(2006)3月6日(月)に亡くなられました。『古書目録』のなかに榛原(はいばら)の絵葉書を発見したときに、いつも物静かにお話をされた中村明男氏の笑顔が瞼に浮かびました。『日本橋榛原商店新築記念』の絵葉書は、中村明男氏からの来信のように感じられました。

榛原商店新築記念絵葉書(袋)
榛原商店新築記念絵葉書(1)
榛原商店新築記念絵葉書(2)

 

 

(平成18年5月1日 記す)(平成29年7月30日 訂正・追記)

22. 日本橋「はいばら」

榛原(はいばら)場所の変遷

はいばら(ホームページ)

♪子供の頃、駒込から都電で日本橋の三越に行っていたことは、すでに述べましたが、「はいばら(榛原)」のことを思い出しました。榛原は江戸時代から続く紙問屋で今でも日本橋で営業しています。和紙というと鳩居堂(銀座4丁目交差点)を思い出す方も多いかもしれません。

♪今日、榛原の社長の中村明男氏に電話してみました。中村氏は、東京大学医学部の基礎を築いた三宅秀(みやけ ひいず 1848-1938)の曾孫にあたる方です。わたしとは、高校から大学までの学友です。中村氏が三宅秀と関係があることを知ったのは、三宅秀の伝記「桔梗-三宅秀とその周辺-」のなかにあった系図からです。系図によると三宅秀の五女八重が中村氏の父方の祖母にあたられます。「榛原は1806年の創業で、そろそろ創業200年になる」とのことでした。

♪榛原の和紙は森鴎外も愛用していたそうです。森鴎外といえば、先日、紹介した高林寺の緒方洪庵の墓にある「追賁碑」の碑文を書いています。

♪本郷・谷中・神田界隈は興味のつきない地域です。

(平成14年5月16日 記)

・・・・・・・・

♪日本橋の「はいばら(榛原)」の暖簾(のれん)には、「雁皮紙」(がんぴし)と書かれています。

「はいばら」の暖簾と中村明男氏
「はいばら」の入口
「はいばら」店内

♪くずした文字で、右から左に書かれているので、はじめて、この暖簾を中村明男氏にみせたいただいたときには、なんて書いてあるのかわからず、その読み方を教えていただきました。

♪雁皮(がんぴ)という植物は、ジンチョウゲ科の落葉低木で、それを原料とする雁皮紙は、「なめらかな肌ざわりで薄く、しかも墨つきが良いとあって文人墨客の間で大いにもてはやされた」そうです。

♪雁皮紙は、文化財の修復にも使用されるそうですが、買い求めた「雁皮紙」は、『二本榎保存碑』(関連連載第110回第112回第120回)のブックカバーにしています。少し贅沢で、間違った使い方かもしれませんが、和紙の文化を大切にしたいとの思いをこめています。

(平成20年1月6日 記)

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♪そろそろ,定年退職となるのを機会に自宅の書斎を整理していたところ,中村明男氏(故人・前榛原社長)を訪ねたときにいただいた小冊子「東都のれん会の栞」(平成十三年八月第八版発行)(東都のれん会 山本海苔店内)が出てきました。

♪そのなかに,榛原の紹介があり,榛原自身が書かれた榛原の歴史の記載がありました。榛原に関する文献は少なく,貴重な記録となっています。

 

◆◆◆

当店は,初代佐助が江戸日本橋の版元須原屋にて奉公の後独立し,同じ須原屋の屋号にて紙,墨,薬等を販売し,文化三年(一八〇六年)に縁あって同業種のはいばらを買い取り,屋号を「はいばら」と改めたことが創業となりますが,当店が一躍有名となったのは,雁皮という植物を原料とする「雁皮紙」を扱いだしたことによります。当時の紙は,楮こうぞを原料とするごわごわした品質のものが中心でしたが,雁皮紙はなめらかな肌ざわりで薄く,しかも墨つきが良いとあって文人墨客の間で大いにもてはやされ,以来「雁皮紙榛原」の,のれんは江戸中に広まったと言われています。その後,明治になり海外からの洋紙の輸入,国内でも官営の製紙工場が出来,日本中の紙商が,製紙メーカーの代理店として洋紙中心の取扱いになる中で,当社は和紙にこだわりつづけ,全国に残る良質の和紙の販売をする一方で,こうした和紙を材料に意匠を凝らした,金封,書翰箋,千代紙,団扇,懐紙等を加工販売し続けて,現在に至っております。

◆◆◆

(平成23年9月25日 追記)

 

日本橋榛原(はいばら)の銅版画と創業地

創業地:日本橋通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番地辺り)

♪2年前,文京グリーンコート(関連第70回 第71回)のなかにある雑貨店(Za Gallery)で,日本橋「はいばら・榛原」(和紙小物専門店)制作のカレンダー(日本の伝統 榛原千代紙 CALENDAR 2011)(図1)を見つけました。デザインの良さに魅かれて購入しておきました。

図1.「日本の伝統 榛原千代紙」(CALENDAR 2011)の表紙

♪裏表紙に「榛原」の店先の様子を描いた銅版画(「明治時代の日本橋はいばら」)が印刷されていました。雁皮紙(がんぴし)と書かれた暖簾が掛かっています。「西洋紙品々」の吊し広告も見えます。微細に描かれており,当時のお店(たな)が浮かび上ってくるようです。

♪銅版画は,『東京商工博覧絵,下』(明治18年5月発行)1)のなかにあるものでした。それによると,「榛原直次郎」の広告は,2枚の銅版画からなっていることがわかりました。1枚目は,カレンダーに掲載されたもので,2枚目には,1枚目の店先に続く建物と,裏手の蔵が描かれていました。勝手口でしょうか,「はい原」の表札も見えます。(図2)(図3

図2.「榛原直次郎」(店舗部分)(銅版画)
図3.「榛原直次郎」(図2の続きの銅版画)

♪この銅板に彫られている榛原[中村]直次郎の妻・八重は,三宅秀の娘です。兄に三宅鑛一がいます。

♪「榛原」の創業地については,中村明男氏(三宅秀の曾孫・榛原社長)にお会いした時に,日本橋「西川」の隣の辺りとお聞きしていました。

♪国立国会図書館のデジタル資料を調べたところ,『東京市街地圖,日本橋區之部』(小林儀三郎著 小林組発行 明治37年)で「榛原」の場所が特定できました。創業当時の「榛原」は,日本橋のたもとで営業していたことがわかります。

榛原創業地の場所(出展:国立国会図書館デジタルライブラリー

 

榛原の場所の変遷

創業地日本橋区通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番地辺り)

 

昭和5年(1930):中央区日本橋2丁目7-6へ新築移転

日本橋西川の隣から移転された当時の榛原

 

日本橋タワービルに新築移転される前の榛原ビル

 

平成25年現在:日本橋地区再開発の為仮店舗で営業(中央区日本橋2-8-11 旭洋ビル2F)

♪現在(平成25年)(注),「榛原・はいばら」は,「日本橋二丁目市街地再開発」のために仮店舗で営業中ですが,新店舗がどのようなお店になるのか楽しみです。

♪8月になると,亡くなられた中村明男氏と小石川植物園(東京大学総合研究博物館・小石川分館)のなかにある旧東京医学校本館遺構を見学したことを思い出します。

参考文献

1)『東京商工博覧絵,下』(国立国会図書館デジタル化資料)(『明治期銅版画東京博覧図全三巻 東京商工博覧絵』[湘南堂書店発行 昭和62年])
2)『桔梗:三宅秀とその周辺』(福田雅代編纂・発行 昭和60年)

(平成25年7月25日 追記 堀江幸司)

・・・・・・・・・・・

新店舗の住所

その後、新店舗は完成して、現在(平成29年)の「榛原」の住所は、以下の通りです。

住 所:〒103-0027 東京都中央区日本橋2-7-1 東京日本橋タワー

電 話:03-3272-3801

 

(平成29年7月29日 追記)

◆◆◆

♪日本橋室町にある千葉銀行東京営業部に行く用事があって、帰りに、東京日本橋タワーのビル前の中央通りに面して建つ「榛原」に寄ってきました。伝統美を感じさせるオシャレでモダンな建築です。

♪和紙などを買い求める常連客と思われ人びとの出入りが多く、外人客の姿もありました。

♪来年の「榛原千代紙」のカレンダーと干支(亥)の置物を買いました。先代社長の中村明男氏が偲ばれます。

榛原(平成30年10月24日 堀江幸司撮影)

(平成30年10月24日 追記)

 

21. 中村明男氏と旧東京医学校本館遺構へ行く

♪平成14年8月15日(木)、中村明男氏(日本橋・榛原社長、三宅秀の曾孫)を誘って旧東京医学校本館(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館:文京区白山3-7-1)へ行ってきました。

♪地下鉄・都営三田線の白山駅のA1の改札口で待ち合わせて、新白山通りを渡り、白山下交差点から蓮華寺坂を登り御殿坂を降りて、小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)に向かいました。(註1)

♪旧東京医学校本館(昭和45年6月17日重要文化財に指定)は、小石川植物園の一番奥の日本庭園内に移築されています。明治村といった感じです。

♪東京大学総合研究博物館小石川分館としてリニューアルされた建物の受付で、記帳の際に、中村明男氏が三宅秀の曾孫に当ることをお話すると、「三宅コレクション」の展示を担当された藤尾直史先生(総合研究博物館情報メディア研究系)が案内してくださいました。お話によると、この建物は、リニューアルされる前は、学術情報センターとしても使われていて、リニューアルに際して、天井を剥がして、梁が見えるようにしたとのことでした。この空間のなかに、三宅秀、宇野朗、ベルツ、スクリバ、森鴎外、三上参次がいたことになります。

 

三宅 秀


♪「三宅秀博士旧蔵コレクション(医学図書館旧蔵)」として、外科道具一式(ケース入り)、補聴器、聴診器、眼科器械などの展示のほかに、「東京帝國大學醫科大學醫院の図面」や模型(旧東京医学校本館、医科大学法医学教室)などが興味を引きました。

中村明男氏と旧東京医学校本館遺構 (1)
中村明男氏と旧東京医学校本館遺構 (2)
中村明男氏と旧東京医学校本館遺構 (3)

♪その足で、東京大学本郷キャンパス内にある東京大学総合研究博物館で開催中の「新規収蔵展示 三宅コレクション展」に向かいました。千川通りでタクシーに乗ったのですが、共同印刷の前を通ったときに、中村明男氏から、三宅家は、この共同印刷の裏手辺りにあったとのお話を伺いました。(註2)

♪東京大学総合研究博物館は、赤門を入って右手の奥にあります。「三宅秀博士旧蔵コレクション」の展示のうち渋江長伯(関連連載第19回第20回)のコレクションとされる『植物標本』やシーボルト関連の展示物がとくに興味を引きました。また書棚に収められていた三宅文庫のうち『日記』にも大変興味を持ちました。

♪見学を終え、医学書院ならびの「カレーとコーヒーの店」(本郷3丁目交差点近く)でお昼の食事をしながら、『文久航海記』(第2版復刻版 三浦義彰著 篠原出版 1988)や三宅家の家系図を見せていただきました。『文久航海記』の著者の三浦義彰氏(千葉大学名誉教授)は三宅秀の孫に当る方です。家系図は、いずれ日本橋の榛原をお訪ねしたときに複写させてくださるとのことでした。

♪中村明男氏と別れたあと、本郷通りの古本屋さんに立ち寄り、帰りました。

(註1)旧東京医学校本館(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館)へは、小石川植物園を通らなくても、千川通り側の入口から直接入ることもできます。

(註2)三宅秀の伝記『桔梗』で調べたところ、三宅秀の住所は旧小石川区竹早町81番地(現在の文京区小石川4丁目)であることがわかりました。

(平成14年8月16日 記)(平成29年7月24日 追記)

20. 小石川植物園内:旧東京医学校本館・史料編纂掛旧庁舎(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館)

小石川植物園

場 所:〒112-0001 東京都文京区白山3-7-1(都営地下鉄三田線 白山駅下車 A1 出口)

地 図:本郷界隈

♪小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)の中に、旧東京医学校本館が遺構(重要文化財)として残っています。何年か前のシソ研のお花見の会に参加された方は、ご存じかも知れません。

 

1986年4月27日撮影(堀江幸司)
旧東京医学校本館遺構(重要文化財):東京大学総合研究博物館小石川分館(2002年頃撮影)

 

戦前の小石川植物園(絵葉書)

♪この本館は、明治9年(1876)に東京医学校が本郷元冨士町に移された時に建てられたもので、森鴎外が龍岡町の下宿屋上條から鐵門を通して見ていた建物です。木造建築の西洋風の建物で、四面に時計を配した象徴的な搭屋を持ち「時計台」ともいわれていたそうです。

本郷の東京医学校本館(初期の医学部時代)(時計台)(明治初年)

♪東京医学校の中には、3室(80坪)からなる医学部文庫が設けられ、7,781部の医学洋書を収蔵していたそうです。森鴎外も、それらの洋書を使って勉強したのかもしれません。

♪旧東京医学校本館の写真が、北里大学医学図書館の宇野彰男さん(宇野朗、三上参次の曾孫)に贈っていただいた『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(吉川弘文館 1991)のカバー写真になっていました。

「明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談」(三上参次著 吉川弘文館 1991)

♪明治44年(1911)に、この東京医学校本館は2つに分割されて、前半部が1月14日から7月20日までの期間をかけて赤門脇の今の経済学部のある場所へ移され、後半部は神田錦町(一ツ橋)に移されて学士会館となりました。この赤門脇に移された部分に史料編纂掛が入ることになります。その事務主任(史料編纂所長にあたる)が三上参次(みかみ・さんじ)(東京帝國大學文科大學教授)(1865-1939)でした。

♪史料編纂掛庁舎のあと営繕課、施設部としても使用されましたが、昭和40年(1965)用途廃止となり、昭和44年(1969)3月に小石川植物園の現在地に復元・移築され、翌昭和45年(1970)重要文化財の指定を受けています。

♪三宅秀の事蹟をインターネットで調べていてわかったのですが、旧東京医学校本館が、平成13年(2001)11月12日に「東京大学総合研究博物館小石川分館」としてリニューアルされ、一般公開されていることに気づきました。そういえば、昨年、小石川植物園に写真を撮りに行ったときに、工事中だったのは、そのための工事だった訳です。

東京大学総合研究博物館小石川分館(建築ミュージアム)

♪この「東京大学総合研究博物館小石川分館」の本館にあたる「東京大学総合研究博物館」が本郷キャンパス内にあるのですが、現在「新規収蔵展示・三宅コレクション」と題した展示会が開催され、三宅秀ほか一族ゆかりの建築写真・科学物品などが展示されているようです。会期は9月1日までとなっています。問い合わせたところ月曜日が休館で、無料で見学できるとのことでした。(10:00-17:00)。

♪宇野さんから贈っていただいた『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』をきっかけとして、三上参次と三宅秀が繋がってきました。日本橋・榛原の中村明男氏(三宅秀の曾孫)を誘って、展示会に行ってこようと思っています。

(平成14年8月9日 記)(平成29年7月24日 記)

19. 「からたち寺」にぶつかる:漱石『三四郎』

Google MyMap : 本郷界隈

♪森鴎外の『雁』の主人公・岡田の散歩道に「臭橘寺(からたちでら)」が出てきます。今日、この「からたち寺」に偶然ぶつかりました。文献の中でのことです。

♪お昼休みに勤務先の女子医大を出て、夏目漱石にゆかりの夏目坂を下り、坂下にある本屋に向かいました。途中、次の連載のテーマを考えていました。夏目漱石、長與専斎に関係ある四谷の胃腸病院にしようか、それとも、「からたち寺」にしようか、などと思いながら、ぶらぶら降りていきました。

♪「からたち寺」については、どこかの文献で読んだおぼえがあったのですが思い出せません。本屋に入り、鴎外の文庫を探していて、司馬遼太郎の『本郷界隈』(街道をゆく37)(朝日文庫)(朝日新聞社)が目に入りました。この中に、「からたち寺」が載っていました。この『本郷界隈』は単行本では持っていたのですが、「からたち寺」が載っていることは、すっかりわすれていました。

♪「からたち寺」は、春日局(かすがのつぼね)(1579-1643)の菩提所である麟祥院(りんしょういん)(旧本郷区龍岡町 現文京区湯島4丁目)のことです。周囲がからたちの生垣でかこまれていたため、この名が出たといいます。

♪「からたち寺」は、漢字で「枳穀寺」とも書き、『三四郎』(漱石)の中に次のようなくだりがあります。

「二人はベルツの銅像の前から枳穀寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。表は大変賑かである。電車がしきりなしに通る」

三四郎池の周辺

 

 

(平成14年7月3日 記)(平成29年7月4日 訂正・追加)

18. 森鴎外『雁』より:主人公・岡田の散歩道 DVD『雁』(1953)

Google My Map :本郷・神田・お茶の水界隈:医史跡案内

♪森鴎外の小説『雁』に登場する無縁坂は、東京医学校(東京大学医学部の前身)の鉄門前から、上野不忍池との低地を結ぶ本郷台地の坂です。

♪今回は、岡田(主人公・医学生)の散歩コースをみてみます。岡田の下宿は、鉄門前にありました。そのあたり一帯は、現在はキャンパスの一部となっています。龍岡門からバス通りを入って右手の南研究棟のあたりかと思われます。

鉄門音声ガイド

♪小説は、東京医学校が設立された明治9年から4年後の明治13年頃の設定です。東京に雁が、まだ、飛来していた当時のお話です。岡田の住む下宿屋・上條から続く無縁坂は散歩道になっていました。その無縁坂に面した妾宅に暮らすお玉にとって、夕暮れ時に散歩する岡田は気になる存在でした。

岡田の下宿は鉄門前(現在の南研究棟あたり)にありました

南研究棟(龍岡門を入ったバス通りの右手 画面の右側が龍岡門)
構内中央道路(絵葉書)

♪『雁』は『鴎外全集』(岩波書店)の第八巻に収載されています。その中に次のような記述があります。(青空文庫にも収録「」)

「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた」

♪散歩の道筋は二通りあったようです。

1. 下宿(東京大学鉄門前)→無縁坂→藍染川(不忍の池)→上野の山→廣小路→湯島天神→臭橘寺(からたちでら)→下宿

上野広小路(絵葉書)
上野広小路(鈴木時計店時計塔)(大正年間)
鈴木時計店時計塔
上野不忍池(絵葉書)
上野公園と上野大仏(絵葉書)
上野大仏(絵葉書)
湯島天神(絵葉書)

2. 下宿→長屋門→赤門→本郷通り→神田明神→目金橋(めがねばし)→柳原の片側町→臭橘寺(たちでら)→下宿

帝国大学赤門(絵葉書)

♪岡田は、この散歩道の途中でよく古本屋の店を覗いたといいます。わたしも本郷通り沿いの古本屋街は、この江戸東京医史学散歩でよく通りますが、たいていは土曜・日曜のために休店です。不便な思いをしています。

★★★

♪森鴎外原作の「雁」(昭和28年度芸術祭参加作品)のDVDを入手しました。

DVD『雁』(昭和28年度芸術祭参加作品)原作:森鴎外

キャスト

お玉:高峰秀子 末造(東野英治郎)   岡田:芥川比呂志  善吉:田中栄三     お梅(小田切みき)
スタッフ 監督:豊田四郎   原作:森鴎外   脚本:成沢昌茂   撮影:三浦光雄   音楽:團伊玖磨

(平成14年7月1日 記)(平成29年6月26日 追記)

17. 「相良知安先生記念碑」 池之端門崖上から新病棟前に移設

Google My Map 「江戸東京医史学散歩」:東京大学本郷キャンパス医史跡案内

「ベルツの庭石と相良知安先生記念碑」音声ガイド

「相良知安先生記念碑」の場所の移動

建立:昭和10年3月 池之端門内を入った小高い崖上(石黒忠悳題額 入澤達吉撰文)

相良知安先生記念碑があった場所

移設:平成19年3月 龍岡門の右手に復元された鉄門を入った右手、新病棟の前。

新病棟前のベルツの庭石と相良知安先生記念碑(画面中央奥)

★★🚙

♪本郷台と上野は坂で、神田とは橋でつながっています。本郷・東京大学周辺や順天堂医院界隈を歩いていると、その感じがよくわかります。

御茶ノ水橋とニコライ堂
神田川とニコライ堂(絵葉書)
神田川の崖とニコライ堂(絵葉書)

♪最近は、交通機関が発達し、開発も進んで、多くの川が暗渠となりましたが、もともと江戸には、たくさんの小川が流れていました。もちろん木々もたくさんありました。わたしが、小学生の頃(昭和30年代)まで、駒込周辺にも畑がありましたし、庭から土手を降りて、山手線(当時、省線)の線路際まで行くこともできました。一日に運行される電車の本数も、数えるほどでした。

♪都立染井霊園付近に端を発し、上野不忍池まで続いた藍染川(あいぞめがわ)も暗渠となりました。この不忍池がある上野山一帯は、明治のはじめに、相良知安(さがら・ともやす[ちあん] 1836-1906 ドイツ医学制度制定の功績者)と、その下で働いた石黒忠悳(いしぐろ・ただのり 1845-1941 陸軍軍医)によって大学東校(東京大学医学部の前身)となるところでしたが、ボード ウァン(Bauduin, Anthonius, F. 1820-1885 オランダの陸軍軍医)の意見によって公園として残されることになりました。そして、東京大学医学部は、現在の本郷の地(大聖寺藩の上屋敷跡)におかれることになったのです。

♪東京大学の龍岡門を出て左へ折れると無縁坂へでます。森鴎外の『雁』に登場する無縁坂です。雨の降るまだ昔の面影を残す無縁坂を、ぶらぶら降りてみます。不忍通りに抜ける手前の路地を左に曲がると、東京大学池之端門があります。この門を入った前の小高い丘の上に「相良知安先生記念碑」(昭和10年<1935>3月入澤達吉選)がありました。題額は石黒忠悳によります。記念碑のまわりは、落葉が堆積しており、古いものが大切にされていない様子です。

♪この「相良知安先生記念碑」を見つけるのには、大変、苦労しました。構内中を探しまわり、池之端門の看護婦寮があった崖上のフェンスの際で発見しました。赤門から入って探していたのですが、まさしく、外れにありました。

相良知安先生記念碑(池之端門崖上)

♪かつては、この「相良知安先生記念碑」がある辺りからは、上野の森がよく見えたのでしょうが、いまでは、ビルばかりが目に入ります。相良知安先生は、この光景をどのように見ているのでしょか?

(平成14年6月30日 記)(平成19年8月9日 訂正)

・・・・・・・・・・・・・・

池之端門(裏門)の崖上にあった当時の「相良知安先生記念碑」画面の右手遠景に上野五重塔がみえる。(写真は昭和18年当時)
上野の塔(絵葉書)
裏門(現在の池之端門)門を入って左手の崖上に「相良知安先生記念碑」があった。写真は昭和18年当時。

平成19年3月移設

♪この記念碑は、平成19年3月に、医学部の創立150年を記念して再現された鉄門を入った右手奥に移設されています。新病棟の入り口の車道を挟んだ隅っこです。近くには、ベルツの庭石も置かれています。

相良知安先生記念碑の説明板(平成19年設置)
相良知安先生記念碑前の休憩コーナー
相良知安先生記念碑
ベルツの庭石の説明板

(平成29年6月21日 追記)

参考文献

堀江幸司 「相良知安先生記念碑」と「ボードワン博士像」-東京医学校と上野恩賜公園
「医学図書館」1988;35(3):184-191.

16. 東京大学医学部の名称の変遷

♪東京大学医学部は安政5年(1858)神田お玉ケ池松枝町に種痘所が開設されたことに、その起源があります。

♪その後、たびたび名称を変え、現在の東京大学医学部の名称となったのは、昭和22年(1947)のことでした。

♪名称の変遷は、以下の通りです。

安政5年(1858)
種痘所設立—-第1次(神田お玉ケ池松枝町)第2次(下谷大槻・伊東宅)


万延元年(1860)
種痘所移転—-第3次(下谷和泉橋通)


文久3年(1863)
医学所—-第1次


明治元年(1868)
医学所—-第2次


明治2年(1869)
医学校兼病院・大学東校(下谷和泉橋通旧藤堂邸)


明治4年(1871)
東校


明治5年(1872)
第一大学区医学校


明治7年(1874)
東京医学校(明治9年<1876>本郷旧加賀屋敷跡)


明治10年(1877)(東京大学の誕生)
東京大学医学部(第1次)


明治19年(1886)(帝国大学を設置)
帝国大学医科大学


明治30年(1897)(京都帝国大学の創設)
東京帝国大学医科大学


大正8年(1919)
東京帝国大学医学部


昭和22年(1947)
東京大学医学部(第2次)

♪森林太郎(鴎外)が、本科生となった明治10年(1877)に東京医学校は東京開成学校と合併して東京大学医学部となり、榊俶(さかき・はじめ)(精神科)が教授となった明治19年(1886)の正式名称は帝国大学医科大学でした。

♪「このように、東京大学医学部の名称は時代によって異なり、煩雑ですので、とくに区別する必要がある以外は、簡便的に東京大学医学部と表記します。

 

(平成14年7月11日 記)(平成29年6月9日 訂正・追記)

15. [余滴] 東京大学本郷キャンパス・絵葉書(古写真)アルバム:Googleフォト

♪「江戸東京医史学散歩」は、当初、撮りためた写真や入手した絵葉書をPicasa Albumに保存して、そのデータとリンクさせてGooge My Mapを作成していたのですが、数年前にPicasa AlbumがGoogeフォトに変わり、地図とアルバムとのリンクが取れなくなりました。

♪今回、「改訂版・江戸東京医史学散歩」を執筆するにあたって、Picasa AlbumからGoogleフォトにデータを移動させた新たにアルバムを整理していくことにしました。

♪手始めに「東京大学本郷キャンパス・絵葉書(古写真)アルバム」を作成してみることにしました。少しずつ更新して、アルバムをみるだけでも、なんとなく、「江戸東京」の雰囲気が感じられるものにしたいと思っております。

(平成29年6月8日 作成)

 

東京帝国大学外来診療所及薬局竣功記念 昭和8年(絵葉書)

14. 「東京医学校本館」「第一高等学校」「東京帝国大学工科」の時計薹 ――無縁坂・根津に響く鐘の音

Google My Map 「江戸東京医史学散歩」:東京大学本郷キャンパス医史跡案内

Google My Map 「江戸東京医史学散歩」:本郷界隈:医史跡案内

[1] 東京医学校本館時計台

場 所:無縁坂上の「鐡門」を入った正面
建設年:明治9年(1876)
設 計:林忠恕(はやし・ただよし(ただひろ)注1)

♪「東京帝國大學病院」「東京本郷大学医学部」と題する絵葉書を入手しました(図1)(図1B)。時計台1)2)という名称で親しまれた「東京医学校本館」の建物です。建物全体と周囲の情景を写し込んでいます。

図1.東京医学校本館時計台(東京帝國大學病院) (明治9年から明治43年まで鐡門を入った所にあった時計台)

図1B. 東京本郷大学医学部

♪時計台の写真は,建物を正面から撮影したものが多く,このアングルの時計台は,見たことがありませんでした。本郷構内における時計台の周辺の雰囲気を知ることができる貴重な写真と思われます。鐘塔の外観もよく撮られています。図1の時計の針は,10時30分頃を指しているようです。

図1bの写真では、赤門の方向からくる道が、時計台の手前から坂道になっているのがわかります。現在の医学図書館(中央館)の方から撮った写真だと思われます。本郷キャンパス内は、公園のように、広く、樹木が多かったことがわかります。画面の奥が上野不忍池の方角になります。

♪逆に、上野不忍池の方角からみて時計台が移っている絵葉書があるのではないか、と思って随分と期間をかけて探しました。中央の太い木の右手の遠景にかすかに時計台が写っている絵葉書がありました。(図2

図2.上野不忍池から旧東京医学校時計台を望む(絵葉書)(平成26年10月13日 追加)―中央の木の遠景にかすかに時計台らしき影が見える―

♪明治9年(1876)11月27日に神田和泉橋より新築移転3)した東京医学校本館は,不忍池方面へ下る無縁坂上の鐡門を入った所にありました。森鴎外が『雁』で書いた鐡門です。建物は,2階建洋館で屋上に御輿型の鐘塔が設置されていました。2)(図3

図3.東京大學醫學部注2)時代の時計台(出典:『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』の口絵4))

♪『明治工業史 建築編1)によると,建物と時計塔の設計者は林忠恕はやしただよし(1835-1893)5)ということです注1)。時計の機械は,横濱の時計貿易商館ファブルブランド(James Favre-Brandt)注3)の手によって輸入され,ローマ数字の文字盤(直径約5尺),時打装置を持っていました。麗しい音色が,無縁坂の下あたりまで響いたそうです2)

♪林忠恕は,「上野教育博物館・書庫及び閲覧室(のち東京美術学校文庫)」(明治13年[1880]3月20日起工 10月21日竣工)(現・東京藝術大学赤レンガ1号館)を設計した人物としても知られています。

♪駅逓寮時計塔(明治6年[1873]12月13日起工 明治7年[1874]4月竣工),駒場農学校・教師館(明治9年[1876]10月10日起工 明治10年[1877]5月13日),生徒寄宿舎(明治9年[1876]10月14日起工 明治10年[1877]9月9日竣工)も林忠恕の設計です。

♪林忠恕は,伊勢國三重郡吉沢村の農家の出身で,はじめ鍛冶職,木挽きを業とし,のち三河の森川重範について大工の術を習ったそうです5)。

♪横濱に出て米国人ビールジェンス(R.P. Bridgens)に西洋建築法を学んでいます。明治4年[1871],大蔵省営繕寮に奉職後,東京医学校本館を設計した明治9年[1876]当時は,工部省に移っていました注1)。

◇◇

♪『東京區分全圖』(東京醫事新誌局発行 明治23年[1890]3月27日出版)の裏に「帝國醫科大學の略圖」が載っていました。(図4)鐡門を入った所に「帝國大學本部」と記載されています。これが時計台の建物です。

図4.「帝國醫科大學の略圖」(明治23年当時)

♪『帝國醫科大學の略圖』によると赤門を入った所に第一醫院の建物がありました。現在,医学部2号館本館、医学図書館(総合中央館)があるあたり一帯と思われます。研究室と病室の記述がみえます。のちに外科教授となる近藤次繁(第1外科講座)と佐藤三吉(第2外科講座)の病棟、三浦内科病棟(三浦謹之助)の絵葉書も残っています(図5 図5b)内科病棟の遠景には、時計台がみえ構内図(図6)により、その位置関係がわかります。

図5.医科大学佐藤外科・近藤外科病室

図5b。醫科大學三浦内科病室(絵葉書)(平成26年1月22日 追加)

東京帝国大学病院外科病室(絵葉書)

図6.「東京帝国大学一覧」(. 明治37-38年)(国会図書館近代デジタル・ライブラリー)

♪時計台の建物は,医学部設置後は,「医学部本部」として利用されたようですが,絵葉書(図1)のキャプションには「東京帝國大學病院」あります。時計台が,大学のシンボル的な存在であったために時計台を病院と呼んでいたのかもしれません。

♪総長室も,この時計台にありました。『明治工業史 建築編』1)には,次のように記録されています。

大學総長たりし渡邊洪基,加藤弘之は,常に此の時計台下の階上室に座を占めたりしなり。又嘗て帝國大學醫院に行啓ありしとき,此の時計台下の室便殿に充てられたり。時に明治二十一年五月二十九日にして,帝國大學総長は渡邊洪基なりき。

♪明治43年(1910)末に時計台の建物は,解体され,一部は赤門前に,一部は学士会館(のち焼失)として移築されます。赤門横に移築された建物は,その後,史料編纂所や営繕課として使われました5)6)。現在,小石川植物園内に再移築され東京大学総合博物館小石川分館(東京医学校本館遺構)7)として遺されている建物です。

[参考:東京医学校本館の変遷]:198.東京大学本郷キャンパス案内:赤門の背景に写る旧東京医学校本館(旧史料編纂所)[絵葉書:(東京名所)帝國大學赤門]
(平成26年10月4日 参考リンクを追加)(平成29年6月7日 訂正・追記)

◇◇◇

♪実は「東京帝國大學病院」(図1)の絵葉書を入手する前に,もう一枚,「醫科大學外来患者診察所」と題する絵葉書(図7)を入手していました。「東京帝國大學病院」(図1)および「大學の時計薹と玄関」1)(図8)の写真と比べてみると時計塔の部分,バルノニーの形,玄関などの様子が違っています。

♪写真が不鮮明のため時計の文字盤の数字や針が確認できません。実際に時計が取り付けられていたかも、写真からではわかりません。この「醫科大學外来患者診察所」は,『東京大学の百年 1877-1977』8)の掲載されている写真と同様の建物です。アングルが違います。明治43年(1910)頃の撮影とされています。

図7.醫科大學外来患者診察所(絵葉書)

図8.大學の時計薹と玄関(出典:『明治工業史 4.建築編』)1)

♪東京医学校本館(時計台)の建物の玄関には,入り口部分に階段がついていますが,「醫科大學外来患者診察所」の玄関に階段はなく,バリアフリーになっています。いかにも病院の出入り口にふさわしい構造です。人力車も見えます。

♪「東京大学医学部時計塔」2)によると,鐡門の前に住んだ桐山富太郎氏(医学部御用商店・森田商店の支配人)と塩田広重(元医学部教授)の話として,明治43年(1910)末に東京医学校本館が解体された際に時計機械は取り外され,無縁坂下りる左側にあった医学部土蔵に保管されたようだとあります。そして,大学庶務課の談話として、戦時中に倉庫が取り払われた際に不要備品として処理されたと記録されています。

[2] 第一高等学校時計薹

場 所:旧本郷區向ヶ丘彌生町二番地(水戸藩邸跡)(現・東京大学農学部の場所)
建築年:明治22年(1889)
設 計:山口半六

♪第一高等学校の歴史を所在地別にみておきます9)10)。

1. 神田一ツ橋時代:明治8年(1875)-明治22年(1889)

明治8年(1875):東京英語学校にはじまる。神田一ツ橋の旧榊原藩邸跡の仮校舎で授業開始
明治9年(1876)11月27日:東京医学校が神田和泉橋より本郷旧前田藩邸跡へ新築移転
明治10年(1877)4月12日:東京英語学校を文部省直轄から東京大学附属とし,開成学校普通科(予科)を合併して東京大学予備門と改称
明治19年(1886)4月29日:第一高等中学校と改変

2. 本郷向ヶ丘時代:明治22年(1889)-昭和10年(1935)

明治22年(1889)3月22日:本郷弥生町(向ヶ丘,旧水戸藩邸跡)に移転
明治27年(1894)6月25日:高等学校令公布により第一高等学校と改称
昭和10年(1935) 2月1日:一高,「向陵碑」を遺跡記念として本郷の敷地内に建設する。この日除幕式挙行。(碑文:安井小太郎教授 書:菅虎雄教授)

3. 駒場向ヶ丘時代:昭和10年(1935)-昭和24年(1949)

昭和10年(1935)7月17日:一高,駒場の東京大学農学部と敷地を交換し本郷から駒場へ移転(東京市目黒区駒場町)
昭和24年(1949)5月31日:東京大学教養学部設置
昭和24年(1949)6月30日:一高は東京大学第一高等学校となる(校長・矢内原忠雄)
昭和25年(1949)3月24日:一高終焉により,麻生磯次校長の手により「第一高等学校」の門札を撤去

♪明治22年(1889)3月22日に旧水戸藩邸(現在の農学部がある場所)に第一高等中学校(現・東京大学教養学部[駒場]の前身)が一ツ橋から移転された際に建築された校舎にも時計薹(半円形の鐘塔)が付けられました11)。この設計は,山口半六(文部省建築課長)によります12)。山口半六は,上野の旧音楽学校奏楽堂(重要文化財)を設計した人物です。

山口半六(やまぐちはんろく)(1858-1900)の履歴を『明治過去帳』13)と当時の新聞記事からみ・ておきます。

安政5年(1858)8月:旧松江藩(現・島根県)の山口軍兵衛礼行の次男として生まれる。兄に日本銀行理事を務めた山口宗義がいる。弟に学習院長を務めた山口鋭之助がいる。
明治9年(1876):文部省留学生としてパリに行き12年(1879)8月建築工師の学称を受ける。(「東京日日」[明治12年(1879)10月16日付]によると,古市公威[明治8年(1875)派遣],沖野忠雄[明治9年(1876)派遣],山口半六[明治9年(1876)派遣]の3名がパリのエコールサントニール百工中央大学校(École Centrale Paris)を卒業している。)
明治14年(1881)6月:帰朝,三菱会社に入る。
明治19年(1886):文部書記官に任じる。
明治20年(1887):文部三等技師
明治21年(1888)6月末:東京美術学校は,上野公園内の教育博物館隣地に,仮校舎を建築することを決定。濱尾新(文部省専門学務局長),久保田譲(会計局長),山口半六(三等技師)の3氏によって該地見聞。
明治23年(1890):会計局建築掛長。
明治24年(1891):片山東熊,三好晋六郎らと工学博士となる。
明治33年(1900)8月23日:神戸で病没。享年43歳。

図9.第一高等学校(絵葉書)

図9の絵葉書は、国内から海外へ出されたものです。文面(宛名面)(図10)は英語で書かれており、J.KawanishiがAntwerp(Belgium)に送った絵葉書です。第一高等学校を卒業後,東京帝國大學の法科(law college)で2年間,学んでいることなどが書かれています。J.Kawanishiとは,文面から判断して川西實三(明治43年・一部甲)ではないかと思われます。

図10.「第一高等学校」絵葉書の宛名面

♪川西實三は,のち日本赤十字社の社長(第9代)を務めています。東京府知事も務め,知事は安井誠一郎,東龍太郎(一高,大正二・医科)と続きました。東龍太郎は,日本赤十字社社長(第10代)も務めています。

♪川西實三は、「新渡戸先生のことなど」14)のなかで「有り難き先輩」と題して次のように書いています。

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前田多門注4)、鶴見祐輔、岩永裕吉、藤井武、黒崎幸吉、黒木三次、金井清氏等、就中なかんずく、前田さんは先輩というよりも恩人。氏の人格の迸りの雄弁に感動の余り熱烈なる思慕の情を披攊した手紙を差上げたのがキッカケとなり、新渡戸先生に一入親近出来るようになり、上記の諸先輩も前田さんのお引き合せによるものである。附言すれば後年の帝国事務所勤務でジュネーヴに駐在することになった私の上長として前田さんが赴任して来られたり、新渡戸先生は国連の事務次長として内外信望の的となって居られたのであった。

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図11.第一高等學校正門(絵葉書)

図11の絵葉書は、本郷通り側から、正門を通して第一高等学校の時計台を見たものです。第一高等学校に入学し向陵生活をはじめた学生から尋常小学校時代の恩師に出されたもののようです。東寮を「監獄のような寄宿寮」と書いています。藤村操のことにもふれています。

♪第一高等学校の時計台の鐘の音について、藤島亥次郎(工学部教授)は,「その鐘の音は,余韻は短かったけれども,かん高く,夜間など根津あたりを散歩していても,聴かれた」11)と述べています。

♪室生犀星は,『ザボンの実る木のもとに15)のなかで一高の時計台について次のように書いています。時計台の鐘の音とともに,本郷台地上の茜色に染まる時計台の風景がよみがえります。

門からすこし出たところに根津八重垣町一帯の谷そこへ下る坂がありました。夕日が本郷高台一円の空を金色にそめてゐるのを私はよく見に出ました。高等学校の時計台が見えてゐます。坂はなめらかなけいしやで街へつづいて居り街には灯が入つて豆腐売や夕暮のもの騒がしい景色を点出してゐます。
♪大正12年(1923)9月1日の関東大震災で,一高(本郷)の象徴であった本館・時計台は被害を受け,爆破処理(解体爆破写真)(図12)(10月9日)されることになります。

図12. 関東大震災で被害を受けた統計台の爆破処理

♪昭和10年(1935)2月1日,一高,「向陵碑」を遺跡記念として敷地内に建設,除幕式を挙行します。碑文(碑陰)は,安井小太郎教授,書は菅虎雄教授によりました。現在、向陵碑は、農正門を入って右手の弥生ホールの一番奥の塀際に建っています。(図13 図13b 図13c

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図13. 向陵碑

図13b. 向陵碑(碑陰)

図13c. 向陵碑の碑文(案内板)

♪一高から東京大学医学部に進んだ沖中重雄(大正13年・理乙)(のち内科教授)と藤田恒太郎(のち解剖学教授)は同期でした。「医学界の先人たち16)のなかで,藤田恒太郎のことを次のように回想しています。

一高に入学した時,隣の席に居たのが藤田恒太郎君であった。藤田君は大変真面目な勉強家で,後に東大医学部解剖学教授になったが,学生の頃「自分は臨床医学をやりたいが,子供の時,片方の耳を中耳炎でやられているので,聴診器を使えなくては困るから,屍体を扱う解剖学をやるんだ」と言っていた。
♪木下正中(のち産婦人科教授)は,「第一高等学校」が「東京大学予備門」と呼ばれた明治18年(1885)入学,「第一高等中学校」と呼ばれた明治23年(1890)に卒業しています。同年帝國大學醫科大學に入学しています。17)

♪木下正中の弟の木下東作注5)は,明治28年(1895)に第一高等学校に入学し,明治33(1900)年卒業。同年東京帝國大學醫科大學に進んでいます。17)

♪一高から東大に進んだ東龍太郎は、座談會で一高・東大時代の漕艇部について語っています18)。当時の一高と東大の艇庫は、隅田川の向島にありました。東大の艇庫の設計は、東京驛を設計した辰野金吾によりました。

♪戦後,昭和25年(1950)3月末日をもって,一高は廃止され東京大学教養学部となります。昭和25年(1950)3月24日,一高の卒業式の日の日記に,校長であった麻生磯次は,一高の門札を外したことを,次のように書いています。19)図14

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一高最後の卒業式の日である。朝,安倍さん宅に,杉敏介先生を訪ね,祝辞を・時から茶話会,現旧職員,同窓会の役員,卒業生などが図書館に参集,杉・安倍・天野・田中耕太郎・高橋穣・柳沢健氏等に話してもらう。次いで一同門前に集まって,第一高等学校の門札を取り外す。七時から晩餐会,千数百名の卒業生先輩が食堂に参集し,すこぶる盛会であった。九時から寮歌祭に移り,庭上に篝火かがりびをたき,徹宵寮歌を合唱して,記念すべき日は終わった。

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図14. 一高最後の卒業式

♪農正門を入って真っすぐ、左手の一番奥に進むと向ヶ岡ファカルティハウスがあります。もと東京大学向ケ丘学寮があった場所です。ファカルティハウスの一階にはレストランがあるのですが、食事をしながら庭をみていたら隅になにか石碑が建っているのに気づきました。近寄ってみると、東京大学学寮址の石碑だったのです。(図15  図15b 図15c

図15, 東京大学向ケ岡学寮址の石碑 -農正門を入った一番奥の左手、向ケ岡ファカルティハウスの庭に建っているー

図15b. 東京大学向ヶ岡学寮址の案内板

図15c. 農学部キャンパス内にある向ケ岡ファカルティハウス(旧東京大学学寮跡地に建つ)

♪桜の季節になると,安田講堂時計塔(図16}の前庭に咲く枝垂れ桜(図17)が見事です。明治の文明開化とともに建築された学校建築に取り付けられた時計塔の鐘の音を想像しながら,無縁坂(図18)を下り、本郷と坂で繋がる谷中・根津・千駄木周辺を歩いてみたいと思います。(参考:本郷通りを歩く:日本医科大学附属病院界隈、旧真砂町・菊坂界隈)

図16. 東京帝国大学中央大講堂(絵葉書)

図17. 安田講堂前に咲く枝垂桜

図18. 上野不忍池から本郷台地を上がる無縁坂 -この坂上に鉄門があるー

注 記

1) 東京医学校本館の設計者:『明治工業史 建築編』1)によると林忠恕になっていますが,『日本近代建築史ノート』5)のなかにある「林忠恕・工部省在職中の関係建築」には,東京医学校本館の記載はありません。

2) 東京大学医学部の名称は,明治10年(1877)から明治19(1886)年までを第一次,昭和22年(1947)以降を第二次として,2回使われています。
関連第23回:東京大学医学部の名称の変遷

3) ファブルブランド(James Favre-Brandt)(1841-1923):スイス人貿易商。ロックル市出身。1863年遣日使節団の一員として来日。横濱居留地84番で開業し、のち175番地に移転。『時計心得草』の著がある。横濱外人墓地(9区)に家族とともに眠っています。(『図説横浜外国人居留地』20)による)

4) 前田多門の長女が神谷美恵子です。神谷美恵子は昭和19年(1944)東京女子医学専門学校を卒業後、東京帝國大學精神科に入局しています。ハンセン病について太田正雄(木下杢太郎)の指導も受けています。

5) 木下東作(1878-1952)17)
明治36年(1903):東京帝國大學醫科大學卒業、大学院
明治41年(1908):ウィーン大學留学、翌年帰国後、大阪府立高等医学校に復職
大正11年(1922):依願退職、大阪毎日新聞社に入社
大正15年(1926):日本女子スポーツ連盟設立―会長
昭和3年(1928):人見絹枝800m走銀メダル

4)正門を入って左手の東京帝国大学工科にも時計塔がありました。

東京帝国大学工科時計塔(絵葉書)

参 考 文 献

1) 大學の時計台:『明治工業史 4.建築編』(日本工業会編 原書房 1994)pp.161-163.
2) 東京大学医学部時計塔:『明治・東京時計塔記』(平野光雄著 青蛙房 昭和33年)pp.70-78.
3) 「上野に校舎建築と決定」(明治21年7月1日 東京日日)
4) 東京大學醫學部時代の醫學部本部「所謂(時計台)」(口絵):『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』(古畑種基編 東京帝國大學醫學部法醫學教室発行 昭和18年刊)
5) 「林忠恕その他」:『日本近代建築史ノート ―西洋館を建てた人々』(村松貞次郎著 世界書院 昭和40年)pp.60-77.
6) 「史料編纂所の移転」:『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 平成3年)pp.111-114.
7) 東京医学校本館遺構: 医学図書館 33(3):289-291,1986.
8) 『東京大学の百年 1877-1977』(東京大学出版会 1977)
9) 「本郷から駒場へ」(小田村寅二郎)向陵 16(2)[一高百年記念]:76-80.
10) 「第一高等学校年表」(藤木邦彦編)向陵 16(2)[一高百年記念]:220-251.
11) 第一高等学校時計塔:『明治・東京時計塔記』(平野光雄著 青蛙房 昭和33年)pp.118-121.
12) 「(三 帝國大學理科大學本館其の他)第一高等中学校」『明治工業史 4.建築編』(日本工業会編 原書房 1994)p.207.
13) 『明治過去帳<物故人名辞典>』(大植四郎編 昭和10年)
14) 「新渡戸先生のことなど」(川西實三)向陵 16(2)[一高百年記念]:170-171.
15) 室生犀星 「ザボンの実る木のもとに 」- 青空文庫
16) 「医学界の先人たち」(沖中重雄)向陵 16(2)[一高百年記念]:63-66.
17) 「木下凞・正中・東作の略年譜」:『先徳遺芳(木下文書)』(木下實著)

(私家版 平成23年7月刊)の巻末。
18) 「日本漕艇界の先駆一高と東大」(東龍太郎・根岸 正・西浦義幸)向陵 16(2)[一高百年記念]:328-337.
19) 「一高の終焉」(麻生磯次)向陵 16(2)[一高百年記念]:47-49.
20) 『図説横浜外国人居留地』(横浜開港資料館 有隣堂 平成10年)

(平成25年12月9日 記す)(平成29年6月7日 訂正・追加)(令和元年[2019]7月16日 絵葉書追加)