34. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(3)

♪光悦寺は、北大路バスターミナルの「Eのりば」(光悦寺・玄琢・西賀茂方面)の北1号系統(佛教大学・玄琢[げんたく])に乗って、鷹峯源光庵前(たかがみね・げんこうあんまえ)で下車。鷹峯小学校の前にありました。

京都市交通局

♪光悦寺の車道に面した入口から山門へと続く石畳の参道の両側には、楓の並木がトンネル道となるように植えられ、初夏の若葉とともに、秋の紅葉の時期にはさぞかし綺麗だろうと思いました。お寺に行って感動するというのもおかしな話しですが、光悦寺には、一般の伽藍が点在するお寺とは違い、庭園や鐘楼を持つ山寺という風情を感じました。

♪入口には、京都市によって高札風の説明板が立てられていました。


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光悦寺

大虚山(だいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。当地は、元和元年(1615)徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)が一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。
当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。

京都市
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♪境内に入って、まず、眼についたのが鐘楼でした。屋根は茅葺きで、このような鐘楼は、いままで、見たことがありませんでした。茅葺きの頂上には、瓦屋根も合わせた形となっていました。いまでは、大変に珍しい形の鐘楼と思われ、手入れの行き届いた庭園とよく調和していました。

♪すこし境内を進むと、大虚庵の茶席があります。日本を代表する光悦垣(こうえつがき)で囲まれていました。割竹を菱形に組んであり、茶席からも透かして向こうの様子が見られるようになっています。光悦垣の渋い竹の色と紅葉の彩りを想像して、なんと色彩と造形美に溢れたお寺なのだと思いました。

♪水原秋桜子の句碑は、大虚庵の茶席の前の露地を抜けた先の、交差点の樹木の下に置かれていました。句碑の横には、「チャアレス エル 布利耶 碑 MONUMENT OF MR.CHARLES L.FREER」と刻まれた大きな石碑がありました。

♪水原秋桜子の句碑のまわりは、葉で覆われ、注意して見ないと見過ごしてしまうほど小さな石に句が刻まれていました。

「紅葉せりつらぬき立てる松の幹 秋桜子」(裏面:「昭和四十年秋向日葵建立」)

碑 石:高さ68cm、巾70cm・67cm、厚さ25cm(鞍馬の真真石)
ブロンズ:縦29cm、横30cm(東京芸大・高原四郎氏製作)

♪境内には、観光客の姿は、ほとんど見当たりませんでした。ゆっくりした気分で、光悦翁墓所をお参りさせていただいたあと、庭園のはずれの茶席の縁側から、野村さんと、鷹峰三山(北山の山並み)を望んでいると、川のせせらぎが聞こえてきました。あいにく、川の方への道は、閉鎖されていて下りていくことはできませんでした。

♪幕末の京都で聞く山寺の鐘楼や川のせせらぎの音は、どんなものであったのでしょうか。争乱のなかにも、いまよりは、もっと澄んだ空気のなかで、人それぞれの思いのなかに、沁み入るような音であったように思いました。

♪水原秋桜子の句碑が、このような静かな趣のある光悦寺の庭園の一角に置かれている幸せを感じました。

(平成15年7月31日 記)(平成29年10月25日 追記)

33. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(2)

♪蛤御門から京都御苑に入ると、まず、その広さに驚かされました。観光客の姿は、ほとんど見当たらず、京都御所のまわりに敷かれた白砂利の上を歩いていると、まるで、誰もいない砂浜の上を歩いているような錯覚にさえ捕われました。

♪蛤御門から建礼門までの途中に、環境省京都御苑管理事務所が建てた「京都御苑のあらまし」の説明板がありました。

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京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700m、南北約1、300mのほぼ長方形をしており、このうち御所などを除いた約65haが「国民公園」として終日開放されています。苑内には約5万本の樹木が生育し、外周九門や、かつての公家屋敷の遺構も多く残っています。豊かな自然と歴史に恵まれた京都御苑は、御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史とのふれあいの場として多くの人々に親しまれています。
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♪江戸から明治に移る幕末に、和宮が、江戸に向かい、京の都のなかを浪士が走り回る。野村さんと、現在の「日本医学図書館協会」のはじまりとなった「官立医科大学附属図書館協議会」を昭和2年(1927)に提唱した新潟医科大学の清川陸男(むつお)は、清河八郎(幕末期の志士)(1830-1863)の流れを汲むようだと、新撰組の話などをしながら御苑内を歩き、京都迎賓館(仮称)建設地横を抜けて、寺町通・広小路通にでました。

♪京都府立医科大学附属図書館には、『日本医学図書館協会六十年略史』(日本医学図書館協会、1989)を執筆していたときに、一度お訪ねしたことがありました。歴史のある図書館で、そのときはまだ現在の新館が建設される前で、梯子のような階段を下りて書庫まで入り、古い資料などをみせていただいた記憶が甦ってきました。

♪今回の「第20回医学情報サービス研究大会」の実行委員長をつとめられる宮本小夜子さんと、実行委員のひとりである山下ユミさんにご挨拶を済ませたあと、一度、京都ガーデンパレスにもどって、近くの「九里九馬」で昼食をとることにしました。

♪「九里九馬」(くりくま)は、シソ研の京都通の方から教えていただいたお店で、護王神社前の下長者町通に面してありました。大正初期の商家を喫茶店としており、おばんざい定食が食べられました。[「九里九馬」(上京区室町通下長者町通西入ル近衛町25)2011.12.31閉店)
 

♪「九里九馬」で昼食を終え、烏丸通に平行して走る裏道を烏丸今出川まで歩き、地下鉄烏丸線で北大路駅まで行って、バス(北一系統)に乗り換えることにしました。いよいよ、目的地の水原秋桜子の句碑のある光悦寺に向かうことになります。

(平成15年7月27日 記)(平成29年10月22日 追記)

32. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(1)

光悦寺
場 所:京都市北区鷹峯光悦町29(鷹峯源光庵前下車)
電 話:075-491-1305
開園時間:午前8時から午後5時まで
閉園日:毎年11月10日より13日までの4日間

光悦寺にある水原秋桜子の句

「紅葉せりつらぬき立てる松の幹  秋桜子」

建立年月日:昭和40年(1965)10月24日
建立者:那須乙郎および向日葵同人及び会員同士

♪京都で開催された「第20回医学情報サービス研究大会」に参加・発表する機会をとらえて、水原秋桜子の句碑がある光悦寺(こうえつじ)と玉樹寺(ぎょくじゅじ)を訪ねてみることにしました。

♪光悦寺は、元和元年(1615)、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)(1558~1637)が徳川家康から拝領した土地に、芸術郷を築いたのがはじまりといわれています。鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)をみわたす景勝地にあり、「光悦垣」の竹垣で知られ、境内に散在する茶席を取り囲む紅葉がみごとで、京都でも知る人ぞ知るお寺のひとつとなっています。

♪この光悦寺の水原秋桜子の句碑は、『馬酔木』の500号を記念して、那須乙郎氏を中心とした向日葵の同人の方々の主唱で、昭和40年(1965)10月24日に建立されたものです。

♪光悦寺に、お訪ねしたい旨、確認したところ、水原秋桜子の句碑は、茶室大虚庵(たいきょあん)の前を抜けた庭園の一角に、昔のまま置かれているとのお話でした。

♪京都へは、研究大会の前日:7月11日(金)午前8時:東京発:新幹線(のぞみ45号)で、シソ研のメンバーのひとりである野村謙さん(湘南短期大学)とともに向かうことにしました。久し振りに東京駅から新幹線に乗ることになりましたが、駅構内も整備されて、JR山手線から新幹線への乗り換えは、上野駅よりも便利に感じました。

♪京都:午前10時15分着:地下鉄烏丸線(からすません)で丸太町駅まで行き、宿舎の京都ガーデンパレスに荷物を置いたあと、蛤御門(はまぐりごもん)から京都御苑へ入って、研究大会の会場となっている京都府立医科大学附属図書館に向かうことにしました。

♪蛤御門は、烏丸通りをはさんで、京都ガーデンパレスと向き合っています。蛤御門の門前に、高札風の説明板が建てられていました。

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蛤御門(はまぐりごもん)

・江戸時代末期の元治元年(1864年)(注)この門の周辺で、長州藩と、御所の護衛に当っていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました。
 この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っています。

・この門は新在家門といわれていましたが、宝永の大火(1708年)のさい、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。

(注)元治元年(1864年)は、佐久間象山が暗殺された年でもあります。

参考文献

1.『定本 秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる著 東京美術 1981)

(平成15年7月16日 記)(平成29年10月22日 追記)

31.ベルツを詠んだ水原秋櫻子句碑:豊川西明寺境内・草津温泉西の河原

♪水原秋櫻子がベルツを詠んだ句碑は、東京大学医学部構内にある「胸像をぬらす日本の花の雨」(東京大学医学部句碑)(改定版・第29回)のほかにも、各地にあることがわかりました。愛知県豊川市の西明寺境内と群馬県草津温泉西の河原の2か所です。(参考文献1,2,3


① 豊川市西明寺境内句碑 

菊にほふ國に大醫の名をとどむ

  場 所愛知県豊川市八幡町寺町7 西明寺境内のベルツ供養塔の傍

  建立年月:昭和44年(1969)11月14日除幕式

  主唱者:松井将(昭和大学医学部脳外科教授)・平松一郎

  建立者:豊川市(山本市長)七夕会(代表松井将)

♪昭和5年(1930)、三浦謹之助、入澤達吉らがベルツ供養塔をベルツの妻・花に所縁の豊川市の西明寺境内に建てています。その39年後の昭和44年(1969)11月14日には、ベルツを顕彰する水原秋櫻子の句碑が建てられました。除幕式には、ドイツからベルツの令孫トーマ(長男徳之助の子)(1923-1990)(注1)も出席されたそうです。さらに昭和46年(1971)12月20日には、ハット(長男徳之助の子)(1916-1972)が来日してベルツ家墓碑(徳之助家族)除幕式が挙行されています。(参考文献4 巻頭口絵

注1

ベルツ(1849-1913)ーーー荒井はつ(花)(1864-1937)

子供

ウタ(歌)(1893-1896)ーーートク(徳之助)(1889-1945)ー↓ー【妻ヘレーネ・ツエーマン】【妻マルタ・マウラー】

ハットは、トク(徳之助)とヘレーネ・ツエーマン(1888-1933)の子

トーマは、トク(徳之助)とマルタ・マウラー(1890-1973)の子

♪なお、豊川の御油(ごゆ)(旧東海道35番目の宿場)には、花の父・荒井熊吉の生家が営んでいた旅籠(戸田屋)の跡に「ベルツ花子実家跡」の案内板があるようです。

東海道御油海岸(絵葉書)

【参考】ベルツと花のドイツと日本の墓の場所(参考文献5)

日本の墓東京都台東区下谷法清寺

♪ベルツ花(本名・荒井はつ 改め花)は、昭和12年(1937)2月7日没後、荒井家の菩提樹の下谷法清寺(東京都台東区下谷1-8-22)葬られます。花自身が自らの戒名を決めて作っておいたお墓です。ベルツ(大正2年[1913]8月31日没)も分骨されて戒名がつけられています。(参考文献5 「下谷法清寺ーー花ベルツの菩提寺」pp.80-87)

済生院仁海慈航居士 大正二年八月三十一日 ハツ改花子夫(ベルツの分骨?)

紹徳院花心貞淑大姉 昭和十二年二月七日没 花・ベルツ(本人)

ドイツの墓(シュトットガルトのヴァルトフリードホーフ

♪ベルツがドイツで亡くなったのは、大正2年(1913)8月31日のことで、シュトットガルト(Stuttgart)のヴァルトフリードホーフ(Waldfriedfof)に葬られました。墓石には、花の名前(HANA BAELZ)も刻まれています。

Dr.EDWIN BAELZ

★13. JAN.1849 +31.AUG. 1913

HANA BAELZ

★20. FEBR. 1864 +7. FEBR. 1937

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② 草津温泉西の河原公園内)句碑

胸像はとわに日本の秋日和

場 所群馬県吾妻郡草津町西の河原公園

建立年月:昭和57年(1982)10月1日

主唱者:草津町・草津ベルツ協会注2

注2)草津ベルツ協会:「昭和三十六年に、草津とベルツ先生の出生地西独ビューティヒハイム市の間に、両者が協力してベルツ先生の遺徳を顕彰することを目処として発足、会長は市川善三郎」(参考文献4 「草津ベルツ協会」pp.215-218.)

草津温泉・西の河原(戦前絵葉書)

ベルツ記念館

♪草津温泉の西の河原には、ベルツ先生記念碑(注3)(昭和10年[1935]8月4日除幕式)、ベルツ・スクリバの胸像(昭和45年[1970]9月建立)が建っており、その傍に、水野秋櫻子の句碑(昭和57年(1982)10月1日建立)があります。

♪両博士の胸像は、東大構内にある胸像と同型のもので、戦時中に供出されることになったときに作られたコンクリート製の模型を複製したものだそうです。昭和35年(1960)、草津町の町長であった市川善三郎が東大から寄贈を受けて西常雄(武蔵野美術大学教授)によって昭和45年(1970)9月に制作されました。注4

注3) 「ベルツ先生記念碑」(石黒 忠悳題額 入澤達吉撰文 明治九年二月) 世話役:入澤達吉、藤浪剛一、高野六郎の三氏。

注4)東大のベルツ・スクリバの胸像は供出を免れ、胸像は、明治40年(1907)4月4日の創立当時のものです。(参考文献4 「ベルツ先生と、スクリバ先生の胸像建立」pp.219-220.)

♪ベルツは、明治9年(1876)6月の来日以来、温泉治療に興味を持って、伊香保、熱海、箱根などの温泉を調査して『日本鑛泉論』(東京大学医学部教授独逸醫學士別爾都氏著 明治13年[1880]7月)を著しています。

♪ベルツの草津温泉での宿は、「一井旅館」(現在のホテル一井)でした。「草津風土記」(一井旅館編)に収載されている「ベルツ博士と草津」(市川為雄著)によると、ベルツ(内科)と同僚のスクリバ(外科)が明治24年(1891)7月17日から8月15日まで「一井旅館」泉水にあった別荘(あずまや風の山荘)に泊まった記録が「明治廿四年第一月 宿泊人名簿 旅人宿 一井善三郎」に残っているようです。(参考文献6

上州草津温泉 旅館一井(絵葉書)

明治23年草津温泉でのベルツ(後列左)とスクリバ(後列右)

後列中央は横浜独逸病院院長グリーンワイルド 前列は横浜第13商館某氏

一井旅館の別荘(絵葉書)

♪草津温泉とベルツとの関係は、鑛泉(温泉)研究と通じて深いものがあったようです。明治33年には草津に日本国籍を持つ長男徳之助の名義(「土地購入委任状」)(荒井ハツ後見人)(参考文献5 p.80)で土地を購入してサナトリウム(温泉研究所・療養所)を建設する計画もあったようです。

♪明治23年10月14日、15日の『ベルツの日記』(初版・濱邊正彦譯)(参考文献7)(文庫版・菅沼竜太郎訳)(参考文献8)には、次のような記載があります。

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明治二十三年

十月十四日(東京)

余に依り、草津近傍の白根山火口において発見せられた鹽酸(鐵、明礬)(注5)泉は卓越せる醫治効能を發揮する見込みである。余等は目下、該鑛泉を病院において試験して居るが、その結果は甚だ満足す可きものがある。

十月十五日(東京)

十三日、近藤[榮一]氏の世話で草津に五千七百坪の土地と鑛泉を購つた。

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注5)文庫本の『ベルツの日記』(上巻)p.153では、「酸性泉(鉄、みょうばん)」となっています。

♪さらに、晩年に、ベルツは東大に草津温泉の学術研究のための奨学金を寄附しています。草津町では、明治45年(1912)6月19日に内務大臣原敬 文部大臣長谷場純孝宛てに「草津温泉調査請願ノ件」を出しています。昭和10年(1935)ごろから、東大での温泉研究は、三沢敬善(物療内科教授)に引き継がれることになります。

♪三沢敬善は、ベルツの高温温泉法を「摂氏45-47度の熱い温泉に3分間づつ1日3-4回入浴する方法を【時間湯】」として紹介しています。その時間湯を行ったと思われる建物の外観を写した絵葉書がありました。

草津温泉(時間湯)熱の湯外部(絵葉書)

♪今回の改訂版の執筆でベルツと妻・花の菩提寺が台東区下谷の法清寺であることがわかったのですが、この法清寺は、趣味の合唱の練習場の近くにあり、いつもお寺前の路地を通っていたのです。なにか不思議な感じがしました。

♪また、各地に水原秋櫻子の句碑を建立した石橋長英(日本国際医学協会理事長・日独交流協会会長・獨協医科大学初代学長)と水原豊(秋櫻子)とは、一高、東京帝国大学医学部の同期(大正7年卒)であることもわかりました。同期生には、高野与己(素十)もいて、3人が三田定則教授が法医学教室に設けた血清化学講座に入っています。(参考文献9

参考文献

1)『秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる 竹頭社 1969)

2)『定本秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる 東京美術 1981)

3)『秋桜子句碑巡礼 ガイドブック』(久野 治著 鳥影社 1991)

4)『ベルツと草津温泉』(市川善三郎著 あさを社 1981)

5)『[花・ベルツ]への旅』(講談社 眞寿美・シュミット=村木著 1993)「下谷法清寺ーー花・ベルツの菩提寺」pp.80-87.

6)「ベルツ博士と草津」(市川為雄著):『ベルツと草津温泉』(市川善三郎著 あさを社 1981. pp.111-124.の「ベルツ先生と『草津風土記』」に収録)

7)『ベルツの「日記」』(濱邊正彦譯 岩波書店 1939)

8)『ベルツの日記』(上)(下)【文庫版】(トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳 岩波文庫 青426-1 青426-2 岩波書店 1979.)

9)『水原秋桜子と私』(石橋長英著 制作:デー・エム・ベー・ジャパン 1972.)

(平成14年6月25日 記す)(平成29年9月3日 追記)

30. 水原豊(秋櫻子)の略歴

♪水原秋櫻子の本名は水原豊といい、明治25年(1892)10月9日、旧神田区猿楽町12番地に生まれました。芥川龍之介と同年です。生家は産婦人科医院を経営し、「二流どころの医院で、門内に桜の木があり、その落花が往来を敷いていた」といいます。

♪「家のあった場所は、現今の都電停留所の神保町と三崎町との中間で、東側である。往来はまだ電車が通っていなかったので幅五メートルほどであったろうか。町名は猿楽町というのであった。」

神田區神保町通り(帝都絵葉書)

♪水道橋駅から神保町交差点に向かう白山通りの左側の一帯は、明治のはじめから猿楽町と呼ばれていました。猿楽(さるがく)(のちの能楽)の家元・観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷がこの辺りにあったことから、猿楽町の名が起こったそうです。

♪父の岩橋熊三郎は和歌山の出身で、郷里で代用教員を務めたあと上京、本郷の済生学舎に入って医者になった人物です。産科医・水原実の養子となって漸(すすむ)と改名し猿楽町で産婦人科医院を開業していました。

♪水原豊は、「後年私が俳句を作るようになった萌芽は、祖父(母方・大谷木一(おおやぎ・はじめ))の方から授けられた」と書いています。父の漸(熊三郎)は「一生医師として働きつづけた人で、文芸その他芸術的なことには全く興味を持たなかった」そうです。

父・岩橋熊三郎(水原実の養子となり水原漸と改名)

母・治子(大谷木一の娘)ーーー祖父(旗本・大谷木一[安左衛門])・祖母(みか)

兄弟姉妹

姉:道子

姉:早世

長男:豊(秋櫻子)

弟:滋(しげし)

♪独逸中学(独逸学協会学校中学)で独逸語を学び、二浪して一高に進学、大正3年(1914)、東京帝国大学医科大学に入学しています。卒業後、大正8年(1919)1月、血清化学教室に入り、助手であった緒方益雄(緒方正規の息子 墓は染井霊園)の勧めで「木の芽会」(医学部出身者だけの俳句会)に入会し、俳句をはじめます。この年の4月には、東京師範学校教授・吉田彌平の長女・しづと結婚しています。

♪当時の血清化学教室教授は三田定則で、教室には古畑種基(のち法医学教授)、緒方富雄もいました。

♪大正10年(1921)4月、「ホトトギス」の雑詠欄(虚子選)に投稿した4句が入選し、5月には例会に出席するようになりました。

♪大正11年(1922)、東京大学俳句会を復活し、大正13年(1924)、血清化学教室から産婦人科学教室に移ります。

医科大学婦人科講義室(絵葉書)

♪入局した当時の産婦人科教室の主任教授は、磐瀬(いわせ)雄一でした。はじめ分娩病棟に配属され、のち医局長として活躍します。

♪昭和3年(1928)の秋、医局を辞し、震災後に建てた猿楽町のバラックの医院から神田三崎町の都電停留所前に新病院(西神田1-6)を開院することになります。その時、三田教授、磐瀬教授の推薦によって、上条秀介(青山内科出身)と石井吉五郎(佐藤外科出身)によって設立された昭和医学専門学校の産婦人科教授に就任、水原産婦人科病院は、京大で産婦人科講師をしていた弟の滋が手伝うことになりました。

 

参考文献

(1)「私の履歴書」:『水原秋櫻子全集 第十九巻 自伝回想』pp.245-294. 講談社、1978.

(2)「神田區勢要覧 昭和十年」(東京市神田區役所編)(国立国会図書館デジタルコレクション)

(3)「古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩」(人文社、2004)

(4)「明治生まれの町 神田三崎町」(鈴木理生著 青蛙房、1978)

 

(平成14年6月27日 記)(平成29年8月13日 追記)

29. 水原秋桜子(豊)の句碑と墓

1.水原秋桜子の句碑(東京大学医学部句碑)

東京大学本郷キャンパスのベルツ・スクリバの胸像の横(左手)に(水原)秋桜子の句碑が建っています。

胸像をぬらす日本の花の雨

水原秋桜子の句碑
画面右手の木の足元にあるのが句碑、その後ろにベルツ・スクリバの胸像が写っている

(平成29年8月11日 記す)

★★★

♪今日、時間があったので、図書館でベルツに関する単行本の文献を少し調べていました。『現代に生きるベルツ』(石橋長英著 日本新薬株式会社 1978)のなかに水原秋桜子のベルツに関する句の記載がありましたので、その一部を紹介しておきます。

君によりて日本医学の花ひらく

胸像はとわに日本の秋日和

秋空にかがやく歴史六百年

菊匂う国に大医の名をとどむ

生誕の夜の寒星を仰ぐべし

百年前君が仰ぎし夏の富士

♪東京大学本郷構内にあるベルツ・スクリバの胸像の横にある秋桜子の句碑がいつ建てられたのか、句碑の裏に年月日などが刻まれてないか、調べたかったのですが、句碑の周辺には木々の葉が生い茂っていて確かめることができませんでした。

(平成14年6月22日 記)

★★★

♪ベルツ・スクリバの胸像の傍にある水原秋櫻子の句碑について、その建立年月日、建立主唱者など、建立の経緯について詳しく記載されている文献をみつけました。石橋ひかる氏による『定本秋桜子句碑めぐり』(東京美術、1981)のなかにありました。(「東京大学医学部句碑」pp.354-361.)

建立年月日:昭和56年(1981)4月9日

建立主唱者:石橋長英

建立の趣旨:「わが国近代医学の基礎を築き、その発展と国際交流に大きく寄与したエルウィン・フォン・ベルツ先生の巧蓄を記念するため」

(平成29年8月19日 追記)

 

2.水原秋桜子(豊)の墓

場所:東京都立染井霊園(1種イ3号1側)

交通:JR駒込駅あるいはJR巣鴨駅から徒歩。

 

東京都立染井霊園医家墓所案内(堀江幸司作成

桜の染井霊園

 

雪の染井霊園
水原秋桜子の墓

♪染井霊園の場所は、東京都公園協会発行の「霊園案内図」によるとJR山手線巣鴨駅より徒歩10分とあります。巣鴨は「お婆ちゃんの原宿」として有名ですが、この巣鴨地蔵通りは旧中山道で、それと平行して走る国道17号(中山道)沿いにある「東京都中央卸売市場・豊島市場」の裏が、染井霊園になります。染井霊園の正面入口は、駒込駅前の六義園を起点とする染井通りにありますが、巣鴨方面からくると、染井霊園の裏口から入ることになります。

染井霊園入口(染井通りの突き当たり)
染井霊園の白山通り側の入口

♪このように染井霊園は、ちょっとわかりずらい所にあるのですが、この辺りは、染井吉野桜の発祥地として有名です。春になると霊園内に残る古木が淡いピンクの花をつけ、散った花びらは、花のじゅうたんをつくります。訪れる人もそれほど多くはなく、本来のお花見ができる数少ない場所の一つとなっています。

♪染井霊園には、著名人の墓も多くあります。岡倉天心、小河一敏、高田早苗、高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、宮武外骨、水原秋桜子などがあります。

高村光太郎・智恵子の墓

♪水原秋桜子は、俳誌「ホトトギス」で活躍した俳人 で、「馬酔木」を主宰したことで有名ですが、本名を水原豊といい昭和医学専門学校教授(産婦人科学)でもありました。

♪墓は霊園の正面入口から真直ぐ続く墓道の左手(1種イ3号1側)にあります。

(平成14年5月21日 記)(平成29年8月11日 追記)

 

28. 若狭小濱藩医:杉田家・木下家々譜

♪若狭小濱藩医であった木下家は,杉田家を師としており1)2)3),木下家には,杉田家からの書簡や遺墨,そして『解體新書』(安永三年 杉田玄白),『和蘭醫事問答』(建部清庵・杉田玄白 寛政七年),『形影夜話』(杉田玄白 文化七年),『梅里遺稿』(大槻修二編輯 杉田盛出版)などの著訳書類が,多数,残されていました。

若狭小濱名勝(陸の部
海陸の景勝に恵まれたる小濱市街全景
幕末の志士梅田雲濱先生之碑
幕末の志士梅田雲濱先生の銅像
忠烈綱女之碑
偉人伴信友翁の碑
小濱舊城跡
公園内佐久間大尉の銅像
奇蹟的伝説を残す八百比丘尼入定地

 

若狭小濱名勝 海の部(絵葉書)

勢濱海岸 岩上の松の奇勝(若狭小濱名勝)
湾内双兒島の絶景(若狭小濱名勝)
蘇洞門 唐船島の偉観(若狭小濱名勝)
蘇洞門 大門小門の奇勝(若狭小濱名勝)
蘇洞門 夫婦 岩の奇勝(若狭小濱名勝)
蘇洞門 □□穴の奇勝(若狭小濱名勝)
蘇洞門 □□門の奇勝(若狭小濱名勝)
小濱海水浴場(若狭小濱名勝)

♪杉田玄白は,平賀源内などとの交友,長崎屋(江戸の和蘭人定宿)を通して海外に目を向けながらも,同じ小濱藩医である木下家とは,終始,交流を続けていました。両家の強いきずなと人柄を感じます。

♪杉田玄白は,杉田家の三代目にあたり,杉田家からの遺墨などを子孫に残すために,巻物『傳家寶墨』を作成した木下凞(ひろむ)(宗伯)は,木下家の四代目にあたります。

 

杉田玄白(杉田家第3代)4) 

 

木下凞(ひろむ 木下家4代目)5)


♪東京大学医学図書館でみつけた雑誌『京都醫事衛生誌』のなかに,明治40年(1907)当時の杉田家と木下家の家譜を掲載した文献がありました
1)。この杉田家の家譜は,木下凞(ひろむ)が,杉田武(杉田家七代目)に聞き取り調査をしてまとめたもののようです。

♪明治のはじめ,開港したばかりの横濱。木下凞と杉田武,そして山田文友は早矢仕有的(丸善の創始者)がはじめた医学生の合宿所(相生町三丁目)で,共に学び,静々舎診療所(境町二丁目)では,共に診察した仲でした6)7)

♪杉田家と木下家の当事者による両家の家譜は,貴重な史料と思われます。今後の説明の参考になると思われますので,記録しておきます。

♪この杉田家々譜は,杉田玄端と武によって書かれた『杉田家記』[自筆稿本]8)に引き継がれたものと思われます。

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杉田家々譜

初代 杉田 玄伯  後改甫仙,元禄十五年始メテ酒井候ノ醫官トナル

二代 杉田 伯元  後改甫仙ほせん

三代 杉田 玄白  名翼,號鷧齋(いさい)又九幸(きゅうこう) 始テ蘭書ヲ翻譯シ解體新書ヲ刊行ス,
享保十八年九月十三日生,文化十四年四月十七日卒,八十五歳

四代 杉田 玄白  名勤,號紫石,始メ伯元,後玄白ニ改ム,實ハ奥州一ノ
関田村右京太夫侍醫建部清庵五男ニシテ,鷧齋(いさい)ノ長女ヲ
妻トシテ養子トナリ家ヲ継ク

五代 杉田 白玄  紫石ノ二男(長男ハ二十一歳ニシテ歿ス),明治七年卒,
六十九歳

六代 杉田 玄端9)  白玄ノ養子ナリ,幕府ニ召サレテ一家ヲ為ス

七代 杉田  武(たけし)  玄端ノ長男ニシテ家ヲ嗣ク,現ニ東京ニ在リ

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杉田分家

初代 杉田 立卿  名豫,號錦膓,為鷧齋(いさい)ノ庶子注)ナリ,藩主ニ願ヒテ分家ス,
生年月日取調中,弘化二年十月二十九日卒

二代 杉田 成卿  名信,號梅里,文政元年生,安政六年二月十九日卒,
四十二歳

三代 杉田 廉卿  名廉,成卿ノ養子,長女ヲ妻トシ,家ヲ嗣ク,實ハ駿河
沼津ノ醫家武田悌道ノ子ナリ,生年月日取調中,
明治三年二月二十日卒

四代 杉田  盛  廉卿ノ名跡ヲ相続ス,實ハ玄端ノ三男ナリ

 

注)正妻の子ではなく、妾の子。父が認知した私生児。

 

杉田分家

初代 杉田 玄端9) 幕府徳川家ニ召サレテ一家ヲ為シ,維新ノ際静岡藩
士族トナル

二代 杉田  雄(いさお)  玄端ノ二男ニシテ其後ヲ襲フ

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木下家々譜

初代 木下 宗白  木下芳章六男,名從縄,幼名章壽,隠居シテ是安ト稱ス,
明和七年生,天保二年卒,六十二歳

二代 木下 宗伯  名從敬,幼名宗三,隠居シテ春庵ト稱ス,文化三年生,
安政六年卒,實ハ村松氏,從縄甥ヲ養シ,長女ヲ妻ハシ
家ヲ継カシム

三代 木下 宗珀  名芳隆,幼名是作,隠居シテ春瑞ト稱ス,從縄三男ナリ,
長ハ皆天ス,從敬子ナシ,順養子トシテ家ヲ嗣ク,
文政元年生,明治十年卒,六十歳

四代 木下 宗伯  名凞ひろむ,幼名東作,春瑞二男,長ハ天ス,弘化元年生,
明治六年京都ニ徒住ス,同三十七年隠居

五代 木下 正中  凞(ひろむ)長男,明治二年生,同十六年東京ニ遊學,
同二十七年東京帝國大學醫科大學卒業,同三十二年大學奉職

木下 東作  凞ひろむ二男,明治十一年生,分家木下浦瀨ノ嗣トナル,
明治二十三年東京ニ遊學シ,同三十六年東京帝國大學
醫科大學卒業,後同大學院入學,又同醫化學教室助手
勤務,同三十九年大阪府立高等醫學校奉職

杉田玄端の息子たち

長男・杉田 (たけし)(嘉永5年7月15日生 大正9年12月31日没)

大学東校、明治9年(1876)アメリカ留学。紐育医科大学卒業。

二男・杉田 (いさお)(安政5年12月22日生 明治39年7月31日没)

沼津兵学校附属小学校卒、明治13年東大卒。第一医院外科当直医となり、その後、神戸医学校に移り、杉田医院を設立。

三男・杉田 (さかり)(元治元年5月27日生 昭和9年3月6日没)

沼津兵学校附属小学校に明治4年から6年にかけて在学。明治21年東大医科大学に進む。卒業後、神戸に移り兄の杉田病院を継ぐ。盛岡病院、横浜杉田病院にも関係したようです。

 

参 考 文 献

1)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

2)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

3)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

4)『贈正四位杉田玄白先生事蹟』(和田信二郎述)巻頭肖像

5)「東都掃苔記(77)木下家の墓」:『日本医事新報』No.1659 昭和31.2.11号

6)「早矢仕有的年譜注)(7)」『学鐙』100(7):36-37,2003.

7)「早矢仕有的年譜注)(8)」『学鐙』100(8):34-35,2003.

8)「杉田玄白年譜」:『日本醫史學雑誌』第8巻(第3・4号)(杉田玄白140年忌記念特集号)pp.46-54.
(四)関係史料」:『日本醫史學雑誌』第8巻(第3・4号)(杉田玄白140年忌記念特集号)pp.33-40.

9)「杉田玄端小傳」:『松山棟庵先生傳』(松山病院 1943)pp.52-54.
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注)「早矢仕有的年譜」(早矢仕民治編)の雑誌『学鐙』(丸善発行)への掲載号は以下の通りです。

(1)「早矢仕有的年譜(1)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料9)

[安政六年己未年(先生二十三歳)・万延元庚申年(先生二十四歳)]

『学鐙』100(1):34-35,2003.

(2)「早矢仕有的年譜(2)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料10)

[文久元辛酉年(先生二十五歳)・文久二壬戌年(先生二十六歳)]

『学鐙』100(2):36-37,2003.

(3)「早矢仕有的年譜(3)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料11)

[文久三癸亥年(先生二十七歳)]

『学鐙』100(3):34-35,2003.

(4)「早矢仕有的年譜(4)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料12)

[慶應元乙丑年(先生二十九歳)・慶應二丙寅年(先生三十歳)]

『学鐙』100(4):36-37,2003.

(5)「早矢仕有的年譜(5)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料13)

[慶應三丁卯年(先生三十一歳)・慶應四改元明治元戌辰年(先生三十二歳)]

『学鐙』100(5):36-37,2003.

(6)「早矢仕有的年譜(6)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料14)

[明治二年己巳年(先生二十三歳)・明治三年庚午年(先生三十四歳)]

『学鐙』100(6):36-37,2003.

(7)「早矢仕有的年譜(7)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料15)

[明治四辛未年(先生三十五歳)・明治五壬申年(先生三十六歳)]

『学鐙』100(7):36-37,2003.

(8)「早矢仕有的年譜(8)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料16)

『学鐙』100(8):34-35,2003.

(9)「早矢仕有的年譜(9)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料17)

[明治七年申戌年(先生三十八歳)]

『学鐙』100(9):36-37,2003.

(10)「早矢仕有的年譜(10)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料18)

[明治八年乙亥年(先生三十九歳)]

『学鐙』100(10):36-37,2003.

(11)「早矢仕有的年譜(11)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料19)

[明治九年丙子年(先生三四十歳)]

『学鐙』100(11):36-37,2003.

(12)「早矢仕有的年譜(12)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料20)

[明治十丁丑年(先生四十一歳)]

『学鐙』100(12):36-37,2003.

(13)「早矢仕有的年譜(13)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料21)

[明治十一年戊寅年(先生四十二歳)]

『学鐙』101(1):34-35,2004.

(14)「早矢仕有的年譜(14)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料22)

[明治十二己卯年(先生四十三歳)・明治十三庚辰年(先生四十四歳)]

『学鐙』101(2):34-35,2004.

(15)「早矢仕有的年譜(15)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料23)

[明治十四年辛巳年(先生四十五歳)]

『学鐙』101(3):34-35,2004.

(16)「早矢仕有的年譜(16)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料24)

[明治十五壬午年(先生四十六歳)・明治十六癸未年(先生四十七歳)]

『学鐙』101(4):34-35,2004.

(17)「早矢仕有的年譜(17)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料25)

[明治十七年甲申年(先生四十八歳)]

『学鐙』102(1):34-35,2005.

(18)「早矢仕有的年譜(18)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料26)

[明治十八年乙酉年(先生四十九歳)]

『学鐙』102(2):34-35,2005.

(19)「早矢仕有的年譜(19)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料27)

[明治拾九丙午年(先生五十歳)・明治二拾丁亥年(先生五十一歳)・明治二拾壱戊年(先生五十二歳)・明治二十二己丑年(先生五十三歳)・明治二十三庚寅年(先生五十四歳)・明治二十四辛卯年(先生五十五歳)・明治二十五壬辰年(先生五十六歳)・明治二十六癸巳年(先生五十七歳)・明治二十七甲牛年(先生五十八歳)・明治二十八乙未年(先生五十九歳)・明治二十九丙申年(先生六十歳)・明治三十丁酉年(先生六十一歳)・明治三十一戊戌年(先生六十二歳)・明治三十二己亥年(先生六十三歳)・明治三十三庚子年(先生六十四歳)・明治三十四辛丑年(先生六十五歳)]

『学鐙』102(3):32-35,2005.

(平成22年6月3日 記す)(平成22年7月30日 [注]を改訂)(平成29年8月10日 追記)