79. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1)(「日本医事新報」 No.1434-No.1445)

 
♪戦後,昭和20年代の『日本醫事新報』誌に連載された「東都掃苔記」の一覧表を作成するために,バックナンバーを取り寄せて調査していたところ,同時期に「新東京・醫學きまぐれ散歩」という連載記事があることがわかりました。一冊一冊,雑誌にあたっていくなかで気がつきました。

♪「新東京・醫學きまぐれ散歩」の連載は,『日本醫事新報』誌の昭和26年10月20日号(第1434号)からはじまります。戦争で焼野原となった東京の医科大学(病院)の復興の様子や復興住宅の状況を,写真を交えて執筆しています。貴重な連載記事と思われ,のちのちのために,これらも一覧表に纏めておく必要を感じました。

♪筆者のS.M.氏は,戦後,3年間,病[結核]に倒れるのですが,ストレプトマイシン(抗生物質)のお蔭で病が癒え,リハビリを兼ねて,自宅のあった東大赤門前から,東大構内の散策をはじめます。その散歩の記録が,この「新東京・醫學きまぐれ散歩」のエッセイとなったそうです。

♪本郷通り界隈など,戦後の復興しつつある東京の街並みのなかを歩きながら,自分の体も復調してきていることを実感するS.M.氏。生きることの喜びを,散歩のなかで出会う旧友との会話の中に感じているようです。ざっくばらんな語り口です。ちょっと,毒舌家でもあったようです。交際範囲は広く,木下正中(せいちゅう),木下正一(せいいつ),下瀬謙太郎の自宅も訪問しています。

♪S.M.氏は,連載の第1回となる「東大そぞろある記」の「前口上」(下記参照)のなかで,本郷村の自宅周辺の様子を書いています。その辺り一面は,麦畑と野菜畑が広がり,庭には,菜の花が咲き乱れて,裏には墓地がありました。いまも赤門前の本郷通りをちょっと入った所に,樋口一葉ゆかりの法真寺があります。S.M.氏の住居は,この辺りであったのかもしれません。

♪これらの文献をたよりに,60年後の東京を歩き,「江戸東京」のなかに,現在の様子を記録として残せればと思います。

(平成23年6月9日 記す)(令和元年[2019]10月20日 追記)

新東京・醫學きまぐれ散歩(1)

東大そぞろある記(1)

 前 口 上

 三年越しの病気で寝ているうちに,だんだん復興が進んで,起きて見ると新東京なるものが出来上っていた。思い出すのも不愉快だが,戦争中に赤門前の旧宅を間引疎開というやつに強奪されてから,牛込で焼かれ,静岡へ逃げて二十日目にまたも焼かれて関西の郷里へ落ちて行き,終戦直後に帰って来たものの,まだ東京の焼野原はキナ臭くて,貸間も見つからないので,探しに探した揚句,千葉県佐倉の医史に名高い順天堂の,たぶんその昔,塾生たちが合宿していたものだろうと思われる黒光りの門部屋に巣くっていたが,旧居に十二坪かっきりの制限住宅ができたので帰って来て,ホッとした途端に気がゆるんだのか,倒れこんだのである。

 一時はいよいよおさらばかと思っていたが,アメリカから取り寄したスト・マイが利いたのか段々よくなって,病床から濡縁越しに早春の庭を眺めるようにもなった。そうなると,庭先に一本,梅もほしくなる。というのは,辺り一面が麦畑野菜畑で,裏は墓地という本郷村の一軒家なので,僕の庭にも菜の花が咲いていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

 それにてつれて,三年越しに会わない,あちらこちらの友人知己が,なつかしく思い浮ぶ。出しぬけに訪ねて行ったら,どんなに驚くだろう。何しろ「曲りなりの復興」が,いきなり目の前に現われるわけだから。そんな童話じみた思いで一杯になって,家の中にあぐらをかいて澄ましてなどいられない気持になる。そこでぶらぶら,せめて近所あるきでもして見たくなった。遠出すると主治医に叱られるおそれがあるから,足馴しだと理屈をつけて,先ず東大からぶらつく事にした。何の目的もあるわけではない。だから何の予定もない。気が向いたら,のっそり研究室や教授室へはいって行くかもしれない。また先生方の家がどうなっているか,見に行きたくなったら行くつもりだ。どうせ消える好奇心ではあるけれど,「復興」の目に映る復興の新東京は,興味があるに違いない。

(S.M.)

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連載記事「新東京・醫學きまぐれ散歩」一覧表(堀江幸司作成)

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(1) 日本医事新報(1434)(昭和26年10月20日)

東大そぞろある記(1)前口上 
 混乱期の思い出 
 赤門に向って 

(1) 東大そぞろある記(1)

(2) 日本医事新報(1435)(昭和26年10月27日)

東大そぞろある記(2)医学部一号館今昔橋田邦彦、永井潜、
  竹内松太郎、田宮猛雄、
  東龍太郎、林春雄、
  田村憲造、兒玉桂三、
  柿内三郎
 池の鯉小泉八雲、呉建
 消えた銅像 

東大そぞろある記(2)

(3) 日本医事新報(1436)(昭和26年11月3日)

東大そぞろある記(3)附属医院裏真鍋嘉一郎
 旧病室の通り佐藤三吉、木下杢太郎、
  太田正雄
 二つ並んだ胸像ベルツ、スクリバ、
  入澤達吉、富士川游
 二つの象徴青山胤通
 今後の予定 

東大そぞろある記(3)

(4) 日本医事新報(1437)(昭和26年11月10日)

東大初期の思い出時計臺と鐵門芳賀栄次郎、ベルツ、シュルツェ、田口
  和美、西郷吉義、スクリバ、梅錦之丞、
  佐々木政吉
 明治初期の学生田口義徳、近藤次繁、入澤達吉、池田謙斎、
  金杉英五郎、
   

東大初期の思い出話

(5) 日本医事新報(1438)(昭和26年11月17日)

本郷元町・弓町・真砂町芳賀翁の隠栖芳賀栄次郎・智政、
  稲田龍吉、塩田廣重、
  三浦勤之助、飯島茂
  山田弘倫
 三大家の邸宅青山徹蔵、青山胤通、
  瀬川昌世、瀬川功、
  塩田廣重、藤井貞
  福士政一、橋爪一男、
  坂口勇
 焼残りの悲哀 

本郷元町・弓町・真砂町

(6) 日本医事新報(1439)(昭和26年11月24日)

済生学舎の跡を訪ねる(1)初期の長谷川邸長谷川泰、入澤達吉
  細谷省吾
 最初の学舎 
 晩年の居住跡大野喜伊次

済生学舎の跡を訪ねる(1)

(7) 日本医事新報(1440)(昭和26年12月1日)

済生学舎の跡を訪ねる(2)湯島の学舎跡 
 講師と学生 
 夢の跡―銅像 

済生学舎の跡を訪ねる(2)


(8) 日本医事新報(1441)(昭和26年12月8日)

順天堂醫院と同大學大學の外観加瀬恭治
 醫育への復帰佐藤達次郎、有山登、
  佐藤進、佐藤泰然、
  佐藤尚中、佐藤恒二
 戦後の佐藤一族佐藤泰然、佐藤尚中、
  佐藤進、大瀧潤家、
  松本本松、松本順、
  佐藤進、佐藤亨、
  佐藤淸一郎

順天堂醫院と同大學

(9) 日本医事新報(1442)(昭和26年12月15日)

東京醫科歯科大學周囲の光景 
 大計画の図面長尾優
 特殊の学風石原久、島峰徹、
  金森虎男、河野庸雄、
  坂本島峰、山極一三、
  柳金太郎、阿久津三郎、
  宮本璋、北博正、
 島峰博士の胸像島峰徹

東京醫科歯科大學

(10) 日本医事新報(1443)(昭和26年12月22日)

本郷南部とびある記長谷川・小此木邸跡長谷川泰、村山達三、
  齋藤茂吉、小此木信六郎、
  中原徳太郎、大槻菊男
  岡田和一郎、久保猪之吉、
  久保護躬、神保孝太郎
 元町から湯島二丁目細谷省吾、加藤恭治、
  上條秀介
 入澤・田所邸跡入澤達吉、田所喜久馬
 近藤博士終焉地近藤次繁、三浦勤之助、
  森半兵衛、阿久津勉、
 盤瀬邸跡など盤瀬雄一
 森川町の木下邸木下正中、木下正一

本郷南部とびある記

(1444号には、連載なし)

(11) 日本医事新報(1445)(昭和27年1月5日)

相良知安碑と時計台假名交りの碑文相良知安
 時計台の遺物 

(令和元年[2019]10月20日 記す)