64. 木下正中:香港ペスト研究当時を語る (2):「青山胤通没後20年座談会」:座談会の内容

♪青山胤通の追悼会に出席した木下正中は,資料を配布したのち,香港でのペスト調査研究の当時を振り返って,入澤達吉,長與又郎らの質問にこたえています。

(1)英語の通訳

入澤達吉:では,木下君一つ。

木下正中:私は御手元へ差上げて置いた印刷物が代弁するのですから,茲ここで申上げる事は何も考へて居りませんが,ただ香港のペスト研究にお供した時一番困ったのは,青山先生も英語を話されない事でした。それで始終通辯に引っ張り出されたのですが,困った事には,私の英語は高等学校の一年半,毎週一二時間の第二外国語で学んだだけで甚だ薄弱なものでありました。

入澤:誰に対して英語を使うのか。

木下:買物に行っても,また第一に病院でも,病歴を誌しるそうと思うのだが病人の容体を訊くのに困っちゃったのです。腹が痛いか?と聞いても日本語は勿論解らず,独逸語も判らず,英語でも我々の英語は判らず,初めは日本人の通辯を頼んだが,通辯は逃げてしまった。ペストが怖いというのでしょう。それから漸ようやく印度人の巡査か兵隊が僅わずかに一人来た。それが英語を解する。私が高等学校で使っていたウィリアムのポケット・ディクショナリ―などを持って行き,先生が何か言はれると私がそれを英語に直して云う。すると,その印度人の看護人が支那語にして病人に訊くわけです。それを再び英語に直したのを聞いて独逸語にして病歴に書き付けると云う順序で,漸くやっていた。然し終には再び日本人の通譯が出来て少し便利でしたが,そんなわけで,街へ買物に行かれる時でも,私に一寸来てくれと云はれて,一緒に行く。随分困った事もある。単語を並べて辛かろうじて話をする。先生は初め胸の固いYシャツに固いカラーを着けて居られたが,とても暑い。その上,汗が出てグチャグチャになる。私は現今のソフトシャツと同じものを着ていたのですが,それがよい,その通りのものを造らせようというので,製造している店へ行った。が,何と言って注文してよいか判らない。それで私のシャツを見せて,これと同じ型のものをと注文した事があります。こんな様な事情で,あちらでは一ばん英語で苦労しました。併しかし先生は,時に依ると日本語で済まされた場合も沢山あります。

♪青山胤通は,英語ができなかったので,病歴を聞くのも困ったようです。学生の木下正中が,通訳として教授を助けました。英語の辞書を持参するなど,用意もよかったようです。

香港:The Peak(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪実用的なソフトシャツを着た木下正中を見て,それと同じものをつくりたいという。異国の地で,教授のわがままを聞く学生の困った顔が浮かんでくるようです。香港は,北回帰線の南に位置しており,一年を通して暑い所でした。

独逸留学当時の木下正中(明治30年7月10日)(木下實氏提供)

♪独逸医学のメッカである帝国大学医科大学(東京)から香港(英国領)に来て,ラウソン医師(労森 James Alfred Lowson,1866-1935)(スコットランド出身)の世話になる。英語で通訳しながら独逸語でカルテを作る。語学で苦労したことが,晩年,下瀬謙太郎(木下正中の義兄)と協力して編纂した『医学用語集』に繋がってくるようにも思えます。

♪北里柴三郎・青山胤通ら一行,六名が香港に上陸したのは,明治27年(1894)6月12日のことでした。ラウソン医師の歓迎を受けています。その三日後の6月15日には,エルザン医師(葉赫森 Alexandre Yersin, 1863-1943)がフランスを代表して,ベトナム・サイゴン[從越南 西貢]{現・ホーチミン}から船に乗り到着しています1)。

♪明治期の香港は,どのような所だったのでしょうか。岩倉使節団は,帰航日程のなかで,明治6年(1873)8月27日に香港に寄港しています。当時の香港を次のように記録しています2)。

香港港(絵葉書)

夜明け方,香港沖の群島の間を走った。どの島も山で,大小の島が不規則に海上に散らばっている。どの山も草は青々しているが,樹木はない。だいたい広東地方の山々は,その形がみな秀でており,細かい山襞の間の方々に岩石が露出し,まるで中国絵画の「点苔法」のようである。・・・

ここは広東省恵州新安県に属する島で,マカオから東へランタオ島,香港島と並ぶ諸島のひとつである。・・・海岸から山裾に向って階段状に街が開かれている。・・・ここから西へランタオ島との海峡を通って西北に六〇キロほど航行するとマカオに達する。早くからポルトガルが占領し,天正・慶長のころから東洋貿易の中継地とした。また湾を北に航行して川(珠江しゅこう)を一九二キロ遡ると広東に達する。・・・英国人は石の家を建てて中国人に貸して住まわせている。したがってこの街は中国人が多いけれども清潔である。・・・

 欧州人の多くは山手に住居を建て,明るく伸び伸びした建物である。庭をめぐらし,木々を植え,清潔で優雅である。ここは北回帰線の南で,四季を通じて暑く,寒い季節はない。市街地は南面しているし,島の北側には海峡を隔てて本土側の高い山が屹立しているので,南北とも風が通らず,暑さはとりわけ厳しい。・・・

 公園の前に総督邸があるが,これも花崗岩造りの美しい建物である。近くに兵営があり,英国から派遣された常備の兵士が八〇〇人いる。

◆◆◆

♪ラウソン医師は,香港でペストに罹った青山胤通と石神亨を救うことになるのですが,そのラウソン医師自身も九死に一生を得る経験をしていました。3)。

♪明治25年(1892)10月8日に上海でのクリケットの試合のあと,香港への帰路,ボカラ(Bokhara)号(蒸気船)に乗船します。当時,ラウソン医師は,香港のクリケットチームのメンバーでもありました3)。

♪10月10日,澎湖(ほうこ)諸島の砂礁で嵐(台風)にあって遭難し,砂浜に打ち上げられていたところを地元の漁師に救われます。助かった乗客は,ラウソン医師とマーカム中尉(軽歩兵師団)の2名だけだったそうです。

♪このボカラ号遭難のとき,ラウソン医師が助からなかったら,香港での青山胤通と北里柴三郎のペスト調査研究も,どのような方向に進んでいたかわかりません。人々の出会いには,運命の導きといったことを感じます。

(2)帰路,一時,長崎女神消毒所に留まる

林 春雄:・・・青山先生が例のペスト研究に香港へ行かれてペスト病に罹られた時(明治27年),あの頃は今の若い方は知らないかも知れませんが,新聞の号外を大きな字で新聞社の前へ貼り出したものだが,「青山氏脈拍悪し,熱度何度何分」などと書いてあったのを覚えて居る。私は,先生が出発される時にも新橋に一行を送って行ったのですが,どれが先生か知らなかった。それから7月10日,卒業式,濱尾(新)先生が総長でしたが演説された。本学の卒業生が年々各方面で活動して行くのは喜ばしい。青山,北里両氏が今香港でペスト病の研究をやっている事は世界的に有名で本学の誇とする處である。而しこうして青山氏がその病気に罹かられたことは,真に憂慮に堪えないと言われたのです。それから病気が癒って帰って来られたのは・・・何日でしたかね。

木下正中:8月下旬か,9月上旬です。

林 春雄:兎に角,日清戦争が始まってから後だ。まだ学校が始まらぬ間で,新橋のステーションへ僕等が迎えに行ったのです。大へんな人出で,停車場へ縄を張って通路を作った。あの時は,君は一緒だったかしら。

木下正中:僕は先へ帰ったのです。一緒に帰ったのは宮本叔君に高田畊安君でした。

長與又郎:此間高木友枝さんの話では,あれはペストではないという事だが・・・。

木下正中:十九體か,二十體かの解剖をやって,一ばん終の解剖のときに伝染したらしいのです。其時は宮本君も僕も関係せず,ちょうど手隙てすきだからというので石神君が解剖の手伝いをしたのでした。・・・

長與又郎:石神さんは何処から入ったのですか。

木下正中:やはり傷があったのでしょうが,青山先生の悪くなられた晩は,先ず両先生の研究も一段落ついたから此辺で切上げて広東へ立寄って其上で帰朝しようというので,香港で世話になった人々を御馳走した。政庁の書記長だの,病院長だの,有力な開業医だのが集まった。会を開く少し前に,先生に少し熱が出て来たので心配して居った。宮本君と僕と二人で会のときに先生を見ると,顔色が悪いから,二人で心配して居ったが,宴会が済むと,先生は熱が出て苦しいといわれた。そのときに先生の部屋は風通しが悪い。僕と石神君は同じ部屋にいたのですが,風通しのよい部屋ですから,代わりしましょうというので部屋を代へて,先生は私のベットへ寝られ,私は先生のベットへ寝た。

先生が悪いという事を聞いて,前夜のお客さんたちが見舞いに来た。ピークの病院をやって居るカントリーは,之はペストとじゃない,自分の病院へ預かろうという。市の病院長のラウソンはペストだから病院船へ預かうという。すると青山先生は,病院船の方へ行こうといわれたので,その順序に運んで行くと,今度は石神君が,どうも僕も昨夜から変だという。淋巴腺が腫れて何だか気分が悪い。僕も一緒に行くよという事になった。それでランチで一緒に行ったのですが,船の上で石神君は『やっぱり予定の通りやって来たよ,寒気がして来た』と言い始めた。・・・

林 春雄:木下君は試験があるので早く帰ったのだね。

木下正中:宮本君が心配してくれて,大丈夫だから帰ってよかろう。卒業試験も大切であるから,帰って支度をした方がよい。高田君が見舞いに来るというのだから,というので帰って来ました。それで船へ乗って帰ったのですが,長崎で僕の扱い方に困った。ゼクチオンの材料を大きな壜に入れて八,九個持っていたのです。その材料は宮本君と僕と半分宛持ったのです。それをどうするか?どこまで消毒するかという事が問題になったようです。香港出帆の後九日になるまで,長崎の女神消毒所で暮して,その後に漸ようやく神戸へ帰って来ました。

長與又郎:長崎へは上陸したのですか。

木下正中:いや長崎は消毒所まで上っただけで,市街へは上らなかった。神戸で上陸して,すぐに東京へ直行した。

♪木下正中が,帰京したのは,7月23日とあります4)。高田畊安が香港に到着したのが7月24日5)。その夜,高田畊安は,急ぎ小金井良精宛の書簡を認め,翌日出帆の廣島丸に託しています6)。

高田畊安は,中川恒次郎領事,高木友枝に面会しています。このとき高木友枝は,カントリー医師(Dr.Cantley)の病院の隔離病室にいたのですが,ハイジア号にいた青山胤通のところへ向かうための渡船の手配をしています。高木友枝自身は,ペストではなかったようです。

♪北里柴三郎が香港を出発したのは,7月21日のことでした7)。(長崎に到着したのは,7月25日の夜)この頃になると,青山胤通の病勢も治っていました。木下正中も,卒業試験のこともあり,宮本叔のすすめに従って帰途に就いたのでした。

♪高田畊安の電報は,「石神亨が,香港を発ったのは8月3日,青山胤通の出発は,8月20日頃」8)と,伝えています。

♪青山胤通が帰朝したのは,8月31日のことでした。当時の新聞は,「香港黒死病戦地より凱旋」と報じました9)。さながら凱旋将軍のような扱いでした。

♪木下正中は,香港からの帰途,一時,長崎の「女神消毒所」(女神検疫所)(長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ データベース収蔵)に留め置かれました。ペスト研究のための病理解剖の材料を持っていたのですから,検疫所でも,その扱いについては苦慮したのではないでしょうか。

         
長崎港女神検疫所(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪木下正中が,東京での研究報告のことを思い,家族のことを思いながら,何日かを過ごした女神消毒所(長崎台場跡)の周辺は,いま,どうなっているのでしょうか。「江戸東京」でも,いつか散策できる日が来ればと思います。

参考文献

1) 王道還著:科學史上的這個月 一八九四年七月葉赫森,北里柴三郎公布黑死病病原.張貼日期:2003/7/11.

2) 『特命全権大使 米欧回覧実記 第5巻 ヨーロッパ大陸編(下) 附 帰航日程』(久米邦武編著 慶應義塾大学出版会 2005)第100章 香港及び上海の記.pp.362-381.

3) 木下 實著:「ラウソン博士について(Dr. James Alfred Lowson)」(私家版)

4) 木下氏の帰京. 東京醫學會雑誌 8(15):707.

5) 高田学士の安着.東京醫學會雑誌 8(15):707.

6) 高田学士の書翰.東京醫學會雑誌 8(15):708.

7) 青山博士の近況.東京醫學會雑誌 8(15):707.

8) 香港発の最近報.東京醫學會雑誌 8(15):710.

9) 青山博士も全治,帰国.『明治ニュース事典 第五巻[明治26年―明治30年]』(毎日コミュニケーションズ 1985)

(平成24年8月22日  記す)(平成31年3月13日 追記)

63. 木下正中:香港ペスト研究当時を語る (1):「青山胤通没後20年座談会」で資料を配布

♪昭和11年(1936)12月7日(月),青山胤通の没後20年にあたって座談会が開かれました。主催したのは,日本醫事新報社長の梅澤彦太郎。池之端(下谷茅町)の「濱のや」(割烹・濱乃家)を会場として,午後5時から開始されています。


青山胤通没後20年座談会(昭和11年12月7日 池之端・濱乃家)
(後列右から3人目の和服姿が木下正中)

♪この座談会には,明治27年(1894)に,ペスト研究のために青山胤通に同行して香港へ渡った木下正中も出席しています。東京帝大(医学部)から,錚々たる面々が,出席しています。そのなかに岡田和一郎もいました。

♪岡田和一郎(耳鼻咽喉科)は,青山内科門下生ではないのですが,第二醫院で佐藤三吉(外科)の助手をしていた当時,青山内科と佐藤外科の医局が向かいあっていた関係から,青山胤通と近付きになっていたのでした。

医科大学三浦内科病室(時計塔)(絵葉書)(本稿構内)
医科大学近藤外科佐藤外科病室(絵葉書)(本郷構内)

東京帝国大学病院外科病室(絵葉書)(本郷構内)

青山胤通先生 没後20年の座談会

開催年月日:昭和11年12月7日(月)午後5時より。池之端「濱の家や」にて。

出席者:青山徹蔵(東京帝大教授),入澤達吉(東大名誉教授),稲田達吉(東大名誉教授),岡田和一郎(東大名誉教授),木下正中(前東京帝大教授),坂口康蔵(東京帝大教授),長與又郎(東京帝大教授),永井 潜(東大医学部長),林 春雄(東大名誉教授),林 曄はじめ(東京府医師会長),眞鍋嘉一郎(東京帝大教授),梅澤彦太郎(日本醫事新報社社長)

♪この座談会の出席者に長與又郎(東京帝国大学総長・第12代)がいました。長與は,その日の日記1)2)に次のように記しています。

[昭和十一年十二月七日]月 晴 六時 池の端浜の家。青山[胤通]先生座談会(日本醫事新報社主催)入澤(座長),岡田,林(春雄),木下,稲田,林曄,眞鍋,坂口,永井,及び青山徹蔵諸氏。 既に伝記あり。この夕は主に人としての青山先生を物語る。逸話,行跡に就て話し合えり。徹蔵君 青山家保存せる楷書遺墨を示さる。  玩物喪志 師者傳道 気韻高き書風なり。木下氏香港ペスト研究当時のことを語る。小冊子を頒つ。

♪『長與又郎日記(上)(下)』1)2)には,参考文献や註が丁寧についています。この青山胤通の座談会の参考文献に,『近代名醫一夕話』(日本醫事新報社 昭和十二年)とありました。

♪『近代名醫一夕話』3)は,以前,古書店で入手しておいたはずです。書棚を探してみました。ありました。青山胤通の座談会は,冒頭に載っていました。座談会の集合写真や,長與又郎が日記に書いた墨跡(玩物喪志)も口絵に掲載されていました。村山論文4)5),中瀬論文6)のなかにも掲載されている「香港ペスト研究当時の記念撮影」もありました。


『近代名醫一夕話』(日本醫事新報社 昭和12年)

♪座談会のなかで,木下正中が配った小冊子も転載・収録され,香港でのペスト解剖室の見取図も添付されていました。


香港ペスト研究解剖台見取図

♪木下正中が,当日,配布した資料の実物は,みつかっていませんので,小冊子そのものの体裁などは,わかりませんが,この転載記事から,その内容を知ることができました。

『香港「ペスト」研究當時の追憶』 醫學博士 木下 正中  出かけたのは明治二十七年六月五日横濱解䌫の米船「リオ・デ・ヂャネイロ」號に乗り,その日,日清戦争が始まるならんと云ふ確かな報告をきいた。直行して十二日,目的地の香港に着いた。同地には「ペスト」が猖獗しょうけつ註)を極めて居ったから,その研究の為め青山,北里両先生が我国政府から派遣せられたのであるが,その随行として助手宮本叔君及わたくし(当時大学四年生)又海軍軍医石神亨(後大阪濱寺研究所長),内務屬岡田義行君が一行に加った。  偖さて六月十三日には香港政廰,英ゼネラルホスピタル,日本領事館,病院船(Hygeia)等を歴訪し,十四日より「ケネデー・タウン・ホスピタル」Kennedy Town Hospitalにて愈々いよいよ研究を開始した。これは元警察であったのを臨時病院とせるものである。病人は上下にて四十人許り居り英醫ラウソン氏Dr.Lawsonが治療あたり居ったのである。其病院の「ベランダ」に急造の「テーブル」をおき,青山,北里両先生は共に研究を始められた。  第一に困りたるは言葉の通ぜぬ事であった。患者の病歴や訴を聞くにしても先づ最初には日本人の通譯を傭ひたるが,恐ろしがりて直ちに逃れ去った。次には男の看護人にて印度人であったか,マニラ人であったか,其男は支那語及英語が出来たから先生の質問を先づわたしがきゝそれを看護人に話し,更に患者に傳へると云ふ方法をとった。又その時ウィリアムス獨英字書をも利用したのを記憶して居る。その男は暫くやって居ったが,その中に廣東に居れる日本人が来り,日本人だけにて通ずる様になり便利を得たのである。短時日ではあたが朝は早くから午後は遅く迄勉強したので解剖は十九體か,二十體出来た。解剖につきては相當人知れぬ苦心を経験したのであった。解剖室は實にひどきものにて物置か小使室を臨時使用したものである。(見取圖末頁掲載) 一間半四方位の處は板間,たたきの所にて青山先生が解剖せられ,上の間より宮本君かわたくしが踞しゃがんで手助けをなしたのである。どちらか一人は筆記をした。又窻からの監視者を兼ね,もし人が通れば窻を急ぎ締める役をつとめた。と云ふのは土地の人は解剖を極度に嫌忌けんきしてそれを知つたら大騒動が起りそうであったから,人目を極度に恐れたのであった。  解剖器機は一具だけしか持ち行かずメスは宿に持ち帰りて日本砥其他皮砥などを用ゐて砥ぎ,又鋸は直ちに切れなくなり困ったから,土地で一挺の外科用弓鋸を辛うじて探し当てて買求めた。脛骨を縦にひき切る事二本に及びたるがその為に宮本君と共に困難を感じたのであった。血の交りたる水の捨て處に困り考案の末「タール」を交えて色を變へ又悪臭を誤魔化して捨てる事にした。 解剖は上記の如く禁制であったから解剖するのは消毒すると云ふ名目の下に上記の部屋に持ち來り,解剖を行ったあとは看護人が充分始末して,釘附にしておくり出されたのである。  かゝる事は約二週間つゞきたるが二十八日より青山先生には終に「ペスト」に罹られ大心配をしたのであるが幸ひにして九死に一生を得られ「ペスト」研究上の立派な業績を貽のこされたのである。その日は先ず大體仕事も進行したから両先生が主人役となり香港「ホテル」に主として英国側の人々の招待會を催したのであった。 即ち政廰の関係者,市内の外人,醫師等にて研究の為に世話になった人々を招き一行は六人,客側は十二三人,全體にて二十人以内であった。所が其會が始まる前から青山先生の顔色がわるく少し熱があったので一同心配の種となり,先生がやられたのではないかと眉をひそめた。其前には日本人にて感染せるものがなかったのである。「ホテル」では,わたくしと石神氏は同室,その部屋は西と北をうけ,先生の部屋は西向きで暑かったから先づ部屋を換へる事となり先生はわたくしの「ベット」に就褥しょうじゅく註)せられわたくしは先生の「ベット」に移った。 その晩先生には苦痛を忍耐して主人の役目をはたされたが果して高熱となってそのまゝ就褥せられ,翌朝に至るも下熱しない。宴會の晩にも,カントリー氏,Dr.Cantleyは「ペスト」にあらずとした。この人は「ピーク」の上に病院を有せる有力な醫師であった。自分の病院にて治療せんと申し出たが,ラウソン氏が自分の病院船「ハイジア」號Hygeiaにて治療することになった。即ち二十九日夕刻同病院にひき移らるゝ事になった。然るにその時石神氏まだ熱なかりしが既に腋窩腺が腫れ居り,自らも違和を覚えられたと見え同時に入院を希望したが,同船へ乗る迄の気艇の中で既に悪寒あり次で発熱し,つまり同時に二人が病気となったのである。 石神氏は更衣の際二十八日夜腋窩腺に疼痛を覚えそれから注意しだしたのである。 病院船には宮本君とわたしと泊り込み,先生の看護には普通の看護人の外パアマーMiss pa’mar嬢と云ふ人が居った。それは横濱の港などをつくりたるパアマー氏の令嬢であると云ふことであった。大に親切に看護せられた。其他に英国,マニラの看護婦や支那人の看護人も居った。 青山先生及石神氏は各単独の部屋にて治療を受けられた。宮本君と私とは其の向側の室に同室して交代しつゝ看護につとめたが,顔を見せると先生には興奮されるゝ故顔をなるべく見せずして番をするやり方をとったのであった。 石神君は病勢の盛んな時に譫せん語ご注)状態になった。其頃には支那人の看護人を見れば「スパイ」と思ひ込み之を殺さゞるべからずとしたから宮本君と相談の上石神君の短刀を「カバン」の中より取り出した事を覚えて居る。石神君の方は病気が割合に軽く七月十九日わたくしが帰朝注)の途につく時は同君は神識じんしき注)既に明かになり,青山先生は熱もなく予後は確かに良きを認めたるも,大層感動性となって居られたからそれとなく暇を告げ,言葉に現はしたる挨拶はわざと避けたのである。 わたくしは卒業の試験を控へて居り,もう大丈夫なれば帰れと云ふ宮本君の言葉に従ったのである。標本は半分を持ち帰りたるが,夫は大きな缶が九つか十個あり,第二醫院におきたる故焼けたるならん。尚看護中はラウソンが八釜しく忠告しくれたるにより後には隔日に交代にて上陸した。 蠅は病院に沢山居り,陸の方は大変でケネデータウン病院には砂糖をおけば真黒になる程であった。蚊は余り気がつかず,ケネデータウン病院にお茶によばれる時は蠅が砂糖につく故,誰も砂糖は用ゐなかった。蚤もひどいことがなかった。 先生の病気と同時に,日本人の医師にて中原氏と云ふ人も「ペスト」に罹った。最後の解剖の手伝いをし宮本君かわたくしが筆記をなし,その人に臓器を洗はせる位の事をなさしめ石神氏が解剖の助手をした。その時の解剖は,あるひは肺「ペスト」ならざりしかと思ふ。その例が三人の伝染原ならざりしかと思ふ。 中原氏も感染し「ハイジア」號にて治療を受けたりしもこれは不幸にして死亡せられた。 先生は「ハイジア」號に入りてよりはわたくしと宮本氏と代りあひて材料及「プロトコル」の整理をなした。あの報告(大学紀要をさす)には先生の病気の後に代りてわたくしが記載せる為わたくしの名も残って居るのである。 北里博士は青山先生の発病後は,急造「バラック」にてその後研究を続けられた。見舞には始終来られて心配せられた。 エールサン氏はケネデータウン病院の下方にある急造「バラック」にて研究し居り,我々とは交通が殆どなかった様に思ふ。 黒井大尉(のち大将)は我々の行きたる当時一,二日彼地に居られ非常に世話になったが中川領事は北里博士の親戚の関係もあり大層よく世話をせられた。政廰及英国医師も優遇して呉れた。彼地にては既に肉眼的の所見にて種々発見する所があったが,例へば臨床上の方では譫せん語ごが患者にあるのか無いのか解らなかった。それは言葉が不通の為で青山先生などの病気で始めて譫せん語ごが解った様な次第である。万事その通りで実に隔靴掻痒かっかそうよう注)の感があった。主な研究は内地に帰られてから出来たのである。 解剖には勿論大に緊張して行ひ,又「コロヂウム」を用ひ,「ゴム」の手袋等は無かった。昇汞水にて洗ふ丈であったがその中に稀鹽酸註)を加へて使った。 × × ×  青山先生は当時三十六歳,北里博士は三十九か四十,宮本君は二十九歳位,わたくしは二十六歳,岡田氏は三十三四歳,石神君は北里氏と同年か上位ならん。 わたくしの同行した理由は野次馬的であった。研究の方式などを実際に見せて貰へれば将来の参考になると云ふ事を単純に考へ先生に懇願したのであるが,父は喜んで承諾してくれた。 その時下瀬氏(謙太郎氏)と共に同じ下宿に住み居りしが,自分は行って見ることを先づ相談し,次で先生に伺ひに行くと同時に父に電報にて返事をして貰った。 × × ×  後の事であるが看病の余暇に散歩の時上陸して見ると青山先生と石神氏の棺が用意せられてあった。立派な棺は急には間にあわぬためである。先生及石神氏は,死は免れぬものと思はれたからであった。 今から考へれば実に感慨無量で,死生の間に出入りして,それでこはいと云ふ様な感がなく,先生の病気を看病しても別に恐ろしいとは思はなかった。 尚顧みれば今日現存するのは北里男爵とわたくしのみとなったが,更に当時の事を追懐して故人のことを思ふの情洵に切なるものがある。(了)

注)

猖獗(しょうけつ):わるいものの勢いが盛んなこと。

就褥(しょうじゅく):病床に就くこと。

譫語(せんご):うわごと。神識(じんしき):意識

隔靴掻痒(かっか・そうよう):靴の外部から足のかゆい所をかくように,はがゆく,もどかしいことをいう。[広辞苑]

稀鹽酸(きえんさん):希塩酸

注)木下正中が帰京したのは、7月23日7)。

♪木下正中が下瀬謙太郎の妹・泰子やすこと結婚したのは,明治26(1893)のことで,香港へ向かう一年前のことでした8)。香港へペスト研究に向った夫の帰りを信じて待つ,妻の気持ちはいかばかりであったでしょう。強い気持ちを感じます。長女の篤子(とくこ)をさずかったのは,明治28年(1895)になってからのことでした。

下瀬謙太郎は,『近代名醫一夕話』の北里柴三郎の座談会(昭和12年[1937]6月1日)に参加して,木下正中とのペスト時代のことを述べていますが,このことについては,稿をあらためます。

♪座談なかで,木下正中は,長與又郎や林春雄の質問にこたえ,青山胤通と石神亨に対して,どのような治療をしたかなどについても,述べています。

♪座談会の記録は,香港で、青山胤通と行動を共にした木下正中自身が語る「香港ペスト研究」の貴重な史料となっています。 (続く)

参考文献

1) 『長與又郎日記(上)』(小高 健編 学会出版センター 2001)


2) 『長與又郎日記(下)』(小高 健編 学会出版センター 2002)


3) 『近代名醫一夕話』(日本醫事新報臨時増刊)(梅澤彦太郎編 日本醫事新報社 昭和12年)


4) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本医事新報 第1369号, pp.1928-1930. 昭和25年.

5) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(2).  日本医事新報 第1370号, pp.1995-1998. 昭和25年.

6) 中瀬安清. 北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで. 日本細菌学雑誌 50(3):637-650, 1995.

7) 木下氏の帰京. 東京醫學會雑誌 8(15):707.8) 『先徳遺芳』(木下文書)(木下 實編)(私家版・平成23年7月):第三部(附録)「木下凞ひろむ・正中・東作の略年譜」.

(平成24年6月10日 入梅の日 記す)(平成31年2月28日 追記)

62.香港ペスト研究一行の記念写真が撮影された年と場所を特定

前回、明治27年(1894)に香港にペスト研究に行った北里柴三郎、青山胤通、木下正中ら一行が、帰国後に撮影した集合写真を紹介しましたが、その写真がいつ、どこで撮影されたものか、不明でした。

調査の結果、以下のように開催年月日と場所を特定しましたので、その経緯を追ってみます。

香港遠征者紀念會(石神亨 離京記念)( 中川 恒次郎慰労会)

開催年月日: 明治29年(1896)10月17日

場所: 日本橋偕楽園

参加者:木下正中,宮本叔,石神亨,青山胤通,北里柴三郎,岡田義行(内務省衛生局)と黒井悌次郎(のちの海軍大臣),中川恒次郎(香港在住一等領事・外交官),高田畊安

後列左から:岡田義行・木下正中・石神亨・宮本叔
前列左から:高田畊安・北里柴三郎・中川恒次郎・黒井悌次郎・青山胤通

♪ペスト研究のために木下正中が青山胤通に,石神亨が北里柴三郎に随行して横濱から香港へ向けて出帆したのは,明治27年(1894)6月5日のことでした。

木下正中(写真:木下實氏提供)

海軍時代の石神亨(出典:『故石神亨紀念誌』6)

♪日清戦争の直前のことです。7月25日には豊島沖(ほうとうおき)で海戦(高陞号こうしょうごう事件)が起こり,2年におよぶ戦争がはじまります。緊迫した戦時状況下で,内務省にとっては,ペスト検疫がいかに重要な問題であったかがわかります。ペスト(黒死病)は,戦争と同様に国を滅ぼすほどの脅威であったのでしょう。

♪当時,香港領事であった中川恒次郎は,日本国に向う船舶の検疫について下記のような電報(明治27年5月12日付)[上陸ヲ禁スルニ若ラス]を陸奥大臣宛てに発していました。この段階では,まだ,伝染病がペストであるとの認識はなかったようです。

当地支那人労働者中ニ流行ノ伝染病ハ餘リ猛烈ナルモノト思ハレス去リナラカ若シ貴大臣ニ於テ香港ヨリ支那労働者ヲ搭載シテ本邦海口に来ル船舶ヲ検査スルコトヲ適当ナリト思セラレ候ハヽ其ノ上陸ヲ禁スルニ若ラス

♪5月22日付の電報では,乗組員の上陸について[当分禁セラルヽヲ可トス]と報告しています。10日前の電文とは違って,緊迫感が感じられますが,それでも,次第に治まるのではないかと思っていたようです。

景况続テ同様ナリ昨正午迄二十四時間内ニ新患者三十一名死亡三十四名治療中ノモノ五十九名,此四日間大雨アリ為衰况ヲ呈スヘシト信セラル,支那移住人ノ上陸ハ尚ホ当分禁セラルヽヲ可トス

♪伝染病の種類が不明だったため陸奥大臣は中川香港領事に調査を命じます。その結果,伝染病がペスト(黒死病)であることがわかり(5月13日付電報),ペストに対する検疫は,明治15年(1882)に布告された「虎列刺コレラ地方ヨリ来ル船舶検査規則」が適用されることになります。(勅令第五十六號 5月25日)

♪5月28日:芳川顕正(内務大臣臨時代理司法大臣)が伊藤博文(内閣総理大臣)へ「黒死病調査として中央衛生會委員派遣の件」を提出します。北里柴三郎,青山胤通の派遣が正式に決定されます。このとき,「調査條件」とそれに伴う「予算」も決められました。当初の予定では,滞在日数は30日間を予定していたようです。

調査條件

一.現流行區域ノ地理殊ニ醫學ニ関スル地學上ノ調査

二.支那地方ニ於ケル本病ノ来歴及諸統計

三.病原病理及病徴

四.今回廣東及香港ニ發生ノ原因及現時流行傳播ノ系統

五.現流行病ニ對シ實施シタル諸豫防法及其成績

六.本病ニ対スル豫防消毒ノ研究

費用豫算

貮千六百拾七円二十銭

(備考)滞在日數ハ三十日ト豫定シタルモ調査上ノ都合ニ依リ多少ノ伸縮アルヘシ

♪6月5日(香港ペスト研究一行横濱港出帆):ペスト感染の危険のある地域に飛び込んでゆくことになります。香港行の決断は,木下正中,石神亨にとっても,研究のためとはいえ,覚悟を持っての行動であったといえるでしょう。医学・医療に対する真摯な精神が感じられます。

◆◆◆

♪記念撮影の写真について、文献調査を続ける過程で,同一の記念写真が,いくつかの論文1)2)3)や記事(座談会)4)のなかで使われていることを知りました。有名な記念写真であったようです。

♪文献によって,記念写真の撮影年の記載が違っていました。明治27年(1894)とするものと明治28年(1895)とするものとがありました。どちらが,正しい撮影年なのか,特定できる文献はないか,探索してみることにしました。

文献1)・文献2) 「本邦に於けるペスト研究の偉業」(1)(2)(村山達三著)1)2)(

♪「本邦に於けるペスト研究の偉業」(村山達三著)に掲載されている記念写真には,「ペスト研究記念撮影(明治廿八年)」のキャプションがつけられています。撮影は,香港行の一年後の明治28年(1895)となっています。

文献3) 「北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで」(中瀬安清著)3)

♪中瀬論文のなかに掲載された記念写真のキャプションでは,「香港派遣ペスト調査員とその関係者(1894年撮影 北里研究所所蔵)」とされていました。撮影されたのは明治27年(1894)となっています。香港に行ったその年に記念撮影が行われたことになります。

文献4)「青山胤通先生」(座談会の口絵)4)

♪この座談会の口絵としても、同じ記念写真が掲載されています。そのキャプションは,「香港ペスト研究當時の記念撮影」となっていて,撮影時期や場所などの説明はありません。

♪記念撮影がされたとされる明治27年(1894)から明治28年(1895)にかけては,日清戦争の時期にあたります。明治27年(1894)の開戦当時,海軍にいた黒井悌次郎や香港領事であった中川恒次郎が,会合に出席できたのだろうか。さらに,撮影が明治27年(1894)だとすると,ペストに罹患して帰国した青山胤通や石神亨の両名が,会合に出席できるぐらいまで快復していたことになります。

♪日清戦争や個人的な健康状況から,明治27年(1894)から明治28年(1895)にかけて,香港ペスト研究の関係者が会合を持つことには,無理があるように感じていました。

♪また,中瀬論文の写真のキャプションには,「北里が石神の送別会を催し当時の関係者を招いた時の記念写真」とあります。石神の送別会のためだけの理由で黒井悌次郎や帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)の関係者までもが出席しただろうか。石神の送別のほかにも会合を催す理由があったのではないだろうか。疑問が広がっていきました。

♪木下實先生から北里柴三郎記念室の展示室(北里本館1階)にも同じ記念写真が展示されているとのご教示をいただきました。記念室の大久保美穂子さんを紹介されて訪ねることにしました。

♪檀原宏文先生と森孝之先生が迎えてくださいました。檀原先生からは『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)にも,同じ記念写真が載っていることを教えていただきました。

文献5) 『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)5)

♪『藤野・日本細菌学史』に掲載されている記念写真は,大阪大学微生物病研究所図書館分館内に「石神文庫」として残された石神亨の関係資料の原図から採られたもののようでした。

♪写真のキャプションには「石神亨 離京の記念写真」とあり,解説文がつけられていました。石神自身によると思われる添え書き(手書き)をもとに藤野がまとめたもののようです。

石神亨 離京の記念写真

石神の文章によると「一昨年ペスト病原探究のため香港に赴いた同行者一同が,石神が大阪に移るので,中川恒次郎香港領事と領事館の黒井海軍大尉を招いて記念撮影をのこし,偕楽園で宴を開いた。青山と石神がペスト感染,その見舞に香港へ来た高田耕[畊]安はこの会に出席したが,高木友枝は九州出張のため欠席」

♪藤野による解説文のなかには,一昨年とあります。ペスト研究のために香港に渡ったのは明治27年(1894)のことですから,この記念写真は,明治29年(1896)に撮られたことになります。添え書きの部分に,年月日を特定できることが書いてあるのではないかと思い拡大して見てみました。

石神亨によると思われる記念写真の添え書き

♪添え書きの部分は,印刷が不鮮明で,判読できないところが多いのですが,かすかに「明治廿九年十月十□日」の文字が読み取れました。□の部分は,七か八か判断に迷いました。

♪元の手書きの添え書きを確認できないか。「石神文庫」のなかに写真と添え書きの原図が残っているのではないか。大阪大学微生物病研究所図書室に問い合わせてみました。大阪大学生命科学図書館まで探していただきましたが,残念ながら原図は発見できませんでした。

♪北里柴三郎,青山胤通,黒井悌次郎,中川恒次郎など,医学界,海軍,領事を代表する人々が出席した会合です。当時の医学雑誌(新聞)にも記事が載っているのではないか。明治29年(1896)10月に発行された雑誌を調べてみることにしました。

♪東京大学医学図書館へ行って,まず『東京医事新誌』を調べてみることにしました。東京大学医学図書館は,外部にも公開されていて,雑誌のバックナンバーを閲覧・複写することができるのです。

♪探しているような記事は,目次に索引されないのが一般的です。一冊ずつ雑報記事欄を見ていきました。第969号に「香港遠征者紀念會」という記事を見つけました。こんなにすぐに,目的の記事が見つかるとは思ってもいませんでした。

♪「香港遠征者紀念會」によると,明治27年(1894)当時,香港領事であった中川恒次郎を慰労するために日本橋偕楽園に会合(明治29年[1896]10月17日)を持ったとありました。

♪中川恒次郎7)は,文久3年(1863)3月東京の生れ,明治17年(1884)7月東京大学政治理財科を卒業後,大蔵省に入り,領事館書記生としてシンガポールを振り出しに釜山,元山,香港,タウンズビル,シドニー,ワシントン,ニューヨークなどを勤務地とした人物です。香港に着任したのは,明治27年(1894)1月16日のことでした。

♪同じ号(第969号)の雑報記事欄に「岡田黒部両氏送別會」の記事もありました。この時期は,後藤新平が台湾総督府衛生顧問嘱託になった時期にあたります。領事にも異動があったようです。中川恒次郎は,明治29年(1896)1月20日に豪州タウンズビル,ウィール府駐在一等領事を委任されていました。そして,香港へ内務省から派遣された岡田義行は,台湾総督府民生局総督部衛生課員として同年11月初旬に台湾に派遣されることになっていました。

♪岡田義行と黒部島吉の送別会は,「香港遠征者紀念會」が開催された二日後の10月19日に,後藤新平,北里柴三郎,青山胤通も出席して,下谷松源楼で開催されました。

♪石神亨が東京を離れて大阪に向った時期は,香港に同行した人々の新たな旅立ちの時期にあたっていました。記念写真を残した「石神亨 離京の送別會」は,中川恒次郎の慰労と岡田義行の送別を兼ねて開催した「香港遠征者紀念會」でもあったのです。記念写真は、青山胤通と北里柴三郎が,気持ちをひとつにして同席した貴重な記念写真となりました。

♪石神亨6)は,明治29年(1896)2月に軍艦武蔵を退艦し海軍大学校教官となっていましたが,6月15日横須賀病院に赴任後,病気引退しています。大阪に転じたのは,10月19日のことでした6)。「香港遠征者紀念會」(石神亨送別會)の二日後には離京したことになります。

♪この時,すでに大学を卒業して福島病院副院長になっていた木下正中も上京して「香港遠征者紀念會」に出席しています。正中は,翌明治30年(1897)に,独逸に留学しますので,正中にとっても,新たな出発を想い,記念写真におさまったのではないでしょうか。

明治29年(1896)10月17日:香港遠征者紀念會:日本橋偕楽園
(石神亨 離京記念)( 中川 恒次郎慰労会)

 参加者:木下正中,宮本叔,石神亨,青山胤通,北里柴三郎,岡田義行(内務省衛生局)と黒井悌次郎(のちの海軍大臣),中川恒次郎(一等領事・外交官),高田畊安

明治29年(1896)10月19日:岡田義行・黒部島吉送別會:下谷松源楼

 参加者:岡田義行,黒部島吉,後藤新平,北里柴三郎,青山胤通,石黒五十二など多数。

♪「香港遠征者記念會」が開催された日本橋の偕楽園は,どの辺りにあったのでしょうか。日本橋界隈の散歩が,続きます。

参考文献

1) 村山達三.本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本医事新報 第1369号, pp.1928-1930. 昭和25年.

2) 村山達三.本邦に於けるペスト研究の偉業(2).  日本医事新報 第1370号, pp.1995-1998. 昭和25年.

3) 中瀬安清. 北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで. 日本細菌学雑誌 50(3):637-650, 1995.

4) 「青山胤通先生」pp.7-pp.46.『近代名醫一夕話』(日本醫事新報臨時増刊)(梅澤彦太郎編 日本醫事新報社 昭和12年)

5) 阪大微研図書館分館内の石神文庫:『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)pp.229-234.

6) 『故石神亨紀念誌』(石神研究所同窓會 大正十年発行)

7) 山本四郎.領事中川恒次郎について.史林 68(2):313-329, 1985.

(平成24年12月23日 記 平成31年2月22日 追記)

61.木下正中の香港行き:「ペスト研究記念撮影」(明治廿八年)


 
♪戦後の『日本醫事新報』誌を,一冊一冊,探索するなかで,「本邦に於けるペスト研究の偉業」(1)(2)(村山達三著)という文献をみつけました。1)2)

♪そのなかに,明治28年(1895)に撮影された「ペスト研究記念撮影(明治廿八年)」と題した集合写真がありました。


ペスト研究記念撮影(明治廿八年)1)
後列左から:岡田義行・木下正中・石神亨・宮本叔
前列左から:高田畊安・北里柴三郎・中川恒次郎・黒井悌次郎・青山胤通

♪木下正中(せいちゅう)3)(当時醫科大學4年生)が,ペスト(黒死病)の調査・研究のために青山胤通(たねみち)4)5),北里柴三郎6)7)8)に随行して,香港(英領)に渡ったのは,明治27年(1894)6月のことですから,記念写真は,帰国後,翌年に撮られたものと思われます。明治28年(1895)といえば,陸奥むつ宗光むねみつが外務大臣を務めていた時代にあたります。

♪明治27年(1894)5月末,清国(広東地方)と香港にペストが流行し,船舶の検疫が行われていました。ペストの流行は,外交・軍事上の問題でもありました。(清国及香港ニ於テ流行スル伝染病予防ノ為メ船舶検疫ヲ施行ス)

♪香港でのペスト患者数を,中川香港領事は,内務省に明治27年(1894)5月27日発の電報で次のように報告しています。

[在香港中川領事 一千八百九十四年五月二十七日発]

五月二十一日正午まで患者およそ三百四十名,死亡二百七十一名,爾後二十六日正午まで死亡百十四名,治療中の者七十二名,目下衰況に傾けりと信じらる。


内務省(絵葉書)(平成26年6月26日 追加)


♪記念写真には,青山胤通,北里柴三郎のほかに,木下正中(せいちゅう)(のち東京帝國大学醫科大學・産科学婦人科学教室教授),宮本叔9)10)(のち東京駒込病院長),高田畊安(こうあん)11)(のち茅ヶ崎・南湖院長),石神亨(とおる)12)(海軍軍医・のち大阪濱寺石神研究所[石神医学紀念研究所]),黒井悌次郎(ていじろう)(のち海軍大将),中川恒次郎(つねじろう)(香港領事),岡田義行(内務省事務官)の9名が写っていました。

♪村山達三の論文には,記念写真の出典についての説明はなく,具体的な撮影場所・日時などは不明です。撮影された明治28年(1895)当時の医学雑誌や新聞記事を調査する必要がありそうです。

♪前列に,黒井悌次郎,中川恒次郎を挟む形で,青山胤通,北里柴三郎が和服姿で着席しています。黒井悌次郎は軍服姿です。スタジオ撮影のようにも見えます。

♪記念写真に納まっている9名のうち,香港に派遣されたのは,青山胤通,北里柴三郎,宮本叔,木下正中,石神亨,岡田義行の6名でした。

♪「黒死病調査トシテ中央衛生會委員派遣ノ件」(明治27年5月28日)と題する公文書が国立公文書館に残っており,デジタルアーカイブスになっていました。

♪この公文書は,内務大臣臨時代理司法大臣の芳川顯正(よしかわ・あきまさ)から内閣総理大臣の伊藤博文宛に出されたもので,ペスト調査のための香港派遣は,内務省の中央衛生會委員であった北里柴三郎(内務技師醫學博士)と青山胤通(醫學教授醫學博士)の2名であったことがわかります。

♪内務省(伝染病研究所)からは,北里柴三郎(病原菌追及)を,文部省(大學)からは,青山胤通(病理・臨床)を派遣したともいえそうです。公文書の最後の部分に,青山胤通の嘱託派遣について,文部大臣に了解を得ているとの記述があります。あくまでも,香港への派遣は,内務省の所管であったことがわかります。

醫科大學教授醫學博士青山胤通派遣嘱託之儀ハ文部大臣ヘ協議済ナリ

♪ドイツ留学から帰国した北里柴三郎が大日本私立衛生會の委嘱により同會設立の伝染病研究所所長となっていたのは,明治25年(1892)11月30日,香港行きの2年前のことでした。

♪安西安周(医史学者)は,「東都掃苔記」の連載記事13)で「木下家の墓」を取り上げるとき,木下正一(せいいつ)(正中の長男)を訪ねて,木下正中の日記のなかに,香港行きの記述をみつけています。


木下正中の日記の一部(明治27年5月28日)13)

青山氏香港行ノ事ヲ聞キ随行を許サルルヤヲ問フ,自費ナラ可ナラントノ答ヲ聞ク 直チニ京都ニ書状ヲ発ス

♪息子・正中(せいちゅう)からの香港行きについて書状を,父・凞(ひろむ)は,どのような気持ちで読んだのでしょうか。後年,凞が記した「木下凞翁懐旧談」14)15)のなかに,その思いの一端が記されていました。

正中香港行に際し恰あたかも卒業の期に達したれば程なく一医学士の資格を得るものなり。殊に遠航をもなす身なれば余の身体自覚に煩ふ所なきも不知しらず不識しらずの中に内臓の疾病あるや図るべからず。一応診察を這げ置くは汝の業務上将た孝養上の本意なるべしとて診察せしめたるに思ひきや心臓に疾患あらんとは即大動脈口及僧房弁に噪鳴を聴取するとて正中の驚愕痛心一方ならざりしも自覚に今何の苦悩なき以上は急に障害を起すに至らざるべし。此病を認めたる以上は十分攝養を探るべし。躊躇せず旅装を整ふべしとて其行を奨めました。航路は横濱より解かい䌫らん[とも綱を解くこと]するとならば見送の為め東上の次でを以て「ベルツ」教師に診ひ大動脈口硬變の診断を受け猶軽症なれば善く攝生をなせ急變はあるべからずと懇癒せられ其意を諒して帰西せり。

♪凞は,正中の香港行きにあたって,健康診断を受けさせていました。その結果,大動脈口および僧房弁に心雑音があることわかります。とくに日常生活に障害はないことがわかりましたが,念のためベルツにも診察を受けています。

♪ベルツの診断は,「大動脈弁口硬變」。軽症とのことで,旅装を整え,香港に向かわせることになるのです。正中のペスト調査に対する真摯な思い,なにより父の子に対する慈しみの心,そして,患者さんに対する慈愛の精神が,正中の香港行きを実現させたのではないでしょうか。

♪新橋停車場,横濱港からの出発の様子を新聞は,次のように報じています。

北里,青山両博士が香港へ出発[明治27年6月6日 時事]

黒死病調査のため,香港へ派遣の命を受けたる内務技師北里柴三郎,医科大学教授青山胤通の二氏は,随行四名とともに,昨日午前八時五十分新橋発の汽車にて出発したり。同停車場まで二氏に行を見送りたるものは,長與宮中顧問官,三浦東京府知事,帝国大学の博士,学士,芝区衛生會員等を始めとして,朝野の人士無慮三百名。二氏の一行は横浜に赴き,同港を昨午後三時に出帆する仏国郵船に乗り込むはずにて,同船は神戸へちょっと立ち寄るのみにて,香港へ直行するものなりという。

♪一行は,6月12日に香港着。14日から英医ラウソン(Lowson, James Alfred [1866-1935])らと協力して,調査・研究に取り掛かることになるのですが,その1週間後の6月20日午後,日本では,地震(明治東京地震)が起こりました。そのときの模様をベルツは日記のなかで次のよう記しています16)。

六月二十二日(東京)[日付は原文のママ]

午後二時半強震。もう一揺れ揺れたら東京の過半は崩壊した事であらう。・・・余が家は幸にして何事も無かった。木材の骨組を有する日本家屋と和洋折衷の家屋とは損害最も軽微なることが明かにされた。これは家屋構造に対する一教訓であろう。


ペスト流行当時・香港市街焼払いの惨状(出典:「青山胤通」)4)

♪香港で,調査・研究にあたっていた青山胤通と石神亨がペストに感染して死線を彷徨するという事態が発生します。6月28日の夜,香港ホテルで開催された晩餐會の席上で青山胤通は体調を崩します。木下正中と宮本叔は,その前から,なんとなく,青山の体調の変化に気づいていました。

♪青山胤通は,その時のことを次のように,記しています2)。

解剖を終り予は午後二時半頃頗る著明に食事の美ならざるに気付きたり。食後階段を登る際或る腕の運動に際して左腋窩に於いて軽度の疼痛を覚えたれば,・・・食事は味なく衰弱疲労を覚え屡々帰宿せんと思惟せりき。

♪正中の明治27年(1894)6月28日と29日の日記には,次のように記されています。医学生が教授を診ている緊迫した様子が伝わってきます13)。

明治27年6月28日

青山博士本日午後来左腋窩ニ疼痛腺腫ヲ覚エ,尋テ夜少シク発熱ス。キニーネ1.0頓服

明治27年6月29日

青山博士解熱セズ

♪青山胤通の伝記4)のなかにも,ペスト研究・発病時の木下正中の活躍が描かれています。

・さて先生が作業を進めるに当って第一の困難は言語の点で,初め日本人の通弁を傭ふたが,伝染を恐れて逃げ出してしまうた。幸ひ男の看護人で英語と支那語の解るものがあったから,先生の質問を木下氏が聴き,それを看護人に話し,更に看護者に伝へるといふ方法を取った。

・先生はラウソン氏の勧めを容れ,二十九日の夕刻汽艇に乗って同氏所有の病院船ハイジア号に移ることとなり,同船に石神氏も希望に依って同船に入院した。病院船では宮本,木下両氏が同室して代る代る先生と石神氏を看護し,其の傍ら材料及びプロトコールの整理や報告書等の仕事もしなければならぬので,夜もおちおち眠れぬ程忙しかった。

・病院の物置部屋と小使室を臨時解剖室に使用し,一間半四方位の板の間に屍體を横たへ,其の傍らに棺を置き,先生がタタキに立って解剖するのを上の板の間から宮本氏若くは木下氏が踞んで助手を勤め,そして何方か一人は日誌を書くのであった。

♪青山胤通,石神亨がペストに罹患したことは,日本国内でも,大きく取り上げられる事態となります。

青山博士,石神助手がペストに感染,重態[明治27年7月3日 時事]

黒死病取調べのため先般北里博士と共に香港に赴きたる医学博士青山胤通氏並びに海軍大軍医研究所助手石神亨氏は,黒死病に罹りたる旨,一昨日,北里博士より内務省へ電報ありしよし。

青山博士,危篤状態に[明治27年7月8日]

北里博士より昨七日午前八時二十二分香港発にて,高田衛生局長に達したる電報は,左のごとし。

青山,昨夜より心臓の働きはなはだ悪し。一昨六日午後発の電報は,二人とも快方に赴くとあり。かつ北里博士は,日を期して帰朝の途に上るとまで決心するほどなれば,快復の見込み充分なりしものと見えたるに,わずか一夜の中に容体一変したるこそ,誠に歎わしき次第なれ。しかし治療,看護ともに怠りなければ,快方に赴くその望みなきにあらざるへし。

♪大學(東京醫學會,國家醫學會,學士會)からは高田畊安11)を,伝染病研究所からは高木友枝17)を,急遽,現地に向わせることになります。

♪高田畊安と石神亨が知り合ったのは,このときのことで,病院船ハイジア内のことでした。

♪高田畊安は,京都府醫學校を明治17年に卒業(第1回生)し,その後,さらに東京大学医学部に進んだ人物です11)18)。香港のペスト流行に際して『黒死病論』(高田耕注)安編述 医海時報社,明治27年7月6日発行)を著しています。

注)畊安と耕安:「こうあん」名前の漢字表記:戸籍上は,「畊安」ですが,「畊」には,新字体の「耕」をあてることもあり,本人自身も「耕安」の文字を使うことがあったそうです11)。

♪高田畊安は,重症の脚気を患ったとき,同志社に新島襄にいじまじょうを訪ねて,同志社教会に通い,明治15年(1882)7月にラーネッド牧師より洗礼を受けています。

♪東京に出た高田畊安は,下谷教会伝道師・東京YMCA幹事であった木村熊二(西片町10番地)が明治21年(1888)5月13日に組織した「大学基督教青年会」に参加しています。この会員には,のちに各方面に活躍した人々が多く,木下正中,下瀬謙太郎,藤浪鑑の名前もみえます19)。

♪石神亨(熊本医学校出身)もクリスチャンになった人で京都の佐伯理一郎(熊本医学校出身・同志社病院長・京都看病婦学校長)と親交がありました12)。

♪高田畊安の実父は,増山守正(丹波・綾部藩の典医)20)で,維新後,畊安が学んだ京都府医学校の事務取扱を務め,その後,上京して帝室博物館歴史部勤務となった人物です。漢文の基督教解説書『天道溯原』を畊安に勧めたといわれています11)。

東京帝室博物館正面之圖(絵葉書):コンドル設計(明治14年)の旧東京帝室博物館(震災で倒壊)
♪高田畊安は,明治25年(1892),勝海舟の孫・疋田輝子と結婚し,ペスト騒動が起こった明治27年(1894)の12月には,海老名えびな弾正だんじょう(熊本洋学校出身)が関係した本郷教会の婦人部の要請により,看護法学習会を開催しています11)。

♪高木友枝17)は,伝染病研究所に勤務したのち,台湾総督府医院長兼台湾総督府医学校長となった人物です。

♪木下正中は,卒業試験を控えていた関係で,研究標本の一部を携えて,香港を単身で出発,長崎経由で,無事に東京に戻りました。卒業試験に合格後,正中は,スクリバの弟子になりました3)4)。

♪軽症であった石神亨は,発病後,3週間を経ると意識も快復して痛みも減じます。帰国後,京都に佐伯理一郎を訪ねて,木下正中への感謝の気持ちを次のように述べています21)。

石神氏は帰朝の後具さに当時の模様を私に話して曰く,あの時若もしも木下さんが居なかったら,看護は皆英語の人而已のみなりし故,我々の不自由は実に言語に盡つくされませんでした。

♪佐伯理一郎と正中の父・木下凞とは,半井澄の紹介で親交を持ち,杉田家や木下家の屋敷跡がある若狭小濵へも,避暑に行っていたそうです21)。

♪青山胤通も,腺腫の切開を27か所も行い,神経衰弱になるなど,重態だったのですが,九死に一生を得て,無事に快復。病後の衰弱をおして8月21日香港を出発,8月31日に帰国しています。帰国後は,佐藤三吉(外科)の助手(久保郁蔵)をつれて,箱根塔ノ澤に2週間静養しています。

青山博士も全治,帰国[明治27年9月1日 東京日日]

医科大学教授正六位勳四等賜旭日小綬章医学博士青山胤通氏は,昨日を以って香港黒死病戦地より凱旋したり。

♪木下正中の同期に北島多一(のち北里研究所長・慶應義塾大学医学部長)がいます。北島は,木下が亡くなったとき,その追悼記事のなかで,香港行きについて触れています。同級生の北島の木下への思いが伝わってきます22)。

君は卒業の前年,青山先生が北里先生と共に香港のペスト研究に行かるゝを聞くや,奮然随行を志願し許されて同行したが,青山先生の罹病となり其の報告の為に早く帰られた。然し此の研究に学生として参加する如き一寸驚くべき行動も,学生も其位の元気がなくてはいかぬと,吾々は大いに敬意を表したので

あった。

♪北里柴三郎と北島多一の伝染病研究所が内務省から文部省に移管されたのは,記念写真が撮られた明治28年(1895)から19年後の大正3年(1914)のことです。(勅令 第二百二十一号)北里柴三郎は,北里研究所を創設し,青山胤通が第2代所長となった伝染病研究所は,のちに東京大学医科学研究所へと形を変えていくことになります。

♪木下正中の長男・正一(せいいつ】の長女・恵子の夫は,内田清二郎(東大伝研教授・予研部長)です。さらに,正中の六女・弘子(ひろこ)の夫となる川喜田愛郎(よしお)23)が,東京帝国大学を卒業して,長與又郎が所長(第4代)を務める「東京帝国大学附属伝染病研究所」に入ったのは,昭和7年(1932)のことでした。

♪川喜田愛郎は,昭和24年(1949)12月には,千葉大学へ移り,細菌学教室を主宰して,のちに千葉大学学長(第5代)を務めました。正中の伝染病への思いは,娘婿たちに引き継がれていくことになります。

♪「木下正中の香港行き:「ペスト研究記念撮影」(明治廿八年)」と題する一枚の写真は,後世のわれわれに,いろいろなことを,語りかけてくれます。香港でともにペスト菌と戦った医家達は,その後,それぞれの道を,それぞれの信念を持って歩み,医療・研究に携わることになります。

(敬称は省略させていただきました。)

(平成23年8月28日 記す)(平成31年2月20日 追記)

参考文献

1) 村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本醫事新報 第1369号 PP.32[1928]-34[1930] 昭和25年7月22発行

2) 村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(2). 日本醫事新報 第1370号 PP.31[1995]-34[1998] 昭和25年7月29発行

3) 木下實著:「木下正中」(私家版・電子版)

4) 「青山胤通」鵜崎熊吉著. 青山内科同窓会,昭和5年発行(非売品)

5) わが師わが友(1):青山胤通先生(稲田龍吉著).  日本醫事新報 第1242号 pp.22[22]-23[23]. 昭和23年1月1日.

6) 「北里柴三郎伝」宮島幹之助編輯. 北里研究所,昭和7年発行(非売品)

7) 「北里柴三郎と緒方正規 日本近代医学の黎明期」野村 茂著. 熊本日日新聞社,平成15年.

8) わが師わが友(2):北里柴三郎博士(中山壽彦著).  日本醫事新報 第1243号 pp.14[66]-15[67]. 昭和23年1月21日.

9) わが師わが友(14):宮本叔先生(村山達三著). 日本醫事新報 第1256号 p.13[545]. 昭和23年5月22日.

10)東都掃苔記(61):宮本 叔博士の墓. 日本醫事新報 第1643号,p.48.(昭和30年10月22日)

11)「南湖院 高田畊安と湘南のサナトリウム」(茅ヶ崎市史ブックレット 第5集)茅ヶ崎市史編集委員会編. 大島英夫著. 茅ヶ崎市発行,平成22年(3刷).[入手先:茅ヶ崎市史ブックレット]

12)「故石神亨紀念誌」石神研究所同窓會発行編輯. 大正10年12月15日発行.

13)東都掃苔記(77):木下家の墓. 日本醫事新報 第1659号 p.60. 昭和31年2月11日発行.

14)木下凞ひろむ翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

15)木下凞ひろむ翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

16)「ベルツの『日記』」濱邊正彦譯. 岩波書店刊,昭和14年.

17)わが師わが友(58):高木友枝さんの思出(荒井 恵著). 日本醫事新報 第1301号 p.19[615]. 昭和24年4月2日.

18)「京都府立醫科大學八十年史」京都府立醫科大學創立八十周年記念事業委員會編輯. 昭和30年8月1日発行.

19)「日本YMCA史」奈良常五郎著. 日本YMACA同盟,1959.

20)東都掃苔記(69):増山守正翁の墓. 日本醫事新報 第1651号 p.66. 昭和30年12月17日発行.

21)木下正中君を悼む. 佐伯理一郎著. 産婦人科の世界 3(3):17-19, 1952(昭和27年3月)

22)木下正中博士の想い出(その一)北島多一著. 日本醫事新報 第1446号 pp.63[179]-64[180]. 昭和27年1月12日発行.

23)人-153-:川喜多愛郎氏. 日本醫事新報 第1342号, p.72[148].(昭和25年1月14日)(川喜多の「多」の字は「田」の誤記。川喜田が正しい)

60. 小樽行:小樽公園内の啄木歌碑

場 所:小樽公園:北海道小樽市花園5丁目

建 立:昭和26年11月3日(小樽啄木歌碑建設期成會)

小樽公園(戦前・絵葉書)

 

こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて

死なむと思ふ

 

🌸🌸

♪北海道へ行った折,小樽に立寄り石川啄木の歌碑を探してみることにしました。小樽には,いくつか啄木の歌碑が点在するようですが,今回は,そのなかで小樽公園の歌碑を見ることにしました。

小樽観光協会

♪何年振りでしょうか。羽田空港から空路,北海道に渡りました。新千歳空港に降り,すぐに空港ビルの地下からJR北海道の快速エアポートに乗り継ぎで,小樽に向かいました。

♪エアポートは,千歳線の新千歳空港駅から北広島駅,札幌駅を経由して,函館本線に進入する快速電車です。銭函ぜにばこ駅から浅里駅間は石狩湾を望む波打ち際を走ります。車窓からみる海岸線の風景は素晴らしいものでした。啄木がみた風景です。銭函駅は,映画「駅/STATION」のロケ地としても有名な駅です。

♪小樽駅の一つ手前の南小樽駅で下車、駅前からタクシーで小樽公園に向かいました。小樽の町を,ゆっくり散策しながら,歩いて公園まで向かえばよかったのですが,陽が落ちないうちに,歌碑をみつけたいと思い,タクシーを利用しました。

♪はじめての土地へ行って,時間の制約のなかで,目的の歌碑や石碑をみつけるのは,そう簡単なことではありません。最近では,ネット上に,いろいろな方が,歌碑の訪問記を書かれていますので,それを頼りに探すことができるようになりました。

♪小樽公園内の啄木の歌碑は,公園入口左手の広場の奥に建てられていました。自然石(仙台石)の立派な歌碑でした。歌碑の背景には,黄葉の木々がみえ,午後の柔らかな日差しを浴びて,静かに建っていました。

石川啄木歌碑(小樽公園内)(平成22年10月16日 堀江幸司撮影)

♪碑陰に回ってみました。次のような説明文が刻まれた石版がはめ込まれていました。

 


明治四十年九月末小樽日報創業に招

かれ詩人石川啄木は来樽した 在社

三ヶ月志望の記者生活を快よく働い

て独特の健筆を揮った 其頃を追想

した「かなしきは小樽の町よ歌ふこ

となき人人の声の荒さよ」は今も市

民に愛誦されて居る 翌年一月漂遊

を続け釧路新聞に轉じたが四月素志

を遂げ上京し困窮の生活を闘ひなが

ら不朽の彼の文學を築き上げた 明

治四十五年四月十三日薄倖不遇の生

涯を終ったのは二十八歳である

彼が愛し懐しんだ小樽の市民はこの

永遠に若い詩人を讃頌して記念の歌

碑を建立した

昭和二十六年十月

小樽啄木歌碑建設期成會

撰文 小樽啄木會

放書 宇野 靜山

施工 田村 孝雄


♪説明文のなかには,啄木が「小樽」を読み込んだ歌が,市民に愛誦されているとあります。啄木を愛する小樽の方々のかなしい思いが伝わってくるようです。


かなしきは小樽をたるの町よ

歌ふことなき人人ひとびとの

声の荒あらさよ


♪啄木が小樽に滞在したのは,明治40年(1907)9月27日から明治41年(1908)1月19日までの3か月ほどのことでした。その間「小樽日報」の記者として活躍しています。その後,「釧路新聞」での記者の仕事を得ますが,そこでの生活も長くは続きませんでした。上京を決心するのは,その年の4月23日のことです。旭川経由の釧路行は,啄木にとって,最果ての地への旅と感じられたようです。

♪啄木は,冬の暗く,寒い時期を小樽で過ごしたことになります。函館,札幌,小樽,釧路での北海道の生活は,啄木にとって,経済的に余裕のあるものではなく,精神的にも快いものではなかったようです。

🌸

♪啄木の日誌(日記)4)5)を見てみます。


明治40年 (1907) 22歳

9月27日:札幌―小樽:社の方より給料まだ出来ざれど,西堀君に立かへて貰つて小樽に向ふこととせり。午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし,汽車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し,銭函をすぎて千丈の崖下を走る,・・・潮みちなば車をひたさむかと思はる。海を見て札幌を忘れぬ。

なつかしき友の多き函館の裏浜を思出でて,それこれを過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。

姉が家に入れば母あり妻子あり妹あり。

10月2日:小樽:出社す。夕方五円だけ前借し黄昏時となりて,荷物をばステーションの駅夫に運び貰ひて,花園町十四西沢善太郎方に移転したり。室は二階の六畳と四畳半の二間にて思ひしよりよき室なり。ランプ,火鉢など買物し来れば雨ふり出でぬ。

11月6日:小樽:花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る。

12月26日:小樽:日報社は未だ予にこの月の給料を支払はざりき。

明治41年 (1908) 23歳

1月18日(釧路への旅立ち):小樽に於ける最後の一夜は,今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つて行くべき手廻りの物や本など行李に収めて,四時就床。明日は母と妻と愛児とを此地に残して,自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ!!


♪啄木は,小樽について次のように書いています。(「小樽日報」第1号 明治40年10月15日)

「予は飽くまでも風の如き漂流者である。天下の流浪人である。小樽人と共に朝から晩まで突貫し,小樽人と共に根限りの活動をする事は,足の弱い予に到底出来ぬ事である。予は唯此自由と活動の小樽に来て,目に強烈な活動の海の色を見,心の儘に筆を動かせば満足なのである。・・・予が計らずも此小樽の人となって,日本一の悪道路を駆け廻る身となったのは,唯気持ちが可いのである。」

♪「小樽日報」には,野口雨情とともに入社します。三面を担当することになるのですが,小樽に来る前の札幌で,北門新聞社の校正係の仕事を紹介したのは,雨情でした。「札幌時代の石川啄木」と題して,啄木の印象を次のように書いています。啄木の様子をよく著していますので,少し長くなりますが,引用しておきます6)。


 

ある朝,夜が明けて間もない頃と思ふ。

『お客さんだ,お客さんだ』と女中が私を揺り起す。

『知つてる人かい,きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある,啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが,与謝野氏の明星で知つてゐる。顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの浴衣ゆかたに色のさめかかつたよれよれの絹の黒つぽい夏羽織を着てはいって来た。時は十月に近い九月の末だから,内地でも朝夕は涼し過ぎて浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない,殊に札幌となると内地よりも寒さが早く来る,頭の刈方は普通と違つて一分の丸刈である,女中がどこかの寺の坊さんと思つたのも無理はない。

『私は石川啄木です』と挨拶をする。
『さうですか』
私は大急ぎに顔を洗つて,戻つて来ると,
『煙草を頂戴しました』と言つて私の巻煙草を甘うまさうに吹かしてゐる。
『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』
『煙草を売つてませんか』
『いや売つてはゐますが,買ふ金が無くて買はれなかつたんです』と,大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は何時も大きな声で笑ふのだ,この笑ふのも啄木の特徴の一つであつたらう。


♪釧路には,小奴こやつこがいました。雨情は釧路時代の啄木について「石川啄木と小奴」のなかで,次のように書いています7)。


石川は人も知る如く,その一生は貧苦と戦って来て,ちょっとの落付いた心もなく一生を終ってしまったが,私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であったやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽くしてくれたからである。・・・いはば石川の釧路時代は,石川の一生中一番興味ある時代で,そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感じるのである。


🌸

♪小樽は詩集『雪明りの路』で知られる伊藤整の故郷でもあります。その伊藤整が『日本の詩歌 5 石川啄木』1)の巻末に「詩人の肖像」と題して,啄木について語っています。伊藤整の小樽への想いが,重なります。

小樽文学館


「函館に渡り,その町の弥生小学校の教員となった。間もなく函館の大火にあい,札幌に移り,さらに小樽,釧路と新聞記者としての生活を一年ほどした。その間彼は,ほとんど詩歌の制作から離れ,新聞に雑文を書き,田舎新聞記者としての粗暴な生活をつづけ,筆は荒れた。」

「正岡子規は啄木より二十年前に,歌を写生という真実に結びつけることで甦らせた。啄木は,歌をその時その人の心の短いつぶやきたらしめることによって,もっと大きな生命を与えたのである」


♪その後、啄木は、釧路から岩手県宮古浜むかう帆前船に乗って上京。その様子は、雨情によると、「おおきな声ではいはれませんが、こつそりと夜だちしてしまつたのです。」経済的に苦しかったは、啄木は、あちこちで、不義理を重ねていたようです。

♪森鴎外が中心となって発刊された新雑誌「スバル」で,木下杢太郎(太田正雄),吉井勇とともに同人となったのは,明治42年(1909)1月のことでした8)。

♪生涯,経済的に恵まれずに,あこがれの東京で,病に倒れ,才能ある啄木の未来が断ち切られたのが,惜しまれます。啄木が,小石川(現・東京都文京区5-11-7)で亡くなったのは,明治45年(1912)4月13日のことでした。27歳の若さでした。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

♪小樽駅から小樽運河へつながる大通り(中央通)に面したお寿司屋さん(おたる大和家)に入って,昼食のランチの握り寿司を注文しました。ご主人が秋刀魚の握りを食べさせてくれました。やはり,港町小樽の新鮮な魚介類のお寿司は,一味,違いました。

♪小樽と言えば,硝子工芸が有名です。中学生のころ,しなびた温泉宿でみたランプの明かりが,蘇ります。しずかに舞い落ちる雪の降る寒い朝の廊下の隅を,ぼんやりとしたランプの光りが照らしていました。

♪小樽駅から小樽運河へと続く中央通りを下って,色内2丁目の交差点を右折。境町本通りに入り,北一硝子に向かいました。通り沿いには,北一硝子の各店舗のほかに,小樽オルゴール堂など,お洒落な店々が立ち並んでいます。昔の街道筋の面影が残ります。お目当ての硝子細工の品はありませんでしたが,硝子の持つロマンチックな温もりを感じることができました。

 

♪メルヘン交差点から坂道を上りつめると,海が見えてきます。冬になると雪の嵐がくるのでしょうか。海から山がせりあがる小樽の港町を感じられる風景です。

♪盛岡・滝沢村での雪のある生活に慣れていた啄木でも,冬にこの坂道をのぼるのは辛かったのではないでしょうか。小樽の浜から風に舞い上がる雪は,身に沁み入るものだったことでしょう。

♪南小樽駅から千歳空港にもどりました。備後屋民藝店の岡田弘(ひろむ)さんに教えてもらっていた札幌に本店のある青盤舎(せいばんしゃ)の空港内の売店(千歳店)に寄ってみました。手作りの優佳良織のキーホルダー(北海道伝統美術工芸村)とアイヌ木彫の靴ベラを購入しました。

♪空港内の売店を,いろいろ見て歩いていると,小樽硝子を扱う「小樽工藝舎」のお店があることに気づきました。この売店に,小樽で探し回っていた硝子細工の小物がありました。「小樽工藝舎」の本店は,小樽運河のほとりにあるそうです。次回は,札幌の青盤舎とともに,小樽運河工藝館も,是非,訪ねてみたいと思います。(小樽運河工藝館は、東日本大震災後の平成23年11月に閉館。青盤舎は平成24年閉店。)

🌸

♪帰途、雨が降り始めました。雲の上にでると,茜色の夕陽のなかに富士山が黒く浮かんでいました。羽田上空,トワイライトの夕暮れのなかを,飛行機は,暗闇で明るさを増した誘導灯を目標に降下しはじめました。誘導路が,小樽の雪明りの路のようにもみえました。

♪新鮮な作物,そして自然が豊かな小樽。いずれは,生まれ育った駒込を離れて,水と空気が綺麗で,食べ物の美味しい,静かな北海道の地方都市で暮らしてみたい,そんな贅沢な幻想を持った小樽行となりました。

 

参 考 文 献

1)『日本の詩歌 5 石川啄木』. 中央公論社,1967.

2)『石川啄木歌集(日本詩人選 04)』. 久保田正文編. 小沢書店,1996.

3)『石川啄木』 新潮社,2002.(新潮日本文学アルバム 6)

4)『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』. 筑摩書房,1980.

5)『石川啄木全集 第六巻 日記Ⅱ』. 筑摩書房,1980.

6) 野口雨情著:「札幌時代の石川啄木」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.420-425,

7) 野口雨情著:「石川啄木と小奴」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.329-336,

8)『石川啄木全集 第八巻 啄木研究』. 筑摩書房,1980.

9) 『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986.)

(平成22年11月27日 記す)(平成30年9月26日 追記)

59. 盛岡行(4):啄木、旅立ちの停車場:好摩ケ原

♪石川啄木が、東京で文学で身を立てることを夢みて、故郷の渋民村(しぶたみむら)(現・玉山区渋民)から「好摩ケ原」を抜け、向かった先が好摩(こうま)ステーションでした。明治35年(1902)10月30日のことです。まだ、16歳の少年でした。

好摩が原(絵葉書)

♪啄木は、その日の朝のことを、次のように記しています。

 

明治35年10月30日

「朝。故山は今揺落の秋あはたゞしう枯葉の音に埋もれつゝあり。霜凋の野草を踏み泝瀝の風に咽んで九時故家の閾を出づ。愛妹と双親とに涙なき涙にわかれて老僕元吉は好摩ステーションまで従へたり。

かくて我が進路は開きぬ。かくして我が希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。」

♪当時、啄木が生活していた渋民には停車場はなく、渋民駅ができたのは、昭和25年(1950)になってからのことです。戦前の「好摩ヶ原」の様子を写した絵葉書によると、「好摩ヶ原」には、鈴蘭が群生し、白樺の林もあったようです。


好摩ヶ原

鈴蘭と白樺の林

霜ふかき好摩の原の

停車場の

朝の蟲こそすずろなりけり

ふるさとの停車場路の

川ばたの

胡桃の下に小石拾へり

千萬世のむかし、天の穂の

露ひと雫野に落ちて

うるほひ沁みし惠まれの、

さは、花穂のくはし芽の

花とし咲くや、世々に、また

今もよ咲ぬ。野はひろく、

空蒼き世に、朽ちぬ日の

常磐心のときめきに。

「野の花」の一節    啄 木


♪白樺林を抜ける風。陽の光。鈴蘭などの花々。岩手山。春には、花々のなかを何千何万もの蝶が舞う。そして爽やかな夏が過ぎ、秋も終りの頃の季節。啄木は、ひたすら、東京への道を、決意を持って、霧の深いなか、好摩ステーションへと向かったのでしょう。上り汽車を待ちながら、蟲の声を聴き、歌を詠んでいた16歳の少年の姿が想像されます。

🌸🌸🌸

♪盛岡行きの上り列車が来るまでに40分ほど、待ち時間があるので、駅周辺を歩いてみました。駅のまわりは、住宅街となっていて、「好摩ヶ原」の面影は感じられませんでした。

好摩駅プラットホーム(平成21年3月23日 堀江幸司撮影)

♪好摩駅から盛岡へ帰る途中の車窓からは、雑木林などが見え、ゆっくり、散策すれば、まだまだ、この辺りでは、啄木の時代の自然を肌で感じることが、できるのではないか、と思いました。車中、おばあさんたちが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本対アメリカ戦のことを、東北弁で話しているのが印象的でした。

🌸🌸

♪東日本大震災後(平成23年3月)、5月15日には好摩駅舎が整備され、以前、駅構内にあった啄木歌碑は新駅舎2階の切符購入室内に移されているとのことです。(参考:「たかしの啄木歌碑礼賛」)

 

参考文献

『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』 筑摩書房、1980.

(平成21年3月24日 記)(平成30年9月19日 追記)

58. 盛岡行(3) 啄木、結婚前後の書簡より:駒込神明町442番地:駒込吉祥寺の側

♪啄木が駒込神明町にみつけたという新居となるはずの家は、どんな家であったのでしょうか。明治38年(1905)5月11日に牛込から出した上野広一宛の書簡に啄木は次のように書いています。1)

牛込より:5月11日 上野広一宛

「・・・家はもう見付けた、駒込神明町四百四十二番地の新らしい静かな所、吉祥寺の側に候。ヒドクよい所に候。炊事係の婆さんも頼んで置き候。兄を迎ふる時、青葉の中の我が新居、久し振りに画の話しでも可仕候。・・・」

 

11日夜 中館兄の机の上にて 啄木生

「・・・せつ子には御伝へ被下度候。天下の呑気男なる啄木の妻となるには、駒込名物の薮蚊に喰はれる覚悟で上京せなくてはならぬと。家の取片付け済み次第、せつ子を呼び寄せるつもりに候。ザット一週間の後ならむ。皆様に御心配かけたる段は真平御免。 小生の呑気にもあきれ候。しかし之れも一興也」

♪啄木が書簡を出した相手の上野広一(うえの・こういち)(1886-1964)は、中学時代の友人で、堀合節子との結婚に際して仲人を務めた人物で、のちに洋画家を目指して、同郷の政治家原敬の援助でフランスに留学しました。

♪当時の駒込神明町の天祖神社(神明社)周辺は、樹木も多く、春には杏や梅の花々が咲き乱れ、鶯のさえずりが聞こえるような、のどかで、自然に満ちあふれた場所でした。駒込名物の薮蚊も多かったことでしょうが、春になると、花々の間を、沸き上がるように、蝶たちが飛び交っていたのではないでしょうか。

♪『 明治四十年一月調査 東京市本郷區全圖』によると駒込神明町422番地は、岩槻街道(本郷通り)から天祖神社に向かう道の右手、現在、文京区立第九中学校が建っている先あたりです。近くには、もと鷹匠屋敷(避病院[東京都立駒込病院]の場所)もありました。相馬事件にも登場する富士神社の近くでもあります。

 

東京市本郷區全圖(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)


駒込天祖神社(神明社)

 

東京都立駒込病院(堀江幸司撮影)

富士神社(堀江幸司撮影)(平成28年10月

♪駒込吉祥寺の前を通る道が、岩槻街道[現在の本郷通り]です。街道をニ本榎のある西ヶ原一里塚の方向へと進むと、藍染川(現在の霜降り橋交差点)を過ぎたあたりから、樹木の陰で暗闇となるような淋しい場所も、まだまだ、残っていたようです。

♪駒込神明町442番地からは、森鴎外の住む観潮楼(駒込千駄木町21)、高村光太郎の住居(駒込千駄木林町)にも近く、啄木にとって、駒込という場所は、文学の香り高い場所であったのかもしれません。

♪そんな駒込神明町442番地での新婚生活をあきらめて、啄木は、上野から仙台経由で、ふるさとの好摩に向かうことになります。手紙からは、啄木の故郷を思う気持ちとともに東京での生活を諦め切れない思いも感じられます。盛岡での自分の結婚式に出ずに好摩に向かうのです。花嫁にはなんとも残酷なことでした。

 

仙台より:5月22日 金田一京助宛

「ふる里の閑古鳥聴かむと俄かに都門をのがれ来て、一昨夕よりこの広瀬川の岸に枕せる宿に夢の様なる思いに耽り居候、月末までには再び都門に入るつもり、この落人の心のかずかず、うさたのしさハ凡て故里より申上げ候」

好摩より:5月30日[結婚式の当日]上野広一宛

「友よ友よ、生は猶活きてあり、
二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。
三十日午前十一時十五分
好摩ステーションに下りて はじめ」

 

参考文献

1)『石川啄木全集 第七巻 書簡』(筑摩書房 1979)

(平成18年5月30日 記)(平成30年9月14日 追記)

57. 盛岡行 (2)盛岡『啄木新婚の家』と故郷・好摩

啄木新婚の家

場 所:盛岡市中央通三丁目17―18
電 話:019―624―2193

 

♪石川啄木が、婚約者の堀合節子と帷子小路(かたびらこうじ)八番戸(現在の中央通三丁目)で新婚生活を送ったのは、明治38年(1905)6月4日から24日までの3週間のことでした。

♪結婚式は、5月30日に行うはずでしたが、啄木は処女詩集『あこがれ』を東京で出版して帰郷する途中に、仙台で仙台医学専門学校(のちの東北大学医学部)に在学中の郷友の猪狩見竜、小林茂雄に合い、結婚式には帰りませんでした。

東北帝国大学医学部正門(絵葉書)

♪啄木との結婚に反対する友人たちに節子は、そのときの気持を手紙のなかで、次のように述べています。

「吾はあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候」

♪級友上野宏一の媒酌による「花婿のいない結婚式」が行われることになりました。

♪この明治38年(1905)1月には、父一禎(いつてい)が宗費滞納で曹洞宗(寶徳寺)の住職を免じられる問題がおき、帷子小路の新居には、妻節子のほかに、両親と妹光子が一緒に住むことになります。

盛岡渋民村寶徳寺

♪夫啄木の家族と住むことからくる節子の心労は、新婚当初より、大変なものだったに違いありません。

♪実は、啄木は、新婚生活を東京の本郷・駒込吉祥寺(きちじょうじ)に近接した貸家で送る予定でした。その場所は、駒込神明町442番地(現在の東京都文京区本駒込三丁目の天祖神社[神明社]の近く)であったといわれています1)。しかし、この駒込神明町の新居については、東京での新婚生活を切望していた啄木の嘘であったともいわれています2)。

♪駒込吉祥寺は、啄木の母カツの兄・仏禎(ぶつてい)=対月(たいげつ)が、5年間に亘って役僧を勤めた寺で、現在、その境内には、経蔵が残っています。

駒込吉祥寺山門(堀江幸司撮影)

 

駒込吉祥寺の鐘楼と經堂(堀江幸司撮影)

駒込吉祥寺經堂(堀江幸司撮影)

♪啄木は、あこがれの新天地、本郷・駒込神明町で新婚生活をはじめながら、詩壇への道を歩みたかったのかもしれせん。それが叶わず、故郷に帰り、好摩(こうま)の停車場に下り立った啄木の気持ちはどんなだったのでしょうか。

🌸🌸

♪好摩駅構内にあるという啄木の歌碑を探しに行きました。好摩駅は、盛岡駅から「いわて銀河鉄道」(盛岡駅ーー目時駅)に乗って6つ目の駅です。

盛岡(もりおか)

青山(あおやま)

厨川(くりやがわ)

巣子(すご)

滝沢(たきざわ)

渋民(しぶたに)

好摩(こうま)

岩手川口(いわてかわぐち)

いわて沼宮内(ぬまくない)

御堂(みどう)

奥中山高原(おくなかやまこうげん)

小繋(こつなぎ)

小鳥谷(こずや)

一戸(いちのへ)

二戸(にのへ)

斗米(とまい)

金田一温泉(きんたいちおんせん)

目時(めとき)

 

🌸🌸🌸

♪好摩の駅舎は、昔ながらの雰囲気を残す駅舎で、待合室には、ストーブが置かれ、駅員さんも、一人しかいません。駅前には、古びた駅前食堂がひとつあり、赤い郵便ポストと一台の客待ちのタクシーが印象的でした。

好摩駅前(平成21年3月23日 堀江幸司撮影)(平成23年の東日本大震災後、この建物は取り壊され、現在は新駅舎になっています)

♪駅員さんに、好摩の駅にあるはずの、啄木の歌碑についてたずねてみました。改札口を入った駅舎際(構内)にあることを、とても親切に教えてくださいました。石に刻んだものではなく、木に書いたものでした。

場所:岩手県盛岡市好摩字上山2-14 好摩駅構内

建立:昭和29年4月(木製)

 

啄 木

露ふかき好摩の原の

停車場の

朝の虫こそすずろなりけれ

 

参考文献

1)「石川啄木の誕生と駒込(文京区)」:ホームページ:

2)昆 豊著:『警世詩人 石川啄木』新典社、1986.

3)『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986)

(平成18年5月20日 記)(平成30年9月11日 追記)

56. 盛岡行 (1)『啄木盛岡駅前歌碑』

場 所:盛岡駅東口・駅前広場

啄 木

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 

碑陰

石川啄木五十回忌記念

盛岡市

盛岡啄木会

協賛 興産相互銀行

昭和三十七年十一月

🌸🌸🌸

♪5月の連休を利用して盛岡に行ってきました。石川啄木にゆかりの地を少し訪ねてみようと、思いきって遠出することにしました。

♪6日(土)の午後、東北新幹線「はやて23号」(上野15:02)八戸行きで盛岡に向かいました。盛岡着は17:22。宿は、いつもは民芸品を扱う光原社分店が一階にある「北ホテル」に泊まることが多いのですが、今回は、駅に隣接している「ホテルメトロポリタン盛岡(本館)」にしました。

光原社本店(材木町

 

ホテルメトロポリタン盛岡(本館)

場 所:岩手県盛岡市盛岡駅前通1―44
電 話:019―625―1211

♪夕食の場所は、東京を発つ前に、「和かな」(ステーキ・鉄板料理)を予約しておきました。「和かな」は政府登録国際観光レストランだそうで、岩手県産の前沢牛と三陸産の海の幸を、カウンター前の鉄板で直接、シェフが調理してくれます。コースのものを頼みましたが、さすがに国産の本物は違いました。お店の雰囲気といい、味といい絶品でした。

和かな
場 所:盛岡市大沢川原1―3―33
電 話:019(653)3333

♪翌朝、駅ビルのなかにある観光案内所に行き、盛岡市内の観光案内地図(『歩いてたのしむまち 盛岡 MAP』)をもらいました。地方都市の史跡などの写真を撮りに行くときは、できるだけ、地元の観光案内所に立寄ります。新鮮な情報を得ることができるからです。係りの方に「でんでんむし」と名付けられた「盛岡都心循環バス」があることを教えていただきました。

盛岡の観光

駅前広場(バスターミナル)に降りて、早速、「でんでんむし」の一日乗車券(大人300円)を購入しました。

「でんでんむし」バス停の名前

(1)盛岡駅東口(『啄木盛岡駅前歌碑』

(2)旭 橋

(3)材木町南口

(4)啄木新婚の家口(『啄木新婚の家』)・・・・・→(『北風に立つ少年啄木像』



(5)中央通三丁目

(6)中央通二丁目

(7)中央通一丁目

(8)岩手医大前

(9)本町通一丁目

(10)上の橋

(11)上の橋町

(12)若園町

(13)バスセンター(神明町)

(14)バスセンター(中三前)(もりおか 啄木・賢治青春館

(15)県庁・市役所前

(16)岩手公園(『啄木歌碑』

(17)菜園川徳前

(18)柳新道

(19)開運橋(『啄木であい道』


(20)盛岡駅東口(『啄木盛岡駅前歌碑』)

♪盛岡駅東口の駅前広場は、チューリップで埋まっていました。綺麗に咲いています。チューリップの背景となる駅ビルの正面に「もりおか 啄木」の文字が掲げられています。この文字は、啄木自筆の文字を集字して使用されたものだそうです。盛岡の方々の気持がいまに伝わってくるように感じました。

♪盛岡駅東口の駅前広場に石川啄木の歌碑が建っています。これは、石川啄木の50回忌を記念して、昭和37年(1962)11月に盛岡市と盛岡啄木会によって建立されたものです。

♪この歌碑は、啄木の歌碑のなかでも最も大きなもので、東北新幹線の開通に伴う駅前の改修工事の際に、一時的に盛岡市立図書館内に移されました。工事終了後に駅前にもどされることになるのですが、歌碑の重量が25トンもあり、安全を考えて開運橋を通らず、新築の旭橋を通ってもどされたとのことです。

♪「ふるさとは遠きにありて思うもの」と歌った詩人(室生犀星)もいますが、ふるさとの山や川の風景は、どんな環境にあっても、わすれることができるものではないのでしょう。ふるさとの風や水の流れは、体感となって、いつまでも、五感に残っているのではないでしょうか。

 

参考文献

『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986)

 

 

(平成18年5月8日 記)(平成30年9月8日 追記)

55. 啄木、入院中の歌より

♪啄木は、入院中に、いろいろな歌を創っています。当時の看護婦、回診してくる医者の様子、家族のこと、自分のからだのことなど、薄暗い病室の寝台の上で、経済的な心配をしながら、歌っています。

♪啄木は、大の愛煙家だったようですが、病院での小さな自由のひとつは、病室の窓にもたれて、煙草を吸うことだったようです。その気持ちも、歌っています。

♪歌のなかに、寝台(ねだい)という言葉が使われています。狭い日本家屋に住んでいた啄木にとっては、寝台の上が、一時的ではあったにしろ、自分に居場所ができたように感じたのかもしれません。

♪病院の夜。それは、夜明けを待つ、長い時間です。西洋的な寝台の上で、ふくれた腹を撫でながら、母と妻子のこと。経済的なこと。創作活動のこと。それらを、思い悩みながら、生活の糧のひとつとして、必死で歌を創っていたのかもしれません。

♪当時の内科病室は、現在の竜岡門(当時は南新門)を入って、4つ角を過ぎた右手にありました。中央道路を挟んで前には、運動場が広がっていました。深々とした夜には、病棟の廊下に灯る電球の光を見て、眠れぬ夜を過ごしたのではないでしょうか。

石川啄木が入院していた当時の東京帝国大学構内(出典:「東京帝国大学一覧 明治42年から明治43年」)(国立国会図書館デジタルコレクション

東京帝国大学運動場

明治末の赤門

 

重い荷を下ろしたやうな
気持なりき、
この寝台(ねだい)の上に来ていねしとき。

病院に入りて初めての夜といふに
すぐ寝入りしが、
物足らぬかな。

晴れし日のかなしみの一つ!
病室の窓にもたれて
煙草を味ふ。

ふくれたる腹を撫でつつ、
病院の寝台に、ひとり、
かなしみてあり。

目をさませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて夜明くるを待つ。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな。

(平成17年5月21日記)(平成30年8月30日 追記)

◆◆

♪入院生活中の啄木の心配事は、経済的のことのほかに、妻と母のいさかいが、常に頭の中にあったようです。寝台の上に、自分の身の置きどころを見い出しながらも、いまごろ、妻と母は、どのように過ごしているか、気掛かりでたまらなかったようです。

 

もうお前の心底をよく見届(みとど)けたと、
夢に母来て
泣いてゆきしかな。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我(われ)にかへりけるかな。

解けがたき
不和(ふわ)のあひだに身を処(しょ)して、
ひとりかなしく今日(けふ)も怒(いか)れり。

 

♪また、入院中は、看護婦や医者の態度やひとことが、気にかかるものです。からだの痛みにたえながら、啄木は、ひとり、長い時間を過ごしながら、回診にくる医者になんて言ってやろうか、考えてもいたようです。

 

そんならば生命(いのち)が欲(ほ)しくないのかと、
医者に言はれて、
だまりし心!

脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり。

ぢつとして寝(ね)ていらつしゃいと
子供(こども)にでもいふがごとくに
医者のいふ日かな。

廻診(くわいしん)の医者の遅(おそ)さよ!
痛(いた)みある胸に手をおきて
かたく眼をとづ。

 

(平成17年12月23日 記)(平成30年8月30日 追記)