友愛書房: 場 所:東京都千代田区神田神保町1-44 電 話:03-3291-6327♪台風20号の接近の影響で、東京は、強風が吹き荒れ、雨も一時期、強く降りました。そんな悪天候のなか、昨日の午後、神田神保町にあるキリスト教専門書店の「友愛書房」に行ってきました。「友愛書房」では、古書のほかに新刊書も扱っています。 ♪なぜ、そんな悪天候の日に、行ったのかというと、『基督教会(ディサイプルス)史』(秋山操編著 基督教会史刊行委員会 1973)の取り置きを、今月末までの約束で、お願いしてあったからです。
♪巣鴨駅前から白山通りを後楽園遊園地(東京ドーム)方向に進み、水道橋を渡ってガードをくぐると、右側に東京歯科大学水道橋病院があります。神保町交差点に向かう三崎町交差点界隈は、以前と随分、変わりました。古書店に変わって、ドラックストアや飲食店が多くなり、昔の趣のある雰囲気は少なくなってしまったようです。 ♪水道橋駅から神保町交差点に向かう白山通りの左側の一帯は、明治のはじめから猿楽町と呼ばれていました。猿楽(さるがく)(のちの能楽)の家元・観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷がこの辺りにあったことから、猿楽町の名が起こったそうです。 ♪染井霊園にお墓のある水原秋櫻子(豊)の水原産科婦人科病院(明治28年創立)は、この猿楽町12番地にありました。現在の日本大学経済学部のあたりと思われます。
♪水原秋櫻子のことなどを考えながら、カトリック神田教会(CATHOLIC CHURCH OF ST.FRANCIS XAVIER)の近くの路上パーキングに車を止めて、水溜りを気にしながら、白山通り沿いの「友愛書房」に向かいました。日本大学経済学部の並びです。
♪「友愛書房」には、学生時代に混声合唱をやっていたこともあって、ミサ曲やグレゴリオ聖歌など、合唱曲の演奏資料を探しに来たことがありました。30年以上も前のことです。お店の中は、昔と変わらない雰囲気でした。 ♪『基督教会(ディサイプルス)史』を入手しようと思ったのは、そのなかに、染井霊園の外人墓地にお墓のあるローダスカ・ワイリック(Loduska J. Wirick)(1856-1914)についての記載があることを知ったからです。 ♪はじめは、ワイリック女史のことではなく、慶應義塾大学に『解體新書』を寄贈した杉田つる氏(杉田玄白の子孫)のことを調べていて、『杉田つる博士小傳』(石原兵永編 杉田追悼文集刊行会 1958)という書籍が「友愛書房」にあることを知り、インターネット経由で購入しました。 ♪『杉田つる博士小傳』で、杉田つる氏が、医者であり、信仰に生きたキリスト信者であったことがわかってきて、自然と、宣教師で看護婦でもあったワイリック女史のことが浮かびました。(連載第66回、第67回) ♪ワイリック女史について、再調査したところ、文献として『基督教会(ディサイプルス)史』が見つかり、「友愛書房」に在庫があったというわけです。 ♪『杉田つる博士小傳』を、インターネットで探し当てたお陰で、その線上で、ワイリック女史の資料を発見することができ、30年振りの「友愛書房」への訪問に繋がったのです。 ♪「友愛書房」に行った日は、ちょうど、第48回神田古本まつりの期間中(平成19年10月26日-11月1日)で、『基督教会(ディサイプルス)史』を、割引価格で購入できたのもラッキーでした。 ♪神保町交差点の岩波アネックスビル2階にある「秦川堂書店」(関連第123回)も覗いてみたかったのですが、雨が強くなりはじめたので、次回の散歩に回すことにしました。小説家・逢坂剛さんのお気に入りだという喫茶店「ラドリオ」(神田神保町1-3)の探訪も次回の楽しみにとっておくことにしました。 (平成19年10月28日 記)(平成29年8月9日 追記) |
26. 「解体新書」慶應義塾大学メディアセンター:〔2〕『解體新書』(邦訳本) 杉田つる氏寄贈本
慶應義塾大学メディアセンター:〔2〕「解体新書ほか(解剖学コレクション)」:『解體新書』 杉田つる氏寄贈本
♪慶應義塾大学でデジタル化された『解體新書』『解躰約圖』に、「昭和21年6月21日 杉田つる氏寄贈」の受入印がありました。杉田つる氏とは、杉田玄白と関係ある方ではないかと思って、調べてみました。
♪『解體新書』を慶応義塾大学に寄贈したのは、杉田玄白の子孫で医者の杉田つる(鶴子)(1882-1957)だと思われます。
杉田家々譜
初代 杉田 玄伯 後改甫仙,元禄十五年始メテ酒井候ノ醫官トナル
二代 杉田 伯元 後改甫仙
三代 杉田 玄白 名翼,號鷧齋又九幸 始テ蘭書ヲ翻譯シ解體新書ヲ刊行ス,
享保十八年九月十三日生,文化十四年四月十七日卒,八十五歳
四代 杉田 玄白 名勤,號紫石,始メ伯元,後玄白ニ改ム,實ハ奥州一ノ
関田村右京太夫侍醫建部清庵五男ニシテ,鷧齋ノ長女ヲ
妻トシテ養子トナリ家ヲ継ク
五代 杉田 白玄 紫石ノ二男(長男ハ二十一歳ニシテ歿ス),明治七年卒,
六十九歳
六代 杉田 玄端9) 白玄ノ養子ナリ,幕府ニ召サレテ一家ヲ為ス
★玄端の息子(二男)の雄が杉田つるの父にあたる★
七代 杉田 武 玄端ノ長男ニシテ家ヲ嗣ク,現ニ東京ニ在リ
♪明治38年(1905)、大阪市私立關西醫學院に入学。父の雄(いさお)の死後、東京の私立日本医学校(現・日本医科大学)に転学し、明治41年(1908)医術開業試験に合格。東京帝國大學醫科大學小児科教室(弘田長〔つかさ〕教授)の研究生となり、傍ら明治44年(1911)2月に新花町(本郷二丁目)で小児科医院を開業していたことがわかりました。また、杉田鶴子は、女流歌人でもあり、キリスト信者でもありました。昭和15年(1940)には、歌集『菩提樹』を出版しています。
♪日本女医会とも関係があったようです。『日本女医会雑誌』の発行人を務めています。発行人の住所は、新花町39番地(現在の文京区湯島の東京ガーデンパレス裏の蔵前橋通り側の辺り)となっています。
♪東京女医学校(現・東京女子医科大学)の創設者である吉岡彌生とも関係があったようで、『愛と至誠に生きる 女医吉岡彌生の手紙』(酒井シヅ編 NTT出版 2005)のなかにも、登場します。
♪昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により自身の医院と監督していた本郷三丁目の日本女医会事務所を失い、二宮に軍事保護院相模保育所を開設します。保育所は、終戦後も国立東京第一病院付属相模保育所として存続され、昭和21年(1946)3月からは、同病院二宮分院となり、杉田鶴子は、その主任医師として、再出発したようです。『解體新書』が慶應義塾大学に寄贈されたのは、この時期かと思われます。
♪杉田鶴子が勤務した国立東京第一病院二宮分院は、昭和40年(1965)4月国立小児病院二宮分院として、組織替えとなります。さらに、国立小児病院二宮分院は、平成14年(2002)3月1日に、国立療養所神奈川病院と統合され、現在は、独立行政法人国立病院機構神奈川病院となっています。
♪杉田鶴子に関しては、日本女医会での活躍など調べたいことも多く、稿をあらためます。慶應義塾大学に寄贈された『解體新書』に話をもどします。
♪杉田つる氏が寄贈した『解體新書』の巻之四の奥付をみると、京都(三條通御幸町角)の書籍出版 発行所 大谷仁兵衛の印があります。この印や、奥付にある赤字の「距今茲昭和六年実百五十七年」の書き入れをみると、この『解體新書』は、安永3年(1774)から代々杉田家に伝わっていたものではなさそうです。
♪表紙裏にも、岡田信利(杉田玄白・玄孫)による赤字(昭和6年1月)の書き込みがあります。大正12年9月1日におきた大震災により焼失した和蘭訳本を2年後に和蘭海軍軍医から東京帝国大学へ長與又郎教授を通じて寄贈されたこと、独逸語原本も独逸から寄贈を受けたことが書かれています。
♪杉田家に代々伝わっていた杉田玄白による『解躰新書』(邦訳本)も大震災によって焼失したので、昭和のはじめに京都の書肆である大谷仁兵衛から入手したのが杉田玄白の玄孫・岡田信利であったのかもしれません。
★★
♪『解體新書』の現代語訳である『新装版解体新書』(酒井シヅ訳 講談社 1998講談社学術文庫1341)と全復刻を含む『解体新書と小田野直武』(鷲尾厚著 翠楊社 1980)という書籍があります。どちらも、『解體新書』を知る基本資料と思われます。
♪『解体新書と小田野直武』には、『解體新書』の序圖一巻中の序文・自序・判例・跋文の漢文からの書下し文があり、参考になります。
♪『新装版解体新書』の巻末に小川鼎三先生が解説として「『解体新書』の時代」の一文を寄稿されています。そのなかに次のような一説があります。
「・・・・・『解体新書』は付図もふくめてすべて木版である。初版が何部刷られたのか判明しないが、おそらく需要がかなり大きく、ひきつづきいく度か増刷されたようで、後には版木がだいぶ痛んでいたと思う。その点に留意して、なるべく最初の刷りに近いものをと考え、序図は慶応大学北里記念図書館所蔵のものを原本として選んだ。」
♪小川鼎三先生が原本として選んだ『解體新書』の付圖を、慶應義塾大学信濃町メディアセンターに所蔵するアナトミアコレクションのなかで、確認することができるわけです。こんなにすばらしいことはありません。
♪適塾で蘭學を学んだ福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)(1835-1901)(中津藩)の精神をみる思いとともに、現代から未来に、それを新しいIT技術で伝えて行く図書館員の努力が重なってみえてくようです。
♪『古醫書目録』(改訂版 慶應義塾大学北里記念医学図書館 1994)によると、慶應義塾大学では、『重訂解體新書(ちょうてい・かいたいしんしょ)』も所蔵しているようですので、いずれ、アナトミアコレクションとして、デジタル化されるのではないかと思われます。(2017年8月現在、デジタル化は済んでいます。)
♪『解體新書』を大槻玄沢(おおつき・げんたく)(1757-1827)(一関藩)が訳し直して、文政9年(1826)刊行した『重訂解體新書(ちょうてい・かいたいしんしょ)』は、慶応義塾大学のほかにも「東京大学医学図書館デジタル史料室」のなかでも、デジタル化されています。また、『解體新書』が刊行される前年の安永2年(1773)に「解体新書」の内容見本として出された「解體約圖」も、東京大学附属図書館の電子展示のなかでみることができます。
♪杉田玄白と吉岡彌生とが、『解體新書』を慶應義塾大学に寄贈した杉田つる氏を通して、繋がってくるとは、思ってもいませんでした。やはり、本郷界隈は、「江戸東京」の散歩のポイントには、事欠かない地域であるようです。
(平成19年9月23日 秋分の日 記)(平成29年8月8日 追記)(令和4年6月29日 リンク見直し)(令和5年11月8日)
25. 「解体新書」:慶應義塾図書館:〔1〕「解体新書(アナトミア)」 藤浪氏蔵本:独逸原本、蘭訳本、ラテン語本
慶應義塾大学メディアセンター:〔1〕「解体新書(アナトミア)」 藤浪氏蔵本:独逸原本、蘭訳本、ラテン語本
♪『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年〔1774〕)は、ドイツ人のヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus〔1689-1745〕)が、1732年に著した『Anatomische Tabellen』(ドイツ語)を、オランダ人のゲラルジュス・ディクテン(Gerardus Dicten〔1696?-1770〕・ライデンの外科医)が、1734年に『Ontleedkundige tafelen』としてオランダ語に翻訳したものを、安永三年〔1774〕に杉田玄白(1733-1817)(小浜藩医)、前野良沢(1723-1803)(中津藩医)、中川淳庵(1739-1786)(小浜藩医)らが邦訳(漢文)したものです。『解體新書』は、重訳本です。
独逸原本:(Johann Adam Kulmus著)
『Anatomische Tabellen』(第3版 アムステルダム 1732)
↓
蘭訳本:(Gerardus Dicten訳)
『Ontleedkundige tafelen』(アムステルダム 1734)
↓
邦訳本(漢文):(杉田玄白・前野良沢・中川淳庵訳)
『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年〔1774〕)
♪当時、杉田玄白らは、原著者のクルムスをドイツ人ではなくオランダ人と思い、『Ontleedkundige tafelen』が、ドイツ語からオランダ語への翻訳本であることを知らなかったようです。
♪重訳された『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年)は、序圖1冊と本文4冊(巻之一、巻之二、巻之Ⅲ、巻之四)の全5冊本です。
♪当時の蘭學者に『解體新書』が『ターヘル・アナトミア』の呼ばれたのは、蘭訳本の扉絵(口絵)にラテン語で「TABULAE AMATOMICAE」とあり、それが蘭語に転訛したからともいわれています。
♪『ターヘル・アナトミア』は、『クルムス解剖書』、『簡約解剖書』、『クルムス解剖図譜』、『解剖図表』といわれます。
♪原著者のJohann Adam Kulmusは、『解體新書』のなかでは、「與-般-亜-単-闕-兒-武-思」と表記され、「ヨ-ハン-ア-タン-キュ-ル-ムス」とルビがふってあります。また、『ターヘル・アナトミア』は、「打-係-縷-亜-那-都-米」(タ-ヘ-ル-ア-ナ-ト-ミイ)とあります。
◇◇◇
♪先日、図書館の別置書架に『解體新書を中心とする解剖書誌』と題する昭和18年刊行(岩熊哲〔いわくま・とおる〕著)の図書があることに気がつきました。そのなかに、著者が調査した『クルムス解剖書』の所蔵者の名前が載っていて、上記の独逸原本(1732年 アムステル版)と蘭訳本(1734年 アムステル版)の両方を藤浪剛一氏が所蔵しているとありました。
♪藤浪剛一(ふじなみ・ごういち)(1880-1942)は、愛知県名古屋市東区久屋町159番戸に、尾張候の侍医であった藤浪家の四男として生まれます。明治39年(1906)岡山医学専門学校卒業後、同校病理学教室から東京帝國大學醫学部皮膚科介助とり、土肥慶蔵教授に師事しています。ここで医史学的環境に触れたと思われます。その後、ウィーン大学に留学。レントゲン学を専攻して、明治45年(1912)帰国後、順天堂医院にレントゲン科長として勤務。大正9年(1920)慶應義塾大學醫學部が開設されたとき、教授(理学的診療科主宰)となっています。
参考文献:
〔1〕故藤浪剛一先生略歴及び病歴(大島蘭三郎著) 『日本医史学雑誌』1315号:217-219、1943.
〔2〕『藤浪剛一追悼碌』(昭和18年 藤浪和子編)
♪藤浪剛一は、医史学の分野でも活躍し、富士川游(ふじかわ・ゆう)(1865-1940)のあとを継いで昭和15年(1938)11月から日本医史学会理事長を務めるなど、多くの業績を残していますが、夫人の藤浪和子とともに、掃苔家(そうたいか)としても著名でした。わたしも、医史学に興味を持ちはじめたときに、神田神保町の慶文堂古書店で購入した一冊に、藤浪和子著の『東京掃苔録』(昭和15年)があります。
参考文献:
『富士川游先生』(「富士川先生」刊行会 1954)
♪昭和18年(1943)当時、藤浪剛一の所蔵であった『ターヘル・アナトミア』の独逸原本、蘭訳本などは、戦火をさける目的もあって、慶應義塾大学に、貴重書として保管されたのではないかと、ふと思いました。
♪慶応義塾図書館のホームページをみると、「慶應アーカイブス」のなかに「慶應義塾図書館デジタルギャラリー」(慶應義塾大学学術情報アーカイブ〔KOARA/A 仮称〕)のコンテンツがあり、慶應義塾大学信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館)が所蔵するアナトミアコレクション(古医書)の一部を電子化し、「解体新書 ほか(解剖学コレクション)」として公開していることがわかりました。
♪「解体新書(アナトミア)」のコンテンツでは、杉田玄白の『解體新書』のほか、『Anatomische Tabellen』(独逸原本)、『Ontleedkundige tafelen』(蘭訳本)、『Tables anatomiques』(仏訳本)、『Tabulae anatomicae』(ラテン語本)の、『ターヘル・アナトミア』のほとんどをデジタル化しています。『解體新書』に関する、すばらしい、デジタルアーカイブスのコレクションを形成しています。
♪デジタル画像をみていくと、『Anatomische Tabellen』(独逸原本) 『Ontleedkundige tafelen 』(蘭訳本)『Tabulae Anatomicae』(ラテン語本)の標題紙に「藤浪氏蔵」の蔵書印があることに気がつきました。やはり、藤浪剛一旧蔵の『ターヘル・アナトミア』は、慶應に保管されていたのでした。慶應にあるのではとは想像しましたが、それが、デジタル化され、公開までされているとは思ってもいませんでしたので、驚きでした。
◇◇◇◇◇◇
♪先に紹介した『解體新書を中心とする解剖書誌』のなかで、著者の岩熊哲は、『解體新書』の独逸原本(アムステルダム版 1732)の藤浪氏蔵本について次のように書かれています。
「藤浪博士御所蔵の独逸本はアムステルダムから刊行された第三版である。ただし私は直接に拝見したわけではないが、藤浪先生の御好意で表題を知り得たから参考までに誌しておく。・・・Fがすべて二重エフになっている所に御注意ありたい。この174-206頁には丁附(pagination)がないと岩崎さんは報じている。」
岩崎さんとは、蘭學史で有名な岩崎克己のことです。
♪岩熊哲は、戦前、机上に『ターヘル・アナトミア』の独逸本(第4版 1741)と蘭訳本を揃えて、比較、検討したそうですが、いまでは、それを、コンピュータ上で比較できる時代となったわけです。
♪デジタル化された『Anatomische Tabellen』のはじめは、扉絵(口絵)と標題紙からなり、標題紙の左下隅に「藤浪氏蔵」の印があります。押されている位置と印影は、『解體新書を中心とする解剖書誌』のなかで紹介されている藤浪氏蔵本の標題紙の圖と一致します。
♪『解體新書を中心とする解剖書誌』によると、「174-206頁には丁附(pagination)がないと岩崎さんは報じている」とありました。そこで、デジタル化された藤浪氏蔵本で確かめてみたところ、頁付けは、きちんと付いています。
♪慶應の『解体新書(アナトミア)』のデジタル化には、「LOGOSWARE FLIPPER」というデジタルブック制作ソフトが使用されています。「ページをめくりながら読む」という本の持つインターフェースを採用しているところに特徴があります。画面の拡大・縮小・移動なども自由にできます。そのデジタル画像は、所蔵者だった藤浪剛一の指紋も、浮かび上がってくるのではないか、と思わせるほど鮮明です。
♪独逸原本(Dritte Aufflage)(AMSTERDAM / JANSSONS von WAESBERGE MD.CCXXXII)と蘭訳本(Te AMSTERDAM By de JANSSONS VAN WAESBERGE MDCCXXXIV)の扉絵(口絵)と標題紙を、「LOGOSWARE FLIPPER」の拡大や移動の機能を使って、比較してみてみました。
♪独逸原本と蘭訳本とでは、ローマ数字の記載方法に違いがあります。独逸原本では、刊行年の1732をローマ数字でMD.CCXXXII.と表記し、DとCとの間に.(ピリオド)が打たれていますが、蘭訳本の刊行年の1734は、MDCCXXXIV.と表記されていて、DとCとの間にピリオドはありません。
♪また、独逸原本の刊行年のMD.CCXXXII.は、その数字の部分だけの版を作ってはめ込んで、標題紙全体の版の一部にしたように見えました。MD.CCXXXII.の下に、かすれた線があるように見えるからです。当時の印刷方法がわからないので、はっきりとはいえませんが、そのように感じました。
♪独逸原本と蘭訳本には、有名な第1圖表である扉絵(口絵)が付いています。ラテン語本には、圖がありません。
♪扉絵は、書棚を背景にして、人体をのせた解剖台があり、その前景として、解剖用器具の台を置くという構図となっています。拡大機能を使って、いろいろ、この圖を隅から隅まで見ていました。
♪左下隅にJ.C.PHILIPS inv、右下隅にet fecit 1731の文字が見えました。この口絵は、J.C.PHILIPSによって、1731年に描かれたもののようです。こんな細かい文字まで写しこんであるデジタル技術と、それを閲覧させるソフトのすばらしさを感じました。
♪藤浪氏旧蔵であった『ターヘル・アナトミア』の標題紙や圖などを、さらに、コンピュータ上で、比較していければと思っています。
(平成19年9月16日記)(平成29年8月6日 追記)(令和4年6月29日 リンク訂正)
24. 「解體新書」を出版した「須原屋」の場所(室町二丁目と室町三丁目)
♪杉田玄白(1733-1817)の『解體新書』が出版されたのは、安永3年(1774)のことで、その板元は、江戸日本橋の書肆(本屋)(書物問屋)の「須原屋市兵衛(すはらや・いちべえ)」(申椒堂[しんしょうどう])でした1-6)。
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NHK大河ドラマ べらぼう ガイド前編(平成7年)
須原屋市兵衛(里見浩太朗)
平賀源内(安田顕)
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♪市兵衛は、江戸の書物問屋の大店である「須原屋茂兵衛」の店で修行し、その後、分家して、店を持ったようです。
♪寶暦10年(1760)『寒葉斎画譜』(全部五冊)(寶暦十年十二月写本留)の願入板元となり、寶暦12年(1762)11月に、その『寒葉斎画譜』(全三冊)の売出板元となっています5)。
♪寶暦12年(1762)といえば、日本最初の解剖書である『蔵志』(寶暦9年<1760>刊)を著した山脇東洋(1705-1762)が亡くなった年にあたります。
♪『享保以後江戸出版書目 新訂版』5)によると、『蔵志』(全二冊)(東京薬科大学情報センター図書館・電子稀覯本所蔵)の板元は、「京 丸谷市兵衛」、 売出しは、「須原や茂兵衛」とあります。『蔵志』と『解體新書』は、「須原屋茂兵衛」で繋がっているようです。
♪さて、本稿の主題は、日本橋にあったという「須原屋市兵衛」の店の住所のことです。

♪『近世書林板元總覧』1)によると、市兵衛の住所は、「江戸本石町四丁目、日本橋二丁目(安永三年『解體新書』)、日本橋北室町三丁目西側(同四年『會席料理帳』)となっています。
♪安永3年(1774)は、十代将軍・德川家治(いえはる)の御代(田沼時代)で、市兵衛の歿年は、文化8年(1811)。墓は、浅草善龍寺にあるとのことです1)3)。
♪『享保以後板元別書籍目録』2)によると、市兵衛の店は、宝暦10年(1760)12月から文化10年(1813)12月までの54年間にわたって江戸で店を構えたとあります。同時期に活躍した「須原屋」には、須原屋伊八がおり、安永元年(1772)12月から文化11年(1814)12月までの43年間、店を出しています。
♪今田洋三氏は、著書『江戸の本屋さん』5)のなかで、『解體新書』の原稿を「須原屋」に持ち込んだ杉田玄白の様子をつぎのように書いています。
「安永三年(一七七四)春のある日、杉田玄白が、日本橋室町二丁目の申椒堂須原屋と看板をあげている土蔵造りの本屋にはいった。玄白は、ふろ敷づつみを大事そうにかかえている。玄白は、時どき医学書や和漢書、あるいは小説のたぐいを、この本屋で買っていたし、奥州の片田舎からでてきた医学生の若者を、ここの主人から紹介され面会したりした。玄白の親しい店だったのである。申椒堂の主人は、須原屋市兵衛といった。日本橋を南に渡った通一丁目の江戸一の大書商、須原屋茂兵衛の分家であった。さっそく玄白は奥の座敷に招じ入れられる。ようやくできましたぞと、ふろ敷をほどいて出したのが『解體新書』と題をつけた五冊の原稿であった。」

♪浅野秀剛氏は、著書『大江戸日本橋絵巻「熈代勝覧」の世界』7)のなかで、「須原屋市兵衛」の店の住所について、つぎのように書いています。
「『寒葉斎画譜』を出したときの、市兵衛の住所は、「通本町三町目」で、その後、市兵衛の店は、室町三丁目に移り、さらに、寛政前期に室町二丁目に移転する」
通本町三町目:『寒葉斎画譜』(宝暦12年)
↓
室町三丁目:『安永撰要類集』(寛政元年)
↓
室町二丁目:『明日も見よ』(寛政3年)
↓
本石町四丁目:『外題作者画工書肆名目集』(文化4、5年頃)
♪『熈代勝覧(きだい・しょうらん)』(天)(ベルリン東洋美術館蔵)は、ドイツで発見された絵巻で、文化2年(1805)の日本橋から神田今川橋までの大通り(中山道・日光御成道のはじまり)の町並みを東側から俯瞰する構図で描かれています。この道筋の「室町二町目」に、市兵衛が箱看板を出して店を構えています。この絵巻は、『解體新書』が出版されてから、30年後の「室町二町目」の市兵衛の店の位置を示す、大変、貴重な史料だと思われます。稿を改めて、「須原屋」「すはらや」と水引暖簾が掛けられた店の界隈を見てみることにします7)8)。
♪『解體新書』は、本文4冊(巻之一、巻之二、巻之三、巻之四)と、序圖1冊の全5冊からなる木版本で、「巻之四」の最終頁に奥付があり、「須原屋市兵衛」の店の住所が載っています。「室町二町目」のものと「室町三町目」ものと2通りの住所があることが知られています。どちらも、刊行年は安永3年(1774)です。
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♪各地の図書館でデジタル化(一般公開)されている『解體新書』から、「巻之四」奥付頁の「須原屋市兵衛」の住所を見比べてみることにしました。
「須原屋市兵衛」の住所・広告頁(有無)
室町二町目(無)
(2)内藤記念くすり博物館
室町二町目(無)
室町二町目(無)
(5)慶應義塾図書館
室町二町目(無)
室町三町目(有)
(7)国立国会図書館
室町二町目(無)
♪これまでの調査では、市兵衛の店の住所は、早稲田大学蔵本だけが「室町三町目」で、残りのものは、「室町二町目」となっています。また、早稲田大学蔵本には、奥付頁のあとに、広告頁がついています。
♪早稲田大学古典籍のなかでは、「室町三町目」のものが、2冊デジタル化されています。どちらにも広告頁が付いていますが、その広告している書籍が違います。『解體新書』巻末の広告頁の比較と、そこに掲載されている書籍の刊行年などを調べることも「江戸東京」の課題となりそうです。
♪森銑三の著作に『平秩東作の生涯』9)があります。平秩へづつ東作とうさく(1726-1789)は、狂歌師、漢詩人で、平賀源内(1728-1780)とも親交があった人物です。第8章の最後につぎのような記載があります。
「安永四年乙未、東作五十歳。寶暦十二年に生れた総領桃次郎やや長じて、室町三丁目須原屋市兵衛方より奉公へ出てゐたのであるが、この年十四歳になつたので、主家から暇を取って帰って来た。」
♪『平秩東作の生涯』9)でみる限り、安永4年(1775)に、市兵衛の店は、「室町三町目」にあったようです。
♪さらに『享保以後江戸出版書目 新訂版』によると、市兵衛が『解體新書』の出版を、江戸書物問屋仲間行事に発行許可願を出したのは、安永4年(1775)9月27日(板元売出)のことでした5)。このときから、正式に『解體新書』は、広告頁が付いてものが出版され、出回るようになったのではないか。玄白と市兵衛にとっては、広告頁付の『解體新書』を出版できたことは、夢のようなことだったのかもしれません。
♪蘭学者の出版に理解のある市兵衛も、腑分け(解體)の、それも圖入りの翻訳本を出版するわけですから、各方面への気配りも必要で、板木の打ち壊しや処罰の危険にあわないように、それを世に出すためには、慎重を期して、準備を進めたことでしょう。
♪原稿の写本も何部かつくり、奥付の板木も「室町二町目」と「室町三町目」の2種類彫って万一のときに、備えていたのかもしれません。もちろん、本家筋の須原屋茂兵衛にも、相談していたものと考えられます。
♪『解體新書』の板木は、緊張のなかで、彫られ、刷られ、製本されて、厳重に保管されたと想像されます。玄白とともに、板元となる市兵衛も命をかけた仕事であったことは確かなことであったでしょう。
♪玄白は、出版のためには、政治的な動きもしたようです。序文は、幕府の大通詞の吉雄永章(耕牛)(1724-1800)に依頼し、官醫・桂川甫周の名前も入れています。甫周の父は、法眼ほうげんの地位にあった桂川甫三かつらがわほさん(1728-1783)で、その推挙によって、十代将軍家いえ治はるに『解體新書』が献上されます。さらに、京都に住む従弟の吉村辰碩よしむらしんせきを通して、近衛内前このえうちさき(関白太政大臣)、九条くじょう尚実なおざね(左大臣)、広橋ひろはし兼胤かねたね(武家伝奏)にも、献納しています10-11)。
♪後年、『蘭学事始』(文化12年・83歳)のなかで、玄白は、『解體新書』の翻訳・出版の当時を、つぎのように回顧しています10)。
「『解體約図』はすでにできあがり、いよいよ本篇の『解體新書』の方も出版になったが前にも言ったように、『紅毛おらんだ談ばなし』のような本でさえ絶版を命じられた時世である。・・・もしことわりなく出版したら禁令を犯したと罰をこうむるかもしれない。この一点だけはたいへん恐れ、気をもんだ。・・・とにかく翻訳というものを公にする先駆けになってやろうとひそかに覚悟して、決断したのであった。」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
♪『解體新書』の初版本が出版されたとき、「須原屋市兵衛」の店はどこにあったのか。「須原屋市兵衛」の住所について考えてきて、玄白が『解體新書』の出版の前に、前宣伝と反応をみるために、報帖(ひきふだ)として『解體約圖』(解剖圖3枚〔臓腑・脈絡・骨節〕・文章2枚〔序説・人体生理大要〕)を著していること、それを、東京大学がデジタル展示していたことを思い出しました。デジタル化された『解體約圖』の板元の住所は、どうなっているのか。見てみることにしました。
♪『解體約圖』(展示ケース16)の、「須原屋市兵衛」の住所は、「江戸室町二町目」」となっていました。
安永二年癸巳春正月
書肆 江戸室町二町目
須原屋市兵衛板
♪また、『解體約圖』については、調査の結果、『日本の名著 22 杉田玄白 平賀源内 司馬江漢』8)のなかにも、収録されていることが、わかりました。これによると、「須原屋市兵衛」の住所は、「江戸室町三丁目」となっていました。明らかに、東京大学所蔵の『解體約圖』とは、「須原屋市兵衛」の住所が違っています。
安永二年癸巳春正月
書肆 江戸室町三丁目
須原屋市兵衛板
♪『日本の名著』のなかにある『解體約圖』は、緒方富雄編 『解體約図』(複製版 医学書院 1965)からの採録のようです。
♪「江戸室町三丁目」が誤植でないとすると、『解體約圖』にも、「室町二町目」と「室町三町目」の2種類の須原屋市兵衛板があったことになります。
♪この複製版の『解體約圖』の現物を確認する必要を感じました。所蔵調査をしたところ、幸い東邦大学医学メディアセンターで所蔵していることがわかりました。連絡したところ、閲覧を許可してくださるとのご返事。後日、東邦大学を訪問させていただくことにしました。
♪『解體新書』と、その前年に出版された『解體約圖』をみてくると、「須原屋市兵衛」の住所には、双方ともに、「室町二町目」と「室町三町目」の2カ所あることがわかりました。安永2年(1773)には、板元となった「須原屋市兵衛」の店は、「室町三町目」と「室町二町目」に、二店あったとも考えられます。
♪『解體約圖』や『解體新書』が出版された安永の時代から、「須原屋市兵衛」の店は、「室町三町目」と「室町二町目」に、住まいや店舗、あるいは板木を彫ったり摺ったりする関係場所を、数カ所、持っていたのではないか。「須原屋茂兵衛」や「須原屋佐助」(金花堂)との関係はどうであったのか。いろいろな推測が浮かびます。
♪そういえば、須原屋佐助を祖とする和紙の老舗「榛原」が創業したのが、文化3年(1806)。『解體約圖』では3枚の解剖圖(臓腑・脈絡・骨節)を重ねて、透かして見られるようにしたようですが、では、どんな和紙が使われていたのでしょうか。江戸文化の香り漂う日本橋室町界隈を想像します。
🌲🌲🌲
参 考 文 献
1)『近世書林板元總覧』 井上隆明著 (日本書誌學大系 14) 青裳堂書店、1981.(東京都立日比谷図書館所蔵)
2)『享保以後板元別書籍目録』 坂本宗子編 清文堂 1982.(東京都立多摩図書館所蔵)
3)「『解體新書』の板元・市兵衛のこと」 今田洋三著 『歴史地理教育』 247号 pp.46-51.1976.
4)「蔦屋重三郎と須原屋市兵衛:江戸文化を牽引した二大出版社」(竹内 誠)
『東京人』(都市出版)(2007年11月号 no.246 〔特集〕大江戸出版繁盛記)pp.52-57.
5)『享保以後江戸出版書目 新訂版』 朝倉治彦・大和博幸編 臨川書店、1993.(東京都足立区立中央図書館所蔵)
6)『江戸の本屋さん』 今田洋三著 (NHKブックス 299) 日本放送協会、1977.pp.95-108.「二 世界に目をむけた須原屋市兵衛」.
7)『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』 浅野秀剛・吉田信之編.講談社、2003. pp.66-67.「須原屋市兵衛」(浅野秀剛解説)
8)『「熈代勝覧(きだい・しょうらん)」の日本橋 活気にあふれた江戸の町』 小澤 弘/小林 忠著 小学館、2006.
9)『平秩東作の生涯』(『森銑三著作集 第一巻』に収録 中央公論社、1988.)(豊島区立中央図書館所蔵)
10)『日本の名著 22 杉田玄白 平賀源内 司馬江漢』(芳賀徹 責任編集)中央公論社、1984.
11)「日本の医学を一新させた『解體新書』の翻訳」 鈴木由紀子著 田沼時代を生きた先駆者たち. (NHK カルチャーアワー 歴史再発見 2008 10月~12月) pp.86-99.
(平成20年11月3日 記) (平成22年6月5日 改訂)(平成29年8月3日 訂正追加)(令和5年1月10日 訂正追加)(令和7年1月10日 リンク訂正)
23. 『日本橋榛原商店新築記念』(昭和5年)(袋付2枚)(絵葉書)
①創業地:文化3年(1806) 日本橋区通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番あたり)
②昭和5年(1930) 中央区日本橋2丁目7-6へ新築移転
[平成23年(2011) 日本橋2丁目再開発のため仮店舗(中央区日本橋2-8-11 旭洋ビル2F)で営業]
③平成27年(2015) 中央区日本橋2-7-1 東京日本橋タワーへ新築移転
★★
♪竹下夢二が描いた団扇や、雁皮(ガンピ)という植物からつくられた雁皮紙で有名な日本橋の「榛原(はいばら)」の創業は、文化3年(1806)のことでした。今年、平成18年(2006)は、創業200年の節目の年となります。
♪「はいばら(榛原)」の初代佐助は、紀州栖原村(すはらむら)〔現在の和歌山県湯浅町〕の出身で、須原屋茂兵衛に年季奉公に上がり、年季あけに独立して、和紙、墨、薬などを扱う小間紙屋を営みました。
♪須原屋は、杉田玄白の『解体新書』(安永3年・1774)を出版した江戸の東武書林(室町二町目)として知られています。
『解体新書』(内藤記念くすり博物館 収蔵品デジタルアーカイブ)
♪佐助は、はじめ、通四丁目にあった金花堂(書物問屋)を買い取り、文化3年(1806)、通一丁目にあった「榛原」(小間紙)を買い取ります。この通一丁目の日本橋のたもとが「榛原(はいばら)」の創業地ということになります。現在の町名でいうと中央区日本橋一丁目7番地のあたりで、近くには、「西川(にしかわ)」(寝具)があります。
♪『築地八丁堀 日本橋南之図』(嘉永2年 1849)によると「通(とおり)」には通一丁目、同二丁目、同三丁目、同四丁目とあります。この「通」は、現在の日本橋交差点から銀座4丁目交差点方向に続く「中央通り」にあたり、西川(寝具)、黒江屋(漆器)、山本山(銘茶)などの名店が、江戸からののれんを守っています。
♪「榛原(はいばら)」が、日本橋のたもとから現在地に移転、新築したのは、関東大震災後の昭和5年(1930)のことで、当時としては、大変モダンな鉄筋5階建てのビルでした。

♪連載第134回で取り上げた古書店「古書 街の風」から『目録第11号』(平成18年4月)が送られてきました。なにげなく頁を繰っていると、『日本橋榛原商店新築記念』(袋付2枚)(Post Card)が掲載されていることに気づきました。早速、購入しました。
♪このPost Card(絵葉書)は、「榛原(はいばら)」の六代目社長で、三宅秀(みやけ・しゅう〔ひいず〕)(1848-1938)の曾孫にあたられる中村明男氏に見せていただいたことがありました。
♪中村明男氏とは、白山(はくさん)にある東京大学の小石川植物園や本郷の医学部構内を歩いたことがあります。平成14年(2002)8月15日(木)の夏の暑い日でした。園内の日差の強さが、昨日のように思い出されます。三宅秀にゆかりの旧東京医学校本館の建物のなかに入り、展示されている診察器具などを見て回りました。(改訂版・連載第20回、第21回、第22回)
♪その中村明男氏が、平成18年(2006)3月6日(月)に亡くなられました。『古書目録』のなかに榛原(はいばら)の絵葉書を発見したときに、いつも物静かにお話をされた中村明男氏の笑顔が瞼に浮かびました。『日本橋榛原商店新築記念』の絵葉書は、中村明男氏からの来信のように感じられました。



(平成18年5月1日 記す)(平成29年7月30日 訂正・追記)
22. 日本橋・和紙小物店「榛原(はいばら)」
榛原(はいばら)場所の変遷
はいばら(ホームページ)
♪子供の頃、駒込から都電で日本橋の三越に行っていたことは、すでに述べましたが、「はいばら(榛原)」のことを思い出しました。榛原は江戸時代から続く紙問屋で今でも日本橋で営業しています。和紙というと鳩居堂(銀座4丁目交差点)を思い出す方も多いかもしれません。
♪今日、榛原の社長の中村明男氏に電話してみました。中村氏は、東京大学医学部の基礎を築いた三宅秀(みやけ ひいず 1848-1938)の曾孫にあたる方です。わたしとは、高校から大学までの学友です。中村氏が三宅秀と関係があることを知ったのは、三宅秀の伝記「桔梗-三宅秀とその周辺-」のなかにあった系図からです。系図によると三宅秀の五女八重が中村氏の父方の祖母にあたられます。「榛原は1806年の創業で、そろそろ創業200年になる」とのことでした。
♪榛原の和紙は森鴎外も愛用していたそうです。森鴎外といえば、先日、紹介した高林寺の緒方洪庵の墓にある「追賁碑」の碑文を書いています。
♪本郷・谷中・神田界隈は興味のつきない地域です。
(平成14年5月16日 記)
・・・・・・・・
♪日本橋の「はいばら(榛原)」の暖簾(のれん)には、「雁皮紙」(がんぴし)と書かれています。



♪くずした文字で、右から左に書かれているので、はじめて、この暖簾を中村明男氏にみせたいただいたときには、なんて書いてあるのかわからず、その読み方を教えていただきました。
♪雁皮(がんぴ)という植物は、ジンチョウゲ科の落葉低木で、それを原料とする雁皮紙は、「なめらかな肌ざわりで薄く、しかも墨つきが良いとあって文人墨客の間で大いにもてはやされた」そうです。
♪雁皮紙は、文化財の修復にも使用されるそうですが、買い求めた「雁皮紙」は、『二本榎保存碑』(関連連載第110回、第112回、第120回)のブックカバーにしています。少し贅沢で、間違った使い方かもしれませんが、和紙の文化を大切にしたいとの思いをこめています。
(平成20年1月6日 記)
・・・・・・・・・・・・・・
♪そろそろ,定年退職となるのを機会に自宅の書斎を整理していたところ,中村明男氏(故人・前榛原社長)を訪ねたときにいただいた小冊子「東都のれん会の栞」(平成十三年八月第八版発行)(東都のれん会 山本海苔店内)が出てきました。
♪そのなかに,榛原の紹介があり,榛原自身が書かれた榛原の歴史の記載がありました。榛原に関する文献は少なく,貴重な記録となっています。
◆◆◆
当店は,初代佐助が江戸日本橋の版元須原屋にて奉公の後独立し,同じ須原屋の屋号にて紙,墨,薬等を販売し,文化三年(一八〇六年)に縁あって同業種のはいばらを買い取り,屋号を「はいばら」と改めたことが創業となりますが,当店が一躍有名となったのは,雁皮という植物を原料とする「雁皮紙」を扱いだしたことによります。当時の紙は,楮こうぞを原料とするごわごわした品質のものが中心でしたが,雁皮紙はなめらかな肌ざわりで薄く,しかも墨つきが良いとあって文人墨客の間で大いにもてはやされ,以来「雁皮紙榛原」の,のれんは江戸中に広まったと言われています。その後,明治になり海外からの洋紙の輸入,国内でも官営の製紙工場が出来,日本中の紙商が,製紙メーカーの代理店として洋紙中心の取扱いになる中で,当社は和紙にこだわりつづけ,全国に残る良質の和紙の販売をする一方で,こうした和紙を材料に意匠を凝らした,金封,書翰箋,千代紙,団扇,懐紙等を加工販売し続けて,現在に至っております。
◆◆◆
(平成23年9月25日 追記)
日本橋榛原(はいばら)の銅版画と創業地
創業地:日本橋通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番地辺り)
♪2年前,文京グリーンコート(関連第70回 第71回)のなかにある雑貨店(Za Gallery)で,日本橋「はいばら・榛原」(和紙小物専門店)制作のカレンダー(日本の伝統 榛原千代紙 CALENDAR 2011)(図1)を見つけました。デザインの良さに魅かれて購入しておきました。

♪裏表紙に「榛原」の店先の様子を描いた銅版画(「明治時代の日本橋はいばら」)が印刷されていました。雁皮紙(がんぴし)と書かれた暖簾が掛かっています。「西洋紙品々」の吊し広告も見えます。微細に描かれており,当時のお店(たな)が浮かび上ってくるようです。
♪銅版画は,『東京商工博覧絵,下』(明治18年5月発行)1)のなかにあるものでした。それによると,「榛原直次郎」の広告は,2枚の銅版画からなっていることがわかりました。1枚目は,カレンダーに掲載されたもので,2枚目には,1枚目の店先に続く建物と,裏手の蔵が描かれていました。勝手口でしょうか,「はい原」の表札も見えます。(図2)(図3)


♪この銅板に彫られている榛原[中村]直次郎の妻・八重は,三宅秀の娘です。兄に三宅鑛一がいます。
♪「榛原」の創業地については,中村明男氏(三宅秀の曾孫・榛原社長)にお会いした時に,日本橋「西川」の隣の辺りとお聞きしていました。
♪国立国会図書館のデジタル資料を調べたところ,『東京市街地圖,日本橋區之部』(小林儀三郎著 小林組発行 明治37年)で「榛原」の場所が特定できました。創業当時の「榛原」は,日本橋のたもとで営業していたことがわかります。


💌💌💌
榛原の場所の変遷
創業地:日本橋区通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番地辺り)


昭和5年(1930):中央区日本橋2丁目7-6へ新築移転


平成25年現在:日本橋地区再開発の為仮店舗で営業(中央区日本橋2-8-11 旭洋ビル2F)
♪現在(平成25年)(注),「榛原・はいばら」は,「日本橋二丁目市街地再開発」のために仮店舗で営業中ですが,新店舗がどのようなお店になるのか楽しみです。
♪8月になると,亡くなられた中村明男氏と小石川植物園(東京大学総合研究博物館・小石川分館)のなかにある旧東京医学校本館遺構を見学したことを思い出します。
参考文献
1)『東京商工博覧絵,下』(国立国会図書館デジタル化資料)(『明治期銅版画東京博覧図全三巻 東京商工博覧絵』[湘南堂書店発行 昭和62年])
2)『桔梗:三宅秀とその周辺』(福田雅代編纂・発行 昭和60年)
(平成25年7月25日 追記 堀江幸司)
・・・・・・・・・・・
新店舗の住所
その後、新店舗は完成して、現在(平成29年)の「榛原」の住所は、以下の通りです。
住 所:〒103-0027 東京都中央区日本橋2-7-1 東京日本橋タワー 電 話:03-3272-3801


(平成29年7月29日 追記)(令和5年2月7日 追加)
💌💌💌💌
♪日本橋室町にある千葉銀行東京営業部に行く用事があって、帰りに、東京日本橋タワーのビル前の中央通りに面して建つ「榛原」に寄ってきました。伝統美を感じさせるオシャレでモダンな建築です。
🏠
💗💗
♪和紙などを買い求める常連客と思われ人びとの出入りが多く、外人客の姿もありました。
(平成30年10月24日 追記)
🌲🌲💌💌
💌令和2年(2020)6月16日発行の 「特殊切手 江戸ー東京 シリーズ第1集」の「和紙小物店」に「はいばら」の意匠が使われました(題材提供)。
原画作者:吉川亜有美(切手デザイナー)





(令和2年(2020)6月18日 追記)
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「榛原千代紙 CALENDAR 2021」の卓上型とポスター型を入手しました。これで卓上版の2019、2020、2021の3年間が揃いました。
今年は歳男(丑年)。これを機に、榛原千代紙カレンダー(卓上型)のコレクションを続けて行きたいと思います。



(令和3年(2021))1月8日 追記)
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紙の神様・岡太神社(おかもとじんじゃ)・大瀧神社(おおたきじんじゃ)の祠
場所:日本橋榛原本店・東京日本橋タワー屋上
♪「はいばら」のFb(令和4年1月5日付)の記事によると榛原本店には、紙すきの神様である岡太神社(おかもとじんじゃ)・大瀧神社(おおたきじんじゃ)(紙祖神 川上御前)(福井県越前市大滝町13-1)のご神体を祭る祠があるそうです。昭和15年(1940)にご神体をうけ、当時の榛原本社の屋上に安置されていましたが、現在の新店舗となってからは、日本橋の榛原本店のある東京日本橋タワーの屋上に遷され、和紙を生業とする榛原の発展を見守っているとのことです。



♪先代の榛原社長の中村明男氏が亡くなってから、この3月で16年となるそうです。旧店舗でお会いして帳場に架かっていた暖簾の「紙皮雁 はいばら」の文字のことなどをお聞きしたのが、つい昨日のように思い出されます。
♪はいばらの看板商品の一つである雁皮紙(がんぴし)(唄詠みの紙・文化財の補修保存の紙)については、この項のはじめのほうでも触れましたが、中村氏にお会いしたときに一枚購入して、澁澤栄一にも関係ある「二本榎保存碑」の拓本のカバーにしています。薄く滑らかな肌触りで、カバーにしても本体の表紙が透けてみえるほどです。大変貴重な雁皮紙ですが、オンラインショップでは、まだ、購入できるようです。



(令和4年1月20日 記す)
🎍🎍

🎍🎍 (令和5年2月7日 画像追加)
21. 中村明男氏と旧東京医学校本館遺構へ行く
| ♪平成14年8月15日(木)、中村明男氏(日本橋・榛原社長、三宅秀の曾孫)を誘って旧東京医学校本館(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館:文京区白山3-7-1)へ行ってきました。
♪地下鉄・都営三田線の白山駅のA1の改札口で待ち合わせて、新白山通りを渡り、白山下交差点から蓮華寺坂を登り御殿坂を降りて、小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)に向かいました。(註1) ♪旧東京医学校本館(昭和45年6月17日重要文化財に指定)は、小石川植物園の一番奥の日本庭園内に移築されています。明治村といった感じです。 ♪東京大学総合研究博物館小石川分館としてリニューアルされた建物の受付で、記帳の際に、中村明男氏が三宅秀の曾孫に当ることをお話すると、「三宅コレクション」の展示を担当された藤尾直史先生(総合研究博物館情報メディア研究系)が案内してくださいました。お話によると、この建物は、リニューアルされる前は、学術情報センターとしても使われていて、リニューアルに際して、天井を剥がして、梁が見えるようにしたとのことでした。この空間のなかに、三宅秀、宇野朗、ベルツ、スクリバ、森鴎外、三上参次がいたことになります。
♪その足で、東京大学本郷キャンパス内にある東京大学総合研究博物館で開催中の「新規収蔵展示 三宅コレクション展」に向かいました。千川通りでタクシーに乗ったのですが、共同印刷の前を通ったときに、中村明男氏から、三宅家は、この共同印刷の裏手辺りにあったとのお話を伺いました。(註2) ♪東京大学総合研究博物館は、赤門を入って右手の奥にあります。「三宅秀博士旧蔵コレクション」の展示のうち渋江長伯(関連連載第19回、第20回)のコレクションとされる『植物標本』やシーボルト関連の展示物がとくに興味を引きました。また書棚に収められていた三宅文庫のうち『日記』にも大変興味を持ちました。 ♪見学を終え、医学書院ならびの「カレーとコーヒーの店」(本郷3丁目交差点近く)でお昼の食事をしながら、『文久航海記』(第2版復刻版 三浦義彰著 篠原出版 1988)や三宅家の家系図を見せていただきました。『文久航海記』の著者の三浦義彰氏(千葉大学名誉教授)は三宅秀の孫に当る方です。家系図は、いずれ日本橋の榛原をお訪ねしたときに複写させてくださるとのことでした。 ♪中村明男氏と別れたあと、本郷通りの古本屋さんに立ち寄り、帰りました。 (註1)旧東京医学校本館(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館)へは、小石川植物園を通らなくても、千川通り側の入口から直接入ることもできます。 (註2)三宅秀の伝記『桔梗』で調べたところ、三宅秀の住所は旧小石川区竹早町81番地(現在の文京区小石川4丁目)であることがわかりました。 (平成14年8月16日 記)(平成29年7月24日 追記) |
20. 小石川植物園内:旧東京医学校本館・史料編纂掛旧庁舎(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館)
| 小石川植物園
場 所:〒112-0001 東京都文京区白山3-7-1(都営地下鉄三田線 白山駅下車 A1 出口) 地 図:本郷界隈 ♪小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)の中に、旧東京医学校本館が遺構(重要文化財)として残っています。何年か前のシソ研のお花見の会に参加された方は、ご存じかも知れません。
♪この本館は、明治9年(1876)に東京医学校が本郷元冨士町に移された時に建てられたもので、森鴎外が龍岡町の下宿屋上條から鐵門を通して見ていた建物です。木造建築の西洋風の建物で、四面に時計を配した象徴的な搭屋を持ち「時計台」ともいわれていたそうです。
♪東京医学校の中には、3室(80坪)からなる医学部文庫が設けられ、7,781部の医学洋書を収蔵していたそうです。森鴎外も、それらの洋書を使って勉強したのかもしれません。 ♪旧東京医学校本館の写真が、北里大学医学図書館の宇野彰男さん(宇野朗、三上参次の曾孫)に贈っていただいた『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(吉川弘文館 1991)のカバー写真になっていました。
♪明治44年(1911)に、この東京医学校本館は2つに分割されて、前半部が1月14日から7月20日までの期間をかけて赤門脇の今の経済学部のある場所へ移され、後半部は神田錦町(一ツ橋)に移されて学士会館となりました。この赤門脇に移された部分に史料編纂掛が入ることになります。その事務主任(史料編纂所長にあたる)が三上参次(みかみ・さんじ)(東京帝國大學文科大學教授)(1865-1939)でした。 ♪史料編纂掛庁舎のあと営繕課、施設部としても使用されましたが、昭和40年(1965)用途廃止となり、昭和44年(1969)3月に小石川植物園の現在地に復元・移築され、翌昭和45年(1970)重要文化財の指定を受けています。 ♪三宅秀の事蹟をインターネットで調べていてわかったのですが、旧東京医学校本館が、平成13年(2001)11月12日に「東京大学総合研究博物館小石川分館」としてリニューアルされ、一般公開されていることに気づきました。そういえば、昨年、小石川植物園に写真を撮りに行ったときに、工事中だったのは、そのための工事だった訳です。 ♪この「東京大学総合研究博物館小石川分館」の本館にあたる「東京大学総合研究博物館」が本郷キャンパス内にあるのですが、現在「新規収蔵展示・三宅コレクション」と題した展示会が開催され、三宅秀ほか一族ゆかりの建築写真・科学物品などが展示されているようです。会期は9月1日までとなっています。問い合わせたところ月曜日が休館で、無料で見学できるとのことでした。(10:00-17:00)。 ♪宇野さんから贈っていただいた『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』をきっかけとして、三上参次と三宅秀が繋がってきました。日本橋・榛原の中村明男氏(三宅秀の曾孫)を誘って、展示会に行ってこようと思っています。 (平成14年8月9日 記)(平成29年7月24日 記)(令和6年1月27日 追記) |
19. 「からたち寺」にぶつかる:漱石『三四郎』
Google MyMap : 本郷界隈
♪森鴎外の『雁』の主人公・岡田の散歩道に「臭橘寺(からたちでら)」が出てきます。今日、この「からたち寺」に偶然ぶつかりました。文献の中でのことです。
♪お昼休みに勤務先の女子医大を出て、夏目漱石にゆかりの夏目坂を下り、坂下にある本屋に向かいました。途中、次の連載のテーマを考えていました。夏目漱石、長與専斎に関係ある四谷の胃腸病院にしようか、それとも、「からたち寺」にしようか、などと思いながら、ぶらぶら降りていきました。
♪「からたち寺」については、どこかの文献で読んだおぼえがあったのですが思い出せません。本屋に入り、鴎外の文庫を探していて、司馬遼太郎の『本郷界隈』(街道をゆく37)(朝日文庫)(朝日新聞社)が目に入りました。この中に、「からたち寺」が載っていました。この『本郷界隈』は単行本では持っていたのですが、「からたち寺」が載っていることは、すっかりわすれていました。
♪「からたち寺」は、春日局(かすがのつぼね)(1579-1643)の菩提所である麟祥院(りんしょういん)(旧本郷区龍岡町 現文京区湯島4丁目)のことです。周囲がからたちの生垣でかこまれていたため、この名が出たといいます。
♪「からたち寺」は、漢字で「枳穀寺」とも書き、『三四郎』(漱石)の中に次のようなくだりがあります。
「二人はベルツの銅像の前から枳穀寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。表は大変賑かである。電車がしきりなしに通る」

(平成14年7月3日 記)(平成29年7月4日 訂正・追加)
18. 森鴎外『雁』より:主人公・岡田の散歩道 DVD『雁』(1953):背景に写り込んだ東京医学校本館
| Google My Map :本郷・神田・お茶の水界隈:医史跡案内
♪森鴎外の小説『雁』に登場する無縁坂(Google earth)は、東京医学校(東京大学医学部の前身)の鉄門前から、上野不忍池との低地を結ぶ本郷台地の坂です。 ♪今回は、岡田(主人公・医学生)の散歩コースをみてみます。岡田の下宿は、鉄門前にありました。そのあたり一帯は、現在はキャンパスの一部となっています。龍岡門からバス通りを入って右手の南研究棟のあたりかと思われます。 鉄門音声ガイド(堀江幸司作成)
♪小説は、東京医学校が設立された明治9年から4年後の明治13年頃の設定です。東京に雁が、まだ、飛来していた当時のお話です。岡田の住む下宿屋・上條から続く無縁坂は散歩道になっていました。その無縁坂に面した妾宅に暮らすお玉にとって、夕暮れ時に散歩する岡田は気になる存在でした。 ![]() ![]() ![]() ♪『雁』は『鴎外全集』(岩波書店)の第八巻に収載されています。その中に次のような記述があります。(青空文庫にも収録「雁」) 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた」 ♪散歩の道筋は二通りあったようです。 1. 下宿(東京大学鉄門前)→無縁坂→藍染川(不忍の池)→上野の山→廣小路→湯島天神→臭橘寺(からたちでら)→下宿 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2. 下宿→長屋門→赤門→本郷通り→神田明神→目金橋(めがねばし)→柳原の片側町→臭橘寺(たちでら)→下宿 ![]() ♪岡田は、この散歩道の途中でよく古本屋の店を覗いたといいます。わたしも本郷通り沿いの古本屋街は、この江戸東京医史学散歩でよく通りますが、たいていは土曜・日曜のために休店です。不便な思いをしています。
★★★ ♪森鴎外原作の「雁」(昭和28年度芸術祭参加作品)のDVDを入手しました。 ![]() キャスト お玉:高峰秀子 末造(東野英治郎) 岡田:芥川比呂志 善吉:田中栄三 お梅(小田切みき) (平成14年7月1日 記)(平成29年6月26日 追記) |
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映画「雁」(1953):お玉(高峰秀子)と岡田(芥川比呂志)
🌲撮影当時、ロケ地となった東大赤門の背景に「旧東京医学校本館」が写りこんでいること書いたコラム記事があることを、Fb友達の西岡 暁先生(吉祥寺病院医師)に教えていただきました。
松本文夫先生(東京大学総合研究博物館特任教授)の「赤門の隣に」というコラムで、それによると映画「雁」のなかに2か所、明治時代には、無縁坂の上にあった旧東京医学校本館が、登場するとあります。旧東京医学校本館は、明治末に構内整備の一環として、鉄門前から赤門横に移築されていたのです。

🌲YouTubeに「雁」がアップされていましたので、その登場場面を探してみました。
(1) (Ⅰ時間4分6秒)(赤門から出るシーン)
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(2)(1時間25分18秒)(赤門へ入るシーン)

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(令和2年[2020]9月2日 追記)(令和6年1月27日 追記)











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