15. [余滴] 東京大学本郷キャンパス・絵葉書(古写真)アルバム:Googleフォト

♪「江戸東京医史学散歩」は、当初、撮りためた写真や入手した絵葉書をPicasa Albumに保存して、そのデータとリンクさせてGooge My Mapを作成していたのですが、数年前にPicasa AlbumがGoogeフォトに変わり、地図とアルバムとのリンクが取れなくなりました。

♪今回、「改訂版・江戸東京医史学散歩」を執筆するにあたって、Picasa AlbumからGoogleフォトにデータを移動させた新たにアルバムを整理していくことにしました。

♪手始めに「東京大学本郷キャンパス・絵葉書(古写真)アルバム」を作成してみることにしました。少しずつ更新して、アルバムをみるだけでも、なんとなく、「江戸東京」の雰囲気が感じられるものにしたいと思っております。

(平成29年6月8日 作成)

 

東京帝国大学外来診療所及薬局竣功記念 昭和8年(絵葉書)

14. 「東京医学校本館」「第一高等学校」「東京帝国大学工科」の時計薹 ――無縁坂・根津に響く鐘の音

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[1] 東京医学校本館時計台

場 所:無縁坂上の「鐡門」を入った正面
建設年:明治9年(1876)
設 計:林忠恕(はやし・ただよし(ただひろ)注1)

♪「東京帝國大學病院」「東京本郷大学医学部」と題する絵葉書を入手しました(図1)(図1B)。時計台1)2)という名称で親しまれた「東京医学校本館」の建物です。建物全体と周囲の情景を写し込んでいます。

図1.東京医学校本館時計台(東京帝國大學病院) (明治9年から明治43年まで鐡門を入った所にあった時計台)

図1B. 東京本郷大学医学部

♪時計台の写真は,建物を正面から撮影したものが多く,このアングルの時計台は,見たことがありませんでした。本郷構内における時計台の周辺の雰囲気を知ることができる貴重な写真と思われます。鐘塔の外観もよく撮られています。図1の時計の針は,10時30分頃を指しているようです。

図1bの写真では、赤門の方向からくる道が、時計台の手前から坂道になっているのがわかります。現在の医学図書館(中央館)の方から撮った写真だと思われます。本郷キャンパス内は、公園のように、広く、樹木が多かったことがわかります。画面の奥が上野不忍池の方角になります。

♪逆に、上野不忍池の方角からみて時計台が移っている絵葉書があるのではないか、と思って随分と期間をかけて探しました。中央の太い木の右手の遠景にかすかに時計台が写っている絵葉書がありました。(図2

図2.上野不忍池から旧東京医学校時計台を望む(絵葉書)(平成26年10月13日 追加)―中央の木の遠景にかすかに時計台らしき影が見える―

♪明治9年(1876)11月27日に神田和泉橋より新築移転3)した東京医学校本館は,不忍池方面へ下る無縁坂上の鐡門を入った所にありました。森鴎外が『雁』で書いた鐡門です。建物は,2階建洋館で屋上に御輿型の鐘塔が設置されていました。2)(図3

図3.東京大學醫學部注2)時代の時計台(出典:『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』の口絵4))

♪『明治工業史 建築編1)によると,建物と時計塔の設計者は林忠恕はやしただよし(1835-1893)5)ということです注1)。時計の機械は,横濱の時計貿易商館ファブルブランド(James Favre-Brandt)注3)の手によって輸入され,ローマ数字の文字盤(直径約5尺),時打装置を持っていました。麗しい音色が,無縁坂の下あたりまで響いたそうです2)

♪林忠恕は,「上野教育博物館・書庫及び閲覧室(のち東京美術学校文庫)」(明治13年[1880]3月20日起工 10月21日竣工)(現・東京藝術大学赤レンガ1号館)を設計した人物としても知られています。

♪駅逓寮時計塔(明治6年[1873]12月13日起工 明治7年[1874]4月竣工),駒場農学校・教師館(明治9年[1876]10月10日起工 明治10年[1877]5月13日),生徒寄宿舎(明治9年[1876]10月14日起工 明治10年[1877]9月9日竣工)も林忠恕の設計です。

♪林忠恕は,伊勢國三重郡吉沢村の農家の出身で,はじめ鍛冶職,木挽きを業とし,のち三河の森川重範について大工の術を習ったそうです5)。

♪横濱に出て米国人ビールジェンス(R.P. Bridgens)に西洋建築法を学んでいます。明治4年[1871],大蔵省営繕寮に奉職後,東京医学校本館を設計した明治9年[1876]当時は,工部省に移っていました注1)。

◇◇

♪『東京區分全圖』(東京醫事新誌局発行 明治23年[1890]3月27日出版)の裏に「帝國醫科大學の略圖」が載っていました。(図4)鐡門を入った所に「帝國大學本部」と記載されています。これが時計台の建物です。

図4.「帝國醫科大學の略圖」(明治23年当時)

♪『帝國醫科大學の略圖』によると赤門を入った所に第一醫院の建物がありました。現在,医学部2号館本館、医学図書館(総合中央館)があるあたり一帯と思われます。研究室と病室の記述がみえます。のちに外科教授となる近藤次繁(第1外科講座)と佐藤三吉(第2外科講座)の病棟、三浦内科病棟(三浦謹之助)の絵葉書も残っています(図5 図5b)内科病棟の遠景には、時計台がみえ構内図(図6)により、その位置関係がわかります。

図5.医科大学佐藤外科・近藤外科病室

 

図5b。醫科大學三浦内科病室(絵葉書)(平成26年1月22日 追加)

 

医科大学婦人科小児科病室(絵葉書)

東京帝国大学病院外科病室(絵葉書)

図6.「東京帝国大学一覧」(明治37-38年)(国会図書館近代デジタル・ライブラリー)

♪時計台の建物は,医学部設置後は,「医学部本部」として利用されたようですが,絵葉書(図1)のキャプションには「東京帝國大學病院」あります。時計台が,大学のシンボル的な存在であったために時計台を病院と呼んでいたのかもしれません。

♪総長室も,この時計台にありました。『明治工業史 建築編』1)には,次のように記録されています。

大學総長たりし渡邊洪基,加藤弘之は,常に此の時計台下の階上室に座を占めたりしなり。又嘗て帝國大學醫院に行啓ありしとき,此の時計台下の室便殿に充てられたり。時に明治二十一年五月二十九日にして,帝國大學総長は渡邊洪基なりき。

♪明治43年(1910)末に時計台の建物は,解体され,一部は赤門前に,一部は学士会館(のち焼失)として移築されます。赤門横に移築された建物は,その後,史料編纂所や営繕課として使われました5)6)。現在,小石川植物園内に再移築され東京大学総合博物館小石川分館(東京医学校本館遺構)7)として遺されている建物です。

[参考:東京医学校本館の変遷]:198.東京大学本郷キャンパス案内:赤門の背景に写る旧東京医学校本館(旧史料編纂所)[絵葉書:(東京名所)帝國大學赤門]
(平成26年10月4日 参考リンクを追加)(平成29年6月7日 訂正・追記)

◇◇◇

♪実は「東京帝國大學病院」(図1)の絵葉書を入手する前に,もう一枚,「醫科大學外来患者診察所」と題する絵葉書(図7)を入手していました。「東京帝國大學病院」(図1)および「大學の時計薹と玄関」1)(図8)の写真と比べてみると時計塔の部分,バルノニーの形,玄関などの様子が違っています。

♪写真が不鮮明のため時計の文字盤の数字や針が確認できません。実際に時計が取り付けられていたかも、写真からではわかりません。この「醫科大學外来患者診察所」は,『東京大学の百年 1877-1977』8)の掲載されている写真と同様の建物です。アングルが違います。明治43年(1910)頃の撮影とされています。

図7.醫科大學外来患者診察所(絵葉書)

図8.大學の時計薹と玄関(出典:『明治工業史 4.建築編』)1)

♪東京医学校本館(時計台)の建物の玄関には,入り口部分に階段がついていますが,「醫科大學外来患者診察所」の玄関に階段はなく,バリアフリーになっています。いかにも病院の出入り口にふさわしい構造です。人力車も見えます。

♪「東京大学医学部時計塔」2)によると,鐡門の前に住んだ桐山富太郎氏(医学部御用商店・森田商店の支配人)と塩田広重(元医学部教授)の話として,明治43年(1910)末に東京医学校本館が解体された際に時計機械は取り外され,無縁坂下りる左側にあった医学部土蔵に保管されたようだとあります。そして,大学庶務課の談話として、戦時中に倉庫が取り払われた際に不要備品として処理されたと記録されています。

[2] 第一高等学校時計薹

場 所:旧本郷區向ヶ丘彌生町二番地(水戸藩邸跡)(現・東京大学農学部の場所)
建築年:明治22年(1889)
設 計:山口半六

♪第一高等学校の歴史を所在地別にみておきます9)10)。

1. 神田一ツ橋時代:明治8年(1875)-明治22年(1889)

明治8年(1875):東京英語学校にはじまる。神田一ツ橋の旧榊原藩邸跡の仮校舎で授業開始
明治9年(1876)11月27日:東京医学校が神田和泉橋より本郷旧前田藩邸跡へ新築移転
明治10年(1877)4月12日:東京英語学校を文部省直轄から東京大学附属とし,開成学校普通科(予科)を合併して東京大学予備門と改称
明治19年(1886)4月29日:第一高等中学校と改変

2. 本郷向ヶ丘時代:明治22年(1889)-昭和10年(1935)

明治22年(1889)3月22日:本郷弥生町(向ヶ丘,旧水戸藩邸跡)に移転
明治27年(1894)6月25日:高等学校令公布により第一高等学校と改称
昭和10年(1935) 2月1日:一高,「向陵碑」を遺跡記念として本郷の敷地内に建設する。この日除幕式挙行。(碑文:安井小太郎教授 書:菅虎雄教授)

3. 駒場向ヶ丘時代:昭和10年(1935)-昭和24年(1949)

昭和10年(1935)7月17日:一高,駒場の東京大学農学部と敷地を交換し本郷から駒場へ移転(東京市目黒区駒場町)
昭和24年(1949)5月31日:東京大学教養学部設置
昭和24年(1949)6月30日:一高は東京大学第一高等学校となる(校長・矢内原忠雄)
昭和25年(1949)3月24日:一高終焉により,麻生磯次校長の手により「第一高等学校」の門札を撤去

♪明治22年(1889)3月22日に旧水戸藩邸(現在の農学部がある場所)に第一高等中学校(現・東京大学教養学部[駒場]の前身)が一ツ橋から移転された際に建築された校舎にも時計薹(半円形の鐘塔)が付けられました11)。この設計は,山口半六(文部省建築課長)によります12)。山口半六は,上野の旧音楽学校奏楽堂(重要文化財)を設計した人物です。

山口半六(やまぐちはんろく)(1858-1900)の履歴を『明治過去帳』13)と当時の新聞記事からみ・ておきます。

安政5年(1858)8月:旧松江藩(現・島根県)の山口軍兵衛礼行の次男として生まれる。兄に日本銀行理事を務めた山口宗義がいる。弟に学習院長を務めた山口鋭之助がいる。
明治9年(1876):文部省留学生としてパリに行き12年(1879)8月建築工師の学称を受ける。(「東京日日」[明治12年(1879)10月16日付]によると,古市公威[明治8年(1875)派遣],沖野忠雄[明治9年(1876)派遣],山口半六[明治9年(1876)派遣]の3名がパリのエコールサントニール百工中央大学校(École Centrale Paris)を卒業している。)
明治14年(1881)6月:帰朝,三菱会社に入る。
明治19年(1886):文部書記官に任じる。
明治20年(1887):文部三等技師
明治21年(1888)6月末:東京美術学校は,上野公園内の教育博物館隣地に,仮校舎を建築することを決定。濱尾新(文部省専門学務局長),久保田譲(会計局長),山口半六(三等技師)の3氏によって該地見聞。
明治23年(1890):会計局建築掛長。
明治24年(1891):片山東熊,三好晋六郎らと工学博士となる。
明治33年(1900)8月23日:神戸で病没。享年43歳。

図9.第一高等学校(絵葉書)

図9の絵葉書は、国内から海外へ出されたものです。文面(宛名面)(図10)は英語で書かれており、J.KawanishiがAntwerp(Belgium)に送った絵葉書です。第一高等学校を卒業後,東京帝國大學の法科(law college)で2年間,学んでいることなどが書かれています。J.Kawanishiとは,文面から判断して川西實三(明治43年・一部甲)ではないかと思われます。

♪川西實三は,のち日本赤十字社の社長(第9代)を務めています。東京府知事も務め,知事は安井誠一郎,東龍太郎(一高,大正二・医科)と続きました。東龍太郎は,日本赤十字社社長(第10代)も務めています。

♪川西實三は、「新渡戸先生のことなど」14)のなかで「有り難き先輩」と題して次のように書いています。

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前田多門注4)、鶴見祐輔、岩永裕吉、藤井武、黒崎幸吉、黒木三次、金井清氏等、就中なかんずく、前田さんは先輩というよりも恩人。氏の人格の迸りの雄弁に感動の余り熱烈なる思慕の情を披攊した手紙を差上げたのがキッカケとなり、新渡戸先生に一入親近出来るようになり、上記の諸先輩も前田さんのお引き合せによるものである。附言すれば後年の帝国事務所勤務でジュネーヴに駐在することになった私の上長として前田さんが赴任して来られたり、新渡戸先生は国連の事務次長として内外信望の的となって居られたのであった。

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図11.第一高等學校正門(絵葉書)

図11の絵葉書は、本郷通り側から、正門を通して第一高等学校の時計台を見たものです。第一高等学校に入学し向陵生活をはじめた学生から尋常小学校時代の恩師に出されたもののようです。東寮を「監獄のような寄宿寮」と書いています。藤村操のことにもふれています。

♪第一高等学校の時計台の鐘の音について、藤島亥次郎(工学部教授)は,「その鐘の音は,余韻は短かったけれども,かん高く,夜間など根津あたりを散歩していても,聴かれた」11)と述べています。

♪室生犀星は,『ザボンの実る木のもとに15)のなかで一高の時計台について次のように書いています。時計台の鐘の音とともに,本郷台地上の茜色に染まる時計台の風景がよみがえります。

門からすこし出たところに根津八重垣町一帯の谷そこへ下る坂がありました。夕日が本郷高台一円の空を金色にそめてゐるのを私はよく見に出ました。高等学校の時計台が見えてゐます。坂はなめらかなけいしやで街へつづいて居り街には灯が入つて豆腐売や夕暮のもの騒がしい景色を点出してゐます。
♪大正12年(1923)9月1日の関東大震災で,一高(本郷)の象徴であった本館・時計台は被害を受け,爆破処理(解体爆破写真)(図12)(10月9日)されることになります。

♪昭和10年(1935)2月1日,一高,「向陵碑」を遺跡記念として敷地内に建設,除幕式を挙行します。碑文(碑陰)は,安井小太郎教授,書は菅虎雄教授によりました。現在、向陵碑は、農正門を入って右手の弥生ホールの一番奥の塀際に建っています。(図13 図13b 図13c

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図13. 向陵碑

図13b. 向陵碑(碑陰)

図13c. 向陵碑の碑文(案内板)

♪一高から東京大学医学部に進んだ沖中重雄(大正13年・理乙)(のち内科教授)と藤田恒太郎(のち解剖学教授)は同期でした。「医学界の先人たち16)のなかで,藤田恒太郎のことを次のように回想しています。

一高に入学した時,隣の席に居たのが藤田恒太郎君であった。藤田君は大変真面目な勉強家で,後に東大医学部解剖学教授になったが,学生の頃「自分は臨床医学をやりたいが,子供の時,片方の耳を中耳炎でやられているので,聴診器を使えなくては困るから,屍体を扱う解剖学をやるんだ」と言っていた。
♪木下正中(のち産婦人科教授)は,「第一高等学校」が「東京大学予備門」と呼ばれた明治18年(1885)入学,「第一高等中学校」と呼ばれた明治23年(1890)に卒業しています。同年帝國大學醫科大學に入学しています。17)

♪木下正中の弟の木下東作注5)は,明治28年(1895)に第一高等学校に入学し,明治33(1900)年卒業。同年東京帝國大學醫科大學に進んでいます。17)

♪一高から東大に進んだ東龍太郎は、座談會で一高・東大時代の漕艇部について語っています18)。当時の一高と東大の艇庫は、隅田川の向島にありました。東大の艇庫の設計は、東京驛を設計した辰野金吾によりました。

♪戦後,昭和25年(1950)3月末日をもって,一高は廃止され東京大学教養学部となります。昭和25年(1950)3月24日,一高の卒業式の日の日記に,校長であった麻生磯次は,一高の門札を外したことを,次のように書いています。19)図14

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一高最後の卒業式の日である。朝,安倍さん宅に,杉敏介先生を訪ね,祝辞を・時から茶話会,現旧職員,同窓会の役員,卒業生などが図書館に参集,杉・安倍・天野・田中耕太郎・高橋穣・柳沢健氏等に話してもらう。次いで一同門前に集まって,第一高等学校の門札を取り外す。七時から晩餐会,千数百名の卒業生先輩が食堂に参集し,すこぶる盛会であった。九時から寮歌祭に移り,庭上に篝火かがりびをたき,徹宵寮歌を合唱して,記念すべき日は終わった。

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図14. 一高最後の卒業式

♪農正門を入って真っすぐ、左手の一番奥に進むと向ヶ岡ファカルティハウスがあります。もと東京大学向ケ丘学寮があった場所です。ファカルティハウスの一階にはレストランがあるのですが、食事をしながら庭をみていたら隅になにか石碑が建っているのに気づきました。近寄ってみると、東京大学学寮址の石碑だったのです。(図15  図15b 図15c

図15, 東京大学向ケ岡学寮址の石碑 -農正門を入った一番奥の左手、向ケ岡ファカルティハウスの庭に建っているー

図15b. 東京大学向ヶ岡学寮址の案内板

図15c. 農学部キャンパス内にある向ケ岡ファカルティハウス(旧東京大学学寮跡地に建つ)

♪桜の季節になると,安田講堂時計塔(図16}の前庭に咲く枝垂れ桜(図17)が見事です。明治の文明開化とともに建築された学校建築に取り付けられた時計塔の鐘の音を想像しながら,無縁坂(図18)を下り、本郷と坂で繋がる谷中・根津・千駄木周辺を歩いてみたいと思います。(参考:本郷通りを歩く:日本医科大学附属病院界隈、旧真砂町・菊坂界隈)

図16. 東京帝国大学中央大講堂(絵葉書)

図17. 安田講堂前に咲く枝垂桜

図18. 上野不忍池から本郷台地を上がる無縁坂 -この坂上に鉄門があるー

注 記

1) 東京医学校本館の設計者:『明治工業史 建築編』1)によると林忠恕になっていますが,『日本近代建築史ノート』5)のなかにある「林忠恕・工部省在職中の関係建築」には,東京医学校本館の記載はありません。

2) 東京大学医学部の名称は,明治10年(1877)から明治19(1886)年までを第一次,昭和22年(1947)以降を第二次として,2回使われています。
関連第23回:東京大学医学部の名称の変遷

3) ファブルブランド(James Favre-Brandt)(1841-1923):スイス人貿易商。ロックル市出身。1863年遣日使節団の一員として来日。横濱居留地84番で開業し、のち175番地に移転。『時計心得草』の著がある。横濱外人墓地(9区)に家族とともに眠っています。(『図説横浜外国人居留地』20)による)

4) 前田多門の長女が神谷美恵子です。神谷美恵子は昭和19年(1944)東京女子医学専門学校を卒業後、東京帝國大學精神科に入局しています。ハンセン病について太田正雄(木下杢太郎)の指導も受けています。

5) 木下東作(1878-1952)17)
明治36年(1903):東京帝國大學醫科大學卒業、大学院
明治41年(1908):ウィーン大學留学、翌年帰国後、大阪府立高等医学校に復職
大正11年(1922):依願退職、大阪毎日新聞社に入社
大正15年(1926):日本女子スポーツ連盟設立―会長
昭和3年(1928):人見絹枝800m走銀メダル

4)正門を入って左手の東京帝国大学工科にも時計塔がありました。

東京帝国大学工科時計塔(絵葉書)

参 考 文 献

1) 大學の時計台:『明治工業史 4.建築編』(日本工業会編 原書房 1994)pp.161-163.
2) 東京大学医学部時計塔:『明治・東京時計塔記』(平野光雄著 青蛙房 昭和33年)pp.70-78.
3) 「上野に校舎建築と決定」(明治21年7月1日 東京日日)
4) 東京大學醫學部時代の醫學部本部「所謂(時計台)」(口絵):『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』(古畑種基編 東京帝國大學醫學部法醫學教室発行 昭和18年刊)
5) 「林忠恕その他」:『日本近代建築史ノート ―西洋館を建てた人々』(村松貞次郎著 世界書院 昭和40年)pp.60-77.
6) 「史料編纂所の移転」:『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 平成3年)pp.111-114.
7) 東京医学校本館遺構: 医学図書館 33(3):289-291,1986.
8) 『東京大学の百年 1877-1977』(東京大学出版会 1977)
9) 「本郷から駒場へ」(小田村寅二郎)向陵 16(2)[一高百年記念]:76-80.
10) 「第一高等学校年表」(藤木邦彦編)向陵 16(2)[一高百年記念]:220-251.
11) 第一高等学校時計塔:『明治・東京時計塔記』(平野光雄著 青蛙房 昭和33年)pp.118-121.
12) 「(三 帝國大學理科大學本館其の他)第一高等中学校」『明治工業史 4.建築編』(日本工業会編 原書房 1994)p.207.
13) 『明治過去帳<物故人名辞典>』(大植四郎編 昭和10年)
14) 「新渡戸先生のことなど」(川西實三)向陵 16(2)[一高百年記念]:170-171.
15) 室生犀星 「ザボンの実る木のもとに 」- 青空文庫
16) 「医学界の先人たち」(沖中重雄)向陵 16(2)[一高百年記念]:63-66.
17) 「木下凞・正中・東作の略年譜」:『先徳遺芳(木下文書)』(木下實著)

(私家版 平成23年7月刊)の巻末。
18) 「日本漕艇界の先駆一高と東大」(東龍太郎・根岸 正・西浦義幸)向陵 16(2)[一高百年記念]:328-337.
19) 「一高の終焉」(麻生磯次)向陵 16(2)[一高百年記念]:47-49.
20) 『図説横浜外国人居留地』(横浜開港資料館 有隣堂 平成10年)

 

 

(平成25年12月9日 記す)(平成29年6月7日 訂正・追加)(令和元年[2019]7月16日 絵葉書追加)

(令和6年1月27日 新聞記事切り抜きを追加)

13. 赤門の背景に写る旧東京医学校本館(旧史料編纂所)[絵葉書]

Google My Map 東京大学本郷キャンパス構内医史跡案内

東京大学 赤門:Google earth

♪週末の静かな本郷キャンパスを歩きます。三四郎池の周辺の紅葉は,もう終わりに近づき,空気がひんやりと感じられます。それでも,色づいた葉を通り抜ける光には,まだ,秋の気配を感じます。恋人らしい二人連れとすれ違いました。家族連れも歩いています。都会の大学の構内とは思えない,庭園のような場所です。六義園のなかを歩いているような錯覚を覚えました。

♪東大構内にも,「コミュニケーションセンター」などという施設ができ,オリジナルグッズなどを売っています。一昔前の東大では,考えられなかったことです。法人化によって,東大も開かれた大学になっています。書籍も扱っていて『東京大学本郷キャンパス案内』(木下直之/岸田省吾/大場秀章著 東京大学出版会 2005)1)は,ここで買いました。

コミュニケーションセンター

♪「コミュニケーションセンター」は,赤門(昭和6年[1931]12月14日 重要文化財)を入って左手にあります。史料編纂所の前に位置しています。明治期につくられ図書館製本所として使われた建物を再生したのだそうです。当時の外観は,赤煉瓦造りだったのですが,改修されて,正面は,ガラス張りになってしまいました。正面の外壁も,赤煉瓦を残した方が,レトロな感じで,赤門とともに,歴史ある東大の建築遺産となったと思われるだけに残念です。

史料編纂所

 

♪医学部・附属病院では,平成20年(2008)5月9日,創立150周年の節目の日を迎えました。記念事業の一環として,構内が整備され,青山胤通(内科教授),佐藤三吉(外科教授)の銅像,そしてドイツ医学導入の恩人である相良知安の記念碑なども,場所を移動させられています。新入院棟の周辺は,コンクリートの建物だらけになり,緑が少なく,ちょっと,息苦しい感じがします。

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♪明治9年[1876],東京医学校本館は,富山藩(加賀藩の支藩)の御殿跡に建てられました2)。無縁坂に通じる坂上です。「龍岡町通り」に面していました。現在,病院・南研究棟となっている場所です。ここに鉄門があって,森鴎外や北里柴三郎などが出入りしていたことになります。『雁』(森鴎外)に登場する岡田(モデルは緒方収二郎[緒方洪庵の六男])の下宿もこのあたりでした。鉄門を入って前庭があり,その正面に東京医学校本館(時計台)が建っていたことになります3)

帝国医科大学ノ略図

 

鉄門と東京医学校本館(東京大学医学部の表札がみえる)[無縁坂上時代] (出典:『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』[古畑種基編輯 非賣品 昭和十八年]3))

鉄門の近くにあった頃の東京医学校本館

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♪医学部創立150年の記念事業の一環4)として,鉄門が再建されています。大学構内に新しい門を設けるのは,管理上も,いろいろ問題はあったでしょうが,医学部の方々の鉄門を復活させるという強い意思を感じます。

再建された鉄門

 

鉄門の由来 案内板

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明治大正時代の赤門:背景の🌲がある場所に鉄門から東京医学校本館の建物が移築されることになる

♪旧東京医学校本館が,現在の経済学部のある場所,赤門を入って右手の位置に移築されて史料編纂所として使われていた時代がありました。三上参次の史料編纂所です。

東京帝国大学赤門内際史料編纂掛部(絵葉書)

♪三上参次は,後年,旧東京医学校の建物について懐旧談5)のなかで,次のように述べています。

・・・・・・・・・・・・・・・ところが,そこへ行ってから二年足らずであったが,私が朝出勤してみると御殿の周囲の枯芝がよほど焼けている。どうしたかと糺すと,宿直の小使が,休みにくる病院の患者が煙草を吸って燃やしたのだと言うのです。これを聞いて実に危いことだ。どうかしてもっと安全な所へ行きたいと思っている間に,医学部の古い建物,これは時計台と言っておって,木造建築の西洋風の建物で,この種の建物としては最も早い。大きいものであったが,これが取り払われるということになった。この建物はちょうど,マッチ箱を二つ集めたようなもので,真中に廊下を挟んで北側と南側に建物があった。それを真中の廊下から二つに割き,一半は赤門の所へ持って来て,たしか今は会計課か営繕課かになっておりますが,他の一半はこの一ツ橋へ持って来て学士会館にしたが,これはその後焼けてしまった。それで我々は赤門の所へ持って来た建物へ引越して,自由にかなり広く使えることになった。この建物と外部の道路は隔たってはありますけれども,よほど近かった。・・・・・・・

 

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♪この赤門を写した絵葉書は,古書店で,よく見かけるのですが,いずれも正面からのものばかりで,赤門の背景に旧東京医学校が写ったものをみたことがありませんでした。ところが,今回,東京大学の本郷キャンパスを散策するにあたって,絵葉書専門店のポケットブックスのホームページをみていたところ,赤門の背景に旧東京医学校本館が写った絵葉書をみつけました。時計台が写っていました。赤門の絵葉書というと,正面から写したものが多く,背景の建物が写り込んでいる絵葉書は,貴重であると思います。

東京帝国大学赤門(東京名所)(絵葉書)

東京帝國大學赤門(絵葉書)[赤門の右手に旧東京医学校がみえる]

東京大学赤門と旧東京医学校本館(絵葉書)(昭和30年代の撮影と思われる)

 

♪♪♪♪♪

三上参次と東京医学校本館の変遷

 明治9年(1876):11月,東京医学校を本郷旧加賀藩邸(旧富山藩邸内)に移す。本館竣工。校長は長與専斎。

明治10年(1877):4月12日,「東京大学」設立。東京医学校は東京大学医学部(第一次)となる。この時,綜理となったのが池田謙斎。

明治28年[1895]:4月,文科大学内に史料編纂掛が設けられ,三上参次が史料編纂委員となる。(当時の史料編纂掛の場所は森川町に面した法文学部の建物の二階の半分)

明治32年[1899]:三上参次、東京帝国大学文科大学教授・史料編纂掛主任となる。

明治38年[1905]三上参次、史料編纂掛事務主任[現在の史料編纂所長]になる。(当時の史料編纂掛の場所は山上御殿にあった。)

明治44年(1911):1月14日から7月20日までの期間をかけて解体。前半部が赤門横に移築され,史料編纂掛の建物となる。解体された後半部は,神田錦町の学士会館の建物となる。

昭和30年(1955):東京大学営繕課となる。

昭和40年(1965):用途廃止となる。

昭和44年(1969):3月,明治44年(1911)当時の外観に復元され,小石川植物園内に移築される。

昭和45年(1970):6月8日,重要文化財の指定を受ける。

平成14年(2002):1月12日,東京大学総合博物館小石川分館となる。

♪♪♪♪♪

 

♪この旧東京医学校本館は,現在,東京大学総合研究博物館小石川分館として利用されています。三宅秀6)(明治7年[1874]東京医学校長心得)の曾孫にあたる中村明男氏(前日本橋・榛原社長)と,小石川分館で,三宅秀に関する展示会が開催されたのを機会に,小石川植物園を訪ねたことを思い出します。東京医学校と小石川療養所の御薬園がマッチしている植物園内を歩きました。

東京医学校本館遺構(重要文化財)

東京医学校本館遺構と日本庭園

旧東京医学校本館(東京大学)案内板

 

♪旧東京医学校本館(旧史料編纂所)は,実に,よい場所を得て,時代にあった使われ方をしているように思います。春の訪れを待って,また,小石川植物園内を歩いてみたいと思います。天上の人となった中村氏の面影に,どこかで会えるのではないか。周辺の開発も,ほどほどにして,いつまでも,昔の名残が感じられる小石川植物園であってほしいと願っています。

 

 

参考文献

 1)『東京大学本郷キャンパス案内』(木下直之/岸田省吾/大場秀章著 東京大学出版会 2005)

2)『石黒忠悳 懐舊九十年』(石黒忠悳著 非賣品 昭和十一年)

3) 『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』[古畑種基編輯 非賣品 昭和十八年]

4)「東大病院だより」No.54 (平成18年8月31日発行)

p.2-3.医学部附属病院「鉄門」再建記念式典,”90年振りの鉄門の再建”

5)『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 平成三年)

6)『桔梗 ―三宅秀とその周辺―』(福田雅代編纂 岩波ブックセンター信山社 昭和六十年)

 

 

(平成23年12月26日 記す(平成29年6月1日 訂正・追記))(令和4年12月8日 追記)

 

12. 「醫科大學ベルツ・スクリバ両博士銅像」の旧位置

Google MyMap  東京大学本郷キャンパス構内銅像案内

♪現在,ベルツ・スクリバの銅像は,東京大学本郷キャンパスの龍岡門(旧南新門)(写真1)を入って,しばらく進み,四つ角を渡って左手の広場(健康と医学の博物館前庭の隣,運動場の手前)にあります。(写真2 写真3

(注:「健康と医学の博物館」は、平成31年4月18日、南研究棟1階に移転、リニューアルオープンされています。)

写真1 龍岡門(画面左手が入口)

 

写真2 健康と医学の博物館(2019年4月18日(木)この場所から南研究棟に移転、リニューアルオープンされた
写真3 ベルツ・スクリバ胸像へ向かう途中の前庭

♪この銅像は,設立当時は,現在,医学図書館(医学部総合中央館)が建っているところにあった病理学教室の崖下に位置していました。(図1)病理学教室の建物ができる前までは,「第一医院本院」があった場所です。「第一医院本院」は,赤門を入った正面から四つ角の方向に続く広大な建物でした。(『東京帝国大学一覧. 明治32-33年』[近代デジタルライブラリー]

 

図1 現在の医学部総合中央館(医学図書館)前の坂(戦前)

♪銅像の除幕式は,明治40年(1907)4月4日の午後3時に挙行されています。銅像の前庭には、日独両国旗が飾られ、銅像製作委員長の青山胤通教授から、大学総長の濱尾新へ引き渡しが行われました。

 

文 献

ベルツ・スクリーバ両教師銅像除幕式.『中外醫事新報』 第650号 明治40.4.20

ベルツ・スクリバ両教授銅像除幕式.「東京医事新報」 第1507号 52[756]-55[759] 明治40年4月13日発行

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♪「醫科大學ベルツ・スクリバ両博士銅像」と題する絵葉書(実逓)を入手しました。(図2)消印は,明治42年(1909)となっています。神田區にあった蓬莱館内から岡山県倉敷に出されています。

 

 

 

♪『東京帝國大學一覧』(明治41-42年)(近代デジタルライブラリー)のなかにある「東京帝國大學平面図」(図3)で銅像の位置が確認できました。(崖側:図2 赤色の場所)絵葉書の背景に写っている病理学教室との位置関係もわかります。

 

 

 

 

♪震災,戦災を経て,この銅像が残ったことは,当時の東京大学医学部の方々や,それに続く多くの方々の努力があってのことでしょう。ベルツ・スクリバの銅像は,医療の近代化のなかにあっても,歴史を重んじることの大切さを,後世に伝えています。

♪ソチ・冬季オリンピックの開会式が行われた深夜から,東京は,13年ぶりの大雪となりました。書斎から見る山茶花の枝も雪景色です。風も強まり,雪が舞っています。

♪医学図書館前の桜が開花する春の訪れには,まだ,しばらく時間がかかりそうです。(写真4)(写真5)春の日差しが待たれます。

写真4 1980年代の医学図書館・薬学部前庭
写真5.東京大学医学図書館(医学部中央館)と桜

(平成26年2月8日 記)(平成29年5月31日 訂正・追記)(令和元年[2019]11月23日 文献を追加)

11. 続・本郷東京大学構内:高島秋帆墓からベルツ・スクリバ胸像へ向かう

地図(Googe My Map) 本郷界隈:医史跡案内

高島秋帆墓所(Google earth):〒113-0023 東京都文京区向丘1丁目11−3(大圓寺墓地)

 

 

🚇(駒込)→🚇(本駒込)→🚇(東大前)

♪また、東京大学本郷キャンパス内にあるベルツ・スクリバの胸像を見に行ってみることにしました。今回も地下鉄南北線で「東大前」で下車し、直接ベルツ・スクリバの胸像に向かう予定でした。

♪「東大前」で下車したまではよかったのですが、高崎屋酒店(文京区向丘1-1-17が目に入り、ここにあったという追分一里塚の石碑が気になりました。高崎屋は江戸時代から続く老舗で、現金安売りで繁昌した酒店です。両替商もしたそうですが、現在の建物に昔の面影はありません。

本郷追分(左・旧中山道 右・日光御成道[岩槻街道・本郷通]) 中央の建物が高崎屋酒店

 

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♪ここは、日本橋を起点として中山道の一里目(約4キロ)にあたり、日光御成道・旧岩槻街道との分岐点で、かつては榎(えのき)がありました。石碑が置かれ旅の安全が祈られたといいます。

♪一里塚の標柱などは、現在、ここにはなく、大圓寺(だいえんじ)境内(文京区向丘1-11-3)に一部移された時期があったようです。山門をくぐって左手の庭先に置かれているのを見た記憶があります。

♪一里塚にあった道祖神・賽の大神碑は根津神社境内の駒込稲荷神社の近くに移されているようです。「桐の花」(渡辺兼男著)によると、賽の大神碑は、明治初年に火災で損傷していたものを駒込追分の町人たちが遺りの石を集めて改に「賽の大神碑」を建て、明治43年7月、根津神社に移したそうです。この碑の再建には、高崎屋酒店の主人であった渡邊仲蔵氏の尽力があったそうです。

♪明治43年に駒込追分から根津神社に移された「賽の大神碑」は、戦後、荒廃していた神社境内の改修に際して内苑の池の泥のなかに埋まっていたのが発見され立て直されたとのこと、近いうちに根津神社に行って実見してこようと思っています。

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♪大圓寺は高島秋帆(たかしま・しゅうはん 1798-1866 幕末の砲術家)の墓があることで有名です。

大圓寺は、旧中山道と御成道(本郷通り)に挟まれた場所にあります。白山上の交差点から、東大方向に向うと、左側、東京都立向丘高等学校に隣接した場所に参道への入り口があります。

大圓寺周辺略図

♪大きな「大圓寺」と刻また石柱が目印となっていますが、山門が旧中山道から奥まったところにあるので、行きつ戻りつしました。お墓を探してお参りするのも時間がかかります。

大圓寺

 

🌲本堂の左手が大圓寺の墓所になっていて、路地をわたって墓所へ繋がる門をくぐると右手によく手入れの行き届いた墓域が広がっていました。2022年6月18日に訪ねた折は、ちょうど植木屋さんが境内の清掃をしているところでした。

 

高島秋帆の墓へ向かう墓道(2022.6.18撮影

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♪高崎屋の前から中山道を大圓寺に向かったのですが、思いのほか距離がありました。中山書店(注)の前を通り、白山上交差点の近くに大圓寺はありました。境内にはシーボルトにも関係がある紫陽花が咲き乱れていました。

♪墓地ないのいたるところに綺麗なお花が植えてあって、蝶々が舞っていました。その蝶々に案内されるかのように高島秋帆のお墓への墓道を進みました。

♪高島秋帆のお墓は、墓地の一番奥まったところにありました。お墓の裏は、民家になっていて、白山上の風景も随分、かわったのだろうなと思われました。

注)中山書店の移転

 旧所在地
 〒113-8666 東京都文京区白山1-25-14

 新所在地(平成27年11 月24 日より)
 〒112-0006 東京都文京区小日向4-2-6

2022.6.18撮影
大圓寺墓地内の花々(2022.6.18撮影)

 

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♪大圓寺をあとにして、東京都立向丘高等学校と大圓寺に挟まれた路地を本郷通りに抜けて、東京大学構内に向かいました。

♪ベルツ・スクリバの胸像は、その説明版(石版)によると1907年4月4日に建てられたとあります。

東京大学名誉教師ベルツ先生(在職1876-1902)同スクリバ先生(在職1881-1901)は本学部創始のころ20年以上にわたってそれぞれ内科学外科学を教授指導し、わが国近代医学の真の基礎を築いた恩人である。この碑は両先生の功績を記念するため明治40年4月4日(1907)建設せられたが、このたび医学部総合中央館の新築にともなって昭和36年11月3日(1961)原位置の北方60メートルのこの地点に移した。 東京大学医学部

 

♪ベルツ(Baelz, Erwin von 1849-1913)は、ドイツの医者で、1876年に招かれて来日し、東京医学校、東京大学医学部、帝国大学医科大学の教師となり、生理学、病理学、内科学などを講じました。1902年まで在職し、その後、名誉教師となり、1905年に帰国しました。つまり、今年(2002)は、ベルツの退職後100年ということになります。

東京大学本郷キャンパス内のベルツ・スクリバの胸像

♪胸像の横に、「秋桜子」の句碑が建っていました。どうして、ここに「秋桜子」の歌碑があるのか、調査を続けたいと思います。

水原秋桜子の歌碑

帰りは、龍岡門を出て、本郷通りにもどり文光堂の前を通って、「東大赤門前」から都バスで駒込にもどりました。 

(平成14年6月16日 記)(平成29年5月30日 訂正・追加)(令和4年6月18日 写真を追加)

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ベルツ先生(明治27年写す)(絵葉書)
スクリバの肖像

9. 本郷・東京大学構内 : ベルツ・スクリバの銅像

東京大学本郷キャンパス(Google earth)

♪この1週間ほど少し風邪気味でした。無理をしないで、東大構内へは自転車でなく、地下鉄南北線で向かいました。「駒込」から南北線に乗ると「本駒込」、「東大前」となります。

♪「東大前」といっても、本郷通りと中山道の交差点辺り(農学部の近く)に駅の出入口があり、東大正門からは、随分離れています。医学部には本郷通りを本郷3丁目方向に歩いて正門を過ぎ、赤門から入ると正面が医学部本館になります。

 
明治後半の赤門(絵葉書)

♪医学部本館の横を通って、医学部中央館(医学図書館)の裏にベルツ・スクリバの胸像があります。新しく建築された病院前のバス通りに面ています。このベルツ・スクリバの銅像がある辺りは、春になると桜が咲き乱れます。

ベルツ・スクリバの銅像の除幕式が行われたのは、明治40年(1907)4月4日のことでした。晴れ渡った空に大小無数の日独両国の国旗が美しく飾られ、銅像建設委員長の青山胤通教授から濱尾新総長に銅像が引き渡されたそうです。

出典:ベルツ・スクリバ両教授銅像除幕式(東京医事新報:1507号 52[756]-55[759])明治40.4.13発行
 
平成23年12月16日撮影(堀江幸司)
 
 
 
戦前のベルツ・スクリバ像(絵葉書)
 
 
 
 
 
 
 
 
♪東大構内には、ベルツ・スクリバの銅像のほかにも、医史跡が点在しています。おいおい紹介します。

 

 
 
 

(平成14年6月2日 記)(平成29年5月30日 訂正・追加)(平成30年11月29日 絵葉書を追加)

(令和元年[2019]11月23日 文献を追加)

 

8. 写真でみる東京大学本郷キャンパス医史跡案内 : 東京医学校本館(時計塔)の場所の移転

Google MyMap 東京大学本郷キャンパス構内案内

Google Photo 東京大学本郷キャンパス写真アルバム

帝国大学赤門(明治40年頃)

 

(1)創立当時の東京医学校本館

東京帝国大学病院(絵葉書)

画面の右手が鉄門、奥がベルツの住んだ教師宅があった本郷台地の崖上の方向です。

 

東京大学医学部

 

(2)赤門横に移築された東京医学校本館(史料編纂所・営繕課として使用)(明治44年解体・移築)

東京帝国大学赤門内際史料編纂掛部(絵葉書)(明治44年移築当時)

本郷通り側から見た赤門。赤門を入って右手に旧東京医学校本館の建物が見える

 

(3)小石川植物園内に移築された東京医学校本館遺構(東京大学総合博物館分館として使用)(昭和44年解体・移築)

小石川植物圓内に移築された東京医学校本館遺構(1980年代)(堀江幸司撮影)

 

 

7.緒方洪庵が通った「安懐堂」と「日習堂」:江戸深川・木場界隈

♪今年(2010)は,緒方洪庵(1810-1863)が誕生して,200年目にあたります。昨年は,時代劇ドラマで,洪庵をNHKの「浪花の華 -緒方洪庵事件帳- 」では窪田正孝さんが,TBS系の「JIN -仁-」では武田鉄矢さんが,それぞれに演じて,話題になりました。

♪「JIN -仁-」がドラマとして完成度が高かったのは,原作,脚本,演出,配役,カメラ,照明,美術,編集,音楽,時代考証,医療指導(監修)など,どれひとつとっても,丁寧で素晴らしく,とくにドラマの前半部分では,洪庵がドラマの縦糸となって物語を紡いでいたように思えました。仁の過去と未来への思いが,洪庵とのふれあいのなかで,揺れ動き,医療の在り方を考えさせられる社会派ドラマのようにも思えました。

♪華やかな女優陣に囲まれながら,洪庵を演じ切った武田鉄矢さんの演技は,こころに沁み入るものがありました。洪庵という人間像を醸し出していたようにも感じました。

♪仁が髙林寺の洪庵のお墓に向かうシーンも印象深く,記憶にのこりました。幕末のころの駒込髙林寺の周辺は,こんな風な情景設定になるのかと,思わず感心しました。

♪そして,なにより,好きだったのが,音楽。場面毎に流れる音楽も,このドラマを引き立てていました。タイトルバックの音楽よかったですね。MISIAの主題歌「逢いたくていま」も秀逸でした。

♪その洪庵の「若き日の江戸での足跡は?」とのご質問とご意見を「江戸東京」にいただきました。緒方洪庵の専門家ではないので,面喰いましたが,散歩の範囲で調べてみました。

♪若き日の緒方洪庵(1810-1863)1)2)は,天保2年(1831)から天保6年(1835)までの4年間,江戸へ出て,坪井つぼい信道しんどう(1795-1848)の蘭学塾である「安懐堂(あんかいどう)」と「日習堂(にちしゅうどう)」で修業します。信道の門に入ったのは,天保2年(1831)2月,22歳のときでした3)

♪「安懐堂」は,文政12年(1829)から天保7年(1836)までの塾名で,場所は深川上木場三好町4)。三好町は,木場の木置場に面した町でした5)。現在の江東区立深川六中学校の辺りかと思われます。周辺には木場公園や親水公園など自然豊かな場所が残されています。

♪洪庵が「安懐堂」時代に訳したローゼの『人身窮理学小解』(じんしん・きゅうりがく・しょうかい)の写本に「天保歳次壬辰十二月訳干安懐堂南窓下」とあります4)

♪信道は,洪庵が江戸へ来た天保2年(1831)に青地林宗(あおち・りんそう)(1775-1833)の長女・粂(クメ)と結婚し,翌天保3年(1832)に深川冬木町に新居を設けます。

♪この深川冬木町に開いたのが「日習堂」。「日習堂」は「安懐堂」の西南500メートル程離れた場所に位置し,仙臺堀の亀かめ久ひさ橋を渡った対岸の地にありました。現在の江東区立深川第二中学校の辺りかと思われます。

♪亀かめ久ひさ橋は,歴史のある橋で,文久2年(1862)の『本所深川絵図』をみると仙台堀に架かっています。小説『鬼平犯科帳』にも登場し,享保11年(1726)には,すでに掛け替えがあった橋のようです。

♪洪庵は,仙臺堀の亀久橋を渡り,「安懐堂」と「日習堂」を行き来して,翻訳や按摩の仕事をし,義眼をつくりながら,蘭学に励んでいたのでしょうか。

亀久橋 橋の遠景に建設途中の「東京スカイツリー」がみえる  (平成22年5月16日 堀江幸司撮影)


♪洪庵が青春時代を過ごした現在の
仙台堀川公園の周辺には,ホタルが星降るような自然はありませんが,それでも春には桜が咲く,憩いの場所になっています。

♪仁が,江戸で修業中の洪庵のいる深川木場にタイムスリップ,そして,そこから,洪庵とともに,現在の浅草界隈にでもワープしたら,どのようなストリー展開になるかなどと,勝手な妄想を廻らせています。

♪江戸時代の深川の町並みを再現した「深川江戸資料館」は,現在,改修工事中で,今年(2010)の7月まで,休館しています。

参 考 文 献

1)『緒方洪庵伝』(第2版)(緒方富雄著 岩波書店 1963)

2)『緒方洪庵 ―幕末の医と教え―』(中田雅博著 思文閣出版 2009)

3)『蘭医家坪井の系譜と芳治』(斎藤祥男著 東京布井出版 1い988)

4)「安懐堂と日習堂」(片桐一男)『蘭学資料研究会研究報告』第222回 pp.5-6, 1969.

5)『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』(人文社 2002)

(平成22年4月29日 記す)(平成22年6月5日 写真追加)(平成29月5月23日 訂正・追加)

6.足守の思い出:「洪庵緒方先生碑」の碑文:「緒方洪庵誕生地」

第1回で、緒方洪庵のお墓がある本郷の高林寺(こうりんじ)のことを書いたとき、岡山県足守(あしもり)にある誕生地についても触れました。

 

参考文献:緒方洪庵誕生地(堀江幸司 文・写真) 医学図書館 33(2) : 204-205, 1986.

♪長崎のことを書くにあたって、古いアルバムなどを繰っていたら、足守へ行ったときの写真も出てきました。そのなかに、「洪庵緒方先生碑」の石碑の裏にある碑文を撮った写真がありました。

「洪庵緒方先生碑」碑陰にある碑文(1986年撮影)

 


♪「洪庵緒方先生碑」のある場所は、明治のはじめまで、洪庵の兄が住み、大正の末期に岡山県に寄贈された洪庵の本家佐伯氏の旧宅跡だそうです。敷地面積は686平方メートル。敷地の入り口は、傾斜地になっていて、その正面、敷地の中央奥に顕彰碑が、建立されていました。自然石でつくられ、碑陰には、碑文が刻まれていました。

♪「洪庵緒方先生碑」の碑文のことでは、思い出があります。この碑文を書き写すにも、あまりに長文で、なにしろ碑が大きいものですから、高い位置に書いてある文字は、よく見えません。そこで写真に収めておきました。

♪そのころの写真は、デジタルではありませんので、その場で撮影の状態を確認できません。そこで、念のために、近くにあった岡山市立歴史資料館でなにか碑に関する資料がないか、調べてみることにしました。その全文が載った古い手書きの資料を発見しました。やはり、郷土資料は、地元の図書館・資料館を利用するのが一番だと、痛感しました。

 

 

足守文庫

 

 

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♪碑文は、岡山県医師会長・藤原鐡太郎氏によるもので、昭和2年(1927)10月に書かれ、碑面の題字は、当時、京都帝國大學総長であった荒木寅三郎の手になるものでした。石の下には、洪庵の臍緒と産毛、および元服のときの遺髪が埋められているそうです。いまから、ちょうど80年前のことです。

 緒方洪庵像の碑文の題字を書いた荒木博士肖像画(絵葉書)

♪昭和3年(1928)5月27日に挙行された除幕式には,碑面に題した荒木京大総長をはじめとして林慶應義塾々長田中岡山医大学長など,多数の参加者があり、遺族総代として緒方銈次郎緒方収二郎も参加しています。式後,近水園内の吟風閣(ぎんぷうかく)(京都御所 <仙洞御所・中宮御所>の普請の残材で築造された茶室風の建物)で記念撮影が行われたそうです。

 

♪碑文が書かれた昭和2年(1927)という年は、現在の日本医学図書館協会(創立当時は「官立醫科大學附属図書館協議会」といった)が創立された年にもあたります。第1回総会が、新潟醫科大学で開催され、岡山醫科大学からも松田金十郎が出席しています。当時の岡山醫科大学の館長は、生沼曹六教授でした。日本医学図書館協会が、洪庵の碑と同じ年にできたというのも、なにか不思議な縁を感じます。洪庵の曾孫にあたられる緒方富雄先生(東京大学医学部血清学教室教授)が、日本医学図書館協会の第2代会長(1956-1962)となり、協会の発展に尽力されたからです。

 

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♪わたしが足守に行った4年後の平成2年(1990)7月には、洪庵の生誕180周年記念事業として、「ブロンズ座像」が作られ、「洪庵緒方先生碑」に向かって左側に置かれました。敷地内の整備も行われたようです。入り口付近も、わたしが行ったときとは、大分、様子が変わり、傾斜地には、階段がとりつけられているようです。

♪資料のなかで「洪庵緒方先生碑」碑文の項には、碑文の全文が、次のように記録してありました。少し長くなりますが、のちのちのために、引用しておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

洪庵緒方先生碑

(碑陰)

緒方洪庵先生ハ杏林ノ逸材ナリ。文化庚午七年十四日備中足守藩士佐伯氏ニ生レ出テゝ遠祖ノ姓緒方ヲ稱ス。夙ニ醫ニ志シ蘭學ヲ修メ篤學ニシテ卓識ナリ。初メ居ヲ大阪に卜シ刀圭ノ業ニ從フヤ常ニ濟生ヲ念トシ種痘術ノ普及ニ努メ專ラ力ヲ育英ニ注キ書ヲ著シ學ヲ講ス。及門ノ士千ニ上リ名聲大ニ揚ル。後幕府ノ召ス所トナリ居ヲ江戸ニ移シ文久癸亥三年六月十日五十有四歳ニシテ其地に没ス。而シテ先生門下多士儕々啻ニ刀圭ノ術ニ於テ先生ノ衣鉢ヲ傳ヘタルノミナラス或ハ明治維新ノ風雲ヲ叱咤シテ王政復古ノ大業ニ参與シタル者アリ。或ハ日本文化ノ指導ニ任シテ其開發ニ多大ノ貢獻ヲナシタル者アリ。皆共ニ先生感化ノ及フ所ナリ。亦偉大ナラスヤ。今慈先生歿後六十四年吉備郡醫師會發起トナリ有志ヲ四方ニ募リ碑ヲ建テゝ先生誕生ノ地ヲ不朽ニ傳ヘムトス。先生ノ令孫緒方銈次郎氏並ニ本家ノ後嗣佐伯立四郎氏其擧ヲ賛シ佐伯氏故宅ノ跡ヲ讓シ併セテ先生ノ臍緒産毛及ヒ元服ノ遺髪ヲ其碑下ニ埋メシム。此地此碑即是ナリ。京都帝國大學總長荒木博士碑面ニ題シ余其所ヲ以ヲ碑背ニ誌ス。鍜冶山ノ麓足守川ノ邊山紫水明ノ處是レ偉人誕生ノ靈地ナリ。庚幾ハ此地ニ來リ此碑ヲ仰キ先生ノ遺德ヲ賛シ其感化ニ浴セムトスルノ士萬世ニ亘リテ絶エサランコトヲ。

昭和二年十月

岡山縣醫師會長 藤原鐡太郎 謹誌

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♪今日の東京の気温は、33.8度。大変な蒸し暑さでした。外へ出ると呼吸が苦しくなりそうです。洪庵が奥御医師(将軍の侍医)の命を受けて、大坂から江戸へ出ることになるのは、亡くなる前年の文久二年(1862)のことでした。

♪幕府のお召しとはいえ、自身の体調が悪いなか、こんな息苦しい江戸へなど出てくる必要はなかったのではないか。なにか方策はなかったものか。亡くなる前には、足守川のせせらぎの音や、風の音を感じたのではないか。今日の東京の暑さで、わたしに、そんな妄想が沸いてきました。

(平成19年8月5日 記)(平成29年5月23日 訂正・追記)(令和元年10月8日 訂正追記)(令和3年2月14日 訂正追加)