84.「わが師わが友 (2)」(No.51-No.60)

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「わが師わが友」No.51-No.60(PDF)

51.片山國嘉先生を偲ぶ 三田定則 1294 19[279]-20[280] 昭和24年2月12日

52.宮入慶之助先生 大平得三 1295 19[327]-20[328] 昭和24年2月19日

53.目黒庸三郎先生 中富猪熊 1296 21[377] 昭和24年2月26日

54.父井上達也 井上達二 1297 19[423] 昭和24年3月5日

55.慈恵の恩師  新井春次郎先生・生沼曹六先生・木村哲二先生・朝倉文三先生・加藤義夫先生・ 實吉、大角両先生  飯田喜久 1298 21[473]-22[474] 昭和24年3月12日

56.恩師ベルツ先生の傳 三浦謹之介 1299 19[519] 昭和24年3月19日

57.佐々木政吉先生 小池 重 1300 19[567]-20[569[ 昭和24年3月26日

58.高木友枝さんの思出 荒井 惠 1301 19[615] 昭和24年4月2日

59.藤浪 鑑先生 森 茂樹 1302 23[671]-24[672] 昭和24年4月9日

60.佐藤邦雄先生の追憶 竹内 勝 1303 37[737]-38[738] 昭和24年4月16日

(令和元年[2019]11月24日 記す)

83. 「わが師わが友」(1)(第1回から第50回)

♪「東都掃苔記」と「新東京・醫學きまぐれ散歩」の一覧表を作成するために,戦後の『日本醫事新報』(週刊)の雑誌に一冊一冊あたっていて,別の連載記事があることがわかりました。「わが師わが友」という連載記事です。

♪「わが師わが友」には,単行本の形で伝記が出版されていない医家の貴重な伝記的な記述が多く含まれており,この連載記事も,一覧表の形で集積しておきたいと思います。長期(全150回)(昭和23年1月から昭和27年2月)にわたる連載なので,一覧表(デジタルアーカイブス)づくりは,根気作業となりそうです。

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♪「わが師わが友」の第1回は,昭和23年(1948)1月1日(第1242号)の「青山胤通先生」(稲田龍吉著)からはじまっていました。第2回は,「北里柴三郎博士」(中山壽彦著)を取り上げています。連載の冒頭に,明治から大正にかけて活躍した国立と私立の医科大学の中心人物を取り上げた形になっています。青山胤通と北里柴三郎は,明治27年(1894)6月,香港で発生したペスト調査のために共に,内務省から派遣された仲でもありました。

♪この連載記事は,長期にわたるのですが,とりあえず第1回から第50回までの連載記事を一覧表に纏めてみました。帝國醫科大學時代の蒼々たる教授たちが取り上げられ,その執筆陣も著名な方ばかりです。第10回の小金井良精の項では,紹介記事を西成甫が書き、第40回の三宅秀については、佐藤物外[恒二]が書いています。

♪取り上げる人物の肖像写真が,本文中に挿入されていますので,その点でも,貴重な連載記事となっています。

「わが師わが友(1-50)」(PDF)

1.青山胤通先生 稲田龍吉 1242 22[22]-23[23] 昭和23年1月1日

2.北里柴三郎博士 中山壽彦 1243 14[66]-15[67] 昭和23年1月21日

3.長與又郎先生 田宮猛雄 1244 15[107] 昭和23年2月1日

4.呉建先生の思ひ出 冲中重雄 1245 14[146]-15[147] 昭和23年2月11日

5.森島先生のことども 阿部勝馬 1246 21[193] 昭和23年2月21日

6.平井毓太郎先生 竹内薫兵 1247 12[225] 昭和23年3月1日

7.若き日の野口英世博士 石塚三郎 1248 18[262]-19[263] 昭和23年3月11日

8.意志と情熱の學者 布施現之助先生 内田三千太郎 1249 25[309]-27[311] 昭和23年3月21日

9.北川正惇先生の追憶 田村 一 1250 13[345] 昭和23年4月1日

10.小金井先生を偲ぶ 西 成甫 1251 14[378]-15[379] 昭和23年4月11日

11.恩師秦佐八郎先生 小林六造 1252 16[420]-17[421] 昭和23年4月21日

12.呉秀三先生 杉田直樹 1253 17[461] 昭和23年5月1日

13.石川日出鶴丸先生を語る 浦本政三郎 1255 13[521]-14[522] 昭和23年5月15日

14.宮本叔先生 村山達三 1256 13[545] 昭和23年5月22日

15.横手千代之助先生 古瀬安俊 1257 15[579] 昭和23年5月29日

16.太田正雄博士の思い出 梅室痩庵 1258 13[609] 昭和23年6月5日

17.恩師島薗順次郎先生を憶ふ 柳金太郎 1259 15[643] 昭和23年6月12日

18.川村麟也先生 伊藤辰治 1260 15[675] 昭和23年6月19日

19.金杉英五郎先生 石川光昭 1261 11[703] 昭和23年6月26日

20.南 大曹先生 桑野佐源太 1262 15[739] 昭和23年7月3日

21.茂木蔵之助先生の憶い出 島田信勝 1263 13[769]-14[770] 昭和23年7月10日

22.高木兼寛先生を語る 小田部荘三郎 1264 15[803] 昭和23年7月17日

23.中原和郎君 矢追秀武 1265 13[833], 17[837] 頁の下段へ続く 昭和23年7月24日

24.岡田清三郎先生 青山進午 1266 13[865] 昭和23年7月31日

25.土肥慶蔵先生を語る 高橋 明 1267 13[897]-14[898] 昭和23年8月7日

26.恩師大澤謙二先生 永井 潜 1268 19[935] 昭和23年8月14日

27.ドクター・トイスラー  橋本寛敏 1269 11[967]-12[968]
昭和23年8月21日

28.恩師瀬尾貞信博士 中山恒明 1270 13[1001]-14[1002] 昭和23年8月28日

29.心の父 富士川游先生 佐藤美實 1271 29[1049]-30[1050] 昭和23年9月4日

30.河北眞太郎君 小島三郎 1272 13[1073] 昭和23年9月11日

31.河本重次郎先生 庄司義治 1273 13[1105] 昭和23年9月18日

32.田代義徳先生 名倉重雄 1274 11[1135] 昭和23年9月25日

33.木村徳衛先生を憶う 荒井恒雄 1275 13[1169]-14[1170] 昭和23年10月2日

34.恩師スクリバ先生 芳賀榮次郎 1276 12[1200]-13[1201] 昭和23年10月9日

35.中村文平先生 守山安夫 1277 19[1239] 昭和23年10月16日

36.岡嶋敬治先生 平澤 興 1278 13[1273] 昭和23年10月23日

37.太田原豊一先生 六反田藤吉 1279 21[1313] 昭和23年10月30日

38.小口忠太先生 中島 實 1280 29[1361] 昭和23年11月6日

39.猪子止戈之助先生の事ども 鳥潟隆三 1281 13[1385]-14[1386] 昭和23年11月13日

40.三宅 秀先生 佐藤物外[恒二] 1282 17[1421] 昭和23年11月20日

41.足立文太郎先生 清野謙次 1283 17[1461] 昭和23年11月27日

42.桂田富士郎先生 戸田 享 1284 17[1501] 昭和23年12月4日

43.森鴎外先生 山田弘倫 1285 25[1549] 昭和23年12月11日

44.水尾源太郎先生 中村文平 1286 13[1577] 昭和23年12月18日

45.私の見た荒木寅三郎先生 古武彌四郎 1288 39[39] 昭和24年1月1日

46.弘田 長先生 栗山重信 1289 11[79] 昭和24年1月8日

47.入澤先生千古不易の教 西川義方 1290 23[115]-24[116] 昭和24年1月15日

48.大瀧潤家君を偲ぶ 二木謙三 1291 17[149] 昭和24年1月22日

49.菅 之芳先生 若山茂雄 1292 19[191] 昭和24年1月29日

50.伊藤準三先生の事ども 鳥潟隆三 1293 21[233]-22[234] 昭和24年2月5日

(令和元年[2019]11月23日)

82. 「建築寫眞類聚 特種建築」

♪大正9年(1920)に出版された「建築寫眞類聚 特種建築」(建築寫眞類聚刊行會編輯兼発行 洪洋社)という資料のなかに、当時の病院建築を写した写真がありました。

♪この「建築寫眞類聚 特種建築」は、46判の紙に印刷された50点の写真が、帙(ちつ)に包まれています。バラバラになりやすく、国立国会図書館に収蔵されているものにも欠けている写真(9. 東京 川村小児科病院)があります。幸い、50枚の写真が完全に揃ったものを入手しましたのでデジタル化しておきます。

「建築寫眞類聚 特種建築」(PDF)

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♪各写真(50点)のキャプションは下記の通りです。

1.東京 瀬川小児病院

2.東京 瀬川小児病院

3.東京 瀬川小児病院

4.東京 瀬川小児病院

5.東京 土田外来診察所

6.東京 原田醫院

7.東京 原田醫院

8.東京 原田醫院

9.東京 川村小児科病院

10.東京樋口病院

11.東京 ニコライ會堂

12.東京 ニコライ會堂

13.東京 ニコライ會堂

14.東京 ニコライ會堂

15.東京 ニコライ會堂

16.東京 ニコライ會堂

17.東京 バプテスト教會

18.東京 バプテスト教會

19.東京 メソヂスト銀座教會

20.東京 霊南坂教會

21.東京 霊南坂教會

22.東京 日本基督教青年會同盟本部

23.東京 日本基督教青年會同盟本部

24.東京 日本基督教青年會同盟本部

25.東京 佛教青年傳道會

26.東京 佛教青年傳道會

27.東京 天主公教會

28.東京 天主公教會

29.東京 天主公教會

30.東京 天主公教會

31.神戸 基督青年會館

32.奈良ホテル

33.奈良ホテル

34.奈良ホテル

35.奈良ホテル

36.神戸 オリエンタルホテル

37.横濱記念會館

38.横濱記念會館

39.横濱記念會館

40.横濱記念會館

41.神戸 カフェー・パウリスタ

42.神戸 カフェー・ブラジル

43.東京 西洋料理 中央亭

44.東京 西洋料理 中央亭

45.東京 カフェー・清新軒

46.大阪 新世界 通天閣

47.大阪 新世界 通天閣

48.大阪 活動寫眞・日本倶樂部

49.大阪 活動寫眞館 樂天地

50.神戸 活動寫眞聚樂館

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1.東京 瀬川小児病院

2.東京 瀬川小児病院

3.東京 瀬川小児病院

4.東京 瀬川小児病院

5.東京 土田外来診察所

6.東京 原田醫院

7.東京 原田醫院

8.東京 原田醫院

9.東京 川村小児科病院

10.東京 樋口病院

11.東京 ニコライ會堂

12.東京 ニコライ會堂

13.東京 ニコライ會堂

14.東京 ニコライ會堂

15.東京 ニコライ會堂

16.東京 ニコライ會堂

17.東京 バプテスト教會

18.東京 バプテスト教會

19.東京 メソヂスト銀座教會

20.東京 霊南坂教會

21.東京 霊南坂教會

22.東京 日本基督教青年會同盟本部


23.東京 日本基督教青年會同盟本部

24.東京 日本基督教青年會同盟本部

25.東京 佛教青年傳道會

26.東京 佛教青年傳道會

27.東京 天主公教會

28.東京 天主公教會

29.東京 天主公教會

30.東京 天主公教會

31.神戸 基督青年會館

32.奈良ホテル

33.奈良ホテル

34.奈良ホテル

35.奈良ホテル

36.神戸 オリエンタルホテル

37.横濱記念會館

38.横濱記念會館

39.横濱記念會館

40.横濱記念會館

41.神戸 カフェー・パウリスタ

42.神戸 カフェー・ブラジル

43.東京 西洋料理 中央亭

44.東京 西洋料理 中央亭

45.東京 カフェー・清新軒

46.大阪 新世界 通天閣

47.大阪 新世界 通天閣

48.大阪 活動寫眞・日本倶樂部

49.大阪 活動寫眞館 樂天地

50.神戸 活動寫眞聚樂館

(令和元年[2019]年11月11日 記す)

81. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(3)(最終回)(「日本医事新報」 No.1463-No.1475)

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1):「日本医事新報」No.1434-N.1445

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(2):「日本医事新報」No.1446-No.1462

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♪ 今回は、「新東京・醫學きまぐれ散歩」第3回(最終回)として下記の「日本医事新報」のなかから、第1463号から第1475号を紹介します。

新東京・医学きまぐれ散歩(PDF)

S.M.氏が見た戦後の復興風景

九段界隈

電車通りは一面の焼け跡で,復興はしているものの實に哀れな復興ぶりだ。靖國神社の外部の植込も焼けてしまって,参道の銀杏並木や露店がジカに見えるので,何だか空白ができたようで,賑わいを呈していながら,うら寂しい感がある。濠端の方へと辿ると,もう人影もなく,向う岸は青草の土手の上に石垣をめぐらせた江戸城の面影を残し,ひっそりと美しい景観をなしている。

僕が一口坂の停留所から市ヶ谷見附までぶらついたのは,四月廿七日の日曜日で,逓信病院の方面を歩いたついでだったが,その後,番町を歩いて見て,昔のブルジョア住宅地帯が如何にサンタンたる有様であるかを初めて知った。それに比べると,一口坂から市ヶ谷見附に至る電車通りは,先ず先ずこの辺りで復興の早い部分だと云えるかも知れぬ。

麹町・番町界隈

飯田橋から牛込方面を望む

番町は戦災で丸焼けになったと云ってよい。どうにか残ったのはコンクリートの大建築ばかりだ。大邸宅は門と塀だけを残して,中に焼土蔵がツッ立っているのもある。空地には雑草が茂って白い花をつけ,牛込台地の新緑がヂカに眺められる所があったり,建築工事にとり掛っている所もある。そうした中に,応急バラック群が屋根のトタンも錆び,板張りの壁に隙間が生じたりして,わびしくうずくまっている。かと思うと,やけにモダンな住宅があったり,工場か寮かといったような木造ペンキ塗の二階家が不愛想にツッ立っていたりする。人影もなくひっそりしているのに,五月幟がふらふらしている。                                           

築地界隈

築地新富座
築地精養軒

築地へやって来て,東京劇場を前に眺める橋――萬年橋といったように思うが,橋名を彫んだ銅版が剥ぎとられているので,はっきりわからないのも戦後風景だ。東劇・郵便局と続く一画は焼残りだが,反対側や橋の手前は歌舞伎座方面にかけて一帯の焼け跡だ。が,すっかり復興して元のような繁昌振りを呈している。橋を渡って,河岸にそって東劇の前を過ぎると,堀割が屈折する対岸に新橋演舞場が立っている。堀割はそこで真直ぐに大河に向って下る。一方わかれて濱離宮方面に向い,そこで大河にそそぐ堀割に合流している。

 築地は,縦横に流れる堀割によって處々に面白い景観を作っているが,演舞場と堀割を隔てて相対しているところに築地病院と元の海軍々醫學校があって,河岸の此方は純日本式の花柳街だが,そこばかりは外人居留地といった風景だ。・・・堀割にそった並木道は綺麗で静かで,全体がアンリ・ルウソーの風景畫みたいに落着いている。

聖路加旧館裏の並木街に出ると,大河を背にして立ち並んでいる住宅街は,たぶん焼けなかったのだろうと僕は思っているが,或は焼けた所もあるのかなと思われる跡も残っている。・・・とにかく昔は,東に佃島から木場・洲崎を眺め,南方遥かに台場から品川・羽田方面を眺め,前面には東京湾を一望におさめていたものだ。今では前に月島が出来,その沖に晴海町などの埋立地が出来て,大河の一部になり,河風は昔のように涼しかろうが,並木街もまだ荒れたままで,ここに大きな丸太ん棒を積み上げたりしている。それに続いて,東京都築地産院なるものがあって,その先に聖路加國際病院の新館が出来ている。

(注)旧都立築地病院(海軍醫學校跡地):現在、この場所には、国立がん研究センター中央病院が建っています。

濱町・両國橋界隈

元の日本橋區は京橋と合併して中央區となっているが,昔から東京の中心として榮えていたので,醫家も昔から名家が多かった。その中でも,濱町から矢の倉にかけて多かったが,殊に聞えた花街であったから気風が派手だった。大正の震災はそうした名家を焼きつくしたが,今とは違って醫家華やかな時代だったので,銀行がどしどし金を貸し,そこで競争的な復興となって豪華な病院がぞくぞくと出来た。何と云っても,いい時代だったなあと懐旧の情にそそられる。ところが今度の戦災で,濱町から矢の倉にかけて一面の焼野原となり,醫家も全滅の形になったが,さてその跡はどうなっているだろう?僕は戦後はじめて足を踏みこんで見たが,震災後の復興と,何て甚だしい差であろう。日本の頂点期は震災後にあったように思われ,今度の復興が,そこまで達するには,どれだけの年月を要するだろうかを考えさせられる。

昔,杉田玄白が濱町の辺りに住んでいたことがある。その邸跡は道路になったが,裏庭にあった山伏井戸が公園のどこかに残っているということを聞いていたので,行ってみた。新大橋から両國橋に続く河岸に桟敷の木組が出来つつある。川開きが近いことを思わせる。・・・打ち続く待合の間の空間にも高桟敷が出来つつある。河の中からドンドン花火が打ち上げられ,成金族や特権族で賑わうことだろう。戦前には醫家連中も桟敷の真ん中に陣取って顔を利かしたことだろうが,今では昔の夢になってしまった。対岸には國技館の圓蓋がどっしりと見える。

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(28) 日本医事新報(1463)(昭和27年5月10日)

九段上から飯田町(1)大村益次郎の像
 九段坂病院
 警察病院

(29) 日本医事新報(1464)(昭和27年5月17日)

九段上から飯田町(2)眞鍋邸の跡
 飯田町一巡
 帰途の道草
飯田橋から牛込方面を望む

(30) 日本医事新報(1465)(昭和27年5月24日)

麹町富士見町朝倉病院の跡
 東京逓信病院
 陸軍々醫學校の跡
 北島・河本・木下邸

(31) 日本医事新報(1466)(昭和27年5月31日)

九段上の電車通り 概観した情景
通りの醫院
岡田・榊・室橋
東亜醫學校の事

(32) 日本医事新報(1467)(昭和27年6月7日)

麹町番町今昔(1)寂れた風景
 三番町の邊り
 東郷公園附近

(33) 日本医事新報(1468)(昭和27年6月14日)

麹町番町今昔(2)二番町舊住の醫家

(34) 日本医事新報(1469)(昭和27年6月21日)

内幸町から丸の内胃腸病院前にて
 漱石の入院日記
 内幸町一ノ三
 宮島博士遭難地
 永樂病院の跡
長与胃腸病院

(35) 日本医事新報(1470)(昭和27年6月30日)

銀座東西(1)癌研と保坂
 大野と古宇田
 加藤と菊地
築地三吉橋と南胃腸病院(のちの癌研
癌研

(36) 日本医事新報(1471)(昭和27年7月5日)

銀座東西(2)大日本衛生會の跡長與専斎、北里柴三郎
  山根正次、緒方正規
  高木友枝、大澤謙二
  三宅秀、金杉英五郎
  青山胤通、片山國嘉
  弘田長、三島通良
 川上と本田川上元治郎、金杉英五郎
  坂口勇、本田雄五郎、
  岡田和一郎
 林と中泉林春雄、中泉行正
  中泉行徳、中泉正徳
 高木と醫學講習所高木兼寛、高木喜寛

(37) 日本医事新報(1472)(昭和27年7月12日)

築地界隈(1)海軍々醫學校跡 
 高杉博士を思う 
 林・山田の病院跡 
 戸塚氏について 
築地海軍参考館
築地病院

(38) 日本医事新報(1473)(昭和27年7月19日)

築地界隈(2)トイスラーの遺業
 中央保健所
 聖路加國際病院
 東京都職員病院
 京橋から越前堀

(39) 日本医事新報(1474)(昭和27年7月26日)

濱町と矢の倉(1)長尾と濱町病院
 中洲病院の跡

(40) 日本医事新報(1475)(昭和27年8月2日)

濱町と矢の倉(2)山村病院の跡
 濱町公園
 明治座附近
 河岸のあたり

(平成23年7月14日 記す)(令和元年[2019]11月1日 追記)