62.香港ペスト研究一行の記念写真が撮影された年と場所を特定

前回、明治27年(1894)に香港にペスト研究に行った北里柴三郎、青山胤通、木下正中ら一行が、帰国後に撮影した集合写真を紹介しましたが、その写真がいつ、どこで撮影されたものか、不明でした。

調査の結果、以下のように開催年月日と場所を特定しましたので、その経緯を追ってみます。

香港遠征者紀念會(石神亨 離京記念)( 中川 恒次郎慰労会)

開催年月日: 明治29年(1896)10月17日

場所: 日本橋偕楽園

参加者:木下正中,宮本叔,石神亨,青山胤通,北里柴三郎,岡田義行(内務省衛生局)と黒井悌次郎(のちの海軍大臣),中川恒次郎(香港在住一等領事・外交官),高田畊安

後列左から:岡田義行・木下正中・石神亨・宮本叔
前列左から:高田畊安・北里柴三郎・中川恒次郎・黒井悌次郎・青山胤通

♪ペスト研究のために木下正中が青山胤通に,石神亨が北里柴三郎に随行して横濱から香港へ向けて出帆したのは,明治27年(1894)6月5日のことでした。

木下正中(写真:木下實氏提供)

海軍時代の石神亨(出典:『故石神亨紀念誌』6)

♪日清戦争の直前のことです。7月25日には豊島沖(ほうとうおき)で海戦(高陞号こうしょうごう事件)が起こり,2年におよぶ戦争がはじまります。緊迫した戦時状況下で,内務省にとっては,ペスト検疫がいかに重要な問題であったかがわかります。ペスト(黒死病)は,戦争と同様に国を滅ぼすほどの脅威であったのでしょう。

♪当時,香港領事であった中川恒次郎は,日本国に向う船舶の検疫について下記のような電報(明治27年5月12日付)[上陸ヲ禁スルニ若ラス]を陸奥大臣宛てに発していました。この段階では,まだ,伝染病がペストであるとの認識はなかったようです。

当地支那人労働者中ニ流行ノ伝染病ハ餘リ猛烈ナルモノト思ハレス去リナラカ若シ貴大臣ニ於テ香港ヨリ支那労働者ヲ搭載シテ本邦海口に来ル船舶ヲ検査スルコトヲ適当ナリト思セラレ候ハヽ其ノ上陸ヲ禁スルニ若ラス

♪5月22日付の電報では,乗組員の上陸について[当分禁セラルヽヲ可トス]と報告しています。10日前の電文とは違って,緊迫感が感じられますが,それでも,次第に治まるのではないかと思っていたようです。

景况続テ同様ナリ昨正午迄二十四時間内ニ新患者三十一名死亡三十四名治療中ノモノ五十九名,此四日間大雨アリ為衰况ヲ呈スヘシト信セラル,支那移住人ノ上陸ハ尚ホ当分禁セラルヽヲ可トス

♪伝染病の種類が不明だったため陸奥大臣は中川香港領事に調査を命じます。その結果,伝染病がペスト(黒死病)であることがわかり(5月13日付電報),ペストに対する検疫は,明治15年(1882)に布告された「虎列刺コレラ地方ヨリ来ル船舶検査規則」が適用されることになります。(勅令第五十六號 5月25日)

♪5月28日:芳川顕正(内務大臣臨時代理司法大臣)が伊藤博文(内閣総理大臣)へ「黒死病調査として中央衛生會委員派遣の件」を提出します。北里柴三郎,青山胤通の派遣が正式に決定されます。このとき,「調査條件」とそれに伴う「予算」も決められました。当初の予定では,滞在日数は30日間を予定していたようです。

調査條件

一.現流行區域ノ地理殊ニ醫學ニ関スル地學上ノ調査

二.支那地方ニ於ケル本病ノ来歴及諸統計

三.病原病理及病徴

四.今回廣東及香港ニ發生ノ原因及現時流行傳播ノ系統

五.現流行病ニ對シ實施シタル諸豫防法及其成績

六.本病ニ対スル豫防消毒ノ研究

費用豫算

貮千六百拾七円二十銭

(備考)滞在日數ハ三十日ト豫定シタルモ調査上ノ都合ニ依リ多少ノ伸縮アルヘシ

♪6月5日(香港ペスト研究一行横濱港出帆):ペスト感染の危険のある地域に飛び込んでゆくことになります。香港行の決断は,木下正中,石神亨にとっても,研究のためとはいえ,覚悟を持っての行動であったといえるでしょう。医学・医療に対する真摯な精神が感じられます。

◆◆◆

♪記念撮影の写真について、文献調査を続ける過程で,同一の記念写真が,いくつかの論文1)2)3)や記事(座談会)4)のなかで使われていることを知りました。有名な記念写真であったようです。

♪文献によって,記念写真の撮影年の記載が違っていました。明治27年(1894)とするものと明治28年(1895)とするものとがありました。どちらが,正しい撮影年なのか,特定できる文献はないか,探索してみることにしました。

文献1)・文献2) 「本邦に於けるペスト研究の偉業」(1)(2)(村山達三著)1)2)(

♪「本邦に於けるペスト研究の偉業」(村山達三著)に掲載されている記念写真には,「ペスト研究記念撮影(明治廿八年)」のキャプションがつけられています。撮影は,香港行の一年後の明治28年(1895)となっています。

文献3) 「北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで」(中瀬安清著)3)

♪中瀬論文のなかに掲載された記念写真のキャプションでは,「香港派遣ペスト調査員とその関係者(1894年撮影 北里研究所所蔵)」とされていました。撮影されたのは明治27年(1894)となっています。香港に行ったその年に記念撮影が行われたことになります。

文献4)「青山胤通先生」(座談会の口絵)4)

♪この座談会の口絵としても、同じ記念写真が掲載されています。そのキャプションは,「香港ペスト研究當時の記念撮影」となっていて,撮影時期や場所などの説明はありません。

♪記念撮影がされたとされる明治27年(1894)から明治28年(1895)にかけては,日清戦争の時期にあたります。明治27年(1894)の開戦当時,海軍にいた黒井悌次郎や香港領事であった中川恒次郎が,会合に出席できたのだろうか。さらに,撮影が明治27年(1894)だとすると,ペストに罹患して帰国した青山胤通や石神亨の両名が,会合に出席できるぐらいまで快復していたことになります。

♪日清戦争や個人的な健康状況から,明治27年(1894)から明治28年(1895)にかけて,香港ペスト研究の関係者が会合を持つことには,無理があるように感じていました。

♪また,中瀬論文の写真のキャプションには,「北里が石神の送別会を催し当時の関係者を招いた時の記念写真」とあります。石神の送別会のためだけの理由で黒井悌次郎や帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)の関係者までもが出席しただろうか。石神の送別のほかにも会合を催す理由があったのではないだろうか。疑問が広がっていきました。

♪木下實先生から北里柴三郎記念室の展示室(北里本館1階)にも同じ記念写真が展示されているとのご教示をいただきました。記念室の大久保美穂子さんを紹介されて訪ねることにしました。

♪檀原宏文先生と森孝之先生が迎えてくださいました。檀原先生からは『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)にも,同じ記念写真が載っていることを教えていただきました。

文献5) 『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)5)

♪『藤野・日本細菌学史』に掲載されている記念写真は,大阪大学微生物病研究所図書館分館内に「石神文庫」として残された石神亨の関係資料の原図から採られたもののようでした。

♪写真のキャプションには「石神亨 離京の記念写真」とあり,解説文がつけられていました。石神自身によると思われる添え書き(手書き)をもとに藤野がまとめたもののようです。

石神亨 離京の記念写真

石神の文章によると「一昨年ペスト病原探究のため香港に赴いた同行者一同が,石神が大阪に移るので,中川恒次郎香港領事と領事館の黒井海軍大尉を招いて記念撮影をのこし,偕楽園で宴を開いた。青山と石神がペスト感染,その見舞に香港へ来た高田耕[畊]安はこの会に出席したが,高木友枝は九州出張のため欠席」

♪藤野による解説文のなかには,一昨年とあります。ペスト研究のために香港に渡ったのは明治27年(1894)のことですから,この記念写真は,明治29年(1896)に撮られたことになります。添え書きの部分に,年月日を特定できることが書いてあるのではないかと思い拡大して見てみました。

石神亨によると思われる記念写真の添え書き

♪添え書きの部分は,印刷が不鮮明で,判読できないところが多いのですが,かすかに「明治廿九年十月十□日」の文字が読み取れました。□の部分は,七か八か判断に迷いました。

♪元の手書きの添え書きを確認できないか。「石神文庫」のなかに写真と添え書きの原図が残っているのではないか。大阪大学微生物病研究所図書室に問い合わせてみました。大阪大学生命科学図書館まで探していただきましたが,残念ながら原図は発見できませんでした。

♪北里柴三郎,青山胤通,黒井悌次郎,中川恒次郎など,医学界,海軍,領事を代表する人々が出席した会合です。当時の医学雑誌(新聞)にも記事が載っているのではないか。明治29年(1896)10月に発行された雑誌を調べてみることにしました。

♪東京大学医学図書館へ行って,まず『東京医事新誌』を調べてみることにしました。東京大学医学図書館は,外部にも公開されていて,雑誌のバックナンバーを閲覧・複写することができるのです。

♪探しているような記事は,目次に索引されないのが一般的です。一冊ずつ雑報記事欄を見ていきました。第969号に「香港遠征者紀念會」という記事を見つけました。こんなにすぐに,目的の記事が見つかるとは思ってもいませんでした。

♪「香港遠征者紀念會」によると,明治27年(1894)当時,香港領事であった中川恒次郎を慰労するために日本橋偕楽園に会合(明治29年[1896]10月17日)を持ったとありました。

♪中川恒次郎7)は,文久3年(1863)3月東京の生れ,明治17年(1884)7月東京大学政治理財科を卒業後,大蔵省に入り,領事館書記生としてシンガポールを振り出しに釜山,元山,香港,タウンズビル,シドニー,ワシントン,ニューヨークなどを勤務地とした人物です。香港に着任したのは,明治27年(1894)1月16日のことでした。

♪同じ号(第969号)の雑報記事欄に「岡田黒部両氏送別會」の記事もありました。この時期は,後藤新平が台湾総督府衛生顧問嘱託になった時期にあたります。領事にも異動があったようです。中川恒次郎は,明治29年(1896)1月20日に豪州タウンズビル,ウィール府駐在一等領事を委任されていました。そして,香港へ内務省から派遣された岡田義行は,台湾総督府民生局総督部衛生課員として同年11月初旬に台湾に派遣されることになっていました。

♪岡田義行と黒部島吉の送別会は,「香港遠征者紀念會」が開催された二日後の10月19日に,後藤新平,北里柴三郎,青山胤通も出席して,下谷松源楼で開催されました。

♪石神亨が東京を離れて大阪に向った時期は,香港に同行した人々の新たな旅立ちの時期にあたっていました。記念写真を残した「石神亨 離京の送別會」は,中川恒次郎の慰労と岡田義行の送別を兼ねて開催した「香港遠征者紀念會」でもあったのです。記念写真は、青山胤通と北里柴三郎が,気持ちをひとつにして同席した貴重な記念写真となりました。

♪石神亨6)は,明治29年(1896)2月に軍艦武蔵を退艦し海軍大学校教官となっていましたが,6月15日横須賀病院に赴任後,病気引退しています。大阪に転じたのは,10月19日のことでした6)。「香港遠征者紀念會」(石神亨送別會)の二日後には離京したことになります。

♪この時,すでに大学を卒業して福島病院副院長になっていた木下正中も上京して「香港遠征者紀念會」に出席しています。正中は,翌明治30年(1897)に,独逸に留学しますので,正中にとっても,新たな出発を想い,記念写真におさまったのではないでしょうか。

明治29年(1896)10月17日:香港遠征者紀念會:日本橋偕楽園
(石神亨 離京記念)( 中川 恒次郎慰労会)

 参加者:木下正中,宮本叔,石神亨,青山胤通,北里柴三郎,岡田義行(内務省衛生局)と黒井悌次郎(のちの海軍大臣),中川恒次郎(一等領事・外交官),高田畊安

明治29年(1896)10月19日:岡田義行・黒部島吉送別會:下谷松源楼

 参加者:岡田義行,黒部島吉,後藤新平,北里柴三郎,青山胤通,石黒五十二など多数。

♪「香港遠征者記念會」が開催された日本橋の偕楽園は,どの辺りにあったのでしょうか。日本橋界隈の散歩が,続きます。

参考文献

1) 村山達三.本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本医事新報 第1369号, pp.1928-1930. 昭和25年.

2) 村山達三.本邦に於けるペスト研究の偉業(2).  日本医事新報 第1370号, pp.1995-1998. 昭和25年.

3) 中瀬安清. 北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで. 日本細菌学雑誌 50(3):637-650, 1995.

4) 「青山胤通先生」pp.7-pp.46.『近代名醫一夕話』(日本醫事新報臨時増刊)(梅澤彦太郎編 日本醫事新報社 昭和12年)

5) 阪大微研図書館分館内の石神文庫:『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)pp.229-234.

6) 『故石神亨紀念誌』(石神研究所同窓會 大正十年発行)

7) 山本四郎.領事中川恒次郎について.史林 68(2):313-329, 1985.

(平成24年12月23日 記 平成31年2月22日 追記)