60. 小樽行:小樽公園内の啄木歌碑

場 所:小樽公園:北海道小樽市花園5丁目

建 立:昭和26年11月3日(小樽啄木歌碑建設期成會)

小樽公園(戦前・絵葉書)

 

こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて

死なむと思ふ

 

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♪北海道へ行った折,小樽に立寄り石川啄木の歌碑を探してみることにしました。小樽には,いくつか啄木の歌碑が点在するようですが,今回は,そのなかで小樽公園の歌碑を見ることにしました。

小樽観光協会

♪何年振りでしょうか。羽田空港から空路,北海道に渡りました。新千歳空港に降り,すぐに空港ビルの地下からJR北海道の快速エアポートに乗り継ぎで,小樽に向かいました。

♪エアポートは,千歳線の新千歳空港駅から北広島駅,札幌駅を経由して,函館本線に進入する快速電車です。銭函ぜにばこ駅から浅里駅間は石狩湾を望む波打ち際を走ります。車窓からみる海岸線の風景は素晴らしいものでした。啄木がみた風景です。銭函駅は,映画「駅/STATION」のロケ地としても有名な駅です。

♪小樽駅の一つ手前の南小樽駅で下車、駅前からタクシーで小樽公園に向かいました。小樽の町を,ゆっくり散策しながら,歩いて公園まで向かえばよかったのですが,陽が落ちないうちに,歌碑をみつけたいと思い,タクシーを利用しました。

♪はじめての土地へ行って,時間の制約のなかで,目的の歌碑や石碑をみつけるのは,そう簡単なことではありません。最近では,ネット上に,いろいろな方が,歌碑の訪問記を書かれていますので,それを頼りに探すことができるようになりました。

♪小樽公園内の啄木の歌碑は,公園入口左手の広場の奥に建てられていました。自然石(仙台石)の立派な歌碑でした。歌碑の背景には,黄葉の木々がみえ,午後の柔らかな日差しを浴びて,静かに建っていました。

石川啄木歌碑(小樽公園内)(平成22年10月16日 堀江幸司撮影)

♪碑陰に回ってみました。次のような説明文が刻まれた石版がはめ込まれていました。

 


明治四十年九月末小樽日報創業に招

かれ詩人石川啄木は来樽した 在社

三ヶ月志望の記者生活を快よく働い

て独特の健筆を揮った 其頃を追想

した「かなしきは小樽の町よ歌ふこ

となき人人の声の荒さよ」は今も市

民に愛誦されて居る 翌年一月漂遊

を続け釧路新聞に轉じたが四月素志

を遂げ上京し困窮の生活を闘ひなが

ら不朽の彼の文學を築き上げた 明

治四十五年四月十三日薄倖不遇の生

涯を終ったのは二十八歳である

彼が愛し懐しんだ小樽の市民はこの

永遠に若い詩人を讃頌して記念の歌

碑を建立した

昭和二十六年十月

小樽啄木歌碑建設期成會

撰文 小樽啄木會

放書 宇野 靜山

施工 田村 孝雄


♪説明文のなかには,啄木が「小樽」を読み込んだ歌が,市民に愛誦されているとあります。啄木を愛する小樽の方々のかなしい思いが伝わってくるようです。


かなしきは小樽をたるの町よ

歌ふことなき人人ひとびとの

声の荒あらさよ


♪啄木が小樽に滞在したのは,明治40年(1907)9月27日から明治41年(1908)1月19日までの3か月ほどのことでした。その間「小樽日報」の記者として活躍しています。その後,「釧路新聞」での記者の仕事を得ますが,そこでの生活も長くは続きませんでした。上京を決心するのは,その年の4月23日のことです。旭川経由の釧路行は,啄木にとって,最果ての地への旅と感じられたようです。

♪啄木は,冬の暗く,寒い時期を小樽で過ごしたことになります。函館,札幌,小樽,釧路での北海道の生活は,啄木にとって,経済的に余裕のあるものではなく,精神的にも快いものではなかったようです。

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♪啄木の日誌(日記)4)5)を見てみます。


明治40年 (1907) 22歳

9月27日:札幌―小樽:社の方より給料まだ出来ざれど,西堀君に立かへて貰つて小樽に向ふこととせり。午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし,汽車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し,銭函をすぎて千丈の崖下を走る,・・・潮みちなば車をひたさむかと思はる。海を見て札幌を忘れぬ。

なつかしき友の多き函館の裏浜を思出でて,それこれを過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。

姉が家に入れば母あり妻子あり妹あり。

10月2日:小樽:出社す。夕方五円だけ前借し黄昏時となりて,荷物をばステーションの駅夫に運び貰ひて,花園町十四西沢善太郎方に移転したり。室は二階の六畳と四畳半の二間にて思ひしよりよき室なり。ランプ,火鉢など買物し来れば雨ふり出でぬ。

11月6日:小樽:花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る。

12月26日:小樽:日報社は未だ予にこの月の給料を支払はざりき。

明治41年 (1908) 23歳

1月18日(釧路への旅立ち):小樽に於ける最後の一夜は,今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つて行くべき手廻りの物や本など行李に収めて,四時就床。明日は母と妻と愛児とを此地に残して,自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ!!


♪啄木は,小樽について次のように書いています。(「小樽日報」第1号 明治40年10月15日)

「予は飽くまでも風の如き漂流者である。天下の流浪人である。小樽人と共に朝から晩まで突貫し,小樽人と共に根限りの活動をする事は,足の弱い予に到底出来ぬ事である。予は唯此自由と活動の小樽に来て,目に強烈な活動の海の色を見,心の儘に筆を動かせば満足なのである。・・・予が計らずも此小樽の人となって,日本一の悪道路を駆け廻る身となったのは,唯気持ちが可いのである。」

♪「小樽日報」には,野口雨情とともに入社します。三面を担当することになるのですが,小樽に来る前の札幌で,北門新聞社の校正係の仕事を紹介したのは,雨情でした。「札幌時代の石川啄木」と題して,啄木の印象を次のように書いています。啄木の様子をよく著していますので,少し長くなりますが,引用しておきます6)。


 

ある朝,夜が明けて間もない頃と思ふ。

『お客さんだ,お客さんだ』と女中が私を揺り起す。

『知つてる人かい,きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある,啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが,与謝野氏の明星で知つてゐる。顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの浴衣ゆかたに色のさめかかつたよれよれの絹の黒つぽい夏羽織を着てはいって来た。時は十月に近い九月の末だから,内地でも朝夕は涼し過ぎて浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない,殊に札幌となると内地よりも寒さが早く来る,頭の刈方は普通と違つて一分の丸刈である,女中がどこかの寺の坊さんと思つたのも無理はない。

『私は石川啄木です』と挨拶をする。
『さうですか』
私は大急ぎに顔を洗つて,戻つて来ると,
『煙草を頂戴しました』と言つて私の巻煙草を甘うまさうに吹かしてゐる。
『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』
『煙草を売つてませんか』
『いや売つてはゐますが,買ふ金が無くて買はれなかつたんです』と,大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は何時も大きな声で笑ふのだ,この笑ふのも啄木の特徴の一つであつたらう。


♪釧路には,小奴こやつこがいました。雨情は釧路時代の啄木について「石川啄木と小奴」のなかで,次のように書いています7)。


石川は人も知る如く,その一生は貧苦と戦って来て,ちょっとの落付いた心もなく一生を終ってしまったが,私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であったやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽くしてくれたからである。・・・いはば石川の釧路時代は,石川の一生中一番興味ある時代で,そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感じるのである。


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♪小樽は詩集『雪明りの路』で知られる伊藤整の故郷でもあります。その伊藤整が『日本の詩歌 5 石川啄木』1)の巻末に「詩人の肖像」と題して,啄木について語っています。伊藤整の小樽への想いが,重なります。

小樽文学館


「函館に渡り,その町の弥生小学校の教員となった。間もなく函館の大火にあい,札幌に移り,さらに小樽,釧路と新聞記者としての生活を一年ほどした。その間彼は,ほとんど詩歌の制作から離れ,新聞に雑文を書き,田舎新聞記者としての粗暴な生活をつづけ,筆は荒れた。」

「正岡子規は啄木より二十年前に,歌を写生という真実に結びつけることで甦らせた。啄木は,歌をその時その人の心の短いつぶやきたらしめることによって,もっと大きな生命を与えたのである」


♪その後、啄木は、釧路から岩手県宮古浜むかう帆前船に乗って上京。その様子は、雨情によると、「おおきな声ではいはれませんが、こつそりと夜だちしてしまつたのです。」経済的に苦しかったは、啄木は、あちこちで、不義理を重ねていたようです。

♪森鴎外が中心となって発刊された新雑誌「スバル」で,木下杢太郎(太田正雄),吉井勇とともに同人となったのは,明治42年(1909)1月のことでした8)。

♪生涯,経済的に恵まれずに,あこがれの東京で,病に倒れ,才能ある啄木の未来が断ち切られたのが,惜しまれます。啄木が,小石川(現・東京都文京区5-11-7)で亡くなったのは,明治45年(1912)4月13日のことでした。27歳の若さでした。

 

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♪小樽駅から小樽運河へつながる大通り(中央通)に面したお寿司屋さん(おたる大和家)に入って,昼食のランチの握り寿司を注文しました。ご主人が秋刀魚の握りを食べさせてくれました。やはり,港町小樽の新鮮な魚介類のお寿司は,一味,違いました。

♪小樽と言えば,硝子工芸が有名です。中学生のころ,しなびた温泉宿でみたランプの明かりが,蘇ります。しずかに舞い落ちる雪の降る寒い朝の廊下の隅を,ぼんやりとしたランプの光りが照らしていました。

♪小樽駅から小樽運河へと続く中央通りを下って,色内2丁目の交差点を右折。境町本通りに入り,北一硝子に向かいました。通り沿いには,北一硝子の各店舗のほかに,小樽オルゴール堂など,お洒落な店々が立ち並んでいます。昔の街道筋の面影が残ります。お目当ての硝子細工の品はありませんでしたが,硝子の持つロマンチックな温もりを感じることができました。

 

♪メルヘン交差点から坂道を上りつめると,海が見えてきます。冬になると雪の嵐がくるのでしょうか。海から山がせりあがる小樽の港町を感じられる風景です。

♪盛岡・滝沢村での雪のある生活に慣れていた啄木でも,冬にこの坂道をのぼるのは辛かったのではないでしょうか。小樽の浜から風に舞い上がる雪は,身に沁み入るものだったことでしょう。

♪南小樽駅から千歳空港にもどりました。備後屋民藝店の岡田弘(ひろむ)さんに教えてもらっていた札幌に本店のある青盤舎(せいばんしゃ)の空港内の売店(千歳店)に寄ってみました。手作りの優佳良織のキーホルダー(北海道伝統美術工芸村)とアイヌ木彫の靴ベラを購入しました。

♪空港内の売店を,いろいろ見て歩いていると,小樽硝子を扱う「小樽工藝舎」のお店があることに気づきました。この売店に,小樽で探し回っていた硝子細工の小物がありました。「小樽工藝舎」の本店は,小樽運河のほとりにあるそうです。次回は,札幌の青盤舎とともに,小樽運河工藝館も,是非,訪ねてみたいと思います。(小樽運河工藝館は、東日本大震災後の平成23年11月に閉館。青盤舎は平成24年閉店。)

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♪帰途、雨が降り始めました。雲の上にでると,茜色の夕陽のなかに富士山が黒く浮かんでいました。羽田上空,トワイライトの夕暮れのなかを,飛行機は,暗闇で明るさを増した誘導灯を目標に降下しはじめました。誘導路が,小樽の雪明りの路のようにもみえました。

♪新鮮な作物,そして自然が豊かな小樽。いずれは,生まれ育った駒込を離れて,水と空気が綺麗で,食べ物の美味しい,静かな北海道の地方都市で暮らしてみたい,そんな贅沢な幻想を持った小樽行となりました。

 

参 考 文 献

1)『日本の詩歌 5 石川啄木』. 中央公論社,1967.

2)『石川啄木歌集(日本詩人選 04)』. 久保田正文編. 小沢書店,1996.

3)『石川啄木』 新潮社,2002.(新潮日本文学アルバム 6)

4)『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』. 筑摩書房,1980.

5)『石川啄木全集 第六巻 日記Ⅱ』. 筑摩書房,1980.

6) 野口雨情著:「札幌時代の石川啄木」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.420-425,

7) 野口雨情著:「石川啄木と小奴」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.329-336,

8)『石川啄木全集 第八巻 啄木研究』. 筑摩書房,1980.

9) 『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986.)

(平成22年11月27日 記す)(平成30年9月26日 追記)

59. 盛岡行(4):啄木、旅立ちの停車場:好摩ケ原

♪石川啄木が、東京で文学で身を立てることを夢みて、故郷の渋民村(しぶたみむら)(現・玉山区渋民)から「好摩ケ原」を抜け、向かった先が好摩(こうま)ステーションでした。明治35年(1902)10月30日のことです。まだ、16歳の少年でした。

好摩が原(絵葉書)

♪啄木は、その日の朝のことを、次のように記しています。

 

明治35年10月30日

「朝。故山は今揺落の秋あはたゞしう枯葉の音に埋もれつゝあり。霜凋の野草を踏み泝瀝の風に咽んで九時故家の閾を出づ。愛妹と双親とに涙なき涙にわかれて老僕元吉は好摩ステーションまで従へたり。

かくて我が進路は開きぬ。かくして我が希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。」

♪当時、啄木が生活していた渋民には停車場はなく、渋民駅ができたのは、昭和25年(1950)になってからのことです。戦前の「好摩ヶ原」の様子を写した絵葉書によると、「好摩ヶ原」には、鈴蘭が群生し、白樺の林もあったようです。


好摩ヶ原

鈴蘭と白樺の林

霜ふかき好摩の原の

停車場の

朝の蟲こそすずろなりけり

ふるさとの停車場路の

川ばたの

胡桃の下に小石拾へり

千萬世のむかし、天の穂の

露ひと雫野に落ちて

うるほひ沁みし惠まれの、

さは、花穂のくはし芽の

花とし咲くや、世々に、また

今もよ咲ぬ。野はひろく、

空蒼き世に、朽ちぬ日の

常磐心のときめきに。

「野の花」の一節    啄 木


♪白樺林を抜ける風。陽の光。鈴蘭などの花々。岩手山。春には、花々のなかを何千何万もの蝶が舞う。そして爽やかな夏が過ぎ、秋も終りの頃の季節。啄木は、ひたすら、東京への道を、決意を持って、霧の深いなか、好摩ステーションへと向かったのでしょう。上り汽車を待ちながら、蟲の声を聴き、歌を詠んでいた16歳の少年の姿が想像されます。

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♪盛岡行きの上り列車が来るまでに40分ほど、待ち時間があるので、駅周辺を歩いてみました。駅のまわりは、住宅街となっていて、「好摩ヶ原」の面影は感じられませんでした。

好摩駅プラットホーム(平成21年3月23日 堀江幸司撮影)

♪好摩駅から盛岡へ帰る途中の車窓からは、雑木林などが見え、ゆっくり、散策すれば、まだまだ、この辺りでは、啄木の時代の自然を肌で感じることが、できるのではないか、と思いました。車中、おばあさんたちが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本対アメリカ戦のことを、東北弁で話しているのが印象的でした。

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♪東日本大震災後(平成23年3月)、5月15日には好摩駅舎が整備され、以前、駅構内にあった啄木歌碑は新駅舎2階の切符購入室内に移されているとのことです。(参考:「たかしの啄木歌碑礼賛」)

 

参考文献

『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』 筑摩書房、1980.

(平成21年3月24日 記)(平成30年9月19日 追記)

58. 盛岡行(3) 啄木、結婚前後の書簡より:駒込神明町442番地

♪啄木が駒込神明町にみつけたという新居となるはずの家は、どんな家であったのでしょうか。明治38年(1905)5月11日に牛込から出した上野広一宛の書簡に啄木は次のように書いています。1)

牛込より:5月11日 上野広一宛

「・・・家はもう見付けた、駒込神明町四百四十二番地の新らしい静かな所、吉祥寺の側に候。ヒドクよい所に候。炊事係の婆さんも頼んで置き候。兄を迎ふる時、青葉の中の我が新居、久し振りに画の話しでも可仕候。・・・」

 

11日夜 中館兄の机の上にて 啄木生

「・・・せつ子には御伝へ被下度候。天下の呑気男なる啄木の妻となるには、駒込名物の薮蚊に喰はれる覚悟で上京せなくてはならぬと。家の取片付け済み次第、せつ子を呼び寄せるつもりに候。ザット一週間の後ならむ。皆様に御心配かけたる段は真平御免。 小生の呑気にもあきれ候。しかし之れも一興也」

♪啄木が書簡を出した相手の上野広一(うえの・こういち)(1886-1964)は、中学時代の友人で、堀合節子との結婚に際して仲人を務めた人物で、のちに洋画家を目指して、同郷の政治家原敬の援助でフランスに留学しました。

♪当時の駒込神明町の天祖神社(神明社)周辺は、樹木も多く、春には杏や梅の花々が咲き乱れ、鶯のさえずりが聞こえるような、のどかで、自然に満ちあふれた場所でした。駒込名物の薮蚊も多かったことでしょうが、春になると、花々の間を、沸き上がるように、蝶たちが飛び交っていたのではないでしょうか。

♪『 明治四十年一月調査 東京市本郷區全圖』によると駒込神明町422番地は、岩槻街道(本郷通り)から天祖神社に向かう道の右手、現在、文京区立第九中学校が建っている先あたりです。近くには、もと鷹匠屋敷(避病院[東京都立駒込病院]の場所)もありました。相馬事件にも登場する富士神社の近くでもあります。

東京市本郷區全圖(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)


駒込天祖神社(神明社)

 

東京都立駒込病院(堀江幸司撮影)
富士神社(堀江幸司撮影)(平成28年10月

♪駒込吉祥寺の前を通る道が、岩槻街道[現在の本郷通り]です。街道をニ本榎のある西ヶ原一里塚の方向へと進むと、藍染川(現在の霜降り橋交差点)を過ぎたあたりから、樹木の陰で暗闇となるような淋しい場所も、まだまだ、残っていたようです。

♪駒込神明町442番地からは、森鴎外の住む観潮楼(駒込千駄木町21)、高村光太郎の住居(駒込千駄木林町)にも近く、啄木にとって、駒込という場所は、文学の香り高い場所であったのかもしれません。

♪そんな駒込神明町442番地での新婚生活をあきらめて、啄木は、上野から仙台経由で、ふるさとの好摩に向かうことになります。手紙からは、啄木の故郷を思う気持ちとともに東京での生活を諦め切れない思いも感じられます。盛岡での自分の結婚式に出ずに好摩に向かうのです。花嫁にはなんとも残酷なことでした。

 

仙台より:5月22日 金田一京助宛

「ふる里の閑古鳥聴かむと俄かに都門をのがれ来て、一昨夕よりこの広瀬川の岸に枕せる宿に夢の様なる思いに耽り居候、月末までには再び都門に入るつもり、この落人の心のかずかず、うさたのしさハ凡て故里より申上げ候」

好摩より:5月30日[結婚式の当日]上野広一宛

「友よ友よ、生は猶活きてあり、
二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。
三十日午前十一時十五分
好摩ステーションに下りて はじめ」

 

参考文献

1)『石川啄木全集 第七巻 書簡』(筑摩書房 1979)

(平成18年5月30日 記)(平成30年9月14日 追記)

57. 盛岡行 (2)盛岡『啄木新婚の家』と故郷・好摩

啄木新婚の家

場 所:盛岡市中央通三丁目17―18
電 話:019―624―2193

 

♪石川啄木が、婚約者の堀合節子と帷子小路(かたびらこうじ)八番戸(現在の中央通三丁目)で新婚生活を送ったのは、明治38年(1905)6月4日から24日までの3週間のことでした。

♪結婚式は、5月30日に行うはずでしたが、啄木は処女詩集『あこがれ』を東京で出版して帰郷する途中に、仙台で仙台医学専門学校(のちの東北大学医学部)に在学中の郷友の猪狩見竜、小林茂雄に合い、結婚式には帰りませんでした。

東北帝国大学医学部正門(絵葉書)

♪啄木との結婚に反対する友人たちに節子は、そのときの気持を手紙のなかで、次のように述べています。

「吾はあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候」

♪級友上野宏一の媒酌による「花婿のいない結婚式」が行われることになりました。

♪この明治38年(1905)1月には、父一禎(いつてい)が宗費滞納で曹洞宗(寶徳寺)の住職を免じられる問題がおき、帷子小路の新居には、妻節子のほかに、両親と妹光子が一緒に住むことになります。

盛岡渋民村寶徳寺

♪夫啄木の家族と住むことからくる節子の心労は、新婚当初より、大変なものだったに違いありません。

♪実は、啄木は、新婚生活を東京の本郷・駒込吉祥寺(きちじょうじ)に近接した貸家で送る予定でした。その場所は、駒込神明町442番地(現在の東京都文京区本駒込三丁目の天祖神社[神明社]の近く)であったといわれています1)。しかし、この駒込神明町の新居については、東京での新婚生活を切望していた啄木の嘘であったともいわれています2)。

♪駒込吉祥寺は、啄木の母カツの兄・仏禎(ぶつてい)=対月(たいげつ)が、5年間に亘って役僧を勤めた寺で、現在、その境内には、経蔵が残っています。

駒込吉祥寺山門(堀江幸司撮影)

 

駒込吉祥寺の鐘楼と經堂(堀江幸司撮影)
駒込吉祥寺經堂(堀江幸司撮影)

♪啄木は、あこがれの新天地、本郷・駒込神明町で新婚生活をはじめながら、詩壇への道を歩みたかったのかもしれせん。それが叶わず、故郷に帰り、好摩(こうま)の停車場に下り立った啄木の気持ちはどんなだったのでしょうか。

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♪好摩駅構内にあるという啄木の歌碑を探しに行きました。好摩駅は、盛岡駅から「いわて銀河鉄道」(盛岡駅ーー目時駅)に乗って6つ目の駅です。

盛岡(もりおか)

青山(あおやま)

厨川(くりやがわ)

巣子(すご)

滝沢(たきざわ)

渋民(しぶたに)

好摩(こうま)

岩手川口(いわてかわぐち)

いわて沼宮内(ぬまくない)

御堂(みどう)

奥中山高原(おくなかやまこうげん)

小繋(こつなぎ)

小鳥谷(こずや)

一戸(いちのへ)

二戸(にのへ)

斗米(とまい)

金田一温泉(きんたいちおんせん)

目時(めとき)

 

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♪好摩の駅舎は、昔ながらの雰囲気を残す駅舎で、待合室には、ストーブが置かれ、駅員さんも、一人しかいません。駅前には、古びた駅前食堂がひとつあり、赤い郵便ポストと一台の客待ちのタクシーが印象的でした。

好摩駅前(平成21年3月23日 堀江幸司撮影)(平成23年の東日本大震災後、この建物は取り壊され、現在は新駅舎になっています)

♪駅員さんに、好摩の駅にあるはずの、啄木の歌碑についてたずねてみました。改札口を入った駅舎際(構内)にあることを、とても親切に教えてくださいました。石に刻んだものではなく、木に書いたものでした。

場所:岩手県盛岡市好摩字上山2-14 好摩駅構内

建立:昭和29年4月(木製)

 

啄 木

露ふかき好摩の原の

停車場の

朝の虫こそすずろなりけれ

 

参考文献

1)「石川啄木の誕生と駒込(文京区)」:ホームページ:

2)昆 豊著:『警世詩人 石川啄木』新典社、1986.

3)『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986)

(平成18年5月20日 記)(平成30年9月11日 追記)

56. 盛岡行 (1)『啄木盛岡駅前歌碑』

場 所:盛岡駅東口・駅前広場

啄 木

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 

碑陰

石川啄木五十回忌記念

盛岡市

盛岡啄木会

協賛 興産相互銀行

昭和三十七年十一月

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♪5月の連休を利用して盛岡に行ってきました。石川啄木にゆかりの地を少し訪ねてみようと、思いきって遠出することにしました。

♪6日(土)の午後、東北新幹線「はやて23号」(上野15:02)八戸行きで盛岡に向かいました。盛岡着は17:22。宿は、いつもは民芸品を扱う光原社分店が一階にある「北ホテル」に泊まることが多いのですが、今回は、駅に隣接している「ホテルメトロポリタン盛岡(本館)」にしました。

光原社本店(材木町

 

ホテルメトロポリタン盛岡(本館)

場 所:岩手県盛岡市盛岡駅前通1―44
電 話:019―625―1211

♪夕食の場所は、東京を発つ前に、「和かな」(ステーキ・鉄板料理)を予約しておきました。「和かな」は政府登録国際観光レストランだそうで、岩手県産の前沢牛と三陸産の海の幸を、カウンター前の鉄板で直接、シェフが調理してくれます。コースのものを頼みましたが、さすがに国産の本物は違いました。お店の雰囲気といい、味といい絶品でした。

和かな
場 所:盛岡市大沢川原1―3―33
電 話:019(653)3333

♪翌朝、駅ビルのなかにある観光案内所に行き、盛岡市内の観光案内地図(『歩いてたのしむまち 盛岡 MAP』)をもらいました。地方都市の史跡などの写真を撮りに行くときは、できるだけ、地元の観光案内所に立寄ります。新鮮な情報を得ることができるからです。係りの方に「でんでんむし」と名付けられた「盛岡都心循環バス」があることを教えていただきました。

盛岡の観光

駅前広場(バスターミナル)に降りて、早速、「でんでんむし」の一日乗車券(大人300円)を購入しました。

「でんでんむし」バス停の名前

(1)盛岡駅東口(『啄木盛岡駅前歌碑』

(2)旭 橋

(3)材木町南口

(4)啄木新婚の家口(『啄木新婚の家』)・・・・・→(『北風に立つ少年啄木像』



(5)中央通三丁目

(6)中央通二丁目

(7)中央通一丁目

(8)岩手医大前

(9)本町通一丁目

(10)上の橋

(11)上の橋町

(12)若園町

(13)バスセンター(神明町)

(14)バスセンター(中三前)(もりおか 啄木・賢治青春館

(15)県庁・市役所前

(16)岩手公園(『啄木歌碑』

(17)菜園川徳前

(18)柳新道

(19)開運橋(『啄木であい道』


(20)盛岡駅東口(『啄木盛岡駅前歌碑』)

♪盛岡駅東口の駅前広場は、チューリップで埋まっていました。綺麗に咲いています。チューリップの背景となる駅ビルの正面に「もりおか 啄木」の文字が掲げられています。この文字は、啄木自筆の文字を集字して使用されたものだそうです。盛岡の方々の気持がいまに伝わってくるように感じました。

♪盛岡駅東口の駅前広場に石川啄木の歌碑が建っています。これは、石川啄木の50回忌を記念して、昭和37年(1962)11月に盛岡市と盛岡啄木会によって建立されたものです。

♪この歌碑は、啄木の歌碑のなかでも最も大きなもので、東北新幹線の開通に伴う駅前の改修工事の際に、一時的に盛岡市立図書館内に移されました。工事終了後に駅前にもどされることになるのですが、歌碑の重量が25トンもあり、安全を考えて開運橋を通らず、新築の旭橋を通ってもどされたとのことです。

♪「ふるさとは遠きにありて思うもの」と歌った詩人(室生犀星)もいますが、ふるさとの山や川の風景は、どんな環境にあっても、わすれることができるものではないのでしょう。ふるさとの風や水の流れは、体感となって、いつまでも、五感に残っているのではないでしょうか。

 

参考文献

『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986)

 

 

(平成18年5月8日 記)(平成30年9月8日 追記)

55. 啄木、入院中の歌より

♪啄木は、入院中に、いろいろな歌を創っています。当時の看護婦、回診してくる医者の様子、家族のこと、自分のからだのことなど、薄暗い病室の寝台の上で、経済的な心配をしながら、歌っています。

♪啄木は、大の愛煙家だったようですが、病院での小さな自由のひとつは、病室の窓にもたれて、煙草を吸うことだったようです。その気持ちも、歌っています。

♪歌のなかに、寝台(ねだい)という言葉が使われています。狭い日本家屋に住んでいた啄木にとっては、寝台の上が、一時的ではあったにしろ、自分に居場所ができたように感じたのかもしれません。

♪病院の夜。それは、夜明けを待つ、長い時間です。西洋的な寝台の上で、ふくれた腹を撫でながら、母と妻子のこと。経済的なこと。創作活動のこと。それらを、思い悩みながら、生活の糧のひとつとして、必死で歌を創っていたのかもしれません。

♪当時の内科病室は、現在の竜岡門(当時は南新門)を入って、4つ角を過ぎた右手にありました。中央道路を挟んで前には、運動場が広がっていました。深々とした夜には、病棟の廊下に灯る電球の光を見て、眠れぬ夜を過ごしたのではないでしょうか。

石川啄木が入院していた当時の東京帝国大学構内(出典:「東京帝国大学一覧 明治42年から明治43年」)(国立国会図書館デジタルコレクション
東京帝国大学運動場
明治末の赤門

 

重い荷を下ろしたやうな
気持なりき、
この寝台(ねだい)の上に来ていねしとき。

病院に入りて初めての夜といふに
すぐ寝入りしが、
物足らぬかな。

晴れし日のかなしみの一つ!
病室の窓にもたれて
煙草を味ふ。

ふくれたる腹を撫でつつ、
病院の寝台に、ひとり、
かなしみてあり。

目をさませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて夜明くるを待つ。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな。

(平成17年5月21日記)(平成30年8月30日 追記)

◆◆

♪入院生活中の啄木の心配事は、経済的のことのほかに、妻と母のいさかいが、常に頭の中にあったようです。寝台の上に、自分の身の置きどころを見い出しながらも、いまごろ、妻と母は、どのように過ごしているか、気掛かりでたまらなかったようです。

 

もうお前の心底をよく見届(みとど)けたと、
夢に母来て
泣いてゆきしかな。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我(われ)にかへりけるかな。

解けがたき
不和(ふわ)のあひだに身を処(しょ)して、
ひとりかなしく今日(けふ)も怒(いか)れり。

 

♪また、入院中は、看護婦や医者の態度やひとことが、気にかかるものです。からだの痛みにたえながら、啄木は、ひとり、長い時間を過ごしながら、回診にくる医者になんて言ってやろうか、考えてもいたようです。

 

そんならば生命(いのち)が欲(ほ)しくないのかと、
医者に言はれて、
だまりし心!

脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり。

ぢつとして寝(ね)ていらつしゃいと
子供(こども)にでもいふがごとくに
医者のいふ日かな。

廻診(くわいしん)の医者の遅(おそ)さよ!
痛(いた)みある胸に手をおきて
かたく眼をとづ。

 

(平成17年12月23日 記)(平成30年8月30日 追記)

54. 太田正雄(木下杢太郎)、啄木を診察する

♪太田正雄が、木下杢太郎の筆名を使いはじめたのは、明治42年(1909)の頃のことでした。永井荷風、小山内薫、高村光太郎、黒田清輝らとの「パンの会」が全盛期を迎えた時期にあたります。

♪「パンの会」が行われた場所について高村光太郎は、「ヒウザン会とパンの会」のなかで次のように書いています。

・・・・・・・・・・・

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。

永代橋
鎧橋
両国橋橋詰

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♪この明治42年(1909)には、『スバル』が啄木を編集発行人として創刊され、杢太郎は、創刊号に『荒布橋』、二月号に『南蛮寺門前』、そして、明治44年(1911)の二月には、『和泉屋染物店』を発表しています。

◆◆◆

♪啄木が、慢性腹膜炎を患ったのは明治44年(1911)2月のことです。その当時、杢太郎(太田正雄)は、東京帝國大學醫科大學の医学生で、卒業する年のことでした。医者になるべきか、文芸活動を続けるべきか、悩んでいた時期でもありました。啄木が、病や金で苦労していたとのは、また、別の苦しみでありました。

東京帝国大学構内中央道路

♪結局、太田正雄は、明治44年(1911)12月に東京帝國大學醫科大學を卒業して、明治45年・大正元年(1912)1月、衛生学教室(緒方正規教授)の研究生となります。森鴎外の勧めで、皮膚科教室(土肥慶蔵教授)に入室するのは、7月になってからのことでした。

土肥教授と皮膚科泌尿器科病室

♪杢太郎も同世代の啄木の病は、気掛かりで、卒業する前で、まだ一人前の医者とはいえないまでも、求めに応じて、診察したのでしょう。

♪啄木の「明治四十四年当用日記」の2月3日、4日には、啄木が杢太郎に診察して貰い、入院する経緯が次ぎのように記されています。

二月三日 晴 温

午前に太田正雄君が久しぶりでやつて来た。診察して貰ふと、矢張入院しなければならぬが、胸には異常がないと言つてゐた。そのうちに丸谷君が来、土岐君が来た。雑誌のことはすべて予の入院後の経過によつて発行日その他を決することになった。夜、若山牧水君が初めて訪ねて来た。予は一種シニツクな心を以て予の時世観を話した。声のさびたこの歌人は、「今は実際みンなお先真暗でござんすよ。」と癖のある言葉で二度言つた。

二月四日 晴 温

今日以後、病院生活の日記を赤いインキで書いておく。どうせ入院するなら、一日も早い方がいい。そう思つた。早朝妻が俥で又木、太田二君を訪ねたが要領を得なかつた。更に予自身病院に青柳学士、太田君を訪ねたが、何方も不在。午後に再び青柳学士を訪ねてその好意を得た。早速入院することにして、一旦家へかへり、手廻りの物をあつめて二時半にこの大學病院青山内科十八号室の人となつた。同室の人二人。夕方有馬学士の診察。夕食は普通の飯。病院の第一夜は淋しいものだつた。何だかもう世の中から遠く離れて了つたやうで、今迄うるさかつたあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになつた。長い廊下に足音が起つては消えた。本を読むには電燈が暗すぎた。そのうちにいつしか寝入つた。入院のしらせの葉書を十枚出した。

◆◆◆

♪入院当時、啄木が住んでいたのは、本郷區弓町二―十八新井喜之床)方の二階で、杢太郎は、小石川の白山御殿町一〇九番地に住んでいました。いまの「本郷通り」を、啄木と杢太郎は、行き来していたのかもしれません。それにしても、普段、俥など使ったことがないと思われる啄木の妻が、夫の一大事に入院を頼み廻る気持ちは、どんなものであったのでしょうか。医薬料の工面もあって、さぞかし、辛いものがあったと思われます。

 

(平成17年4月24日 記)(平成30年8月29日 追記)

53. 石川啄木、慢性腹膜炎を患う

♪すがすがし春の光りを感じながら、この五月の連休に小石川植物園下の千川通りから桜並木のある播磨坂を上がって、石川啄木の終焉地(文京区小石川5丁目11-7)(旧小石川区久堅町74番地)まで、散歩してみようと思っています。桜は、もう葉桜となっていますが、雨に濡れ、光りを反射する新緑の桜並木も美しいものです。

♪小石川植物園内には、旧東京医学校本館遺構(現・東京大学総合研究博物館小石川分館)があり、小石川久堅町(ひさかたまち)は、三宅秀が住んだ小石川竹早町(81番地)にも近い町です。

◆◆

♪平成17年4月19日付の『東京新聞』によると、「播磨坂さくら並木」に緑色の桜の木が1本あるそうです。この桜は、サトザクラの一種で、「黄桜」の別名を持つ「ウコン」とのこと。明るい黄緑色をしており、中央の赤みが次第に増すそうです。そういえば、わたしの職場の敷地内にも、このような桜の木がありました。

 

♪播磨坂に出かける前に、『石川啄木全集 第六巻』(筑摩書房)から「明治四十四年当用日記」の部分をみておくことにしました。

♪啄木は、亡くなる前年(明治44年)の2月1日に東京帝國大學醫科大學の三浦内科(注1)で慢性腹膜炎の診断を受け、2月4日から3月15日まで、青山内科(注2)の18号室に入院することになります。

石川啄木が診察を受けた三浦内科の病室:左手の奥に東京医学校本館の時計塔が見える

 

日記」は、入院するまでの経過を次のように記しています。

一月二十七日  晴 温

五六日前から腹が張つてしやうがない。飯も食へるし、通じもある。それでゐて腹一帯が堅く張つて坐つたり立つたりする時多少の不自由を感じる。

一月二十九日  晴 温

何だか身体の調子[が変]だつた。腹がまた大きくなつたやうで、坐つてゐても多少苦しい。社に電報を打たせて休んだ。

二月一日 晴 温

午前に又木君が来て、これから腹を診察して貰ひに行かうといふ。大学の三浦内科へ行つて、正午から一時までの間に青柳医学士から診て貰つた。一目見て「これは大変だ」と言ふ。病名は慢性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事だつた。そうして帰つたが、まだ何だかホントらしくないやうな気がした。然し医者の話をウソとも思へない。社には又木君に行つて貰つて今日から社を休むことにした。
医者は少くとも三ヶ月かかると言つたが、予はそれ程とは信じなかつた。然しそれにしても自分の生活が急に変るといふことだけは確からしかつた。予はすぐに入院の決心をした。そして土岐、丸谷、並木三君へ葉書を出した。
夜になつて丸谷、並木二君がおどろいて訪ねて来た。

(注記)

(1) 三浦内科:(明治28―大正13)三浦謹之助教授が主宰した教室。三浦謹之助、東京大学医学部内科学教室(第一講座)の初代教授。

(2) 青山内科:(明治20―大正6年)青山胤通(あおやま・たねみち)教授が主宰した教室。青山胤通は、東京大学医学部内科学教室(第三講座)の初代教授。

(平成17年4月21日 記)(平成30年8月25日 追記)

52. 「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物):講談社内で発見、木下家から国立国会図書館へ寄贈

♪木下實氏(東京大学名誉教授)(木下凞の曾孫)より『先徳遺芳』」と題した冊子を贈っていただきました。(図1

図1.『先徳遺芳』表紙(木下實編・平成23年[2011]刊 私家版)
♪この冊子は,「『先徳遺芳』(木下文書)」の巻物が,国立国会図書館に寄贈されることになったのを機会に木下實氏によって編集されたものです。

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前書きに代えて

『先徳遺芳』は,曽祖父木下凞が残したもので,杉田玄白とその子孫から木下家の代々に宛てられた書翰などを集めた四巻の巻物である。三上参次先生(元東京帝国大学文科大学教授兼史料編纂)によって「木下文書」と命名された。ここでは巻物を開いて個々の文書に分けて収録した。

平成廿三年七月

木下 實

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♪冊子は第一部,第二部,第三部に分けて編集されています。原文と解読文とから構成されているのですが,木下實氏による補足説明もあり,巻末には,「木下凞・正中・東作の略年譜」も作成されています。『先徳遺芳』(木下文書)」(巻物)の全容を知る上で大変,貴重な冊子となっています。

第一部:原文[奉先記事][源淵寶墨][立卿・成卿先生遺墨][名士墨蹟][貴重書翰]

第二部:原文と解読文

第三部:収録資料目録(主に木下恭二保存の資料と文献から集めた資料)

付録一 木下家・杉田家系譜

付録二 木下家関係参考書

付録三 木下凞翁懐舊談(京都医事衛生誌,明治四十年)(文献1参照, 文献2参照)1)2)

補足資料集

木下凞・正中・東作の略年譜

◆◆◆◆◆

♪「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物は,昭和55年(1980)に木下正一(せいいつ)(木下正中の長男・木下實氏の伯父)から講談社野間科学医学研究資料館(当時の責任者は緒方富雄,理事は川喜田愛郎(よしお)[木下正中の娘婿・元千葉大学学長])に寄贈されました3)が、その後,野間科学医学研究資料館が平成15年(2003)に閉館され,その所在が確認できないでいました。

♪『先徳遺芳』の行方について木下實氏による継続的な探索の結果,巻物は,講談社内に,別置して大切に保管されていたことが確認されました。探索にあたっては、「江戸東京」でも、所在調査に必要な文献検索に協力させていただきました。

国際日本文化研究センター(京都)の「西洋医学史古典文献」(野間文庫)に行ったと思われていた巻物が東京に残されていたことがわかったのです。幸い保存状態が良く,痛みもなかったそうです。巻物が,眼前に現れたときの感激は如何ばかりであったでしょう。巻物と対面されたとお知らせをいただいたときは,発見できた喜びとともに、古文書の香りが,こちらまで伝わってくるようでした。

図2. 外函と内函の蓋の表裏(富岡鐡齋画伯の筆) [二重の桐函に巻物が収められている](写真:木下實氏提供)

図3. 『先徳遺芳』(木下文書)全四巻[写真:木下實氏提供] (内函のなかに四巻の巻物が収められている)
第一軸(題簽 「奉先記事」) [自序(明治卅七年八月 木下凞ひろむ謹識, 鐡齋富岡百錬代書)]

第二軸(題簽 「源淵寶墨」) [男爵石黒忠悳書簡翰(木下凞ひろむ宛 明治四十年五月二日):三上参次序 (明治四十年十一月念八日)・杉田玄白五世孫 武・杉田玄白翼書翰(木下宗伯宛)など]

第三軸(題簽 「立卿・成卿先生遺墨」 [杉田立卿・杉田成卿書翰]

第四軸(題簽 「名士墨蹟」) [川本幸民の書翰など]

 

♪「『先徳遺芳』(木下文書)」は,木下實氏からの依頼で講談社から木下家に返却(平成23年[2011]8月29日)されることになりました。その後,木下家での話し合いの結果,国立国会図書館に寄贈(平成23年[2011]9月16日)されることになったとのこと,川喜田愛郎先生も,さぞかし安心されたことと思います。

♪講談社からの返却時に,現物からの写真撮影が行われています。その結果,「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物(巻物)は国立国会図書館に,影写本が東京大学史料編纂所に,そしてデジタルデータが木下實氏の手元に,保管されることとなりました。文化財的な史料の永久保存,安全保管としては,万全の方策がとられたことになります。

講談社で撮影された『先徳遺芳』

◆◆◆

♪巻物は,二重の桐函(図2・図3)に収められているのですが,富岡鐡齋の筆による書(題字・函裏の書)(図4)も鮮明に読み取れます。木下正一によると,もともと,内函だけがあったものを,富岡画伯がその貴重さを思い,表函を作らせ,友人である木下凞のために,筆をとったとのことです3)。(文献3参照)

図4. 内函の裏書(富岡鐡齋画伯書)(写真:木下實氏提供)

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杉田玄白先生は,若狭小濵の藩,従って京都に住み,始めて西洋医学を唱えて海内を騒動す。偉人と言うべし。その子成卿業を襲え,連綿の盛,世の賞嘆するところなり。わが家の祖先,同藩の故を以て業を杉田家に受くる數世,故に子弟親密の交,朱陳も啻ただならず。これを以て平生質問往復書の夥き數うべからず,豈あに寶愛せざるべけんや。余その散佚を恐れ,整理して巻となし,以て子孫に伝う。蓋し胎厥孫謀(いけつそんぼう)の意,またこれに外ならず,是に於てか識す

明治四十二年五月 木下凞

友人鐡齋外史代書

注)胎厥孫謀(いけつそんぼう):父祖が子孫に遺すはかりごと

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「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物)国立国会図書館寄贈までの流れを下記にまとめておきます。

 明治37年(1904)8月:木下凞「自序」(富岡鐡齋代書)

 明治39年(1906)9月:三上参次により影写本「木下文書」が作成される(影写本は東京大学史料編纂所が所蔵

 明治40年(1907)11月28日:三上参次「序文」

 明治41年(1908)春:杉田武「書翰」

 明治42年(1909)5月:友人の富岡鐡齋 表函・内函の表題・裏書の筆をとる

 昭和31年(1956)3月4日:「木下文書」の一部が医家先哲追薦会4)5)(場所:日本医師会館大講堂・大食堂)で展覧・陳列される

[安西安周の求めによって木下正一が提供する]6)(文献6参照)

 昭和55年(1980):木下正一から野間科学医学研究資料館(講談社)へ寄贈(委託)される(文献3参照)

 平成15年(2003):野間科学医学研究資料館が閉館、資料は国際日本文化研究センター(京都)に寄贈(西洋医学史古典文献・野間文庫)されることとなる

(一時、行方不明)

 平成22年(2010)12月講談社(野間佐和子社長・当時)で発見される

 平成23年(2011)8月29日:木下實氏の依頼により木下家に返却されることとなる(このとき講談社で現物からの写真撮影が行われる)

 平成23年(2011)9月16日国立国会図書館に寄贈される。その後,国立国会図書館のOPAC(「木下文書」で検索)に登録,古典籍資料室に保管される。

平成26年(2014):国立国会図書館の企画展「あの人の直筆」で展示される。

その後、「木下文書」は、国立国会図書館でもデジタルコレクションに登録され、インターネット上で閲覧可能となる。

 

◆◆◆

♪第二軸(題簽 「源淵寶墨」)に,杉田武(1852-1920)(杉田玄端の長男,杉田本家7代)(杉田玄白五世孫)7)8)9)の書翰が収められています。(図5

図5. 杉田武(杉田玄白五世孫)からの書翰(写真:木下實氏提供)

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余曽て凞木下君と同窓の友なり,君の家世々余の家と師弟の交あり,君其家祖と余の家祖との間に往復せる書簡数通を秘蔵す,頃日君表装して永く家寶とせらる。啻ただに君の家の宝のみならむ,實に醫界の寶なり,謹みて誌す。

杉田玄白五世孫

明治四十一年春

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♪木下凞は,横濱時代(木下實著)(文献10)の明治4年[1871]から明治6年[1873]まで丸屋薬局(丸善の前身)に杉田武と同宿して,早矢仕有的の塾(靜々舎診察所)で勉学を共にしていました。このころから,木下凞は,木下家に伝わる杉田玄白や川本幸民などからの貴重な文書類を,後世に伝える方策を考えていたように思えます。立派な表装と二重の桐函によって,貴重な文書が,確かに,後世に伝えられることになるのです。

横濱グランドとヘボン邸

♪さらに「『先徳遺芳』(木下文書)」は,国立国会図書館に寄贈されたことによって,杉田武のいう「木下家の家寶」が「醫界の寶」となったともいえるでしょう。

♪杉田家にとっても寶といえる文書類が,国立国会図書館に収まったことを,木下凞と杉田武は,共に喜びあっているのではないでしょうか。

 

(平成24年9月3日 記す 平成30年8月18日 追記)

 

参考文献

1) 「木下凞翁懐舊談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

2) 「木下凞翁懐舊談 [承前]」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

3) 「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)

4) 「醫家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)

5) 「醫家先哲祭盛況―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)

6) 安西安周著:「蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註」.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)

7) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

8) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

9) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

10)木下實著:「曽祖父 木下 凞 ―横浜での生活―」(私家版)

51. 永利満雄氏からのメール:「京都駆黴院図」の発見

♪京都の永利満雄氏(京都府立医科大学臨床検査部・元京都府立洛東病院臨床検査室勤務)より,「江戸東京」の木下凞(ひろむ)に関する項を読んで,感想などのメールをいただきました。

♪永利満雄氏は,木下凞(ひろむ)が初代院長になった京都駆黴院(のちの京都府八坂病院)から発展した京都府立洛東病院(平成17年閉院)に勤務する傍ら,病院の歴史を調査1)2)。京都医学史研究会にも参加して,木下凞(ひろむ)に関する資料は,杉立義一先生(産婦人科医・故人)より得ていたそうです。

♪杉立義一先生は,『京の医史跡探訪』(思文閣出版)の著者です。わたしも京都の光悦寺や玉樹寺へ水原秋桜子の歌碑などを探しに行った折には参考にさせていただきました。

♪7年前の7月,夕立を避けながら木屋町通りを歩き,お洒落な喫茶店に飛び込んで,ひとり雨宿りした情景を思い出しながらメールを読ませていただきました。

♪メールには,昨年,青山霊園に木下凞(ひろむ)の墓所を探したが,あいにく見つからなかったこと,「江戸東京」の記事をみて,その場所を知ったことなども記されていました。「江戸東京」が,少しは,お役に立ったようです。

♪3枚の画像が添付されていました。貴重なものばかりでした。3枚目の写真は,『京の医史跡探訪』に「京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門」として掲載されていた写真と同じものでしたが,永利満雄氏が送ってくださったものは,そのオリジナル・プリントから作成されたファイルのようにも思えました。

1枚目:京都駆黴院を描いた日本画(部分)(京都国立近代美術館蔵)
2枚目:検査室内の様子を写したもの(部分)(永利満雄氏提供)
3枚目:京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門(永利満雄氏提供)

♪一枚目の日本画は,永利満雄氏が洛東病院の歴史調査の過程で病院の倉庫のなかで発見されたもので,その後,この日本画は,洛東病院の職員の方々の努力と,当時,兵庫県立近代美術館(現在・兵庫県立美術館の王子分館「原田の森ギャラリー」)の学芸員であった山野英嗣氏(現在・京都国立近代美術館・学芸課長)と木下直之氏(現在・東京大学文学部文化経営学教授),末中哲夫氏(当時・京都教育大学教授),杉田博明氏(京都新聞社),大橋乗保氏(田村宗立の研究家,当時・京都工芸繊維大学助教授),そして田村宗立の子孫である田村泰隆氏を紹介した原田平作氏(京都市美術館学芸員・のち大阪大学文学部教授)など,多くの方々の意志ある熱意と協力を得て,京都国立近代美術館に寄贈されることになったとのことでした。

京都国立近代美術館

場 所:〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町

電 話:  (075) 761-4111

♪「京都駆黴院図」は,国立近代美術館(東京国立近代美術館京都国立近代美術館国立西洋美術館国立国際美術館)のサイトに登録されており,作品全体をみることができるとありました。早速,国立美術館が管理・運営する「所蔵作品総合目録検索システム」を検索してみました。

♪「京都駆黴院図」は,田村宗立(たむら・そうりゅう)(1846-1918)の描いた絹本墨画で明治18年(1885)の作品であることがわかりました。背景には,東山の山並みが描かれ,八坂の塔もみえます。駆黴院全体も,診察室・病室まで非常に丁寧に描かれています。当時の京都駆黴院の規模,建築の様式などを知ることができるように思われました。

京都・八坂の塔(絵葉書)(平成26年6月29日 追加)

♪永利満雄氏に,この「京都駆黴院図」を洛東病院で発見してから,京都国立近代美術館に寄贈されるまでの経緯を書いた文献などがないか,お尋ねしてみました。すぐに返信をいただきました。メールとともに,発見した当時の新聞記事を送ってくださいました。

♪昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)3)は,永利満雄氏と宗立(そうりゅう)の孫・田村泰隆氏を取材して,次のように報じていました。

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府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に

「見つけたのは,府立洛東病院臨床検査室の永利満雄さん(33)。きっかけは京都医学史研究会の会員であり,たまたま,洛東病院の歴史を調べているうちに,病院の倉庫にホコリをかぶった絵をみつけて調査,病院の前身の駆黴院を描いた絵とわかった。」「制作年は明治十八年。ちょうど療病院から独立した時期で,これを記念に,当時,京都府画学校で,わが国に導入されたばかりの西洋画の教鞭をとっていた田村宗立(そうりゅう)に依頼されたらしい。山や木立などには,日本画の描法がうかがえるが,建物は百年前とは合理的な溝引きを使った建築設計図のような透視図の手法がとられている。」『京都の医学史』の編さんにあたった京都医史学研究会の杉立義一さんの話「駆黴院についてはこれまで,どういう規模でどういう活動をしていたかわからなかった。この絵で病院の規模もよく分かり,当時の医療活動をしのぶことができる貴重な資料だと思う。」

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♪なにしろ,永利満雄氏の「京都駆黴院図」を後世に残したいという強い思いが,兵庫・京都の美術館を中心とした田村宗立に関わる人々を動かし,医史学的にも貴重な日本画が京都国立近代美術館に残ったことは確かなことです。

♪明治14年(1881)1月19日,仮駆黴院にはじめて院長を置くことになり,このとき院長になったのが,木下凞ひろむ先生。祇園花見小路の4400坪の土地が京都府に寄付され,駆黴院が新築されることになり,翌年,明治15年(1882)11月24日に竣工・開院しています。

♪花見小路は,建仁寺の近くです。今年も祇園祭(八坂神社の夏祭り)の時期となり,「京都の動く美術館」4)といわれる絢爛豪華な様子がニュースで流れています。125年前の京都花見小路。病に苦しむ女性たち,そして,医師,看病婦たちは,どのような思いのなかで,八坂の祇園祭を迎えていたのでしょうか。

♪永利満雄氏からは,別便で,駆黴院に関する文献や明治期の病院の様子を写した写真などを送っていただいています。また,こちらでも東京から京都府八坂病院に派遣された医師についての調査を進めた結果,大正4年(1915)10月には,東京醫科大學皮膚科教室醫局(土肥慶蔵教授)から京都府八坂病院長として,三戸雄輔(みと・ゆうすけ)醫學士が赴任5)したことなどが,わかってきました。当時の皮膚科教室醫局には,太田正雄醫學士(木下杢太郎)が在籍していました。

♪宇野朗の関係で求めておいた『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』6)のなかの「思い出の写真」には,皮膚科醫局内で撮影された「大正4年10月 三戸雄輔 京都八坂病院長 赴任送別会」の集合写真が掲載されていることもわかりました。この集合写真には,土肥慶蔵教授と三戸雄輔醫學士が並んですわり,太田正雄醫學士も右端の出入り口付近に立って写っています。独特の雰囲気を感じさせる白衣姿です。

♪「江戸東京」は,いろいろなご縁で,京都と繋がりをみせはじめています。

参 考 文 献

1)    永利満雄,藤本文朗,渋谷光美. 京都東山の洛東病院の歴史を探る ―語られなかった歴史的事実にせまる―.「いのちとくらし研究所報」第28号,pp.38-47. 2009年9月.

2)    永利満雄.京都駆黴院の変遷について.「啓迪」第5号,pp.14-19. 昭和62年4月.

3)    ―府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に―.昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)

4)    八坂神社と祇園祭.「京」(日本新薬の広報誌) no.164. pp.14-19.(日本新薬「京」編集委員会編 平成22年7月23日発行)

5)    三戸學士の赴任(雑報記事).「皮膚科及泌尿器科雑誌」15(10):p.76.(大正4年10月)

6)    「思い出の写真」「同窓会々員名簿(東京大学医学部皮膚科教室泌尿器科教室[明治26年頃作成])」:『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』(東京大学医学部泌尿器科学教室編 平成14年)

(平成22年8月1日 記す 平成30年8月11日 追記)