43. 相馬事件:相馬誠胤の死因と墳墓発掘

♪相馬誠胤(そうま・ともたね)(1852-1892)(陸奥国中村藩六万石第13代藩主)は、明治25年(1892)2月22日の朝6時、「心臓麻痺」によって死去しました。

♪榊俶の病床日誌(手記)と相馬家が書いた[日誌]には、次のように記録(抜粋)されています。

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明治25年(1892)2月19日

[相馬家日誌]

大雪 午前6時半御起床 時々放歌あり 再三度看護室の處まで御出ありたり

8時頃に至り甘酒を飲して呉れよとて看護室に御出2杯斗召し上り

舌運動も充分ならさる如ら尿利増加して1時間に6、7回ありたり

2月20日

(榊手記)

診する時午後5時 患者安静に仰臥し精神少々興奮 頭部に充血の徴あり 眼光鋭くして言語活発なり。

訴えて曰く一週間前より咽喉大いに渇し飲を引くこと一回に一桝余尿量も亦甚だしく増加し一時間に6回の尿利をみる

四肢「チアイーゼ」を呈し皮膚乾燥、体温36度5分 脉博弱小にして108

又弱視を訴ふるに由り眼底を検す 静脈性鬱血あり 瞳孔は中等大にして反応なし 膝蓋腱反射機亢進(前日は消失せり)尿は透明淡黄色(蛋白・糖分)

[相馬家日誌]

午前7時30分御起床 午前8時中井[常次郎]氏来診 午後4時榊医学博士・中井医士来診

2月21日

(榊手記)

午後7時「ベルツ」氏と共に診 独語 言語応答不明 脉博百至心動き極めて微弱且不正[整] 体温36度2分 四肢の「チアイノーゼ」 口内乾燥舌苔あり 瞳孔は昨日に比して少し狭小なり 諸極めて不良

[相馬家日誌]

午前9時片山・中井両氏来診 中井医に向ひ便秘を訴へ「ひまし油」を請求せられたり 中井氏曰く御食事少料なれば随て便通なきは当然

2月22日

(榊・手記)

今朝6時心臓麻痺に由て逝く 今朝最後に得たる尿を検するに渾濁不透明にして亜児加里性の反応を呈し葡萄糖を含む但し蛋白質なし

[死の状態]

今朝4時 脉125 意識朦朧 時々反側し四肢の肉振 右側顔面神経の不全麻痺あり 遂に眠るが如くにして逝く

[相馬家日誌]

龍脳油を注射し稍々復蘇するも午前6時遂に終息す

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♪相馬誠胤が死去する前に診察した医師には次の人々がいました。

中井常次郎(東京府癲狂院長)
榊 俶(醫科大學教授医學博士)
ドクトル・ベルツ(醫科大學教師)
片山國嘉(醫科大學教授医學博士)

 

♪検視は山根正次(警察醫長)によっておこなわれました。山根は、明治15年(1882)医科大学を卒業して、明治20年(1887)司法省の命によりドイツ、フランス、オーストラリア、イタリア、イギリスの各国をまわり法医学を修めました。

♪『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)に、「明治二十一年於伯林醫學関係者」と題する写真が掲載されていますが、このなかに山根正次のほか、江口襄、森林太郎、隈川宗雄、片山國嘉の顔がみえます。前列左から二人目が山根正次、中央が片山國嘉 右から二人目が隈川宗雄、二列目左端が森林太郎、右端が江口襄です。相馬事件に関わった多くの医学者の顔があります。

 

♪主治医の中井常次郎が榊俶と連名で麹町区長宛に出された死亡届は、以下のようなものでした。

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死 亡 届

 

麹町區内幸町一丁目六番地 華族

相 馬 誠 胤 四十年

 

一 時発性躁狂兼尿崩及糖尿病

一 経過 十五年

一 心臓麻痺に由り当月廿二日午前六時死す

 

右拙者等施治患者に候處頭書之通死去候に付此段及御届候也

明治廿五年二月

 

芝區櫻川町九番地

主任醫 中井常次郎

本郷區西片町十番地

醫學博士 榊 俶

 

麹町區長宛

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♪この死亡届に疑義を持つものがありました。錦織剛清(にしごり・たけきよ)(旧中村藩士)です。誠胤の死が毒殺ではないかとして、順胤(よりたね)(異母弟)と家令志賀直道(志賀直哉の祖父)らを明治26年(1893)7月17日に告発します。

♪誠胤が死亡したときに臨検が行われ、その際に口中より流出した血液が警視庁に保管されており、その血液が証拠として分析されることになります。その分析に、相馬家では、当時、帝国大学医科大学で病理化学を担当していた隈川宗雄(くまかわ・むねお 福島藩出身)を立ち会わせたいと予審判事に申請するのですが、認められることはありませんでした。

♪9月8日朝7時、青山墓地に葬られていた誠胤の遺骸が発掘され、江口襄(えぐち・のぼる)が、胃部、心臓部などの局部を解剖し、毒殺の真偽を調べるための標本があつめられることになります。

♪解剖した江口襄は、明治24年(1891)6月に陸軍軍医学校において裁判医学(精神科)を講義していました。明治20年(1887)10月8日には、陸軍省より裁判医学および精神医学研究のためドイツに留学しています。東京医学校では森鴎外と同期で陸軍一等軍医正・警視廰御用掛(警察医長)を務めました。

 

陸軍戸山学校(絵葉書)

 

♪次回に当時の新聞から墳墓発掘の様子をみてみることにします。

(平成14年10月5日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

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♪明治26年(1893)9月14日付けの『郵便報知』は、青山墓地における相馬誠胤の墓の発掘の模様を以下のように報じています。

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発掘着手

準備整いて、午前七時に発掘に着手せり。午後四時に至り全く発掘を終え、棺蓋を開く。憲兵、巡査を遠ぞけ、総立ち会いにて棺の蓋を開けば、故誠胤氏は宛然(えんぜん)眠れるがごとく、ただ顔色蒼然たるを見るのみなりしという。

 

局部解剖

江口軍医及び田原技師は徐々に刀を取り、遺骸の要部なる胃部、心臓部等の局部を解剖し、分析に必要なる部分を取り、これを茶筒大の硝子瓶と長さ二尺五寸、高さ一尺位の厳重なる箱とにおさめ、その他棺中に流動したる濃液のごときものをもことごとく瓶中におさめ、しかして後、遺骸は元のごとく棺中に安臥せしめ、仮に蓋を覆い、立会人に引き渡し、墓地周囲の警戒を解きて、掛り官等は一同青山を引きあげたり。これが午後八時十分頃なりし。解剖に着手したるは四時三十分にして、これを了したるは午後七時なり。

📰📰📰📰

♪当時の青山墓地周辺(青山大膳亮:美濃郡上藩4万8千石下屋敷跡)は、田畑のほか樹木も多く、鬱蒼としていました。そんな中で、夕暮れ時から日が落ちてまでも解剖が続けられた模様です。

♪棺から遺骸を引きずり出し、異臭を放つ胃・心臓を摘出した江口の心境はどんなものだったのでしょうか。また、真相解明の裁判のためとはいえ、殿様の遺骸を掘り起こされた親族・家臣たちの思いを考えると胸がつまります。法医学の厳しさ、難しさを感じます。

(平成14年10月 6日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

参考文献

1)『相馬実伝 晴天白日

2)『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)(石黒忠悳著 昭和11年)

42. 相馬事件:スクリバの鑑定書

♪相馬事件では、榊俶とベルツのほかに、スクリバと三宅秀・原田豊も鑑定書(同意書)を書いていました。スクリバ(Julius Karl Scriba, 1845-1905)は、明治14年(1881)に教師として来日し、おもに外科を担当しました。

★スクリバ(三宅秀・原田豊)の鑑定書・診断名:「狂躁発作を有する鬱憂病と認む可き精神障碍症」:明治18年(1885)1月3日

★榊 俶(ベルツ)の鑑定書・診断名:「時発性躁暴狂」:明治20年(1887)4月19日

♪スクリバとベルツは私的にも交流があり、明治24年(1891)には草津温泉に旅行して一井旅館(現・ホテル一井)に滞在したこともありました。

スクリバ(Julius Karl Scriba, 1845-1905)
草津温泉一井旅館でのスクリバ(後列右)とベルツ(後列左)(出典:『ベルツと草津温泉』市川善三郎著 口絵)

♪相馬誠胤が、小石川區巣鴨駕町の東京府癲狂院(巣鴨病院)を抜け出したあと、連れ戻されて醫科大學第一醫院(東大・本郷)に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日のことでしたが、それ以前には、、向ヶ丘(本郷彌生町)にあった東京府癲狂院(中井常次郎院長)に入院していました。また、東京府本郷區田町(現・文京区西片町)にあった加藤瘋癲病院に入院していたこともありました。相馬誠胤は、本郷界隈にあった精神病院を転々としたことになります。

♪加藤瘋癲病院に入院したのは、明治17年(1884)3月10日から一週間、東京府癲狂院(向ヶ丘)に入院したのは、明治17年(1884)7月17日から明治18年(1885)7月20日までのことでした。この時、東京大学医学部から、スクリバとともに、三宅秀、原田豊の3名が出張して、病状についての鑑定書を書いています。

相馬誠胤の入院先

(1)加藤瘋癲病院[本郷區田町28番地]

明治17年(1884)3月10日から一週間

加藤瘋癲病院(本郷區田町)(出典:『東京盛閣圖録』新井藤次郎編 明治18年)(国立国会図書館デジタル)(加藤照業が本郷區田町6番地に精神病専門病院を開業したのは、明治8年[1875]2月のことで、28番地に移ったのは明治11年[1878]12月18日、明治31年[1898]10月失火、12月5日廃院となる)
加藤瘋癲病院の位置(画面上方向が本郷通り 右隅に森川町にあった映世神社が見える)

(2)東京府癲狂院[向ヶ丘・彌生町 のち第一高等学校となった場所)

明治17年(1884)7月17日ー明治18年(1885)7月20日

11月22日に錦織剛清が乱入する。

明治18年(1885)1月3日 スクリバが鑑定書を作成

明治18年(1885)3月12日 スクリバの鑑定書に三宅秀と 原田豊が同意する

 

 

 

向ヶ丘時代の東京府癲狂院略図(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著)(国立国会図書館デジタル)(画面右の道路は、現在の言問通り。病院門は、のちの第一高等学校裏門があった幽霊坂の上あたりに開いていた。第一高等学校前の電車通り[現・本郷通り]から根津方向に抜ける道路の左側である)

(3)東京府癲狂院(巣鴨病院)(小石川區巣鴨駕町)

明治19年(1886)6月21日 「東京府癲狂院」が小石川区巣鴨駕籠町・本郷区上富士前町(現・文京グリーンコート周辺)に新築・移転、相馬家は特別病室(2室)をつくり、誠胤を入院させる。

明治20年(1887)1月31日 夜半 錦織が誠胤を特別病室から連れ出す。

 

(4)医科大学第一医院(本郷・東京大学医学部)

明治20年(1887)3月10日 医科大学第一医院(本郷旧加賀藩上屋敷跡 赤門を入って正面にあった)へ入院。

明治20年(1887)3月11日 錦織剛清の公判が午前9時50分より開廷。

明治20年(1887)4月19日 榊俶(主任医)・佐々木政吉によって「時発性躁暴狂」と診断される。ベルツも診断に関わる。

明治25年(1892)2月22日 誠胤逝去。享年40年.

 

死亡届「時発性躁暴狂兼尿崩兼糖尿病」

(主治医・中井常次郎 医学博士・榊俶)

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♪明治18年(1885)当時、榊俶は、まだ、ドイツ留学中でした。そして、明治19年(1886)帰朝後、精神病学講座の教授となった時は、30歳の若さでした。その若さで、相馬事件に遭遇することになる訳です。

♪榊俶は、大学卒業後、スクリバに、第一醫院で眼科の指導を受けています。眼科当直医として、眼科を専攻し、井上達也(神田駿河台眼科医)の委嘱によって診察をしたこともあったといいます。

♪それが、明治15年(1882)のドイツ留学時に専門が眼科から精神病学に変更になっています。なにが、そうさせたのかわかりませんが、スクリバからの影響もあったと思われます。

♪相馬事件を調査していて、スクリバとともに、三宅秀も同事件に関係していたことを知り、少し長くなりますが、スクリバが書いた鑑定書(明治18年[1885]1月3日作成)と、それに同意した三宅秀と 原田豊の同意書(明治18年[1885]3月12日作成)を引用しておきます。

 

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鑑 定 書

華族相馬誠胤齢三十年身体の発育及栄養共に良全にして且強健なり 自を云ふ幼時小児病を患ふるの外曾て重病に罹りしことなし 母は幼年の時死亡し父は今尚ほ健存し既に齢六旬に達せり 又一妹一弟あり 皆健存し伯父一人及伯母二人は既に死亡せり 其他数多く親戚ありと雖も其健否を詳にする能はず 近来悄々記臆力を減し至要の事件と雖も屡々之を遺忘するに至る 且つ宗族中曾て狂病に罹りしものなしと 然れども癲狂院醫員の説述する所に拠れは実母叔母祖父及伯父は数々精神病を発せしことあり 相馬氏自ら陳述する所は余は久しく東京に住し夙に外國語を學ひ后ち明治四年まて武術に従事し曾て政事上に関せしことなし 明治十年西南の役に際し故岩倉公の委嘱に因て兵士募集の為め郷里に帰りしことあり 同氏は十五歳にして戸主と為り 明治三年妻を迎へしに伉儷和せす室を同ふすること甚た罕なり 偶々對語するときは動もすれは喧争をなせり 明治十二年まては常に強壮なりしか此年初めて精神病に罹りたるにや禁錮の身となりしか 本年七月千八百八十四年に至り僅に数日の自由を得たるも此間尚本郷區田町瘋癲病院に在り 幾もなく又本院に投したりと依て何を以て精神病に罹れりと思考せしやと問へは答曰数々憤怒に堪る能はさると殊に一室に閉居せられたるとを以てなりと 又曰く同年中従来居住せし家屋破壊せしを以て更に粗悪の矮屋に移轉せさるへからさるの時に際し 甚た不満に堪へさるの余り不忠の家人を罰せんかため鎗劒刀等の凶器を以て家扶等を脅迫せしこと数回之れあり 就中家令富田某なるものは二年以来頗る情誼不和にて日を送りしか故に尤も之を嫌忌せり 其後尚ほ斯く如き憤怒を発すること屡々之れありしも既に脅迫するの器なく又脅迫すへきの人なきか為めに啻に憤怒を座右の器具に漏せしのみ 而して斯く如き憤怒は毫も前兆なくして突然発するを常とせり 然れとも后に至ては却て不快を覚ゆること屡々之あり

癲狂院醫員の説述する所に據れは斯の如き発作は入院以来絶てなく唯時として睡眠中高聲を発することあるのみと 依て何故自家に在りてのみ斯の如く卒然憤怒することありやと問うに答曰他家にては自ら怒気を抑制することを知るも自家に在ては家長なるか故に他に配慮する者なけれはなりと 又曰時として窓外娼妓の喧噪せるか如き或は笑ふへく或は楽む可き愉快なる語聲を聞くことあり 又は色蒼白にして顔面膨張せる婦人黒色の衣服を着け之に梅花を挿みて行歩するを見しこと屡々なりしか 近来は絶えて之を見す 又斯の如き娼妓の語聲を聞くときは自を笑ひ或は時として唱歌することあり 然れとも渠れと共に談話することなかりしと

相馬氏は元来酒量大ならす 唯愉快なる宴会に臨ては好んて之を飲みしか 明治十年家令滋賀某の諌に従ひ断酒せり 夜中は能く安眠せり 唯夏時は炎熱と蚊の為め快寝を得さりしと

同氏は曾て外傷を受けしことなし 又時としては書翰を認め古人の詩を記する等のことあれども直に之を裂き破れり云ふ

顔貌は沈鬱して愁嘆心痛の状を呈し其言笑するや恰も羞を帯るものの如く且顔面及眼瞼圍の時々肉膕するを見る 其音聲は低調にして沈滞するか如しと雖とも能く之を聴取するを得へく答弁の如きは甚た鋭利にして且明瞭なり 唯遺忘の為めに往々老衰せるか如き状あり

右千八百八十四年(明治十七年)十一月十二日三宅原田の二氏と共に癲狂院に於て記載する所なり 然して余の親しく視問診査せる要領に據れは余は亳も判官の記録及其他の證據に係はらす単に左の如く決定するを以て至當なりと信するなり

抑々相馬誠胤氏は往時に在ては則一の諸侯たるへきの人にして當時同氏は発病の前日及ひ今日の状態と全く相異なる所の生育を享け其地位を占有せり 然るに漸次世の変遷に由り其権力を失してより身体と精神に不和を生するに至りしなり 是其病源の一なり 又同氏の配偶宜を得す且不幸にして曾て一子を擧けす 是其病原の二なり 此二事は則ち遺傳の素因之れなきも實に精神病を発する原因を作すに足るものなり况んや其状態は単に憤怒のみに止らすして数様の音聲を聞き或は異形の現象を視るか如き精神病の主徴たる視聴の錯誤あるに於てをや 故に同氏は醫學上に於て狂躁発作を有する鬱憂病と認む可き精神障碍症に罹れるものと断定す 但近来稍々快復に趣きたるか故に適應の療養を加ふれは全然治癒するの目的あるものとす

千八百八十五年一月三日

ドクトル、スクリバ

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華族相馬誠胤氏精神病の有無鑑定のため下に記名する両人は「ドクトル、スクリバ」氏と共に本郷弥生町癲狂院に行きて親く誠胤氏の状況事歴を検査し爾来同氏の滞院中に発顯する症状は同癲狂院長中井常次郎氏の報告を得彼是参互し果して「ドクトル、スクリバ」氏の断定せる狂躁発作を有する鬱憂病なりとの鑑定に同意し茲に其意見なきを證明す

明治十八年三月十二日

東京大學教授 三宅 秀

同      原田 豊

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(平成14年8月25日 記)(平成14年8月27日 記)平成30年1月14日 追記)

 

41. 日本医師会館・文京グリーンコート:旧理化学研究所跡・東京府巣鴨病院跡

場  所:文京区本駒込2丁目(旧巣鴨駕籠町)

周辺地図:

♪JR駒込駅から本郷通りを東京大学方向に進むと、上富士前交差点で不忍通りにぶつかります。この上富士前交差点を右折して不忍通りに入ると、左側に文京区立昭和高齢者在宅サービスセンター、国立国会図書館支部東洋文庫(現・東洋文庫ミュージアム)、駒込警察署、日本医師会館、文京グリーンコート、都立小石川高校と続きます。

東洋文庫ミュージアム(平成29年12月撮影)
駒込警察署(平成29年12月撮影)
日本医師会館(平成29年12月撮影)
都立小石川中学校・高校の生垣(不忍通り側)(平成29年12月撮影)

♪不忍通りを挟んで右側には、六義園(りくぎえん)(柳沢吉保築園・回遊式山水庭園)と戦前からの高級住宅地である大和郷(やまとむら)があります。政治家の若槻礼次郎や東大医学部の外科教授の佐藤三吉邸も、この大和郷(やまとむら)にありました。普通、街角にある消火器をいれるケースは赤色ですが、大和郷会が設置しているものは、青色となっています。

大和郷区域図(昭和12年)(出典:『大和郷遠近物語』)(文献1)
昭和初期の染井橋(鉄道記録写真)

♪小津安二郎監督が昭和24年に制作した映画「晩春」(笹智衆、原節子出演)には、染井能楽堂(現在、染井能楽堂の舞台は横浜能楽堂に移築)で能を親子で鑑賞したあと、六義園横の大和郷の道を歩くシーンがでてきます。

♪日本医師会館が神田駿河台2丁目(旧神田駿河台鈴木町12番地)から、この本駒込の地に新築移転してきたのは平成2年(1990)2月24日・25日のことでした。(文献2)当時、この場所は、旧理化学研究所の跡地で、科研製薬の所有となっていました。

♪「江戸東京」で、榊俶の事跡を調べていて、都立小石川高校、文京グリーンコートのある旧岩槻街道(本郷通り)と中山道(旧白山通り)に挟まれた周辺一帯が、明治から大正のはじめまで東京府癲狂院(のち東京府巣鴨病院と改称)(明治19年6月21日新築)(旧小石川区巣鴨駕籠町から旧本郷区上富士前町)の敷地であったことがわかりました。『日本精神科医療史』(文献3)に「東京府巣鴨病院全図」が載っていますが、病院の構内には、樹木が多数あったようです。

東京府巣鴨病院略図(明治20年代)(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著)
東京府巣鴨病院略図(明治30年頃(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著))
東京府巣鴨病院略図(大正期)(出典:「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」呉秀三著)(文献4)
東京府巣鴨病院門(複製絵葉書)
東京府巣鴨病院(東京帝国大学医科大学精神科教室)正門(絵葉書)(堀江幸司蔵)
東京府立巣鴨病院 左手の建物が精神科教室の臨床講堂(絵葉書)(堀江幸司蔵)
東京府立巣鴨病院のレンガ造りの病棟(絵葉書)(堀江幸司蔵)

♪自宅から、六義園の裏の道を通り、大和郷(やまとむら)を抜けて、不忍通り沿いの文京グリーンコート(高層オフィスビル・高層住宅・商業ビル)(平成9年10月竣工)前にでました。1階には、輸入雑貨の店、ブティックや書店などがあり、地下にはスーパー(大丸ピーコック)が入っています。アートグッズを扱っているお店(Za Gallery)はお気に入りです。

Peacock入口付近(平成29年12月撮影)

♪高層オフィスビルの周囲は散策できるようなっています。旧理化学研究所当時からの染井吉野桜や銀杏などの樹木の一部が残されています。ベンチの横に案内版が建てられていました。次回紹介します。

文京グリーン中庭(平成14年撮影)

文京グリーンコート

(平成14年11月20日記)

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♪文京グリーンコートのオフィスビルの不忍通りに面した部分には、銀杏などの樹木の間に小径がつくられ、旧理化学研究所の構内の面影を残しています。東京府巣鴨病院時代から、この辺りは樹木が多く、六義園とともに、本駒込の静寂な景観をつくっていました。

文京グリーン内の小径(1)(平成29年12月撮影)
文京グリーンコート内の小径(2)(平成29年12月撮影)

♪文京グリーンコートの裏手に、「理化学研究所駒込分所・理研OB会」の建物(旧43号館)があります。(現在は解体され別の建物が建っています)その隣が、広場になっていて、染井吉野桜の大木が残されています。オフィスビルとよく調和して、独特の環境をつくりだしています。

理化学研究所駒込分所跡(平成29年12月撮影) 
旧理化学研究所駒込分所跡の裏道(旧白山通りと旧岩槻街道とを繋ぐ道・相馬誠胤が逃走した道)

♪広場のベンチの横に、案内版が建てられていました。理化学研究所の歴史に触れていますので紹介しておきます。

文京グリーンコート中庭(平成14年撮影)

「~四季折々の彩り~ 理化学研究所(理研)の改組により、株式会社科学研究所(現・科研製薬)に受け継がれたこの敷地内には、さくら、いちょう、ヒマラヤ杉などが頭上高く生い茂っていた。樹々と赤煉瓦の建物が調和し、都会の中にありながら、アカデミックなたたずまいをかもしだしていた。そとの喧噪と違って閑静なところであり、春は桜花を愛で、新緑や黄葉など四季折々の彩りが楽しめ、人々の心を和ませていた。この広場のさくらやグリーンスクエアにあるいちょうなどは、理研設立当時の樹々を保存しており、時が流れた現在(いま)でも、自然に恵まれた環境をつくりだしている。」

 

参考ホームページ

日本医師会

理化学研究所の沿革

科研製薬の歴史

(平成14年11月26日記)

 

参考文献

1.『大和郷遠近物語 -大和郷会90年のあゆみー』(大和郷会 会史編纂委員会 平成27年)

2. 日本医師会雑誌 第103巻 第7号/平成2年4月1日(付録)(日本医師会新旧会館記録集)

3. 『日本精神科医療史』 岡田靖雄著、医学書院、2002.

4.『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(呉秀三著 大正)

 

40. 相馬事件:相馬誠胤の特別病室と榊俶が書いた「診断書」「退院後の取扱心得」

♪錦織剛清が、相馬誠胤(ともたね)を、東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)の特別室(相馬室)から連れ出したのは、明治20年(1887)1月30日夜のことでした。

♪相馬室は、相馬家が東京府癲狂院が明治19年(1886)6月20日に移転新築される際に東京府に出願(転院の翌日)して誠胤のために自費で建築した別棟の病室です。10畳、8畳の2室に廊下・便所・玄関などからなる離れとして設計されました。長引くであろう入院生活を配慮してのものでした。本棟とは渡り廊下で繋がっていました。8月7日に落成しています。

図面1文献1)の左手に位置する縦一列に並ぶ隔離病棟の一番上の隔離室の右手に見える、本棟から斜めに突き出した建物が、相馬室にあたります。図面2が相馬室の拡大図です。ピッタリと一致します。(文献2)2つの文献を付き合わせることによって、相馬室の構造と位置関係を特定できました。

図面1)明治20年頃の東京府癲狂院(赤く囲った建物が相馬室)
図面2)相馬室平面図(本棟から渡り廊下で繋がる)

♪相馬室の上に見える細い道を左に進むと岩槻街道(現在の本郷通り)の富士前町(富士神社))に出られます。夜の八時ごろだったといいます。裏門(非常門)から暗闇のなかを錦織ほか数名と街道筋に向かい、人力車に押し込められることになります。

富士神社(冨士神社)(平成29年1月撮影)

)「ふじ神社」の漢字表記:ふじ・神社の「ふじ」は、境内の石碑では、「士」とあり、鳥居の額には、「士」とあります。

♪この時の誠胤の心持ちを想像してみます。やっと狭い病室から抜け出せたという開放感とともに、深々とした闇夜のなかを人力車でひた走り、これからどこに向かうのかという不安が広がっていたのではないでしょうか。本当に自由になれたという気持ちは、なかったのかも知れません。

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♪『相馬実伝』(文献1)から、病室から脱出した誠胤の足取りを探ってみます。本郷富士前町から人力車(車夫・小島重蔵)で九段坂の堀留まで向かい、鈴木写真館(横浜の支店・鈴木眞一)に立ち寄ります。そこから馬車をしたてて後藤新平邸(東京府麻布)へ急行、診察を受けることになります。その後、川崎(會津屋で一泊)、小田原(幸町仲松旅亭に投宿)、熱海温泉(澤兵之助方に寓居)、沼津(元問屋方に止宿)へと逃走。そして、一週間後、2月8日、静岡(井筒屋方)で捕縛され、誠胤は、東京へ連れ戻されることになります。

♪この一週間ほどの誠胤の症状がどうであったのか気になるところではあります。平穏であったのでしょうか。連れ歩いた家臣も大変な思いをしたことは確かではないでしょうか。

♪熱海温泉行を強行したのには、誠胤の環境を変え、温泉湯治的なことも考えての錦織や家臣の行動ではなかったのか、そんな一面も感じます。向ヶ丘時代の東京府癲狂院に入院していた頃の誠胤は、家臣と連れだって、上野公園周辺を院外散歩、鶯谷伊香保温泉(伊香保楼)に行ったこともあったようです。

熱海温泉(絵葉書)

(1月30日夜)東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)→[人力車(本郷富士前町の車夫小松重蔵)]→九段下堀留→[徒歩]→鈴木写真館→[馬車]→後藤新平邸(麻布)→川崎(會津屋)→小田原(仲松旅亭)→[駕籠]→熱海温泉(2,3日逗留)→沼津(元問屋方)→静岡(井筒屋方)(2月8日朝)

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♪のち明治27年(1894)2月12日午前10時15分から開廷された相馬事件の裁判で、長森藤吉郎検事は、錦織剛清が相馬誠胤を連れ出した経緯について、以下のように申し立てています。(『相馬事件裁判明細録』[国立国会図書館デジタル])(文献3)この裁判には、後藤新平も出廷していました。

[検事の申し立て]

1) 誠胤を奪い取って拾養して見ようと考へて、明治廿年一月三十日に或る2、3の同志を語らひまして、東京府癲狂院に夜中侵入して、私に誠胤を誘出して同夜被告後藤新平方に連れて参りました。

2) 同所に於て相馬誠胤の錦織剛清に対する総代理人の委任状と云うものを署名拇印せしめる。

3) 翌日誠胤と共に熱海に参った。熱海に参りまして5,6日滞留して居ますと、丁度相馬家より誠胤が熱海に居ると云うことを嗅ぎ附けて追手を向けたと云うことが剛清の方に報知があった。そこで、剛清は誠胤を連れたまま静岡の方へ参りました。

4) 静岡に於て予て相馬家からの通知に依りて警察官の捕押へる所となって、誠胤は其儘取戻され、被告剛清は、また拘留されました。

錦織剛清.・肖像画(出典:『相馬事件裁判明細録  第1巻』)

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♪静岡から連れ戻された相馬誠胤が、医科大学第一医院に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日までの41日間でした。また、息苦しい病棟生活がはじまります。

写真出典:『青山胤通』(鵜崎熊吉著 青山内科同窓會 昭和5年)

 

『東京帝国大学一覧 明治24年―明治25年』(出典:国立国会図書館デジタル)(赤く囲った建物が第一医院)
東京帝国大学本郷構内風景(絵葉書)

♪その主任医となったのが、榊俶で、ベルツ(帝国大学医科大学教師)と佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、その「診断書」に同意しています。

♪「診断書」の全文が、「国家医学」誌に載っていました。(文献4)その時代の診断書の形式や医学用語を知る手がかりともなると思いますので、少し長くなりますが、書き写しておきます。

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診 断 書

麹町区内幸町一丁目六番地

東京府華族 従四位 相 馬 誠 胤

嘉永五年八月生

右は明治二十年三月十日帝国大学医科大学第一医院に入院し同年四月十九日に至る在院中の症状並に既往症に依り左の如く診定す

遺伝歴)遺伝歴は青田綱三より出さしめ猶ほ誠胤へも訊問して定むる所なり 即ち誠胤の血族中殊に母方には精神及脳病の系統あり 父方の祖父は弘化二年に於て中風症に罹り五十歳にして卒す 又母方にては誠胤の祖父母共に卒中症にて死し 母は二十六歳の時より発狂して治せす終に四十歳に至り卒中症にて死し 其弟(即ち誠胤の叔父)は平素狂人に齋しき所行ありて明治十七年六月より発狂し十八年九月本郷癲狂院に於て死し 其妹(叔母)は明治七年発狂し後癒へ同十一年肺炎症にて死去すと

既往症)幼児の際数回痙攣を発せしことあり 又性来癇癖の気質ありて小事に付き憤怒し易すしと云ふ 其他脚気及背癰を除くの外曾て重症に罹りしことなし 明治九年頃より些事に疑心を起して憤怒し往々乱行あり 愛憎喜怒常に定らす 侍士侍女を呵責し憤怒すること枚挙に遑あらす 若年の時頻りに飲酒せしも此時より禁酒せりと云ふ 十二年春以来病状大に増進し其四月一室に鎖錮するに到れり

檻内にては平時は沈黙して人と接するを忌避するか如しと雖も発作時に至れは器具を擲ち高声に朗吟し仏経を誦する等総て躁狂状を呈す 十七年中頻りに独語し人を殺さんとするの状ありと云ふ 明治二十年三月十日医科大学第一医院に入院す

現在症)三月十日検査する所にして只其要点を擧く 体格中等栄養佳良にして皮下脂質良く発育し顔面は稍や蒼白にして容貌少しく怒気を含むものの如し 頭蓋は稍や屋背形を為し膝蓋腱反射機全く消失す 又精神の異常を擧れは記臆力の僅に減衰すると感情の遅鈍なるとの他別に病状なし

入院中経過)自最初六日間は別に癲狂状のことなし 只夜間安眠せさると便秘あるとを訴ふるのみ 午前は主に臥床に在りて新聞等を読み 或は何事をもなさす獨り安臥し 午後は遊歩沐浴等をなす 十六日に至り擧動活発となり音声悄々高く多弁となる加之夜間往々幻聴を起す 例之天井に男女の声ありて雑話せりと云うか如きあり 身体の擧動甚た不安となり 或は廊下に走出して急に便所に至り 或は室に帰りて足踏す 若し其故を問へは今日は空気濃厚となり咽喉部に苦悶を覚ゆ故に此行をなすと云へり 顔面は紅を潮し眼光鋭くして濕潤せる如く 脈は百二十博を数ふに到れり 此症状漸々増進し廿二日の夜卒然看護人(大学の小使)の両耳を捕へ爪を以て外傷を負はしめ甚しく出血せしむ 又暫時にして再ひ顔面に負傷せしむ 其故を問へは曰彼の小使は顔貌狸の如くにして時々室内を窺ふを以て如此處置せり 別に原因あることなしと 二十五日諸症減退し彼の暴行を悔悟せり 四月二日頃再ひ幻聴を発し精神活発となる 四日夜起て暴行せんと欲す 依て投薬し種々説解を加へて漸く安静ならしむ 夫れより病勢悄々減退せりと雖も十日の夕刻に至り一の原因なくして飯杓子を以て看護人(患者方より附添へ)の頭部を打ち負傷せしめ出血甚たしく終に外科施療を行ふに到れり 其后精神常に復し大に悔悟し状を呈はし今日迄暴行なし

診断)以上掲載する者を総括するは誠胤は神経病家の血統に屬し齢二十六歳の時より発病し今猶ほ精神病に罹る者とす 之に医学上の名称を附すれは時発性躁暴狂なる者とす 而して遠因は遺伝歴に依り明瞭なれも近因は不明なり

右之通診断仕候也

明治二十年四月十九日

主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶 印

右は拙者共に於ても同意に候也

帝国大学医科大学教師 ベルツ

帝国大学医科大学教授 従六位 佐々木政吉 印

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「退院後の取扱心得」

麹町区内幸町一丁目六番地
東京府華族
従四位 相 馬 誠 胤

右者別紙診断書に掲載せる如く時発性躁暴狂に罹るを以て今后時々発作あるものとす 依で左に其取扱方法を告示す

第一 癲狂院に入るを要せす 盖し病勢亢盛するときは此の限にあらす

第二 自宅療養を可とす

第三 居室は平常の造構にして快闊なるを良しとす

第四 室内には刃物類縄類等の如き凡て人を害する懼れある器具を一切置くへ からす

第五 檻鎖するを許さす 若し暴行発作あるときは看護人静かに之を取押ゆへし 而して可成く患者に抵抗する取扱をなささる様注意すへし 但し暴行甚くして不徳巳るときは其発作間縛衣を着用せしむ可し

第六 看護人は温和懇切にして筋力あるものを撰み絶えす患者を守護せしむへし 若し暴行発作あるときは不寝番をなさしむるは勿論たるへし

第七 遊歩は患者の隋意に任すと雖も暴風大雨等の節は見合する方を良しとす

第八 在宅中読書唱歌書画等をなすは患者の随意に任す

第九 食料は滋養品を撰み適宜の量を與ふへし

第十 入浴は其度数及ひ温度等常習に従ふへし 夏季は全冷水拭法を施すを良しとす 又時々頭部を冷却すべし

第十一 夜間安眠を要す故に就寝前に茶コーヒー類を喫するを禁す 而して遊歩或は入浴を以て安眠を催進すへし然れども猶ほ安眠せさるときは薬用す可し

第十二 薬用は必す医士の命に従ふへし 売薬等を濫用す可らす 又患者は便秘の癖あるを以て宜しく此に注意し医士に乞ひ適当の療法を受く可し

第十三 頭痛あるときは氷罨法を頭部に施すへし

第十四 患者他人と面会するは随意たるへしと雖ども家事或は国政談等の如き神思を労する談話を為すを許さす

第十五 酷暑中は日光等の如き山地に於て避暑を兼ね遊歩するを良しとす

右に掲載したる條々の外猶ほ詳細の方法は口授す

明治二十年四月十八日
主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶

参考文献

1)『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(呉秀三著 創造出版 2003)

2)『相馬実伝:晴天白日』(相馬旧臣事務所編 明治26.11)

3)『相馬事件裁判明細録  第1巻』(西脇今太郎編 日本書行 明治27.3)

4)山谷徳治郎 故相馬誠胤子の病症を論す 「国家医学」1:3-30、1892.

 

(平成14年7月17日 記)(平成29年11月15日 追加)

39. 榊俶の同級生と二人の妹

 

参考文献

東都掃苔記(50)」榊保三郎博士の墓・緒方正規先生の墓:『日本醫事新報』第1632号,p.114(昭和30年8月6日)

♪榊俶(さかき・はじめ 1857-1897 東京大学医学部精神病学教室初代教授)は明治13年(1880)東京大学医学部の卒業ですが、同級生には、緒方正規(おがた・まさのり 衛生学)、小金井良精(よしきよ)(解剖学)、長尾精一(千葉医学専門学校)、濱田玄達(げんたつ)(産婦人科学)、弘田長(つかさ)(小児科学)がおり、1年上に片山國嘉(くによし)(法医学)がいて、1年下に、森林太郎(鴎外)がいました。

♪榊俶には、二人の妹がおり、妹小梅(1861-1887)は緒方正規(衛生学)に、妹徳子(1865-1955)は岡田和一郎(耳鼻咽喉科学)に嫁いでいます。緒方正規と小梅の墓は、染井霊園で榊俶の墓の隣にあります。二葉亭四迷の墓の近くです。以前、緒方家の墓所を詣でたときは、「緒方正規墓」の左隣に「榊小梅子墓」の墓石があったと思いましたが、最近、墓域が整理されたようです。榊家と緒方家の墓の近くには、桜の大木があり、桜が散る時期になると、舞い落ちる花びらが、墓域を埋めています。

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榊綽(ゆたか)(父)・幸(母)

榊綽・妻幸の墓

(子供たち)

俶(はじめ)(精神科)(沼津兵学校附属小学校卒)

順次郎(産婦人科)(沼津兵学校附属小学校卒)

保三郎(精神科)

小 梅(緒方正規妻)

徳 子(岡田和一郎妻)

 

墓道の左手が緒方家墓所、奥が榊家墓所
緒方家墓所
緒方正規の墓

 

♪妹徳子の墓も、同じく染井霊園にある岡田家の墓所にあります。高村光太郎の墓の近くです。兄妹が染井霊園の中で、それぞれ別の墓域に眠っていることになり、なにか因縁を感じます。

岡田家の墓所

注) 現在、榊家・岡田家の墓域は、改修されています。

(平成14年7月14日 記)(平成29年11月7日 追記)

 

 

 

38. 染井霊園:榊淑の墓

 

Googleマイマップ 都立染井霊園:医家墓所案内

 

参考文献

(1)染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.

(2)染井霊園:医家の名簿を探る② 榊俶・田口和美.医学図書館 1996:43(3):361-368.

♪染井霊園は、JR駒込駅かJR巣鴨駅から歩いて、15分程の距離にある都立霊園です。同じく都立霊園でも、谷中霊園、青山霊園と比べると、規模が小さく、都心とは思われぬ閑静な場所で、その周辺は、染井吉野桜の発祥地としても、知られています。

染井霊園の染井吉野桜:長池跡
雪の染井吉野桜

♪この染井霊園には、著名人のお墓も多くあり、明治期に、東京帝国大学医科大学を卒業して、各教室の初代教授となった方や、江戸時代に活躍した蘭学者なども、眠っています。

♪その方々の墓所を訪ねると、顕彰碑などが建ち、また、墓石には、墓誌が刻まれています。医史学的にも、記録しておいた方がよいようにも思われ、折を見て、お参りさせていただいています。

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♪榊淑(さかき・はじめ 1857-1897)は、東京大学医学部の精神病学講座の初代教授です。墓は、染井霊園にあります。緒方正規(おがた・まさのり 1853-1919)(東京大学医学部衛生学初代教授)の墓所の隣です。榊家と緒方家は姻戚関係にあります。

榊 俶

♪榊俶の墓所へは、染井霊園の染井通りにつながる正門から入って左手の巣鴨の中山道側へ抜ける墓道を進みます。しばらく行くと右手に二葉亭四迷のお墓の案内標注があります。この標注のある細い墓道を奥へ進むと、右手奥に、榊家の墓域があります。

榊家の墓所
榊俶の墓石

♪榊淑は、明治20年(1887)に、世上をわかせた相馬疑獄事件において、相馬誠胤(そうま・ともたね)の精神鑑定を行ない、ベルツがその鑑定に同意しています。

♪ここにも、ベルツがでてきます。その鑑定の診断書には、記憶力減退・感情遅鈍・不眠・幻聴・暴行などの症状があげられ、「時発性躁暴狂」と診断されたとあります。

 

(平成14年7月1日 記)

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♪平成25年(2013)3月30日(土)にシソーラス研究会では「医史跡散歩」を兼ねたお花見会を開催しました。JR駒込駅前の「染井吉野桜記念公園」に集合。森鴎外も歩いた「染井通り」周辺の染井吉野桜の名所を回り,染井霊園内に点在する医家のお墓を訪ねました。長池跡の染井吉野桜の古木の下で,お花見をしました。

♪三上参次先生の墓所の前の墓道を入り,二葉亭四迷のお墓をお参りしたのち,榊俶先生の墓所に向いました。緒方正規先生の墓所の隣です。榊家の墓所には,以前,三基の墓石があったのですが,墓域が整理されていました。榊綽先生と榊俶先生の墓石がなくなり,「榊家之墓」の墓石のみとなっていました。「榊家之墓」には,九州帝国大学医科大学・精神医学教授を務めた榊保三郎先生が葬られています。

♪岡田和一郎先生の墓所に向いました。墓域にあった雑木などが取り払われ,きれいに整備されていました。(注)

(平成25年4月25日 記す)

(注)岡田和一郎の墓所は現在、改葬されています。(平成29年11月6日 追記)

 

37. 京都:木屋町通界隈

周辺地図

♪京都へ行ったら「江戸東京」に関係のある大村益次郎(1824-1869)と佐久間象山(1811-1864)の史跡をみて歩きたいと思っていました。

♪7月11日(金)の午後に光悦寺にある水原秋桜子の句碑を訪ねたあと、野村謙(神歯)さんとわかれて、高瀬川沿いの木屋町通を、ひとり歩いてみました。

♪木屋町通周辺には、木戸孝允、桂小五郎、大村益次郎、佐久間象山、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など幕末に関係のある旧跡が数多くあります。

e-kyoto(まるごと京都ポータルサイト)

♪シソ研の会長である板橋瑞夫さん(昭和)が、ロイヤルホテルに到着される午後6時30分までの時間を使って、まず、「大村益次郎卿遭難之碑」と佐久間象山の記念碑を探してみることにしました。

♪地下鉄東西線の京都市役所前駅で下車し、高瀬川沿いの木屋町通を歩いてみました。高瀬川に架かる三条小橋の橋のたもとに建てられていた「大村益次郎卿遭難之碑・佐久間象山先生遭難之碑 北ヘ約壹丁」の石柱は直ぐ見つかりましたが、肝心の記念碑はなかなか見つかりません。行きつ戻りつしました。

♪結局、「大村益次郎卿遭難之碑」(碑銘:陸軍大将林銑十郎 碑文:陸軍中将古城胤秀撰)は、ロイヤルホテルのロビーでお尋ねしたところ、御池通を上がった高瀬川の西岸の石垣の上に建っていることがわかりました。御池通りと三条通りを超えた向う側にも木屋町通り続いていたのです。木屋町通りからみると、高瀬川を挟んで対岸の護岸上にあり、記念碑には近付けませんでした。

♪大村益次郎は、明治2年(1869)10月8日(太陽暦)に長州藩抱屋敷に投宿していていたとき、萩藩士らに襲われ、右大腿部に重傷を負いました。治療のため高瀬川を下って大阪へ行き、11月30日に蘭医ボードウァン(Antonius Franciscus Bauduin, 1820-1885)による右足切断手術を受けましたが、結局、12月7日に死亡しています。(参考文献1、2

♪♪♪

♪雲行きがあやしくなり、突然、夕立が降ってきました。あわてて記念碑が見える木屋町通沿いの喫茶店に飛び込みました。この喫茶店が、なかなか趣のあるお店でした。バーカウンターの横を通って奥へ進むと、テラスがあります。緑で囲まれ、天井から淡い光が漏れていました。二組のカップルが楽しそうに寄り添って、おしゃべりしていました。

♪この木屋町界隈は、現在では、若者のデートスポットのひとつとなっているようです。喫茶店、ブティックなど、おしゃれなお店が並んでいました。板橋さん、野村さんと一緒に、シソ研の暑気払いの京都番外編を行うことになっていたので、食事処を探しておくことにしました。

♪喫茶店の並びに、木戸孝允ゆかりの「幾松」(桂小五郎幾松寓居跡)がありました。また、そのすぐ側の道端には「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」の石柱があり、ブティック横のビル2階が「巴里亭」(京中華)(京やさい・生ゆば)となっていました。直感的に、暑気払いは、ここにしようと思いました。阿部さん(慈恵)は、あいにく仕事の関係で京都着が遅くなったためご一緒できませんでしたが、料理の味もよく、鴨川を眺めながらの男三人の食事会は、楽しく進みました。ただ、シソ研の女性の参加がなかったため、色気と華やかさには欠け、ちょっと寂しい感じではありました。

 

京都グルメマップ

♪それにしても、京都には、「江戸東京」に関係深い史跡が数多く残されています。京都に残る資料をいろいろ調査しながら、探訪を続けられればと思っています。(参考文献3

 

参考文献

(1)『オランダ領事の幕末維新』(A.ボードウァン著 ファス美弥子訳 新人物往来社 1987.)

(2)堀江幸司 『「相良知安先生記念碑」と「ボードワン博士像」- 東京医学校と上野恩賜公園』 医学図書館 1988:35(3):184-191.

(3)『京の医史跡探訪』(杉立義一著 思文閣出版 1984.)

 

(平成15年8月12日 記)(平成19年7月30日 訂正)(平成)29年11月3日 追記)

36. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向かう(2)

♪賀川玄悦の顕彰碑(日本近代産科学のみなもと)の碑文(宗田一撰)を記録のために写しておくことにしました。

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日本近代産科学のみなもと

ここ玉樹寺のひがし一貫町に 十八世紀の名医 賀川玄悦(字は子玄一七〇〇 - 一七七七)が住んでいた

玄悦は あらゆる権威にとらわれず 自分の目でたしかめる実証精神から それまで信じられていた母体のなかの胎児の位置が誤っていることを知り その正しい位置(上臀下首)を はじめて発見した またあふれるばかりのヒューマニティから 難産で苦しむ母体を救う方法を発明した

これらは日本の医学が世界に誇る業績の一つである

賀川一門は 各地で多くの名医を生み母子ともに安全に救う方法を完成して日本の産科学の発展に大きく貢献した

玄悦の没後二百年にあたり 墓域の修復をおこなうとともに 賀川一門の偉業をたたえるため ここに碑をたてて記念する

 

一九七七年九月十四日 賀川玄悦先生没後二百年記念顕彰会

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[裏 面]

賀川玄悦先生没後二百年記念顕彰会

 

京都産婦人科医会

近畿産科婦人科学会

日本産科婦人科学会

日本母性保護医協会

日本医師会

日本医史学会

京都府医師会

徳島県医師会

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♪玉樹寺を辞して、山門脇の潜り戸から外に出ました。山門の写真を撮らせていただいたのですが、山門の右手の塀際の角に「賀川玄悦先生之墓所」の石柱が建てられていることに気付きました。

♪幕末には、壬生寺周辺では、新撰組や浪士たちが駆け回り、西寺町界隈でも切り合いが行われていたのかもしれません。現在の木屋町通に沿った高瀬川附近で遭難したという大村益次郎や佐久間象山も、このあたりを歩いていたのだろうか。鴨川や高瀬川に映る月の光りは、どんなにか澄んで見えたことであろう。などと、幕末の光景を想像しながら、四条通の方へ向かって歩いてみることにしました。

壬生寺

木屋町通

♪四条通の四条烏丸(からすま)周辺では、ちょうど祇園祭の山鉾巡行の準備が進められているところで、随分、人や車もでていました。人出をかき分けながら「イノダコーヒー本店」(珈琲店)まで行き、休憩することにしました。外観といい内装といい、なかなか趣のある店構えで、わたしの好みにぴったりでした。「アラビアの真珠」のオリジナル・ブレンドが用意されており、美味しくいただきました。京都に詳しい関さん(昭和)からは、清水坂にある清水支店を勧められていたのですが、こちらは、次の機会にどなたかと行きたいと思っています。

祇園祭

イノダコーヒー本店:京都市中京区堺町通三条下ル道佑町(どうゆうちょう)140

電 話:075-221-0507

♪イノダコーヒーでお茶をしたあと、予約をしてあった「French o. mo. ya」で食事をすることにしました。明治末期に建てられたという京町家の母屋がレストランになっており、中庭の様子が、大阪の適塾を思い出させました。40、50代のマダムがよく利用していると観光ガイドブックには紹介されていたのですが、結構、若者も来ていました。和食器にクラシック・スタイルのフランス料理が盛り付けられており、味もよく、ウエイトレスさん達が、洗練されており、美人揃いでした。

French o. mo. ya」:京都市中京区東洞院六角(ろっかく)通下ル御射山町(みさやまちょう)283

電 話:075-241-7500

♪京都には、今回、訪ねた光悦寺と玉樹寺のほかにも、水原秋桜子の句碑はあるようです。また、山桜の季節にでも中山道経由で京都を訪れ、「江戸東京」の医史跡めぐりを続けたいと思います。

 

(平成15年8月6日 記)(平成29年11月1日 追記)

35. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向かう(1)

場 所:玉樹寺:京都市下京区中堂寺西寺町

電 話:075-801-6052

句 碑:「産諭の月光雲をはらひけり」

♪水原秋桜子の句碑(『産論』句碑)が京都の玉樹寺(ぎょくじゅじ)にあることは、『京の医史跡探訪』(参考文献1)で知りました。

♪7月12日(土)は、研究大会の初日だったのですが、午後一番の発表である山崎茂明氏の「医学情報サービス大会を振り返って」と題する第20回大会記念講演を聞かせていただいてから、玉樹寺に向かうことにしました。

♪玉樹寺は、五条通の五条壬生川交差点を北へ上がり、一筋目の路地を右折して、その左手(北側)にありました。

♪あらかじめ訪問したい旨を連絡しておいたので、インターホンで来意を告げると、すぐに潜り戸を開けてくださいました。

♪水原秋桜子の句碑は、山門を入った左手に置かれており、本堂の前庭は、手入れがよく行き届いていました。また、句碑の向かい側には、「日本近代産科学のみなもと」の石碑(賀川玄悦顕彰碑)が建てられていて、その斜め後方には、賀川子玄(玄悦)の墓を中央に、左に賀川子啓、右に賀川子全の墓がありました。

♪前庭は、そんなに広くはないのですが、賀川玄悦の墓石、「日本近代産科学のみなもと」の石碑、水原秋桜子の句碑が、バランスよく配置され、「賀川玄悦の世界」を形作っているように思えました。

 

♪水原秋桜子の句碑は、水原豊(秋桜子)と東大産婦人科医局で一緒に学んだ丸山正氏の主唱によって、昭和53年(1978)5月8日に賀川玄悦の没後200年を記念して建立されたものです。

♪丸山氏は、ベルツの生誕地に秋桜子の句碑(注記1)(参考文献2)が建てられているのをみて、産科の鼻祖である賀川玄悦(かがわ・げんえつ)(1700-1777)の墓の近くにも、秋桜子の句碑があればと願い、その建立の実行委員長を『京の医史跡探訪』の著者である杉立義一氏がつとめたのでした。

♪青石の上が三角になった自然石に句は秋桜子の自筆で刻まれていました。碑石は、杉立氏が賀川玄悦の郷里である彦根の近くを流れる愛知川の自然石を取り寄せ、山科の渡辺石材店に刻字させたものだそうです。

「産諭の月光雲をはらひけり」(裏面:玄悦先生の二百年祭に当り有志これを建つ)

♪光悦寺の秋桜子の句碑はブロンズでしたが、玉樹寺の句碑は自然石に句が刻まれています。どちらの形にも、建立した方々の思いが込めれ、風景によく調和しているように思いました。

♪本堂前の縁側に座って、お寺の方と少しお話をさせていただきました。京都でも、ビルのなかに埋まったような近代的なお寺がでてきたそうで、玉樹寺のあたりもビルが立ち並び、寺町の趣が薄れつつあるとのことでした。

 

(参考文献1)

『京の医史跡探訪』(杉立義一著 京都 思文閣出版 1984)

(注記1)ベルツ生誕地の秋桜子句碑:「君によりて日本医学の花ひらく 秋桜子」

(昭和43年<1968>8月31日 石橋長英建立)(ビーティッヒハイム・メッター公園句碑)(南ドイツ、シュワーベン地方ビーティッヒハイム市立メッター公園内)

 

(平成15年8月4日 記)(平成29年10月31日 追記)

34. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(3)

♪光悦寺は、北大路バスターミナルの「Eのりば」(光悦寺・玄琢・西賀茂方面)の北1号系統(佛教大学・玄琢[げんたく])に乗って、鷹峯源光庵前(たかがみね・げんこうあんまえ)で下車。鷹峯小学校の前にありました。

京都市交通局

♪光悦寺の車道に面した入口から山門へと続く石畳の参道の両側には、楓の並木がトンネル道となるように植えられ、初夏の若葉とともに、秋の紅葉の時期にはさぞかし綺麗だろうと思いました。お寺に行って感動するというのもおかしな話しですが、光悦寺には、一般の伽藍が点在するお寺とは違い、庭園や鐘楼を持つ山寺という風情を感じました。

♪入口には、京都市によって高札風の説明板が立てられていました。


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光悦寺

大虚山(だいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。当地は、元和元年(1615)徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)が一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。
当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。

京都市
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♪境内に入って、まず、眼についたのが鐘楼でした。屋根は茅葺きで、このような鐘楼は、いままで、見たことがありませんでした。茅葺きの頂上には、瓦屋根も合わせた形となっていました。いまでは、大変に珍しい形の鐘楼と思われ、手入れの行き届いた庭園とよく調和していました。

♪すこし境内を進むと、大虚庵の茶席があります。日本を代表する光悦垣(こうえつがき)で囲まれていました。割竹を菱形に組んであり、茶席からも透かして向こうの様子が見られるようになっています。光悦垣の渋い竹の色と紅葉の彩りを想像して、なんと色彩と造形美に溢れたお寺なのだと思いました。

♪水原秋桜子の句碑は、大虚庵の茶席の前の露地を抜けた先の、交差点の樹木の下に置かれていました。句碑の横には、「チャアレス エル 布利耶 碑 MONUMENT OF MR.CHARLES L.FREER」と刻まれた大きな石碑がありました。

♪水原秋桜子の句碑のまわりは、葉で覆われ、注意して見ないと見過ごしてしまうほど小さな石に句が刻まれていました。

「紅葉せりつらぬき立てる松の幹 秋桜子」(裏面:「昭和四十年秋向日葵建立」)

碑 石:高さ68cm、巾70cm・67cm、厚さ25cm(鞍馬の真真石)
ブロンズ:縦29cm、横30cm(東京芸大・高原四郎氏製作)

♪境内には、観光客の姿は、ほとんど見当たりませんでした。ゆっくりした気分で、光悦翁墓所をお参りさせていただいたあと、庭園のはずれの茶席の縁側から、野村さんと、鷹峰三山(北山の山並み)を望んでいると、川のせせらぎが聞こえてきました。あいにく、川の方への道は、閉鎖されていて下りていくことはできませんでした。

♪幕末の京都で聞く山寺の鐘楼や川のせせらぎの音は、どんなものであったのでしょうか。争乱のなかにも、いまよりは、もっと澄んだ空気のなかで、人それぞれの思いのなかに、沁み入るような音であったように思いました。

♪水原秋桜子の句碑が、このような静かな趣のある光悦寺の庭園の一角に置かれている幸せを感じました。

(平成15年7月31日 記)(平成29年10月25日 追記)