40. 相馬事件:相馬誠胤の特別病室と榊俶が書いた「診断書」と「退院後の取扱心得」

♪錦織剛清が、相馬誠胤(ともたね)を、東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)の特別室(相馬室)から連れ出したのは、明治20年(1887)1月30日夜のことでした。

♪相馬室は、相馬家が東京府癲狂院が明治19年(1886)6月20日に移転新築される際に東京府に出願(転院の翌日)して誠胤のために自費で建築した別棟の病室です。10畳、8畳の2室に廊下・便所・玄関などからなる離れとして設計されました。長引くであろう入院生活を配慮してのものでした。本棟とは渡り廊下で繋がっていました。8月7日に落成しています。

図面1文献1)の左手に位置する縦一列に並ぶ隔離病棟の一番上の隔離室の右手に見える、本棟から斜めに突き出した建物が、相馬室にあたります。図面2が相馬室の拡大図です。ピッタリと一致します。(文献2)2つの文献を付き合わせることによって、相馬室の構造と位置関係を特定できました。

図面1)明治20年頃の東京府癲狂院(赤く囲った建物が相馬室)
図面2)相馬室平面図(本棟から渡り廊下で繋がる)

♪相馬室の上に見える細い道を左に進むと岩槻街道(現在の本郷通り)の富士前町(富士神社)に出られます。夜の八時ごろだったといいます。裏門(非常門)から暗闇のなかを錦織ほか数名と街道筋に向かい、人力車に押し込められることになります。

♪この時の誠胤の心持ちを想像してみます。やっと狭い病室から抜け出せたという開放感とともに、深々とした闇夜のなかを人力車でひた走り、これからどこに向かうのかという不安が広がっていたのではないでしょうか。本当に自由になれたという気持ちは、なかったのかも知れません。

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♪『相馬実伝』(文献1)から、病室から脱出した誠胤の足取りを探ってみます。本郷富士前町から人力車(車夫・小島重蔵)で九段坂の堀留まで向かい、鈴木写真館(横浜の支店・鈴木眞一)に立ち寄ります。そこから馬車をしたてて後藤新平邸(東京府麻布)へ急行、診察を受けることになります。その後、川崎(會津屋で一泊)、小田原(幸町仲松旅亭に投宿)、熱海温泉(澤兵之助方に寓居)、沼津(元問屋方に止宿)へと逃走。そして、一週間後、2月8日、静岡(井筒屋方)で捕縛され、誠胤は、東京へ連れ戻されることになります。

♪この一週間ほどの誠胤の症状がどうであったのか気になるところではあります。平穏であったのでしょうか。連れ歩いた家臣も大変な思いをしたことは確かではないでしょうか。

♪熱海温泉行を強行したのには、誠胤の環境を変え、温泉湯治的なことも考えての錦織や家臣の行動ではなかったのか、そんな一面も感じます。向ヶ丘時代の東京府癲狂院に入院していた頃の誠胤は、家臣と連れだって、上野公園周辺を院外散歩、鶯谷伊香保温泉(伊香保楼)に行ったこともあったようです。

熱海温泉(絵葉書)

(1月30日夜)東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)→[人力車(本郷富士前町の車夫小松重蔵)]→九段下堀留→[徒歩]→鈴木写真館→[馬車]→後藤新平邸(麻布)→川崎(會津屋)→小田原(仲松旅亭)→[駕籠]→熱海温泉(2,3日逗留)→沼津(元問屋方)→静岡(井筒屋方)(2月8日朝)

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♪のち明治27年(1894)2月12日午前10時15分から開廷された相馬事件の裁判で、長森藤吉郎検事は、錦織剛清が相馬誠胤を連れ出した経緯について、以下のように申し立てています。(『相馬事件裁判明細録』[国立国会図書館デジタル])(文献3)この裁判には、後藤新平も出廷していました。

[検事の申し立て]

1) 誠胤を奪い取って拾養して見ようと考へて、明治廿年一月三十日に或る2、3の同志を語らひまして、東京府癲狂院に夜中侵入して、私に誠胤を誘出して同夜被告後藤新平方に連れて参りました。

2) 同所に於て相馬誠胤の錦織剛清に対する総代理人の委任状と云うものを署名拇印せしめる。

3) 翌日誠胤と共に熱海に参った。熱海に参りまして5,6日滞留して居ますと、丁度相馬家より誠胤が熱海に居ると云うことを嗅ぎ附けて追手を向けたと云うことが剛清の方に報知があった。そこで、剛清は誠胤を連れたまま静岡の方へ参りました。

4) 静岡に於て予て相馬家からの通知に依りて警察官の捕押へる所となって、誠胤は其儘取戻され、被告剛清は、また拘留されました。

錦織剛清.・肖像画(出典:『相馬事件裁判明細録  第1巻』)

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♪静岡から連れ戻された相馬誠胤が、医科大学第一医院に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日までの41日間でした。また、息苦しい病棟生活がはじまります。

写真出典:『青山胤通』(鵜崎熊吉著 青山内科同窓會 昭和5年)

 

『東京帝国大学一覧 明治24年―明治25年』(出典:国立国会図書館デジタル)(赤く囲った建物が第一医院)
東京帝国大学本郷構内風景(絵葉書)

♪その主任医となったのが、榊俶で、ベルツ(帝国大学医科大学教師)と佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、その「診断書」に同意しています。

♪「診断書」の全文が、「国家医学」誌に載っていました。(文献4)その時代の診断書の形式や医学用語を知る手がかりともなると思いますので、少し長くなりますが、書き写しておきます。

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診 断 書

麹町区内幸町一丁目六番地

東京府華族 従四位 相 馬 誠 胤

嘉永五年八月生

右は明治二十年三月十日帝国大学医科大学第一医院に入院し同年四月十九日に至る在院中の症状並に既往症に依り左の如く診定す

遺伝歴)遺伝歴は青田綱三より出さしめ猶ほ誠胤へも訊問して定むる所なり 即ち誠胤の血族中殊に母方には精神及脳病の系統あり 父方の祖父は弘化二年に於て中風症に罹り五十歳にして卒す 又母方にては誠胤の祖父母共に卒中症にて死し 母は二十六歳の時より発狂して治せす終に四十歳に至り卒中症にて死し 其弟(即ち誠胤の叔父)は平素狂人に齋しき所行ありて明治十七年六月より発狂し十八年九月本郷癲狂院に於て死し 其妹(叔母)は明治七年発狂し後癒へ同十一年肺炎症にて死去すと

既往症)幼児の際数回痙攣を発せしことあり 又性来癇癖の気質ありて小事に付き憤怒し易すしと云ふ 其他脚気及背癰を除くの外曾て重症に罹りしことなし 明治九年頃より些事に疑心を起して憤怒し往々乱行あり 愛憎喜怒常に定らす 侍士侍女を呵責し憤怒すること枚挙に遑あらす 若年の時頻りに飲酒せしも此時より禁酒せりと云ふ 十二年春以来病状大に増進し其四月一室に鎖錮するに到れり

檻内にては平時は沈黙して人と接するを忌避するか如しと雖も発作時に至れは器具を擲ち高声に朗吟し仏経を誦する等総て躁狂状を呈す 十七年中頻りに独語し人を殺さんとするの状ありと云ふ 明治二十年三月十日医科大学第一医院に入院す

現在症)三月十日検査する所にして只其要点を擧く 体格中等栄養佳良にして皮下脂質良く発育し顔面は稍や蒼白にして容貌少しく怒気を含むものの如し 頭蓋は稍や屋背形を為し膝蓋腱反射機全く消失す 又精神の異常を擧れは記臆力の僅に減衰すると感情の遅鈍なるとの他別に病状なし

入院中経過)自最初六日間は別に癲狂状のことなし 只夜間安眠せさると便秘あるとを訴ふるのみ 午前は主に臥床に在りて新聞等を読み 或は何事をもなさす獨り安臥し 午後は遊歩沐浴等をなす 十六日に至り擧動活発となり音声悄々高く多弁となる加之夜間往々幻聴を起す 例之天井に男女の声ありて雑話せりと云うか如きあり 身体の擧動甚た不安となり 或は廊下に走出して急に便所に至り 或は室に帰りて足踏す 若し其故を問へは今日は空気濃厚となり咽喉部に苦悶を覚ゆ故に此行をなすと云へり 顔面は紅を潮し眼光鋭くして濕潤せる如く 脈は百二十博を数ふに到れり 此症状漸々増進し廿二日の夜卒然看護人(大学の小使)の両耳を捕へ爪を以て外傷を負はしめ甚しく出血せしむ 又暫時にして再ひ顔面に負傷せしむ 其故を問へは曰彼の小使は顔貌狸の如くにして時々室内を窺ふを以て如此處置せり 別に原因あることなしと 二十五日諸症減退し彼の暴行を悔悟せり 四月二日頃再ひ幻聴を発し精神活発となる 四日夜起て暴行せんと欲す 依て投薬し種々説解を加へて漸く安静ならしむ 夫れより病勢悄々減退せりと雖も十日の夕刻に至り一の原因なくして飯杓子を以て看護人(患者方より附添へ)の頭部を打ち負傷せしめ出血甚たしく終に外科施療を行ふに到れり 其后精神常に復し大に悔悟し状を呈はし今日迄暴行なし

診断)以上掲載する者を総括するは誠胤は神経病家の血統に屬し齢二十六歳の時より発病し今猶ほ精神病に罹る者とす 之に医学上の名称を附すれは時発性躁暴狂なる者とす 而して遠因は遺伝歴に依り明瞭なれも近因は不明なり

右之通診断仕候也

明治二十年四月十九日

主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶 印

右は拙者共に於ても同意に候也

帝国大学医科大学教師 ベルツ

帝国大学医科大学教授 従六位 佐々木政吉 印

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「退院後の取扱心得」

麹町区内幸町一丁目六番地
東京府華族
従四位 相 馬 誠 胤

右者別紙診断書に掲載せる如く時発性躁暴狂に罹るを以て今后時々発作あるものとす 依で左に其取扱方法を告示す

第一 癲狂院に入るを要せす 盖し病勢亢盛するときは此の限にあらす

第二 自宅療養を可とす

第三 居室は平常の造構にして快闊なるを良しとす

第四 室内には刃物類縄類等の如き凡て人を害する懼れある器具を一切置くへ からす

第五 檻鎖するを許さす 若し暴行発作あるときは看護人静かに之を取押ゆへし 而して可成く患者に抵抗する取扱をなささる様注意すへし 但し暴行甚くして不徳巳るときは其発作間縛衣を着用せしむ可し

第六 看護人は温和懇切にして筋力あるものを撰み絶えす患者を守護せしむへし 若し暴行発作あるときは不寝番をなさしむるは勿論たるへし

第七 遊歩は患者の隋意に任すと雖も暴風大雨等の節は見合する方を良しとす

第八 在宅中読書唱歌書画等をなすは患者の随意に任す

第九 食料は滋養品を撰み適宜の量を與ふへし

第十 入浴は其度数及ひ温度等常習に従ふへし 夏季は全冷水拭法を施すを良しとす 又時々頭部を冷却すべし

第十一 夜間安眠を要す故に就寝前に茶コーヒー類を喫するを禁す 而して遊歩或は入浴を以て安眠を催進すへし然れども猶ほ安眠せさるときは薬用す可し

第十二 薬用は必す医士の命に従ふへし 売薬等を濫用す可らす 又患者は便秘の癖あるを以て宜しく此に注意し医士に乞ひ適当の療法を受く可し

第十三 頭痛あるときは氷罨法を頭部に施すへし

第十四 患者他人と面会するは随意たるへしと雖ども家事或は国政談等の如き神思を労する談話を為すを許さす

第十五 酷暑中は日光等の如き山地に於て避暑を兼ね遊歩するを良しとす

右に掲載したる條々の外猶ほ詳細の方法は口授す

明治二十年四月十八日
主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶

参考文献

1)『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(呉秀三著 創造出版 2003)

2)『相馬実伝:晴天白日』(相馬旧臣事務所編 明治26.11)

3)『相馬事件裁判明細録  第1巻』(西脇今太郎編 日本書行 明治27.3)

4)山谷徳治郎 故相馬誠胤子の病症を論す 「国家医学」1:3-30、1892.

 

(平成14年7月17日 記)(平成29年11月15日 追加)

39. 榊俶の同級生と二人の妹

 

参考文献

東都掃苔記(50)」榊保三郎博士の墓・緒方正規先生の墓:『日本醫事新報』第1632号,p.114(昭和30年8月6日)

♪榊俶(さかき・はじめ 1857-1897 東京大学医学部精神病学教室初代教授)は明治13年(1880)東京大学医学部の卒業ですが、同級生には、緒方正規(おがた・まさのり 衛生学)、小金井良精(よしきよ)(解剖学)、長尾精一(千葉医学専門学校)、濱田玄達(げんたつ)(産婦人科学)、弘田長(つかさ)(小児科学)がおり、1年上に片山國嘉(くによし)(法医学)がいて、1年下に、森林太郎(鴎外)がいました。

♪榊俶には、二人の妹がおり、妹小梅(1861-1887)は緒方正規(衛生学)に、妹徳子(1865-1955)は岡田和一郎(耳鼻咽喉科学)に嫁いでいます。緒方正規と小梅の墓は、染井霊園で榊俶の墓の隣にあります。二葉亭四迷の墓の近くです。以前、緒方家の墓所を詣でたときは、「緒方正規墓」の左隣に「榊小梅子墓」の墓石があったと思いましたが、最近、墓域が整理されたようです。榊家と緒方家の墓の近くには、桜の大木があり、桜が散る時期になると、舞い落ちる花びらが、墓域を埋めています。

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榊綽(ゆたか)(父)・幸(母)

榊綽・妻幸の墓

(子供たち)

俶(はじめ)(精神科)(沼津兵学校附属小学校卒)

順次郎(産婦人科)(沼津兵学校附属小学校卒)

保三郎(精神科)

小 梅(緒方正規妻)

徳 子(岡田和一郎妻)

 

墓道の左手が緒方家墓所、奥が榊家墓所
緒方家墓所
緒方正規の墓

 

♪妹徳子の墓も、同じく染井霊園にある岡田家の墓所にあります。高村光太郎の墓の近くです。兄妹が染井霊園の中で、それぞれ別の墓域に眠っていることになり、なにか因縁を感じます。

岡田家の墓所

注) 現在、榊家・岡田家の墓域は、改修されています。

(平成14年7月14日 記)(平成29年11月7日 追記)

 

 

 

38. 染井霊園:榊淑の墓

 

Googleマイマップ 都立染井霊園:医家墓所案内

 

参考文献

(1)染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.

(2)染井霊園:医家の名簿を探る② 榊俶・田口和美.医学図書館 1996:43(3):361-368.

♪染井霊園は、JR駒込駅かJR巣鴨駅から歩いて、15分程の距離にある都立霊園です。同じく都立霊園でも、谷中霊園、青山霊園と比べると、規模が小さく、都心とは思われぬ閑静な場所で、その周辺は、染井吉野桜の発祥地としても、知られています。

染井霊園の染井吉野桜:長池跡
雪の染井吉野桜

♪この染井霊園には、著名人のお墓も多くあり、明治期に、東京帝国大学医科大学を卒業して、各教室の初代教授となった方や、江戸時代に活躍した蘭学者なども、眠っています。

♪その方々の墓所を訪ねると、顕彰碑などが建ち、また、墓石には、墓誌が刻まれています。医史学的にも、記録しておいた方がよいようにも思われ、折を見て、お参りさせていただいています。

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♪榊淑(さかき・はじめ 1857-1897)は、東京大学医学部の精神病学講座の初代教授です。墓は、染井霊園にあります。緒方正規(おがた・まさのり 1853-1919)(東京大学医学部衛生学初代教授)の墓所の隣です。榊家と緒方家は姻戚関係にあります。

榊 俶

♪榊俶の墓所へは、染井霊園の染井通りにつながる正門から入って左手の巣鴨の中山道側へ抜ける墓道を進みます。しばらく行くと右手に二葉亭四迷のお墓の案内標注があります。この標注のある細い墓道を奥へ進むと、右手奥に、榊家の墓域があります。

榊家の墓所
榊俶の墓石

♪榊淑は、明治20年(1887)に、世上をわかせた相馬疑獄事件において、相馬誠胤(そうま・ともたね)の精神鑑定を行ない、ベルツがその鑑定に同意しています。

♪ここにも、ベルツがでてきます。その鑑定の診断書には、記憶力減退・感情遅鈍・不眠・幻聴・暴行などの症状があげられ、「時発性躁暴狂」と診断されたとあります。

 

(平成14年7月1日 記)

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♪平成25年(2013)3月30日(土)にシソーラス研究会では「医史跡散歩」を兼ねたお花見会を開催しました。JR駒込駅前の「染井吉野桜記念公園」に集合。森鴎外も歩いた「染井通り」周辺の染井吉野桜の名所を回り,染井霊園内に点在する医家のお墓を訪ねました。長池跡の染井吉野桜の古木の下で,お花見をしました。

♪三上参次先生の墓所の前の墓道を入り,二葉亭四迷のお墓をお参りしたのち,榊俶先生の墓所に向いました。緒方正規先生の墓所の隣です。榊家の墓所には,以前,三基の墓石があったのですが,墓域が整理されていました。榊綽先生と榊俶先生の墓石がなくなり,「榊家之墓」の墓石のみとなっていました。「榊家之墓」には,九州帝国大学医科大学・精神医学教授を務めた榊保三郎先生が葬られています。

♪岡田和一郎先生の墓所に向いました。墓域にあった雑木などが取り払われ,きれいに整備されていました。(注)

(平成25年4月25日 記す)

(注)岡田和一郎の墓所は現在、改葬されています。(平成29年11月6日 追記)

 

37. 京都:木屋町通界隈

周辺地図

♪京都へ行ったら「江戸東京」に関係のある大村益次郎(1824-1869)と佐久間象山(1811-1864)の史跡をみて歩きたいと思っていました。

♪7月11日(金)の午後に光悦寺にある水原秋桜子の句碑を訪ねたあと、野村謙(神歯)さんとわかれて、高瀬川沿いの木屋町通を、ひとり歩いてみました。

♪木屋町通周辺には、木戸孝允、桂小五郎、大村益次郎、佐久間象山、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など幕末に関係のある旧跡が数多くあります。

e-kyoto(まるごと京都ポータルサイト)

♪シソ研の会長である板橋瑞夫さん(昭和)が、ロイヤルホテルに到着される午後6時30分までの時間を使って、まず、「大村益次郎卿遭難之碑」と佐久間象山の記念碑を探してみることにしました。

♪地下鉄東西線の京都市役所前駅で下車し、高瀬川沿いの木屋町通を歩いてみました。高瀬川に架かる三条小橋の橋のたもとに建てられていた「大村益次郎卿遭難之碑・佐久間象山先生遭難之碑 北ヘ約壹丁」の石柱は直ぐ見つかりましたが、肝心の記念碑はなかなか見つかりません。行きつ戻りつしました。

♪結局、「大村益次郎卿遭難之碑」(碑銘:陸軍大将林銑十郎 碑文:陸軍中将古城胤秀撰)は、ロイヤルホテルのロビーでお尋ねしたところ、御池通を上がった高瀬川の西岸の石垣の上に建っていることがわかりました。御池通りと三条通りを超えた向う側にも木屋町通り続いていたのです。木屋町通りからみると、高瀬川を挟んで対岸の護岸上にあり、記念碑には近付けませんでした。

♪大村益次郎は、明治2年(1869)10月8日(太陽暦)に長州藩抱屋敷に投宿していていたとき、萩藩士らに襲われ、右大腿部に重傷を負いました。治療のため高瀬川を下って大阪へ行き、11月30日に蘭医ボードウァン(Antonius Franciscus Bauduin, 1820-1885)による右足切断手術を受けましたが、結局、12月7日に死亡しています。(参考文献1、2

♪♪♪

♪雲行きがあやしくなり、突然、夕立が降ってきました。あわてて記念碑が見える木屋町通沿いの喫茶店に飛び込みました。この喫茶店が、なかなか趣のあるお店でした。バーカウンターの横を通って奥へ進むと、テラスがあります。緑で囲まれ、天井から淡い光が漏れていました。二組のカップルが楽しそうに寄り添って、おしゃべりしていました。

♪この木屋町界隈は、現在では、若者のデートスポットのひとつとなっているようです。喫茶店、ブティックなど、おしゃれなお店が並んでいました。板橋さん、野村さんと一緒に、シソ研の暑気払いの京都番外編を行うことになっていたので、食事処を探しておくことにしました。

♪喫茶店の並びに、木戸孝允ゆかりの「幾松」(桂小五郎幾松寓居跡)がありました。また、そのすぐ側の道端には「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」の石柱があり、ブティック横のビル2階が「巴里亭」(京中華)(京やさい・生ゆば)となっていました。直感的に、暑気払いは、ここにしようと思いました。阿部さん(慈恵)は、あいにく仕事の関係で京都着が遅くなったためご一緒できませんでしたが、料理の味もよく、鴨川を眺めながらの男三人の食事会は、楽しく進みました。ただ、シソ研の女性の参加がなかったため、色気と華やかさには欠け、ちょっと寂しい感じではありました。

 

京都グルメマップ

♪それにしても、京都には、「江戸東京」に関係深い史跡が数多く残されています。京都に残る資料をいろいろ調査しながら、探訪を続けられればと思っています。(参考文献3

 

参考文献

(1)『オランダ領事の幕末維新』(A.ボードウァン著 ファス美弥子訳 新人物往来社 1987.)

(2)堀江幸司 『「相良知安先生記念碑」と「ボードワン博士像」- 東京医学校と上野恩賜公園』 医学図書館 1988:35(3):184-191.

(3)『京の医史跡探訪』(杉立義一著 思文閣出版 1984.)

 

(平成15年8月12日 記)(平成19年7月30日 訂正)(平成)29年11月3日 追記)

36. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向かう(2)

♪賀川玄悦の顕彰碑(日本近代産科学のみなもと)の碑文(宗田一撰)を記録のために写しておくことにしました。

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日本近代産科学のみなもと

ここ玉樹寺のひがし一貫町に 十八世紀の名医 賀川玄悦(字は子玄一七〇〇 - 一七七七)が住んでいた

玄悦は あらゆる権威にとらわれず 自分の目でたしかめる実証精神から それまで信じられていた母体のなかの胎児の位置が誤っていることを知り その正しい位置(上臀下首)を はじめて発見した またあふれるばかりのヒューマニティから 難産で苦しむ母体を救う方法を発明した

これらは日本の医学が世界に誇る業績の一つである

賀川一門は 各地で多くの名医を生み母子ともに安全に救う方法を完成して日本の産科学の発展に大きく貢献した

玄悦の没後二百年にあたり 墓域の修復をおこなうとともに 賀川一門の偉業をたたえるため ここに碑をたてて記念する

 

一九七七年九月十四日 賀川玄悦先生没後二百年記念顕彰会

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[裏 面]

賀川玄悦先生没後二百年記念顕彰会

 

京都産婦人科医会

近畿産科婦人科学会

日本産科婦人科学会

日本母性保護医協会

日本医師会

日本医史学会

京都府医師会

徳島県医師会

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♪玉樹寺を辞して、山門脇の潜り戸から外に出ました。山門の写真を撮らせていただいたのですが、山門の右手の塀際の角に「賀川玄悦先生之墓所」の石柱が建てられていることに気付きました。

♪幕末には、壬生寺周辺では、新撰組や浪士たちが駆け回り、西寺町界隈でも切り合いが行われていたのかもしれません。現在の木屋町通に沿った高瀬川附近で遭難したという大村益次郎や佐久間象山も、このあたりを歩いていたのだろうか。鴨川や高瀬川に映る月の光りは、どんなにか澄んで見えたことであろう。などと、幕末の光景を想像しながら、四条通の方へ向かって歩いてみることにしました。

壬生寺

木屋町通

♪四条通の四条烏丸(からすま)周辺では、ちょうど祇園祭の山鉾巡行の準備が進められているところで、随分、人や車もでていました。人出をかき分けながら「イノダコーヒー本店」(珈琲店)まで行き、休憩することにしました。外観といい内装といい、なかなか趣のある店構えで、わたしの好みにぴったりでした。「アラビアの真珠」のオリジナル・ブレンドが用意されており、美味しくいただきました。京都に詳しい関さん(昭和)からは、清水坂にある清水支店を勧められていたのですが、こちらは、次の機会にどなたかと行きたいと思っています。

祇園祭

イノダコーヒー本店:京都市中京区堺町通三条下ル道佑町(どうゆうちょう)140

電 話:075-221-0507

♪イノダコーヒーでお茶をしたあと、予約をしてあった「French o. mo. ya」で食事をすることにしました。明治末期に建てられたという京町家の母屋がレストランになっており、中庭の様子が、大阪の適塾を思い出させました。40、50代のマダムがよく利用していると観光ガイドブックには紹介されていたのですが、結構、若者も来ていました。和食器にクラシック・スタイルのフランス料理が盛り付けられており、味もよく、ウエイトレスさん達が、洗練されており、美人揃いでした。

French o. mo. ya」:京都市中京区東洞院六角(ろっかく)通下ル御射山町(みさやまちょう)283

電 話:075-241-7500

♪京都には、今回、訪ねた光悦寺と玉樹寺のほかにも、水原秋桜子の句碑はあるようです。また、山桜の季節にでも中山道経由で京都を訪れ、「江戸東京」の医史跡めぐりを続けたいと思います。

 

(平成15年8月6日 記)(平成29年11月1日 追記)

35. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向かう(1)

場 所:玉樹寺:京都市下京区中堂寺西寺町

電 話:075-801-6052

句 碑:「産諭の月光雲をはらひけり」

♪水原秋桜子の句碑(『産論』句碑)が京都の玉樹寺(ぎょくじゅじ)にあることは、『京の医史跡探訪』(参考文献1)で知りました。

♪7月12日(土)は、研究大会の初日だったのですが、午後一番の発表である山崎茂明氏の「医学情報サービス大会を振り返って」と題する第20回大会記念講演を聞かせていただいてから、玉樹寺に向かうことにしました。

♪玉樹寺は、五条通の五条壬生川交差点を北へ上がり、一筋目の路地を右折して、その左手(北側)にありました。

♪あらかじめ訪問したい旨を連絡しておいたので、インターホンで来意を告げると、すぐに潜り戸を開けてくださいました。

♪水原秋桜子の句碑は、山門を入った左手に置かれており、本堂の前庭は、手入れがよく行き届いていました。また、句碑の向かい側には、「日本近代産科学のみなもと」の石碑(賀川玄悦顕彰碑)が建てられていて、その斜め後方には、賀川子玄(玄悦)の墓を中央に、左に賀川子啓、右に賀川子全の墓がありました。

♪前庭は、そんなに広くはないのですが、賀川玄悦の墓石、「日本近代産科学のみなもと」の石碑、水原秋桜子の句碑が、バランスよく配置され、「賀川玄悦の世界」を形作っているように思えました。

 

♪水原秋桜子の句碑は、水原豊(秋桜子)と東大産婦人科医局で一緒に学んだ丸山正氏の主唱によって、昭和53年(1978)5月8日に賀川玄悦の没後200年を記念して建立されたものです。

♪丸山氏は、ベルツの生誕地に秋桜子の句碑(注記1)(参考文献2)が建てられているのをみて、産科の鼻祖である賀川玄悦(かがわ・げんえつ)(1700-1777)の墓の近くにも、秋桜子の句碑があればと願い、その建立の実行委員長を『京の医史跡探訪』の著者である杉立義一氏がつとめたのでした。

♪青石の上が三角になった自然石に句は秋桜子の自筆で刻まれていました。碑石は、杉立氏が賀川玄悦の郷里である彦根の近くを流れる愛知川の自然石を取り寄せ、山科の渡辺石材店に刻字させたものだそうです。

「産諭の月光雲をはらひけり」(裏面:玄悦先生の二百年祭に当り有志これを建つ)

♪光悦寺の秋桜子の句碑はブロンズでしたが、玉樹寺の句碑は自然石に句が刻まれています。どちらの形にも、建立した方々の思いが込めれ、風景によく調和しているように思いました。

♪本堂前の縁側に座って、お寺の方と少しお話をさせていただきました。京都でも、ビルのなかに埋まったような近代的なお寺がでてきたそうで、玉樹寺のあたりもビルが立ち並び、寺町の趣が薄れつつあるとのことでした。

 

(参考文献1)

『京の医史跡探訪』(杉立義一著 京都 思文閣出版 1984)

(注記1)ベルツ生誕地の秋桜子句碑:「君によりて日本医学の花ひらく 秋桜子」

(昭和43年<1968>8月31日 石橋長英建立)(ビーティッヒハイム・メッター公園句碑)(南ドイツ、シュワーベン地方ビーティッヒハイム市立メッター公園内)

 

(平成15年8月4日 記)(平成29年10月31日 追記)

34. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(3)

♪光悦寺は、北大路バスターミナルの「Eのりば」(光悦寺・玄琢・西賀茂方面)の北1号系統(佛教大学・玄琢[げんたく])に乗って、鷹峯源光庵前(たかがみね・げんこうあんまえ)で下車。鷹峯小学校の前にありました。

京都市交通局

♪光悦寺の車道に面した入口から山門へと続く石畳の参道の両側には、楓の並木がトンネル道となるように植えられ、初夏の若葉とともに、秋の紅葉の時期にはさぞかし綺麗だろうと思いました。お寺に行って感動するというのもおかしな話しですが、光悦寺には、一般の伽藍が点在するお寺とは違い、庭園や鐘楼を持つ山寺という風情を感じました。

♪入口には、京都市によって高札風の説明板が立てられていました。


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光悦寺

大虚山(だいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。当地は、元和元年(1615)徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)が一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。
当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。

京都市
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♪境内に入って、まず、眼についたのが鐘楼でした。屋根は茅葺きで、このような鐘楼は、いままで、見たことがありませんでした。茅葺きの頂上には、瓦屋根も合わせた形となっていました。いまでは、大変に珍しい形の鐘楼と思われ、手入れの行き届いた庭園とよく調和していました。

♪すこし境内を進むと、大虚庵の茶席があります。日本を代表する光悦垣(こうえつがき)で囲まれていました。割竹を菱形に組んであり、茶席からも透かして向こうの様子が見られるようになっています。光悦垣の渋い竹の色と紅葉の彩りを想像して、なんと色彩と造形美に溢れたお寺なのだと思いました。

♪水原秋桜子の句碑は、大虚庵の茶席の前の露地を抜けた先の、交差点の樹木の下に置かれていました。句碑の横には、「チャアレス エル 布利耶 碑 MONUMENT OF MR.CHARLES L.FREER」と刻まれた大きな石碑がありました。

♪水原秋桜子の句碑のまわりは、葉で覆われ、注意して見ないと見過ごしてしまうほど小さな石に句が刻まれていました。

「紅葉せりつらぬき立てる松の幹 秋桜子」(裏面:「昭和四十年秋向日葵建立」)

碑 石:高さ68cm、巾70cm・67cm、厚さ25cm(鞍馬の真真石)
ブロンズ:縦29cm、横30cm(東京芸大・高原四郎氏製作)

♪境内には、観光客の姿は、ほとんど見当たりませんでした。ゆっくりした気分で、光悦翁墓所をお参りさせていただいたあと、庭園のはずれの茶席の縁側から、野村さんと、鷹峰三山(北山の山並み)を望んでいると、川のせせらぎが聞こえてきました。あいにく、川の方への道は、閉鎖されていて下りていくことはできませんでした。

♪幕末の京都で聞く山寺の鐘楼や川のせせらぎの音は、どんなものであったのでしょうか。争乱のなかにも、いまよりは、もっと澄んだ空気のなかで、人それぞれの思いのなかに、沁み入るような音であったように思いました。

♪水原秋桜子の句碑が、このような静かな趣のある光悦寺の庭園の一角に置かれている幸せを感じました。

(平成15年7月31日 記)(平成29年10月25日 追記)

33. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(2)

♪蛤御門から京都御苑に入ると、まず、その広さに驚かされました。観光客の姿は、ほとんど見当たらず、京都御所のまわりに敷かれた白砂利の上を歩いていると、まるで、誰もいない砂浜の上を歩いているような錯覚にさえ捕われました。

♪蛤御門から建礼門までの途中に、環境省京都御苑管理事務所が建てた「京都御苑のあらまし」の説明板がありました。

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京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700m、南北約1、300mのほぼ長方形をしており、このうち御所などを除いた約65haが「国民公園」として終日開放されています。苑内には約5万本の樹木が生育し、外周九門や、かつての公家屋敷の遺構も多く残っています。豊かな自然と歴史に恵まれた京都御苑は、御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史とのふれあいの場として多くの人々に親しまれています。
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♪江戸から明治に移る幕末に、和宮が、江戸に向かい、京の都のなかを浪士が走り回る。野村さんと、現在の「日本医学図書館協会」のはじまりとなった「官立医科大学附属図書館協議会」を昭和2年(1927)に提唱した新潟医科大学の清川陸男(むつお)は、清河八郎(幕末期の志士)(1830-1863)の流れを汲むようだと、新撰組の話などをしながら御苑内を歩き、京都迎賓館(仮称)建設地横を抜けて、寺町通・広小路通にでました。

♪京都府立医科大学附属図書館には、『日本医学図書館協会六十年略史』(日本医学図書館協会、1989)を執筆していたときに、一度お訪ねしたことがありました。歴史のある図書館で、そのときはまだ現在の新館が建設される前で、梯子のような階段を下りて書庫まで入り、古い資料などをみせていただいた記憶が甦ってきました。

♪今回の「第20回医学情報サービス研究大会」の実行委員長をつとめられる宮本小夜子さんと、実行委員のひとりである山下ユミさんにご挨拶を済ませたあと、一度、京都ガーデンパレスにもどって、近くの「九里九馬」で昼食をとることにしました。

♪「九里九馬」(くりくま)は、シソ研の京都通の方から教えていただいたお店で、護王神社前の下長者町通に面してありました。大正初期の商家を喫茶店としており、おばんざい定食が食べられました。[「九里九馬」(上京区室町通下長者町通西入ル近衛町25)2011.12.31閉店)
 

♪「九里九馬」で昼食を終え、烏丸通に平行して走る裏道を烏丸今出川まで歩き、地下鉄烏丸線で北大路駅まで行って、バス(北一系統)に乗り換えることにしました。いよいよ、目的地の水原秋桜子の句碑のある光悦寺に向かうことになります。

(平成15年7月27日 記)(平成29年10月22日 追記)

32. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(1)

光悦寺
場 所:京都市北区鷹峯光悦町29(鷹峯源光庵前下車)
電 話:075-491-1305
開園時間:午前8時から午後5時まで
閉園日:毎年11月10日より13日までの4日間

光悦寺にある水原秋桜子の句

「紅葉せりつらぬき立てる松の幹  秋桜子」

建立年月日:昭和40年(1965)10月24日
建立者:那須乙郎および向日葵同人及び会員同士

♪京都で開催された「第20回医学情報サービス研究大会」に参加・発表する機会をとらえて、水原秋桜子の句碑がある光悦寺(こうえつじ)と玉樹寺(ぎょくじゅじ)を訪ねてみることにしました。

♪光悦寺は、元和元年(1615)、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)(1558~1637)が徳川家康から拝領した土地に、芸術郷を築いたのがはじまりといわれています。鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)をみわたす景勝地にあり、「光悦垣」の竹垣で知られ、境内に散在する茶席を取り囲む紅葉がみごとで、京都でも知る人ぞ知るお寺のひとつとなっています。

♪この光悦寺の水原秋桜子の句碑は、『馬酔木』の500号を記念して、那須乙郎氏を中心とした向日葵の同人の方々の主唱で、昭和40年(1965)10月24日に建立されたものです。

♪光悦寺に、お訪ねしたい旨、確認したところ、水原秋桜子の句碑は、茶室大虚庵(たいきょあん)の前を抜けた庭園の一角に、昔のまま置かれているとのお話でした。

♪京都へは、研究大会の前日:7月11日(金)午前8時:東京発:新幹線(のぞみ45号)で、シソ研のメンバーのひとりである野村謙さん(湘南短期大学)とともに向かうことにしました。久し振りに東京駅から新幹線に乗ることになりましたが、駅構内も整備されて、JR山手線から新幹線への乗り換えは、上野駅よりも便利に感じました。

♪京都:午前10時15分着:地下鉄烏丸線(からすません)で丸太町駅まで行き、宿舎の京都ガーデンパレスに荷物を置いたあと、蛤御門(はまぐりごもん)から京都御苑へ入って、研究大会の会場となっている京都府立医科大学附属図書館に向かうことにしました。

♪蛤御門は、烏丸通りをはさんで、京都ガーデンパレスと向き合っています。蛤御門の門前に、高札風の説明板が建てられていました。

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蛤御門(はまぐりごもん)

・江戸時代末期の元治元年(1864年)(注)この門の周辺で、長州藩と、御所の護衛に当っていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました。
 この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っています。

・この門は新在家門といわれていましたが、宝永の大火(1708年)のさい、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。

(注)元治元年(1864年)は、佐久間象山が暗殺された年でもあります。

参考文献

1.『定本 秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる著 東京美術 1981)

(平成15年7月16日 記)(平成29年10月22日 追記)

31.ベルツを詠んだ水原秋櫻子句碑:豊川西明寺境内・草津温泉西の河原

♪水原秋櫻子がベルツを詠んだ句碑は、東京大学医学部構内にある「胸像をぬらす日本の花の雨」(東京大学医学部句碑)(改定版・第29回)のほかにも、各地にあることがわかりました。愛知県豊川市の西明寺境内と群馬県草津温泉西の河原の2か所です。(参考文献1,2,3


 

① 豊川市西明寺境内句碑 

菊にほふ國に大醫の名をとどむ

  場 所愛知県豊川市八幡町寺町7 西明寺境内のベルツ供養塔の傍

  建立年月:昭和44年(1969)11月14日除幕式

  主唱者:松井将(昭和大学医学部脳外科教授)・平松一郎

  建立者:豊川市(山本市長)七夕会(代表松井将)

♪昭和5年(1930)、三浦謹之助、入澤達吉らがベルツ供養塔をベルツの妻・花に所縁の豊川市の西明寺境内に建てています。その39年後の昭和44年(1969)11月14日には、ベルツを顕彰する水原秋櫻子の句碑が建てられました。除幕式には、ドイツからベルツの令孫トーマ(長男徳之助の子)(1923-1990)(注1)も出席されたそうです。さらに昭和46年(1971)12月20日には、ハット(長男徳之助の子)(1916-1972)が来日してベルツ家墓碑(徳之助家族)除幕式が挙行されています。(参考文献4 巻頭口絵

注1

ベルツ(1849-1913)ーーー荒井はつ(花)(1864-1937)

子供

ウタ(歌)(1893-1896)ーーートク(徳之助)(1889-1945)ー↓ー【妻ヘレーネ・ツエーマン】【妻マルタ・マウラー】

ハットは、トク(徳之助)とヘレーネ・ツエーマン(1888-1933)の子

トーマは、トク(徳之助)とマルタ・マウラー(1890-1973)の子

 

♪なお、豊川の御油(ごゆ)(旧東海道35番目の宿場)には、花の父・荒井熊吉の生家が営んでいた旅籠(戸田屋)の跡に「ベルツ花子実家跡」の案内板があるようです。

 

【参考】ベルツと花のドイツと日本の墓の場所(参考文献5)

日本の墓東京都台東区下谷法清寺

♪ベルツ花(本名・荒井はつ 改め花)は、昭和12年(1937)2月7日没後、荒井家の菩提樹の下谷法清寺(東京都台東区下谷1-8-22)葬られます。花自身が自らの戒名を決めて作っておいたお墓です。ベルツ(大正2年[1913]8月31日没)も分骨されて戒名がつけられています。(参考文献5 「下谷法清寺ーー花ベルツの菩提寺」pp.80-87)

済生院仁海慈航居士 大正二年八月三十一日 ハツ改花子夫(ベルツの分骨?)

紹徳院花心貞淑大姉 昭和十二年二月七日没 花・ベルツ(本人)

 

ドイツの墓(シュトットガルトのヴァルトフリードホーフ

♪ベルツがドイツで亡くなったのは、大正2年(1913)8月31日のことで、シュトットガルト(Stuttgart)のヴァルトフリードホーフ(Waldfriedfof)に葬られました。墓石には、花の名前(HANA BAELZ)も刻まれています。

Dr.EDWIN BAELZ

★13. JAN.1849 +31.AUG. 1913

HANA BAELZ

★20. FEBR. 1864 +7. FEBR. 1937

 

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② 草津温泉西の河原公園内)句碑

胸像はとわに日本の秋日和

場 所群馬県吾妻郡草津町西の河原公園

建立年月:昭和57年(1982)10月1日

主唱者:草津町・草津ベルツ協会注2

注2)草津ベルツ協会:「昭和三十六年に、草津とベルツ先生の出生地西独ビューティヒハイム市の間に、両者が協力してベルツ先生の遺徳を顕彰することを目処として発足、会長は市川善三郎」(参考文献4 「草津ベルツ協会」pp.215-218.)

草津温泉・西の河原(戦前絵葉書)

 

ベルツ記念館

♪草津温泉の西の河原には、ベルツ先生記念碑(注3)(昭和10年[1935]8月4日除幕式)、ベルツ・スクリバの胸像(昭和45年[1970]9月建立)が建っており、その傍に、水野秋櫻子の句碑(昭和57年(1982)10月1日建立)があります。

♪両博士の胸像は、東大構内にある胸像と同型のもので、戦時中に供出されることになったときに作られたコンクリート製の模型を複製したものだそうです。昭和35年(1960)、草津町の町長であった市川善三郎が東大から寄贈を受けて西常雄(武蔵野美術大学教授)によって昭和45年(1970)9月に制作されました。注4

注3) 「ベルツ先生記念碑」(石黒 忠悳題額 入澤達吉撰文 明治九年二月) 世話役:入澤達吉、藤浪剛一、高野六郎の三氏。

注4)東大のベルツ・スクリバの胸像は供出を免れ、胸像は、明治40年(1907)4月4日の創立当時のものです。(参考文献4 「ベルツ先生と、スクリバ先生の胸像建立」pp.219-220.)

♪ベルツは、明治9年(1876)6月の来日以来、温泉治療に興味を持って、伊香保、熱海、箱根などの温泉を調査して『日本鑛泉論』(東京大学医学部教授独逸醫學士別爾都氏著 明治13年[1880]7月)を著しています。

♪ベルツの草津温泉での宿は、「一井旅館」(現在のホテル一井)でした。「草津風土記」(一井旅館編)に収載されている「ベルツ博士と草津」(市川為雄著)によると、ベルツ(内科)と同僚のスクリバ(外科)が明治24年(1891)7月17日から8月15日まで「一井旅館」泉水にあった別荘(あずまや風の山荘)に泊まった記録が「明治廿四年第一月 宿泊人名簿 旅人宿 一井善三郎」に残っているようです。(参考文献6

上州草津温泉 旅館一井(絵葉書)

♪草津温泉とベルツとの関係は、鑛泉(温泉)研究と通じて深いものがあったようです。明治33年には草津に日本国籍を持つ長男徳之助の名義(「土地購入委任状」)(荒井ハツ後見人)(参考文献5 p.80)で土地を購入してサナトリウム(温泉研究所・療養所)を建設する計画もあったようです。

♪明治23年10月14日、15日の『ベルツの日記』(初版・濱邊正彦譯)(参考文献7)(文庫版・菅沼竜太郎訳)(参考文献8)には、次のような記載があります。

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明治二十三年

十月十四日(東京)

余に依り、草津近傍の白根山火口において発見せられた鹽酸(鐵、明礬)(注5)泉は卓越せる醫治効能を發揮する見込みである。余等は目下、該鑛泉を病院において試験して居るが、その結果は甚だ満足す可きものがある。

十月十五日(東京)

十三日、近藤[榮一]氏の世話で草津に五千七百坪の土地と鑛泉を購つた。

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注5)文庫本の『ベルツの日記』(上巻)p.153では、「酸性泉(鉄、みょうばん)」となっています。

♪さらに、晩年に、ベルツは東大に草津温泉の学術研究のための奨学金を寄附しています。草津町では、明治45年(1912)6月19日に内務大臣原敬 文部大臣長谷場純孝宛てに「草津温泉調査請願ノ件」を出しています。昭和10年(1935)ごろから、東大での温泉研究は、三沢敬善(物療内科教授)に引き継がれることになります。

♪三沢敬善は、ベルツの高温温泉法を「摂氏45-47度の熱い温泉に3分間づつ1日3-4回入浴する方法を【時間湯】」として紹介しています。その時間湯を行ったと思われる建物の外観を写した絵葉書がありました。

草津温泉(時間湯)熱の湯外部(絵葉書)

♪今回の改訂版の執筆でベルツと妻・花の菩提寺が台東区下谷の法清寺であることがわかったのですが、この法清寺は、趣味の合唱の練習場の近くにあり、いつもお寺前の路地を通っていたのです。なにか不思議な感じがしました。

♪また、各地に水原秋櫻子の句碑を建立した石橋長英(日本国際医学協会理事長・日独交流協会会長・獨協医科大学初代学長)と水原豊(秋櫻子)とは、一高、東京帝国大学医学部の同期(大正7年卒)であることもわかりました。同期生には、高野与己(素十)もいて、3人が三田定則教授が法医学教室に設けた血清化学講座に入っています。(参考文献9

 

参考文献

1)『秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる 竹頭社 1969)

2)『定本秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる 東京美術 1981)

3)『秋桜子句碑巡礼 ガイドブック』(久野 治著 鳥影社 1991)

4)『ベルツと草津温泉』(市川善三郎著 あさを社 1981)

5)『[花・ベルツ]への旅』(講談社 眞寿美・シュミット=村木著 1993)「下谷法清寺ーー花・ベルツの菩提寺」pp.80-87.

6)「ベルツ博士と草津」(市川為雄著):『ベルツと草津温泉』(市川善三郎著 あさを社 1981. pp.111-124.の「ベルツ先生と『草津風土記』」に収録)

7)『ベルツの「日記」』(濱邊正彦譯 岩波書店 1939)

8)『ベルツの日記』(上)(下)【文庫版】(トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳 岩波文庫 青426-1 青426-2 岩波書店 1979.)

9)『水原秋桜子と私』(石橋長英著 制作:デー・エム・ベー・ジャパン 1972.)

 

 

(平成14年6月25日 記す)(平成29年9月3日 追記)