38. 染井霊園:榊淑の墓

 

注)現在、榊家、岡田家の墓域は改修され、榊俶、および岡田和一郎の顕彰碑はありません。

Googleマイマップ 都立染井霊園:医家墓所案内

参考文献

(1)染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.

(2)染井霊園:医家の名簿を探る② 榊俶・田口和美.医学図書館 1996:43(3):361-368.

 

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♪染井霊園は、JR駒込駅かJR巣鴨駅から歩いて、15分程の距離にある都立霊園です。同じく都立霊園でも、谷中霊園、青山霊園と比べると、規模が小さく、都心とは思われぬ閑静な場所で、その周辺は、染井吉野桜の発祥地としても、知られています。

染井霊園の染井吉野桜:長池跡
雪の染井吉野桜

♪この染井霊園には、著名人のお墓も多くあり、明治期に、東京帝国大学医科大学を卒業して、各教室の初代教授となった方や、江戸時代に活躍した蘭学者なども、眠っています。

♪その方々の墓所を訪ねると、顕彰碑などが建ち、また、墓石には、墓誌が刻まれています。医史学的にも、記録しておいた方がよいようにも思われ、折を見て、お参りさせていただいています。

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♪榊淑(さかき・はじめ 1857-1897)は、東京大学医学部の精神病学講座の初代教授です。墓は、染井霊園にあります。緒方正規(おがた・まさのり 1853-1919)(東京大学医学部衛生学初代教授)の墓所の隣です。榊家と緒方家は姻戚関係にあります。

榊 俶

♪榊俶の墓所へは、染井霊園の染井通りにつながる正門から入って左手の巣鴨の中山道側へ抜ける墓道を進みます。しばらく行くと右手に二葉亭四迷のお墓の案内標注があります。この標注のある細い墓道を奥へ進むと、右手奥に、榊家の墓域があります。

榊家の墓所
榊俶の墓石

 

没年月日:明治30年(1897)2月6日(41歳)
墓石の位置:1種イ5号8側
正面:東京帝國医科大學教従五位医學博士榊俶墓
側面:(右側面)高樹院顕光徳俶睿居士
:(左側面)明治三十年二月六日没
享年四十一

 

♪榊淑は、明治20年(1887)に、世上をわかせた相馬疑獄事件において、相馬誠胤(そうま・ともたね)の精神鑑定を行ない、ベルツがその鑑定に同意しています。

♪ここにも、ベルツがでてきます。その鑑定の診断書には、記憶力減退・感情遅鈍・不眠・幻聴・暴行などの症状があげられ、「時発性躁暴狂」と診断されたとあります。

 

(平成14年7月1日 記)(令和4年10月2日 図を追加)

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♪平成25年(2013)3月30日(土)にシソーラス研究会では「医史跡散歩」を兼ねたお花見会を開催しました。JR駒込駅前の「染井吉野桜記念公園」に集合。森鴎外も歩いた「染井通り」周辺の染井吉野桜の名所を回り,染井霊園内に点在する医家のお墓を訪ねました。長池跡の染井吉野桜の古木の下で,お花見をしました。

♪三上参次先生の墓所の前の墓道を入り,二葉亭四迷のお墓をお参りしたのち,榊俶先生の墓所に向いました。緒方正規先生の墓所の隣です。榊家の墓所には,以前,三基の墓石があったのですが,墓域が整理されていました。榊綽先生と榊俶先生の墓石がなくなり,「榊家之墓」の墓石のみとなっていました。「榊家之墓」には,九州帝国大学医科大学・精神医学教授を務めた榊保三郎先生が葬られています。

♪岡田和一郎先生の墓所に向いました。墓域にあった雑木などが取り払われ,きれいに整備されていました。(注)

(平成25年4月25日 記す)

(注)岡田和一郎の墓所は現在、改葬されています。(平成29年11月6日 追記)

 

(令和4年10月2日 追記)

 

37. 京都:木屋町通界隈

周辺地図

木屋町通周辺地図(2023年現在)

♪京都へ行ったら「江戸東京」に関係のある大村益次郎(1824-1869)と佐久間象山(1811-1864)の史跡をみて歩きたいと思っていました。

♪7月11日(金)の午後に光悦寺にある水原秋桜子の句碑を訪ねたあと、野村謙(神歯)さんとわかれて、高瀬川沿いの木屋町通を、ひとり歩いてみました。

♪木屋町通周辺には、木戸孝允、桂小五郎、大村益次郎、佐久間象山、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など幕末に関係のある旧跡が数多くあります。

e-kyoto(まるごと京都ポータルサイト)

♪シソ研の会長である板橋瑞夫さん(昭和)が、ロイヤルホテルに到着される午後6時30分までの時間を使って、まず、「大村益次郎卿遭難之碑」と佐久間象山の記念碑を探してみることにしました。

♪地下鉄東西線の京都市役所前駅で下車し、高瀬川沿いの木屋町通を歩いてみました。高瀬川に架かる三条小橋の橋のたもとに建てられていた「大村益次郎卿遭難之碑・佐久間象山先生遭難之碑 北ヘ約壹丁」の石柱は直ぐ見つかりましたが、肝心の記念碑はなかなか見つかりません。行きつ戻りつしました。

♪結局、「大村益次郎卿遭難之碑」(碑銘:陸軍大将林銑十郎 碑文:陸軍中将古城胤秀撰)は、ロイヤルホテルのロビーでお尋ねしたところ、御池通を上がった高瀬川の西岸の石垣の上に建っていることがわかりました。御池通りと三条通りを超えた向う側にも木屋町通り続いていたのです。木屋町通りからみると、高瀬川を挟んで対岸の護岸上にあり、記念碑には近付けませんでした。

♪大村益次郎は、明治2年(1869)10月8日(太陽暦)に長州藩抱屋敷に投宿していていたとき、萩藩士らに襲われ、右大腿部に重傷を負いました。治療のため高瀬川を下って大阪へ行き、11月30日に蘭医ボードウァン(Antonius Franciscus Bauduin, 1820-1885)による右足切断手術を受けましたが、結局、12月7日に死亡しています。(参考文献1、2

♪♪♪

♪雲行きがあやしくなり、突然、夕立が降ってきました。あわてて記念碑が見える木屋町通沿いの喫茶店に飛び込みました。この喫茶店が、なかなか趣のあるお店でした。バーカウンターの横を通って奥へ進むと、テラスがあります。緑で囲まれ、天井から淡い光が漏れていました。二組のカップルが楽しそうに寄り添って、おしゃべりしていました。

♪この木屋町界隈は、現在では、若者のデートスポットのひとつとなっているようです。喫茶店、ブティックなど、おしゃれなお店が並んでいました。板橋さん、野村さんと一緒に、シソ研の暑気払いの京都番外編を行うことになっていたので、食事処を探しておくことにしました。

♪喫茶店の並びに、木戸孝允ゆかりの「幾松」(桂小五郎幾松寓居跡)注)がありました。また、そのすぐ側の道端には「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」の石柱があり、ブティック横のビル2階が「巴里亭」(京中華)(京やさい・生ゆば)となっていました。直感的に、暑気払いは、ここにしようと思いました。阿部さん(慈恵)は、あいにく仕事の関係で京都着が遅くなったためご一緒できませんでしたが、料理の味もよく、鴨川を眺めながらの男三人の食事会は、楽しく進みました。ただ、シソ研の女性の参加がなかったため、色気と華やかさには欠け、ちょっと寂しい感じではありました。

注)幾松は、2020年10月20日の営業をもって閉店されました。コロナ禍の影響ということです。

 

京都グルメマップ

♪それにしても、京都には、「江戸東京」に関係深い史跡が数多く残されています。京都に残る資料をいろいろ調査しながら、探訪を続けられればと思っています。(参考文献3

 

参考文献

(1)『オランダ領事の幕末維新』(A.ボードウァン著 ファス美弥子訳 新人物往来社 1987.)

(2)堀江幸司 『「相良知安先生記念碑」と「ボードワン博士像」- 東京医学校と上野恩賜公園』 医学図書館 1988:35(3):184-191.

(3)『京の医史跡探訪』(杉立義一著 思文閣出版 1984.)

 

(平成15年8月12日 記)(平成19年7月30日 訂正)(平成)29年11月3日 追記)

36. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向かう(2)

♪賀川玄悦の顕彰碑(日本近代産科学のみなもと)の碑文(宗田一撰)を記録のために写しておくことにしました。

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日本近代産科学のみなもと

ここ玉樹寺のひがし一貫町に 十八世紀の名医 賀川玄悦(字は子玄一七〇〇 - 一七七七)が住んでいた

玄悦は あらゆる権威にとらわれず 自分の目でたしかめる実証精神から それまで信じられていた母体のなかの胎児の位置が誤っていることを知り その正しい位置(上臀下首)を はじめて発見した またあふれるばかりのヒューマニティから 難産で苦しむ母体を救う方法を発明した

これらは日本の医学が世界に誇る業績の一つである

賀川一門は 各地で多くの名医を生み母子ともに安全に救う方法を完成して日本の産科学の発展に大きく貢献した

玄悦の没後二百年にあたり 墓域の修復をおこなうとともに 賀川一門の偉業をたたえるため ここに碑をたてて記念する

一九七七年九月十四日 賀川玄悦先生没後二百年記念顕彰会

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[裏 面]

賀川玄悦先生没後二百年記念顕彰会

京都産婦人科医会

近畿産科婦人科学会

日本産科婦人科学会

日本母性保護医協会

日本医師会

日本医史学会

京都府医師会

徳島県医師会

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♪玉樹寺を辞して、山門脇の潜り戸から外に出ました。山門の写真を撮らせていただいたのですが、山門の右手の塀際の角に「賀川玄悦先生之墓所」の石柱が建てられていることに気付きました。

♪幕末には、壬生寺周辺では、新撰組や浪士たちが駆け回り、西寺町界隈でも切り合いが行われていたのかもしれません。現在の木屋町通に沿った高瀬川附近で遭難したという大村益次郎や佐久間象山も、このあたりを歩いていたのだろうか。鴨川や高瀬川に映る月の光りは、どんなにか澄んで見えたことであろう。などと、幕末の光景を想像しながら、四条通の方へ向かって歩いてみることにしました。

壬生寺

木屋町通

♪四条通の四条烏丸(からすま)周辺では、ちょうど祇園祭の山鉾巡行の準備が進められているところで、随分、人や車もでていました。人出をかき分けながら「イノダコーヒー本店」(珈琲店)まで行き、休憩することにしました。外観といい内装といい、なかなか趣のある店構えで、わたしの好みにぴったりでした。「アラビアの真珠」のオリジナル・ブレンドが用意されており、美味しくいただきました。京都に詳しい関さん(昭和)からは、清水坂にある清水支店を勧められていたのですが、こちらは、次の機会にどなたかと行きたいと思っています。

祇園祭

イノダコーヒー本店:京都市中京区堺町通三条下ル道佑町(どうゆうちょう)140

電 話:075-221-0507

♪イノダコーヒーでお茶をしたあと、予約をしてあった「French o. mo. ya」で食事をすることにしました。明治末期に建てられたという京町家の母屋がレストランになっており、中庭の様子が、大阪の適塾を思い出させました。40、50代のマダムがよく利用していると観光ガイドブックには紹介されていたのですが、結構、若者も来ていました。和食器にクラシック・スタイルのフランス料理が盛り付けられており、味もよく、ウエイトレスさん達が、洗練されており、美人揃いでした。

French o. mo. ya」:京都市中京区東洞院六角(ろっかく)通下ル御射山町(みさやまちょう)283

電 話:075-241-7500

♪京都には、今回、訪ねた光悦寺と玉樹寺のほかにも、水原秋桜子の句碑はあるようです。また、山桜の季節にでも中山道経由で京都を訪れ、「江戸東京」の医史跡めぐりを続けたいと思います。

(平成15年8月6日 記)(平成29年11月1日 追記)

35. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向かう(1)

場 所:玉樹寺:京都市下京区中堂寺西寺町

電 話:075-801-6052

句 碑:「産諭の月光雲をはらひけり」

♪水原秋桜子の句碑(『産論』句碑)が京都の玉樹寺(ぎょくじゅじ)にあることは、『京の医史跡探訪』(参考文献1)で知りました。

♪7月12日(土)は、研究大会の初日だったのですが、午後一番の発表である山崎茂明氏の「医学情報サービス大会を振り返って」と題する第20回大会記念講演を聞かせていただいてから、玉樹寺に向かうことにしました。

♪玉樹寺は、五条通の五条壬生川交差点を北へ上がり、一筋目の路地を右折して、その左手(北側)にありました。

♪あらかじめ訪問したい旨を連絡しておいたので、インターホンで来意を告げると、すぐに潜り戸を開けてくださいました。

♪水原秋桜子の句碑は、山門を入った左手に置かれており、本堂の前庭は、手入れがよく行き届いていました。また、句碑の向かい側には、「日本近代産科学のみなもと」の石碑(賀川玄悦顕彰碑)が建てられていて、その斜め後方には、賀川子玄(玄悦)の墓を中央に、左に賀川子啓、右に賀川子全の墓がありました。

♪前庭は、そんなに広くはないのですが、賀川玄悦の墓石、「日本近代産科学のみなもと」の石碑、水原秋桜子の句碑が、バランスよく配置され、「賀川玄悦の世界」を形作っているように思えました。

♪水原秋桜子の句碑は、水原豊(秋桜子)と東大産婦人科医局で一緒に学んだ丸山正氏の主唱によって、昭和53年(1978)5月8日に賀川玄悦の没後200年を記念して建立されたものです。

♪丸山氏は、ベルツの生誕地に秋桜子の句碑(注記1)(参考文献2)が建てられているのをみて、産科の鼻祖である賀川玄悦(かがわ・げんえつ)(1700-1777)の墓の近くにも、秋桜子の句碑があればと願い、その建立の実行委員長を『京の医史跡探訪』の著者である杉立義一氏がつとめたのでした。

♪青石の上が三角になった自然石に句は秋桜子の自筆で刻まれていました。碑石は、杉立氏が賀川玄悦の郷里である彦根の近くを流れる愛知川の自然石を取り寄せ、山科の渡辺石材店に刻字させたものだそうです。

「産諭の月光雲をはらひけり」(裏面:玄悦先生の二百年祭に当り有志これを建つ)

♪光悦寺の秋桜子の句碑はブロンズでしたが、玉樹寺の句碑は自然石に句が刻まれています。どちらの形にも、建立した方々の思いが込めれ、風景によく調和しているように思いました。

♪本堂前の縁側に座って、お寺の方と少しお話をさせていただきました。京都でも、ビルのなかに埋まったような近代的なお寺がでてきたそうで、玉樹寺のあたりもビルが立ち並び、寺町の趣が薄れつつあるとのことでした。

(参考文献1)

『京の医史跡探訪』(杉立義一著 京都 思文閣出版 1984)

(注記1)ベルツ生誕地の秋桜子句碑:「君によりて日本医学の花ひらく 秋桜子」

(昭和43年<1968>8月31日 石橋長英建立)(ビーティッヒハイム・メッター公園句碑)(南ドイツ、シュワーベン地方ビーティッヒハイム市立メッター公園内)

(平成15年8月4日 記)(平成29年10月31日 追記)

34. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(3)

♪光悦寺は、北大路バスターミナルの「Eのりば」(光悦寺・玄琢・西賀茂方面)の北1号系統(佛教大学・玄琢[げんたく])に乗って、鷹峯源光庵前(たかがみね・げんこうあんまえ)で下車。鷹峯小学校の前にありました。

京都市交通局

♪光悦寺の車道に面した入口から山門へと続く石畳の参道の両側には、楓の並木がトンネル道となるように植えられ、初夏の若葉とともに、秋の紅葉の時期にはさぞかし綺麗だろうと思いました。お寺に行って感動するというのもおかしな話しですが、光悦寺には、一般の伽藍が点在するお寺とは違い、庭園や鐘楼を持つ山寺という風情を感じました。

♪入口には、京都市によって高札風の説明板が立てられていました。

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光悦寺

大虚山(だいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。当地は、元和元年(1615)徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)が一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。
当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。

京都市
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♪境内に入って、まず、眼についたのが鐘楼でした。屋根は茅葺きで、このような鐘楼は、いままで、見たことがありませんでした。茅葺きの頂上には、瓦屋根も合わせた形となっていました。いまでは、大変に珍しい形の鐘楼と思われ、手入れの行き届いた庭園とよく調和していました。

♪すこし境内を進むと、大虚庵の茶席があります。日本を代表する光悦垣(こうえつがき)で囲まれていました。割竹を菱形に組んであり、茶席からも透かして向こうの様子が見られるようになっています。光悦垣の渋い竹の色と紅葉の彩りを想像して、なんと色彩と造形美に溢れたお寺なのだと思いました。

♪水原秋桜子の句碑は、大虚庵の茶席の前の露地を抜けた先の、交差点の樹木の下に置かれていました。句碑の横には、「チャアレス エル 布利耶 碑 MONUMENT OF MR.CHARLES L.FREER」と刻まれた大きな石碑がありました。

♪水原秋桜子の句碑のまわりは、葉で覆われ、注意して見ないと見過ごしてしまうほど小さな石に句が刻まれていました。

紅葉せりつらぬき立てる松の幹 秋桜子」(裏面:「昭和四十年秋向日葵建立」)

碑 石:高さ68cm、巾70cm・67cm、厚さ25cm(鞍馬の真真石)
ブロンズ:縦29cm、横30cm(東京芸大・高原四郎氏製作)

♪境内には、観光客の姿は、ほとんど見当たりませんでした。ゆっくりした気分で、光悦翁墓所をお参りさせていただいたあと、庭園のはずれの茶席の縁側から、野村さんと、鷹峰三山(北山の山並み)を望んでいると、川のせせらぎが聞こえてきました。あいにく、川の方への道は、閉鎖されていて下りていくことはできませんでした。

♪幕末の京都で聞く山寺の鐘楼や川のせせらぎの音は、どんなものであったのでしょうか。争乱のなかにも、いまよりは、もっと澄んだ空気のなかで、人それぞれの思いのなかに、沁み入るような音であったように思いました。

♪水原秋桜子の句碑が、このような静かな趣のある光悦寺の庭園の一角に置かれている幸せを感じました。

(平成15年7月31日 記)(平成29年10月25日 追記)

33. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(2)

♪蛤御門から京都御苑に入ると、まず、その広さに驚かされました。観光客の姿は、ほとんど見当たらず、京都御所のまわりに敷かれた白砂利の上を歩いていると、まるで、誰もいない砂浜の上を歩いているような錯覚にさえ捕われました。

♪蛤御門から建礼門までの途中に、環境省京都御苑管理事務所が建てた「京都御苑のあらまし」の説明板がありました。



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京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700m、南北約1、300mのほぼ長方形をしており、このうち御所などを除いた約65haが「国民公園」として終日開放されています。苑内には約5万本の樹木が生育し、外周九門や、かつての公家屋敷の遺構も多く残っています。豊かな自然と歴史に恵まれた京都御苑は、御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史とのふれあいの場として多くの人々に親しまれています。
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♪江戸から明治に移る幕末に、和宮が、江戸に向かい、京の都のなかを浪士が走り回る。野村さんと、現在の「日本医学図書館協会」のはじまりとなった「官立医科大学附属図書館協議会」を昭和2年(1927)に提唱した新潟医科大学の清川陸男(むつお)は、清河八郎(幕末期の志士)(1830-1863)の流れを汲むようだと、新撰組の話などをしながら御苑内を歩き、京都迎賓館(仮称)建設地横を抜けて、寺町通・広小路通にでました。

清川陸男(きよかわ・むつお)(新潟医科大学附属図書館書記)

♪京都府立医科大学附属図書館には、『日本医学図書館協会六十年略史』(日本医学図書館協会、1989)を執筆していたときに、一度お訪ねしたことがありました。歴史のある図書館で、そのときはまだ現在の新館が建設される前で、梯子のような階段を下りて書庫まで入り、古い資料などをみせていただいた記憶が甦ってきました。

♪今回の「第20回医学情報サービス研究大会」の実行委員長をつとめられる宮本小夜子さんと、実行委員のひとりである山下ユミさんにご挨拶を済ませたあと、一度、京都ガーデンパレスにもどって、近くの「九里九馬」で昼食をとることにしました。

♪「九里九馬」(くりくま)は、シソ研の京都通の方から教えていただいたお店で、護王神社前の下長者町通に面してありました。大正初期の商家を喫茶店としており、おばんざい定食が食べられました。[「九里九馬」(上京区室町通下長者町通西入ル近衛町25)2011.12.31閉店)

♪「九里九馬」で昼食を終え、烏丸通に平行して走る裏道を烏丸今出川まで歩き、地下鉄烏丸線で北大路駅まで行って、バス(北一系統)に乗り換えることにしました。いよいよ、目的地の水原秋桜子の句碑のある光悦寺に向かうことになります。

(平成15年7月27日 記)(平成29年10月22日 追記)(令和3年2月28日 追記)

32. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(1)

光悦寺
場 所:京都市北区鷹峯光悦町29(鷹峯源光庵前下車)
電 話:075-491-1305
開園時間:午前8時から午後5時まで
閉園日:毎年11月10日より13日までの4日間

光悦寺にある水原秋桜子の句

紅葉せりつらぬき立てる松の幹  秋桜子

建立年月日:昭和40年(1965)10月24日
建立者:那須乙郎および向日葵同人及び会員同士

♪京都で開催された「第20回医学情報サービス研究大会」(京都府立医科大学 2003.7)に参加・発表する機会をとらえて、水原秋桜子の句碑がある光悦寺(こうえつじ)と玉樹寺(ぎょくじゅじ)を訪ねてみることにしました。

♪光悦寺は、元和元年(1615)、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)(1558~1637)が徳川家康から拝領した土地に、芸術郷を築いたのがはじまりといわれています。鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)をみわたす景勝地にあり、「光悦垣」の竹垣で知られ、境内に散在する茶席を取り囲む紅葉がみごとで、京都でも知る人ぞ知るお寺のひとつとなっています。

♪この光悦寺の水原秋桜子の句碑は、『馬酔木』の500号を記念して、那須乙郎氏を中心とした向日葵の同人の方々の主唱で、昭和40年(1965)10月24日に建立されたものです。

♪光悦寺に、お訪ねしたい旨、確認したところ、水原秋桜子の句碑は、茶室大虚庵(たいきょあん)の前を抜けた庭園の一角に、昔のまま置かれているとのお話でした。

♪京都へは、研究大会の前日:7月11日(金)午前8時:東京発:新幹線(のぞみ45号)で、シソ研のメンバーのひとりである野村謙さん(湘南短期大学)とともに向かうことにしました。久し振りに東京駅から新幹線に乗ることになりましたが、駅構内も整備されて、JR山手線から新幹線への乗り換えは、上野駅よりも便利に感じました。

♪京都:午前10時15分着:地下鉄烏丸線(からすません)で丸太町駅まで行き、宿舎の京都ガーデンパレスに荷物を置いたあと、蛤御門(はまぐりごもん)から京都御苑へ入って、研究大会の会場となっている京都府立医科大学附属図書館に向かうことにしました。


♪蛤御門は、烏丸通りをはさんで、京都ガーデンパレスと向き合っています。蛤御門の門前に、高札風の説明板が建てられていました。

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蛤御門(はまぐりごもん)

・江戸時代末期の元治元年(1864年)(注)この門の周辺で、長州藩と、御所の護衛に当っていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました。
この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っています。

・この門は新在家門といわれていましたが、宝永の大火(1708年)のさい、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。

(注)元治元年(1864年)は、佐久間象山が暗殺された年でもあります。

参考文献

1.『定本 秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる著 東京美術 1981)

(平成15年7月16日 記)(平成29年10月22日 追記)

31.ベルツを詠んだ水原秋櫻子句碑:豊川西明寺境内・草津温泉西の河原

♪水原秋櫻子がベルツを詠んだ句碑は、東京大学医学部構内にある「胸像をぬらす日本の花の雨」(東京大学医学部句碑)(改定版・第29回)のほかにも、各地にあることがわかりました。愛知県豊川市の西明寺境内と群馬県草津温泉西の河原の2か所です。(参考文献1,2,3


① 豊川市西明寺境内句碑 

菊にほふ國に大醫の名をとどむ

  場 所愛知県豊川市八幡町寺町7 西明寺境内のベルツ供養塔の傍

  建立年月:昭和44年(1969)11月14日除幕式

  主唱者:松井将(昭和大学医学部脳外科教授)・平松一郎

  建立者:豊川市(山本市長)七夕会(代表松井将)

♪昭和5年(1930)、三浦謹之助、入澤達吉らがベルツ供養塔をベルツの妻・花に所縁の豊川市の西明寺境内に建てています。その39年後の昭和44年(1969)11月14日には、ベルツを顕彰する水原秋櫻子の句碑が建てられました。除幕式には、ドイツからベルツの令孫トーマ(長男徳之助の子)(1923-1990)(注1)も出席されたそうです。さらに昭和46年(1971)12月20日には、ハット(長男徳之助の子)(1916-1972)が来日してベルツ家墓碑(徳之助家族)除幕式が挙行されています。(参考文献4 巻頭口絵

注1

ベルツ(1849-1913)ーーー荒井はつ(花)(1864-1937)

子供

ウタ(歌)(1893-1896)ーーートク(徳之助)(1889-1945)ー↓ー【妻ヘレーネ・ツエーマン】【妻マルタ・マウラー】

ハットは、トク(徳之助)とヘレーネ・ツエーマン(1888-1933)の子

トーマは、トク(徳之助)とマルタ・マウラー(1890-1973)の子

♪なお、豊川の御油(ごゆ)(旧東海道35番目の宿場)には、花の父・荒井熊吉の生家が営んでいた旅籠(戸田屋)の跡に「ベルツ花子実家跡」の案内板があるようです。

東海道御油海岸(絵葉書)

【参考】ベルツと花のドイツと日本の墓の場所(参考文献5)

日本の墓東京都台東区下谷法清寺

♪ベルツ花(本名・荒井はつ 改め花)は、昭和12年(1937)2月7日没後、荒井家の菩提樹の下谷法清寺(東京都台東区下谷1-8-22)葬られます。花自身が自らの戒名を決めて作っておいたお墓です。ベルツ(大正2年[1913]8月31日没)も分骨されて戒名がつけられています。(参考文献5 「下谷法清寺ーー花ベルツの菩提寺」pp.80-87)

済生院仁海慈航居士 大正二年八月三十一日 ハツ改花子夫(ベルツの分骨?)

紹徳院花心貞淑大姉 昭和十二年二月七日没 花・ベルツ(本人)

ドイツの墓(シュトットガルトのヴァルトフリードホーフ

♪ベルツがドイツで亡くなったのは、大正2年(1913)8月31日のことで、シュトットガルト(Stuttgart)のヴァルトフリードホーフ(Waldfriedfof)に葬られました。墓石には、花の名前(HANA BAELZ)も刻まれています。

Dr.EDWIN BAELZ

★13. JAN.1849 +31.AUG. 1913

HANA BAELZ

★20. FEBR. 1864 +7. FEBR. 1937

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② 草津温泉西の河原公園内)句碑

胸像はとわに日本の秋日和

場 所群馬県吾妻郡草津町西の河原公園

建立年月:昭和57年(1982)10月1日

主唱者:草津町・草津ベルツ協会注2

注2)草津ベルツ協会:「昭和三十六年に、草津とベルツ先生の出生地西独ビューティヒハイム市の間に、両者が協力してベルツ先生の遺徳を顕彰することを目処として発足、会長は市川善三郎」(参考文献4 「草津ベルツ協会」pp.215-218.)

草津温泉・西の河原(戦前絵葉書)

ベルツ記念館

♪草津温泉の西の河原には、ベルツ先生記念碑(注3)(昭和10年[1935]8月4日除幕式)、ベルツ・スクリバの胸像(昭和45年[1970]9月建立)が建っており、その傍に、水野秋櫻子の句碑(昭和57年(1982)10月1日建立)があります。

♪両博士の胸像は、東大構内にある胸像と同型のもので、戦時中に供出されることになったときに作られたコンクリート製の模型を複製したものだそうです。昭和35年(1960)、草津町の町長であった市川善三郎が東大から寄贈を受けて西常雄(武蔵野美術大学教授)によって昭和45年(1970)9月に制作されました。注4

注3) 「ベルツ先生記念碑」(石黒 忠悳題額 入澤達吉撰文 明治九年二月) 世話役:入澤達吉、藤浪剛一、高野六郎の三氏。

注4)東大のベルツ・スクリバの胸像は供出を免れ、胸像は、明治40年(1907)4月4日の創立当時のものです。(参考文献4 「ベルツ先生と、スクリバ先生の胸像建立」pp.219-220.)

♪ベルツは、明治9年(1876)6月の来日以来、温泉治療に興味を持って、伊香保、熱海、箱根などの温泉を調査して『日本鑛泉論』(東京大学医学部教授独逸醫學士別爾都氏著 明治13年[1880]7月)を著しています。

♪ベルツの草津温泉での宿は、「一井旅館」(現在のホテル一井)でした。「草津風土記」(一井旅館編)に収載されている「ベルツ博士と草津」(市川為雄著)によると、ベルツ(内科)と同僚のスクリバ(外科)が明治24年(1891)7月17日から8月15日まで「一井旅館」泉水にあった別荘(あずまや風の山荘)に泊まった記録が「明治廿四年第一月 宿泊人名簿 旅人宿 一井善三郎」に残っているようです。(参考文献6

上州草津温泉 旅館一井(絵葉書)

明治23年草津温泉でのベルツ(後列左)とスクリバ(後列右)

後列中央は横浜独逸病院院長グリーンワイルド 前列は横浜第13商館某氏

一井旅館の別荘(絵葉書)

♪草津温泉とベルツとの関係は、鑛泉(温泉)研究と通じて深いものがあったようです。明治33年には草津に日本国籍を持つ長男徳之助の名義(「土地購入委任状」)(荒井ハツ後見人)(参考文献5 p.80)で土地を購入してサナトリウム(温泉研究所・療養所)を建設する計画もあったようです。

♪明治23年10月14日、15日の『ベルツの日記』(初版・濱邊正彦譯)(参考文献7)(文庫版・菅沼竜太郎訳)(参考文献8)には、次のような記載があります。

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明治二十三年

十月十四日(東京)

余に依り、草津近傍の白根山火口において発見せられた鹽酸(鐵、明礬)(注5)泉は卓越せる醫治効能を發揮する見込みである。余等は目下、該鑛泉を病院において試験して居るが、その結果は甚だ満足す可きものがある。

十月十五日(東京)

十三日、近藤[榮一]氏の世話で草津に五千七百坪の土地と鑛泉を購つた。

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注5)文庫本の『ベルツの日記』(上巻)p.153では、「酸性泉(鉄、みょうばん)」となっています。

♪さらに、晩年に、ベルツは東大に草津温泉の学術研究のための奨学金を寄附しています。草津町では、明治45年(1912)6月19日に内務大臣原敬 文部大臣長谷場純孝宛てに「草津温泉調査請願ノ件」を出しています。昭和10年(1935)ごろから、東大での温泉研究は、三沢敬善(物療内科教授)に引き継がれることになります。

♪三沢敬善は、ベルツの高温温泉法を「摂氏45-47度の熱い温泉に3分間づつ1日3-4回入浴する方法を【時間湯】」として紹介しています。その時間湯を行ったと思われる建物の外観を写した絵葉書がありました。

草津温泉(時間湯)熱の湯外部(絵葉書)

♪今回の改訂版の執筆でベルツと妻・花の菩提寺が台東区下谷の法清寺であることがわかったのですが、この法清寺は、趣味の合唱の練習場の近くにあり、いつもお寺前の路地を通っていたのです。なにか不思議な感じがしました。

♪また、各地に水原秋櫻子の句碑を建立した石橋長英(日本国際医学協会理事長・日独交流協会会長・獨協医科大学初代学長)と水原豊(秋櫻子)とは、一高、東京帝国大学医学部の同期(大正7年卒)であることもわかりました。同期生には、高野与己(素十)もいて、3人が三田定則教授が法医学教室に設けた血清化学講座に入っています。(参考文献9

参考文献

1)『秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる 竹頭社 1969)

2)『定本秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる 東京美術 1981)

3)『秋桜子句碑巡礼 ガイドブック』(久野 治著 鳥影社 1991)

4)『ベルツと草津温泉』(市川善三郎著 あさを社 1981)

5)『[花・ベルツ]への旅』(講談社 眞寿美・シュミット=村木著 1993)「下谷法清寺ーー花・ベルツの菩提寺」pp.80-87.

6)「ベルツ博士と草津」(市川為雄著):『ベルツと草津温泉』(市川善三郎著 あさを社 1981. pp.111-124.の「ベルツ先生と『草津風土記』」に収録)

7)『ベルツの「日記」』(濱邊正彦譯 岩波書店 1939)

8)『ベルツの日記』(上)(下)【文庫版】(トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳 岩波文庫 青426-1 青426-2 岩波書店 1979.)

9)『水原秋桜子と私』(石橋長英著 制作:デー・エム・ベー・ジャパン 1972.)

(平成14年6月25日 記す)(平成29年9月3日 追記)

30. 水原豊(秋櫻子)の略歴

♪水原秋櫻子の本名は水原豊といい、明治25年(1892)10月9日、旧神田区猿楽町12番地に生まれました。芥川龍之介と同年です。生家は産婦人科医院を経営し、「二流どころの医院で、門内に桜の木があり、その落花が往来を敷いていた」といいます。

♪「家のあった場所は、現今の都電停留所の神保町と三崎町との中間で、東側である。往来はまだ電車が通っていなかったので幅五メートルほどであったろうか。町名は猿楽町というのであった。」

神田區神保町通り(帝都絵葉書)

♪水道橋駅から神保町交差点に向かう白山通りの左側の一帯は、明治のはじめから猿楽町と呼ばれていました。猿楽(さるがく)(のちの能楽)の家元・観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷がこの辺りにあったことから、猿楽町の名が起こったそうです。

♪父の岩橋熊三郎は和歌山の出身で、郷里で代用教員を務めたあと上京、本郷の済生学舎に入って医者になった人物です。産科医・水原実の養子となって漸(すすむ)と改名し猿楽町で産婦人科医院を開業していました。

♪水原豊は、「後年私が俳句を作るようになった萌芽は、祖父(母方・大谷木一(おおやぎ・はじめ))の方から授けられた」と書いています。父の漸(熊三郎)は「一生医師として働きつづけた人で、文芸その他芸術的なことには全く興味を持たなかった」そうです。

父・岩橋熊三郎(水原実の養子となり水原漸と改名)

母・治子(大谷木一の娘)ーーー祖父(旗本・大谷木一[安左衛門])・祖母(みか)

兄弟姉妹

姉:道子

姉:早世

長男:豊(秋櫻子)

弟:滋(しげし)

♪独逸中学(独逸学協会学校中学)で独逸語を学び、二浪して一高に進学、大正3年(1914)、東京帝国大学医科大学に入学しています。卒業後、大正8年(1919)1月、血清化学教室に入り、助手であった緒方益雄(緒方正規の息子 墓は染井霊園)の勧めで「木の芽会」(医学部出身者だけの俳句会)に入会し、俳句をはじめます。この年の4月には、東京師範学校教授・吉田彌平の長女・しづと結婚しています。

♪当時の血清化学教室教授は三田定則で、教室には古畑種基(のち法医学教授)、緒方富雄もいました。

♪大正10年(1921)4月、「ホトトギス」の雑詠欄(虚子選)に投稿した4句が入選し、5月には例会に出席するようになりました。

♪大正11年(1922)、東京大学俳句会を復活し、大正13年(1924)、血清化学教室から産婦人科学教室に移ります。

医科大学婦人科講義室(絵葉書)

♪入局した当時の産婦人科教室の主任教授は、磐瀬(いわせ)雄一でした。はじめ分娩病棟に配属され、のち医局長として活躍します。

♪昭和3年(1928)の秋、医局を辞し、震災後に建てた猿楽町のバラックの医院から神田三崎町の都電停留所前に新病院(西神田1-6)を開院することになります。その時、三田教授、磐瀬教授の推薦によって、上条秀介(青山内科出身)と石井吉五郎(佐藤外科出身)によって設立された昭和医学専門学校の産婦人科教授に就任、水原産婦人科病院は、京大で産婦人科講師をしていた弟の滋が手伝うことになりました。

 

参考文献

(1)「私の履歴書」:『水原秋櫻子全集 第十九巻 自伝回想』pp.245-294. 講談社、1978.

(2)「神田區勢要覧 昭和十年」(東京市神田區役所編)(国立国会図書館デジタルコレクション)

(3)「古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩」(人文社、2004)

(4)「明治生まれの町 神田三崎町」(鈴木理生著 青蛙房、1978)

 

(平成14年6月27日 記)(平成29年8月13日 追記)

29. 水原秋桜子(豊)の句碑と墓

1.水原秋桜子の句碑(東京大学医学部句碑)

東京大学本郷キャンパスのベルツ・スクリバの胸像の横(左手)に(水原)秋桜子の句碑が建っています。

胸像をぬらす日本の花の雨

水原秋桜子の句碑
画面右手の木の足元にあるのが句碑、その後ろにベルツ・スクリバの胸像が写っている

(平成29年8月11日 記す)

★★★

♪今日、時間があったので、図書館でベルツに関する単行本の文献を少し調べていました。『現代に生きるベルツ』(石橋長英著 日本新薬株式会社 1978)のなかに水原秋桜子のベルツに関する句の記載がありましたので、その一部を紹介しておきます。

君によりて日本医学の花ひらく

胸像はとわに日本の秋日和

秋空にかがやく歴史六百年

菊匂う国に大医の名をとどむ

生誕の夜の寒星を仰ぐべし

百年前君が仰ぎし夏の富士

♪東京大学本郷構内にあるベルツ・スクリバの胸像の横にある秋桜子の句碑がいつ建てられたのか、句碑の裏に年月日などが刻まれてないか、調べたかったのですが、句碑の周辺には木々の葉が生い茂っていて確かめることができませんでした。

(平成14年6月22日 記)

★★★

♪ベルツ・スクリバの胸像の傍にある水原秋櫻子の句碑について、その建立年月日、建立主唱者など、建立の経緯について詳しく記載されている文献をみつけました。石橋ひかる氏による『定本秋桜子句碑めぐり』(東京美術、1981)のなかにありました。(「東京大学医学部句碑」pp.354-361.)

建立年月日:昭和56年(1981)4月9日

建立主唱者:石橋長英

建立の趣旨:「わが国近代医学の基礎を築き、その発展と国際交流に大きく寄与したエルウィン・フォン・ベルツ先生の巧蓄を記念するため」

(平成29年8月19日 追記)

2.水原秋桜子(豊)の墓

場所:東京都立染井霊園(1種イ3号1側)

交通:JR駒込駅あるいはJR巣鴨駅から徒歩。

東京都立染井霊園医家墓所案内(堀江幸司作成

桜の染井霊園
雪の染井霊園
水原秋桜子の墓

♪染井霊園の場所は、東京都公園協会発行の「霊園案内図」によるとJR山手線巣鴨駅より徒歩10分とあります。巣鴨は「お婆ちゃんの原宿」として有名ですが、この巣鴨地蔵通りは旧中山道で、それと平行して走る国道17号(中山道)沿いにある「東京都中央卸売市場・豊島市場」の裏が、染井霊園になります。染井霊園の正面入口は、駒込駅前の六義園を起点とする染井通りにありますが、巣鴨方面からくると、染井霊園の裏口から入ることになります。

染井霊園入口(染井通りの突き当たり)
染井霊園の白山通り側の入口

♪このように染井霊園は、ちょっとわかりずらい所にあるのですが、この辺りは、染井吉野桜の発祥地として有名です。春になると霊園内に残る古木が淡いピンクの花をつけ、散った花びらは、花のじゅうたんをつくります。訪れる人もそれほど多くはなく、本来のお花見ができる数少ない場所の一つとなっています。

♪染井霊園には、著名人の墓も多くあります。岡倉天心、小河一敏、高田早苗、高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、宮武外骨、水原秋桜子などがあります。

高村光太郎・智恵子の墓

♪水原秋桜子は、俳誌「ホトトギス」で活躍した俳人 で、「馬酔木」を主宰したことで有名ですが、本名を水原豊といい昭和医学専門学校教授(産婦人科学)でもありました。

♪墓は霊園の正面入口から真直ぐ続く墓道の左手(1種イ3号1側)にあります。

(平成14年5月21日 記)(平成29年8月11日 追記)