128.「相良知安先生記念碑」の碑文

「相良知安先生記念碑」の碑文

🌲この石碑は、昭和10年(1935)3月、東京大学医学部へのドイツ医学導入に功績のあった相良知安先生の功績を記念して、構内の不忍の池が見渡せる高台の一角に建てられたものです。

昭和63年(1988)に構内を取材した際にこの立派な石碑をみつけたのですが、当時は、石碑に接するように看護婦寮が建てられており、周辺は、あまり手入れがされていないようでした。

現在は、無縁坂に面する復元された鉄門を入って右手の広場の一角(入院棟前)に移築されています。

📗「日本の古本屋」です。「故相良知安先生記念絵葉書」を入手しました。3枚構成で、相良知安先生の肖像、石碑の拓本、遺墨の3枚です。

 

 

🌲拓本は、一枚の絵葉書となっているだけですので、原文が読みにくいのでテキスト化にしました。原文がカタカナのところは、ひらがなとして、漢字は新字体を用いたところもあります。旧字体のところは、ルビをつけたところもあります。

 

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「相良知安先生記念碑 」

枢密顧問官正二位勲ー等功三級子爵石黒忠悪題額

明治維新初政府に和蘭医学に代ふるに英吉利医学を以てし医学教育の面目を一新せんとす時に世上頻(しきり)に独逸医学の学内に傑出せるを説くものあり。

又来朝中の一外人も亦頗(すこぶ)る之を賛するあり。

茲(ここ)に於て廟議(びょうぎ)断然独逸医学を採用することに決し普魯西公使に嘱し医学教師を聘せんとす適普仏戦争起るに会し其事行はれす、明治四年に及ひて始めてドクトルミュルレル来朝するあり。

遂に其提案に拠り本邦医学教育方針の確立を見るに至れるか其
の制度は一に独逸に則(の)りたるものなり。

此間にありて斡旋尽力幾多の反対論を説服して政府の規画を達成せしめたるものを相良先生と為す。

先生は実に独逸医学を輸入したる恩人なり。先生名は知安弘庵と号す佐賀藩医なり。

明治二年一月召されて医学校御用掛を命せられ,医政に鞍掌(おうしょう)す尋(つい)て大学少丞に任せらる。

五年+月第一大学区医学校学長に遷(うつ)り翌年文部省築造局長に任し医務局長を兼,又先生の医務局長たるや建議して上野一帯の地に医学校及大学病院を新築し長橋を不忍池に架し,以て交通に便ならしめんとせり。

而かも一部の反対に遇うて果す能はす。先生乃ち政府に逼(せま)り其代償として本郷の旧加賀藩邸を得て以て医学建築地に充てんことを請ひ之を許さる。

九年に至り医学校及病院の新営始めて成る。是れ今日の帝国大学所在の地たり。

先生の文部に官する部下の累する所となりて奇禍を蒙れることあり。寃雪(えんせつ)かれて出仕すること両度に及へるも,皆久しからすして之を罷め遂に韜晦(とうかい)して復た出てす。

三十三年政府其前功を録し勲五等に叙し双光旭日章を賜ふ。

三十九年六月十四日病して歿す。享年七十ー特旨を以て正五位に叙せらる。

先生人と為り剛毅(ごうき)果敢甚た才幹あり。而かも狷介(けんかい)狐哨(こしょう)極めて自信に篤し,是を以て世と相容れす轗軻(かんか)其身を終ふ深く惜むへきなり。

先生の歿を距る萩に二十有余年後進の徒,先生の本邦医学制度創設の際に於ける功績の湮滅(いんめつ)に帰せんこと慮(おもんばり)相謀り,貲(し)を醸し石を帝国大学の庭中に樹を表彰せんとし文を予に徴す。

予不文敢て当らすと雖(いえど)も爰(ここ)に先生の事歴を略叙して以て後昆(こうこん)に諗くと爾か云ふ。

昭和十年三月 東京帝国大学名営教授正三位勲一等醫學博士
入澤達吉撰
野村保泉刻
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注)
廟議(びょうぎ):朝廷の評議
韜晦(とうかい):自分の才能・地位などを隠し、くらますこと。
剛毅(ごうき):意思が強固なこと
狷介(けんかい):自分の意志を固く守り、妥協を許さず、人と相いれないこと
狐哨(こしょう):言動が軽薄でずる賢いこと
湮滅(いんめつ):跡形もなく消えたり、消したりすること
後昆(こうこん):のちの人