90. 太田正雄(木下杢太郎)の日記と剖検記録

太田正雄の没年の昭和20年(1945)の日記を見てみると、空襲のなか、大学本郷構内に留まり、講義、回診を続け、当直を務める様子が書かれています。その合間には、懐徳館の庭園、薬学科の薬草園、農学部構内などをまわって花々を写生しています。

♪「日記」には、「江戸東京」に登場する緒方富雄、遠山郁三、高橋明、川喜田(伝研)など、各先生のほか、徳川義親の名前も出てきます。

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♪昭和20年(1945)6月から7月にかけて日記に次ぎのように書いています。

晩年の太田正雄(昭和18年10月19日・20日 東京大学医学部本館前)

昭和20年(1945)6月5日:

曩日(のうじつ)の胆石痛の如し。午前中家居就褥。午后中野氏との約束ゆえ病院にゆく。探しものの為め也。労る。柿沼[昊作](かきぬま・こうさく)教授の室にて診を受く。

柿沼昊作教授

外科病棟のとりこぼちつつある傍にふふみし泰山木の花一枝を折って帰る。

 泰山木(タイサンボク)の花言葉:前途洋洋

昭和20年(1945)6月6日:

胃腸のコリックなほつづく、午後家居。泰山木の花瓶に十分開く、写す。午后登院。回診をすまし、薬学科の薬苑に請うて、ひなげし、かきつばたの茎を得て帰り、帰来之を写生す。病臥

昭和20年(1945)6月7日:

雨。十一時登院。一時十分から二時半講義。三時四十分から五時徳川義親候邸。・・小痛あり。早く臥す。

昭和20年(1945)6月10日:
目ざめて胃部に疼痛あり、之をさぐるに鴿卵大の結節を觸る。之をおすと痛む。之を摩すると段々と小さくなりつひに消失する。然しまたむくむくと腫れ出す。状、局所性の筋の強直の如くである。之が消えてのち、なお固定せる腫瘍ありや否やを指尖を以て確めんとしたが、判然と決定することが出来なかった。唯然しこの時から、其事も亦可能であるといふことを思ふやうになった。少し注意と覚悟とを要するぞと。

(注)鴿:はと

昭和20年(1945)6月11日:
気分あしく、午前九時半登院、十一時より外来を見る。午後伝研にゆかず、教授室に静養、午後一時ごろ大槻をたづね、腹部のパルパチオン[触診]を頼む。

昭和20年(1945)6月12日:
柿沼教授によりバリウムによる腹部レントゲン撮影。

昭和20年(1945)6月19日:
柿沼教授の勧めにより今日より一週間ばかり伊東に休養することにする。

昭和20年(1945)6月25日:
新個の硬結一両個を模索し得たり。沖縄失陷の由。

昭和20年(1945)7月3日:
十時小使荷をとりに来、まづ病院に送る。二時入院、四時好仁会評議委員会。天ぷらを食ひ、ビイルをのみ、スパスムス起る。

昭和20年(1945)7月4日:

八時過より血球計算、胃液検査等をなす。一時過と三時前とに警報。三輪、柿沼教授。

注)この三輪という人物は、当時、医学図書室の事務を担当していた三輪福松のことかと思われます。

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前列の右端が西成輔教授(解剖)、その後ろの三列目の右端が三輪福松。太田正雄教授は、前列の右から3人目(昭和18年 東京大学医学部本館前)
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♪8月1日、教職員とともに還暦の小宴を好仁会の二階で行ったあとの8月30日に柿沼内科に再入院することになります。このとき主治医となったが井上貞吉で、柿沼教授(内科)と大槻教授(外科)の相談の結果、手術はせずにリンゲル液による水と栄養の補給が行われることになりました。

東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」)
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」

♪治療の効なく、10月15日の未明(午前4時25分)に死亡しました。当時、三田村篤志郎教授(病理)が病欠だったため、剖検は松本武四郎諏訪紀夫両助手によって午後1時から行われました。

♪剖検は、病理解剖室の水道が故障のため使えなかったので、皮泌科の手術室で行われました。解剖に立ち会った柿沼教授は、「太田君ぐらい煙草を吸っても、こんなに肺がきれいかね」といったそうです。また、大動脈の動脈硬化もなかったといいます。太田正雄は愛煙家で知られていました。

♪太田正雄は、沖縄陥落や終戦の玉音放送をどんな思いで聴いたのでしょうか。東大構内に残って戦争とたたかった太田正雄教授の人生は、敗戦とともに終わりましたが、その心は、「🍂百花譜🍂」のなかに遺されているのではないでしょうか。

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[剖検記録]

♪松本武四郎(後年、慈恵医大の図書館長も務めた)によって記録された剖検記録を採録しておきます。

[剖検番号]16594 執刀者:松本、諏訪 記録者:松本
[柿沼内科より剖検依頼、剖検時刻 13時(死後88.5時間)]
[臨床的診断]上腹部腫瘍
[病理解剖学的診断]
 1) 体部胃道上に発し、小彎より胃後壁全般に亙り板状に浸潤せる硬癌。原腫瘍部及胃後壁粘膜上の浅き不規則形潰瘍。
胃周囲及膵周囲淋巴腺への転移。肝下面と胃小彎右下部、前者と横行結腸右方寄りの部、胃大弯と横行結腸、廻腸終部と盲腸並に上行結腸始部、横行結腸左部と上方に迂弯せる下行並にS字状結腸等間に於ける腫瘍性胼胝性癒着、転移性播種を伴へる癌性腹膜炎。腸間膜淋巴腺の特別なる腫大を伴はざる腸間膜全体の胼胝性肥厚。

(注記)
 胼胝:べんち(callus)「結合組織の著しい増殖を伴った肉芽組織の瘢痕形成に膠原繊維の硝子変性が加わって硬くなった状態をいう」(南山堂医学大辞典)

 2) 肝の門部に限局せる初期膵道癌並に該部に於ける胼胝様結締織増殖。此の部に於けるDuctus hepaticus並に門脈の狭窄。肝内胆道の拡張。肝の強き黄疸及全身の中程度黄疸。Ductus choledochusの中程度拡張。小腸上部に於ける胆汁色、下行結腸-直腸に於ける灰白色の腸内容。
 3) 上記腹膜炎及門脈狭窄による腹水症(6000cc)。
 4) 初期気管支肺炎、軽度肺水腫、肺後部に於ける血液沈下。
 5) 左肺下等後面-側面及横隔膜面の繊維性癒着。
 6) 冠動脈の硬化及蛇行、房室弁の軽度繊維性肥厚。
 7) 胃壁肥厚圧迫による膵の軽度扁平状萎縮。
 8) 膵の萎縮。
 9) 中葉形成を伴へる胡桃大の所謂「摂護腺肥大」、肉柱膀胱。

(注記)摂護腺:前立腺

10)副腎の脂肪減量。
11)軽度の内膜脂肪化のみにて著明なる硬化症なき大動脈。
12)仙骨部の浅き褥瘡。
13)下腹部の手術創痕、虫様突起の欠如。
14)全身の衰弱。

♪終戦間際の警戒警報(サイレン)が鳴り響くなかでの入院生活は、本人は勿論のこと家族などの看護するものにとっても大変なことであったに違いありません。

♪7月初旬に柿沼内科にはじめて入院したときの様子を「読書療病」のなかで、次のように書いています。

「7月2日に柿沼内科に入院し、同18日(水)退院帰臥した。其間に胃腸のレントゲン診断、胃液検査、血液の諸反応等の事を行った。 ・・・ 悪性腫瘍の如きものではあるまいと云ふことがほぼ明にせられ、入院の目的は達せられた。食欲、消化は尋常であり、悩む所は微にして長く続く腸痛と身体の羸痩とのみであった。」

(注記)羸痩:るいそう:やせおとろえること。

♪亡くなったときの体重は、38kg、脳重量は1400gであったそうです。

(参考文献)

1)『木下杢太郎日記 第五巻』(太田正雄著 岩波書店 1980)

2)『太田正雄先生(木下杢太郎)生誕百年記念会文集』(日本医事新報社 1986)

3)『目でみる木下杢太郎の生涯』(木下杢太郎記念館編 緑星社 第2版 1983)

(平成15年9月3日記)(2010年1月22日 追記)

89. 太田正雄(木下杢太郎)と「医科大學附属図書館協議会」


♪東京都文京区千駄木5丁目(旧駒込林町)に高村光太郎旧居跡を訪ねたあたりから、木下杢太郎を「江戸東京」で取り上げたいと思っていました。

♪神田神保町の古本屋(誠心堂書店)に、『ニ本榎保存碑』(三上参次撰)の拓本を見つけて、買いに行った折り、偶然「すかんぽ」の拓本に出会ったのにも、木下杢太郎に導かれている感じがしていました。

誠心堂書店

「ふるき仲間も遠く去れば、また日頃
 顏合せねば、知らぬ昔と かはりなき は
 かなさよ。春になれば草の雨。三月、櫻。
 四月、すかんぽの花のくれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの
 眺め。窓の外の入日雲。」 
               木下杢太郎

(木下杢太郎の歌碑が東北大学医学部構内にあります。)

木下杢太郎文学碑(加藤晃一氏撮影 2020.2.15)
木下杢太郎文学碑(加藤晃一氏撮影 2020.2.15)
木下杢太郎文学碑(堀江幸司撮影 1989.12.5)

参考文献:「県立宮城病院の正門(右)と木下杢太郎の文学碑(左)

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♪木下杢太郎(詩人・劇作家)は、本名を太田正雄(1885-1945)といい東京帝國大學医学部の皮膚科教授であった昭和18年(1943)の10月19日(水)、20日(木)の両日、館長として現在の「日本医学図書館協会(JMLA)」の前身である「医科大學附属図書館協議会」の第15回協議会(会場:東京帝國大學醫學部會議室)を主催しました。ちょうど今から60年前のことになります。

♪この第15回協議会の二日目となる10月20日の午前の議長を太田正雄が、午後の議長を木原玉汝(新潟・薬理学)が務めています。当時、木原玉汝は昭和大学医学部第一薬理学教室から新潟医科大学教授に転じていました。

♪10月20日の日記に太田正雄は「午前9時より医科大學図書館会議。午後講義及び回診。5時半より雨月荘にて図書館会議懇親会」と書いています。

♪戦時下の東京大学に全国から集まった館長には、次の人々がいました。

赤野 六郎(京都府立醫科大學中央図書館)
津崎 孝道(京城帝國大學醫學部図書室)
木原 玉汝(新潟醫科大學附属図書館)
高木 耕三(大阪帝國大學附属図書館)
大谷佐重郎(金澤醫科大學附属図書館)
寺坂 源雄(長崎醫科大學附属図書館)
草間 良男(慶應義塾大學醫學部図書館)
鈴木 重武(千葉醫科大學附属図書館)
三輪  誠(名古屋帝國大學附属図書館)
関  正次(岡山醫科大學附属図書館)
本川 弘一(東北帝國大學附属図書館醫科分館)
太田 正雄(東京帝國大學醫學部図書室)

♪第15回協議会の記念写真には、太田正雄のほか、医学部長代理として出席し開会の挨拶を行った西成甫(東京帝国大学医学部解剖学教授)の顔もみえます。撮影は、本館前の階段を使用して行われたようです。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は image.png です

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撮影された場所

現在の東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館):赤門を入って突き当りの建物。

東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)(1985.11.4 堀江幸司撮影)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)

♪このときの協議事項には、次のようなものがありました。

(午前)午前9時開会 議長:太田正雄

1. 近時不定期に到着する雑誌の目次を各加盟館に送附する件(京城)
2. 南方醫學に関する文献目録編纂の件(新潟・東大)
3. 戦争の為未着の外国雑誌バックナンバーを後日補充する場合、対策あらば承りたし(金澤)
4. 共同図書目録編纂の件(慶應)
5. 学校図書館に対する新刊図書の優先配給を速かに実施さらるるよう、関係当局に要請するの件(慶應)
6. 皇漢醫學共同目録編纂の件(千葉)
7. 常任幹事校設置の可否(千葉)

(午後)午後2時再開 議長:木原玉汝
8. インフォーメーション・ビューローに関する件(名古屋)

 南方醫學の協議事項のなかで、太田正雄は議長として次のように述べています。


「要するに南方醫學と云ひましても文献的に見て一つはヨーロッパにて出版したものと他は現地に於て出したものですね、前者に就いては東北が一番多く持って居るのですが之に就いては私の方から出掛まして十種類許りの文献を集めて見ましたが・・・・・・で問題は後者ですね、例へばジャワの「GeneesKundig Tijdschrift voor Nederlandsch lndie」の様な本は現在一冊も無いのですから・・・・」

♪太田正雄は協議会を開催した昭和18年(1943)3月から雑草を写生し『百花譜』の画稿とし、二年後の昭和20年(1945)6月には『すかんぽ』(注)を発表しています。この6月中旬より胃腸疾患のため故郷の伊東に静養しますが、胃癌の疑いで東大柿沼内科に入院し、10月15日未明に逝去しました。

♪太田正雄は土肥慶蔵(東大・初代皮膚科講座教授)を恩師としており、宇野朗(うの・ほがら)とも繋がることになります。また、東京での住まいも、本郷西片町や白山御殿町などの本郷界隈であり、しばらく木下杢太郎の足跡を辿ってみたいと思います。

(注)すかんぽ:伊東では「ととぐさ」という草。木下杢太郎は随筆『すかんぽ』のなかで、晩年、東大農学部の構内の一角にすかんぽを見つけて食べた経緯を書いています。「大學構内の公開の場所には今やどこにもすかんぽは見つからなかった。恐らくは大震災後根が絶えたのであらう。所が農學部の裏門からはひる小径のわきの地面に其聚落の有ることを見付けたのである。」

(平成15年9月1日 記)(令和2年1月21日 追記)

88.『東北帝國大學醫學専門部在学記念 明治四十五年』写真帳と医学部構内絵葉書(Googleマイマップ 東北帝国大学医学部構内)

♪『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』を入手しましたので、その一部と、これまでに収集していた東北帝国大学医学部関係の絵葉書を紹介します。

『東北帝國大學醫學専門部在学記念 明治四十五年』(写真帳)
東北帝国大学医学部附属病院玄関(絵葉書)

♪「明治45年卒業記念写真集」からの写真と絵葉書を挿入した「東北帝国大学医学部構内」と題するGoogleマイマップにまとめてみました。

 

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♪明治45年(1912)当時の皮膚科教授は、のちに、土肥慶蔵のあとを継いで東京帝国大学医学部の教授となる遠山郁三でした。帝大を退職後の遠山郁三は、戦中、立教大学学長(1937-1943)をも務めることになります。

♪職員のなかには、魯迅(魯迅と東北大学)の恩師として知られる藤野厳九郎(解剖学)や井上達一(眼科)の名も見えます。皮膚科に太田正雄(詩人・木下杢太郎)が教授として赴任するのは、大正15年(1926)のことでした。

東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(1989.12.5 堀江幸司撮影)
東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(2020.2.15 加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館])

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 ・明治20年(1887)第二高等中学校医学部設置

 ・明治34年(1901)仙台医学専門学校設置(片平地区)

第二高等学校(仙台医学専門学校)(絵葉書)

 ・明治45年(1912)東北帝国大学医学専門部(星稜地区)

宮城病院建築平面図1(出典:宮城病院一覧
宮城病院建築平面図2(出典:宮城病院一覧

 ・大正4年(1915)東北帝国大学医科大学開設

東北帝国大学医学専門部・東北帝国大学医科大学正門(絵葉書)

 

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♪写真帳によると東北帝国大学医学専門部の職員は、以下の通りです。

大学総長(文学士)澤柳政太郎

主事(医学博士)山形仲藝(やまがた・なかき)

教授(医学博士)内田守一

教授(医学士)栗原永之助(産婦人科)

教授(薬学士)佐藤喜代作

教授(医学得業士)敷波重治郎(しきなみ・じゅうじろう)

 (得業士とは:医学専門学校の卒業生に与えられた称号 Diplom)

教授(医学士)柿澤信義(かきざわ・のぶよし)

教授(医学士)東 自助

教授 小高 玄

教授(医学士)小塚文治

教授(医学士)遠山郁三(とおやま・いくぞう)(皮膚科)

教授(文学士)古川義天

教授(医学士)小玉龍蔵

教授     藤野厳九郎(ふじの・げんくろう)(解剖学)

教授(医学士)加藤豊治郎(かとう・とよじろう)(内科)

教授(薬学士)細井美水

教授(薬学士)井川寛一郎

教授(医学士)和田徳治郎

教授(医学得業士)玉造弥七郎

教授(医学士)井上達一

助教授(薬学得業士)篠原吉祥

助教授       國岡三樹

助教授(医学得業士)大関隆輔

講師(薬学得業士)石丸生駒

講師(医学士)恒遠 新

教員(陸軍歩兵中尉)大石敬太夫

 

 

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[写真帳]

(左)主事 医学博士 山形仲藝先生 (右)病院長 医学博士 内田守一先生
(明治45年写真帳より)
宮城病院正門及本館(明治45年写真帳より)

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♪宮城病院(のちの東北帝国大学医学部附属病院)の正門は、現在の県道31号線(旧国道48号線)[北四番丁通り]と264号線[木町通り]とが交わる交差点(附属病院敷地の南東角)にありました。(病院前の道路、国道(48号線)は、2016年に県道となり、現在は県道31号線と呼ばれています。)

♪この東北帝国大学医学部附属病院正門には、4つの立派な門柱があり、平成2年(1990)に復元されましたが、その後、平成16年(2004)に、現在の場所(県道31号[北四番丁通り]に面した病院正門の左手)に移転整備されています。

 

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上段 校舎(左) 裏門(右)
下段 東北帝国大学医学専門部正門
(明治45年写真帳より)

現在の流体科学研究所(片平)のあたり

 

人物上段左から
大石教官、国岡助教授、古川教授、小高教授
人物下段左から
菅原書記、武田書記、宮崎書記、田総書記

庶務室  書籍室


(明治45年写真帳より)
上段 外科手術室外景(左) 病院外景(右)
下段 講義室(左) 婦人科手術室外景(右)
(明治45年写真帳より)
藤野厳九郎教授と解剖実習室(明治45年写真帳より)
藤野厳九郎教授

 

上段 遠山教授(左) 皮膚科診察室(右)
下段 皮膚科手術室(左) 皮膚科標本室(右)
(明治45年写真帳より)

 

四年級応援団(大運動会)(明治45年写真帳より)

 

 

 

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[絵葉書]

東北帝国大学医学部附属医院(絵葉書)
東北帝国大学医学部(絵葉書)
東北帝国大学医学部本館と同附属医院本館(絵葉書)

 

山形仲藝寿像とレリーフ

大正8年(1919)7月14日に除幕式が行われましたが、戦中の昭和18年(1943)7月3日に銅像は、供出されることになります。

戦後、昭和29年(1954)、艮陵同窓会創立70周年記念事業の一環としてレリーフをはめ込んだ記念碑が作られることになります。(医学部構内 一号館前)

山形仲藝博士レリーフ像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)

参考:

1)「東北大学百年史編纂室ニュース」(第4号 1999.8.31)

2) 冨永悌二(巻頭言 ~創立50年の年に)(PDF

 

東北帝国大学医学部(絵葉書) 山形仲藝寿像が写る(大正8年7月建築)
山形仲藝博士寿像(絵葉書)

 

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外科手術室と婦人科手術室の場所(出典:宮城病院一覧
東北帝国大学医学部附属病院 婦人科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに外科手術室とあるのは婦人科手術室の誤りと思われる)
東北帝国大学医学部附属病院 外科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに婦人科手術室とあるのは外科手術室の誤りと思われる)

 

 

参考:東北大学関係写真データベース

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(2020年1月12日 16日 記す)