55. 啄木、入院中の歌より

♪啄木は、入院中に、いろいろな歌を創っています。当時の看護婦、回診してくる医者の様子、家族のこと、自分のからだのことなど、薄暗い病室の寝台の上で、経済的な心配をしながら、歌っています。

♪啄木は、大の愛煙家だったようですが、病院での小さな自由のひとつは、病室の窓にもたれて、煙草を吸うことだったようです。その気持ちも、歌っています。

♪歌のなかに、寝台(ねだい)という言葉が使われています。狭い日本家屋に住んでいた啄木にとっては、寝台の上が、一時的ではあったにしろ、自分に居場所ができたように感じたのかもしれません。

♪病院の夜。それは、夜明けを待つ、長い時間です。西洋的な寝台の上で、ふくれた腹を撫でながら、母と妻子のこと。経済的なこと。創作活動のこと。それらを、思い悩みながら、生活の糧のひとつとして、必死で歌を創っていたのかもしれません。

♪当時の内科病室は、現在の竜岡門(当時は南新門)を入って、4つ角を過ぎた右手にありました。中央道路を挟んで前には、運動場が広がっていました。深々とした夜には、病棟の廊下に灯る電球の光を見て、眠れぬ夜を過ごしたのではないでしょうか。

石川啄木が入院していた当時の東京帝国大学構内(出典:「東京帝国大学一覧 明治42年から明治43年」)(国立国会図書館デジタルコレクション
東京帝国大学運動場
明治末の赤門

 

重い荷を下ろしたやうな
気持なりき、
この寝台(ねだい)の上に来ていねしとき。

病院に入りて初めての夜といふに
すぐ寝入りしが、
物足らぬかな。

晴れし日のかなしみの一つ!
病室の窓にもたれて
煙草を味ふ。

ふくれたる腹を撫でつつ、
病院の寝台に、ひとり、
かなしみてあり。

目をさませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて夜明くるを待つ。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな。

(平成17年5月21日記)(平成30年8月30日 追記)

◆◆

♪入院生活中の啄木の心配事は、経済的のことのほかに、妻と母のいさかいが、常に頭の中にあったようです。寝台の上に、自分の身の置きどころを見い出しながらも、いまごろ、妻と母は、どのように過ごしているか、気掛かりでたまらなかったようです。

 

もうお前の心底をよく見届(みとど)けたと、
夢に母来て
泣いてゆきしかな。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我(われ)にかへりけるかな。

解けがたき
不和(ふわ)のあひだに身を処(しょ)して、
ひとりかなしく今日(けふ)も怒(いか)れり。

 

♪また、入院中は、看護婦や医者の態度やひとことが、気にかかるものです。からだの痛みにたえながら、啄木は、ひとり、長い時間を過ごしながら、回診にくる医者になんて言ってやろうか、考えてもいたようです。

 

そんならば生命(いのち)が欲(ほ)しくないのかと、
医者に言はれて、
だまりし心!

脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり。

ぢつとして寝(ね)ていらつしゃいと
子供(こども)にでもいふがごとくに
医者のいふ日かな。

廻診(くわいしん)の医者の遅(おそ)さよ!
痛(いた)みある胸に手をおきて
かたく眼をとづ。

 

(平成17年12月23日 記)(平成30年8月30日 追記)

54. 太田正雄(木下杢太郎)、啄木を診察する

♪太田正雄が、木下杢太郎の筆名を使いはじめたのは、明治42年(1909)の頃のことでした。永井荷風、小山内薫、高村光太郎、黒田清輝らとの「パンの会」が全盛期を迎えた時期にあたります。

♪「パンの会」が行われた場所について高村光太郎は、「ヒウザン会とパンの会」のなかで次のように書いています。

・・・・・・・・・・・

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。

永代橋
鎧橋
両国橋橋詰

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♪この明治42年(1909)には、『スバル』が啄木を編集発行人として創刊され、杢太郎は、創刊号に『荒布橋』、二月号に『南蛮寺門前』、そして、明治44年(1911)の二月には、『和泉屋染物店』を発表しています。

◆◆◆

♪啄木が、慢性腹膜炎を患ったのは明治44年(1911)2月のことです。その当時、杢太郎(太田正雄)は、東京帝國大學醫科大學の医学生で、卒業する年のことでした。医者になるべきか、文芸活動を続けるべきか、悩んでいた時期でもありました。啄木が、病や金で苦労していたとのは、また、別の苦しみでありました。

東京帝国大学構内中央道路

♪結局、太田正雄は、明治44年(1911)12月に東京帝國大學醫科大學を卒業して、明治45年・大正元年(1912)1月、衛生学教室(緒方正規教授)の研究生となります。森鴎外の勧めで、皮膚科教室(土肥慶蔵教授)に入室するのは、7月になってからのことでした。

土肥教授と皮膚科泌尿器科病室

♪杢太郎も同世代の啄木の病は、気掛かりで、卒業する前で、まだ一人前の医者とはいえないまでも、求めに応じて、診察したのでしょう。

♪啄木の「明治四十四年当用日記」の2月3日、4日には、啄木が杢太郎に診察して貰い、入院する経緯が次ぎのように記されています。

二月三日 晴 温

午前に太田正雄君が久しぶりでやつて来た。診察して貰ふと、矢張入院しなければならぬが、胸には異常がないと言つてゐた。そのうちに丸谷君が来、土岐君が来た。雑誌のことはすべて予の入院後の経過によつて発行日その他を決することになった。夜、若山牧水君が初めて訪ねて来た。予は一種シニツクな心を以て予の時世観を話した。声のさびたこの歌人は、「今は実際みンなお先真暗でござんすよ。」と癖のある言葉で二度言つた。

二月四日 晴 温

今日以後、病院生活の日記を赤いインキで書いておく。どうせ入院するなら、一日も早い方がいい。そう思つた。早朝妻が俥で又木、太田二君を訪ねたが要領を得なかつた。更に予自身病院に青柳学士、太田君を訪ねたが、何方も不在。午後に再び青柳学士を訪ねてその好意を得た。早速入院することにして、一旦家へかへり、手廻りの物をあつめて二時半にこの大學病院青山内科十八号室の人となつた。同室の人二人。夕方有馬学士の診察。夕食は普通の飯。病院の第一夜は淋しいものだつた。何だかもう世の中から遠く離れて了つたやうで、今迄うるさかつたあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになつた。長い廊下に足音が起つては消えた。本を読むには電燈が暗すぎた。そのうちにいつしか寝入つた。入院のしらせの葉書を十枚出した。

◆◆◆

♪入院当時、啄木が住んでいたのは、本郷區弓町二―十八新井喜之床)方の二階で、杢太郎は、小石川の白山御殿町一〇九番地に住んでいました。いまの「本郷通り」を、啄木と杢太郎は、行き来していたのかもしれません。それにしても、普段、俥など使ったことがないと思われる啄木の妻が、夫の一大事に入院を頼み廻る気持ちは、どんなものであったのでしょうか。医薬料の工面もあって、さぞかし、辛いものがあったと思われます。

 

(平成17年4月24日 記)(平成30年8月29日 追記)

53. 石川啄木、慢性腹膜炎を患う

♪すがすがし春の光りを感じながら、この五月の連休に小石川植物園下の千川通りから桜並木のある播磨坂を上がって、石川啄木の終焉地(文京区小石川5丁目11-7)(旧小石川区久堅町74番地)まで、散歩してみようと思っています。桜は、もう葉桜となっていますが、雨に濡れ、光りを反射する新緑の桜並木も美しいものです。

♪小石川植物園内には、旧東京医学校本館遺構(現・東京大学総合研究博物館小石川分館)があり、小石川久堅町(ひさかたまち)は、三宅秀が住んだ小石川竹早町(81番地)にも近い町です。

◆◆

♪平成17年4月19日付の『東京新聞』によると、「播磨坂さくら並木」に緑色の桜の木が1本あるそうです。この桜は、サトザクラの一種で、「黄桜」の別名を持つ「ウコン」とのこと。明るい黄緑色をしており、中央の赤みが次第に増すそうです。そういえば、わたしの職場の敷地内にも、このような桜の木がありました。

 

♪播磨坂に出かける前に、『石川啄木全集 第六巻』(筑摩書房)から「明治四十四年当用日記」の部分をみておくことにしました。

♪啄木は、亡くなる前年(明治44年)の2月1日に東京帝國大學醫科大學の三浦内科(注1)で慢性腹膜炎の診断を受け、2月4日から3月15日まで、青山内科(注2)の18号室に入院することになります。

石川啄木が診察を受けた三浦内科の病室:左手の奥に東京医学校本館の時計塔が見える

 

日記」は、入院するまでの経過を次のように記しています。

一月二十七日  晴 温

五六日前から腹が張つてしやうがない。飯も食へるし、通じもある。それでゐて腹一帯が堅く張つて坐つたり立つたりする時多少の不自由を感じる。

一月二十九日  晴 温

何だか身体の調子[が変]だつた。腹がまた大きくなつたやうで、坐つてゐても多少苦しい。社に電報を打たせて休んだ。

二月一日 晴 温

午前に又木君が来て、これから腹を診察して貰ひに行かうといふ。大学の三浦内科へ行つて、正午から一時までの間に青柳医学士から診て貰つた。一目見て「これは大変だ」と言ふ。病名は慢性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事だつた。そうして帰つたが、まだ何だかホントらしくないやうな気がした。然し医者の話をウソとも思へない。社には又木君に行つて貰つて今日から社を休むことにした。
医者は少くとも三ヶ月かかると言つたが、予はそれ程とは信じなかつた。然しそれにしても自分の生活が急に変るといふことだけは確からしかつた。予はすぐに入院の決心をした。そして土岐、丸谷、並木三君へ葉書を出した。
夜になつて丸谷、並木二君がおどろいて訪ねて来た。

(注記)

(1) 三浦内科:(明治28―大正13)三浦謹之助教授が主宰した教室。三浦謹之助、東京大学医学部内科学教室(第一講座)の初代教授。

(2) 青山内科:(明治20―大正6年)青山胤通(あおやま・たねみち)教授が主宰した教室。青山胤通は、東京大学医学部内科学教室(第三講座)の初代教授。

(平成17年4月21日 記)(平成30年8月25日 追記)

52. 「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物):講談社内で発見、木下家から国立国会図書館へ寄贈

♪木下實氏(東京大学名誉教授)(木下凞の曾孫)より『先徳遺芳』」と題した冊子を贈っていただきました。(図1

図1.『先徳遺芳』表紙(木下實編・平成23年[2011]刊 私家版)
♪この冊子は,「『先徳遺芳』(木下文書)」の巻物が,国立国会図書館に寄贈されることになったのを機会に木下實氏によって編集されたものです。

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前書きに代えて

『先徳遺芳』は,曽祖父木下凞が残したもので,杉田玄白とその子孫から木下家の代々に宛てられた書翰などを集めた四巻の巻物である。三上参次先生(元東京帝国大学文科大学教授兼史料編纂)によって「木下文書」と命名された。ここでは巻物を開いて個々の文書に分けて収録した。

平成廿三年七月

木下 實

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♪冊子は第一部,第二部,第三部に分けて編集されています。原文と解読文とから構成されているのですが,木下實氏による補足説明もあり,巻末には,「木下凞・正中・東作の略年譜」も作成されています。『先徳遺芳』(木下文書)」(巻物)の全容を知る上で大変,貴重な冊子となっています。

第一部:原文[奉先記事][源淵寶墨][立卿・成卿先生遺墨][名士墨蹟][貴重書翰]

第二部:原文と解読文

第三部:収録資料目録(主に木下恭二保存の資料と文献から集めた資料)

付録一 木下家・杉田家系譜

付録二 木下家関係参考書

付録三 木下凞翁懐舊談(京都医事衛生誌,明治四十年)(文献1参照, 文献2参照)1)2)

補足資料集

木下凞・正中・東作の略年譜

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♪「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物は,昭和55年(1980)に木下正一(せいいつ)(木下正中の長男・木下實氏の伯父)から講談社野間科学医学研究資料館(当時の責任者は緒方富雄,理事は川喜田愛郎(よしお)[木下正中の娘婿・元千葉大学学長])に寄贈されました3)が、その後,野間科学医学研究資料館が平成15年(2003)に閉館され,その所在が確認できないでいました。

♪『先徳遺芳』の行方について木下實氏による継続的な探索の結果,巻物は,講談社内に,別置して大切に保管されていたことが確認されました。探索にあたっては、「江戸東京」でも、所在調査に必要な文献検索に協力させていただきました。

国際日本文化研究センター(京都)の「西洋医学史古典文献」(野間文庫)に行ったと思われていた巻物が東京に残されていたことがわかったのです。幸い保存状態が良く,痛みもなかったそうです。巻物が,眼前に現れたときの感激は如何ばかりであったでしょう。巻物と対面されたとお知らせをいただいたときは,発見できた喜びとともに、古文書の香りが,こちらまで伝わってくるようでした。

図2. 外函と内函の蓋の表裏(富岡鐡齋画伯の筆) [二重の桐函に巻物が収められている](写真:木下實氏提供)

図3. 『先徳遺芳』(木下文書)全四巻[写真:木下實氏提供] (内函のなかに四巻の巻物が収められている)
第一軸(題簽 「奉先記事」) [自序(明治卅七年八月 木下凞ひろむ謹識, 鐡齋富岡百錬代書)]

第二軸(題簽 「源淵寶墨」) [男爵石黒忠悳書簡翰(木下凞ひろむ宛 明治四十年五月二日):三上参次序 (明治四十年十一月念八日)・杉田玄白五世孫 武・杉田玄白翼書翰(木下宗伯宛)など]

第三軸(題簽 「立卿・成卿先生遺墨」 [杉田立卿・杉田成卿書翰]

第四軸(題簽 「名士墨蹟」) [川本幸民の書翰など]

 

♪「『先徳遺芳』(木下文書)」は,木下實氏からの依頼で講談社から木下家に返却(平成23年[2011]8月29日)されることになりました。その後,木下家での話し合いの結果,国立国会図書館に寄贈(平成23年[2011]9月16日)されることになったとのこと,川喜田愛郎先生も,さぞかし安心されたことと思います。

♪講談社からの返却時に,現物からの写真撮影が行われています。その結果,「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物(巻物)は国立国会図書館に,影写本が東京大学史料編纂所に,そしてデジタルデータが木下實氏の手元に,保管されることとなりました。文化財的な史料の永久保存,安全保管としては,万全の方策がとられたことになります。

講談社で撮影された『先徳遺芳』

◆◆◆

♪巻物は,二重の桐函(図2・図3)に収められているのですが,富岡鐡齋の筆による書(題字・函裏の書)(図4)も鮮明に読み取れます。木下正一によると,もともと,内函だけがあったものを,富岡画伯がその貴重さを思い,表函を作らせ,友人である木下凞のために,筆をとったとのことです3)。(文献3参照)

図4. 内函の裏書(富岡鐡齋画伯書)(写真:木下實氏提供)

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杉田玄白先生は,若狭小濵の藩,従って京都に住み,始めて西洋医学を唱えて海内を騒動す。偉人と言うべし。その子成卿業を襲え,連綿の盛,世の賞嘆するところなり。わが家の祖先,同藩の故を以て業を杉田家に受くる數世,故に子弟親密の交,朱陳も啻ただならず。これを以て平生質問往復書の夥き數うべからず,豈あに寶愛せざるべけんや。余その散佚を恐れ,整理して巻となし,以て子孫に伝う。蓋し胎厥孫謀(いけつそんぼう)の意,またこれに外ならず,是に於てか識す

明治四十二年五月 木下凞

友人鐡齋外史代書

注)胎厥孫謀(いけつそんぼう):父祖が子孫に遺すはかりごと

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「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物)国立国会図書館寄贈までの流れを下記にまとめておきます。

 明治37年(1904)8月:木下凞「自序」(富岡鐡齋代書)

 明治39年(1906)9月:三上参次により影写本「木下文書」が作成される(影写本は東京大学史料編纂所が所蔵

 明治40年(1907)11月28日:三上参次「序文」

 明治41年(1908)春:杉田武「書翰」

 明治42年(1909)5月:友人の富岡鐡齋 表函・内函の表題・裏書の筆をとる

 昭和31年(1956)3月4日:「木下文書」の一部が医家先哲追薦会4)5)(場所:日本医師会館大講堂・大食堂)で展覧・陳列される

[安西安周の求めによって木下正一が提供する]6)(文献6参照)

 昭和55年(1980):木下正一から野間科学医学研究資料館(講談社)へ寄贈(委託)される(文献3参照)

 平成15年(2003):野間科学医学研究資料館が閉館、資料は国際日本文化研究センター(京都)に寄贈(西洋医学史古典文献・野間文庫)されることとなる

(一時、行方不明)

 平成22年(2010)12月講談社(野間佐和子社長・当時)で発見される

 平成23年(2011)8月29日:木下實氏の依頼により木下家に返却されることとなる(このとき講談社で現物からの写真撮影が行われる)

 平成23年(2011)9月16日国立国会図書館に寄贈される。その後,国立国会図書館のOPAC(「木下文書」で検索)に登録,古典籍資料室に保管される。

平成26年(2014):国立国会図書館の企画展「あの人の直筆」で展示される。

その後、「木下文書」は、国立国会図書館でもデジタルコレクションに登録され、インターネット上で閲覧可能となる。

 

◆◆◆

♪第二軸(題簽 「源淵寶墨」)に,杉田武(1852-1920)(杉田玄端の長男,杉田本家7代)(杉田玄白五世孫)7)8)9)の書翰が収められています。(図5

図5. 杉田武(杉田玄白五世孫)からの書翰(写真:木下實氏提供)

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余曽て凞木下君と同窓の友なり,君の家世々余の家と師弟の交あり,君其家祖と余の家祖との間に往復せる書簡数通を秘蔵す,頃日君表装して永く家寶とせらる。啻ただに君の家の宝のみならむ,實に醫界の寶なり,謹みて誌す。

杉田玄白五世孫

明治四十一年春

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♪木下凞は,横濱時代(木下實著)(文献10)の明治4年[1871]から明治6年[1873]まで丸屋薬局(丸善の前身)に杉田武と同宿して,早矢仕有的の塾(靜々舎診察所)で勉学を共にしていました。このころから,木下凞は,木下家に伝わる杉田玄白や川本幸民などからの貴重な文書類を,後世に伝える方策を考えていたように思えます。立派な表装と二重の桐函によって,貴重な文書が,確かに,後世に伝えられることになるのです。

横濱グランドとヘボン邸

♪さらに「『先徳遺芳』(木下文書)」は,国立国会図書館に寄贈されたことによって,杉田武のいう「木下家の家寶」が「醫界の寶」となったともいえるでしょう。

♪杉田家にとっても寶といえる文書類が,国立国会図書館に収まったことを,木下凞と杉田武は,共に喜びあっているのではないでしょうか。

 

(平成24年9月3日 記す 平成30年8月18日 追記)

 

参考文献

1) 「木下凞翁懐舊談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

2) 「木下凞翁懐舊談 [承前]」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

3) 「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)

4) 「醫家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)

5) 「醫家先哲祭盛況―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)

6) 安西安周著:「蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註」.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)

7) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

8) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

9) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

10)木下實著:「曽祖父 木下 凞 ―横浜での生活―」(私家版)

51. 永利満雄氏からのメール:「京都駆黴院図」の発見

♪京都の永利満雄氏(京都府立医科大学臨床検査部・元京都府立洛東病院臨床検査室勤務)より,「江戸東京」の木下凞(ひろむ)に関する項を読んで,感想などのメールをいただきました。

♪永利満雄氏は,木下凞(ひろむ)が初代院長になった京都駆黴院(のちの京都府八坂病院)から発展した京都府立洛東病院(平成17年閉院)に勤務する傍ら,病院の歴史を調査1)2)。京都医学史研究会にも参加して,木下凞(ひろむ)に関する資料は,杉立義一先生(産婦人科医・故人)より得ていたそうです。

♪杉立義一先生は,『京の医史跡探訪』(思文閣出版)の著者です。わたしも京都の光悦寺や玉樹寺へ水原秋桜子の歌碑などを探しに行った折には参考にさせていただきました。

♪7年前の7月,夕立を避けながら木屋町通りを歩き,お洒落な喫茶店に飛び込んで,ひとり雨宿りした情景を思い出しながらメールを読ませていただきました。

♪メールには,昨年,青山霊園に木下凞(ひろむ)の墓所を探したが,あいにく見つからなかったこと,「江戸東京」の記事をみて,その場所を知ったことなども記されていました。「江戸東京」が,少しは,お役に立ったようです。

♪3枚の画像が添付されていました。貴重なものばかりでした。3枚目の写真は,『京の医史跡探訪』に「京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門」として掲載されていた写真と同じものでしたが,永利満雄氏が送ってくださったものは,そのオリジナル・プリントから作成されたファイルのようにも思えました。

1枚目:京都駆黴院を描いた日本画(部分)(京都国立近代美術館蔵)
2枚目:検査室内の様子を写したもの(部分)(永利満雄氏提供)
3枚目:京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門(永利満雄氏提供)

♪一枚目の日本画は,永利満雄氏が洛東病院の歴史調査の過程で病院の倉庫のなかで発見されたもので,その後,この日本画は,洛東病院の職員の方々の努力と,当時,兵庫県立近代美術館(現在・兵庫県立美術館の王子分館「原田の森ギャラリー」)の学芸員であった山野英嗣氏(現在・京都国立近代美術館・学芸課長)と木下直之氏(現在・東京大学文学部文化経営学教授),末中哲夫氏(当時・京都教育大学教授),杉田博明氏(京都新聞社),大橋乗保氏(田村宗立の研究家,当時・京都工芸繊維大学助教授),そして田村宗立の子孫である田村泰隆氏を紹介した原田平作氏(京都市美術館学芸員・のち大阪大学文学部教授)など,多くの方々の意志ある熱意と協力を得て,京都国立近代美術館に寄贈されることになったとのことでした。

京都国立近代美術館

場 所:〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町

電 話:  (075) 761-4111

♪「京都駆黴院図」は,国立近代美術館(東京国立近代美術館京都国立近代美術館国立西洋美術館国立国際美術館)のサイトに登録されており,作品全体をみることができるとありました。早速,国立美術館が管理・運営する「所蔵作品総合目録検索システム」を検索してみました。

♪「京都駆黴院図」は,田村宗立(たむら・そうりゅう)(1846-1918)の描いた絹本墨画で明治18年(1885)の作品であることがわかりました。背景には,東山の山並みが描かれ,八坂の塔もみえます。駆黴院全体も,診察室・病室まで非常に丁寧に描かれています。当時の京都駆黴院の規模,建築の様式などを知ることができるように思われました。

京都・八坂の塔(絵葉書)(平成26年6月29日 追加)

♪永利満雄氏に,この「京都駆黴院図」を洛東病院で発見してから,京都国立近代美術館に寄贈されるまでの経緯を書いた文献などがないか,お尋ねしてみました。すぐに返信をいただきました。メールとともに,発見した当時の新聞記事を送ってくださいました。

♪昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)3)は,永利満雄氏と宗立(そうりゅう)の孫・田村泰隆氏を取材して,次のように報じていました。

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府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に

「見つけたのは,府立洛東病院臨床検査室の永利満雄さん(33)。きっかけは京都医学史研究会の会員であり,たまたま,洛東病院の歴史を調べているうちに,病院の倉庫にホコリをかぶった絵をみつけて調査,病院の前身の駆黴院を描いた絵とわかった。」「制作年は明治十八年。ちょうど療病院から独立した時期で,これを記念に,当時,京都府画学校で,わが国に導入されたばかりの西洋画の教鞭をとっていた田村宗立(そうりゅう)に依頼されたらしい。山や木立などには,日本画の描法がうかがえるが,建物は百年前とは合理的な溝引きを使った建築設計図のような透視図の手法がとられている。」『京都の医学史』の編さんにあたった京都医史学研究会の杉立義一さんの話「駆黴院についてはこれまで,どういう規模でどういう活動をしていたかわからなかった。この絵で病院の規模もよく分かり,当時の医療活動をしのぶことができる貴重な資料だと思う。」

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♪なにしろ,永利満雄氏の「京都駆黴院図」を後世に残したいという強い思いが,兵庫・京都の美術館を中心とした田村宗立に関わる人々を動かし,医史学的にも貴重な日本画が京都国立近代美術館に残ったことは確かなことです。

♪明治14年(1881)1月19日,仮駆黴院にはじめて院長を置くことになり,このとき院長になったのが,木下凞ひろむ先生。祇園花見小路の4400坪の土地が京都府に寄付され,駆黴院が新築されることになり,翌年,明治15年(1882)11月24日に竣工・開院しています。

♪花見小路は,建仁寺の近くです。今年も祇園祭(八坂神社の夏祭り)の時期となり,「京都の動く美術館」4)といわれる絢爛豪華な様子がニュースで流れています。125年前の京都花見小路。病に苦しむ女性たち,そして,医師,看病婦たちは,どのような思いのなかで,八坂の祇園祭を迎えていたのでしょうか。

♪永利満雄氏からは,別便で,駆黴院に関する文献や明治期の病院の様子を写した写真などを送っていただいています。また,こちらでも東京から京都府八坂病院に派遣された医師についての調査を進めた結果,大正4年(1915)10月には,東京醫科大學皮膚科教室醫局(土肥慶蔵教授)から京都府八坂病院長として,三戸雄輔(みと・ゆうすけ)醫學士が赴任5)したことなどが,わかってきました。当時の皮膚科教室醫局には,太田正雄醫學士(木下杢太郎)が在籍していました。

♪宇野朗の関係で求めておいた『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』6)のなかの「思い出の写真」には,皮膚科醫局内で撮影された「大正4年10月 三戸雄輔 京都八坂病院長 赴任送別会」の集合写真が掲載されていることもわかりました。この集合写真には,土肥慶蔵教授と三戸雄輔醫學士が並んですわり,太田正雄醫學士も右端の出入り口付近に立って写っています。独特の雰囲気を感じさせる白衣姿です。

♪「江戸東京」は,いろいろなご縁で,京都と繋がりをみせはじめています。

参 考 文 献

1)    永利満雄,藤本文朗,渋谷光美. 京都東山の洛東病院の歴史を探る ―語られなかった歴史的事実にせまる―.「いのちとくらし研究所報」第28号,pp.38-47. 2009年9月.

2)    永利満雄.京都駆黴院の変遷について.「啓迪」第5号,pp.14-19. 昭和62年4月.

3)    ―府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に―.昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)

4)    八坂神社と祇園祭.「京」(日本新薬の広報誌) no.164. pp.14-19.(日本新薬「京」編集委員会編 平成22年7月23日発行)

5)    三戸學士の赴任(雑報記事).「皮膚科及泌尿器科雑誌」15(10):p.76.(大正4年10月)

6)    「思い出の写真」「同窓会々員名簿(東京大学医学部皮膚科教室泌尿器科教室[明治26年頃作成])」:『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』(東京大学医学部泌尿器科学教室編 平成14年)

(平成22年8月1日 記す 平成30年8月11日 追記)