50. 木下正中の息子たち:正一,恭二,謹三 ― 巻物「先徳遺芳(傳家寶墨)」:「木下文書」の継承 ―  

長男・正一[後列左から二人目],次男・恭二[後列右から3人目],三男・謹三[後列右端学生服姿] (前列中央が木下正中、左が妻の素子)(昭和7年撮影)(木下實氏提供)

♪木下正中(せいちゅう)(若狭小濱藩医・木下家五代目)と妻・泰子(やすこ)との間には,三男七女という大勢の子供がいました1)。お正月,三月の雛祭り,端午の節句,夏休みの葉山海岸や畑毛の別荘行きなど,華やかで,にぎやかな,日々であったことでしょう。

 長女・篤子(あつこ)(木下益雄室)

 次女・道子(みちこ)(7歳で病没)

 三女・直子(なおこ)(石川正臣(まさおみ)室)

 長男・正一(せいいつ)

 四女・宣子(よしこ)(栗原純一室)

 次男・恭二(きょうじ)

 五女・定子(さだこ)(楠 隆光室)

 三男・謹三(きんぞう)(戦没)

 六女・弘子(ひろこ)(川喜田愛郎(よしお)室)

 七女・静子(しずこ)

♪木下正中の三人の息子(長男・正一,次男・恭二,三男・謹三)は,いずれも東京帝國大學を卒業しています。正一は医学部,恭二は理学部(化学科),謹三は農学部(農芸化学科)と,それぞれ,自然科学系の別分野を学びます。医学部だけに拘らない正中の学問に対する視野の広さと息子たちに対する信頼が感じられます。

 

♪長男・正一(1901-1987)

明治34年(1901):6月24日 本郷森川町に生まれる。

昭和2年(1927):東京帝國大學医学部を卒業。九州大学産婦人科教室に入局。父・正中の弟子であった白木正博教授に学ぶ。

昭和7年(1932):木下産婦人科病院長となる。

昭和32年(1957):賛育会病院長となる。

昭和42年(1967):11月15日 婦人関係の諸問題に関する懇談会委員を委嘱される。

昭和62年(1987):3月8日逝去。享年85歳。

 

♪次男・恭二(1906-1995)

明治39年(1906):5月22日 本郷森川町に生まれる。

大正13年(1924):府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校)卒業。

昭和2年(1927):静岡高等学校卒業。

昭和5年(1930):鮫島実三郎教授の指導で卒業研究を行ない,東京帝國大學理学部(化学科)を卒業。

昭和15年(1940):横浜高等工業学校(のち横浜高等工業専門学校)教授となる。

昭和24年(1949):横浜国立大学工学部教授となる。図書館長・評議員をつとめる。

昭和38年(1963)文部省海外化学研究施設調査に派遣。

昭和47年(1972)横浜国立大学退官,名誉教授となる。新設の埼玉医科大学教授となり,正中の弟・東作の長男で,東大を定年退官した木下治雄教授とともに大学創設に尽力する。

昭和51年(1976):勲二等瑞宝章を授与される。

平成7年(1995):10月12日逝去。享年90歳。

 

♪三男・謹三(1911-1945)

明治44年(1911):7月1日,本郷森川町に生まれる。東京高等師範附属小学校・中学校卒業。静岡高等学校卒業。

昭和10年(1935):東京帝國大學農学部(農芸化学科)卒業。昭和産業株式会社に入社。麻布第三連隊に入隊。千葉陸軍通信学校卒業。

昭和13年(1938):藤井よし枝と結婚。

昭和19年(1944):北方派遣部隊に所属して,千島最北端の幌筵島(ほろむしろとう)・占守島(しゅむしゅとう)へ転属。

昭和20年(1945):4月19日,大誠丸で沖縄へむかう途中,北海道日高郡門別 村沖合で,米国潜水艦の攻撃を受け沈没。戦死。享年34歳。

♪この家族写真は,昭和7年(1932)に撮られています。この年,正一は,父・正中が経営する九段・一口坂の木下産婦人科病院を引き継ぎ,院長になるため,九州大学の産婦人科教室(白木正博教授)のから呼び戻され,東京に家族を連れて帰ってきました。

♪正中は,前列中央に座り,博多からやってきた孫娘・恵子を大事に抱きかかえています。恵子を挟んで,泰子も,やさしく微笑んでいます。泰子の後ろには,定子(五女),弘子(六女),そして正中の横には,静子(七女)が寄り添っています。

♪次男の恭二にとっても,この昭和7年(1932)は,節目の年でした。山本陽子と結婚。恭二の右手側に陽子が立っています。

♪三男の謹三は,東京帝國大學農学部の学生でした。後列,右端に学生服姿で立っています。謹三の隣に並んでいるのが,正一の妻・綾子(あやこ)です。

♪恭二が通った府立第五中学校は,大正7年(1918)の創立で,初代の校長には,伊藤長七が就任しています。この府立第五中学校が開校した巣鴨駕籠町あたり一帯には,かつて榊俶はじめ(東京帝國大學医科大学精神病学初代教授)が医長をつとめた東京府巣鴨病院がありました。現在の日本医師会館や文京グリーンコート・科研製薬(旧理化学研究所跡)があるあたりです。多くの樹木が繁った広大な敷地を有しました。

♪正中が,嫁の綾子に,「日本医師会館だよ。東京医師会館ではない。駿河台の方だよ。連雀町の方ではないよ」といって出かけたという日本医師会館は,駿河台から駒込の地に移ってきています。本郷通りと不忍通りが交差する上富士前交差点の近くです。不忍通りをはさんだ向こう側には,六義園(柳沢吉保下屋敷庭園跡)があります。

♪東京帝國大學を目指すような優秀な人材を多数輩出した歴史ある都立小石川高等学校(旧府立第五中学校)も,平成23年(2011)には,閉校される予定とのことです。(現在は東京都立小石川中等教育学校に完全移行されています。)

◆◆◆

♪正一(木下家六代目)には,木下産婦人科病院の経営とともに,長男として,木下家の家宝である巻物「先徳遺芳(傳家寶墨)」(明治四十二年五月)(木下家四代目 木下凞作成)を子孫に伝える役目がありました2)3)

♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家(若狭小濱藩医・初代・木下宗白)に代々伝わる杉田家(若狭小濱藩医・初代・杉田元伯)からの書簡や遺墨などを,表装して巻物にまとめたものです4)5)6)

 注)杉田家の第三代目が蘭書を翻訳して『解體新書』を刊行した杉田玄白(名翼,号 齋又九幸,享保18年(1733)9月13日生,文化14年(1817)4月17日卒,85歳)。

♪この「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,全4巻からなります。第1巻「奉先記事」,第2巻「源淵寶墨」,第3巻「立卿成卿先生遺墨」,第4巻「名士墨蹟」の4巻です。

講談社内で発見された「先徳遺芳」

♪その一部を影写したものが『木下文書』(影写本)(65丁 文書27点 1906年作成大きさ37cm)として東京大学史料編纂所に残っています。『木下文書』という題は,杉田家からの書簡類を,東京大学史料編纂掛に保存するため影写したときに,三上参次がつけたものです。

♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,二重の桐箱に収められ,表箱(外箱)の表題である「先徳遺芳」と内箱の表題である「傳家寶墨」の題字は,いずれも,木下凞と親交のあった富岡鐡齋画伯の書によるものです。

講談社内で発見された「先徳遺芳」

♪また,内箱に裏書された外史(明治四十二年五月),そして,「奉先記事」に収められている自序も富岡鐡齋が筆をとりました。それほどに,木下凞と富岡鐡齋との友情は深かったと思われます。「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,その内容とともに,富岡鐡齋画伯の書風を知る貴重な資料となりました。

♪このような,医史学的,文化遺産として貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,戦時中,安全に,保管することは,正中(木下家五代目)はもちろん,正一も,大変,神経を使ったと思われます。

♪戦災により,一口坂の木下産婦人科病院や正中が独逸から多数収集していた蔵書類などは,全て焼失してしまいます。そして,戦争で,なによりも,三男の謹三を亡くします。木下家にとって,たくさんの大切なものを失いましたが,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,残りました。

♪第二次大戦後,10年を過ぎた昭和31年(1956)3月4日(午後2時から午後4時),正一は,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,安西あんざい安周やすちか(日本医史学会理事)(筆名:杉野大澤)の求めに応じて,医家先哲祭に出品しています7)

♪医家先哲祭8)の主催は,日本医師会で,後援は,日本医史学会,日本医事新報社。会場は,日本医師会館の大会議室。遺墨などの陳列は,大食堂で行われました。このとき,緒方富雄が「蘭学の流れ」,安西安周が「杉田家系譜について」と題して,記念講演を行っています9)

♪「木下文書」を公開するのは,木下凞自身が,明治40年(1907)に京都医学会総会の医史料展覧会で一部を展覧して以来のことでした。

♪このような貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,どのような形で,後世へ伝えるかについて,正一は,次弟の恭二とも,相談していたのではないか,と思われます。

♪恭二の次男にあたる木下實氏によると,恭二は写真が趣味で,正中から贈られたローライフレックスのカメラで旅行写真や孫などを撮影。その腕前はなかなかだったとのことです。晩年を過ごした鎌倉のお邸には,そのアルバムが書斎に沢山あるとのことでした。

♪木下實氏よりメールをいただきました。その内容は,次のようなものでした。

鎌倉で父のアルバムの一部を調べていて,発見したことがあります。野間科学医学研究資料館が『木下文書』を受け入れたときのことを,同館が発行している『科学医学資料研究』第75号(昭和55年7月)に記載しています。ここに,木下文書全4巻の写真も載っているようです。また,この文書を受け入れたときの理事が川喜田愛郎であったようです。

♪早速,文献を取り寄せました。まさしく,探索していた文献でした。正一が,「先徳遺芳(傳家寶墨)」(いわゆる「木下文書」)を野間科学医学研究資料館に寄贈したいきさつが,詳しく書かれていました。全4巻の巻物を桐の内箱に収めた写真,富岡鐡齋の手による内箱の表題と裏書の写真が掲載されていました。探し求めていた巻物が眼前に現れた思いでした10)

傳家寶墨 (出 典:『科学医学資料研究』第75号 昭和55年7月15日発行)

♪昭和55年(1980),正一,恭二,川喜田愛郎(六女弘子の夫)らが協力して,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,「安全で,なお学究の徒がいかなる時でも閲覧可能な場所10)」に,寄贈したのでした。

♪ここに,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家の手をはなれて,公的な文化遺産として,後世に受け継がれることになりました。当時の,野間科学医学研究資料館の責任者は緒方富雄で,正一,恭二,謹三の義弟にあたる川喜田愛郎(元千葉大学学長)が理事をつとめていました。緒方富雄は,『医学用語集(第一次選定)』で,正中のもとで働いたこともありました。

♪講談社の支援を受けた野間科学医学研究資料館は,平成15年(2003)に閉館。その全資料が国際日本文化研究所京都)に譲られることになります11)

(その後の調査で、『先徳遺芳』は、講談社に保管されていることがわかり、木下家に返却され、現在は国立国会図書館内に寄贈されています。この経緯については後述します)

◆◆◆

♪謹三のすぐ下の妹が弘子(六女)です。弘子と川喜田愛郎との結婚は昭和11年(1936)のことで,その2年後の昭和13年(1938)に,兄の謹三が,藤井よし枝と結婚しています。謹三と弘子は,年が近いせいか仲がよかったようです。弘子は,兄謹三を「きんちゃん」と呼び,その思い出を次のように書いています1)

「サッカーが好きで,畑毛に行くと広い芝庭があったのでよくドリブルの練習をしていた。転げて芝だらけになって私も遊んだ。」

「謹ちゃんのおはなれの部屋と母屋の十帖の窓が向い合っていて,お互いにじゃれあって悪態ついていたのが懐かしい。」

「登山も好きだった。山岳部に入っていて,五万分の一の地図を数枚ケースに入れ,飯盒や水筒,米,塩,味噌などの入った大きなリュックをしょって,ゲートルをまいて出かけて行った姿が,目に浮かぶ」

♪木下實氏に提供していただいた森川町の木下邸の平面図によると,一階の中廊下で母屋と離れの部屋が,繋がっていました。

♪お庭には,四季折々の花々が咲き乱れ,蝶が舞い,鶯が鳴く。蛍が飛び,夏の夕暮れには蜩(ひぐらし)の蝉の声。満天の星。天の川。秋のはじまりを知らせる赤とんぼの群れ。本郷台地を吹き抜ける風。冬が来ると,庭木は雪化粧。そして霜柱。周辺には,枳殻の垣根を持った家もあったかもしれません。そんな,自然豊かな,森川町のお邸で,兄弟姉妹は,楽しい,青春のひとときを,過ごしたことでしょう。

♪天上の人となった謹三は,富岡鐡齋画伯による「先徳遺芳(傳家寶墨)」の題字を,北海道の空の上から,どのように見ているのでしょうか。兄や妹の夫となった方たちの努力によって,家宝が安全な場所に移され,後世に遺されたことを喜でいるのではないでしょうか。

♪木下家墓所は,青山霊園12)の1種イ21号16側13番にあります13)14)。杉田家第六代目にあたる杉田玄端の墓(1種イ1号22側1番)も,この青山霊園にあります15)。杉田家の墓域には,慶應義塾大学に『解體新書』を寄贈した杉田つる(玄端の孫)も眠っています16)

♪霊園内の外人墓地には,スクリバ(Julius K. Scriba)(東京帝国大学名誉教師)(北2種イ1側),シモンズ(Duane B. Simmons)(南1種イ4側)などの外国人医師たちのお墓もあります。

♪青山霊園は,桜の名所としても知られています。ちょうど,桜の季節を迎えます。園内を散策しながら,木下三兄弟に思いを馳せ,日本古来の山桜を探してみたいと思います。

 

参 考 文 献

1)「木下家三代電子版(私家版)」(木下實氏作成)

2)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

3)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

4)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

5)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

6)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

7)安西安周:蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)

8)「医家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)

9)「医家先哲祭―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)

10)「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)

11)『野間文庫目録』巻頭序:山折哲雄.国際日本文化研究センター(2005)

12)『青山霊園』(田中 きよし著)郷学舎,1981.(東京公園文庫33)

13)『東京掃苔録』(藤浪和子著)八木書店,1973.

14)「東都掃苔記(77)木下家の墓」 『日本医事新報』 No.1659.p.60.(昭和31.2.11)

15) 「東都掃苔記(84)杉田家の墓」 『日本医事新報』 No.1666.p.64.(昭和31.3.31)

16)『杉田つる博士小傳』石原兵永編.杉田追悼文集刊行会,1958.

(平成22年3月13日 しるす)(平成22年8月26日 訂正)(平成30年6月21日 訂正追記)

49. 木下正中一家の家族写真:父・凞,母・準子を囲んで

♪木下實氏から,本郷森川町の木下正中邸の玄関前で撮られた正中(せいちゅう)一家の家族写真をお借りしました。写真は,正中の父・凞(ひろむ)と母・準子(じゅんこ)を囲む形で撮られています。当時の正中は,東京帝國大學醫科大學・産科學婦人科學教授でした。

本郷森川町・木下正中一家の家族写真(大正2年頃)(木下實氏提供): 左から恭二,準子,定子(のち楠),正一,正中,凞,宜子(のち栗原),篤子(のち木下),謹三,泰子,直子(のち石川)

♪木下凞(ひろむ)(木下宗伯)(1844-1914)は,若狭國小濱(現在の福井県小浜市)の藩医・木下家の第四代目(「樹恵堂 じゅけいどう」)にあたります。同じく小濱藩医であった杉田玄白(1733-1817)をはじめとする杉田家とは,親交があり,木下家には,杉田家との往復書簡類などが,代々,伝わっていたそうです。

関連連載:小濱藩医:杉田家・木下家々譜

♪安政5年(1858),小濱から江戸に出て川本幸民(かわもと・こうみん)(1810-1871)に入門。川本幸民は,坪井信道(つぼい・しんどう)(1795-1848)とともに,青地林宗(あおち・りんそう)(1775-1833)の女婿の一人でした。木下凞(ひろむ)は,川本幸民のもとで,3年間,学んでいます。

♪その後,京都の広瀬元恭(ひろせ・げんきょう)(1821-1870)の私塾(時習堂)に転じます。元恭の死後,明治4年(1871),横濱で,杉田玄白の子孫である杉田武(杉田つる伯父・玄白五世)と居を共にしながら,ヘボン(James Curtis Hepburn)(1815-1911)やシモンズ(Duane B. Simmons)(1834-1889)から,英書および西洋医学の実地指導を受けています。また,藩命により長崎にも赴き,英書を学びました。木下凞(ひろむ)は,英学を中心に医術を学び,学問に生きた人であったようです。

横濱グランドホテルとヘボン邸(絵葉書)

♪明治6年(1873),京都療病院(現在の京都府立医科大学)に採用されたときから,京都に住み,明治9年(1876)6月3日,建仁寺内福聚院に仮駆黴院(駆梅院)が開かれたときには,検梅医員になっています。

♪明治10年(1877),医務取締,産婆取締となり,明治14年(1881)1月19日,駆黴院に院長が置かれることになったとき,木下凞(ひろむ)が,初代院長に任じられました。

♪明治18年(1885)以来,自宅(上京区麩屋町通り御池下る中白山町六番戸)で開業し,京都の産婦人科の中心人物として,京都医会に多大の功績をのこしました。

♪京都での診療を休止したのが明治44年(1911)3月,廃業したのが大正2年(1913)2月のことで、家族写真は,その後,東京へ移ってきた頃の写真だそうです。

♪洋間から運んだのでしょうか,椅子が3脚,庭先に間隔をおいて置かれます。その中央には,正中(木下家五代目)の父・凞(ひろむ),右手側に母・準子が座ります。そして,左手側に,明治44年(1911)生まれの謹三(きんぞう)(三男)を抱いた妻・泰子(やすこ)(下瀬謙太郎の妹)が座ります。

♪正中自身は,後列に,学生服姿の正一(せいいつ)(長男・木下家六代目)の右肩に手をかけて,立っています。

♪正中は,明治27年(1894),醫科大學4年生のとき,ペストが流行している香港へ調査・研究のため,青山胤通(あおやま・たねみち)(1859-1917)(内科学教授)に同行,助手・通訳として活躍しました。

♪正中の妻・泰子は,正中と東京帝國大學醫科大學で同級生の親友・下瀬謙太郎の妹でした。下瀬謙太郎は,陸軍軍医学校校長をつとめた人物で,東京帝國大學では,北島多一とも同級でした。

♪泰子が,学生生活を過ごした明治女学校は,麹町にありましたが,その後,巣鴨に移転しています。現在,巣鴨の明治女学校跡には,特別養護老人ホーム「菊かおる園」が建っています。

♪左端に着物姿に学生帽を被っているのが,恭二(次男)。お人形を持って,祖母(準子)に身を寄せているのが,定子(五女)。後列の篤子(長女)の前に立つのが,宣子(よしこ)(四女)。右端に立つ直子(三女)と同じように,頭にかわいらしくリボンをのせています。

♪足元には,門から本玄関へと続く飛び石がみえます。門構えといい,庭木といい,大正初期の古きよき時代の日本家屋がみえます。この写真が撮られた本郷森川町界隈には,まだ,江戸の風景が残り,映世神社の境内は,樹木で鬱蒼としていたのでしょうか。

♪画面には,自然のやわらかい光が溢れ,正中の家族に対する愛情が感じられます。

♪写真が撮られた本郷森川町の木下正中邸跡は、現在、「旅館・鳳明館森川別館」(東京都文京区本郷6-23-5)となっています。

 

参考文献

1.「木下文書」(東京大学史料編纂所蔵):自序(木下凞ひろむ)
2.「木下家三代電子版」(石川純・栗原純夫編集の私家版を木下實が電子化したもの)
3.「木下凞(ひろむ)について」「木下正中」「木下文書について」(木下實著)
4.「京都の医学史」(京都府医師会医学史編纂室,1980)
5.「青山胤通」(青山内科同窓会,1930)

(平成22年2月7日 記す)(平成23年8月9日 訂正)(平成30年6月18日 追記訂正)

48. 木下實氏からメールをいただく:木下正中と「木下文書」

♪「江戸東京」を読んだ感想を、木下實(きのした・みのる)氏(東京大学名誉教授)からいただきました。木下實氏は、明治33年(1900)4月に濱田玄達のあとを継いで、東京帝國大学醫科大學の産科学・婦人科学教室主任(教授)となった木下正中(きのした・せいちゅう)(1869-1952)の孫にあたられる方です。

木下 正中(出典:「産科と婦人科」5巻7号[巻頭頁]昭和12年)

 

若き日の木下正中

 

♪メールには、木下正中が、スクリバ、ベルツの指導を受け、醫科大學を卒業後、すぐにスクリバの助手となったこと、杉田玄白と同じく若狭國小濱の出身であること、本家には、杉田家(玄白、白玄、立卿、成卿、廉卿)から木下家に宛てた書簡が保管されていたこと、その書簡を、曾祖父の木下煕(きのした・ひろむ)が、三上参次にみせ序文を識してもらっていること、三上参次が、これを「木下文書」と名付けたこと、また、晩年に、木下正中は、医学用語に関心を持ち、日本医学会医学用語整理委員長を務め、「医学用語集」を刊行、「世界医学人名辞典」の編纂にも着手したことなどが書かれてありました。

小濱市街全景(絵葉書)

♪「江戸東京」では、『解體新書』や、その翻訳のもととなった蘭訳本、独逸原本など「ターヘル・アナトミア」に関するすべての原典を慶應義塾図書館に寄贈した杉田鶴子(杉田玄白の子孫)の事績や、東京大学史料編纂所に関係の深い三上参次のことも取り上げていましたので不思議な縁を感じました。

♪その後、木下實氏からは、お忙しい中、何度もメールをいただき、木下正中が、教授を退任した後は、浜町産婦人科病院(日本橋浜町三丁目)を、関東大震災後は、木下産婦人科病院(麹町九段)を開設・経営したことなども、ご教示いただきました。浜町産婦人科病院のすばらしい外観写真も拝借できましたので、「江戸東京」のなかで、紹介させていただけたらと思っております。

♪木下實氏からのメールによって、「江戸東京」が、杉田玄白、緒方洪庵の流れとともに、産婦人科学の歴史の流れをつくり、医学用語を扱うシソーラス研究会とも繋がってきたようにも思われ、不思議な縁を感じます。

♪さらに不思議なのは、木下産婦人科病院の場所を特定しようと思い、現在の市ヶ谷駅周辺や一口坂あたりの古地図をみていて、榊俶(さかき・はじめ)(東京帝國大学醫科大學初代精神病学教室教授)の次弟である榊順次郎が経営していた榊病院(産婦人科)の病院の印をみつけたことです。いままで、不明だった榊順次郎の病院の場所が特定できたのでした。産婦人科医の榊順次郎と木下正中が麹町でつながりました。なにかに導かれているような思いです。

九段坂からニコライ堂を望む

♪木下正中の生まれ故郷である小濱(旧福井県遠敷郡小濱町西津)、小学校時代を過ごした京都、学生・教授時代を過ごした東京本郷台町・森川町、教授退任後、晩年にかけて過ごした日本橋浜町、麹町・九段界隈の風情。そして明治初年から昭和初期にかけての小濱、京都、本郷への思いが、木下實氏のメールで浮き上がってきました。

 

♪小濱藩の侍医であった木下家の事績、そして「木下文書」の調査など、「江戸東京」は、最新のデジタル通信技術を利用し、いろいろな方々の助けを借りながら、原典探索、散歩の範囲を、徐々に広げてゆけたらと思っています。

 

(平成22年1月15日 記)(平成30年6月18日 追加)

47. 榊順次郎の墓

墓石の場所:染井霊園(東京都豊島区駒込5-5-1)1種イ5号5側

正 面:榊家墓
裏 面:西暦紀元一千九百十五年(大正4年は、弟順次郎が長兄俶の準[順]養子となった年にあたる)7)8)

♪東京帝國醫科大學(現在の東京大学医学部)の初代精神病学教室教授をつとめた榊俶(さかき・はじめ)には,二人の弟がいました。順次郎と保三郎です。

榊 順次郎(1859-1939)7)
榊 保三郎(1870-1929)8)

♪二人の弟とも東京帝國大學醫科大學を卒業し,順次郎は産婦人科学を保三郎は兄・俶と同じ精神病学を専門として巣鴨癲狂院に勤務したのち,九州帝國大學醫科大學の教授となっています。

♪榊三兄弟の父は,榊綽(ゆたか)(令輔 れいすけ・令一)といい,開成所時代には活字御用をつとめ,明治元年(1868)には駿府に移り,静岡学問所教授から沼津兵学校三等教授方並(図画方)に転じています。和蘭商館長から幕府に贈呈されたスタンホープ印刷機は,沼津に運ばれて,榊綽が操作したといわれています1)2)

♪榊俶の妹で岡田和一郎に嫁した徳子によると,父・榊綽は杉田梅里(成卿)の塾で呉秀三の祖父・箕作阮甫と同門であり,その縁で,呉秀三の姉・りき(のち日高秩父(ひだか・ちちぶ)氏夫人)は榊俶の洋画の弟子であったとのことです3)

♪榊綽の長男・俶が,沼津兵学校附属小学校に通ったことは,「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」4)のなかで触れましたが,弟の順次郎も,この沼津兵学校附属小学校の出身であり,また杉田玄端の息子の雄(いさお),盛(さかり)も,同附属小学校に在学して医者となったことは木下實氏(東京帝国大学医科大学産婦人科教授木下正中(きのした・せいちゅう)の孫、東京大学名誉教授)からのご教示ではじめて知りました。

♪さらに,宇野朗(ほがら)(帝國大學醫科大學第一醫院・外科学,繃帯学・皮膚病及黴毒學担当)(皮膚病黴毒科講座初代教授)も杉田玄端の塾にいたことが,『宇野朗覚書』(私家版)でわかりました。

♪『宇野朗覚書』は,以前に,宇野朗三上参次(みかみ・さんじ)の子孫である宇野彰男氏から,そのコピーをいただいていたのですが,杉田玄端の事績を調査していて,なぜか,気になって,ファイルを開いてみたのです。すると,そこには,維新後,杉田玄端が江戸の杉田塾をたたんで,塾生の宇野朗とともに三島を経て沼津に移る様子が書かれていました。磁力が働いて文献に引き寄せられた思いがしました。

♪それと,木下家と杉田家の墓所の文献調査の過程で,榊順次郎の墓の所在がわかりました。安西安周(あんざい・やすちか)(医史学者)が,杉野大澤の筆名で『日本医事新報』誌に「東都掃苔記」を長期連載していました。大変な労作で,第1回「土肥家累代之墓・片山家之墓」(昭和29年8月28日発行)5)から第100回「宇野家の墓・清野家の墓」(昭和31年7月21日発行)6)まで続くことになります。

♪その第49回(第1631号)7)と第50回(第1632号)8)で染井霊園にある榊家の墓所が取り上げられ,榊順次郎の墓についても,詳しく書かれていました。安西安周が榊家と姻戚関係にある緒方規雄(おがた・のりお)(千葉医大細菌学教室初代教授)(緒方正規[まさのり]の息子)に話を聞いたものでした。榊俶の姉(長女)である小梅が緒方正規(東京帝國大學醫科大學衛生学教室初代教授)の妻であったため,緒方規雄が情報を提供したものと思われます。(なお千葉医大細菌学教室の第3代教授が,木下正中の六女・弘子(ひろこ)を妻にした川喜田愛郎(よしお)です。)

♪記事7)8)によると,大正4年(1915),榊保三郎は,長兄・榊俶の準[順]養子となり,榊順次郎は別家をたてて,墓所も別地に設けたとありました。

♪杉野大澤は,榊順次郎について,つぎのように書いています7)。

「順次郎博士は綽翁の次男として安政六年六月十三日生,初め横須賀の造船学校に学んだが,その廃校によって東大醫學部の別科生となり,荒木[寅三郎]・遠山[椿吉]・金杉[英五郎]諸博士と同期に卒業した。」注)

「婦人科千葉稔次郎教授の助手となり,教授の死後私費を以て獨乙に遊学,帰朝後は四谷、次に市ヶ谷見附に産科婦人科病院を開設し,併せて半蔵門に産婆学校を設けた。」

(注)荒木は荒木寅三郎(京都帝國大學総長・学習院院長),遠山は遠山椿吉(東京市衛生試験所長・東京顕微鏡院院長),金杉は金杉英五郎(東京慈恵会医科大学初代学長)

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♪すっかり,葉桜となった平成22年(2010)4月25日(日)に染井霊園を訪ねました。染井霊園には,染井通りの突き当りの正面入口から入り,巣鴨方面へ抜ける広い墓道(南そめいよしの通り)を進みました。三上参次の墓(1種イ13号1側)をお参りしてから,二葉亭四迷(1種イ5号37側)の墓への案内標柱がある細い墓道へ入りました。

♪二葉亭四迷の墓を左手にみて,やや進むと右手に「榊家墓」と刻まれた立派な墓石があらわれます(1種イ5号5側)。そこが,榊順次郎の墓でした。いつも,この墓所の前を通るときに,榊俶の榊家とは,どのような関係にある墓なのだろうかと思っていました。墓石の裏面には「西暦紀元一千九百十五年」と刻まれていました。西暦1915年は大正4年にあたります。この榊家の墓は,大正4年(1915)に榊順次郎が分家した時期に建てられたものと思われます。

♪榊順次郎は,昭和14年(1939)11月16日に狭心症で亡くなっています。享年80歳でした。

♪榊順次郎が市ヶ谷見附(九段)に開業した榊病院の場所9)は,木下正中が経営した木下産婦人科病院を調べていて確認できました。さらに業績については,緒方正清が著した『日本産科學史』10)のなかに,木下正中と並んで掲載されていることもわかりました。

♪榊順次郎は,『脚気病ト穀物トノ原因上関係』(明治25年12月出版)(丸屋善七発売)を著し,脚気論争にも関係した人物です。

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♪緒方洪庵の墓所からはじまった「江戸東京」の散歩は,点が線になりつつあります。

参 考 文 献

1)『沼津兵學校及其人材 -附属小學校並沼津病院-』(大野虎雄著 昭和14年刊 田中屋印刷所)

2)『旧幕臣の明治維新 -沼津兵学校とその群像』(樋口雄彦著)(歴史文化ライブラリ― 201)(吉川弘文館 2005)

3)岡田 徳子:岡田和一郎の思い出(5)-結婚の媒酌‐.『日本医事新報』 第1466号,p.36-37. 1952.

4)堀江 幸司:「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」医学図書館 43(3):361-368. 1996.

5)杉野大澤:東都掃苔記 [1] 土肥家累代之墓・片山家之墓. 『日本医事新報』第1583号,p.34. 1954.

6)杉野大澤:東都掃苔記 [100] 宇野家の墓・清野の墓. 『日本医事新報』 第1682号,p.52. 1956.

7)杉野大澤:東都掃苔記[49] 榊俶の墓,榊順次郎博士の墓.『日本医事新報』第1631号,p.52. 1955.

8)杉野大澤:東都掃苔記[50] 榊保三郎博士の墓,緒方正規先生の墓.『日本医事新報』第1632号,p.114. 1955.

9)九段上の電車通り(新東京・医学きまぐれ散歩).『日本医事新報』 第1466号,p.37-38. 1952.

10)『日本産科學史』(緒方正清著 大正8年刊 丸善)

(平成22年5月15日 記す)(平成30年6月9日 訂正)