44. 榊俶:ドイツ留学・相馬事件そして死

♪榊俶は、榊綽(ゆたか)(令輔)の長男として、安政4年(1875)8月28日、江戸下谷に生まれました。1)2)3)4)5)6) 父・榊綽は、開成所において蘭学の教師を務め、活版・銅版を初めてわが国に広めた人物です。

榊俶肖像
榊俶肖像画

 

♪榊俶は、幼名を善太郎といい、のち俶と改め、明治元年(1886)、両親について駿府に行き、静岡藩学に入りました。沼津に移転後、沼津小学校に入り、卒業後、杉田玄瑞、石橋好一等の門で英語を学んでいます。

♪明治5年(1872)、東京に出て、下谷和泉橋畔の三崎嘯の塾に入って濁逸語学を講習しました。同年10月に東京第一大学医学校医科予科生となって、明治7年(1874)に基本科に進み、明治13年(1880)3月18日、東京大学医学部(第一次)を卒業、5月31日、東京大学医学部雇となりました。明治14年(1881)7月12日、医学士の学位を受け、同月15日、東京大学準判任御用係に任じています。第一医院眼科担当医として眼科学を研究し、井上達也(神田駿河台眼科医)の依嘱によって診察したこともありました。

♪明治15年(1882)2月2日、ドイツに学び、ベルリン大学で精神病学を専攻、ウィルヒョウ(Rudolf Ludwig Karl Virchow, 1821-1902)の病理学教室では、神経系統の病理解剖を研究しています。当時のドイツへの留学生の中には、森林太郎(鴎外)、青山胤通、片山國嘉などがいました。

独逸留学記念(出典『青山胤通』鵜崎熊吉著)    

後列左から:佐藤三吉、青山胤通、榊俶、加藤照麿、三浦守治、中島一可、佐藤佐、小金井良精 

前列左から:宮本仲、伊東盛雄、樫村清徳、佐々木政吉、橋本綱常

 

♪森鴎外は『濁逸日記』の中で、榊俶について次のように書いています。

「・・・名を榊俶といふ。身の丈高く色白く、洋人に好かるる風采あり。故郷一婦あるをも顧みずして、巧に媚を少女に呈した。・・・」 (『濁逸日記』明治十八年九月二十七日)7)

♪榊俶は、明治19年(1886)10月20日、帰朝後、帝国大学医科大学にはじめて精神病学講座を設け、11月11日、その教授となり、東京府巣鴨病院(小石川区巣鴨駕籠町・現在の文京区本駒込6丁目)を監督することになります。

♪明治20年(1887)4月19日には、相馬疑獄事件において、相馬誠胤(ともたね)子爵の精神鑑定を主任医として行い、ベルツ(Erwin von Baelz, 1849-1913)(帝国大学医科大学教師)および佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、この鑑定に同意することになります。8)32歳のときのことでした。

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♪榊俶は、明治29年(1896)夏頃より咽頭の病気にかかり、金杉英五郎(東京慈恵会医科大学<旧制>初代学長、耳鼻咽喉科の草分け)らの治療を受けますが回復せず、第一医院へ入院、明治30年(1897)2月6日午後1時半、41歳の若さで亡くなることになります。9)

♪死の前日の午前9時、三浦守治病理学教授が病床を見舞いました。このとき、榊俶は「我病屌にして多少医学に資することを得ば本望なり。吾が死したる後、願くは大学々生諸君の眼前にて、遠慮なく思ふ存分に解剖して呉よ」と遺言したといいます。10) 剖検は、三浦教授の執刀によって6日午後2時45分着手され、4時45分に終わりました。病理解剖診断は食道癌、顕微鏡診断は偏平上皮癌でした。それにしても若く、惜しまれる死でした。

♪病院・大学業務の多忙、そして相馬事件の裁判では、自身の家庭問題(親に毒を盛った疑義)11) も持ち出され、心労も重なっていたのではないかと思われます。

榊俶の剖検をした三浦守治教授

♪葬儀は9日に行われました。12) 葬列は1千人を超え、午後1時に駒込西片町(現在の文京区西片2丁目)の邸宅を出発、駒込通り(現在の本郷通り)に出て追分を左折し、駒込曙町(現在の文京区本駒込2丁目)より東京府巣鴨病院前を通り、染井墓地に向かいます。濱田玄達(医科大学長)が弔辞を読み、呉秀三(精神病教室総代)、田口和美(東京医学会総代)が、これに続きましした。13)14)15) 家族、親族、会葬者の焼香のあと墓地に葬られました。大きな染井吉野桜の木々が傍に立つ場所でした。

関連連載:第38回 染井霊園 榊俶の墓

♪翌明治31年(1898)、遺像の制作が計画され、12月5日午後3時より、その建像式が医科大学精神病学教室において挙行されています。発起人の片山國嘉(有志者代表)の式辞に続き、菊池大麓(東京帝国大学総長・理学博士)の告文朗読があり、その後、遺族を代表して榊保三郎の謝辞を述べ、小金井良精(よしきよ)の決算報告をしたとのことです。16)

♪榊俶のあと、精神病学教室の教授となったのが、呉秀三で、三代目が三宅鑛一(三宅秀の長男)17)となります。榊俶が若くして亡くならなければ、東京大学精神科教室の歴史も変わっていたかもしれません。

 

参考文献

1)故医科大学教授医学博士榊俶先生之傳(呉秀三謹撰).東京医学会雑誌 1897;11(5):220-30.

2)医学博士榊俶君略傳.東京医事新誌 1897;985:326-8.

3)金子嗣郎.日本の精神医学100年を築いた人々① 第1回 榊俶 臨床精神医学1978;7(11):1297-304.

4)岡田靖雄.榊俶:精神病学の礎石をおいた人.松下正明.続・精神医学を築いた人びと(上巻).東京:ワールドプランニング,1994.pp.147-59.

5)故医学博士榊俶先生(肖像).医事新聞 1909;791:口絵.

6)内村祐之.榊俶先生と東京帝国大学医学部精神医学教室の創設.精神神経学雑誌1940 ; 44.

7)濁逸日記.「鴎外全集」第35巻収載.東京:岩波書店,1975.pp.111-2.

8)故相馬誠胤子の病症を論す.国家医学 1892;1:3−30.

9)精神医学の泰斗榊博士矣.東京医事新誌 1897;984:283-4.

10)三浦守治.故医学博士榊俶君之病屌.東京医学雑誌 1897;11(5):187-9.

11)『新聞集成明治編年史』第9巻 p.41 (相馬事件と榊博士:親に毒を盛った嫌疑で疑更に深し[明治27年3月16日 日日]

12)榊博士の葬儀.東京医事新誌.1897;984:284.

13)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;984:284-5.

14)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;985:330-5.

15)故榊博士の祭文.東京医事新誌 1897;986:480-1.

16)故医学博士榊俶氏建像式.医談 1899;55:37.

17)福田雅代.桔梗:三宅秀とその周辺.神奈川:編者,1985.

(平成30年2月24日 追記)

43. 相馬事件:相馬誠胤の死因と墳墓発掘

♪相馬誠胤(そうま・ともたね)(1852-1892)(陸奥国中村藩六万石第13代藩主)は、明治25年(1892)2月22日の朝6時、「心臓麻痺」によって死去しました。

♪榊俶の病床日誌(手記)と相馬家が書いた[日誌]には、次のように記録(抜粋)されています。

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明治25年(1892)2月19日

[相馬家日誌]

大雪 午前6時半御起床 時々放歌あり 再三度看護室の處まで御出ありたり

8時頃に至り甘酒を飲して呉れよとて看護室に御出2杯斗召し上り

舌運動も充分ならさる如ら尿利増加して1時間に6、7回ありたり

2月20日

(榊手記)

診する時午後5時 患者安静に仰臥し精神少々興奮 頭部に充血の徴あり 眼光鋭くして言語活発なり。

訴えて曰く一週間前より咽喉大いに渇し飲を引くこと一回に一桝余尿量も亦甚だしく増加し一時間に6回の尿利をみる

四肢「チアイーゼ」を呈し皮膚乾燥、体温36度5分 脉博弱小にして108

又弱視を訴ふるに由り眼底を検す 静脈性鬱血あり 瞳孔は中等大にして反応なし 膝蓋腱反射機亢進(前日は消失せり)尿は透明淡黄色(蛋白・糖分)

[相馬家日誌]

午前7時30分御起床 午前8時中井[常次郎]氏来診 午後4時榊医学博士・中井医士来診

2月21日

(榊手記)

午後7時「ベルツ」氏と共に診 独語 言語応答不明 脉博百至心動き極めて微弱且不正[整] 体温36度2分 四肢の「チアイノーゼ」 口内乾燥舌苔あり 瞳孔は昨日に比して少し狭小なり 諸極めて不良

[相馬家日誌]

午前9時片山・中井両氏来診 中井医に向ひ便秘を訴へ「ひまし油」を請求せられたり 中井氏曰く御食事少料なれば随て便通なきは当然

2月22日

(榊・手記)

今朝6時心臓麻痺に由て逝く 今朝最後に得たる尿を検するに渾濁不透明にして亜児加里性の反応を呈し葡萄糖を含む但し蛋白質なし

[死の状態]

今朝4時 脉125 意識朦朧 時々反側し四肢の肉振 右側顔面神経の不全麻痺あり 遂に眠るが如くにして逝く

[相馬家日誌]

龍脳油を注射し稍々復蘇するも午前6時遂に終息す

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♪相馬誠胤が死去する前に診察した医師には次の人々がいました。

中井常次郎(東京府癲狂院長)
榊 俶(醫科大學教授医學博士)
ドクトル・ベルツ(醫科大學教師)
片山國嘉(醫科大學教授医學博士)

 

♪検視は山根正次(警察醫長)によっておこなわれました。山根は、明治15年(1882)医科大学を卒業して、明治20年(1887)司法省の命によりドイツ、フランス、オーストラリア、イタリア、イギリスの各国をまわり法医学を修めました。

♪『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)に、「明治二十一年於伯林醫學関係者」と題する写真が掲載されていますが、このなかに山根正次のほか、江口襄、森林太郎、隈川宗雄、片山國嘉の顔がみえます。前列左から二人目が山根正次、中央が片山國嘉 右から二人目が隈川宗雄、二列目左端が森林太郎、右端が江口襄です。相馬事件に関わった多くの医学者の顔があります。

 

♪主治医の中井常次郎が榊俶と連名で麹町区長宛に出された死亡届は、以下のようなものでした。

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死 亡 届

 

麹町區内幸町一丁目六番地 華族

相 馬 誠 胤 四十年

 

一 時発性躁狂兼尿崩及糖尿病

一 経過 十五年

一 心臓麻痺に由り当月廿二日午前六時死す

 

右拙者等施治患者に候處頭書之通死去候に付此段及御届候也

明治廿五年二月

 

芝區櫻川町九番地

主任醫 中井常次郎

本郷區西片町十番地

醫學博士 榊 俶

 

麹町區長宛

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♪この死亡届に疑義を持つものがありました。錦織剛清(にしごり・たけきよ)(旧中村藩士)です。誠胤の死が毒殺ではないかとして、順胤(よりたね)(異母弟)と家令志賀直道(志賀直哉の祖父)らを明治26年(1893)7月17日に告発します。

♪誠胤が死亡したときに臨検が行われ、その際に口中より流出した血液が警視庁に保管されており、その血液が証拠として分析されることになります。その分析に、相馬家では、当時、帝国大学医科大学で病理化学を担当していた隈川宗雄(くまかわ・むねお 福島藩出身)を立ち会わせたいと予審判事に申請するのですが、認められることはありませんでした。

♪9月8日朝7時、青山墓地に葬られていた誠胤の遺骸が発掘され、江口襄(えぐち・のぼる)が、胃部、心臓部などの局部を解剖し、毒殺の真偽を調べるための標本があつめられることになります。

♪解剖した江口襄は、明治24年(1891)6月に陸軍軍医学校において裁判医学(精神科)を講義していました。明治20年(1887)10月8日には、陸軍省より裁判医学および精神医学研究のためドイツに留学しています。東京医学校では森鴎外と同期で陸軍一等軍医正・警視廰御用掛(警察医長)を務めました。

 

陸軍戸山学校(絵葉書)

 

♪次回に当時の新聞から墳墓発掘の様子をみてみることにします。

(平成14年10月5日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

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♪明治26年(1893)9月14日付けの『郵便報知』は、青山墓地における相馬誠胤の墓の発掘の模様を以下のように報じています。

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発掘着手

準備整いて、午前七時に発掘に着手せり。午後四時に至り全く発掘を終え、棺蓋を開く。憲兵、巡査を遠ぞけ、総立ち会いにて棺の蓋を開けば、故誠胤氏は宛然(えんぜん)眠れるがごとく、ただ顔色蒼然たるを見るのみなりしという。

 

局部解剖

江口軍医及び田原技師は徐々に刀を取り、遺骸の要部なる胃部、心臓部等の局部を解剖し、分析に必要なる部分を取り、これを茶筒大の硝子瓶と長さ二尺五寸、高さ一尺位の厳重なる箱とにおさめ、その他棺中に流動したる濃液のごときものをもことごとく瓶中におさめ、しかして後、遺骸は元のごとく棺中に安臥せしめ、仮に蓋を覆い、立会人に引き渡し、墓地周囲の警戒を解きて、掛り官等は一同青山を引きあげたり。これが午後八時十分頃なりし。解剖に着手したるは四時三十分にして、これを了したるは午後七時なり。

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♪当時の青山墓地周辺(青山大膳亮:美濃郡上藩4万8千石下屋敷跡)は、田畑のほか樹木も多く、鬱蒼としていました。そんな中で、夕暮れ時から日が落ちてまでも解剖が続けられた模様です。

♪棺から遺骸を引きずり出し、異臭を放つ胃・心臓を摘出した江口の心境はどんなものだったのでしょうか。また、真相解明の裁判のためとはいえ、殿様の遺骸を掘り起こされた親族・家臣たちの思いを考えると胸がつまります。法医学の厳しさ、難しさを感じます。

(平成14年10月 6日 記)(平成30年2月13日 追記)

 

参考文献

1)『相馬実伝 晴天白日

2)『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)(石黒忠悳著 昭和11年)