35. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向かう(1)

場 所:玉樹寺:京都市下京区中堂寺西寺町

電 話:075-801-6052

句 碑:「産諭の月光雲をはらひけり」

♪水原秋桜子の句碑(『産論』句碑)が京都の玉樹寺(ぎょくじゅじ)にあることは、『京の医史跡探訪』(参考文献1)で知りました。

♪7月12日(土)は、研究大会の初日だったのですが、午後一番の発表である山崎茂明氏の「医学情報サービス大会を振り返って」と題する第20回大会記念講演を聞かせていただいてから、玉樹寺に向かうことにしました。

♪玉樹寺は、五条通の五条壬生川交差点を北へ上がり、一筋目の路地を右折して、その左手(北側)にありました。

♪あらかじめ訪問したい旨を連絡しておいたので、インターホンで来意を告げると、すぐに潜り戸を開けてくださいました。

♪水原秋桜子の句碑は、山門を入った左手に置かれており、本堂の前庭は、手入れがよく行き届いていました。また、句碑の向かい側には、「日本近代産科学のみなもと」の石碑(賀川玄悦顕彰碑)が建てられていて、その斜め後方には、賀川子玄(玄悦)の墓を中央に、左に賀川子啓、右に賀川子全の墓がありました。

♪前庭は、そんなに広くはないのですが、賀川玄悦の墓石、「日本近代産科学のみなもと」の石碑、水原秋桜子の句碑が、バランスよく配置され、「賀川玄悦の世界」を形作っているように思えました。

 

♪水原秋桜子の句碑は、水原豊(秋桜子)と東大産婦人科医局で一緒に学んだ丸山正氏の主唱によって、昭和53年(1978)5月8日に賀川玄悦の没後200年を記念して建立されたものです。

♪丸山氏は、ベルツの生誕地に秋桜子の句碑(注記1)(参考文献2)が建てられているのをみて、産科の鼻祖である賀川玄悦(かがわ・げんえつ)(1700-1777)の墓の近くにも、秋桜子の句碑があればと願い、その建立の実行委員長を『京の医史跡探訪』の著者である杉立義一氏がつとめたのでした。

♪青石の上が三角になった自然石に句は秋桜子の自筆で刻まれていました。碑石は、杉立氏が賀川玄悦の郷里である彦根の近くを流れる愛知川の自然石を取り寄せ、山科の渡辺石材店に刻字させたものだそうです。

「産諭の月光雲をはらひけり」(裏面:玄悦先生の二百年祭に当り有志これを建つ)

♪光悦寺の秋桜子の句碑はブロンズでしたが、玉樹寺の句碑は自然石に句が刻まれています。どちらの形にも、建立した方々の思いが込めれ、風景によく調和しているように思いました。

♪本堂前の縁側に座って、お寺の方と少しお話をさせていただきました。京都でも、ビルのなかに埋まったような近代的なお寺がでてきたそうで、玉樹寺のあたりもビルが立ち並び、寺町の趣が薄れつつあるとのことでした。

 

(参考文献1)

『京の医史跡探訪』(杉立義一著 京都 思文閣出版 1984)

(注記1)ベルツ生誕地の秋桜子句碑:「君によりて日本医学の花ひらく 秋桜子」

(昭和43年<1968>8月31日 石橋長英建立)(ビーティッヒハイム・メッター公園句碑)(南ドイツ、シュワーベン地方ビーティッヒハイム市立メッター公園内)

 

(平成15年8月4日 記)(平成29年10月31日 追記)

34. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(3)

♪光悦寺は、北大路バスターミナルの「Eのりば」(光悦寺・玄琢・西賀茂方面)の北1号系統(佛教大学・玄琢[げんたく])に乗って、鷹峯源光庵前(たかがみね・げんこうあんまえ)で下車。鷹峯小学校の前にありました。

京都市交通局

♪光悦寺の車道に面した入口から山門へと続く石畳の参道の両側には、楓の並木がトンネル道となるように植えられ、初夏の若葉とともに、秋の紅葉の時期にはさぞかし綺麗だろうと思いました。お寺に行って感動するというのもおかしな話しですが、光悦寺には、一般の伽藍が点在するお寺とは違い、庭園や鐘楼を持つ山寺という風情を感じました。

♪入口には、京都市によって高札風の説明板が立てられていました。


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光悦寺

大虚山(だいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。当地は、元和元年(1615)徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)が一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。
当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。

京都市
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♪境内に入って、まず、眼についたのが鐘楼でした。屋根は茅葺きで、このような鐘楼は、いままで、見たことがありませんでした。茅葺きの頂上には、瓦屋根も合わせた形となっていました。いまでは、大変に珍しい形の鐘楼と思われ、手入れの行き届いた庭園とよく調和していました。

♪すこし境内を進むと、大虚庵の茶席があります。日本を代表する光悦垣(こうえつがき)で囲まれていました。割竹を菱形に組んであり、茶席からも透かして向こうの様子が見られるようになっています。光悦垣の渋い竹の色と紅葉の彩りを想像して、なんと色彩と造形美に溢れたお寺なのだと思いました。

♪水原秋桜子の句碑は、大虚庵の茶席の前の露地を抜けた先の、交差点の樹木の下に置かれていました。句碑の横には、「チャアレス エル 布利耶 碑 MONUMENT OF MR.CHARLES L.FREER」と刻まれた大きな石碑がありました。

♪水原秋桜子の句碑のまわりは、葉で覆われ、注意して見ないと見過ごしてしまうほど小さな石に句が刻まれていました。

「紅葉せりつらぬき立てる松の幹 秋桜子」(裏面:「昭和四十年秋向日葵建立」)

碑 石:高さ68cm、巾70cm・67cm、厚さ25cm(鞍馬の真真石)
ブロンズ:縦29cm、横30cm(東京芸大・高原四郎氏製作)

♪境内には、観光客の姿は、ほとんど見当たりませんでした。ゆっくりした気分で、光悦翁墓所をお参りさせていただいたあと、庭園のはずれの茶席の縁側から、野村さんと、鷹峰三山(北山の山並み)を望んでいると、川のせせらぎが聞こえてきました。あいにく、川の方への道は、閉鎖されていて下りていくことはできませんでした。

♪幕末の京都で聞く山寺の鐘楼や川のせせらぎの音は、どんなものであったのでしょうか。争乱のなかにも、いまよりは、もっと澄んだ空気のなかで、人それぞれの思いのなかに、沁み入るような音であったように思いました。

♪水原秋桜子の句碑が、このような静かな趣のある光悦寺の庭園の一角に置かれている幸せを感じました。

(平成15年7月31日 記)(平成29年10月25日 追記)

33. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(2)

♪蛤御門から京都御苑に入ると、まず、その広さに驚かされました。観光客の姿は、ほとんど見当たらず、京都御所のまわりに敷かれた白砂利の上を歩いていると、まるで、誰もいない砂浜の上を歩いているような錯覚にさえ捕われました。

♪蛤御門から建礼門までの途中に、環境省京都御苑管理事務所が建てた「京都御苑のあらまし」の説明板がありました。

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京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700m、南北約1、300mのほぼ長方形をしており、このうち御所などを除いた約65haが「国民公園」として終日開放されています。苑内には約5万本の樹木が生育し、外周九門や、かつての公家屋敷の遺構も多く残っています。豊かな自然と歴史に恵まれた京都御苑は、御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史とのふれあいの場として多くの人々に親しまれています。
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♪江戸から明治に移る幕末に、和宮が、江戸に向かい、京の都のなかを浪士が走り回る。野村さんと、現在の「日本医学図書館協会」のはじまりとなった「官立医科大学附属図書館協議会」を昭和2年(1927)に提唱した新潟医科大学の清川陸男(むつお)は、清河八郎(幕末期の志士)(1830-1863)の流れを汲むようだと、新撰組の話などをしながら御苑内を歩き、京都迎賓館(仮称)建設地横を抜けて、寺町通・広小路通にでました。

♪京都府立医科大学附属図書館には、『日本医学図書館協会六十年略史』(日本医学図書館協会、1989)を執筆していたときに、一度お訪ねしたことがありました。歴史のある図書館で、そのときはまだ現在の新館が建設される前で、梯子のような階段を下りて書庫まで入り、古い資料などをみせていただいた記憶が甦ってきました。

♪今回の「第20回医学情報サービス研究大会」の実行委員長をつとめられる宮本小夜子さんと、実行委員のひとりである山下ユミさんにご挨拶を済ませたあと、一度、京都ガーデンパレスにもどって、近くの「九里九馬」で昼食をとることにしました。

♪「九里九馬」(くりくま)は、シソ研の京都通の方から教えていただいたお店で、護王神社前の下長者町通に面してありました。大正初期の商家を喫茶店としており、おばんざい定食が食べられました。[「九里九馬」(上京区室町通下長者町通西入ル近衛町25)2011.12.31閉店)
 

♪「九里九馬」で昼食を終え、烏丸通に平行して走る裏道を烏丸今出川まで歩き、地下鉄烏丸線で北大路駅まで行って、バス(北一系統)に乗り換えることにしました。いよいよ、目的地の水原秋桜子の句碑のある光悦寺に向かうことになります。

(平成15年7月27日 記)(平成29年10月22日 追記)

32. 京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:光悦寺に向かう(1)

光悦寺
場 所:京都市北区鷹峯光悦町29(鷹峯源光庵前下車)
電 話:075-491-1305
開園時間:午前8時から午後5時まで
閉園日:毎年11月10日より13日までの4日間

光悦寺にある水原秋桜子の句

「紅葉せりつらぬき立てる松の幹  秋桜子」

建立年月日:昭和40年(1965)10月24日
建立者:那須乙郎および向日葵同人及び会員同士

♪京都で開催された「第20回医学情報サービス研究大会」に参加・発表する機会をとらえて、水原秋桜子の句碑がある光悦寺(こうえつじ)と玉樹寺(ぎょくじゅじ)を訪ねてみることにしました。

♪光悦寺は、元和元年(1615)、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)(1558~1637)が徳川家康から拝領した土地に、芸術郷を築いたのがはじまりといわれています。鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)をみわたす景勝地にあり、「光悦垣」の竹垣で知られ、境内に散在する茶席を取り囲む紅葉がみごとで、京都でも知る人ぞ知るお寺のひとつとなっています。

♪この光悦寺の水原秋桜子の句碑は、『馬酔木』の500号を記念して、那須乙郎氏を中心とした向日葵の同人の方々の主唱で、昭和40年(1965)10月24日に建立されたものです。

♪光悦寺に、お訪ねしたい旨、確認したところ、水原秋桜子の句碑は、茶室大虚庵(たいきょあん)の前を抜けた庭園の一角に、昔のまま置かれているとのお話でした。

♪京都へは、研究大会の前日:7月11日(金)午前8時:東京発:新幹線(のぞみ45号)で、シソ研のメンバーのひとりである野村謙さん(湘南短期大学)とともに向かうことにしました。久し振りに東京駅から新幹線に乗ることになりましたが、駅構内も整備されて、JR山手線から新幹線への乗り換えは、上野駅よりも便利に感じました。

♪京都:午前10時15分着:地下鉄烏丸線(からすません)で丸太町駅まで行き、宿舎の京都ガーデンパレスに荷物を置いたあと、蛤御門(はまぐりごもん)から京都御苑へ入って、研究大会の会場となっている京都府立医科大学附属図書館に向かうことにしました。

♪蛤御門は、烏丸通りをはさんで、京都ガーデンパレスと向き合っています。蛤御門の門前に、高札風の説明板が建てられていました。

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蛤御門(はまぐりごもん)

・江戸時代末期の元治元年(1864年)(注)この門の周辺で、長州藩と、御所の護衛に当っていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました。
 この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っています。

・この門は新在家門といわれていましたが、宝永の大火(1708年)のさい、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。

(注)元治元年(1864年)は、佐久間象山が暗殺された年でもあります。

参考文献

1.『定本 秋櫻子句碑めぐり』(石橋ひかる著 東京美術 1981)

(平成15年7月16日 記)(平成29年10月22日 追記)