30. 水原豊(秋櫻子)の略歴

♪水原秋櫻子の本名は水原豊といい、明治25年(1892)10月9日、旧神田区猿楽町12番地に生まれました。芥川龍之介と同年です。生家は産婦人科医院を経営し、「二流どころの医院で、門内に桜の木があり、その落花が往来を敷いていた」といいます。

♪「家のあった場所は、現今の都電停留所の神保町と三崎町との中間で、東側である。往来はまだ電車が通っていなかったので幅五メートルほどであったろうか。町名は猿楽町というのであった。」

神田區神保町通り(帝都絵葉書)

♪水道橋駅から神保町交差点に向かう白山通りの左側の一帯は、明治のはじめから猿楽町と呼ばれていました。猿楽(さるがく)(のちの能楽)の家元・観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷がこの辺りにあったことから、猿楽町の名が起こったそうです。

♪父の岩橋熊三郎は和歌山の出身で、郷里で代用教員を務めたあと上京、本郷の済生学舎に入って医者になった人物です。産科医・水原実の養子となって漸(すすむ)と改名し猿楽町で産婦人科医院を開業していました。

♪水原豊は、「後年私が俳句を作るようになった萌芽は、祖父(母方・大谷木一(おおやぎ・はじめ))の方から授けられた」と書いています。父の漸(熊三郎)は「一生医師として働きつづけた人で、文芸その他芸術的なことには全く興味を持たなかった」そうです。

父・岩橋熊三郎(水原実の養子となり水原漸と改名)

母・治子(大谷木一の娘)ーーー祖父(旗本・大谷木一[安左衛門])・祖母(みか)

兄弟姉妹

姉:道子

姉:早世

長男:豊(秋櫻子)

弟:滋(しげし)

♪独逸中学(独逸学協会学校中学)で独逸語を学び、二浪して一高に進学、大正3年(1914)、東京帝国大学医科大学に入学しています。卒業後、大正8年(1919)1月、血清化学教室に入り、助手であった緒方益雄(緒方正規の息子 墓は染井霊園)の勧めで「木の芽会」(医学部出身者だけの俳句会)に入会し、俳句をはじめます。この年の4月には、東京師範学校教授・吉田彌平の長女・しづと結婚しています。

♪当時の血清化学教室教授は三田定則で、教室には古畑種基(のち法医学教授)、緒方富雄もいました。

♪大正10年(1921)4月、「ホトトギス」の雑詠欄(虚子選)に投稿した4句が入選し、5月には例会に出席するようになりました。

♪大正11年(1922)、東京大学俳句会を復活し、大正13年(1924)、血清化学教室から産婦人科学教室に移ります。

医科大学婦人科講義室(絵葉書)

♪入局した当時の産婦人科教室の主任教授は、磐瀬(いわせ)雄一でした。はじめ分娩病棟に配属され、のち医局長として活躍します。

♪昭和3年(1928)の秋、医局を辞し、震災後に建てた猿楽町のバラックの医院から神田三崎町の都電停留所前に新病院(西神田1-6)を開院することになります。その時、三田教授、磐瀬教授の推薦によって、上条秀介(青山内科出身)と石井吉五郎(佐藤外科出身)によって設立された昭和医学専門学校の産婦人科教授に就任、水原産婦人科病院は、京大で産婦人科講師をしていた弟の滋が手伝うことになりました。

 

参考文献

(1)「私の履歴書」:『水原秋櫻子全集 第十九巻 自伝回想』pp.245-294. 講談社、1978.

(2)「神田區勢要覧 昭和十年」(東京市神田區役所編)(国立国会図書館デジタルコレクション)

(3)「古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩」(人文社、2004)

(4)「明治生まれの町 神田三崎町」(鈴木理生著 青蛙房、1978)

 

(平成14年6月27日 記)(平成29年8月13日 追記)

29. 水原秋桜子(豊)の句碑と墓

1.水原秋桜子の句碑(東京大学医学部句碑)

東京大学本郷キャンパスのベルツ・スクリバの胸像の横(左手)に(水原)秋桜子の句碑が建っています。

胸像をぬらす日本の花の雨

水原秋桜子の句碑
画面右手の木の足元にあるのが句碑、その後ろにベルツ・スクリバの胸像が写っている

(平成29年8月11日 記す)

★★★

♪今日、時間があったので、図書館でベルツに関する単行本の文献を少し調べていました。『現代に生きるベルツ』(石橋長英著 日本新薬株式会社 1978)のなかに水原秋桜子のベルツに関する句の記載がありましたので、その一部を紹介しておきます。

君によりて日本医学の花ひらく

胸像はとわに日本の秋日和

秋空にかがやく歴史六百年

菊匂う国に大医の名をとどむ

生誕の夜の寒星を仰ぐべし

百年前君が仰ぎし夏の富士

♪東京大学本郷構内にあるベルツ・スクリバの胸像の横にある秋桜子の句碑がいつ建てられたのか、句碑の裏に年月日などが刻まれてないか、調べたかったのですが、句碑の周辺には木々の葉が生い茂っていて確かめることができませんでした。

(平成14年6月22日 記)

★★★

♪ベルツ・スクリバの胸像の傍にある水原秋櫻子の句碑について、その建立年月日、建立主唱者など、建立の経緯について詳しく記載されている文献をみつけました。石橋ひかる氏による『定本秋桜子句碑めぐり』(東京美術、1981)のなかにありました。(「東京大学医学部句碑」pp.354-361.)

建立年月日:昭和56年(1981)4月9日

建立主唱者:石橋長英

建立の趣旨:「わが国近代医学の基礎を築き、その発展と国際交流に大きく寄与したエルウィン・フォン・ベルツ先生の巧蓄を記念するため」

(平成29年8月19日 追記)

2.水原秋桜子(豊)の墓

場所:東京都立染井霊園(1種イ3号1側)

交通:JR駒込駅あるいはJR巣鴨駅から徒歩。

東京都立染井霊園医家墓所案内(堀江幸司作成

桜の染井霊園
雪の染井霊園
水原秋桜子の墓

♪染井霊園の場所は、東京都公園協会発行の「霊園案内図」によるとJR山手線巣鴨駅より徒歩10分とあります。巣鴨は「お婆ちゃんの原宿」として有名ですが、この巣鴨地蔵通りは旧中山道で、それと平行して走る国道17号(中山道)沿いにある「東京都中央卸売市場・豊島市場」の裏が、染井霊園になります。染井霊園の正面入口は、駒込駅前の六義園を起点とする染井通りにありますが、巣鴨方面からくると、染井霊園の裏口から入ることになります。

染井霊園入口(染井通りの突き当たり)
染井霊園の白山通り側の入口

♪このように染井霊園は、ちょっとわかりずらい所にあるのですが、この辺りは、染井吉野桜の発祥地として有名です。春になると霊園内に残る古木が淡いピンクの花をつけ、散った花びらは、花のじゅうたんをつくります。訪れる人もそれほど多くはなく、本来のお花見ができる数少ない場所の一つとなっています。

♪染井霊園には、著名人の墓も多くあります。岡倉天心、小河一敏、高田早苗、高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、宮武外骨、水原秋桜子などがあります。

高村光太郎・智恵子の墓

♪水原秋桜子は、俳誌「ホトトギス」で活躍した俳人 で、「馬酔木」を主宰したことで有名ですが、本名を水原豊といい昭和医学専門学校教授(産婦人科学)でもありました。

♪墓は霊園の正面入口から真直ぐ続く墓道の左手(1種イ3号1側)にあります。

(平成14年5月21日 記)(平成29年8月11日 追記)

28. 若狭小濱藩医:杉田家・木下家々譜

♪若狭小濱藩医であった木下家は,杉田家を師としており1)2)3),木下家には,杉田家からの書簡や遺墨,そして『解體新書』(安永三年 杉田玄白),『和蘭醫事問答』(建部清庵・杉田玄白 寛政七年),『形影夜話』(杉田玄白 文化七年),『梅里遺稿』(大槻修二編輯 杉田盛出版)などの著訳書類が,多数,残されていました。

若狭小濱名勝(陸の部
海陸の景勝に恵まれたる小濱市街全景
幕末の志士梅田雲濱先生之碑
幕末の志士梅田雲濱先生の銅像
忠烈綱女之碑
偉人伴信友翁の碑
小濱舊城跡
公園内佐久間大尉の銅像
奇蹟的伝説を残す八百比丘尼入定地

 

若狭小濱名勝 海の部(絵葉書)

勢濱海岸 岩上の松の奇勝(若狭小濱名勝)
湾内双兒島の絶景(若狭小濱名勝)
蘇洞門 唐船島の偉観(若狭小濱名勝)
蘇洞門 大門小門の奇勝(若狭小濱名勝)
蘇洞門 夫婦 岩の奇勝(若狭小濱名勝)
蘇洞門 □□穴の奇勝(若狭小濱名勝)
蘇洞門 □□門の奇勝(若狭小濱名勝)
小濱海水浴場(若狭小濱名勝)

♪杉田玄白は,平賀源内などとの交友,長崎屋(江戸の和蘭人定宿)を通して海外に目を向けながらも,同じ小濱藩医である木下家とは,終始,交流を続けていました。両家の強いきずなと人柄を感じます。

♪杉田玄白は,杉田家の三代目にあたり,杉田家からの遺墨などを子孫に残すために,巻物『傳家寶墨』を作成した木下凞(ひろむ)(宗伯)は,木下家の四代目にあたります。

 

杉田玄白(杉田家第3代)4) 

 

木下凞(ひろむ 木下家4代目)5)


♪東京大学医学図書館でみつけた雑誌『京都醫事衛生誌』のなかに,明治40年(1907)当時の杉田家と木下家の家譜を掲載した文献がありました
1)。この杉田家の家譜は,木下凞(ひろむ)が,杉田武(杉田家七代目)に聞き取り調査をしてまとめたもののようです。

♪明治のはじめ,開港したばかりの横濱。木下凞と杉田武,そして山田文友は早矢仕有的(丸善の創始者)がはじめた医学生の合宿所(相生町三丁目)で,共に学び,静々舎診療所(境町二丁目)では,共に診察した仲でした6)7)

♪杉田家と木下家の当事者による両家の家譜は,貴重な史料と思われます。今後の説明の参考になると思われますので,記録しておきます。

♪この杉田家々譜は,杉田玄端と武によって書かれた『杉田家記』[自筆稿本]8)に引き継がれたものと思われます。

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杉田家々譜

初代 杉田 玄伯  後改甫仙,元禄十五年始メテ酒井候ノ醫官トナル

二代 杉田 伯元  後改甫仙ほせん

三代 杉田 玄白  名翼,號鷧齋(いさい)又九幸(きゅうこう) 始テ蘭書ヲ翻譯シ解體新書ヲ刊行ス,
享保十八年九月十三日生,文化十四年四月十七日卒,八十五歳

四代 杉田 玄白  名勤,號紫石,始メ伯元,後玄白ニ改ム,實ハ奥州一ノ
関田村右京太夫侍醫建部清庵五男ニシテ,鷧齋(いさい)ノ長女ヲ
妻トシテ養子トナリ家ヲ継ク

五代 杉田 白玄  紫石ノ二男(長男ハ二十一歳ニシテ歿ス),明治七年卒,
六十九歳

六代 杉田 玄端9)  白玄ノ養子ナリ,幕府ニ召サレテ一家ヲ為ス

七代 杉田  武(たけし)  玄端ノ長男ニシテ家ヲ嗣ク,現ニ東京ニ在リ

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杉田分家

初代 杉田 立卿  名豫,號錦膓,為鷧齋(いさい)ノ庶子注)ナリ,藩主ニ願ヒテ分家ス,
生年月日取調中,弘化二年十月二十九日卒

二代 杉田 成卿  名信,號梅里,文政元年生,安政六年二月十九日卒,
四十二歳

三代 杉田 廉卿  名廉,成卿ノ養子,長女ヲ妻トシ,家ヲ嗣ク,實ハ駿河
沼津ノ醫家武田悌道ノ子ナリ,生年月日取調中,
明治三年二月二十日卒

四代 杉田  盛  廉卿ノ名跡ヲ相続ス,實ハ玄端ノ三男ナリ

 

注)正妻の子ではなく、妾の子。父が認知した私生児。

 

杉田分家

初代 杉田 玄端9) 幕府徳川家ニ召サレテ一家ヲ為シ,維新ノ際静岡藩
士族トナル

二代 杉田  雄(いさお)  玄端ノ二男ニシテ其後ヲ襲フ

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木下家々譜

初代 木下 宗白  木下芳章六男,名從縄,幼名章壽,隠居シテ是安ト稱ス,
明和七年生,天保二年卒,六十二歳

二代 木下 宗伯  名從敬,幼名宗三,隠居シテ春庵ト稱ス,文化三年生,
安政六年卒,實ハ村松氏,從縄甥ヲ養シ,長女ヲ妻ハシ
家ヲ継カシム

三代 木下 宗珀  名芳隆,幼名是作,隠居シテ春瑞ト稱ス,從縄三男ナリ,
長ハ皆天ス,從敬子ナシ,順養子トシテ家ヲ嗣ク,
文政元年生,明治十年卒,六十歳

四代 木下 宗伯  名凞ひろむ,幼名東作,春瑞二男,長ハ天ス,弘化元年生,
明治六年京都ニ徒住ス,同三十七年隠居

五代 木下 正中  凞(ひろむ)長男,明治二年生,同十六年東京ニ遊學,
同二十七年東京帝國大學醫科大學卒業,同三十二年大學奉職

木下 東作  凞ひろむ二男,明治十一年生,分家木下浦瀨ノ嗣トナル,
明治二十三年東京ニ遊學シ,同三十六年東京帝國大學
醫科大學卒業,後同大學院入學,又同醫化學教室助手
勤務,同三十九年大阪府立高等醫學校奉職

杉田玄端の息子たち

長男・杉田 (たけし)(嘉永5年7月15日生 大正9年12月31日没)

大学東校、明治9年(1876)アメリカ留学。紐育医科大学卒業。

二男・杉田 (いさお)(安政5年12月22日生 明治39年7月31日没)

沼津兵学校附属小学校卒、明治13年東大卒。第一医院外科当直医となり、その後、神戸医学校に移り、杉田医院を設立。

三男・杉田 (さかり)(元治元年5月27日生 昭和9年3月6日没)

沼津兵学校附属小学校に明治4年から6年にかけて在学。明治21年東大医科大学に進む。卒業後、神戸に移り兄の杉田病院を継ぐ。盛岡病院、横浜杉田病院にも関係したようです。

 

参 考 文 献

1)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)

2)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)

3)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)

4)『贈正四位杉田玄白先生事蹟』(和田信二郎述)巻頭肖像

5)「東都掃苔記(77)木下家の墓」:『日本医事新報』No.1659 昭和31.2.11号

6)「早矢仕有的年譜注)(7)」『学鐙』100(7):36-37,2003.

7)「早矢仕有的年譜注)(8)」『学鐙』100(8):34-35,2003.

8)「杉田玄白年譜」:『日本醫史學雑誌』第8巻(第3・4号)(杉田玄白140年忌記念特集号)pp.46-54.
(四)関係史料」:『日本醫史學雑誌』第8巻(第3・4号)(杉田玄白140年忌記念特集号)pp.33-40.

9)「杉田玄端小傳」:『松山棟庵先生傳』(松山病院 1943)pp.52-54.
________________________________________

注)「早矢仕有的年譜」(早矢仕民治編)の雑誌『学鐙』(丸善発行)への掲載号は以下の通りです。

(1)「早矢仕有的年譜(1)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料9)

[安政六年己未年(先生二十三歳)・万延元庚申年(先生二十四歳)]

『学鐙』100(1):34-35,2003.

(2)「早矢仕有的年譜(2)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料10)

[文久元辛酉年(先生二十五歳)・文久二壬戌年(先生二十六歳)]

『学鐙』100(2):36-37,2003.

(3)「早矢仕有的年譜(3)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料11)

[文久三癸亥年(先生二十七歳)]

『学鐙』100(3):34-35,2003.

(4)「早矢仕有的年譜(4)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料12)

[慶應元乙丑年(先生二十九歳)・慶應二丙寅年(先生三十歳)]

『学鐙』100(4):36-37,2003.

(5)「早矢仕有的年譜(5)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料13)

[慶應三丁卯年(先生三十一歳)・慶應四改元明治元戌辰年(先生三十二歳)]

『学鐙』100(5):36-37,2003.

(6)「早矢仕有的年譜(6)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料14)

[明治二年己巳年(先生二十三歳)・明治三年庚午年(先生三十四歳)]

『学鐙』100(6):36-37,2003.

(7)「早矢仕有的年譜(7)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料15)

[明治四辛未年(先生三十五歳)・明治五壬申年(先生三十六歳)]

『学鐙』100(7):36-37,2003.

(8)「早矢仕有的年譜(8)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料16)

『学鐙』100(8):34-35,2003.

(9)「早矢仕有的年譜(9)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料17)

[明治七年申戌年(先生三十八歳)]

『学鐙』100(9):36-37,2003.

(10)「早矢仕有的年譜(10)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料18)

[明治八年乙亥年(先生三十九歳)]

『学鐙』100(10):36-37,2003.

(11)「早矢仕有的年譜(11)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料19)

[明治九年丙子年(先生三四十歳)]

『学鐙』100(11):36-37,2003.

(12)「早矢仕有的年譜(12)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料20)

[明治十丁丑年(先生四十一歳)]

『学鐙』100(12):36-37,2003.

(13)「早矢仕有的年譜(13)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料21)

[明治十一年戊寅年(先生四十二歳)]

『学鐙』101(1):34-35,2004.

(14)「早矢仕有的年譜(14)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料22)

[明治十二己卯年(先生四十三歳)・明治十三庚辰年(先生四十四歳)]

『学鐙』101(2):34-35,2004.

(15)「早矢仕有的年譜(15)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料23)

[明治十四年辛巳年(先生四十五歳)]

『学鐙』101(3):34-35,2004.

(16)「早矢仕有的年譜(16)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料24)

[明治十五壬午年(先生四十六歳)・明治十六癸未年(先生四十七歳)]

『学鐙』101(4):34-35,2004.

(17)「早矢仕有的年譜(17)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料25)

[明治十七年甲申年(先生四十八歳)]

『学鐙』102(1):34-35,2005.

(18)「早矢仕有的年譜(18)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料26)

[明治十八年乙酉年(先生四十九歳)]

『学鐙』102(2):34-35,2005.

(19)「早矢仕有的年譜(19)」(早矢仕民治編)(丸善社史資料27)

[明治拾九丙午年(先生五十歳)・明治二拾丁亥年(先生五十一歳)・明治二拾壱戊年(先生五十二歳)・明治二十二己丑年(先生五十三歳)・明治二十三庚寅年(先生五十四歳)・明治二十四辛卯年(先生五十五歳)・明治二十五壬辰年(先生五十六歳)・明治二十六癸巳年(先生五十七歳)・明治二十七甲牛年(先生五十八歳)・明治二十八乙未年(先生五十九歳)・明治二十九丙申年(先生六十歳)・明治三十丁酉年(先生六十一歳)・明治三十一戊戌年(先生六十二歳)・明治三十二己亥年(先生六十三歳)・明治三十三庚子年(先生六十四歳)・明治三十四辛丑年(先生六十五歳)]

『学鐙』102(3):32-35,2005.

(平成22年6月3日 記す)(平成22年7月30日 [注]を改訂)(平成29年8月10日 追記)

27. 散歩の寄り道:友愛書房:『基督教会(ディサイプルス)史』と『杉田つる博士小傳』


友愛書房
場 所:東京都千代田区神田神保町1-44
電 話:03-3291-6327
♪台風20号の接近の影響で、東京は、強風が吹き荒れ、雨も一時期、強く降りました。そんな悪天候のなか、昨日の午後、神田神保町にあるキリスト教専門書店の「友愛書房」に行ってきました。「友愛書房」では、古書のほかに新刊書も扱っています。 

♪なぜ、そんな悪天候の日に、行ったのかというと、『基督教会(ディサイプルス)史』(秋山操編著 基督教会史刊行委員会 1973)の取り置きを、今月末までの約束で、お願いしてあったからです。

 

♪巣鴨駅前から白山通りを後楽園遊園地(東京ドーム)方向に進み、水道橋を渡ってガードをくぐると、右側に東京歯科大学水道橋病院があります。神保町交差点に向かう三崎町交差点界隈は、以前と随分、変わりました。古書店に変わって、ドラックストアや飲食店が多くなり、昔の趣のある雰囲気は少なくなってしまったようです。

♪水道橋駅から神保町交差点に向かう白山通りの左側の一帯は、明治のはじめから猿楽町と呼ばれていました。猿楽(さるがく)(のちの能楽)の家元・観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷がこの辺りにあったことから、猿楽町の名が起こったそうです。

♪染井霊園にお墓のある水原秋櫻子(豊)の水原産科婦人科病院(明治28年創立)は、この猿楽町12番地にありました。現在の日本大学経済学部のあたりと思われます。

 

♪水原秋櫻子のことなどを考えながら、カトリック神田教会(CATHOLIC CHURCH OF ST.FRANCIS XAVIER)の近くの路上パーキングに車を止めて、水溜りを気にしながら、白山通り沿いの「友愛書房」に向かいました。日本大学経済学部の並びです。

 

♪「友愛書房」には、学生時代に混声合唱をやっていたこともあって、ミサ曲やグレゴリオ聖歌など、合唱曲の演奏資料を探しに来たことがありました。30年以上も前のことです。お店の中は、昔と変わらない雰囲気でした。

♪『基督教会(ディサイプルス)史』を入手しようと思ったのは、そのなかに、染井霊園の外人墓地にお墓のあるローダスカ・ワイリック(Loduska J. Wirick)(1856-1914)についての記載があることを知ったからです。

♪はじめは、ワイリック女史のことではなく、慶應義塾大学に『解體新書』を寄贈した杉田つる氏(杉田玄白の子孫)のことを調べていて、『杉田つる博士小傳』(石原兵永編 杉田追悼文集刊行会 1958)という書籍が「友愛書房」にあることを知り、インターネット経由で購入しました。

♪『杉田つる博士小傳』で、杉田つる氏が、医者であり、信仰に生きたキリスト信者であったことがわかってきて、自然と、宣教師で看護婦でもあったワイリック女史のことが浮かびました。(連載第66回第67回

♪ワイリック女史について、再調査したところ、文献として『基督教会(ディサイプルス)史』が見つかり、「友愛書房」に在庫があったというわけです。

♪『杉田つる博士小傳』を、インターネットで探し当てたお陰で、その線上で、ワイリック女史の資料を発見することができ、30年振りの「友愛書房」への訪問に繋がったのです。

♪「友愛書房」に行った日は、ちょうど、第48回神田古本まつりの期間中(平成19年10月26日-11月1日)で、『基督教会(ディサイプルス)史』を、割引価格で購入できたのもラッキーでした。

♪神保町交差点の岩波アネックスビル2階にある「秦川堂書店」(関連第123回)も覗いてみたかったのですが、雨が強くなりはじめたので、次回の散歩に回すことにしました。小説家・逢坂剛さんのお気に入りだという喫茶店「ラドリオ」(神田神保町1-3)の探訪も次回の楽しみにとっておくことにしました。

(平成19年10月28日 記)(平成29年8月9日 追記)

26. 「解体新書」慶應義塾大学メディアセンター:〔2〕『解體新書』(邦訳本) 杉田つる氏寄贈本

慶應義塾大学メディアセンター:〔2〕「解体新書ほか(解剖学コレクション)」:『解體新書』 杉田つる氏寄贈本

♪慶應義塾大学でデジタル化された『解體新書』『解躰約圖』に、「昭和21年6月21日 杉田つる氏寄贈」の受入印がありました。杉田つる氏とは、杉田玄白と関係ある方ではないかと思って、調べてみました。

♪『解體新書』を慶応義塾大学に寄贈したのは、杉田玄白の子孫で医者の杉田つる(鶴子)(1882-1957)だと思われます。

 

杉田家々譜

初代 杉田 玄伯  後改甫仙,元禄十五年始メテ酒井候ノ醫官トナル

二代 杉田 伯元  後改甫仙ほせん

三代 杉田 玄白  名翼,號鷧齋いさい九幸きゅうこう 始テ蘭書ヲ翻譯シ解體新書ヲ刊行ス,
享保十八年九月十三日生,文化十四年四月十七日卒,八十五歳

四代 杉田 玄白  名勤,號紫石,始メ伯元,後玄白ニ改ム,實ハ奥州一ノ
関田村右京太夫侍醫建部清庵五男ニシテ,鷧齋いさいノ長女ヲ
妻トシテ養子トナリ家ヲ継ク

五代 杉田 白玄  紫石ノ二男(長男ハ二十一歳ニシテ歿ス),明治七年卒,
六十九歳

六代 杉田 玄端9)  白玄ノ養子ナリ,幕府ニ召サレテ一家ヲ為ス

玄端の息子(二男)の雄が杉田つるの父にあたる

七代 杉田  武  玄端ノ長男ニシテ家ヲ嗣ク,現ニ東京ニ在リ

♪明治38年(1905)、大阪市私立關西醫學院に入学。父の雄(いさお)の死後、東京の私立日本医学校(現・日本医科大学)に転学し、明治41年(1908)医術開業試験に合格。東京帝國大學醫科大學小児科教室(弘田長〔つかさ〕教授)の研究生となり、傍ら明治44年(1911)2月に新花町(本郷二丁目)で小児科医院を開業していたことがわかりました。また、杉田鶴子は、女流歌人でもあり、キリスト信者でもありました。昭和15年(1940)には、歌集『菩提樹』を出版しています。

♪日本女医会とも関係があったようです。『日本女医会雑誌』の発行人を務めています。発行人の住所は、新花町39番地(現在の文京区湯島の東京ガーデンパレス裏の蔵前橋通り側の辺り)となっています。

♪東京女医学校(現・東京女子医科大学)の創設者である吉岡彌生とも関係があったようで、『愛と至誠に生きる 女医吉岡彌生の手紙』(酒井シヅ編 NTT出版 2005)のなかにも、登場します。

♪昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により自身の医院と監督していた本郷三丁目の日本女医会事務所を失い、二宮に軍事保護院相模保育所を開設します。保育所は、終戦後も国立東京第一病院付属相模保育所として存続され、昭和21年(1946)3月からは、同病院二宮分院となり、杉田鶴子は、その主任医師として、再出発したようです。『解體新書』が慶應義塾大学に寄贈されたのは、この時期かと思われます。

♪杉田鶴子が勤務した国立東京第一病院二宮分院は、昭和40年(1965)4月国立小児病院二宮分院として、組織替えとなります。さらに、国立小児病院二宮分院は、平成14年(2002)3月1日に、国立療養所神奈川病院と統合され、現在は、独立行政法人国立病院機構神奈川病院となっています。

♪杉田鶴子に関しては、日本女医会での活躍など調べたいことも多く、稿をあらためます。慶應義塾大学に寄贈された『解體新書』に話をもどします。

♪杉田つる氏が寄贈した『解體新書』の巻之四の奥付をみると、京都(三條通御幸町角)の書籍出版 発行所 大谷仁兵衛の印があります。この印や、奥付にある赤字の「距今茲昭和六年実百五十七年」の書き入れをみると、この『解體新書』は、安永3年(1774)から代々杉田家に伝わっていたものではなさそうです。

表紙裏にも、岡田信利(杉田玄白・玄孫)による赤字(昭和6年1月)の書き込みがあります。大正12年9月1日におきた大震災により焼失した和蘭訳本を2年後に和蘭海軍軍医から東京帝国大学へ長與又郎教授を通じて寄贈されたこと、独逸語原本も独逸から寄贈を受けたことが書かれています。

♪杉田家に代々伝わっていた杉田玄白による『解躰新書』(邦訳本)も大震災によって焼失したので、昭和のはじめに京都の書肆である大谷仁兵衛から入手したのが杉田玄白の玄孫・岡田信利であったのかもしれません。

★★

♪『解體新書』の現代語訳である『新装版解体新書』(酒井シヅ訳 講談社 1998講談社学術文庫1341)と全復刻を含む『解体新書と小田野直武』(鷲尾厚著 翠楊社 1980)という書籍があります。どちらも、『解體新書』を知る基本資料と思われます。

♪『解体新書と小田野直武』には、『解體新書』の序圖一巻中の序文・自序・判例・跋文の漢文からの書下し文があり、参考になります。

♪『新装版解体新書』の巻末に小川鼎三先生が解説として「『解体新書』の時代」の一文を寄稿されています。そのなかに次のような一説があります。

「・・・・・『解体新書』は付図もふくめてすべて木版である。初版が何部刷られたのか判明しないが、おそらく需要がかなり大きく、ひきつづきいく度か増刷されたようで、後には版木がだいぶ痛んでいたと思う。その点に留意して、なるべく最初の刷りに近いものをと考え、序図は慶応大学北里記念図書館所蔵のものを原本として選んだ。」

♪小川鼎三先生が原本として選んだ『解體新書』の付圖を、慶應義塾大学信濃町メディアセンターに所蔵するアナトミアコレクションのなかで、確認することができるわけです。こんなにすばらしいことはありません。

♪適塾で蘭學を学んだ福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)(1835-1901)(中津藩)の精神をみる思いとともに、現代から未来に、それを新しいIT技術で伝えて行く図書館員の努力が重なってみえてくようです。

♪『古醫書目録』(改訂版 慶應義塾大学北里記念医学図書館 1994)によると、慶應義塾大学では、『重訂解體新書(ちょうてい・かいたいしんしょ)』も所蔵しているようですので、いずれ、アナトミアコレクションとして、デジタル化されるのではないかと思われます。(2017年8月現在、デジタル化は済んでいます。)

♪『解體新書』を大槻玄沢(おおつき・げんたく)(1757-1827)(一関藩)が訳し直して、文政9年(1826)刊行した『重訂解體新書(ちょうてい・かいたいしんしょ)』は、慶応義塾大学のほかにも「東京大学医学図書館デジタル史料室」のなかでも、デジタル化されています。また、『解體新書』が刊行される前年の安永2年(1773)に「解体新書」の内容見本として出された「解體約圖」も、東京大学附属図書館の電子展示のなかでみることができます。

♪杉田玄白と吉岡彌生とが、『解體新書』を慶應義塾大学に寄贈した杉田つる氏を通して、繋がってくるとは、思ってもいませんでした。やはり、本郷界隈は、「江戸東京」の散歩のポイントには、事欠かない地域であるようです。

(平成19年9月23日 秋分の日 記)(平成29年8月8日 追記)(令和4年6月29日 リンク見直し)(令和5年11月8日)

25. 「解体新書」:慶應義塾図書館:〔1〕「解体新書(アナトミア)」 藤浪氏蔵本:独逸原本、蘭訳本、ラテン語本

慶應義塾大学メディアセンター:〔1〕「解体新書(アナトミア)」 藤浪氏蔵本:独逸原本、蘭訳本、ラテン語本

♪『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年〔1774〕)は、ドイツ人のヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus〔1689-1745〕)が、1732年に著した『Anatomische Tabellen』(ドイツ語)を、オランダ人のゲラルジュス・ディクテン(Gerardus Dicten〔1696?-1770〕・ライデンの外科医)が、1734年に『Ontleedkundige tafelen』としてオランダ語に翻訳したものを、安永三年〔1774〕に杉田玄白(1733-1817)(小浜藩医)、前野良沢(1723-1803)(中津藩医)、中川淳庵(1739-1786)(小浜藩医)らが邦訳(漢文)したものです。『解體新書』は、重訳本です。

独逸原本:(Johann Adam Kulmus著)
『Anatomische Tabellen』(第3版 アムステルダム 1732)

蘭訳本:(Gerardus Dicten訳)
『Ontleedkundige tafelen』(アムステルダム 1734)

邦訳本(漢文):(杉田玄白・前野良沢・中川淳庵訳)
『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年〔1774〕)

♪当時、杉田玄白らは、原著者のクルムスをドイツ人ではなくオランダ人と思い、『Ontleedkundige tafelen』が、ドイツ語からオランダ語への翻訳本であることを知らなかったようです。

♪重訳された『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年)は、序圖1冊と本文4冊(巻之一、巻之二、巻之Ⅲ、巻之四)の全5冊本です。

♪当時の蘭學者に『解體新書』が『ターヘル・アナトミア』の呼ばれたのは、蘭訳本の扉絵(口絵)にラテン語で「TABULAE AMATOMICAE」とあり、それが蘭語に転訛したからともいわれています。

♪『ターヘル・アナトミア』は、『クルムス解剖書』、『簡約解剖書』、『クルムス解剖図譜』、『解剖図表』といわれます。

♪原著者のJohann Adam Kulmusは、『解體新書』のなかでは、「與-般-亜-単-闕-兒-武-思」と表記され、「ヨ-ハン-ア-タン-キュ-ル-ムス」とルビがふってあります。また、『ターヘル・アナトミア』は、「打-係-縷-亜-那-都-米」(タ-ヘ-ル-ア-ナ-ト-ミイ)とあります。

◇◇◇

♪先日、図書館の別置書架に『解體新書を中心とする解剖書誌』と題する昭和18年刊行(岩熊哲〔いわくま・とおる〕著)の図書があることに気がつきました。そのなかに、著者が調査した『クルムス解剖書』の所蔵者の名前が載っていて、上記の独逸原本(1732年 アムステル版)と蘭訳本(1734年 アムステル版)の両方を藤浪剛一氏が所蔵しているとありました。

♪藤浪剛一(ふじなみ・ごういち)(1880-1942)は、愛知県名古屋市東区久屋町159番戸に、尾張候の侍医であった藤浪家の四男として生まれます。明治39年(1906)岡山医学専門学校卒業後、同校病理学教室から東京帝國大學醫学部皮膚科介助とり、土肥慶蔵教授に師事しています。ここで医史学的環境に触れたと思われます。その後、ウィーン大学に留学。レントゲン学を専攻して、明治45年(1912)帰国後、順天堂医院にレントゲン科長として勤務。大正9年(1920)慶應義塾大學醫學部が開設されたとき、教授(理学的診療科主宰)となっています。

参考文献:
〔1〕故藤浪剛一先生略歴及び病歴(大島蘭三郎著) 『日本医史学雑誌』1315号:217-219、1943.
〔2〕『藤浪剛一追悼碌』(昭和18年 藤浪和子編)

♪藤浪剛一は、医史学の分野でも活躍し、富士川游(ふじかわ・ゆう)(1865-1940)のあとを継いで昭和15年(1938)11月から日本医史学会理事長を務めるなど、多くの業績を残していますが、夫人の藤浪和子とともに、掃苔家(そうたいか)としても著名でした。わたしも、医史学に興味を持ちはじめたときに、神田神保町の慶文堂古書店で購入した一冊に、藤浪和子著の『東京掃苔録』(昭和15年)があります。

参考文献:
『富士川游先生』(「富士川先生」刊行会 1954)

♪昭和18年(1943)当時、藤浪剛一の所蔵であった『ターヘル・アナトミア』の独逸原本、蘭訳本などは、戦火をさける目的もあって、慶應義塾大学に、貴重書として保管されたのではないかと、ふと思いました。

♪慶応義塾図書館のホームページをみると、「慶應アーカイブス」のなかに「慶應義塾図書館デジタルギャラリー」(慶應義塾大学学術情報アーカイブ〔KOARA/A 仮称〕)のコンテンツがあり、慶應義塾大学信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館)が所蔵するアナトミアコレクション(古医書)の一部を電子化し、「解体新書 ほか(解剖学コレクション)」として公開していることがわかりました。

♪「解体新書(アナトミア)」のコンテンツでは、杉田玄白の『解體新書』のほか、『Anatomische Tabellen』(独逸原本)、『Ontleedkundige tafelen』(蘭訳本)、『Tables anatomiques』(仏訳本)、『Tabulae anatomicae』(ラテン語本)の、『ターヘル・アナトミア』のほとんどをデジタル化しています。『解體新書』に関する、すばらしい、デジタルアーカイブスのコレクションを形成しています。

♪デジタル画像をみていくと、『Anatomische Tabellen』(独逸原本) 『Ontleedkundige tafelen 』(蘭訳本)『Tabulae Anatomicae』(ラテン語本)の標題紙に「藤浪氏蔵」の蔵書印があることに気がつきました。やはり、藤浪剛一旧蔵の『ターヘル・アナトミア』は、慶應に保管されていたのでした。慶應にあるのではとは想像しましたが、それが、デジタル化され、公開までされているとは思ってもいませんでしたので、驚きでした。

◇◇◇◇◇◇

♪先に紹介した『解體新書を中心とする解剖書誌』のなかで、著者の岩熊哲は、『解體新書』の独逸原本(アムステルダム版 1732)の藤浪氏蔵本について次のように書かれています。

「藤浪博士御所蔵の独逸本はアムステルダムから刊行された第三版である。ただし私は直接に拝見したわけではないが、藤浪先生の御好意で表題を知り得たから参考までに誌しておく。・・・Fがすべて二重エフになっている所に御注意ありたい。この174-206頁には丁附(pagination)がないと岩崎さんは報じている。」

岩崎さんとは、蘭學史で有名な岩崎克己のことです。

♪岩熊哲は、戦前、机上に『ターヘル・アナトミア』の独逸本(第4版 1741)と蘭訳本を揃えて、比較、検討したそうですが、いまでは、それを、コンピュータ上で比較できる時代となったわけです。

♪デジタル化された『Anatomische Tabellen』のはじめは、扉絵(口絵)と標題紙からなり、標題紙の左下隅に「藤浪氏蔵」の印があります。押されている位置と印影は、『解體新書を中心とする解剖書誌』のなかで紹介されている藤浪氏蔵本の標題紙の圖と一致します。

♪『解體新書を中心とする解剖書誌』によると、「174-206頁には丁附(pagination)がないと岩崎さんは報じている」とありました。そこで、デジタル化された藤浪氏蔵本で確かめてみたところ、頁付けは、きちんと付いています。

♪慶應の『解体新書(アナトミア)』のデジタル化には、「LOGOSWARE FLIPPER」というデジタルブック制作ソフトが使用されています。「ページをめくりながら読む」という本の持つインターフェースを採用しているところに特徴があります。画面の拡大・縮小・移動なども自由にできます。そのデジタル画像は、所蔵者だった藤浪剛一の指紋も、浮かび上がってくるのではないか、と思わせるほど鮮明です。

♪独逸原本(Dritte Aufflage)(AMSTERDAM / JANSSONS von WAESBERGE MD.CCXXXII)と蘭訳本(Te AMSTERDAM By de JANSSONS VAN WAESBERGE MDCCXXXIV)の扉絵(口絵)と標題紙を、「LOGOSWARE FLIPPER」の拡大や移動の機能を使って、比較してみてみました。

♪独逸原本と蘭訳本とでは、ローマ数字の記載方法に違いがあります。独逸原本では、刊行年の1732をローマ数字でMD.CCXXXII.と表記し、DとCとの間に.(ピリオド)が打たれていますが、蘭訳本の刊行年の1734は、MDCCXXXIV.と表記されていて、DとCとの間にピリオドはありません。

♪また、独逸原本の刊行年のMD.CCXXXII.は、その数字の部分だけの版を作ってはめ込んで、標題紙全体の版の一部にしたように見えました。MD.CCXXXII.の下に、かすれた線があるように見えるからです。当時の印刷方法がわからないので、はっきりとはいえませんが、そのように感じました。

♪独逸原本と蘭訳本には、有名な第1圖表である扉絵(口絵)が付いています。ラテン語本には、圖がありません。

♪扉絵は、書棚を背景にして、人体をのせた解剖台があり、その前景として、解剖用器具の台を置くという構図となっています。拡大機能を使って、いろいろ、この圖を隅から隅まで見ていました。

♪左下隅にJ.C.PHILIPS inv、右下隅にet fecit 1731の文字が見えました。この口絵は、J.C.PHILIPSによって、1731年に描かれたもののようです。こんな細かい文字まで写しこんであるデジタル技術と、それを閲覧させるソフトのすばらしさを感じました。

♪藤浪氏旧蔵であった『ターヘル・アナトミア』の標題紙や圖などを、さらに、コンピュータ上で、比較していければと思っています。

(平成19年9月16日記)(平成29年8月6日 追記)(令和4年6月29日 リンク訂正)

24. 「解躰新書」を出版した「須原屋」の場所(室町二丁目と室町三丁目)

♪杉田玄白(1733-1817)の『解體新書』が出版されたのは、安永3年(1774)のことで、その板元は、江戸日本橋の書肆(本屋)の「須原屋市兵衛(すはらや・いちべえ)」(申椒堂[しんしょうどう])でした1-6)。

♪市兵衛は、江戸の書物問屋の大店である「須原屋茂兵衛」の店で修行し、その後、分家して、店を持ったようです。

♪寶暦10年(1760)『寒葉斎画譜』(全部五冊)(寶暦十年十二月写本留)の願入板元となり、寶暦12年(1762)11月に、その『寒葉斎画譜』(全三冊)の売出板元となっています5)。

♪寶暦12年(1762)といえば、日本最初の解剖書である『蔵志』(寶暦9年<1760>刊)を著した山脇東洋(1705-1762)が亡くなった年にあたります。

♪『享保以後江戸出版書目 新訂版』5)によると、『蔵志』(全二冊)(東京薬科大学情報センター図書館・電子稀覯本所蔵)の板元は、「京 丸谷市兵衛」、 売出しは、「須原や茂兵衛」とあります。『蔵志』と『解體新書』は、「須原屋茂兵衛」で繋がっているようです。

♪さて、本稿の主題は、日本橋にあったという「須原屋市兵衛」の店の住所のことです。

日本橋から室町方向を望む(絵葉書)

♪『近世書林板元總覧』1)によると、市兵衛の住所は、「江戸本石町四丁目、日本橋二丁目(安永三年『解體新書』)、日本橋北室町三丁目西側(同四年『會席料理帳』)となっています。

♪安永3年(1774)は、十代将軍・德川家治(いえはる)の御代(田沼時代)で、市兵衛の歿年は、文化8年(1811)。墓は、浅草善龍寺にあるとのことです1)3)。

♪『享保以後板元別書籍目録』2)によると、市兵衛の店は、宝暦10年(1760)12月から文化10年(1813)12月までの54年間にわたって江戸で店を構えたとあります。同時期に活躍した「須原屋」には、須原屋伊八がおり、安永元年(1772)12月から文化11年(1814)12月までの43年間、店を出しています。

♪今田洋三氏は、著書『江戸の本屋さん』5)のなかで、『解體新書』の原稿を「須原屋」に持ち込んだ杉田玄白の様子をつぎのように書いています。

「安永三年(一七七四)春のある日、杉田玄白が、日本橋室町二丁目の申椒堂須原屋と看板をあげている土蔵造りの本屋にはいった。玄白は、ふろ敷づつみを大事そうにかかえている。玄白は、時どき医学書や和漢書、あるいは小説のたぐいを、この本屋で買っていたし、奥州の片田舎からでてきた医学生の若者を、ここの主人から紹介され面会したりした。玄白の親しい店だったのである。申椒堂の主人は、須原屋市兵衛といった。日本橋を南に渡った通一丁目の江戸一の大書商、須原屋茂兵衛の分家であった。さっそく玄白は奥の座敷に招じ入れられる。ようやくできましたぞと、ふろ敷をほどいて出したのが『解體新書』と題をつけた五冊の原稿であった。」

♪浅野秀剛氏は、著書『大江戸日本橋絵巻「熈代勝覧」の世界』7)のなかで、「須原屋市兵衛」の店の住所について、つぎのように書いています。

「『寒葉斎画譜』を出したときの、市兵衛の住所は、「通本町三町目」で、その後、市兵衛の店は、室町三丁目に移り、さらに、寛政前期に室町二丁目に移転する」

通本町三町目:『寒葉斎画譜』(宝暦12年)

室町三丁目:『安永撰要類集』(寛政元年)

室町二丁目:『明日も見よ』(寛政3年)

本石町四丁目:『外題作者画工書肆名目集』(文化4、5年頃)

♪『熈代勝覧(きだい・しょうらん)』(天)(ベルリン東洋美術館蔵)は、ドイツで発見された絵巻で、文化2年(1805)の日本橋から神田今川橋までの大通り(中山道・日光御成道のはじまり)の町並みを東側から俯瞰する構図で描かれています。この道筋の「室町二町目」に、市兵衛が箱看板を出して店を構えています。この絵巻は、『解體新書』が出版されてから、30年後の「室町二町目」の市兵衛の店の位置を示す、大変、貴重な史料だと思われます。稿を改めて、「須原屋」「すはらや」と水引暖簾が掛けられた店の界隈を見てみることにします7)8)。

♪『解體新書』は、本文4冊(巻之一、巻之二、巻之三、巻之四)と、序圖1冊の全5冊からなる木版本で、「巻之四」の最終頁に奥付があり、「須原屋市兵衛」の店の住所が載っています。「室町二町目」のものと「室町三町目」ものと2通りの住所があることが知られています。どちらも、刊行年は安永3年(1774)です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

♪各地の図書館でデジタル化(一般公開)されている『解體新書』から、「巻之四」奥付頁の「須原屋市兵衛」の住所を見比べてみることにしました。

「須原屋市兵衛」の住所・広告頁(有無)

(1)東北大学附属図書館医学分館

室町二町目(無)

(2)内藤記念くすり博物館

室町二町目(無)

(3)東京大学医学図書館デジタル史料室

室町二町目(無)

(5)慶應義塾図書館

室町二町目(無)

(6)早稲田大学古典籍総合データベース

室町三町目(有)

(7)国立国会図書館

室町二町目(無)

♪これまでの調査では、市兵衛の店の住所は、早稲田大学蔵本だけが「室町三町目」で、残りのものは、「室町二町目」となっています。また、早稲田大学蔵本には、奥付頁のあとに、広告頁がついています。

♪早稲田大学古典籍のなかでは、「室町三町目」のものが、2冊デジタル化されています。どちらにも広告頁が付いていますが、その広告している書籍が違います。『解體新書』巻末の広告頁の比較と、そこに掲載されている書籍の刊行年などを調べることも「江戸東京」の課題となりそうです。

♪森銑三の著作に『平秩東作の生涯』9)があります。平秩へづつ東作とうさく(1726-1789)は、狂歌師、漢詩人で、平賀源内(1728-1780)とも親交があった人物です。第8章の最後につぎのような記載があります。

「安永四年乙未、東作五十歳。寶暦十二年に生れた総領桃次郎やや長じて、室町三丁目須原屋市兵衛方より奉公へ出てゐたのであるが、この年十四歳になつたので、主家から暇を取って帰って来た。」

♪『平秩東作の生涯』9)でみる限り、安永4年(1775)に、市兵衛の店は、「室町三町目」にあったようです。

♪さらに『享保以後江戸出版書目 新訂版』によると、市兵衛が『解體新書』の出版を、江戸書物問屋仲間行事に発行許可願を出したのは、安永4年(1775)9月27日(板元売出)のことでした5)。このときから、正式に『解體新書』は、広告頁が付いてものが出版され、出回るようになったのではないか。玄白と市兵衛にとっては、広告頁付の『解體新書』を出版できたことは、夢のようなことだったのかもしれません。

♪蘭学者の出版に理解のある市兵衛も、腑分け(解體)の、それも圖入りの翻訳本を出版するわけですから、各方面への気配りも必要で、板木の打ち壊しや処罰の危険にあわないように、それを世に出すためには、慎重を期して、準備を進めたことでしょう。

♪原稿の写本も何部かつくり、奥付の板木も「室町二町目」と「室町三町目」の2種類彫って万一のときに、備えていたのかもしれません。もちろん、本家筋の須原屋茂兵衛にも、相談していたものと考えられます。

♪『解體新書』の板木は、緊張のなかで、彫られ、刷られ、製本されて、厳重に保管されたと想像されます。玄白とともに、板元となる市兵衛も命をかけた仕事であったことは確かなことであったでしょう。

♪玄白は、出版のためには、政治的な動きもしたようです。序文は、幕府の大通詞の吉雄永章(耕牛)(1724-1800)に依頼し、官醫・桂川甫周の名前も入れています。甫周の父は、法眼ほうげんの地位にあった桂川甫三かつらがわほさん(1728-1783)で、その推挙によって、十代将軍家いえ治はるに『解體新書』が献上されます。さらに、京都に住む従弟の吉村辰碩よしむらしんせきを通して、近衛内前このえうちさき(関白太政大臣)、九条くじょう尚実なおざね(左大臣)、広橋ひろはし兼胤かねたね(武家伝奏)にも、献納しています10-11)。

♪後年、『蘭学事始』(文化12年・83歳)のなかで、玄白は、『解體新書』の翻訳・出版の当時を、つぎのように回顧しています10)。

「『解體約図』はすでにできあがり、いよいよ本篇の『解體新書』の方も出版になったが前にも言ったように、『紅毛おらんだ談ばなし』のような本でさえ絶版を命じられた時世である。・・・もしことわりなく出版したら禁令を犯したと罰をこうむるかもしれない。この一点だけはたいへん恐れ、気をもんだ。・・・とにかく翻訳というものを公にする先駆けになってやろうとひそかに覚悟して、決断したのであった。」

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

♪『解體新書』の初版本が出版されたとき、「須原屋市兵衛」の店はどこにあったのか。「須原屋市兵衛」の住所について考えてきて、玄白が『解體新書』の出版の前に、前宣伝と反応をみるために、報帖(ひきふだ)として『解體約圖』(解剖圖3枚〔臓腑・脈絡・骨節〕・文章2枚〔序説・人体生理大要〕)を著していること、それを、東京大学がデジタル展示していたことを思い出しました。デジタル化された『解體約圖』の板元の住所は、どうなっているのか。見てみることにしました。

♪『解體約圖』(展示ケース16)の、「須原屋市兵衛」の住所は、「江戸室町二町目」」となっていました。

安永二年癸巳春正月

書肆 江戸室町二町目

須原屋市兵衛板

♪また、『解體約圖』については、調査の結果、『日本の名著 22 杉田玄白 平賀源内 司馬江漢』8)のなかにも、収録されていることが、わかりました。これによると、「須原屋市兵衛」の住所は、「江戸室町三丁目」となっていました。明らかに、東京大学所蔵の『解體約圖』とは、「須原屋市兵衛」の住所が違っています。

安永二年癸巳春正月

書肆 江戸室町三丁目

須原屋市兵衛板

♪『日本の名著』のなかにある『解體約圖』は、緒方富雄編 『解體約図』(複製版 医学書院 1965)からの採録のようです。

♪「江戸室町三丁目」が誤植でないとすると、『解體約圖』にも、「室町二町目」と「室町三町目」の2種類の須原屋市兵衛板があったことになります。

♪この複製版の『解體約圖』の現物を確認する必要を感じました。所蔵調査をしたところ、幸い東邦大学医学メディアセンターで所蔵していることがわかりました。連絡したところ、閲覧を許可してくださるとのご返事。後日、東邦大学を訪問させていただくことにしました。

♪『解體新書』と、その前年に出版された『解體約圖』をみてくると、「須原屋市兵衛」の住所には、双方ともに、「室町二町目」と「室町三町目」の2カ所あることがわかりました。安永2年(1773)には、板元となった「須原屋市兵衛」の店は、「室町三町目」と「室町二町目」に、二店あったとも考えられます。

♪『解體約圖』や『解體新書』が出版された安永の時代から、「須原屋市兵衛」の店は、「室町三町目」と「室町二町目」に、住まいや店舗、あるいは板木を彫ったり摺ったりする関係場所を、数カ所、持っていたのではないか。「須原屋茂兵衛」や「須原屋佐助」(金花堂)との関係はどうであったのか。いろいろな推測が浮かびます。

♪そういえば、須原屋佐助を祖とする和紙の老舗「榛原」が創業したのが、文化3年(1806)。『解體約圖』では3枚の解剖圖(臓腑・脈絡・骨節)を重ねて、透かして見られるようにしたようですが、では、どんな和紙が使われていたのでしょうか。江戸文化の香り漂う日本橋室町界隈を想像します。

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参 考 文 献

1)『近世書林板元總覧』 井上隆明著 (日本書誌學大系 14) 青裳堂書店、1981.(東京都立日比谷図書館所蔵)

2)『享保以後板元別書籍目録』 坂本宗子編 清文堂 1982.(東京都立多摩図書館所蔵)

3)「『解體新書』の板元・市兵衛のこと」 今田洋三著 『歴史地理教育』 247号 pp.46-51.1976.

4)「蔦屋重三郎と須原屋市兵衛:江戸文化を牽引した二大出版社」(竹内 誠)

『東京人』(都市出版)(2007年11月号 no.246 〔特集〕大江戸出版繁盛記)pp.52-57.

5)『享保以後江戸出版書目 新訂版』 朝倉治彦・大和博幸編 臨川書店、1993.(東京都足立区立中央図書館所蔵)

6)『江戸の本屋さん』 今田洋三著 (NHKブックス 299) 日本放送協会、1977.pp.95-108.「二 世界に目をむけた須原屋市兵衛」.

7)『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』 浅野秀剛・吉田信之編.講談社、2003. pp.66-67.「須原屋市兵衛」(浅野秀剛解説)

8)『「熈代勝覧(きだい・しょうらん)」の日本橋 活気にあふれた江戸の町』 小澤 弘/小林 忠著 小学館、2006.

9)『平秩東作の生涯』(『森銑三著作集 第一巻』に収録 中央公論社、1988.)(豊島区立中央図書館所蔵)

10)『日本の名著 22 杉田玄白 平賀源内 司馬江漢』(芳賀徹 責任編集)中央公論社、1984.

11)「日本の医学を一新させた『解體新書』の翻訳」 鈴木由紀子著 田沼時代を生きた先駆者たち. (NHK カルチャーアワー 歴史再発見 2008 10月~12月) pp.86-99.

 

(平成20年11月3日 記) (平成22年6月5日 改訂)(平成29年8月3日 訂正追加)(令和5年1月10日 訂正追加)