23. 『日本橋榛原商店新築記念』(昭和5年)(袋付2枚)(絵葉書)

はいばら

①創業地:文化3年(1806) 日本橋区通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番あたり)

②昭和5年(1930) 中央区日本橋2丁目7-6へ新築移転

[平成23年(2011) 日本橋2丁目再開発のため仮店舗(中央区日本橋2-8-11 旭洋ビル2F)で営業]

③平成27年(2015) 中央区日本橋2-7-1 東京日本橋タワーへ新築移転

 

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♪竹下夢二が描いた団扇や、雁皮(ガンピ)という植物からつくられた雁皮紙で有名な日本橋の「榛原(はいばら)」の創業は、文化3年(1806)のことでした。今年、平成18年(2006)は、創業200年の節目の年となります。

♪「はいばら(榛原)」の初代佐助は、紀州栖原村(すはらむら)〔現在の和歌山県湯浅町〕の出身で、須原屋茂兵衛に年季奉公に上がり、年季あけに独立して、和紙、墨、薬などを扱う小間紙屋を営みました。

和歌山県湯浅町観光ガイド

♪須原屋は、杉田玄白の『解体新書』(安永3年・1774)を出版した江戸の東武書林(室町二町目)として知られています。

解体新書』(内藤記念くすり博物館 収蔵品デジタルアーカイブ)

♪佐助は、はじめ、通四丁目にあった金花堂(書物問屋)を買い取り、文化3年(1806)、通一丁目にあった「榛原」(小間紙)を買い取ります。この通一丁目の日本橋のたもとが「榛原(はいばら)」の創業地ということになります。現在の町名でいうと中央区日本橋一丁目7番地のあたりで、近くには、「西川(にしかわ)」(寝具)があります。

 

♪『築地八丁堀 日本橋南之図』(嘉永2年 1849)によると「通(とおり)」には通一丁目、同二丁目、同三丁目、同四丁目とあります。この「通」は、現在の日本橋交差点から銀座4丁目交差点方向に続く「中央通り」にあたり、西川(寝具)、黒江屋(漆器)、山本山(銘茶)などの名店が、江戸からののれんを守っています。

西川(寝具)

黒江屋(漆器):

山本山(銘茶)

♪「榛原(はいばら)」が、日本橋のたもとから現在地に移転、新築したのは、関東大震災後の昭和5年(1930)のことで、当時としては、大変モダンな鉄筋5階建てのビルでした。

日本橋記念絵葉書(明治44年)

♪連載第134回で取り上げた古書店「古書 街の風」から『目録第11号』(平成18年4月)が送られてきました。なにげなく頁を繰っていると、『日本橋榛原商店新築記念』(袋付2枚)(Post Card)が掲載されていることに気づきました。早速、購入しました。

♪このPost Card(絵葉書)は、「榛原(はいばら)」の六代目社長で、三宅秀(みやけ・しゅう〔ひいず〕)(1848-1938)の曾孫にあたられる中村明男氏に見せていただいたことがありました。

♪中村明男氏とは、白山(はくさん)にある東京大学の小石川植物園や本郷の医学部構内を歩いたことがあります。平成14年(2002)8月15日(木)の夏の暑い日でした。園内の日差の強さが、昨日のように思い出されます。三宅秀にゆかりの旧東京医学校本館の建物のなかに入り、展示されている診察器具などを見て回りました。(改訂版・連載第20回第21回第22回

♪その中村明男氏が、平成18年(2006)3月6日(月)に亡くなられました。『古書目録』のなかに榛原(はいばら)の絵葉書を発見したときに、いつも物静かにお話をされた中村明男氏の笑顔が瞼に浮かびました。『日本橋榛原商店新築記念』の絵葉書は、中村明男氏からの来信のように感じられました。

榛原商店新築記念絵葉書(袋)
榛原商店新築記念絵葉書(1)
榛原商店新築記念絵葉書(2)

 

 

(平成18年5月1日 記す)(平成29年7月30日 訂正・追記)

22. 日本橋「はいばら」

榛原(はいばら)場所の変遷

はいばら(ホームページ)

♪子供の頃、駒込から都電で日本橋の三越に行っていたことは、すでに述べましたが、「はいばら(榛原)」のことを思い出しました。榛原は江戸時代から続く紙問屋で今でも日本橋で営業しています。和紙というと鳩居堂(銀座4丁目交差点)を思い出す方も多いかもしれません。

♪今日、榛原の社長の中村明男氏に電話してみました。中村氏は、東京大学医学部の基礎を築いた三宅秀(みやけ ひいず 1848-1938)の曾孫にあたる方です。わたしとは、高校から大学までの学友です。中村氏が三宅秀と関係があることを知ったのは、三宅秀の伝記「桔梗-三宅秀とその周辺-」のなかにあった系図からです。系図によると三宅秀の五女八重が中村氏の父方の祖母にあたられます。「榛原は1806年の創業で、そろそろ創業200年になる」とのことでした。

♪榛原の和紙は森鴎外も愛用していたそうです。森鴎外といえば、先日、紹介した高林寺の緒方洪庵の墓にある「追賁碑」の碑文を書いています。

♪本郷・谷中・神田界隈は興味のつきない地域です。

(平成14年5月16日 記)

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♪日本橋の「はいばら(榛原)」の暖簾(のれん)には、「雁皮紙」(がんぴし)と書かれています。

「はいばら」の暖簾と中村明男氏
「はいばら」の入口
「はいばら」店内

♪くずした文字で、右から左に書かれているので、はじめて、この暖簾を中村明男氏にみせたいただいたときには、なんて書いてあるのかわからず、その読み方を教えていただきました。

♪雁皮(がんぴ)という植物は、ジンチョウゲ科の落葉低木で、それを原料とする雁皮紙は、「なめらかな肌ざわりで薄く、しかも墨つきが良いとあって文人墨客の間で大いにもてはやされた」そうです。

♪雁皮紙は、文化財の修復にも使用されるそうですが、買い求めた「雁皮紙」は、『二本榎保存碑』(関連連載第110回第112回第120回)のブックカバーにしています。少し贅沢で、間違った使い方かもしれませんが、和紙の文化を大切にしたいとの思いをこめています。

(平成20年1月6日 記)

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♪そろそろ,定年退職となるのを機会に自宅の書斎を整理していたところ,中村明男氏(故人・前榛原社長)を訪ねたときにいただいた小冊子「東都のれん会の栞」(平成十三年八月第八版発行)(東都のれん会 山本海苔店内)が出てきました。

♪そのなかに,榛原の紹介があり,榛原自身が書かれた榛原の歴史の記載がありました。榛原に関する文献は少なく,貴重な記録となっています。

 

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当店は,初代佐助が江戸日本橋の版元須原屋にて奉公の後独立し,同じ須原屋の屋号にて紙,墨,薬等を販売し,文化三年(一八〇六年)に縁あって同業種のはいばらを買い取り,屋号を「はいばら」と改めたことが創業となりますが,当店が一躍有名となったのは,雁皮という植物を原料とする「雁皮紙」を扱いだしたことによります。当時の紙は,楮こうぞを原料とするごわごわした品質のものが中心でしたが,雁皮紙はなめらかな肌ざわりで薄く,しかも墨つきが良いとあって文人墨客の間で大いにもてはやされ,以来「雁皮紙榛原」の,のれんは江戸中に広まったと言われています。その後,明治になり海外からの洋紙の輸入,国内でも官営の製紙工場が出来,日本中の紙商が,製紙メーカーの代理店として洋紙中心の取扱いになる中で,当社は和紙にこだわりつづけ,全国に残る良質の和紙の販売をする一方で,こうした和紙を材料に意匠を凝らした,金封,書翰箋,千代紙,団扇,懐紙等を加工販売し続けて,現在に至っております。

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(平成23年9月25日 追記)

 

日本橋榛原(はいばら)の銅版画と創業地

創業地:日本橋通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番地辺り)

♪2年前,文京グリーンコート(関連第70回 第71回)のなかにある雑貨店(Za Gallery)で,日本橋「はいばら・榛原」(和紙小物専門店)制作のカレンダー(日本の伝統 榛原千代紙 CALENDAR 2011)(図1)を見つけました。デザインの良さに魅かれて購入しておきました。

図1.「日本の伝統 榛原千代紙」(CALENDAR 2011)の表紙

♪裏表紙に「榛原」の店先の様子を描いた銅版画(「明治時代の日本橋はいばら」)が印刷されていました。雁皮紙(がんぴし)と書かれた暖簾が掛かっています。「西洋紙品々」の吊し広告も見えます。微細に描かれており,当時のお店(たな)が浮かび上ってくるようです。

♪銅版画は,『東京商工博覧絵,下』(明治18年5月発行)1)のなかにあるものでした。それによると,「榛原直次郎」の広告は,2枚の銅版画からなっていることがわかりました。1枚目は,カレンダーに掲載されたもので,2枚目には,1枚目の店先に続く建物と,裏手の蔵が描かれていました。勝手口でしょうか,「はい原」の表札も見えます。(図2)(図3

図2.「榛原直次郎」(店舗部分)(銅版画)
図3.「榛原直次郎」(図2の続きの銅版画)

♪この銅板に彫られている榛原[中村]直次郎の妻・八重は,三宅秀の娘です。兄に三宅鑛一がいます。

♪「榛原」の創業地については,中村明男氏(三宅秀の曾孫・榛原社長)にお会いした時に,日本橋「西川」の隣の辺りとお聞きしていました。

♪国立国会図書館のデジタル資料を調べたところ,『東京市街地圖,日本橋區之部』(小林儀三郎著 小林組発行 明治37年)で「榛原」の場所が特定できました。創業当時の「榛原」は,日本橋のたもとで営業していたことがわかります。

榛原創業地の場所(出展:国立国会図書館デジタルライブラリー

 

榛原の場所の変遷

創業地日本橋区通壱丁目壱番地(現・中央区日本橋1丁目5番地辺り)

 

昭和5年(1930):中央区日本橋2丁目7-6へ新築移転

日本橋西川の隣から移転された当時の榛原

 

日本橋タワービルに新築移転される前の榛原ビル

 

平成25年現在:日本橋地区再開発の為仮店舗で営業(中央区日本橋2-8-11 旭洋ビル2F)

♪現在(平成25年)(注),「榛原・はいばら」は,「日本橋二丁目市街地再開発」のために仮店舗で営業中ですが,新店舗がどのようなお店になるのか楽しみです。

♪8月になると,亡くなられた中村明男氏と小石川植物園(東京大学総合研究博物館・小石川分館)のなかにある旧東京医学校本館遺構を見学したことを思い出します。

参考文献

1)『東京商工博覧絵,下』(国立国会図書館デジタル化資料)(『明治期銅版画東京博覧図全三巻 東京商工博覧絵』[湘南堂書店発行 昭和62年])
2)『桔梗:三宅秀とその周辺』(福田雅代編纂・発行 昭和60年)

(平成25年7月25日 追記 堀江幸司)

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新店舗の住所

その後、新店舗は完成して、現在(平成29年)の「榛原」の住所は、以下の通りです。

住 所:〒103-0027 東京都中央区日本橋2-7-1 東京日本橋タワー

電 話:03-3272-3801

 

(平成29年7月29日 追記)

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♪日本橋室町にある千葉銀行東京営業部に行く用事があって、帰りに、東京日本橋タワーのビル前の中央通りに面して建つ「榛原」に寄ってきました。伝統美を感じさせるオシャレでモダンな建築です。

♪和紙などを買い求める常連客と思われ人びとの出入りが多く、外人客の姿もありました。

♪来年の「榛原千代紙」のカレンダーと干支(亥)の置物を買いました。先代社長の中村明男氏が偲ばれます。

榛原(平成30年10月24日 堀江幸司撮影)

(平成30年10月24日 追記)

 

21. 中村明男氏と旧東京医学校本館遺構へ行く

♪平成14年8月15日(木)、中村明男氏(日本橋・榛原社長、三宅秀の曾孫)を誘って旧東京医学校本館(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館:文京区白山3-7-1)へ行ってきました。

♪地下鉄・都営三田線の白山駅のA1の改札口で待ち合わせて、新白山通りを渡り、白山下交差点から蓮華寺坂を登り御殿坂を降りて、小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)に向かいました。(註1)

♪旧東京医学校本館(昭和45年6月17日重要文化財に指定)は、小石川植物園の一番奥の日本庭園内に移築されています。明治村といった感じです。

♪東京大学総合研究博物館小石川分館としてリニューアルされた建物の受付で、記帳の際に、中村明男氏が三宅秀の曾孫に当ることをお話すると、「三宅コレクション」の展示を担当された藤尾直史先生(総合研究博物館情報メディア研究系)が案内してくださいました。お話によると、この建物は、リニューアルされる前は、学術情報センターとしても使われていて、リニューアルに際して、天井を剥がして、梁が見えるようにしたとのことでした。この空間のなかに、三宅秀、宇野朗、ベルツ、スクリバ、森鴎外、三上参次がいたことになります。

 

三宅 秀


♪「三宅秀博士旧蔵コレクション(医学図書館旧蔵)」として、外科道具一式(ケース入り)、補聴器、聴診器、眼科器械などの展示のほかに、「東京帝國大學醫科大學醫院の図面」や模型(旧東京医学校本館、医科大学法医学教室)などが興味を引きました。

中村明男氏と旧東京医学校本館遺構 (1)
中村明男氏と旧東京医学校本館遺構 (2)
中村明男氏と旧東京医学校本館遺構 (3)

♪その足で、東京大学本郷キャンパス内にある東京大学総合研究博物館で開催中の「新規収蔵展示 三宅コレクション展」に向かいました。千川通りでタクシーに乗ったのですが、共同印刷の前を通ったときに、中村明男氏から、三宅家は、この共同印刷の裏手辺りにあったとのお話を伺いました。(註2)

♪東京大学総合研究博物館は、赤門を入って右手の奥にあります。「三宅秀博士旧蔵コレクション」の展示のうち渋江長伯(関連連載第19回第20回)のコレクションとされる『植物標本』やシーボルト関連の展示物がとくに興味を引きました。また書棚に収められていた三宅文庫のうち『日記』にも大変興味を持ちました。

♪見学を終え、医学書院ならびの「カレーとコーヒーの店」(本郷3丁目交差点近く)でお昼の食事をしながら、『文久航海記』(第2版復刻版 三浦義彰著 篠原出版 1988)や三宅家の家系図を見せていただきました。『文久航海記』の著者の三浦義彰氏(千葉大学名誉教授)は三宅秀の孫に当る方です。家系図は、いずれ日本橋の榛原をお訪ねしたときに複写させてくださるとのことでした。

♪中村明男氏と別れたあと、本郷通りの古本屋さんに立ち寄り、帰りました。

(註1)旧東京医学校本館(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館)へは、小石川植物園を通らなくても、千川通り側の入口から直接入ることもできます。

(註2)三宅秀の伝記『桔梗』で調べたところ、三宅秀の住所は旧小石川区竹早町81番地(現在の文京区小石川4丁目)であることがわかりました。

(平成14年8月16日 記)(平成29年7月24日 追記)

20. 小石川植物園内:旧東京医学校本館・史料編纂掛旧庁舎(現在の東京大学総合研究博物館小石川分館)

小石川植物園

場 所:〒112-0001 東京都文京区白山3-7-1(都営地下鉄三田線 白山駅下車 A1 出口)

地 図:本郷界隈

♪小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)の中に、旧東京医学校本館が遺構(重要文化財)として残っています。何年か前のシソ研のお花見の会に参加された方は、ご存じかも知れません。

 

1986年4月27日撮影(堀江幸司)
旧東京医学校本館遺構(重要文化財):東京大学総合研究博物館小石川分館(2002年頃撮影)

 

戦前の小石川植物園(絵葉書)

♪この本館は、明治9年(1876)に東京医学校が本郷元冨士町に移された時に建てられたもので、森鴎外が龍岡町の下宿屋上條から鐵門を通して見ていた建物です。木造建築の西洋風の建物で、四面に時計を配した象徴的な搭屋を持ち「時計台」ともいわれていたそうです。

本郷の東京医学校本館(初期の医学部時代)(時計台)(明治初年)

♪東京医学校の中には、3室(80坪)からなる医学部文庫が設けられ、7,781部の医学洋書を収蔵していたそうです。森鴎外も、それらの洋書を使って勉強したのかもしれません。

♪旧東京医学校本館の写真が、北里大学医学図書館の宇野彰男さん(宇野朗、三上参次の曾孫)に贈っていただいた『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(吉川弘文館 1991)のカバー写真になっていました。

「明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談」(三上参次著 吉川弘文館 1991)

♪明治44年(1911)に、この東京医学校本館は2つに分割されて、前半部が1月14日から7月20日までの期間をかけて赤門脇の今の経済学部のある場所へ移され、後半部は神田錦町(一ツ橋)に移されて学士会館となりました。この赤門脇に移された部分に史料編纂掛が入ることになります。その事務主任(史料編纂所長にあたる)が三上参次(みかみ・さんじ)(東京帝國大學文科大學教授)(1865-1939)でした。

♪史料編纂掛庁舎のあと営繕課、施設部としても使用されましたが、昭和40年(1965)用途廃止となり、昭和44年(1969)3月に小石川植物園の現在地に復元・移築され、翌昭和45年(1970)重要文化財の指定を受けています。

♪三宅秀の事蹟をインターネットで調べていてわかったのですが、旧東京医学校本館が、平成13年(2001)11月12日に「東京大学総合研究博物館小石川分館」としてリニューアルされ、一般公開されていることに気づきました。そういえば、昨年、小石川植物園に写真を撮りに行ったときに、工事中だったのは、そのための工事だった訳です。

東京大学総合研究博物館小石川分館(建築ミュージアム)

♪この「東京大学総合研究博物館小石川分館」の本館にあたる「東京大学総合研究博物館」が本郷キャンパス内にあるのですが、現在「新規収蔵展示・三宅コレクション」と題した展示会が開催され、三宅秀ほか一族ゆかりの建築写真・科学物品などが展示されているようです。会期は9月1日までとなっています。問い合わせたところ月曜日が休館で、無料で見学できるとのことでした。(10:00-17:00)。

♪宇野さんから贈っていただいた『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』をきっかけとして、三上参次と三宅秀が繋がってきました。日本橋・榛原の中村明男氏(三宅秀の曾孫)を誘って、展示会に行ってこようと思っています。

(平成14年8月9日 記)(平成29年7月24日 記)

19. 「からたち寺」にぶつかる:漱石『三四郎』

Google MyMap : 本郷界隈

♪森鴎外の『雁』の主人公・岡田の散歩道に「臭橘寺(からたちでら)」が出てきます。今日、この「からたち寺」に偶然ぶつかりました。文献の中でのことです。

♪お昼休みに勤務先の女子医大を出て、夏目漱石にゆかりの夏目坂を下り、坂下にある本屋に向かいました。途中、次の連載のテーマを考えていました。夏目漱石、長與専斎に関係ある四谷の胃腸病院にしようか、それとも、「からたち寺」にしようか、などと思いながら、ぶらぶら降りていきました。

♪「からたち寺」については、どこかの文献で読んだおぼえがあったのですが思い出せません。本屋に入り、鴎外の文庫を探していて、司馬遼太郎の『本郷界隈』(街道をゆく37)(朝日文庫)(朝日新聞社)が目に入りました。この中に、「からたち寺」が載っていました。この『本郷界隈』は単行本では持っていたのですが、「からたち寺」が載っていることは、すっかりわすれていました。

♪「からたち寺」は、春日局(かすがのつぼね)(1579-1643)の菩提所である麟祥院(りんしょういん)(旧本郷区龍岡町 現文京区湯島4丁目)のことです。周囲がからたちの生垣でかこまれていたため、この名が出たといいます。

♪「からたち寺」は、漢字で「枳穀寺」とも書き、『三四郎』(漱石)の中に次のようなくだりがあります。

「二人はベルツの銅像の前から枳穀寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。表は大変賑かである。電車がしきりなしに通る」

三四郎池の周辺

 

 

(平成14年7月3日 記)(平成29年7月4日 訂正・追加)