11. 続・本郷東京大学構内:高島秋帆墓からベルツ・スクリバ胸像へ向かう

地図(Googe My Map) 本郷界隈:医史跡案内

高島秋帆墓所(Google earth):〒113-0023 東京都文京区向丘1丁目11−3(大圓寺墓地)

 

 

🚇(駒込)→🚇(本駒込)→🚇(東大前)

♪また、東京大学本郷キャンパス内にあるベルツ・スクリバの胸像を見に行ってみることにしました。今回も地下鉄南北線で「東大前」で下車し、直接ベルツ・スクリバの胸像に向かう予定でした。

♪「東大前」で下車したまではよかったのですが、高崎屋酒店(文京区向丘1-1-17が目に入り、ここにあったという追分一里塚の石碑が気になりました。高崎屋は江戸時代から続く老舗で、現金安売りで繁昌した酒店です。両替商もしたそうですが、現在の建物に昔の面影はありません。

本郷追分(左・旧中山道 右・日光御成道[岩槻街道・本郷通]) 中央の建物が高崎屋酒店

 

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♪ここは、日本橋を起点として中山道の一里目(約4キロ)にあたり、日光御成道・旧岩槻街道との分岐点で、かつては榎(えのき)がありました。石碑が置かれ旅の安全が祈られたといいます。

♪一里塚の標柱などは、現在、ここにはなく、大圓寺(だいえんじ)境内(文京区向丘1-11-3)に一部移された時期があったようです。山門をくぐって左手の庭先に置かれているのを見た記憶があります。

♪一里塚にあった道祖神・賽の大神碑は根津神社境内の駒込稲荷神社の近くに移されているようです。「桐の花」(渡辺兼男著)によると、賽の大神碑は、明治初年に火災で損傷していたものを駒込追分の町人たちが遺りの石を集めて改に「賽の大神碑」を建て、明治43年7月、根津神社に移したそうです。この碑の再建には、高崎屋酒店の主人であった渡邊仲蔵氏の尽力があったそうです。

♪明治43年に駒込追分から根津神社に移された「賽の大神碑」は、戦後、荒廃していた神社境内の改修に際して内苑の池の泥のなかに埋まっていたのが発見され立て直されたとのこと、近いうちに根津神社に行って実見してこようと思っています。

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♪大圓寺は高島秋帆(たかしま・しゅうはん 1798-1866 幕末の砲術家)の墓があることで有名です。

大圓寺は、旧中山道と御成道(本郷通り)に挟まれた場所にあります。白山上の交差点から、東大方向に向うと、左側、東京都立向丘高等学校に隣接した場所に参道への入り口があります。

大圓寺周辺略図

♪大きな「大圓寺」と刻また石柱が目印となっていますが、山門が旧中山道から奥まったところにあるので、行きつ戻りつしました。お墓を探してお参りするのも時間がかかります。

大圓寺

 

🌲本堂の左手が大圓寺の墓所になっていて、路地をわたって墓所へ繋がる門をくぐると右手によく手入れの行き届いた墓域が広がっていました。2022年6月18日に訪ねた折は、ちょうど植木屋さんが境内の清掃をしているところでした。

 

高島秋帆の墓へ向かう墓道(2022.6.18撮影

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♪高崎屋の前から中山道を大圓寺に向かったのですが、思いのほか距離がありました。中山書店(注)の前を通り、白山上交差点の近くに大圓寺はありました。境内にはシーボルトにも関係がある紫陽花が咲き乱れていました。

♪墓地ないのいたるところに綺麗なお花が植えてあって、蝶々が舞っていました。その蝶々に案内されるかのように高島秋帆のお墓への墓道を進みました。

♪高島秋帆のお墓は、墓地の一番奥まったところにありました。お墓の裏は、民家になっていて、白山上の風景も随分、かわったのだろうなと思われました。

注)中山書店の移転

 旧所在地
 〒113-8666 東京都文京区白山1-25-14

 新所在地(平成27年11 月24 日より)
 〒112-0006 東京都文京区小日向4-2-6

2022.6.18撮影
大圓寺墓地内の花々(2022.6.18撮影)

 

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♪大圓寺をあとにして、東京都立向丘高等学校と大圓寺に挟まれた路地を本郷通りに抜けて、東京大学構内に向かいました。

♪ベルツ・スクリバの胸像は、その説明版(石版)によると1907年4月4日に建てられたとあります。

東京大学名誉教師ベルツ先生(在職1876-1902)同スクリバ先生(在職1881-1901)は本学部創始のころ20年以上にわたってそれぞれ内科学外科学を教授指導し、わが国近代医学の真の基礎を築いた恩人である。この碑は両先生の功績を記念するため明治40年4月4日(1907)建設せられたが、このたび医学部総合中央館の新築にともなって昭和36年11月3日(1961)原位置の北方60メートルのこの地点に移した。 東京大学医学部

 

♪ベルツ(Baelz, Erwin von 1849-1913)は、ドイツの医者で、1876年に招かれて来日し、東京医学校、東京大学医学部、帝国大学医科大学の教師となり、生理学、病理学、内科学などを講じました。1902年まで在職し、その後、名誉教師となり、1905年に帰国しました。つまり、今年(2002)は、ベルツの退職後100年ということになります。

東京大学本郷キャンパス内のベルツ・スクリバの胸像

♪胸像の横に、「秋桜子」の句碑が建っていました。どうして、ここに「秋桜子」の歌碑があるのか、調査を続けたいと思います。

水原秋桜子の歌碑

帰りは、龍岡門を出て、本郷通りにもどり文光堂の前を通って、「東大赤門前」から都バスで駒込にもどりました。 

(平成14年6月16日 記)(平成29年5月30日 訂正・追加)(令和4年6月18日 写真を追加)

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ベルツ先生(明治27年写す)(絵葉書)
スクリバの肖像

9. 本郷・東京大学構内 : ベルツ・スクリバの銅像

東京大学本郷キャンパス(Google earth)

♪この1週間ほど少し風邪気味でした。無理をしないで、東大構内へは自転車でなく、地下鉄南北線で向かいました。「駒込」から南北線に乗ると「本駒込」、「東大前」となります。

♪「東大前」といっても、本郷通りと中山道の交差点辺り(農学部の近く)に駅の出入口があり、東大正門からは、随分離れています。医学部には本郷通りを本郷3丁目方向に歩いて正門を過ぎ、赤門から入ると正面が医学部本館になります。

 
明治後半の赤門(絵葉書)

♪医学部本館の横を通って、医学部中央館(医学図書館)の裏にベルツ・スクリバの胸像があります。新しく建築された病院前のバス通りに面ています。このベルツ・スクリバの銅像がある辺りは、春になると桜が咲き乱れます。

ベルツ・スクリバの銅像の除幕式が行われたのは、明治40年(1907)4月4日のことでした。晴れ渡った空に大小無数の日独両国の国旗が美しく飾られ、銅像建設委員長の青山胤通教授から濱尾新総長に銅像が引き渡されたそうです。

出典:ベルツ・スクリバ両教授銅像除幕式(東京医事新報:1507号 52[756]-55[759])明治40.4.13発行
 
平成23年12月16日撮影(堀江幸司)
 
 
 
戦前のベルツ・スクリバ像(絵葉書)
 
 
 
 
 
 
 
 
♪東大構内には、ベルツ・スクリバの銅像のほかにも、医史跡が点在しています。おいおい紹介します。

 

 
 
 

(平成14年6月2日 記)(平成29年5月30日 訂正・追加)(平成30年11月29日 絵葉書を追加)

(令和元年[2019]11月23日 文献を追加)