76. 木下杢太郎・兄太田圓三と永代橋・両国橋(1)

   
♪木下杢太郎(本名・太田正雄)の兄太田圓三は,東京大學土木工學科卒業の土木技術者で,鉄道省と関東大震災後の復興局(東京市土木部長)で仕事をし,隅田川に新しく橋を架けました。

太田圓三:『帝都復興事業に就いて

♪太田圓三は,東京大學工學部教授・田中豊を引き抜いて橋梁課長とし,相生橋(1926),永代橋(1926),清洲橋(1928),蔵前橋(1927),駒形橋(こまがたばし)(1927),言問橋(ことといばし)(1928)の六つの橋をデザインおよび工法を変えて架橋する計画をたてています。

相生橋(絵葉書)
永代橋(絵葉書)
清洲橋(絵葉書)
蔵前橋(絵葉書)
駒形橋(絵葉書)
言問橋(絵葉書)

♪このとき,復興局で活躍していたのが後藤新平(水沢藩出身)(1857-1929)でした。太田圓三は,後藤新平の思いを胸に,隅田川全体の調和と美観にこだわった橋を架けることに情熱を傾けることになります。

♪清洲橋,蔵前橋,駒形橋,言問橋の4橋は,当時の東京市民の投票によって,橋名が決まったそうです。隅田川の橋には,いまでも,この名前が使われています。

♪木下杢太郎は,兄圓三とは,明治35年(1902)に義父・惣兵衛が本郷・白山御殿町に新築した住宅に同居するなど,東京生活を通して,仲のよい兄弟でしたが,太田圓三は大正15年(1926)3月21日,「隅田川六大橋」の完成をみないで,神経衰弱のため自殺します。

永代橋開通記念絵葉書(大正十五年十二月)

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♪木下杢太郎は,亡き兄圓三が心血を注いで設計した永代橋を想って,『春のおち葉』のなかで次のような詩を詠んでいます。

永代橋工事

 過ぎし日の永代の木橋は
  まだ少年であつたわたくしに
  ああ,どれほどの感激を與へたらう。
  人生は悲しい。
  またなつかしい,面白いと,
  親兄弟には隠した
  酒あとのすずろ心で,
  傳奇的な江戸の幻想に足許危く
  眺めもし,佇みもした。
  それを,ああ,あの大地震,
  いたましい諦念,
  歸らぬ愚痴。
  それから前頭の白髪を気にしながら
  橋に近い旗亭の窓から
  あの轟轟たる新橋建設の工事を
  うち眺め,考へた。
  これも仕方がない,
  時勢は移る。
  基礎はなるべく近世的科學的にして,
  建築様式には出来るだけ古典的な
  荘重の趣味を取り入れて造つて貰ひたい。
  などと空想して得心した。

それだのに,同じ工事を見ながら,
  今は希望もなく,感激もなく
  うはの空にあの轟轟たる響を聴き,
  ゆくりなくもさんさん涙ながれる。

あんなに好きであつた東京,
  そして漫漫たる隅田のながれ。
  人生は悲しい,
  ここは三界の火宅だと
  ――ああ恐ろしい遺傳――
  多分江戸の時代に
  この橋の上で誰かが考へたに相違ない,
  それと同じ心持が今のわたくしに湧く。

水はとこしへに動き,
  橋もまた百年の齢(よはひ)を重ねるだらう。
  わたくしの今のこの心持は
  ただ水の面にうつる雲の影だ。

    ×

  行く水におくれて淀む花の屑

  永代の新橋は亡兄の心血をそそぐ濺ぎ設計せるものにてありけるなり。

♪詩のなかに出てくる「三界の火宅」という言葉は,法華経の「欲令衆」にあります。朝の「朝夕のおつとめ」のなかで唱えられます。

三界は安きことなし。なお火宅の如ごとし。衆苦充満して,はなはだ怖畏すべし。常に生老病死の憂患あり。かくの如き等の火,熾然としてやまず。如来はすでに三界の火宅をはなれて,寂然として閑居し。林野に安処せり。

♪兄圓三が,すでに,「林野」いることを知っていても,大地震のあと,隅田川橋梁の復興に全力を捧げた兄への想いを,永代橋の上にたち,隅田の流れをみて,感じていた太田正雄が,そこにいます。

♪工事の基礎は,近代的科学的にして,その設計様式は,古典的なものにする。太田圓三の設計思想は,東日本大震災の復興計画にも,活かされるべき考え方のひとつではないでしょうか。いつも,こころのなかに,林野を持ちたいものです。

(平成15年11月1日 記)(平成24年1月16日 堀江幸司 記す)