26. 「解体新書」慶應義塾大学メディアセンター:〔2〕『解體新書』(邦訳本) 杉田つる氏寄贈本

慶應義塾大学メディアセンター:〔2〕「解体新書ほか(解剖学コレクション)」:『解體新書』 杉田つる氏寄贈本

♪慶應義塾大学でデジタル化された『解體新書』『解躰約圖』に、「昭和21年6月21日 杉田つる氏寄贈」の受入印がありました。杉田つる氏とは、杉田玄白と関係ある方ではないかと思って、調べてみました。

♪『解體新書』を慶応義塾大学に寄贈したのは、杉田玄白の子孫で医者の杉田つる(鶴子)(1882-1957)だと思われます。

 

杉田家々譜

初代 杉田 玄伯  後改甫仙,元禄十五年始メテ酒井候ノ醫官トナル

二代 杉田 伯元  後改甫仙ほせん

三代 杉田 玄白  名翼,號鷧齋いさい九幸きゅうこう 始テ蘭書ヲ翻譯シ解體新書ヲ刊行ス,
享保十八年九月十三日生,文化十四年四月十七日卒,八十五歳

四代 杉田 玄白  名勤,號紫石,始メ伯元,後玄白ニ改ム,實ハ奥州一ノ
関田村右京太夫侍醫建部清庵五男ニシテ,鷧齋いさいノ長女ヲ
妻トシテ養子トナリ家ヲ継ク

五代 杉田 白玄  紫石ノ二男(長男ハ二十一歳ニシテ歿ス),明治七年卒,
六十九歳

六代 杉田 玄端9)  白玄ノ養子ナリ,幕府ニ召サレテ一家ヲ為ス

玄端の息子(二男)の雄が杉田つるの父にあたる

七代 杉田  武  玄端ノ長男ニシテ家ヲ嗣ク,現ニ東京ニ在リ

♪明治38年(1905)、大阪市私立關西醫學院に入学。父の雄(いさお)の死後、東京の私立日本医学校(現・日本医科大学)に転学し、明治41年(1908)医術開業試験に合格。東京帝國大學醫科大學小児科教室(弘田長〔つかさ〕教授)の研究生となり、傍ら明治44年(1911)2月に新花町(本郷二丁目)で小児科医院を開業していたことがわかりました。また、杉田鶴子は、女流歌人でもあり、キリスト信者でもありました。昭和15年(1940)には、歌集『菩提樹』を出版しています。

♪日本女医会とも関係があったようです。『日本女医会雑誌』の発行人を務めています。発行人の住所は、新花町39番地(現在の文京区湯島の東京ガーデンパレス裏の蔵前橋通り側の辺り)となっています。

♪東京女医学校(現・東京女子医科大学)の創設者である吉岡彌生とも関係があったようで、『愛と至誠に生きる 女医吉岡彌生の手紙』(酒井シヅ編 NTT出版 2005)のなかにも、登場します。

♪昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により自身の医院と監督していた本郷三丁目の日本女医会事務所を失い、二宮に軍事保護院相模保育所を開設します。保育所は、終戦後も国立東京第一病院付属相模保育所として存続され、昭和21年(1946)3月からは、同病院二宮分院となり、杉田鶴子は、その主任医師として、再出発したようです。『解體新書』が慶應義塾大学に寄贈されたのは、この時期かと思われます。

♪杉田鶴子が勤務した国立東京第一病院二宮分院は、昭和40年(1965)4月国立小児病院二宮分院として、組織替えとなります。さらに、国立小児病院二宮分院は、平成14年(2002)3月1日に、国立療養所神奈川病院と統合され、現在は、独立行政法人国立病院機構神奈川病院となっています。

♪杉田鶴子に関しては、日本女医会での活躍など調べたいことも多く、稿をあらためます。慶應義塾大学に寄贈された『解體新書』に話をもどします。

♪杉田つる氏が寄贈した『解體新書』の巻之四の奥付をみると、京都(三條通御幸町角)の書籍出版 発行所 大谷仁兵衛の印があります。この印や、奥付にある赤字の「距今茲昭和六年実百五十七年」の書き入れをみると、この『解體新書』は、安永3年(1774)から代々杉田家に伝わっていたものではなさそうです。

表紙裏にも、岡田信利(杉田玄白・玄孫)による赤字(昭和6年1月)の書き込みがあります。大正12年9月1日におきた大震災により焼失した和蘭訳本を2年後に和蘭海軍軍医から東京帝国大学へ長與又郎教授を通じて寄贈されたこと、独逸語原本も独逸から寄贈を受けたことが書かれています。

♪杉田家に代々伝わっていた杉田玄白による『解躰新書』(邦訳本)も大震災によって焼失したので、昭和のはじめに京都の書肆である大谷仁兵衛から入手したのが杉田玄白の玄孫・岡田信利であったのかもしれません。

★★

♪『解體新書』の現代語訳である『新装版解体新書』(酒井シヅ訳 講談社 1998講談社学術文庫1341)と全復刻を含む『解体新書と小田野直武』(鷲尾厚著 翠楊社 1980)という書籍があります。どちらも、『解體新書』を知る基本資料と思われます。

♪『解体新書と小田野直武』には、『解體新書』の序圖一巻中の序文・自序・判例・跋文の漢文からの書下し文があり、参考になります。

♪『新装版解体新書』の巻末に小川鼎三先生が解説として「『解体新書』の時代」の一文を寄稿されています。そのなかに次のような一説があります。

「・・・・・『解体新書』は付図もふくめてすべて木版である。初版が何部刷られたのか判明しないが、おそらく需要がかなり大きく、ひきつづきいく度か増刷されたようで、後には版木がだいぶ痛んでいたと思う。その点に留意して、なるべく最初の刷りに近いものをと考え、序図は慶応大学北里記念図書館所蔵のものを原本として選んだ。」

♪小川鼎三先生が原本として選んだ『解體新書』の付圖を、慶應義塾大学信濃町メディアセンターに所蔵するアナトミアコレクションのなかで、確認することができるわけです。こんなにすばらしいことはありません。

♪適塾で蘭學を学んだ福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)(1835-1901)(中津藩)の精神をみる思いとともに、現代から未来に、それを新しいIT技術で伝えて行く図書館員の努力が重なってみえてくようです。

♪『古醫書目録』(改訂版 慶應義塾大学北里記念医学図書館 1994)によると、慶應義塾大学では、『重訂解體新書(ちょうてい・かいたいしんしょ)』も所蔵しているようですので、いずれ、アナトミアコレクションとして、デジタル化されるのではないかと思われます。(2017年8月現在、デジタル化は済んでいます。)

♪『解體新書』を大槻玄沢(おおつき・げんたく)(1757-1827)(一関藩)が訳し直して、文政9年(1826)刊行した『重訂解體新書(ちょうてい・かいたいしんしょ)』は、慶応義塾大学のほかにも「東京大学医学図書館デジタル史料室」のなかでも、デジタル化されています。また、『解體新書』が刊行される前年の安永2年(1773)に「解体新書」の内容見本として出された「解體約圖」も、東京大学附属図書館の電子展示のなかでみることができます。

♪杉田玄白と吉岡彌生とが、『解體新書』を慶應義塾大学に寄贈した杉田つる氏を通して、繋がってくるとは、思ってもいませんでした。やはり、本郷界隈は、「江戸東京」の散歩のポイントには、事欠かない地域であるようです。

(平成19年9月23日 秋分の日 記)(平成29年8月8日 追記)(令和4年6月29日 リンク見直し)(令和5年11月8日)

25. 「解体新書」:慶應義塾図書館:〔1〕「解体新書(アナトミア)」 藤浪氏蔵本:独逸原本、蘭訳本、ラテン語本

慶應義塾大学メディアセンター:〔1〕「解体新書(アナトミア)」 藤浪氏蔵本:独逸原本、蘭訳本、ラテン語本

♪『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年〔1774〕)は、ドイツ人のヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus〔1689-1745〕)が、1732年に著した『Anatomische Tabellen』(ドイツ語)を、オランダ人のゲラルジュス・ディクテン(Gerardus Dicten〔1696?-1770〕・ライデンの外科医)が、1734年に『Ontleedkundige tafelen』としてオランダ語に翻訳したものを、安永三年〔1774〕に杉田玄白(1733-1817)(小浜藩医)、前野良沢(1723-1803)(中津藩医)、中川淳庵(1739-1786)(小浜藩医)らが邦訳(漢文)したものです。『解體新書』は、重訳本です。

独逸原本:(Johann Adam Kulmus著)
『Anatomische Tabellen』(第3版 アムステルダム 1732)

蘭訳本:(Gerardus Dicten訳)
『Ontleedkundige tafelen』(アムステルダム 1734)

邦訳本(漢文):(杉田玄白・前野良沢・中川淳庵訳)
『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年〔1774〕)

♪当時、杉田玄白らは、原著者のクルムスをドイツ人ではなくオランダ人と思い、『Ontleedkundige tafelen』が、ドイツ語からオランダ語への翻訳本であることを知らなかったようです。

♪重訳された『解體新書』(江戸 須原屋市兵衛 安永三年)は、序圖1冊と本文4冊(巻之一、巻之二、巻之Ⅲ、巻之四)の全5冊本です。

♪当時の蘭學者に『解體新書』が『ターヘル・アナトミア』の呼ばれたのは、蘭訳本の扉絵(口絵)にラテン語で「TABULAE AMATOMICAE」とあり、それが蘭語に転訛したからともいわれています。

♪『ターヘル・アナトミア』は、『クルムス解剖書』、『簡約解剖書』、『クルムス解剖図譜』、『解剖図表』といわれます。

♪原著者のJohann Adam Kulmusは、『解體新書』のなかでは、「與-般-亜-単-闕-兒-武-思」と表記され、「ヨ-ハン-ア-タン-キュ-ル-ムス」とルビがふってあります。また、『ターヘル・アナトミア』は、「打-係-縷-亜-那-都-米」(タ-ヘ-ル-ア-ナ-ト-ミイ)とあります。

◇◇◇

♪先日、図書館の別置書架に『解體新書を中心とする解剖書誌』と題する昭和18年刊行(岩熊哲〔いわくま・とおる〕著)の図書があることに気がつきました。そのなかに、著者が調査した『クルムス解剖書』の所蔵者の名前が載っていて、上記の独逸原本(1732年 アムステル版)と蘭訳本(1734年 アムステル版)の両方を藤浪剛一氏が所蔵しているとありました。

♪藤浪剛一(ふじなみ・ごういち)(1880-1942)は、愛知県名古屋市東区久屋町159番戸に、尾張候の侍医であった藤浪家の四男として生まれます。明治39年(1906)岡山医学専門学校卒業後、同校病理学教室から東京帝國大學醫学部皮膚科介助とり、土肥慶蔵教授に師事しています。ここで医史学的環境に触れたと思われます。その後、ウィーン大学に留学。レントゲン学を専攻して、明治45年(1912)帰国後、順天堂医院にレントゲン科長として勤務。大正9年(1920)慶應義塾大學醫學部が開設されたとき、教授(理学的診療科主宰)となっています。

参考文献:
〔1〕故藤浪剛一先生略歴及び病歴(大島蘭三郎著) 『日本医史学雑誌』1315号:217-219、1943.
〔2〕『藤浪剛一追悼碌』(昭和18年 藤浪和子編)

♪藤浪剛一は、医史学の分野でも活躍し、富士川游(ふじかわ・ゆう)(1865-1940)のあとを継いで昭和15年(1938)11月から日本医史学会理事長を務めるなど、多くの業績を残していますが、夫人の藤浪和子とともに、掃苔家(そうたいか)としても著名でした。わたしも、医史学に興味を持ちはじめたときに、神田神保町の慶文堂古書店で購入した一冊に、藤浪和子著の『東京掃苔録』(昭和15年)があります。

参考文献:
『富士川游先生』(「富士川先生」刊行会 1954)

♪昭和18年(1943)当時、藤浪剛一の所蔵であった『ターヘル・アナトミア』の独逸原本、蘭訳本などは、戦火をさける目的もあって、慶應義塾大学に、貴重書として保管されたのではないかと、ふと思いました。

♪慶応義塾図書館のホームページをみると、「慶應アーカイブス」のなかに「慶應義塾図書館デジタルギャラリー」(慶應義塾大学学術情報アーカイブ〔KOARA/A 仮称〕)のコンテンツがあり、慶應義塾大学信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館)が所蔵するアナトミアコレクション(古医書)の一部を電子化し、「解体新書 ほか(解剖学コレクション)」として公開していることがわかりました。

♪「解体新書(アナトミア)」のコンテンツでは、杉田玄白の『解體新書』のほか、『Anatomische Tabellen』(独逸原本)、『Ontleedkundige tafelen』(蘭訳本)、『Tables anatomiques』(仏訳本)、『Tabulae anatomicae』(ラテン語本)の、『ターヘル・アナトミア』のほとんどをデジタル化しています。『解體新書』に関する、すばらしい、デジタルアーカイブスのコレクションを形成しています。

♪デジタル画像をみていくと、『Anatomische Tabellen』(独逸原本) 『Ontleedkundige tafelen 』(蘭訳本)『Tabulae Anatomicae』(ラテン語本)の標題紙に「藤浪氏蔵」の蔵書印があることに気がつきました。やはり、藤浪剛一旧蔵の『ターヘル・アナトミア』は、慶應に保管されていたのでした。慶應にあるのではとは想像しましたが、それが、デジタル化され、公開までされているとは思ってもいませんでしたので、驚きでした。

◇◇◇◇◇◇

♪先に紹介した『解體新書を中心とする解剖書誌』のなかで、著者の岩熊哲は、『解體新書』の独逸原本(アムステルダム版 1732)の藤浪氏蔵本について次のように書かれています。

「藤浪博士御所蔵の独逸本はアムステルダムから刊行された第三版である。ただし私は直接に拝見したわけではないが、藤浪先生の御好意で表題を知り得たから参考までに誌しておく。・・・Fがすべて二重エフになっている所に御注意ありたい。この174-206頁には丁附(pagination)がないと岩崎さんは報じている。」

岩崎さんとは、蘭學史で有名な岩崎克己のことです。

♪岩熊哲は、戦前、机上に『ターヘル・アナトミア』の独逸本(第4版 1741)と蘭訳本を揃えて、比較、検討したそうですが、いまでは、それを、コンピュータ上で比較できる時代となったわけです。

♪デジタル化された『Anatomische Tabellen』のはじめは、扉絵(口絵)と標題紙からなり、標題紙の左下隅に「藤浪氏蔵」の印があります。押されている位置と印影は、『解體新書を中心とする解剖書誌』のなかで紹介されている藤浪氏蔵本の標題紙の圖と一致します。

♪『解體新書を中心とする解剖書誌』によると、「174-206頁には丁附(pagination)がないと岩崎さんは報じている」とありました。そこで、デジタル化された藤浪氏蔵本で確かめてみたところ、頁付けは、きちんと付いています。

♪慶應の『解体新書(アナトミア)』のデジタル化には、「LOGOSWARE FLIPPER」というデジタルブック制作ソフトが使用されています。「ページをめくりながら読む」という本の持つインターフェースを採用しているところに特徴があります。画面の拡大・縮小・移動なども自由にできます。そのデジタル画像は、所蔵者だった藤浪剛一の指紋も、浮かび上がってくるのではないか、と思わせるほど鮮明です。

♪独逸原本(Dritte Aufflage)(AMSTERDAM / JANSSONS von WAESBERGE MD.CCXXXII)と蘭訳本(Te AMSTERDAM By de JANSSONS VAN WAESBERGE MDCCXXXIV)の扉絵(口絵)と標題紙を、「LOGOSWARE FLIPPER」の拡大や移動の機能を使って、比較してみてみました。

♪独逸原本と蘭訳本とでは、ローマ数字の記載方法に違いがあります。独逸原本では、刊行年の1732をローマ数字でMD.CCXXXII.と表記し、DとCとの間に.(ピリオド)が打たれていますが、蘭訳本の刊行年の1734は、MDCCXXXIV.と表記されていて、DとCとの間にピリオドはありません。

♪また、独逸原本の刊行年のMD.CCXXXII.は、その数字の部分だけの版を作ってはめ込んで、標題紙全体の版の一部にしたように見えました。MD.CCXXXII.の下に、かすれた線があるように見えるからです。当時の印刷方法がわからないので、はっきりとはいえませんが、そのように感じました。

♪独逸原本と蘭訳本には、有名な第1圖表である扉絵(口絵)が付いています。ラテン語本には、圖がありません。

♪扉絵は、書棚を背景にして、人体をのせた解剖台があり、その前景として、解剖用器具の台を置くという構図となっています。拡大機能を使って、いろいろ、この圖を隅から隅まで見ていました。

♪左下隅にJ.C.PHILIPS inv、右下隅にet fecit 1731の文字が見えました。この口絵は、J.C.PHILIPSによって、1731年に描かれたもののようです。こんな細かい文字まで写しこんであるデジタル技術と、それを閲覧させるソフトのすばらしさを感じました。

♪藤浪氏旧蔵であった『ターヘル・アナトミア』の標題紙や圖などを、さらに、コンピュータ上で、比較していければと思っています。

(平成19年9月16日記)(平成29年8月6日 追記)(令和4年6月29日 リンク訂正)