7.緒方洪庵が通った「安懐堂」と「日習堂」:江戸深川・木場界隈

♪今年(2010)は,緒方洪庵(1810-1863)が誕生して,200年目にあたります。昨年は,時代劇ドラマで,洪庵をNHKの「浪花の華 -緒方洪庵事件帳- 」では窪田正孝さんが,TBS系の「JIN -仁-」では武田鉄矢さんが,それぞれに演じて,話題になりました。

♪「JIN -仁-」がドラマとして完成度が高かったのは,原作,脚本,演出,配役,カメラ,照明,美術,編集,音楽,時代考証,医療指導(監修)など,どれひとつとっても,丁寧で素晴らしく,とくにドラマの前半部分では,洪庵がドラマの縦糸となって物語を紡いでいたように思えました。仁の過去と未来への思いが,洪庵とのふれあいのなかで,揺れ動き,医療の在り方を考えさせられる社会派ドラマのようにも思えました。

♪華やかな女優陣に囲まれながら,洪庵を演じ切った武田鉄矢さんの演技は,こころに沁み入るものがありました。洪庵という人間像を醸し出していたようにも感じました。

♪仁が髙林寺の洪庵のお墓に向かうシーンも印象深く,記憶にのこりました。幕末のころの駒込髙林寺の周辺は,こんな風な情景設定になるのかと,思わず感心しました。

♪そして,なにより,好きだったのが,音楽。場面毎に流れる音楽も,このドラマを引き立てていました。タイトルバックの音楽よかったですね。MISIAの主題歌「逢いたくていま」も秀逸でした。

♪その洪庵の「若き日の江戸での足跡は?」とのご質問とご意見を「江戸東京」にいただきました。緒方洪庵の専門家ではないので,面喰いましたが,散歩の範囲で調べてみました。

♪若き日の緒方洪庵(1810-1863)1)2)は,天保2年(1831)から天保6年(1835)までの4年間,江戸へ出て,坪井つぼい信道しんどう(1795-1848)の蘭学塾である「安懐堂(あんかいどう)」と「日習堂(にちしゅうどう)」で修業します。信道の門に入ったのは,天保2年(1831)2月,22歳のときでした3)

♪「安懐堂」は,文政12年(1829)から天保7年(1836)までの塾名で,場所は深川上木場三好町4)。三好町は,木場の木置場に面した町でした5)。現在の江東区立深川六中学校の辺りかと思われます。周辺には木場公園や親水公園など自然豊かな場所が残されています。

♪洪庵が「安懐堂」時代に訳したローゼの『人身窮理学小解』(じんしん・きゅうりがく・しょうかい)の写本に「天保歳次壬辰十二月訳干安懐堂南窓下」とあります4)

♪信道は,洪庵が江戸へ来た天保2年(1831)に青地林宗(あおち・りんそう)(1775-1833)の長女・粂(クメ)と結婚し,翌天保3年(1832)に深川冬木町に新居を設けます。

♪この深川冬木町に開いたのが「日習堂」。「日習堂」は「安懐堂」の西南500メートル程離れた場所に位置し,仙臺堀の亀かめ久ひさ橋を渡った対岸の地にありました。現在の江東区立深川第二中学校の辺りかと思われます。

♪亀かめ久ひさ橋は,歴史のある橋で,文久2年(1862)の『本所深川絵図』をみると仙台堀に架かっています。小説『鬼平犯科帳』にも登場し,享保11年(1726)には,すでに掛け替えがあった橋のようです。

♪洪庵は,仙臺堀の亀久橋を渡り,「安懐堂」と「日習堂」を行き来して,翻訳や按摩の仕事をし,義眼をつくりながら,蘭学に励んでいたのでしょうか。

亀久橋 橋の遠景に建設途中の「東京スカイツリー」がみえる  (平成22年5月16日 堀江幸司撮影)


♪洪庵が青春時代を過ごした現在の
仙台堀川公園の周辺には,ホタルが星降るような自然はありませんが,それでも春には桜が咲く,憩いの場所になっています。

♪仁が,江戸で修業中の洪庵のいる深川木場にタイムスリップ,そして,そこから,洪庵とともに,現在の浅草界隈にでもワープしたら,どのようなストリー展開になるかなどと,勝手な妄想を廻らせています。

♪江戸時代の深川の町並みを再現した「深川江戸資料館」は,現在,改修工事中で,今年(2010)の7月まで,休館しています。

参 考 文 献

1)『緒方洪庵伝』(第2版)(緒方富雄著 岩波書店 1963)

2)『緒方洪庵 ―幕末の医と教え―』(中田雅博著 思文閣出版 2009)

3)『蘭医家坪井の系譜と芳治』(斎藤祥男著 東京布井出版 1い988)

4)「安懐堂と日習堂」(片桐一男)『蘭学資料研究会研究報告』第222回 pp.5-6, 1969.

5)『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』(人文社 2002)

(平成22年4月29日 記す)(平成22年6月5日 写真追加)(平成29月5月23日 訂正・追加)

6.足守の思い出:「洪庵緒方先生碑」の碑文:「緒方洪庵誕生地」

第1回で、緒方洪庵のお墓がある本郷の高林寺(こうりんじ)のことを書いたとき、岡山県足守(あしもり)にある誕生地についても触れました。

 

参考文献:緒方洪庵誕生地(堀江幸司 文・写真) 医学図書館 33(2) : 204-205, 1986.

♪長崎のことを書くにあたって、古いアルバムなどを繰っていたら、足守へ行ったときの写真も出てきました。そのなかに、「洪庵緒方先生碑」の石碑の裏にある碑文を撮った写真がありました。

「洪庵緒方先生碑」碑陰にある碑文(1986年撮影)

 


♪「洪庵緒方先生碑」のある場所は、明治のはじめまで、洪庵の兄が住み、大正の末期に岡山県に寄贈された洪庵の本家佐伯氏の旧宅跡だそうです。敷地面積は686平方メートル。敷地の入り口は、傾斜地になっていて、その正面、敷地の中央奥に顕彰碑が、建立されていました。自然石でつくられ、碑陰には、碑文が刻まれていました。

♪「洪庵緒方先生碑」の碑文のことでは、思い出があります。この碑文を書き写すにも、あまりに長文で、なにしろ碑が大きいものですから、高い位置に書いてある文字は、よく見えません。そこで写真に収めておきました。

♪そのころの写真は、デジタルではありませんので、その場で撮影の状態を確認できません。そこで、念のために、近くにあった岡山市立歴史資料館でなにか碑に関する資料がないか、調べてみることにしました。その全文が載った古い手書きの資料を発見しました。やはり、郷土資料は、地元の図書館・資料館を利用するのが一番だと、痛感しました。

 

 

足守文庫

 

 

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♪碑文は、岡山県医師会長・藤原鐡太郎氏によるもので、昭和2年(1927)10月に書かれ、碑面の題字は、当時、京都帝國大學総長であった荒木寅三郎の手になるものでした。石の下には、洪庵の臍緒と産毛、および元服のときの遺髪が埋められているそうです。いまから、ちょうど80年前のことです。

 緒方洪庵像の碑文の題字を書いた荒木博士肖像画(絵葉書)

♪昭和3年(1928)5月27日に挙行された除幕式には,碑面に題した荒木京大総長をはじめとして林慶應義塾々長田中岡山医大学長など,多数の参加者があり、遺族総代として緒方銈次郎緒方収二郎も参加しています。式後,近水園内の吟風閣(ぎんぷうかく)(京都御所 <仙洞御所・中宮御所>の普請の残材で築造された茶室風の建物)で記念撮影が行われたそうです。

 

♪碑文が書かれた昭和2年(1927)という年は、現在の日本医学図書館協会(創立当時は「官立醫科大學附属図書館協議会」といった)が創立された年にもあたります。第1回総会が、新潟醫科大学で開催され、岡山醫科大学からも松田金十郎が出席しています。当時の岡山醫科大学の館長は、生沼曹六教授でした。日本医学図書館協会が、洪庵の碑と同じ年にできたというのも、なにか不思議な縁を感じます。洪庵の曾孫にあたられる緒方富雄先生(東京大学医学部血清学教室教授)が、日本医学図書館協会の第2代会長(1956-1962)となり、協会の発展に尽力されたからです。

 

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♪わたしが足守に行った4年後の平成2年(1990)7月には、洪庵の生誕180周年記念事業として、「ブロンズ座像」が作られ、「洪庵緒方先生碑」に向かって左側に置かれました。敷地内の整備も行われたようです。入り口付近も、わたしが行ったときとは、大分、様子が変わり、傾斜地には、階段がとりつけられているようです。

♪資料のなかで「洪庵緒方先生碑」碑文の項には、碑文の全文が、次のように記録してありました。少し長くなりますが、のちのちのために、引用しておきます。

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洪庵緒方先生碑

(碑陰)

緒方洪庵先生ハ杏林ノ逸材ナリ。文化庚午七年十四日備中足守藩士佐伯氏ニ生レ出テゝ遠祖ノ姓緒方ヲ稱ス。夙ニ醫ニ志シ蘭學ヲ修メ篤學ニシテ卓識ナリ。初メ居ヲ大阪に卜シ刀圭ノ業ニ從フヤ常ニ濟生ヲ念トシ種痘術ノ普及ニ努メ專ラ力ヲ育英ニ注キ書ヲ著シ學ヲ講ス。及門ノ士千ニ上リ名聲大ニ揚ル。後幕府ノ召ス所トナリ居ヲ江戸ニ移シ文久癸亥三年六月十日五十有四歳ニシテ其地に没ス。而シテ先生門下多士儕々啻ニ刀圭ノ術ニ於テ先生ノ衣鉢ヲ傳ヘタルノミナラス或ハ明治維新ノ風雲ヲ叱咤シテ王政復古ノ大業ニ参與シタル者アリ。或ハ日本文化ノ指導ニ任シテ其開發ニ多大ノ貢獻ヲナシタル者アリ。皆共ニ先生感化ノ及フ所ナリ。亦偉大ナラスヤ。今慈先生歿後六十四年吉備郡醫師會發起トナリ有志ヲ四方ニ募リ碑ヲ建テゝ先生誕生ノ地ヲ不朽ニ傳ヘムトス。先生ノ令孫緒方銈次郎氏並ニ本家ノ後嗣佐伯立四郎氏其擧ヲ賛シ佐伯氏故宅ノ跡ヲ讓シ併セテ先生ノ臍緒産毛及ヒ元服ノ遺髪ヲ其碑下ニ埋メシム。此地此碑即是ナリ。京都帝國大學總長荒木博士碑面ニ題シ余其所ヲ以ヲ碑背ニ誌ス。鍜冶山ノ麓足守川ノ邊山紫水明ノ處是レ偉人誕生ノ靈地ナリ。庚幾ハ此地ニ來リ此碑ヲ仰キ先生ノ遺德ヲ賛シ其感化ニ浴セムトスルノ士萬世ニ亘リテ絶エサランコトヲ。

昭和二年十月

岡山縣醫師會長 藤原鐡太郎 謹誌

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♪今日の東京の気温は、33.8度。大変な蒸し暑さでした。外へ出ると呼吸が苦しくなりそうです。洪庵が奥御医師(将軍の侍医)の命を受けて、大坂から江戸へ出ることになるのは、亡くなる前年の文久二年(1862)のことでした。

♪幕府のお召しとはいえ、自身の体調が悪いなか、こんな息苦しい江戸へなど出てくる必要はなかったのではないか。なにか方策はなかったものか。亡くなる前には、足守川のせせらぎの音や、風の音を感じたのではないか。今日の東京の暑さで、わたしに、そんな妄想が沸いてきました。

(平成19年8月5日 記)(平成29年5月23日 訂正・追記)(令和元年10月8日 訂正追記)(令和3年2月14日 訂正追加)