7.緒方洪庵が通った「安懐堂」と「日習堂」:江戸深川・木場界隈

♪今年(2010)は,緒方洪庵(1810-1863)が誕生して,200年目にあたります。昨年は,時代劇ドラマで,洪庵をNHKの「浪花の華 -緒方洪庵事件帳- 」では窪田正孝さんが,TBS系の「JIN -仁-」では武田鉄矢さんが,それぞれに演じて,話題になりました。

♪「JIN -仁-」がドラマとして完成度が高かったのは,原作,脚本,演出,配役,カメラ,照明,美術,編集,音楽,時代考証,医療指導(監修)など,どれひとつとっても,丁寧で素晴らしく,とくにドラマの前半部分では,洪庵がドラマの縦糸となって物語を紡いでいたように思えました。仁の過去と未来への思いが,洪庵とのふれあいのなかで,揺れ動き,医療の在り方を考えさせられる社会派ドラマのようにも思えました。

♪華やかな女優陣に囲まれながら,洪庵を演じ切った武田鉄矢さんの演技は,こころに沁み入るものがありました。洪庵という人間像を醸し出していたようにも感じました。

♪仁が髙林寺の洪庵のお墓に向かうシーンも印象深く,記憶にのこりました。幕末のころの駒込髙林寺の周辺は,こんな風な情景設定になるのかと,思わず感心しました。

♪そして,なにより,好きだったのが,音楽。場面毎に流れる音楽も,このドラマを引き立てていました。タイトルバックの音楽よかったですね。MISIAの主題歌「逢いたくていま」も秀逸でした。

♪その洪庵の「若き日の江戸での足跡は?」とのご質問とご意見を「江戸東京」にいただきました。緒方洪庵の専門家ではないので,面喰いましたが,散歩の範囲で調べてみました。

♪若き日の緒方洪庵(1810-1863)1)2)は,天保2年(1831)から天保6年(1835)までの4年間,江戸へ出て,坪井つぼい信道しんどう(1795-1848)の蘭学塾である「安懐堂(あんかいどう)」と「日習堂(にちしゅうどう)」で修業します。信道の門に入ったのは,天保2年(1831)2月,22歳のときでした3)

♪「安懐堂」は,文政12年(1829)から天保7年(1836)までの塾名で,場所は深川上木場三好町4)。三好町は,木場の木置場に面した町でした5)。現在の江東区立深川六中学校の辺りかと思われます。周辺には木場公園や親水公園など自然豊かな場所が残されています。

♪洪庵が「安懐堂」時代に訳したローゼの『人身窮理学小解』(じんしん・きゅうりがく・しょうかい)の写本に「天保歳次壬辰十二月訳干安懐堂南窓下」とあります4)

♪信道は,洪庵が江戸へ来た天保2年(1831)に青地林宗(あおち・りんそう)(1775-1833)の長女・粂(クメ)と結婚し,翌天保3年(1832)に深川冬木町に新居を設けます。

♪この深川冬木町に開いたのが「日習堂」。「日習堂」は「安懐堂」の西南500メートル程離れた場所に位置し,仙臺堀の亀かめ久ひさ橋を渡った対岸の地にありました。現在の江東区立深川第二中学校の辺りかと思われます。

♪亀かめ久ひさ橋は,歴史のある橋で,文久2年(1862)の『本所深川絵図』をみると仙台堀に架かっています。小説『鬼平犯科帳』にも登場し,享保11年(1726)には,すでに掛け替えがあった橋のようです。

♪洪庵は,仙臺堀の亀久橋を渡り,「安懐堂」と「日習堂」を行き来して,翻訳や按摩の仕事をし,義眼をつくりながら,蘭学に励んでいたのでしょうか。

亀久橋 橋の遠景に建設途中の「東京スカイツリー」がみえる  (平成22年5月16日 堀江幸司撮影)


♪洪庵が青春時代を過ごした現在の
仙台堀川公園の周辺には,ホタルが星降るような自然はありませんが,それでも春には桜が咲く,憩いの場所になっています。

♪仁が,江戸で修業中の洪庵のいる深川木場にタイムスリップ,そして,そこから,洪庵とともに,現在の浅草界隈にでもワープしたら,どのようなストリー展開になるかなどと,勝手な妄想を廻らせています。

♪江戸時代の深川の町並みを再現した「深川江戸資料館」は,現在,改修工事中で,今年(2010)の7月まで,休館しています。

参 考 文 献

1)『緒方洪庵伝』(第2版)(緒方富雄著 岩波書店 1963)

2)『緒方洪庵 ―幕末の医と教え―』(中田雅博著 思文閣出版 2009)

3)『蘭医家坪井の系譜と芳治』(斎藤祥男著 東京布井出版 1い988)

4)「安懐堂と日習堂」(片桐一男)『蘭学資料研究会研究報告』第222回 pp.5-6, 1969.

5)『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』(人文社 2002)

(平成22年4月29日 記す)(平成22年6月5日 写真追加)(平成29月5月23日 訂正・追加)

6.足守の思い出:「洪庵緒方先生碑」の碑文:「緒方洪庵誕生地」

第1回で、緒方洪庵のお墓がある本郷の高林寺(こうりんじ)のことを書いたとき、岡山県足守(あしもり)にある誕生地についても触れました。

 

参考文献:緒方洪庵誕生地(堀江幸司 文・写真) 医学図書館 33(2) : 204-205, 1986.

♪長崎のことを書くにあたって、古いアルバムなどを繰っていたら、足守へ行ったときの写真も出てきました。そのなかに、「洪庵緒方先生碑」の石碑の裏にある碑文を撮った写真がありました。

「洪庵緒方先生碑」碑陰にある碑文(1986年撮影)

 


♪「洪庵緒方先生碑」のある場所は、明治のはじめまで、洪庵の兄が住み、大正の末期に岡山県に寄贈された洪庵の本家佐伯氏の旧宅跡だそうです。敷地面積は686平方メートル。敷地の入り口は、傾斜地になっていて、その正面、敷地の中央奥に顕彰碑が、建立されていました。自然石でつくられ、碑陰には、碑文が刻まれていました。

♪「洪庵緒方先生碑」の碑文のことでは、思い出があります。この碑文を書き写すにも、あまりに長文で、なにしろ碑が大きいものですから、高い位置に書いてある文字は、よく見えません。そこで写真に収めておきました。

♪そのころの写真は、デジタルではありませんので、その場で撮影の状態を確認できません。そこで、念のために、近くにあった岡山市立歴史資料館でなにか碑に関する資料がないか、調べてみることにしました。その全文が載った古い手書きの資料を発見しました。やはり、郷土資料は、地元の図書館・資料館を利用するのが一番だと、痛感しました。

 

 

足守文庫

 

 

🌲🌲

♪碑文は、岡山県医師会長・藤原鐡太郎氏によるもので、昭和2年(1927)10月に書かれ、碑面の題字は、当時、京都帝國大學総長であった荒木寅三郎の手になるものでした。石の下には、洪庵の臍緒と産毛、および元服のときの遺髪が埋められているそうです。いまから、ちょうど80年前のことです。

 緒方洪庵像の碑文の題字を書いた荒木博士肖像画(絵葉書)

♪昭和3年(1928)5月27日に挙行された除幕式には,碑面に題した荒木京大総長をはじめとして林慶應義塾々長田中岡山医大学長など,多数の参加者があり、遺族総代として緒方銈次郎緒方収二郎も参加しています。式後,近水園内の吟風閣(ぎんぷうかく)(京都御所 <仙洞御所・中宮御所>の普請の残材で築造された茶室風の建物)で記念撮影が行われたそうです。

 

♪碑文が書かれた昭和2年(1927)という年は、現在の日本医学図書館協会(創立当時は「官立醫科大學附属図書館協議会」といった)が創立された年にもあたります。第1回総会が、新潟醫科大学で開催され、岡山醫科大学からも松田金十郎が出席しています。当時の岡山醫科大学の館長は、生沼曹六教授でした。日本医学図書館協会が、洪庵の碑と同じ年にできたというのも、なにか不思議な縁を感じます。洪庵の曾孫にあたられる緒方富雄先生(東京大学医学部血清学教室教授)が、日本医学図書館協会の第2代会長(1956-1962)となり、協会の発展に尽力されたからです。

 

🌲🌲🌲

♪わたしが足守に行った4年後の平成2年(1990)7月には、洪庵の生誕180周年記念事業として、「ブロンズ座像」が作られ、「洪庵緒方先生碑」に向かって左側に置かれました。敷地内の整備も行われたようです。入り口付近も、わたしが行ったときとは、大分、様子が変わり、傾斜地には、階段がとりつけられているようです。

♪資料のなかで「洪庵緒方先生碑」碑文の項には、碑文の全文が、次のように記録してありました。少し長くなりますが、のちのちのために、引用しておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

洪庵緒方先生碑

(碑陰)

緒方洪庵先生ハ杏林ノ逸材ナリ。文化庚午七年十四日備中足守藩士佐伯氏ニ生レ出テゝ遠祖ノ姓緒方ヲ稱ス。夙ニ醫ニ志シ蘭學ヲ修メ篤學ニシテ卓識ナリ。初メ居ヲ大阪に卜シ刀圭ノ業ニ從フヤ常ニ濟生ヲ念トシ種痘術ノ普及ニ努メ專ラ力ヲ育英ニ注キ書ヲ著シ學ヲ講ス。及門ノ士千ニ上リ名聲大ニ揚ル。後幕府ノ召ス所トナリ居ヲ江戸ニ移シ文久癸亥三年六月十日五十有四歳ニシテ其地に没ス。而シテ先生門下多士儕々啻ニ刀圭ノ術ニ於テ先生ノ衣鉢ヲ傳ヘタルノミナラス或ハ明治維新ノ風雲ヲ叱咤シテ王政復古ノ大業ニ参與シタル者アリ。或ハ日本文化ノ指導ニ任シテ其開發ニ多大ノ貢獻ヲナシタル者アリ。皆共ニ先生感化ノ及フ所ナリ。亦偉大ナラスヤ。今慈先生歿後六十四年吉備郡醫師會發起トナリ有志ヲ四方ニ募リ碑ヲ建テゝ先生誕生ノ地ヲ不朽ニ傳ヘムトス。先生ノ令孫緒方銈次郎氏並ニ本家ノ後嗣佐伯立四郎氏其擧ヲ賛シ佐伯氏故宅ノ跡ヲ讓シ併セテ先生ノ臍緒産毛及ヒ元服ノ遺髪ヲ其碑下ニ埋メシム。此地此碑即是ナリ。京都帝國大學總長荒木博士碑面ニ題シ余其所ヲ以ヲ碑背ニ誌ス。鍜冶山ノ麓足守川ノ邊山紫水明ノ處是レ偉人誕生ノ靈地ナリ。庚幾ハ此地ニ來リ此碑ヲ仰キ先生ノ遺德ヲ賛シ其感化ニ浴セムトスルノ士萬世ニ亘リテ絶エサランコトヲ。

昭和二年十月

岡山縣醫師會長 藤原鐡太郎 謹誌

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

♪今日の東京の気温は、33.8度。大変な蒸し暑さでした。外へ出ると呼吸が苦しくなりそうです。洪庵が奥御医師(将軍の侍医)の命を受けて、大坂から江戸へ出ることになるのは、亡くなる前年の文久二年(1862)のことでした。

♪幕府のお召しとはいえ、自身の体調が悪いなか、こんな息苦しい江戸へなど出てくる必要はなかったのではないか。なにか方策はなかったものか。亡くなる前には、足守川のせせらぎの音や、風の音を感じたのではないか。今日の東京の暑さで、わたしに、そんな妄想が沸いてきました。

(平成19年8月5日 記)(平成29年5月23日 訂正・追記)(令和元年10月8日 訂正追記)(令和3年2月14日 訂正追加)

5.幕末の江戸で活躍する緒方洪庵:TBS 日曜劇場 「JIN -仁ー」

♪TBS系で「JIN ー仁ー」(全11話)という時代劇(ドラマ)が始まりました。

[原 作/村上もとか 脚 本/森下佳子 演 出/平川雄一朗・山室大輔・川嶋龍太郎 プロジュース/石丸彰彦・津留正明  時代考証/山田順子 主題歌/「逢いたくていま」MISIA(アリオラジャパン)

♪原作は、「スーパージャンプ」(集英社)に連載されているコミックだそうです。(全13巻のコミック文庫として完結しています)

 

♪大学付属病院の優秀な脳外科医である南方仁[みんかた・じん](大沢たかお)は、病にたおれた恋人の未来(中谷美紀)を現代に残したまま、文久2年(1862)の江戸の町にタイムスリップしてしまいます。

♪文久2年(1862)といえば、寺田屋事件や生麦事件が起こった幕末の動乱期。そこで、仁は、大坂から江戸へ幕府の侍医(医学所頭取)となるために出てきていた緒方洪庵(武田鉄矢)と知り合い、江戸で流行していたコロリ(コレラ)に、共に立ち向かうことになります。ドラマの第2話と第3話を見ました。

♪大坂で仕事は終わったとされる洪庵の元気な姿を、江戸の町中に見ることができるのは、SFエンタテインメントのよさであり、楽しいことです。

♪番組のタイトルバックは、現在と昔を対比させ、芝の増上寺、御茶ノ水周辺と思われる場所や、大川の橋や舟などを写し出しています。医療の精神は過去から現在に繋がっていることを表現しているようにも見えます。

♪洪庵のほかに、伊東玄朴や松本良順なども登場します。医史学監修は酒井シヅ先生(順天堂大学・医学部医史学・名誉教授)。医療指導・監修は冨田泰彦先生(杏林大学医学部・医学教育学・講師)。医学ドラマとしても、本格的です。

♪時代考証(山田順子)・歴史監修(大庭邦彦 聖徳大学・人文学部・日本文化学科・教授)も、しっかりしていて、コミックが本格的な時代劇に姿を変え、映像的にも、大変、美しい出来になっています。江戸の町並み、そして、通りの店の前には、箱看板を置くなど、美術にも力を入れているようです。

♪第3話:仁(大沢たかお)は、コロリ患者のために、洪庵に助力を請い、点滴の道具をつくり、治療にあたる決心をします。水に塩と砂糖を配合した点滴液を静脈に入れる。注射針や点滴瓶は、職人につくらせる。患者の救護所の野外設営と救急処置。医療的な設定も、本格的です。

♪仁は、患者を隔離して治療に専念するのですが、その仁自身がコロリに罹ってしまう。仁に好意を寄せる武家の娘である咲さき(綾瀬はるか)は、危篤状態に陥った仁を救おうと、仁に教えてもらっていた点滴の方法を、緒方洪庵が見ている前で、自分の手でやってみることにします。当時の女性としては、大変、勇気のある行動です。大腿静脈から、点滴を入れるシーンでの綾瀬さんの演技は、緊迫感のなかにも、落ち着きが感じられ、感動的でありました。咲の涙が仁の頬に落ち、命の点滴となって、仁を、あの世から呼び戻すことになるのでした。

♪ほかに、女優陣には麻生祐未さん(咲の母親、栄えい)、中谷美紀さん(仁の恋人・未来と花魁・野風[のかぜ]の二役)、男優陣には武田鉄矢さん(緒方洪庵)、小日向文世さん(勝海舟)、内野聖陽さん(坂本竜馬)など、個性的で実力派の俳優がそろっています。

♪次回のドラマの展開(脚本)と、それぞれの俳優の演技、そして、その舞台背景を観るのが楽しみになってきました。

♪心に残る台詞がありました。仁が、過去の時代のなかで、現代的な医療行為を行ない、人を救ってよいのか、歴史を変えてしまうことになるのではないかと、悩み、咲に、その思いをぶつける場面。
仁と咲の、長いセリフの、その一つひとつが生きていて、心に響きます。

:歴史は、おれのやっていることを、帳消しにするかもしれない。なにも変えないかもしれない。

:先生は、わたくしの運命を変えましたよ。脈打つ心の、音を感じます。咲は生きておりますよ。

♪今年のお正月には、NHKでも緒方洪庵をテーマにした「浪花の華―緒方洪庵事件帳―」が放映され、ドラマで、洪庵が注目された年であるようです。来年、平成22年(2010)は、緒方洪庵の生誕200年にあたります。

(平成21年10月30日 記)(平成29年4月9日 追記)

(令和4年12月29日 画像を追加)

4.緒方洪庵の13人の子供たち

♪緒方洪庵(1810-1863)は、妻八重(1822-1886)との間に、七男六女、13人の子供をもうけました。(第五子、第六子は夭折)

♪洪庵に13人の子供がいたことは、高林寺(本郷・駒込)にある洪庵の墓石(侍醫兼學法眼緒方洪庵之墓)の裏に刻まれている墓誌(茶渓古賀増撰 三澤精確書)のなかにも、記されています。(写真参照

緒方洪庵墓の碑文の一部(平成21年3月 堀江幸司撮影)

「家娶億川氏生六男七女嫡夭次洪哉承後次名四郎其三幼女嫡大槻玄俊次配養子拙齋」

侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」墓誌全文(緒方富雄著 「中外醫事新報」1239号別刷 昭和12年1月28日発行)

高林寺・緒方洪庵墓域(1993.3.28 堀江幸司撮影)

♪洪庵の没後、家長となったのが、次男の惟準(これよし)(1843-1909)。今年、平成21年(2009)は、惟準の没後、100年にあたります。

緒方惟準 (出典:『医譚』第17号:pp.45-66. 1944.)(緒方銈次郎著:東京に在りし適々斎塾)
緒方惟準(出典:「中外医事新報」 第704号 pp.1070-1072 明治42年7月20日刊行

🚙

♪緒方富雄先生は、「緒方洪庵の子、緒方惟直のこと(未定稿)」と題して(「蘭学資料研究会 研究報告」(第274号))、以下のように書かれています。(文献4)

洪庵の子

緒方洪庵(1810-63)と夫人八重(1822-86)とのあいだに13人の子がうまれた。そのうち男の子5人と女の子4人が成人した。その男の子はつぎの5人である。

惟準(これよし)幼名平三、洪哉。第三子、次男(1843-1909)

惟孝(これたか)幼名四郎、城次郎。第四子、三男(1844-1905)

惟直(これなお)幼名十郎。第十子、五男(1853-78)

収二郎(しゅうじろう)第十二子、六男(1857-1943)

重三郎(じゅうざぶろう)第十三子、七男(1858-85)

 

◆◆◆

♪緒方家の家系図については、『故大熊房太郎先生寄贈図書目録』(聖マリアンナ医科大学附属図書館、1983)のなかに『緒方氏系図』(緒方富雄編、1966)があり、一度、実見したいと思っていましたが、実現できないままになっています。(国立国会図書館にも所蔵があるようです)

♪西岡まさ子氏の小説『緒方洪庵の息子たち』(河出書房新社、1992)は、洪庵没後の息子たちの足跡を追って、豊富な資料と取材に基づき、描かれています。また、西岡まさ子氏には、洪庵の妻(八重)を描いた『緒方洪庵の妻』(河出書房新社、1988)という小説もあり、こちらも、史実に基づいて、丹念に書かれています。

♪この2册の歴史小説は、緒方富雄先生が著された『緒方洪庵傳』(初版)『緒方洪庵伝』(第2版)とともに、洪庵を知るための、貴重な資料となっています。

♪『緒方洪庵の息子たち』の巻末に参考文献として『緒方氏系図』の記載があり、「緒方家・億川家系図」が収録されていました。

♪この「緒方家・億川家系図」と『緒方洪庵伝』(第2版)の巻末の年表から、洪庵の子供たちの名前と生誕年月日の一覧を作成してみました。

 

 

緒方家家系図

 

🚙

♪久しぶりに東京大学医学図書館(本郷)を訪ねて、2階閲覧室に置かれている明治に刊行された和雑誌をブラウジングしていたら、「東京医事新誌」の第1624号(明治42年7月24日刊行)に「洪庵先生略傳」という記事を見つけました。そのなかに「故洪庵先生夫人八重子並緒方一家の寫眞」があって、緒方準一先生、緒方安雄先生、緒方富雄先生の子供のころの顔がありました。(令和元年[2019年10月23日 追記]

故洪庵先生夫人八重子並緒方一家の寫眞(出典:「東京医事新誌」1624:28-35[1508-1515] 明治42年7月24刊行)

 

参考文献

1)『緒方洪庵傳』(初版)(緒方富雄著 岩波書店 1942)

2)『緒方洪庵伝』(第2版)(緒方富雄著 岩波書店 1963)

3)『医の系譜 緒方家五代 洪庵・惟準・銈次郎・準一・惟之』(緒方惟之著 燃焼社 2007)

4)「緒方洪庵の子、緒方惟直のこと(未定稿)」(緒方富雄著):蘭学資料研究会研究報告 第274号 pp.4-23. 1973,

 

5)洪庵先生略傳 「東京医事新誌」第1624号 28-35[1508-1515] 明治42年7月24日刊行

 

6)緒方惟準翁小傳 「中外醫事新報」第704号 1070-1072 明治42年7月20日刊行

7)『医譚』第17号:pp.45-66. 1944. 緒方銈次郎著:東京に在りし適々斎塾

8)『日本醫事新報』第1366号(昭和25年7月1日 発行)p.1742.

 

3. 緒方洪庵墓:高林寺内の移転と甕棺

 

♪現在、緒方洪庵の墓は、高林寺(こうりんじ)(東京都文京区向丘2丁目37番5号)の本堂に向かって左側に広がる墓地の中央部分に位置しています。(関連連載第1回)

♪洪庵の墓所は、以前から、この場所にあったのではありません。埋葬当初(文久3年[1863]6月22日)は、寺門に近い水はけの悪い場所にありました。

♪昭和11年(1936)、高林寺(当時の住所は東京市本郷区駒込蓬莱町68番地)に隣接する道路が拡幅されることになり、それに伴い洪庵の墓も、高林寺内の別の場所に移転することになりました。

♪墓の掘り起こしと移転作業が、高林寺住職、府当局、親戚一同立会いの下、6月22日の午前9時から行われました。洪庵の歿後、73年目のことです。昭和11年(1936)といえば、二・二六事件が起こり、世情が不安定な時代でした。

♪洪庵の墓の移転については、洪庵の曾孫にあたる緒方富雄先生(日本医学図書館協会第2代会長)が『中外醫事新報』(第1239号)(1937年)の中で、詳しく記述されています。

♪その記録の中には、高林寺内の洪庵墓の旧墓所と新墓所の全景写真とともに、洪庵の遺骸が納められた甕の写真も載っていました。土中から掘り出された甕棺と思われます。大変、貴重な記録写真ですので、転載しておきます。

第1図 洪庵の遺骸を納めた甕
第2図 甕を新墓所に納めたところ(写真の右方が前面に当る)
第3図 旧墓所 向って右洪庵墓、左洪庵夫人墓、中央後追賁碑
第4図 新墓所 向って右洪庵墓、左洪庵夫人墓、右端追賁碑、これと洪庵との間の後に重三郎墓が見えている

(図の説明文は、緒方富雄先生の文献のまま。また、現在の墓所の写真は、連載第1回に掲載してあります)

🌲🌲🌲

緒方洪庵墓 (平成20年6月15日撮影)

♪洪庵が納められた甕は、地下七尺のところからあらわれ、水を含んだ泥土で充ちていたとのこと。遊離した一枚の肩胛骨や、脊椎の上端、左右数本の肋骨、大腿骨の一部が見えたとのことです。

♪甕の掘り出しに立会った親族の中には、「この機会に遺骨を清掃して納め直したらどうか」との意見もあったようですが、洪庵の第十二子である緒方収二郎氏の意見に従って、甕の中には手をつけず、そのままの形で新墓所に埋葬されることになったとのことです。

緒方収二郎氏は、昭和3年(1928)5月27日に、岡山市足守で行われた「洪庵緒方先生碑」の除幕式にも、緒方銈次郎氏とともに、遺族総代として参加しています。

♪甕の大きさは直径一尺九寸、内径一尺五寸五分、高さ約二尺五寸。暗褐色の焼色。この中に仏様になった洪庵が納められ埋葬されました。

♪月日は流れ、今年、平成21年(2009)は、墓所移転の時から、また、73年目の年となりました。そして、来年、平成22年(2010)は洪庵の生誕200年、4年後の平成25年(2013)は、洪庵の歿後、150年の節目の年となります。

♪高林寺の緒方洪庵墓は、江戸からの時の流れを、確実に、今に伝える史跡のひとつとなっています。

 

参考文献

1)緒方富雄:緒方洪庵墓の移轉 『中外醫事新報』(第1239号)(1937年)pp.10-17.

2)堀江幸司:緒方洪庵誕生地 『医学図書館』33(2):204-205,1986.
(平成21年2月7日 記)

 

駒込市場(原稿付図)(昭和7年頃作成されたもの)

(明治34年9月(市場取締規則制定)、本郷浅嘉町の岩槻街道の両側にあった駒込市場(土物店駒込辻の市場)(やっちゃば)が、高林寺寺中に移転したことを示す略図)

この駒込市場が、中央卸売市場豊島分場(現・東京都中央卸売市場豊島市場)として、巣鴨の地に移転したのが、高林寺内で緒方洪庵の墓の移転が行われた翌年の昭和12年3月のことでした。

(平成31年3月19日 追加)

2. 緒方洪庵と岡節斎の碑:谷中の石屋(御碑銘彫刻師)廣瀬群鶴

場 所:東京都文京区向丘2丁目37-5(高林寺)

交 通:地下鉄・南北線(本駒込下車)


Google My Map:本郷界隈:医史跡案内

参考文献:本郷・駒籠髙林寺:緒方洪庵追賁碑と節齋岡先生碑 堀江幸司 『医学図書館』

♪緒方洪庵の墓域には、中央に「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」、左に「緒方洪庵先生夫人億川氏之墓」の墓碑があり、右に「追賁碑」が建っています。また、墓域の左手の隅に、「緒方洪庵」の説明板(石板)が置かれています。

♪「追賁碑」の碑文は、明治42年(1909)6月8日に、森林太郎(鴎外)によって書かれたもので、明治45年(1912)7月10日に建立されています。その50回忌には、万延元年(1860)大坂の適塾に学んだ今村有隣(蘭学者・フランス語学者 1844-1924)も参会しています。今村有隣の墓は、染井霊園にあります。水原秋桜子の墓の近くです。

参考:Google My Map : 東京都染井霊園:医家墓所案内

「追賁碑」

♪「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」の墓碑は、慶應3年(1867)3月に建てられました。その墓石を刻んだのが、谷中の石屋(御碑銘彫刻師)であった廣瀬群鶴(ひろせ・ぐんかく)(号は廣群鶴 こう・ぐんかく)です。

♪この廣群鶴は、同じく高林寺にある岡節斎(侍医 明和元年<1764>-弘化5年<1848>)の碑(節斎岡先生碑)も刻んでいます。明治12年(1879)に建てられた碑は、墓道を挟んで、緒方洪庵の墓の反対側にあります。碑文の中に「駒籠里高林寺」の文字も見えます。

節斎岡先生碑(中央の低い碑)(1993年 撮影)

節斎岡先生碑(1993年3月撮影)

♪岡節斎は、岡麓(おか・ふもと 1877-1951 アララギの歌人)の先祖で、幕府医官であった岡家歴代の墓碑が、墓地の右手の一番奥まった所に、まとめられています。数が多いので、墓域は、ちょっと窮屈な感じもしました。

岡家歴代の墓(1993年7月 撮影)

本郷・駒込髙林寺の岡家墓域見取図(1993年1月 堀江幸司作成)

♪岡麓は、明治32年(1899)、本郷金助町(現在の文京区本郷3丁目12、13番あたり)に家を新築した際に正岡子規を招いています。子規庵歌会(根岸短歌会)に参加してのことでした。

♪高林寺墓地には、蘭学と漢方の大家が同居していることになります。墓地の上は遮るものがありません。雲の浮かぶ青い空を見ていると、なにか東洋的な時間の流れを感じます。

(平成14年7月7日 記)(令和元年10月5日 図追加)(令和3年2月14日 写真を追加)