85.「わが師わが友 (3)」(No.61-No.100)(「日本医事新報」)

♪今回、紹介する「わが師わが友」の連載記事のなかで、第70回(入澤達吉先生の側面)は、長文のため2週(1313号、1314号)にわけて掲載されています。

♪No.74で取り上げられている「岩熊哲先生」は、『解體新書を中心とする解剖書誌』の執筆者です。「改訂版江戸東京」の第25回を書いていたとき、岩熊哲先生について知りたいと思っていたのですが、今回、「わが師わが友」の記事で、岩熊哲先生の人物像が見えてきました。

「わが師わが友」PDF(No.61-No.100)

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61.石黒忠悳先生 (平井政遒) 1304:21[773] 昭和24年4月23日

62.小澤修造先生のことども (福島寛四) 1305:26[830] 昭和24年4月30日

63.アシヨフ先生のことども (小池 重) 1306 : 25[831]-26[832] 昭和24年5月7日

64.唐澤光徳先生 (鎭目専之助) 1307:25[933] 昭和24年5月11日

65.石川 修先生の思ひ出 (梅室痩庵) 1308 : 25[985]-26[986] 昭和24年5月21日

66.三田定則先生 (古畑種基) 1309:24[1036] 昭和24年5月28日

67.遠藤 滋君 (北島多一 ) 1310:24[1088]-25[1089] 昭和24年6月4日

68.草間滋さんの半面 (高野六郎) 1311:23[1139]-24[1140] 昭和24年6月11日

69.田村君の片鱗 (高橋 明) 1312:22[1190]-23[1191] 昭和24年6月18日

70.入澤達吉先生の側面 (宮川米次) 1313 : 20[1240]-22[1242] 昭和24年6月25日

70.入澤達吉先生の側面(続) (宮川米次) 1314 : 21[1293]-22[1294],20[1292] 昭和24年7月2日

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71.守山恒太郎君を語る (里見三男 ) 1315 20[1344]-21[1345] 昭和24年7月9日

72.井上嘉都治先生 (高田 蒔) 1316 22[1398]-23[1399] 昭和24年7月16日

73.高木喜寛先生 (永山武美) 1317 20[1448]-21[1449] 昭和24年7月23日

74.病床の醫史家 岩熊哲先生 (米山千代子) 1318 22[1502]-23[1503] 昭和24年7月30日

75.市井の名醫 木堅田次郎氏 (及熊謙一) 1319 23[1555]、前頁3段目へ続く 昭和24年8月6日

76.伊東祐彦先生の思い出 (遠城寺宗徳) 1320 33[1617]-34[1618] 昭和24年8月13日

77.木村孝蔵先生 (藤田小五郎) 1321 21[1665] 昭和24年8月20日

78.久保猪之吉先生 (山川強四郎) 1322 21[1717]-23[1719] 昭和24年8月27日

79.小川劔三郎先生 (戸田 亨) 1323 22[1773], 21頁4段目へ続く 昭和24年9月3日

80.秦 勉造君 (小池 重) 1324 27[1835]-28[1836] 昭和24年9月10日

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81.エーリッヒ・レキセル先生の追慕 (村山小七郎) 1325 22[1890]-24[1892] 昭和24年9月17日

82.佐藤秀三先生を憶う (黒屋政彦) 1326 19[1939]-20[1940] 昭和24年9月24日

83.〇九會の人々 (村山達三) 1327 31[2003]-32[2004] 昭和24年10月1日

84.名醫 濱田玄達先生 (田澤多吉) 1328 23[2055]-24[2056] 昭和24年10月8日

85.畏友 三浦謹之助君 (芳賀榮次郎) 1329 33[2117] 昭和24年10月15日

86.井上善次郎先生 (花岡和夫) 1330 21[2165]-22[2166] 昭和24年10月22日

87.亡友の俤[おもかげ] (飯島 茂) 1331 25[2221] 昭和24年10月29日

88.佐多愛彦先生 (熊谷謙三郎) 1332 27[2283]-28[2284] 昭和24年11月5日

89.佐々木秀一先生 (若林東一郎) 1333 26[2342]-27[2343] 昭和24年11月12日

90.大森治豊先生 (溝口喜六、芳賀榮次郎) 1334 25[2401]-26[2402] 昭和24年11月19日

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91.古瀬安俊博士 (梅室痩庵) 1335 23[2459] 昭和24年11月26日

92.晩年の松本順 (松本本松) 1336 29[2525]-30[2526] 昭和24年12月3日

93.大澤岳太郎先生 (井上通夫) 1337 22[2578] 昭和24年12月10日

94.山極勝三郎先生を憶う (石橋松蔵) 1338 21[2637] 昭和24年12月17日

95.三五會の人々 (樫田十次郎) 1339 20[2688]-22[2690] 昭和24年12月24日

96.三浦守治先生 (佐多愛彦) 1341 64[64]-65[65], 63頁3段目へ続く 昭和25年1月7日

97.Bernou先生 (篠原研三) 1343 69[221] 昭和25年1月21日

98.一九四九年ノーベル醫學賞授賞者 ワルター・ルドルフ・ヘス先生 (筒井徳光) 1344 22[250]-24[252] 昭和25年1月28日

99.島峰 徹先生 (金森虎男) 1345 34[322]-35[323] 昭和25年2月4日

100.葛西勝彌君 (高野六郎) 1346 21[369]-22[370] 昭和25年2月11日

84.「わが師わが友 (2)」(No.51-No.60)

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「わが師わが友」No.51-No.60(PDF)

51.片山國嘉先生を偲ぶ 三田定則 1294 19[279]-20[280] 昭和24年2月12日

52.宮入慶之助先生 大平得三 1295 19[327]-20[328] 昭和24年2月19日

53.目黒庸三郎先生 中富猪熊 1296 21[377] 昭和24年2月26日

54.父井上達也 井上達二 1297 19[423] 昭和24年3月5日

55.慈恵の恩師  新井春次郎先生・生沼曹六先生・木村哲二先生・朝倉文三先生・加藤義夫先生・ 實吉、大角両先生  飯田喜久 1298 21[473]-22[474] 昭和24年3月12日

56.恩師ベルツ先生の傳 三浦謹之介 1299 19[519] 昭和24年3月19日

57.佐々木政吉先生 小池 重 1300 19[567]-20[569[ 昭和24年3月26日

58.高木友枝さんの思出 荒井 惠 1301 19[615] 昭和24年4月2日

59.藤浪 鑑先生 森 茂樹 1302 23[671]-24[672] 昭和24年4月9日

60.佐藤邦雄先生の追憶 竹内 勝 1303 37[737]-38[738] 昭和24年4月16日

(令和元年[2019]11月24日 記す)

83. 「わが師わが友」(1)(第1回から第50回)

♪「東都掃苔記」と「新東京・醫學きまぐれ散歩」の一覧表を作成するために,戦後の『日本醫事新報』(週刊)の雑誌に一冊一冊あたっていて,別の連載記事があることがわかりました。「わが師わが友」という連載記事です。

♪「わが師わが友」には,単行本の形で伝記が出版されていない医家の貴重な伝記的な記述が多く含まれており,この連載記事も,一覧表の形で集積しておきたいと思います。長期(全150回)(昭和23年1月から昭和27年2月)にわたる連載なので,一覧表(デジタルアーカイブス)づくりは,根気作業となりそうです。

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♪「わが師わが友」の第1回は,昭和23年(1948)1月1日(第1242号)の「青山胤通先生」(稲田龍吉著)からはじまっていました。第2回は,「北里柴三郎博士」(中山壽彦著)を取り上げています。連載の冒頭に,明治から大正にかけて活躍した国立と私立の医科大学の中心人物を取り上げた形になっています。青山胤通と北里柴三郎は,明治27年(1894)6月,香港で発生したペスト調査のために共に,内務省から派遣された仲でもありました。

♪この連載記事は,長期にわたるのですが,とりあえず第1回から第50回までの連載記事を一覧表に纏めてみました。帝國醫科大學時代の蒼々たる教授たちが取り上げられ,その執筆陣も著名な方ばかりです。第10回の小金井良精の項では,紹介記事を西成甫が書き、第40回の三宅秀については、佐藤物外[恒二]が書いています。

♪取り上げる人物の肖像写真が,本文中に挿入されていますので,その点でも,貴重な連載記事となっています。

「わが師わが友(1-50)」(PDF)

1.青山胤通先生 稲田龍吉 1242 22[22]-23[23] 昭和23年1月1日

2.北里柴三郎博士 中山壽彦 1243 14[66]-15[67] 昭和23年1月21日

3.長與又郎先生 田宮猛雄 1244 15[107] 昭和23年2月1日

4.呉建先生の思ひ出 冲中重雄 1245 14[146]-15[147] 昭和23年2月11日

5.森島先生のことども 阿部勝馬 1246 21[193] 昭和23年2月21日

6.平井毓太郎先生 竹内薫兵 1247 12[225] 昭和23年3月1日

7.若き日の野口英世博士 石塚三郎 1248 18[262]-19[263] 昭和23年3月11日

8.意志と情熱の學者 布施現之助先生 内田三千太郎 1249 25[309]-27[311] 昭和23年3月21日

9.北川正惇先生の追憶 田村 一 1250 13[345] 昭和23年4月1日

10.小金井先生を偲ぶ 西 成甫 1251 14[378]-15[379] 昭和23年4月11日

11.恩師秦佐八郎先生 小林六造 1252 16[420]-17[421] 昭和23年4月21日

12.呉秀三先生 杉田直樹 1253 17[461] 昭和23年5月1日

13.石川日出鶴丸先生を語る 浦本政三郎 1255 13[521]-14[522] 昭和23年5月15日

14.宮本叔先生 村山達三 1256 13[545] 昭和23年5月22日

15.横手千代之助先生 古瀬安俊 1257 15[579] 昭和23年5月29日

16.太田正雄博士の思い出 梅室痩庵 1258 13[609] 昭和23年6月5日

17.恩師島薗順次郎先生を憶ふ 柳金太郎 1259 15[643] 昭和23年6月12日

18.川村麟也先生 伊藤辰治 1260 15[675] 昭和23年6月19日

19.金杉英五郎先生 石川光昭 1261 11[703] 昭和23年6月26日

20.南 大曹先生 桑野佐源太 1262 15[739] 昭和23年7月3日

21.茂木蔵之助先生の憶い出 島田信勝 1263 13[769]-14[770] 昭和23年7月10日

22.高木兼寛先生を語る 小田部荘三郎 1264 15[803] 昭和23年7月17日

23.中原和郎君 矢追秀武 1265 13[833], 17[837] 頁の下段へ続く 昭和23年7月24日

24.岡田清三郎先生 青山進午 1266 13[865] 昭和23年7月31日

25.土肥慶蔵先生を語る 高橋 明 1267 13[897]-14[898] 昭和23年8月7日

26.恩師大澤謙二先生 永井 潜 1268 19[935] 昭和23年8月14日

27.ドクター・トイスラー  橋本寛敏 1269 11[967]-12[968]
昭和23年8月21日

28.恩師瀬尾貞信博士 中山恒明 1270 13[1001]-14[1002] 昭和23年8月28日

29.心の父 富士川游先生 佐藤美實 1271 29[1049]-30[1050] 昭和23年9月4日

30.河北眞太郎君 小島三郎 1272 13[1073] 昭和23年9月11日

31.河本重次郎先生 庄司義治 1273 13[1105] 昭和23年9月18日

32.田代義徳先生 名倉重雄 1274 11[1135] 昭和23年9月25日

33.木村徳衛先生を憶う 荒井恒雄 1275 13[1169]-14[1170] 昭和23年10月2日

34.恩師スクリバ先生 芳賀榮次郎 1276 12[1200]-13[1201] 昭和23年10月9日

35.中村文平先生 守山安夫 1277 19[1239] 昭和23年10月16日

36.岡嶋敬治先生 平澤 興 1278 13[1273] 昭和23年10月23日

37.太田原豊一先生 六反田藤吉 1279 21[1313] 昭和23年10月30日

38.小口忠太先生 中島 實 1280 29[1361] 昭和23年11月6日

39.猪子止戈之助先生の事ども 鳥潟隆三 1281 13[1385]-14[1386] 昭和23年11月13日

40.三宅 秀先生 佐藤物外[恒二] 1282 17[1421] 昭和23年11月20日

41.足立文太郎先生 清野謙次 1283 17[1461] 昭和23年11月27日

42.桂田富士郎先生 戸田 享 1284 17[1501] 昭和23年12月4日

43.森鴎外先生 山田弘倫 1285 25[1549] 昭和23年12月11日

44.水尾源太郎先生 中村文平 1286 13[1577] 昭和23年12月18日

45.私の見た荒木寅三郎先生 古武彌四郎 1288 39[39] 昭和24年1月1日

46.弘田 長先生 栗山重信 1289 11[79] 昭和24年1月8日

47.入澤先生千古不易の教 西川義方 1290 23[115]-24[116] 昭和24年1月15日

48.大瀧潤家君を偲ぶ 二木謙三 1291 17[149] 昭和24年1月22日

49.菅 之芳先生 若山茂雄 1292 19[191] 昭和24年1月29日

50.伊藤準三先生の事ども 鳥潟隆三 1293 21[233]-22[234] 昭和24年2月5日

(令和元年[2019]11月23日)

82. 「建築寫眞類聚 特種建築」

♪大正9年(1920)に出版された「建築寫眞類聚 特種建築」(建築寫眞類聚刊行會編輯兼発行 洪洋社)という資料のなかに、当時の病院建築を写した写真がありました。

♪この「建築寫眞類聚 特種建築」は、46判の紙に印刷された50点の写真が、帙(ちつ)に包まれています。バラバラになりやすく、国立国会図書館に収蔵されているものにも欠けている写真(9. 東京 川村小児科病院)があります。幸い、50枚の写真が完全に揃ったものを入手しましたのでデジタル化しておきます。

「建築寫眞類聚 特種建築」(PDF)

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♪各写真(50点)のキャプションは下記の通りです。

1.東京 瀬川小児病院

2.東京 瀬川小児病院

3.東京 瀬川小児病院

4.東京 瀬川小児病院

5.東京 土田外来診察所

6.東京 原田醫院

7.東京 原田醫院

8.東京 原田醫院

9.東京 川村小児科病院

10.東京樋口病院

11.東京 ニコライ會堂

12.東京 ニコライ會堂

13.東京 ニコライ會堂

14.東京 ニコライ會堂

15.東京 ニコライ會堂

16.東京 ニコライ會堂

17.東京 バプテスト教會

18.東京 バプテスト教會

19.東京 メソヂスト銀座教會

20.東京 霊南坂教會

21.東京 霊南坂教會

22.東京 日本基督教青年會同盟本部

23.東京 日本基督教青年會同盟本部

24.東京 日本基督教青年會同盟本部

25.東京 佛教青年傳道會

26.東京 佛教青年傳道會

27.東京 天主公教會

28.東京 天主公教會

29.東京 天主公教會

30.東京 天主公教會

31.神戸 基督青年會館

32.奈良ホテル

33.奈良ホテル

34.奈良ホテル

35.奈良ホテル

36.神戸 オリエンタルホテル

37.横濱記念會館

38.横濱記念會館

39.横濱記念會館

40.横濱記念會館

41.神戸 カフェー・パウリスタ

42.神戸 カフェー・ブラジル

43.東京 西洋料理 中央亭

44.東京 西洋料理 中央亭

45.東京 カフェー・清新軒

46.大阪 新世界 通天閣

47.大阪 新世界 通天閣

48.大阪 活動寫眞・日本倶樂部

49.大阪 活動寫眞館 樂天地

50.神戸 活動寫眞聚樂館

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1.東京 瀬川小児病院

2.東京 瀬川小児病院

3.東京 瀬川小児病院

4.東京 瀬川小児病院

5.東京 土田外来診察所

6.東京 原田醫院

7.東京 原田醫院

8.東京 原田醫院

9.東京 川村小児科病院

10.東京 樋口病院

11.東京 ニコライ會堂

12.東京 ニコライ會堂

13.東京 ニコライ會堂

14.東京 ニコライ會堂

15.東京 ニコライ會堂

16.東京 ニコライ會堂

17.東京 バプテスト教會

18.東京 バプテスト教會

19.東京 メソヂスト銀座教會

20.東京 霊南坂教會

21.東京 霊南坂教會

22.東京 日本基督教青年會同盟本部


23.東京 日本基督教青年會同盟本部

24.東京 日本基督教青年會同盟本部

25.東京 佛教青年傳道會

26.東京 佛教青年傳道會

27.東京 天主公教會

28.東京 天主公教會

29.東京 天主公教會

30.東京 天主公教會

31.神戸 基督青年會館

32.奈良ホテル

33.奈良ホテル

34.奈良ホテル

35.奈良ホテル

36.神戸 オリエンタルホテル

37.横濱記念會館

38.横濱記念會館

39.横濱記念會館

40.横濱記念會館

41.神戸 カフェー・パウリスタ

42.神戸 カフェー・ブラジル

43.東京 西洋料理 中央亭

44.東京 西洋料理 中央亭

45.東京 カフェー・清新軒

46.大阪 新世界 通天閣

47.大阪 新世界 通天閣

48.大阪 活動寫眞・日本倶樂部

49.大阪 活動寫眞館 樂天地

50.神戸 活動寫眞聚樂館

(令和元年[2019]年11月11日 記す)

81. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(3)(最終回)(「日本医事新報」 No.1463-No.1475)

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1):「日本医事新報」No.1434-N.1445

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(2):「日本医事新報」No.1446-No.1462

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♪ 今回は、「新東京・醫學きまぐれ散歩」第3回(最終回)として下記の「日本医事新報」のなかから、第1463号から第1475号を紹介します。

新東京・医学きまぐれ散歩(PDF)

S.M.氏が見た戦後の復興風景

九段界隈

電車通りは一面の焼け跡で,復興はしているものの實に哀れな復興ぶりだ。靖國神社の外部の植込も焼けてしまって,参道の銀杏並木や露店がジカに見えるので,何だか空白ができたようで,賑わいを呈していながら,うら寂しい感がある。濠端の方へと辿ると,もう人影もなく,向う岸は青草の土手の上に石垣をめぐらせた江戸城の面影を残し,ひっそりと美しい景観をなしている。

僕が一口坂の停留所から市ヶ谷見附までぶらついたのは,四月廿七日の日曜日で,逓信病院の方面を歩いたついでだったが,その後,番町を歩いて見て,昔のブルジョア住宅地帯が如何にサンタンたる有様であるかを初めて知った。それに比べると,一口坂から市ヶ谷見附に至る電車通りは,先ず先ずこの辺りで復興の早い部分だと云えるかも知れぬ。

麹町・番町界隈

飯田橋から牛込方面を望む

番町は戦災で丸焼けになったと云ってよい。どうにか残ったのはコンクリートの大建築ばかりだ。大邸宅は門と塀だけを残して,中に焼土蔵がツッ立っているのもある。空地には雑草が茂って白い花をつけ,牛込台地の新緑がヂカに眺められる所があったり,建築工事にとり掛っている所もある。そうした中に,応急バラック群が屋根のトタンも錆び,板張りの壁に隙間が生じたりして,わびしくうずくまっている。かと思うと,やけにモダンな住宅があったり,工場か寮かといったような木造ペンキ塗の二階家が不愛想にツッ立っていたりする。人影もなくひっそりしているのに,五月幟がふらふらしている。                                           

築地界隈

築地新富座
築地精養軒

築地へやって来て,東京劇場を前に眺める橋――萬年橋といったように思うが,橋名を彫んだ銅版が剥ぎとられているので,はっきりわからないのも戦後風景だ。東劇・郵便局と続く一画は焼残りだが,反対側や橋の手前は歌舞伎座方面にかけて一帯の焼け跡だ。が,すっかり復興して元のような繁昌振りを呈している。橋を渡って,河岸にそって東劇の前を過ぎると,堀割が屈折する対岸に新橋演舞場が立っている。堀割はそこで真直ぐに大河に向って下る。一方わかれて濱離宮方面に向い,そこで大河にそそぐ堀割に合流している。

 築地は,縦横に流れる堀割によって處々に面白い景観を作っているが,演舞場と堀割を隔てて相対しているところに築地病院と元の海軍々醫學校があって,河岸の此方は純日本式の花柳街だが,そこばかりは外人居留地といった風景だ。・・・堀割にそった並木道は綺麗で静かで,全体がアンリ・ルウソーの風景畫みたいに落着いている。

聖路加旧館裏の並木街に出ると,大河を背にして立ち並んでいる住宅街は,たぶん焼けなかったのだろうと僕は思っているが,或は焼けた所もあるのかなと思われる跡も残っている。・・・とにかく昔は,東に佃島から木場・洲崎を眺め,南方遥かに台場から品川・羽田方面を眺め,前面には東京湾を一望におさめていたものだ。今では前に月島が出来,その沖に晴海町などの埋立地が出来て,大河の一部になり,河風は昔のように涼しかろうが,並木街もまだ荒れたままで,ここに大きな丸太ん棒を積み上げたりしている。それに続いて,東京都築地産院なるものがあって,その先に聖路加國際病院の新館が出来ている。

(注)旧都立築地病院(海軍醫學校跡地):現在、この場所には、国立がん研究センター中央病院が建っています。

濱町・両國橋界隈

元の日本橋區は京橋と合併して中央區となっているが,昔から東京の中心として榮えていたので,醫家も昔から名家が多かった。その中でも,濱町から矢の倉にかけて多かったが,殊に聞えた花街であったから気風が派手だった。大正の震災はそうした名家を焼きつくしたが,今とは違って醫家華やかな時代だったので,銀行がどしどし金を貸し,そこで競争的な復興となって豪華な病院がぞくぞくと出来た。何と云っても,いい時代だったなあと懐旧の情にそそられる。ところが今度の戦災で,濱町から矢の倉にかけて一面の焼野原となり,醫家も全滅の形になったが,さてその跡はどうなっているだろう?僕は戦後はじめて足を踏みこんで見たが,震災後の復興と,何て甚だしい差であろう。日本の頂点期は震災後にあったように思われ,今度の復興が,そこまで達するには,どれだけの年月を要するだろうかを考えさせられる。

昔,杉田玄白が濱町の辺りに住んでいたことがある。その邸跡は道路になったが,裏庭にあった山伏井戸が公園のどこかに残っているということを聞いていたので,行ってみた。新大橋から両國橋に続く河岸に桟敷の木組が出来つつある。川開きが近いことを思わせる。・・・打ち続く待合の間の空間にも高桟敷が出来つつある。河の中からドンドン花火が打ち上げられ,成金族や特権族で賑わうことだろう。戦前には醫家連中も桟敷の真ん中に陣取って顔を利かしたことだろうが,今では昔の夢になってしまった。対岸には國技館の圓蓋がどっしりと見える。

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(28) 日本医事新報(1463)(昭和27年5月10日)

九段上から飯田町(1)大村益次郎の像
 九段坂病院
 警察病院

(29) 日本医事新報(1464)(昭和27年5月17日)

九段上から飯田町(2)眞鍋邸の跡
 飯田町一巡
 帰途の道草
飯田橋から牛込方面を望む

(30) 日本医事新報(1465)(昭和27年5月24日)

麹町富士見町朝倉病院の跡
 東京逓信病院
 陸軍々醫學校の跡
 北島・河本・木下邸

(31) 日本医事新報(1466)(昭和27年5月31日)

九段上の電車通り 概観した情景
通りの醫院
岡田・榊・室橋
東亜醫學校の事

(32) 日本医事新報(1467)(昭和27年6月7日)

麹町番町今昔(1)寂れた風景
 三番町の邊り
 東郷公園附近

(33) 日本医事新報(1468)(昭和27年6月14日)

麹町番町今昔(2)二番町舊住の醫家

(34) 日本医事新報(1469)(昭和27年6月21日)

内幸町から丸の内胃腸病院前にて
 漱石の入院日記
 内幸町一ノ三
 宮島博士遭難地
 永樂病院の跡
長与胃腸病院

(35) 日本医事新報(1470)(昭和27年6月30日)

銀座東西(1)癌研と保坂
 大野と古宇田
 加藤と菊地
築地三吉橋と南胃腸病院(のちの癌研
癌研

(36) 日本医事新報(1471)(昭和27年7月5日)

銀座東西(2)大日本衛生會の跡長與専斎、北里柴三郎
  山根正次、緒方正規
  高木友枝、大澤謙二
  三宅秀、金杉英五郎
  青山胤通、片山國嘉
  弘田長、三島通良
 川上と本田川上元治郎、金杉英五郎
  坂口勇、本田雄五郎、
  岡田和一郎
 林と中泉林春雄、中泉行正
  中泉行徳、中泉正徳
 高木と醫學講習所高木兼寛、高木喜寛

(37) 日本医事新報(1472)(昭和27年7月12日)

築地界隈(1)海軍々醫學校跡 
 高杉博士を思う 
 林・山田の病院跡 
 戸塚氏について 
築地海軍参考館
築地病院

(38) 日本医事新報(1473)(昭和27年7月19日)

築地界隈(2)トイスラーの遺業
 中央保健所
 聖路加國際病院
 東京都職員病院
 京橋から越前堀

(39) 日本医事新報(1474)(昭和27年7月26日)

濱町と矢の倉(1)長尾と濱町病院
 中洲病院の跡

(40) 日本医事新報(1475)(昭和27年8月2日)

濱町と矢の倉(2)山村病院の跡
 濱町公園
 明治座附近
 河岸のあたり

(平成23年7月14日 記す)(令和元年[2019]11月1日 追記)

80. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(2)(「日本医事新報」 No.1446-No.1462)

(承前)

♪今回は、前回に引き続き「新東京・醫學きまぐれ散歩」のうち、第1446号から第1461号の記事を紹介します。著者のS.M.氏は、神田・御茶ノ水界隈を散歩しています。

明治30年代当時の神田駿河台周辺略図(堀江作成)
眼鏡橋(元万世橋もとよろづよばし)(右側の橋)を中心とした鳥瞰図(明治32年)(地図参照)−右上にニコライ堂がみえる−

♪なお、一覧表(PDF)は、連載記事のはじめから最後までを収録しています。書誌的事項のほかに、記事にあらわれる登場人物なども、項目として入れてみました。ご参考になれば幸いです。

図をクリックすると、大きな画像がみられます。

  新東京・医学きまぐれ散歩(PDF)

神田川に架かる御茶ノ水橋とニコライ堂(橋の左が本郷台、右が駿河台)

♪本郷台地と駿河台は,神田川で分断され橋で繋がっています。御茶ノ水橋と聖橋です。神田駿河台周辺には,江戸時代,武家屋敷・旗本屋敷が多くあったのですが,明治中期以降になると,東京帝國大學出身者によって開業された専門醫院が立ち並ぶ病院町となっていました。武士の町が,医者の町となったのです。本郷には,医学校の病院が多かったのに対して,駿河台には私立病院が多くありました。

♪眼科(井上眼科病院[井上達也]),東京耳鼻咽喉科医院(金杉病院[金杉英五郎]),産婦人科(濱田病院[濱田玄達]),内科(杏雲堂醫院[佐々木東洋]),小児科(瀬川小児病院[瀬川昌耆])などの病院とともに,医家の邸宅も数多くありました。S.M.氏は,戦後の焼け野原となった病院町の様子や風景を記録しています。

最初の金杉病院(明治29年建設 神田區南甲賀町)
産婦人科濱田病院正門
杏雲堂醫院表門
瀬川小児病院(外観)(絵葉書)
瀬川小児病院(病室・病室廊下)(絵葉書)

瀬川小児病院

♪聖橋からの眺望や,御茶ノ水橋から水道橋に向かって下るサイカチ坂から見た風景を次ぎのように描写しています。

「お茶の水橋からの四周の眺めは美しい。だが,聖橋の上に立つと一層美しい。前後にニコライ堂と湯島聖堂とを控え,眼下に川筋の上下を眺める風景は東京第一だ。殊に夏の夕方は涼風袖を払うというやつで,納涼地としても第一だろう。」

「日本医師会館を出ると横町を隔てて木立も豊かな広い空地をもつ音楽学校の分校からピアノの音が聞えたりする。その前が,フランスの別荘風だとかいう日仏協会。行く手には震災前までサイカチの木が残っていたというサイカチ坂が,水道橋駅に向って下り,右側には家が絶えお茶の水川を隔てて本郷元町の小公園から都立工藝學校,続いて後楽園球場から小石川の台地を展望するという風景が開ける。」(S.M.)

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♪この駿河台周辺を,昭和60年代に,重いカメラを何台もぶら下げて歩いたことがありました。神田美土代町の東京基督教青年会館のなかにあった「日本医学図書館」について調べていたころのことです。もう,25年も前のことになります。ニコライ堂(東京復活大聖堂)の近くに,井上眼科病院の新しいビルが建ったころのことです。紅梅坂や幽霊坂を上ったり下りたりして,写真を撮りました。夏の暑い日のことでした。蝉の鳴き声が聞こえていました。

1980年代の紅葉坂(堀江幸司撮影)

♪そのとき撮った駿河台周辺の写真のネガが,まだ,アルバムのなかで,たくさん眠っています。S.M氏が見た30年後の駿河台附近の病院の姿が写っています。この機会に,デジタル化して,記録に残しておきたいと思います。

(平成23年6月30日 記す)(令和元年[2019]10月26日 追記)

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(前号からの続き)

(12) 日本医事新報(1446)(昭和27年1月12日)

學者街の西片町新舊風景杉田直樹、山極勝三郎
  片山國嘉、榊俶、吾妻
  勝剛
 在住の大家連名倉英二、石井吉太郎
  石川正臣、加藤義夫
  坂本恒雄、都築正男
  前田武雄、太田正雄
  小原辰三、青柳登一
  村山達三、平松濤平
  横尾安夫、栗山重信
  鹽谷卓爾、佐々廉平
 富士川邸跡富士川游

(1447号には連載なし)

(13) 日本医事新報(1448)(昭和27年1月26日)

日本醫科大學敷地の現状中原徳太郎、塩田廣重
 ワン・マンの精力塩田廣重
 復興計畫 

(14) 日本医事新報(1449)(昭和27年2月2日)

根津権現界隈彌生町邊り
神泉病院跡
 
 東京府立病院跡 
 千駄木町 

(15) 日本医事新報(1450)(昭和27年2月9日)

觀潮樓跡・曙町・洪庵墓森鴎外史蹟 
 駒込曙町 
 洪庵先生の墓緒方洪庵

(16) 日本医事新報(1451)(昭和27年2月16日)

動坂と駕籠町駒込病院宮本叔、入澤達吉、青山胤通、
  北里柴三郎、緒方規雄、橋本節齋、
  二木謙三、村山達三、高木逸麿、
  内山圭梧、後藤新平
 駕籠町焼跡棟方定次、平野啓司、宮川米次、
  入澤達吉、白木政博、三澤敬義、
  佐藤三吉
 巣鴨病院跡長谷川泰、榊俶、三宅秀、
  呉秀三、三宅鑛一、澁澤榮一
   
 栄研の跡[厚生大臣官房統計調査部]



東京府巣鴨病院

(17) 日本医事新報(1452)(昭和27年2月23日)

文京西部一巡り丸山町の焼跡 
   
   
   
 大塚公園の中 
 東大分院 
東京市養育院(大塚本院)正面

(18) 日本医事新報(1453)(昭和27年3月1日)

二名家の跡を訪ねる三宅家の跡三宅艮斎
 小池家の跡小池正直

(19) 日本医事新報(1454)(昭和27年3月8日)

醫業中心駿河台(1)日醫通りの入口 
 三樂と日醫 
三楽病院外観(絵葉書)
三楽病院病室・待合室(絵葉書)

(20) 日本医事新報(1455)(昭和27年3月15日)

醫業中心駿河台(2)日醫副會長を訪う 
 稲田博士邸 
 呉博士邸 
 濱田病院濱田玄達

(21) 日本医事新報(1456)(昭和27年3月22日)

醫業中心駿河台(3)前田眼科跡 
 三浦邸前にて 
 佐々木邸の邊り 
 延壽堂と山龍堂 
 佐野神経科醫院 

(22) 日本医事新報(1457)(昭和27年3月29日)

醫業中心駿河台(4)金杉病院跡 
 近藤病院跡 
 日本大學病院 
 杏雲堂と研究所 

金杉英五郎(東京耳鼻咽喉科病院・金杉病院院長)
金杉病院(金杉英五郎院長)
杏雲堂醫院表門
杏雲堂醫院胃腸科
杏雲堂醫院病室之一部
駿河台日本大学病院(絵葉書)

(23) 日本医事新報(1458)(昭和27年4月5日)

醫業中心駿河台(5)瀬川小児科病院 
 井上眼科病院 
 體協と保健所 
 名倉外科病院 
 阿久津病院 
 同和病院 
瀬川小児病院

(24) 日本医事新報(1459)(昭和27年4月12日)

聖堂から和泉町(1)湯島聖堂 
 途上の道草 
 練塀町界隈 

(25) 日本医事新報(1460)(昭和27年4月19日)

聖堂から和泉町(2)三井病院跡 
 舊幕の醫學所 
 お玉が池 

(26) 日本医事新報(1461)(昭和27年4月26日)

神田の南西部(1)宮本小児科の跡 
 杉本胃腸病院の跡 

(27) 日本医事新報(1462)(昭和27年5月3日)

神田の南西部(2)藁科松伯のこと 
 神保町附近 
 三崎町界隈 
 東亜醫學校 
神田神保町通り

(令和元年[2019]10月26日 追記)



79. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1)(「日本医事新報」 No.1434-No.1445)

 
♪戦後,昭和20年代の『日本醫事新報』誌に連載された「東都掃苔記」の一覧表を作成するために,バックナンバーを取り寄せて調査していたところ,同時期に「新東京・醫學きまぐれ散歩」という連載記事があることがわかりました。一冊一冊,雑誌にあたっていくなかで気がつきました。

♪「新東京・醫學きまぐれ散歩」の連載は,『日本醫事新報』誌の昭和26年10月20日号(第1434号)からはじまります。戦争で焼野原となった東京の医科大学(病院)の復興の様子や復興住宅の状況を,写真を交えて執筆しています。貴重な連載記事と思われ,のちのちのために,これらも一覧表に纏めておく必要を感じました。

♪筆者のS.M.氏は,戦後,3年間,病[結核]に倒れるのですが,ストレプトマイシン(抗生物質)のお蔭で病が癒え,リハビリを兼ねて,自宅のあった東大赤門前から,東大構内の散策をはじめます。その散歩の記録が,この「新東京・醫學きまぐれ散歩」のエッセイとなったそうです。

♪本郷通り界隈など,戦後の復興しつつある東京の街並みのなかを歩きながら,自分の体も復調してきていることを実感するS.M.氏。生きることの喜びを,散歩のなかで出会う旧友との会話の中に感じているようです。ざっくばらんな語り口です。ちょっと,毒舌家でもあったようです。交際範囲は広く,木下正中(せいちゅう),木下正一(せいいつ),下瀬謙太郎の自宅も訪問しています。

♪S.M.氏は,連載の第1回となる「東大そぞろある記」の「前口上」(下記参照)のなかで,本郷村の自宅周辺の様子を書いています。その辺り一面は,麦畑と野菜畑が広がり,庭には,菜の花が咲き乱れて,裏には墓地がありました。いまも赤門前の本郷通りをちょっと入った所に,樋口一葉ゆかりの法真寺があります。S.M.氏の住居は,この辺りであったのかもしれません。

♪これらの文献をたよりに,60年後の東京を歩き,「江戸東京」のなかに,現在の様子を記録として残せればと思います。

(平成23年6月9日 記す)(令和元年[2019]10月20日 追記)

新東京・醫學きまぐれ散歩(1)

東大そぞろある記(1)

 前 口 上

 三年越しの病気で寝ているうちに,だんだん復興が進んで,起きて見ると新東京なるものが出来上っていた。思い出すのも不愉快だが,戦争中に赤門前の旧宅を間引疎開というやつに強奪されてから,牛込で焼かれ,静岡へ逃げて二十日目にまたも焼かれて関西の郷里へ落ちて行き,終戦直後に帰って来たものの,まだ東京の焼野原はキナ臭くて,貸間も見つからないので,探しに探した揚句,千葉県佐倉の医史に名高い順天堂の,たぶんその昔,塾生たちが合宿していたものだろうと思われる黒光りの門部屋に巣くっていたが,旧居に十二坪かっきりの制限住宅ができたので帰って来て,ホッとした途端に気がゆるんだのか,倒れこんだのである。

 一時はいよいよおさらばかと思っていたが,アメリカから取り寄したスト・マイが利いたのか段々よくなって,病床から濡縁越しに早春の庭を眺めるようにもなった。そうなると,庭先に一本,梅もほしくなる。というのは,辺り一面が麦畑野菜畑で,裏は墓地という本郷村の一軒家なので,僕の庭にも菜の花が咲いていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

 それにてつれて,三年越しに会わない,あちらこちらの友人知己が,なつかしく思い浮ぶ。出しぬけに訪ねて行ったら,どんなに驚くだろう。何しろ「曲りなりの復興」が,いきなり目の前に現われるわけだから。そんな童話じみた思いで一杯になって,家の中にあぐらをかいて澄ましてなどいられない気持になる。そこでぶらぶら,せめて近所あるきでもして見たくなった。遠出すると主治医に叱られるおそれがあるから,足馴しだと理屈をつけて,先ず東大からぶらつく事にした。何の目的もあるわけではない。だから何の予定もない。気が向いたら,のっそり研究室や教授室へはいって行くかもしれない。また先生方の家がどうなっているか,見に行きたくなったら行くつもりだ。どうせ消える好奇心ではあるけれど,「復興」の目に映る復興の新東京は,興味があるに違いない。

(S.M.)

🚙🚙🚙

連載記事「新東京・醫學きまぐれ散歩」一覧表(堀江幸司作成)

(画像をクリックするとEvernote内に保存してある大きな表にリンクします)

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(1) 日本医事新報(1434)(昭和26年10月20日)

東大そぞろある記(1)前口上 
 混乱期の思い出 
 赤門に向って 

(1) 東大そぞろある記(1)

(2) 日本医事新報(1435)(昭和26年10月27日)

東大そぞろある記(2)医学部一号館今昔橋田邦彦、永井潜、
  竹内松太郎、田宮猛雄、
  東龍太郎、林春雄、
  田村憲造、兒玉桂三、
  柿内三郎
 池の鯉小泉八雲、呉建
 消えた銅像 

東大そぞろある記(2)

(3) 日本医事新報(1436)(昭和26年11月3日)

東大そぞろある記(3)附属医院裏真鍋嘉一郎
 旧病室の通り佐藤三吉、木下杢太郎、
  太田正雄
 二つ並んだ胸像ベルツ、スクリバ、
  入澤達吉、富士川游
 二つの象徴青山胤通
 今後の予定 

東大そぞろある記(3)

(4) 日本医事新報(1437)(昭和26年11月10日)

東大初期の思い出時計臺と鐵門芳賀栄次郎、ベルツ、シュルツェ、田口
  和美、西郷吉義、スクリバ、梅錦之丞、
  佐々木政吉
 明治初期の学生田口義徳、近藤次繁、入澤達吉、池田謙斎、
  金杉英五郎、
   

東大初期の思い出話

(5) 日本医事新報(1438)(昭和26年11月17日)

本郷元町・弓町・真砂町芳賀翁の隠栖芳賀栄次郎・智政、
  稲田龍吉、塩田廣重、
  三浦勤之助、飯島茂
  山田弘倫
 三大家の邸宅青山徹蔵、青山胤通、
  瀬川昌世、瀬川功、
  塩田廣重、藤井貞
  福士政一、橋爪一男、
  坂口勇
 焼残りの悲哀 

本郷元町・弓町・真砂町

(6) 日本医事新報(1439)(昭和26年11月24日)

済生学舎の跡を訪ねる(1)初期の長谷川邸長谷川泰、入澤達吉
  細谷省吾
 最初の学舎 
 晩年の居住跡大野喜伊次

済生学舎の跡を訪ねる(1)

(7) 日本医事新報(1440)(昭和26年12月1日)

済生学舎の跡を訪ねる(2)湯島の学舎跡 
 講師と学生 
 夢の跡―銅像 

済生学舎の跡を訪ねる(2)


(8) 日本医事新報(1441)(昭和26年12月8日)

順天堂醫院と同大學大學の外観加瀬恭治
 醫育への復帰佐藤達次郎、有山登、
  佐藤進、佐藤泰然、
  佐藤尚中、佐藤恒二
 戦後の佐藤一族佐藤泰然、佐藤尚中、
  佐藤進、大瀧潤家、
  松本本松、松本順、
  佐藤進、佐藤亨、
  佐藤淸一郎

順天堂醫院と同大學

(9) 日本医事新報(1442)(昭和26年12月15日)

東京醫科歯科大學周囲の光景 
 大計画の図面長尾優
 特殊の学風石原久、島峰徹、
  金森虎男、河野庸雄、
  坂本島峰、山極一三、
  柳金太郎、阿久津三郎、
  宮本璋、北博正、
 島峰博士の胸像島峰徹

東京醫科歯科大學

(10) 日本医事新報(1443)(昭和26年12月22日)

本郷南部とびある記長谷川・小此木邸跡長谷川泰、村山達三、
  齋藤茂吉、小此木信六郎、
  中原徳太郎、大槻菊男
  岡田和一郎、久保猪之吉、
  久保護躬、神保孝太郎
 元町から湯島二丁目細谷省吾、加藤恭治、
  上條秀介
 入澤・田所邸跡入澤達吉、田所喜久馬
 近藤博士終焉地近藤次繁、三浦勤之助、
  森半兵衛、阿久津勉、
 盤瀬邸跡など盤瀬雄一
 森川町の木下邸木下正中、木下正一

本郷南部とびある記

(1444号には、連載なし)

(11) 日本医事新報(1445)(昭和27年1月5日)

相良知安碑と時計台假名交りの碑文相良知安
 時計台の遺物 

(令和元年[2019]10月20日 記す)

78. 太田圓三君像(太田圓三記念碑):相生橋と神田橋

記念碑の場所相生橋中島公園(昭和6年)から神田橋公園に移転(昭和30年)

太田圓三記念碑(神田橋公園内)(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)

♪隅田川の東京湾への出口に位置する相生橋は,詩人・木下杢太郎(本名・太田正雄・東京大学医学部皮膚科学教授)の兄にあたる太田圓三(帝都復興院土木局長)が,関東大震災後の復興橋梁のひとつとして設計した橋です。永代橋の下流(隅田川の派川)に架かる橋です。

♪昭和6年(1931),相生橋が完成したのを機会に,小橋(越中島との間)と大橋(月島との間)の中継地となった中之島に太田圓三を顕彰する彫像が建立されました。復興橋梁に命をかけた太田圓三の没後,5年目のことでした。

♪終戦後,彫像は,災禍で損傷した部分を修復の上,昭和30年(1955)春,神田橋公園内に移設されています。

♪相生橋が建設された当時の小橋と大橋とが,どのような位置関係で繋がっていたのか,気になっていました。相生橋の側面や橋上を走る路面電車と中之島の一部をとらえた写真(絵葉書)はあるのですが,全景がわかりませんでした。

相生橋(東京大十六橋)(絵葉書)

♪絵葉書古書店のリストのなかに相生橋を上空から撮影した絵葉書「機上ヨリ見タル月島相生橋及商船學校附近」を見つけ,幸い入手することができました。

♪隅田川のなかの中之島,大橋と小橋,そして商船學校(現在の東京海洋大学越中島キャンパス)も写っています。帆船(画面下・中央)も見えます。

「機上ヨリ見タル月島相生橋及商船學校附近」(絵葉書)

♪梅が咲き,雪柳(ユキヤナギ),杏の花が咲きはじめています。まだ,朝は冷え込みますが,それでも春が,確かに,訪れてきています。染井吉野桜も,そろそろ開花しそうな気配を感じさせています。越中島キャンパス内には,いろいろな史跡が残っているようです。

♪中の島公園から,いまの永代橋は,どのように見えるのでしょうか。太田正雄(木下杢太郎)が兄を想う気持ちは,相生橋・中之島から見た江戸情緒の残る永代橋の風景のなかにあったのかもしれません。

(平成25年3月12日 追記)

 

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♪太田圓三の記念碑が,神田橋畔の神田橋公園のなかにあることを,伊東市のホームページに記載されている「木下杢太郎の兄・太田圓三」のなかの写真で知りました。

♪その写真は,記念碑を遠景で捉えていて,太田圓三の彫像や碑文がよくわかりません。そこで,この太田圓三の記念碑を確認しに行くことにしました。

🚙🚙

♪平成23年(2011)1月16日(日),今日は,大学入試センター試験の二日目。三重,新潟,鳥取などでは雪ため交通機関が混乱して,試験開始時間が繰り下げられるなどの対策がとられたと新聞・テレビは報じていました。東京は,朝から曇り空で,寒さが身に沁みる一日のはじまりとなりました。

♪寒さの中,愛車のカローラ・フィルダーを走らせ本郷通りをまっすぐ神田橋に向かいました。駒込方面から東京大学本郷キャンパスの前を通って,「本郷丁三丁目」交差点を直進,蔵前橋通りの起点となる「サッカーミュージアム入口」交差点を過ぎて「湯島聖堂前」交差点を右折すると,聖橋にでます。聖橋は,神田川の深い堀割をわたって本郷と神田を連絡する橋です。震災後に架橋された復興橋梁のひとつです。

 

♪聖橋(復興局土木部橋梁課設計)(大正13年 [1924] 9月着手)1) 2)は,復興局橋梁課長補佐を務めた成瀬勝武(のち日大教授)も構造設計に関係したそうですが,隅田川に架かる鉄橋とは,趣を異にします。橋脚などの橋のデザインは,近隣の湯島聖堂やニコライ堂の建物とも調和しています。

 

♪神田川の断崖から現れた地下鉄が地上を走り,JR総武線・中央本線とも交差するなど,聖橋,御茶ノ水橋界隈は,石橋と鉄橋が美しい景観をつくり出しています。江戸から東京への移り変わりを,空間のなかに感じられる不思議な場所です。聖橋は,そのなかの中心的な存在となっています。聖橋からの眺めは,鉄道のジオラマを見るようでもあります。

御茶ノ水・両国間高架線(昭和7年7月1日開通)

♪右手にニコライ堂を見ながら駿河台の坂を下ると低地の小川町,神田美土代町にでます。以前,神田美土代町には,東京基督教青年会館(東京YMCA)があり,明治30年(1897)には,そのなかに神田衛生会を中心にして「日本医学図書館」3)が置かれました。コンドルによって設計された東京基督教青年会館の建物も,残念ながら,いまでは見ることができません。

東京基督教青年会館(コンドル設計)
東京基督教青年会館(YMCA)

 

🚙🚙🚙

♪前方に「神田橋」の交差点が見えてきました。本郷通りから逸れて,裏道に入り,路上バーキングを探しました。山川書店の前に駐車できました。若い女性3人が,iPadで地図を表示しながら,歩いています。「江戸東京」もiPadに対応できるだろうか,そんなことを考えながら車外にでました。(現在(2019)、「改訂版・江戸東京」ではiPadに対応しています)

♪カメラを担いで,風が冷たく感じられる日陰を,ひとり,神田橋の畔に向かいました。太田圓三の記念碑は,本郷通りの交差点の方を向いて,神田橋の親柱(北詰東側)の脇に建っていました。

 

神田橋公園(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)
神田橋公園(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)

♪「かんだばし」の橋名鈑がつけられた灯籠風の親柱は,太田圓三らが復興橋梁4)のために設計したデザインを模しているようです。

♪神田橋は,外濠(御堀)に架かる江戸時代のはじめからある橋で,「大炊殿橋」「神田口橋」とも呼ばれ,大手町側から神田の町へ通じる重要な橋でした。

♪震災後,神田橋は,復興局によって架け替えられることになります。大正13年(1924)8月10日に起工,本小松石を使用した本格的な石橋でした。大正14年(1925)11月15日に開通式が行われています。この神田橋については,復興局技師時代の成瀬勝武が「神田橋改築工事」5)と題して報告しています。

♪土木図書館では「震災復興橋梁工事写真」として復興橋梁の工事の様子を写した写真を約1000点デジタル化して公開しています。隅田川六大橋は,もちろんのこと,聖橋,神田橋の工事過程も写真で詳しく記録に残しています。神田橋や聖橋の工事写真には,神田橋上を走る路面電車や神田川の土手の様子なども写り込んでいて,大変,貴重な史料となっています。

♪日本橋の榛原(はいばら)に向かうときなどは,いつも,この神田橋を渡っていたのですが,この太田圓三の記念碑には,気がつきませんでした。

♪太田圓三の彫像に対面して感激しました。隅田川六大橋に命をかけた太田圓三の顔がそこには,ありました。

太田圓三君像(平成23年1月16日 堀江 幸司撮影)

★ 隅田川六大橋(創設年)

1.永代橋:元禄11年(1698)[大正15年(1926)復興]

2.相生橋:明治36年(1903)[大正15年(1926)復興]

 

3.駒形橋:昭和2年(1927)

4.蔵前橋:昭和2年(1927)

5.言問橋:昭和3年(1928)

6.清洲橋:昭和3年(1928)

 

♪彫像には,太田圓三の姿と,その背景に淸洲橋の一部が描かれていました。太田圓三のやさしい眼と,きりっとした口元が印象的です。家族を想った顔です。彫像の下には,「太田圓三君像」の文字が刻まれていました。

♪「太田圓三君像」は,昭和6年(1931)に相生橋の中島公園内に建てられていたものを,戦後,昭和30年(1955)に修理して移したものでした。相生橋は,隅田川六大橋のなかで,一番目に竣工した橋で,太田圓三が永代橋附近からの眺めと将来の架け替えの簡便さを考えて設計した橋でもありました4)

相生橋は突桁式の鈑桁を連続して架設するものであります。相生橋は御承知の通り海岸近くのことでありますから,一部錆びた場合とか将来改築する場合に便利の様に,又永代橋附近から見て廣い天空の眺を邪魔しない様にと云ふ考へから,此の様な構造を撰んだ次第であります。

♪太田圓三は,隅田川の橋の設計にあたっては,橋のデザインのなかに風景も取り入れていたことがわかります。さらに,鉄橋は,塩害によって,万全なものでもないことを知っての設計だったことがわかります。太田圓三は,隅田川の風景そのものを愛していたのでしょう。その想いは,永代橋の畔で,「パンの会」に参加していた弟の木下杢太郎(太田正雄)にも通じるものでした。

♪当時の,相生橋6) 7)は,中之島を挟んで,越中島との間に架かる小橋と月島との間に架かる大橋との2つの橋からなっていました。復興橋梁の完成後,その中之島に,太田圓三の功績を顕彰する彫像が置かれることになります。昭和6年(1931),太田圓三の死8) 9) 10)から5年目のことでした。

♪相生橋中島公園で4月21日に太田圓三の記念建造物の序幕式が挙行されたときの写真が,雑誌「土木建築工事画報」(第7巻6号)(1931)に載っています8)。ちょうど,80年前のこととなります。そこには,未亡人と嗣子・陽三の姿がありました。ここでも,記録を,写真で残す大切さが伝わってきます。

♪相生橋中島公園内の記念碑の周りには,休憩所もできました。遺族や友人たちは,相生橋から永代橋を眺めて,その橋上に自分たちをみている太田圓三の姿を感じていたのかも知れません。

♪「太田圓三君像」の彫像の下に相生橋畔から,この神田橋畔に記念碑が移された経緯を書いた碑文がありました。隅田川六大橋(復興橋梁)の完成を見ずに亡くなってしまった太田圓三の想いを後世に伝えようとする方々の気持ちが伝わってきます。

大正十二年関東大震災の直後,氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ,復興事業の根幹で然も極めて難事業であった區画整理,および,これに基く土木工事の計画遂行に直面して,献身的努力をなすこと二年余,事業の基礎漸くなった大正十五年春,心身疲勞の極 事業の犠牲として,惜しくもその生命を絶ったのであります。

昭和六年復興事業の完成に當り,先輩知友相寄り,氏の功績を偲び記念としてこの彫像を,深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが,太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので,昭和三十年春それを修復の上,この地に移設したのであります。

♪「太田圓三君像」の彫像と神田橋の橋名鈑などを撮影して,神田橋公園をでました。寒桜が咲いているのに気がつきました。太田圓三に会いに来て,一本の寒桜をみる。本格的な春の訪れが待たれる桜との出会いでした。

♪神田橋の方を振り返ると,日本橋の方向の空は高速道路で狭くなっています。太田圓三の記念碑の周りは,高層ビルや高速道路ばかりで,夕陽もすぐにビルの陰に隠れてしまいました。

♪東京の下町を愛した太田圓三。風が渡たり,川面に陽が輝く,眺望のよい隅田川沿いを,桜やすかんぽが咲く頃,歩いてみたいと思いながら,神田橋の交差点を渡って,帰路につきました。

むかしの仲間

むかしの仲間も遠く去ればまた日ごろ顔あはせねば知らぬ昔と変りなきはかなさよ春になれば草の雨三月桜四月すかんぽの花のくれなゐまた五月には杜若花とりどり人ちりぢりの眺め窗の外の入日雲

(木下杢太郎)

 

参 考 文 献

1) 聖橋工事(二圖).土木建築工事画報  第1巻 第2号 p.22.(1925)

2) 聖橋設計側面図(一圖).土木建築工事画報  第1巻 第2号 p.23.(1925)

3) 「日本医学図書館」-神田駿河台周辺と明治35年以降の「日本医学図書館」-.医学図書館 32(3):290-7, 1985.

4) 「六. 橋梁」 :太田圓三著:『帝都復興事業に就て』(復興局土木部 大正13年)

5) 成瀬勝武:復興型橋梁・神田橋改築工事.土木建築工事画報  第2巻 第1号 p.24-25.(1926)

6) 釘宮 盤:三種の工法を用ひたる相生橋橋脚工事.土木建築工事画報  第2巻 第2号 p.30-39.(1926)

7) 復興局:相生橋締切工事(二圖).土木建築工事画報  第1巻 第1号 p.10-11.(1925)

8) 太田円三氏記念像.土木建築工事画報 第7巻 第6号 p46.(1931)

9) 故太田円三氏を悼む.土木建築工事画報  第2巻 第5号 p.2-3.(1926)

10) 太田円三氏を想う.土木建築工事画報  第2巻 第5号 p.4.(1926)

参考ホームページ:土木学会附属土木図書館・デジタルアーカイブス・「土木建築工事画報

(平成23年1月21日 記す

77. 木下杢太郎・兄太田圓三と永代橋・両國橋(2)

 
♪木下杢太郎は,永代橋畔の「永代亭」や両國橋畔の西洋料理屋で,北原白秋,谷崎潤一郎,石川啄木,高村光太郎などと「パンの會」の催しを持ちました。「パン」(Pan)とは,ギリシャ神話の「アルカディアの森や山に住む牧羊や羊飼いたちの守護神」(歌舞音曲に秀でた神)のことです。

  『パンの會の回想』 (木下杢太郎)[青空文庫]

♪このパン(Pan)は「養育するもの,牧するもの」という意味を持ち,食べるパン(Bread)と同義で,パニック(Panic)という言葉の起源でもあったそうです。

♪両國橋畔で行われた「パンの會」は,社会主義者の集会と間違われたことがありました。明治42年(1909)5月25日付けの『讀賣新聞』は次のように報じています。

警視庁ではパンの會と云うのに,希臘(ギリシャ)時代からの故事があろうなどと,そんな風流な処には気が着かぬから,パンの會と云えばこれやてっきり社会主義者の会合に違いないと,飛んだ処へ早合点をまわして,開会当日の朝から会場の近辺へ角袖巡査を派すこと約五十名,万一不穏な弁論や形勢があればと,用意周到に固めていた。さて会員等はそんなこととは夢にも知らず,上田敏氏の仏国文学論などいろいろ芸術談に花の咲いた後,宴が崩れて来ると鯨飲乱舞,随分騒ぎ立てていい頃に散会した。

 

 

♪『食後の歌』(明治四十三年)のなかで,両國橋の錦絵的な江戸情調を「両國」と題して,木下杢太郎は,次ぎのように詠んでいます。

両 國

   両國の橋の下へかかりや
   大船は檣を倒すよ,
   やあれそれ船頭が懸聲をするよ。
   五月五日のしつとりと
   肌に冷き河の風,
   四ツ目から来る早船の緩かな艪拍子や,
   牡丹を染めた袢纏の蝶蝶が波にもまるる。

   灘の美酒,菊正宗,
   薄玻璃の杯へなつかしい香を盛つて
   西洋料理舗の二階から
   ぼんやりとした入日空
   夢の國技館の圓屋根こえて
   遠く飛ぶ鳥の,夕鳥の影を見れば
   なぜか心のみだるる。

(注1) 両國橋は,米沢町(現在の中央区東日本橋2丁目あたり)と本所元町(現在の墨田区両国1丁目あたり)を結ぶ橋で,本所の地が,もと下総國に属しており,武蔵と下総の両國を結ぶ橋という意味で,両國橋と名付けられたといわれています。橋の東西は広小路(火除地・ひよけち)となり,盛り場として栄えました。木下杢太郎が「パンの會」で北原白秋らと通った時代の両國界隈は,いまとは違って,江戸情緒が幾分かは,味わえたのかもしれません。

(注2) 檣:(帆柱・マスト・ほばしら)

(注3) 四ツ目:本所のさきの地名で,有名な本所四ツ目芍薬(牡丹園)があり,両國橋のたもとから牡丹園行きの早船が出て,船頭が蝶々と牡丹を染め抜いた半纏を着ていたそうです。四ツ目之橋は,堅川たてかわに架かり北は本所茅場町三丁目(現在の墨田区江東橋3丁目)と南は深川本村町(現在の江東区毛利1・2丁目)を連絡する橋でした。牡丹園は,現在の江東区毛利1丁目21番地あたりにあったようですが,竪川沿いには首都高速7号小松川線が走り,永井荷風が『牡丹の客』のなかで書いた下町の水辺の風景は残っていません。

(注4) 国技館:圓屋根(まるやね)(ドウム)ができたのは明治42年(1909)6月2日のことでした。午後2時から挙行された開館式では,後藤新平が治療したこともある板垣退助が式辞を述べています。

両國橋の景観 対岸に國技館を観る(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪江戸幕府は,大川に五つの橋を架けました。上流から千住大橋(文永3年[1594]),吾妻橋(安永3年[1774],両國橋(万治2年[1659],新大橋(元禄6年[1693]),永代橋(元禄11年[1698])の順になります。

隅田川の橋:

♪一番古く架橋されたのが,千住大橋で,両國橋が2番目,永代橋が3番目となります。一番下流に位置する勝鬨かちどき橋ばしが架けられたのは,昭和15年(1940)のことで,創設当時のままの形を残しています。

♪千住大橋は,徳川家康が伊奈いな忠次ただつぐ(普請奉行・代官頭)に命じて,江戸開府前の豊臣政権下に架けさせた橋で,その費用は,伊達政宗が用立てたといわれています。皮肉なことに,徳川最後の将軍,徳川慶喜は,この千住大橋を渡って,水戸の地に帰ることになります。

♪両國橋は,明暦の大火(明暦3年[1657])の2年後の万治2年(1659)に防災と都市計画のもとに架けられましたが,明治30年(1897)の花火のときには,見物衆が橋上に殺到して欄干が崩れ落ちました。

♪江戸の面影を残す大川端,浜町河岸は,江戸を懐かしみ,明治の新時代の息吹を感じさせる場所でもありました。「両國」の詩のなかに,菊正宗と西洋料理舗レストラントが同居しています。

♪「パンの會」のメンバーは,大川の夕景を,灘の美酒を酌み交わしながら,椅子に腰をかけて三味線をひく女たちと,楽しんだのかもしれません。粋ななかに異国情緒を感じさせます。

♪隅田川界隈は,医史跡のほかに文学散歩を楽しむような場所も多く,春の桜の花や川風を肌で感じ,永井荷風や芥川龍之介の足跡を辿ると,あらたな「江戸東京」に巡り合えるかもしれません。

(平成15年11月9日 記)(平成24年1月20日 リンク・絵葉書追加)(令和元年10月2日 追記)

 

76. 木下杢太郎・兄太田圓三と永代橋・両国橋(1)

   
♪木下杢太郎(本名・太田正雄)の兄太田圓三は,東京大學土木工學科卒業の土木技術者で,鉄道省と関東大震災後の復興局(東京市土木部長)で仕事をし,隅田川に新しく橋を架けました。

太田圓三:『帝都復興事業に就いて

♪太田圓三は,東京大學工學部教授・田中豊を引き抜いて橋梁課長とし,相生橋(1926),永代橋(1926),清洲橋(1928),蔵前橋(1927),駒形橋(こまがたばし)(1927),言問橋(ことといばし)(1928)の六つの橋をデザインおよび工法を変えて架橋する計画をたてています。

相生橋(絵葉書)
永代橋(絵葉書)
清洲橋(絵葉書)
蔵前橋(絵葉書)
駒形橋(絵葉書)
言問橋(絵葉書)

♪このとき,復興局で活躍していたのが後藤新平(水沢藩出身)(1857-1929)でした。太田圓三は,後藤新平の思いを胸に,隅田川全体の調和と美観にこだわった橋を架けることに情熱を傾けることになります。

♪清洲橋,蔵前橋,駒形橋,言問橋の4橋は,当時の東京市民の投票によって,橋名が決まったそうです。隅田川の橋には,いまでも,この名前が使われています。

♪木下杢太郎は,兄圓三とは,明治35年(1902)に義父・惣兵衛が本郷・白山御殿町に新築した住宅に同居するなど,東京生活を通して,仲のよい兄弟でしたが,太田圓三は大正15年(1926)3月21日,「隅田川六大橋」の完成をみないで,神経衰弱のため自殺します。

永代橋開通記念絵葉書(大正十五年十二月)

◆◆◆

♪木下杢太郎は,亡き兄圓三が心血を注いで設計した永代橋を想って,『春のおち葉』のなかで次のような詩を詠んでいます。

永代橋工事

 過ぎし日の永代の木橋は
  まだ少年であつたわたくしに
  ああ,どれほどの感激を與へたらう。
  人生は悲しい。
  またなつかしい,面白いと,
  親兄弟には隠した
  酒あとのすずろ心で,
  傳奇的な江戸の幻想に足許危く
  眺めもし,佇みもした。
  それを,ああ,あの大地震,
  いたましい諦念,
  歸らぬ愚痴。
  それから前頭の白髪を気にしながら
  橋に近い旗亭の窓から
  あの轟轟たる新橋建設の工事を
  うち眺め,考へた。
  これも仕方がない,
  時勢は移る。
  基礎はなるべく近世的科學的にして,
  建築様式には出来るだけ古典的な
  荘重の趣味を取り入れて造つて貰ひたい。
  などと空想して得心した。

それだのに,同じ工事を見ながら,
  今は希望もなく,感激もなく
  うはの空にあの轟轟たる響を聴き,
  ゆくりなくもさんさん涙ながれる。

あんなに好きであつた東京,
  そして漫漫たる隅田のながれ。
  人生は悲しい,
  ここは三界の火宅だと
  ――ああ恐ろしい遺傳――
  多分江戸の時代に
  この橋の上で誰かが考へたに相違ない,
  それと同じ心持が今のわたくしに湧く。

水はとこしへに動き,
  橋もまた百年の齢(よはひ)を重ねるだらう。
  わたくしの今のこの心持は
  ただ水の面にうつる雲の影だ。

    ×

  行く水におくれて淀む花の屑

  永代の新橋は亡兄の心血をそそぐ濺ぎ設計せるものにてありけるなり。

♪詩のなかに出てくる「三界の火宅」という言葉は,法華経の「欲令衆」にあります。朝の「朝夕のおつとめ」のなかで唱えられます。

三界は安きことなし。なお火宅の如ごとし。衆苦充満して,はなはだ怖畏すべし。常に生老病死の憂患あり。かくの如き等の火,熾然としてやまず。如来はすでに三界の火宅をはなれて,寂然として閑居し。林野に安処せり。

♪兄圓三が,すでに,「林野」いることを知っていても,大地震のあと,隅田川橋梁の復興に全力を捧げた兄への想いを,永代橋の上にたち,隅田の流れをみて,感じていた太田正雄が,そこにいます。

♪工事の基礎は,近代的科学的にして,その設計様式は,古典的なものにする。太田圓三の設計思想は,東日本大震災の復興計画にも,活かされるべき考え方のひとつではないでしょうか。いつも,こころのなかに,林野を持ちたいものです。

(平成15年11月1日 記)(平成24年1月16日 堀江幸司 記す)