95. 高村光太郎と三上参次が住んだ町:駒込林町:『本郷駒込林町地圖』

 
高村光太郎旧居跡:駒込林町25番地(現在の文京区千駄木5丁目22番地)

 

三上 参次邸宅跡:駒込林町169番地(現在の文京区千駄木5丁目13番地)

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♪神田神保町の秦川堂書店で入手してあった『本郷駒込林町地圖』(東京市聯合青年團林町分團)をPDF化しました。

♪『本郷駒込林町地圖』には,戦前の番地が入っています。個々の地所の境界を知ることができます。駒込林町の町内全体の地番がわかります。「駒込中学校(236番地)」,「林イナリ神社」,「杏林舎印刷工場(172番地)),「鶴ノ湯(227番地)」の具体的な場所が記されています。

 

 

 

♪三上参次の邸宅は,169番地にありました。「林イナリ神社」の前の路地を進んだ右側が169番地です。さらに進むと「鶴ノ湯」の銭湯があります。

♪地図でみると近くですが,当時の屋敷は,それぞれの敷地が広く,千駄木界隈は,木々も鬱葱としていたでしょうから,「鶴ノ湯」も,いまとは大分違う風景のなかにあったのでしょう。

♪駒込林町の地図に載った「鶴ノ湯」は,いまでも,「鶴の湯」の看板を挙げて営業しています。(2014年1月2日廃業)「鶴の湯」の横の小路には,数日前に振った初雪が,まだ,残っていました。両脇から軒先が迫っています。路地を抜けると,しばらくして,見慣れた都立駒込病院前のバス通りにでました。本郷通りと不忍通りを繋ぐ道です。ほっとして,一息つきました。

♪動坂上の交差点から富士神社の前を通って本郷通りへ戻りました。「高村光太郎旧居跡」「三上参次邸宅跡」「富士神社」「鶴の湯」の場所を,Googleマイマップ「本郷界隈:医史跡案内」に追加しました。

 

 

(平成25年1月19日 追加)

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二つの林町(駒込林町・小石川林町)

1.千駄木5丁目(旧駒込林町)周辺地図:

2.千石2丁目(旧小石川林町)周辺地図:

♪文京区内には、旧町名で林町が二カ所ありました。駒込林町(現在の千駄木5丁目と3丁目の一部)と小石川林町(現在の千石2丁目)です。駒込林町は、明治2年(1869)から明治44年(1911)までの間は、駒込千駄木林町といいました。(参考文献1、2)

♪この駒込林町に高村光太郎と三上参次の住まいがありました。二人のお墓が、染井霊園にあることは、「江戸東京」のなかで触れましたが、住居は駒込林町でした。同じ町に住んだ二人が、同じ霊園に眠っていることになります。

♪駒込林町が、どの辺りであったかというと、医学図書館関係の方々には、日本医科大学図書館(千駄木1丁目)の近くといった方がわかりやすいかもしれません。かつて、この辺りは、東京帝國大學の住宅地として、文化人や学者が多く住んだ町でもありました。

♪千駄木5丁目(旧駒込林町)は、JR駒込駅前から東京大学本郷キャンパスに向かう本郷通りの左側に位置しており、高林寺(緒方洪庵墓所)と都立駒込病院の近くで、本郷通り、不忍通り、団子坂に挟まれた区域です。

♪千駄木の地名の由来は、太田道灌が栴壇(せんだん)の木を植えたためとか、一日に千駄(せんだ)の薪を切り出したためとか諸説があるようです。上野寛永寺創建後には、この林地を同寺に属し、徳川霊廟用の薪材をとらせたともいいます。(参考文献2、3)この辺りもバブルの影響で旧家が取り壊され、雑木林など昔の面影は残っていません。

(注)栴檀(せんだん):庭に植える落葉高木。夏の初め、薄紫の花を開く。皮・実は薬用。「栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)より芳し(かんばし)[大きくなってから立派になる人は、小さい時分からすぐれた所が有るものだ]」

駒込吉祥寺境内にある栴檀の木(和田修平撮影)

♪近くの吉祥寺の山門には、「栴檀林」の額が掛けられていますが、ここに、現在の駒澤大学の前身のひとつである学寮(栴檀林)があったことをしめしています。

駒込吉祥寺山門 額「栴檀林」(和田修平撮影)

 

♪三上参次は、この町から、「お正月など大礼服を着て宮中へ二頭馬車に乗り参内していた」(参考文献1)といいます。また、この町へは、高村光太郎を訪ねて、草野心平や尾崎喜八などの詩人がやってきています。

♪高村光太郎は『智恵子抄』に収載されている「うた六首」のなかで次のように歌っています。


 「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず」
 「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」
 (昭和13年ころの作)。

 

♪高村光太郎・智恵子や三上参次に思いを馳せながら、駒込林町界隈を散策してみようと思います。

 

参考文献:

1)地域雑誌『谷中・根津・千駄木』其の二十八(谷根千工房、199

 2)『ぶんきょうの町名由来』(東京都文京区教育委員会社会教育課編、1984)

 3)『大東京の史蹟と名所』(復刻版)(佐藤太平著、博友社、1977)

(平成14年12月18日 記)(2020年5月24日 追記)

94.「二本榎保存之碑」(西ヶ原一里塚):飛鳥山公園の附属地:三上参次と澁澤栄一

所在地:東京都北区西ヶ原2-47

二本榎保存之碑(Google earth)

 

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♪北区西ヶ原の滝野川警察署前の道(本郷通り)の真ん中に、「二本榎保存之碑」(大正5年6月)の記念碑が建っています。

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♪この碑の存在は以前から知っていましたが、今回、三上参次の事跡を調べていて、その撰文が三上参次によることがわかりました。

♪日光御成道(旧岩槻街道)の一里目の一里塚である「本郷追分」(東京大学農学部前・高崎屋酒店角)については、連載第9回で取り上げましたが、その時は、二里目の一里塚にある「二本榎保存之碑」の碑文が、まさか、旧東京医学校本館に関係のある三上参次によるものであるとは思ってもいませんでした。

 

♪宇野彰男氏(三上参次の曾孫)に、お尋ねしたところ、この記念碑の撰文についてはご存じないとのことでしたので、西ヶ原は自宅からも近いので、自転車で行って撰文を確認してみることにしました。

♪染井通りの中程に本郷学園(高等学校・中学校・幼稚園)がありますが、その斜め前に染井坂に入る道の入口があります。染井坂のはじまりの右手が駒込小学校で、左手が西福寺(さいふくじ)です。西福寺には徳川吉宗にかわいがられ江戸城内の庭師も勤めた伊藤伊兵衛政武(いとう・いへえ・まさたけ)の墓(東京都指定旧跡・昭和35年2月13日)があります。

♪染井坂を下り切り、道なりに行くと、染井銀座商店街通にぶつかります。この商店街は、昭和の初めに暗渠となった谷戸川に沿った道が発展してできました。谷戸川の水源は、染井霊園の裏の東京外国語大学西ヶ原キャンパス(移転して公園・老人ホーム・マンションなどに再開発されている)のグランド付近であったといわれています。(外国語大跡地周辺まちづくりニュース

♪染井銀座商店街通を横切って、上州屋質店前の路地をさらに真っ直ぐに進み、坂を上り詰めると本郷通りの滝野川消防署前にでます。

 

♪本郷通りを渡って、王子に向かって右側の歩道を進みました。滝野川消防署、東京都北区防災センター、北区立滝野川公園、印刷局東京病院(現・花と森の東京病院)、財務省印刷局滝野川工場(現・国立印刷局東京工場)、滝野川警察署と続きます。

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♪西ヶ原一里塚(大正11年3月8日国指定史跡)は、日光御成道(旧岩槻街道)(現在の本郷通り)の日本橋から二里目の一里塚で、江戸時代に設置されたままの位置に残る都内唯一の一里塚となっています。

♪大正時代の初めに、道路拡張のときに撤去されることになったのを、澁澤栄一(1840-1931)らの努力で保存されることになりました。

♪当時の塚は、道の両側につくられていました。南側の塚を迂回して道路が拡張されることになったため、南側の塚が中ノ島のように道の真ん中に残ることになりました。

♪現在、北側の塚は、滝野川警察署の隣にある七社神社(ななしゃじんじゃ)石鳥居の横に残されています。

「二本榎保存碑」拓本を神保町の古書店(誠心堂書店)で入手しましたので、以下に紹介しておきます。

 

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1.

画像をクリックするとPDFでご覧いただけます。自由にダウンロードしてご利用ください。

 

2.

 

3.

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

4.

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

 

5.

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

 

6.

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

 

7.

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

 

8.

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

 

9.

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

 

10.

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

 

11.

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

 

12.

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

 

13.

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん

 

14.


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

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「二本榎保存之碑」の碑文

2.

二 本 榎 保 存 之 碑

公 爵 徳 川 家 達 題

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

(裏 面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり

 

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♪碑文によると南側の「二本榎保存之碑」がある土地(本郷通り中央の緑地帯)は、飛鳥山公園の附属地となっています。

♪飛鳥山公園の一部としてまで、塚と榎を保存しようとした三上参次や澁澤栄一の史蹟に対する強い思いを感じます。

♪本郷通りの車の往来による排気ガスによって、この辺り一帯も環境が随分と悪化していますが、七社神社の境内の静寂さの中に「二本榎保存之碑」が設置された大正のはじめの頃の薫りを感じ取ることができます。散歩した当日は、ちょうど碑のまわりの緑地帯の草刈りが行われていました。

♪碑文をみていて、この「二本榎保存之碑」の碑文が廣群鶴(こう・ぐんかく)(御碑銘彫刻師)によって刻まれていることに気がつきました。高林寺にある緒方洪庵の墓と岡節斎の記念碑の石碑を鐫刻(せんこく)した谷中の石屋です。

♪石碑を刻んだ廣群鶴によって、緒方洪庵三上参次が繋がったようにも思えました。

♪廣群鶴については、連載第2回で触れましたが、廣群鶴はほかに、「澁江抽斎之碑」(台東区感應寺)、「佐藤尚中之碑」(台東区谷中霊園)、「戸塚文海墓碑銘」(台東区天王寺)などの石碑を鐫刻しているようです。(文献参照)このうち「戸塚文海墓碑銘」の題額は「二本榎保存之碑」と同じく徳川家達によるといいます。

♪廣群鶴の刻んだ石碑の確認をかねて、これからの「江戸東京」の散歩は、しばらく谷中界隈が中心となりそうです。

(参考文献)
 廣群鶴と谷中の石屋. 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の四十二(谷根千工房 1995年3月30日発行)pp.2-17.
 

(平成14年10月27日 記)(令和2年(2020)5月18日 追記)(令和3年1月8日 追記)

 

93. 御鷹匠屋敷跡:東京都立駒込病院(現・がん・感染症センター都立駒込病院)


周辺地図:(Google earth)

 

東京都立駒込病院(現・がん・感染症センター都立駒込病院):

 


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♪本郷通りをJR駒込駅前から東京大学方面へ向かい上富士前交差点、富士神社入口交差点を過ぎると、次ぎの交差点が文京九中入口ですが、その交差点の進行方向左側の道端に「駒込総社天祖神社入口(昭和三十四年五月建之)」の標柱が建っています。

♪天祖神社(駒込神明宮)は、駒籠(駒込)の総鎮守産土神(うぶすなかみ)で、その氏子区域は、駒込神明町、淺嘉町、動坂町、千駄木林町、駒込片町、吉祥寺町、富士前町、上富士前町、北豊島郡巣鴨町大字上駒込村字傳中、妙義坂、染井でした。

♪境内は、いまも昔の面影を残し、クスノキ、イチョウの大木があります。明治時代には、その敷地は約一千坪もあり、「老杉蔭暗らき所」で、境内から動坂に抜ける近道がありました。いまでも、境内を通って、動坂方面に通行できるようになっています。

 

(2019年撮影)(がん・感染症センター都立駒込病院は、この境内を入って奥、右側一帯にある)

♪この天祖神社の裏が「がん・感染症センター都立駒込病院」(旧東京都立駒込病院)(以下、駒込病院)で、この辺りは、将軍が鷹狩りをした際に、その役を担う鷹匠たちの屋敷(御鷹匠屋敷)があった場所です。八代将軍吉宗は、鷹狩りの御膳所(休憩場所)とて、いまも巣鴨地蔵通商店街入口にある真性寺(しんしょうじ)を使ったそうです。真性寺は、森鴎外が『北條霞亭』(大正6年<1917>)を執筆するために訪ねたお寺でもあります。

 

 

♪駒込病院は、本郷通りと不忍通りに挟まれた場所に位置しています。病院の名称から、JR駒込駅の近くにあるように思われがちですが、どちらかというと田端よりにあります。ちょっと交通の不便な所で、病院案内ではJR田端駅から都バスを利用した交通案内があります。JR駒込駅からはタクシーで行くのが便利です。本郷通りを富士神社入口交差点で左折すると動坂の坂上にでます。その右側が駒込病院です。

♪正面入口の一角に「動坂遺跡(東京都指定史跡 昭和51年1月16日指定)」の説明版が建っています。それによると、「縄文中期の集落跡と享保3年(1718)に置かれた鷹匠役屋敷跡の複合遺跡」で、昭和49年(1974)8月、東京都立駒込病院の改築の際に、ここから貝塚が発見され、鷹匠役屋敷跡に関連する遺構・遺物も豊富に発掘されたとあります。

 

 

♪動坂は不動坂の略で、動坂にあった赤目不動にちなんで、そう呼ばれたといいます。寛永のころ(1624-44)三代将軍家光が鷹狩の途中、赤目不動に立ち寄り、目黒・目白に対して目赤不動(南谷寺)と命名したそうです。

♪駒込病院正面入口の前をさらに進むと駒本(こまもと)小学校前交差点で本郷通りへぶつかりますが、その手前の左側が高林寺(緒方洪庵墓所)です。現在の目赤不動(南谷寺・なんこくじ)は、交差点を右折して左側の本郷通り沿いにあります。

♪東京都立駒込病院の歴史を調べていたら、『新撰東京名所図会(風俗画報臨時増刊)第50編』(明治40年発行)に東京市駒込病院の記載がありました。

東京都立駒込病院の歴史

『新撰東京名所図会(風俗画報臨時増刊)第50編』(明治40年発行)に現在の東京都立駒込病院の前身である東京市駒込病院についての記述がありましたので、紹介しておきます。

 「東京市駒込病院は、駒込動坂町にあり。明治十二年虎列刺病流行の時、設置したる舊避病院の一にして、北豊島郡駒込村即ち今の地に病室二棟を新築したりしもの、その起原たり。後ち一度閉院して東京府に引継ぎ遂に之を毀撤し、其敷地のみ保有したりしが、十九年六月向ヶ岡彌生町の避病院を其跡に移し、廿八年より事務所、病室を増築し自費患者の入院を許し三十年より、東京市に属し、之を常時傳染病院とし、以て現在の病院に擴張せり。其敷地左の如し。自廿六番地至四十一番地 自七十五番地至八十五番地 自八十九番地至九十一番地 九千九百一坪。建坪二千十六坪余。病室八棟、百七室ありて、患者二百五十人を収容するの設備を有す。消毒所、洗濯所、汚物焼却場、患者賄所、浴室、寝室、醫局、薬局事務所、看護婦室、診察所、顕微鏡室、門番所、物置等あり。醫員四名、調薬生三名、機関手一名、其他看護婦以下の諸員あり。卅九年十一月末日の在院患者百七人なり。外来患者を取扱はず、診察料不要。入院料は、特別一日金貳圓五拾銭、一等一日金壹圓五拾銭、二等一日金壹圓、三等一日金五拾銭。但自費患者に限る。電話本局七百五十八番」

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♪明治39年(1906)当時の駒込病院では、4名の医者で100名以上の入院患者をみていたことになります。病院のまわりには、天祖神社、富士神社、吉祥寺などの神社やお寺の境内があり、近くには千駄木の雑木林も多く残っていたことでしょう。隔離された一万坪ほどの敷地内で患者さん達はどのように過ごしていたのでしょうか。

♪動坂上の駒込病院の辺りには、町家のほかに植木屋も多くあったようです。動坂下は、新開地で、田端に連なり、一円に耕地が続いていたそうです。坂上からは、日暮里、尾久の方まで眺望が開けていて、野鳥が飛び交い、空気もいまよりずっと澄み切っていたことでしょう。夜空の星もどんなにか綺麗にみえたことかと思います。

♪縄文時代は、この辺りまで海だったわけで、東京都立駒込病院の前に立ち、この地域の歴史を振り返ると、すごい時代の移り変わりを感じました。

 

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♪令和2年(2020年)3月から顕著になった新型コロナウィルス感染症の発現により、東京には、緊急事態宣言が発せられ「がん・感染症センター都立駒込病院」をはじめ都内の各病院では、入院患者への面会原則禁止など、院内感染防止対策のため、厳重な警戒態勢がとられています。

♪5月中旬になって、全国的に感染者数は、徐々に減ってきてはいますが、まだ、安心できるような状況にはありません。依然、マスク不足は続いてます。日本手ぬぐい(トンボ柄)でマスクを自作してみました。手ぬぐいを折りたたんで、左右にゴムをかけただけですが、以外に顔にフィットします。

筆者・堀江幸司

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都立駒込病院へ行く(2023.12.7)

外来受診の付き添いで「駒込病院」行ってきました。自宅が病院の近くにありますので、古くから知っていたのですが、なかに入ったのは初めてでした。

とにかく病院内の清掃が行き届いています。床はピカピカ、衛生的です。感染防止が徹底されています。

外来の受付では、自動受付機に診察券を入れると、「受付票」と「外来呼出受信機」が出てきました。

順番が来ると、ベルが鳴って確認ボタンを押すと何処にいけばよいかを知らされます。病院内なら何処にいても安心です。

歯科ユニットは、最新機器が揃い、抜歯の際の医師と看護師の連携も見事でした。

外来が終わり3階の売店食堂に行ってみました。ベランダも良く整備されていて、遠景、浅草スカイツリーが夕陽を受けていました。構内の木々の黄葉が見事でした。

 

 

 

 

 

参考文献:『駒込病院 百三十年の史譚』(磯貝 元著 博文館新社 2011)

 

(平成14年8月18日 記)(平成14年8月19日 記)(令和2年(2020)5月9日 追記)(2023.12.9 追記)

92. <余滴>『名勝繪入改正仙臺市内全圖』

明治36年5月1日印刷 5月10日発行

編輯発行兼印刷人 仙台市国分町二丁目五十四番地 盛光堂 峰屋十馬

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(1)昭忠碑(旧本丸天主台にあり)

瑞鳳殿(伊達政宗公御灵屋なり)(灵は霊の異字)

(2)青葉神社(北山にあり)

(3)第二師団司令部(川内旧青葉城)

(4)大橋(廣瀬川にかけたる鉄橋なり)

(5)東照宮(市内の東北宮町に在り)

(6)仙臺警察署(國分町二丁目にあり)

(7)縣會議事堂(表小路にあり)

(8)宮城縣廰(白當臺通りにあり)

(9)地方裁判所(東二番丁にあり)

(10)憲兵本部(東二番丁にあり)

(11)宮城監獄(宮城郡小泉村にあり)

(12)改良劇場仙臺座(東四番丁にあり)

(13)芭蕉辻(仙台の中央なり市内第一なり此所に管内厘程原標あり)

(14)林子平之碑(北八番丁龍雲院にあり)

(15)政岡之墓(八ツ塚光勝寺にあり)[光勝寺:考勝寺]

参考 政岡之墓参拝記念絵葉書

政岡之墓門前(仙臺名所)
高尾之墓(佛眼寺ニ有)(仙臺名所)
徳川氏振子之墓(仙臺名所)
三澤氏初子之墓(烈婦政岡)(仙臺名所)

三澤氏初子之墓

(16)躑躅岡(つつじがおか)(又榴ケ岡云櫻樹数百あり仙台一の遊園也)

(17)宮城紡績器械場(宮城郡荒巻村三居沢)

(18)第二高等学校(片平丁にあり)

(19)控訴院(片平丁あり)

(20)宮城師範学校(北壱番丁にあり)

(21)愛岩神社(向山にあり眺望第一勝地 全市内を一目にし松島金花山を眼にす)

(22)木之下薬師(木之下町にあり)

(2020.2.23 堀江幸司 記す)

91. 宮城病院の東三番丁(元貞坂)から北四番丁への移転と外科手術室の移築

🍂🍂今回は、東北大学病院(仙台市青葉区星陵町1番1号)の前身である宮城病院の場所の変遷について、収集した絵葉書や古地図を通して見てみました。

東北大学医学部附属病院(1989.12.5 堀江幸司撮影)

東北大学病院沿革

🍂宮城病院(東三番丁・元貞坂)跡:[現・新NHK仙台放送局(陸奥ホテル・ホテル仙台プラザ跡)]

宮城病院(元貞坂)
名称絵入改正仙台市内全図(明治36年)

名称絵入改正仙台市内全図(明治36年)
宮城病院(元貞坂)の場所周辺地図(明治36年)(陸軍病院[仙台陸軍衛戍病院]のあたりが、現在、勾当台公園となっています)

🍂新宮城病院(北四番丁)[現・東北大学星陵キャンパス]

宮城病院(北四番丁)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 仙台市全図001-1024x650.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 仙台市全図番地入り大正4年-1024x665.jpg です
仙臺市全圖 番地入. 大正4年度最新版(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

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宮城病院の沿革

東北大学医学部沿革

東北大学病院沿革

明治5年(1872) 仙台共立病院(仙台市南町)(中目齋、石田眞等)

明治12年(1879)5月 仙台共立病院を仙台県立病院と改称して、国分町に移転。7月 仙台県立病院を宮城病院と改称。

明治17年(1884)10月 宮城病院を元貞坂に竣功、移転。宮城医学校の附属として、「宮城医学校附属医院」と改称。

明治21年(1888) 第二高等学校内に医学部が設置され、宮城医学校が廃止。「宮城医学校附属病院」の名称も廃止され、「宮城病院」の名称にもどることとなる。

片平丁にあった第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として分離されたのが、明治34(1901)年4月のことで、附属病院として東三番丁(元貞坂)にあった宮城病院(県立)が使われました。

元貞坂(玄定坂)は、宮城病院の敷地と東三番丁通りを結ぶ坂でした。

現在、宮城病院跡には、新NHK仙台放送局が建っていますが、かつて、この地は、仙台停車場に近く、日本鉄道が陸奥ホテルがありました。

仙台停車場前 陸奥ホテル
仙台停車場前 陸奥ホテル

明治44年(1911)4月  宮城病院が、木町通の西側、北四番丁の現在地に移転される。当時の病院長は、内田守一(兼小児科長)、山形仲藝は外科長でした。

大正2年(1913) 東北帝国大学医学専門部の附属医院となる。(県立宮城病院の移管)

大正5年(1915) 東北帝国大学医科大学が開設され医学専門部附属医院は医科大学附属医院となる。

大正8年(1919) 東北帝国大学医学部附属医院と改称

昭和22年(1947) 東北大学医学部附属医院と改称

平成15年(2003) 歯学部附属病院と統合して東北大学病院となる。

宮城病院長(内田博士)
内田医学博士 在職貳拾年記念
山形仲藝博士  在職貳拾年記念  

参考文献

宮城病院の沿革

宮城病院一覧

宮城病院の沿革 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

仙台医学専門学校一覧(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

仙台医学専門学校一覧 明治34年ー明治36年

仙台医学専門学校一覧 明治36年ー明治38年

仙台医学専門学校一覧 明治38年ー明治40年

仙台医学専門学校一覧 明治41年ー明治42年

仙台医学専門学校一覧 明治42年ー明治43年

仙台医学専門学校一覧 明治43年ー明治45年

東北帝国大学一覧. 自大正8至9年

『東北大学医学部開設百周年記念写真集』(東北大学医学部開設百周年記念委員会編 2019年12月27日発行)

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仙台医学専門学校(第二高等学校敷地内)建物図(片平丁) (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

🍂宮城病院全図(明治37年)(仙台市東三番丁六十三番地)

宮城病院内外科室(東三番丁六十三番地)

宮城病院構内外科大手術室

外科手術室は、明治33年(1900)10月着手、明治36年(1903)9月竣功。元貞坂にあった宮城病院の敷地内に新設されました。「宮城病院新設大手術室概要」(山形仲藝、佐藤熊之助供述)によると、建築の大体は、「ハイデルブルヒ」医科大学ならびに東京大学病院の手術室を参考にして、図案は文部省技師の久留正道の手によるとのことです。

宮城病院新築大手術室概要(出典:「東北医学会会報」第三十一号 明治三十七年二月二十日発行)
宮城病院新築大手術室概要(出典:「東北医学会会報」第三十一号 明治三十七年二月二十日発行)

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宮城病院の移転に伴う外科手術室の移築

明治44年3月に宮城病院が北四番丁(現在地・東北大学星陵キャンパス)(のちの東北大学医学部附属病院)に移転した際に、外科手術室は移築されることます。

宮城病院一覧
新宮城病院正門
キャプションに婦人科手術室とあるのは外科手術室の誤り
東北帝国大学医学部平面図(大正8年ー大正9年)

(2020年2月13日 記す)

90. 太田正雄(木下杢太郎)の日記と剖検記録

太田正雄の没年の昭和20年(1945)の日記を見てみると、空襲のなか、大学本郷構内に留まり、講義、回診を続け、当直を務める様子が書かれています。その合間には、懐徳館の庭園、薬学科の薬草園、農学部構内などをまわって花々を写生しています。

♪「日記」には、「江戸東京」に登場する緒方富雄、遠山郁三、高橋明、川喜田(伝研)など、各先生のほか、徳川義親の名前も出てきます。

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♪昭和20年(1945)6月から7月にかけて日記に次ぎのように書いています。

晩年の太田正雄(昭和18年10月19日・20日 東京大学医学部本館前)

昭和20年(1945)6月5日:

曩日(のうじつ)の胆石痛の如し。午前中家居就褥。午后中野氏との約束ゆえ病院にゆく。探しものの為め也。労る。柿沼[昊作](かきぬま・こうさく)教授の室にて診を受く。

柿沼昊作教授

外科病棟のとりこぼちつつある傍にふふみし泰山木の花一枝を折って帰る。

 泰山木(タイサンボク)の花言葉:前途洋洋

昭和20年(1945)6月6日:

胃腸のコリックなほつづく、午後家居。泰山木の花瓶に十分開く、写す。午后登院。回診をすまし、薬学科の薬苑に請うて、ひなげし、かきつばたの茎を得て帰り、帰来之を写生す。病臥

昭和20年(1945)6月7日:

雨。十一時登院。一時十分から二時半講義。三時四十分から五時徳川義親候邸。・・小痛あり。早く臥す。

昭和20年(1945)6月10日:
目ざめて胃部に疼痛あり、之をさぐるに鴿卵大の結節を觸る。之をおすと痛む。之を摩すると段々と小さくなりつひに消失する。然しまたむくむくと腫れ出す。状、局所性の筋の強直の如くである。之が消えてのち、なお固定せる腫瘍ありや否やを指尖を以て確めんとしたが、判然と決定することが出来なかった。唯然しこの時から、其事も亦可能であるといふことを思ふやうになった。少し注意と覚悟とを要するぞと。

(注)鴿:はと

昭和20年(1945)6月11日:
気分あしく、午前九時半登院、十一時より外来を見る。午後伝研にゆかず、教授室に静養、午後一時ごろ大槻をたづね、腹部のパルパチオン[触診]を頼む。

昭和20年(1945)6月12日:
柿沼教授によりバリウムによる腹部レントゲン撮影。

昭和20年(1945)6月19日:
柿沼教授の勧めにより今日より一週間ばかり伊東に休養することにする。

昭和20年(1945)6月25日:
新個の硬結一両個を模索し得たり。沖縄失陷の由。

昭和20年(1945)7月3日:
十時小使荷をとりに来、まづ病院に送る。二時入院、四時好仁会評議委員会。天ぷらを食ひ、ビイルをのみ、スパスムス起る。

昭和20年(1945)7月4日:

八時過より血球計算、胃液検査等をなす。一時過と三時前とに警報。三輪、柿沼教授。

注)この三輪という人物は、当時、医学図書室の事務を担当していた三輪福松のことかと思われます。

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前列の右端が西成輔教授(解剖)、その後ろの三列目の右端が三輪福松。太田正雄教授は、前列の右から3人目(昭和18年 東京大学医学部本館前)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は image-1.png です

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♪8月1日、教職員とともに還暦の小宴を好仁会の二階で行ったあとの8月30日に柿沼内科に再入院することになります。このとき主治医となったが井上貞吉で、柿沼教授(内科)と大槻教授(外科)の相談の結果、手術はせずにリンゲル液による水と栄養の補給が行われることになりました。

東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」)
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」

♪治療の効なく、10月15日の未明(午前4時25分)に死亡しました。当時、三田村篤志郎教授(病理)が病欠だったため、剖検は松本武四郎諏訪紀夫両助手によって午後1時から行われました。

♪剖検は、病理解剖室の水道が故障のため使えなかったので、皮泌科の手術室で行われました。解剖に立ち会った柿沼教授は、「太田君ぐらい煙草を吸っても、こんなに肺がきれいかね」といったそうです。また、大動脈の動脈硬化もなかったといいます。太田正雄は愛煙家で知られていました。

♪太田正雄は、沖縄陥落や終戦の玉音放送をどんな思いで聴いたのでしょうか。東大構内に残って戦争とたたかった太田正雄教授の人生は、敗戦とともに終わりましたが、その心は、「🍂百花譜🍂」のなかに遺されているのではないでしょうか。

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[剖検記録]

♪松本武四郎(後年、慈恵医大の図書館長も務めた)によって記録された剖検記録を採録しておきます。

[剖検番号]16594 執刀者:松本、諏訪 記録者:松本
[柿沼内科より剖検依頼、剖検時刻 13時(死後88.5時間)]
[臨床的診断]上腹部腫瘍
[病理解剖学的診断]
 1) 体部胃道上に発し、小彎より胃後壁全般に亙り板状に浸潤せる硬癌。原腫瘍部及胃後壁粘膜上の浅き不規則形潰瘍。
胃周囲及膵周囲淋巴腺への転移。肝下面と胃小彎右下部、前者と横行結腸右方寄りの部、胃大弯と横行結腸、廻腸終部と盲腸並に上行結腸始部、横行結腸左部と上方に迂弯せる下行並にS字状結腸等間に於ける腫瘍性胼胝性癒着、転移性播種を伴へる癌性腹膜炎。腸間膜淋巴腺の特別なる腫大を伴はざる腸間膜全体の胼胝性肥厚。

(注記)
 胼胝:べんち(callus)「結合組織の著しい増殖を伴った肉芽組織の瘢痕形成に膠原繊維の硝子変性が加わって硬くなった状態をいう」(南山堂医学大辞典)

 2) 肝の門部に限局せる初期膵道癌並に該部に於ける胼胝様結締織増殖。此の部に於けるDuctus hepaticus並に門脈の狭窄。肝内胆道の拡張。肝の強き黄疸及全身の中程度黄疸。Ductus choledochusの中程度拡張。小腸上部に於ける胆汁色、下行結腸-直腸に於ける灰白色の腸内容。
 3) 上記腹膜炎及門脈狭窄による腹水症(6000cc)。
 4) 初期気管支肺炎、軽度肺水腫、肺後部に於ける血液沈下。
 5) 左肺下等後面-側面及横隔膜面の繊維性癒着。
 6) 冠動脈の硬化及蛇行、房室弁の軽度繊維性肥厚。
 7) 胃壁肥厚圧迫による膵の軽度扁平状萎縮。
 8) 膵の萎縮。
 9) 中葉形成を伴へる胡桃大の所謂「摂護腺肥大」、肉柱膀胱。

(注記)摂護腺:前立腺

10)副腎の脂肪減量。
11)軽度の内膜脂肪化のみにて著明なる硬化症なき大動脈。
12)仙骨部の浅き褥瘡。
13)下腹部の手術創痕、虫様突起の欠如。
14)全身の衰弱。

♪終戦間際の警戒警報(サイレン)が鳴り響くなかでの入院生活は、本人は勿論のこと家族などの看護するものにとっても大変なことであったに違いありません。

♪7月初旬に柿沼内科にはじめて入院したときの様子を「読書療病」のなかで、次のように書いています。

「7月2日に柿沼内科に入院し、同18日(水)退院帰臥した。其間に胃腸のレントゲン診断、胃液検査、血液の諸反応等の事を行った。 ・・・ 悪性腫瘍の如きものではあるまいと云ふことがほぼ明にせられ、入院の目的は達せられた。食欲、消化は尋常であり、悩む所は微にして長く続く腸痛と身体の羸痩とのみであった。」

(注記)羸痩:るいそう:やせおとろえること。

♪亡くなったときの体重は、38kg、脳重量は1400gであったそうです。

(参考文献)

1)『木下杢太郎日記 第五巻』(太田正雄著 岩波書店 1980)

2)『太田正雄先生(木下杢太郎)生誕百年記念会文集』(日本医事新報社 1986)

3)『目でみる木下杢太郎の生涯』(木下杢太郎記念館編 緑星社 第2版 1983)

(平成15年9月3日記)(2010年1月22日 追記)

89. 太田正雄(木下杢太郎)と「医科大學附属図書館協議会」


♪東京都文京区千駄木5丁目(旧駒込林町)に高村光太郎旧居跡を訪ねたあたりから、木下杢太郎を「江戸東京」で取り上げたいと思っていました。

♪神田神保町の古本屋(誠心堂書店)に、『ニ本榎保存碑』(三上参次撰)の拓本を見つけて、買いに行った折り、偶然「すかんぽ」の拓本に出会ったのにも、木下杢太郎に導かれている感じがしていました。

誠心堂書店

「ふるき仲間も遠く去れば、また日頃
 顏合せねば、知らぬ昔と かはりなき は
 かなさよ。春になれば草の雨。三月、櫻。
 四月、すかんぽの花のくれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの
 眺め。窓の外の入日雲。」 
               木下杢太郎

(木下杢太郎の歌碑が東北大学医学部構内にあります。)

木下杢太郎文学碑(加藤晃一氏撮影 2020.2.15)
木下杢太郎文学碑(加藤晃一氏撮影 2020.2.15)
木下杢太郎文学碑(堀江幸司撮影 1989.12.5)

参考文献:「県立宮城病院の正門(右)と木下杢太郎の文学碑(左)

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♪木下杢太郎(詩人・劇作家)は、本名を太田正雄(1885-1945)といい東京帝國大學医学部の皮膚科教授であった昭和18年(1943)の10月19日(水)、20日(木)の両日、館長として現在の「日本医学図書館協会(JMLA)」の前身である「医科大學附属図書館協議会」の第15回協議会(会場:東京帝國大學醫學部會議室)を主催しました。ちょうど今から60年前のことになります。

♪この第15回協議会の二日目となる10月20日の午前の議長を太田正雄が、午後の議長を木原玉汝(新潟・薬理学)が務めています。当時、木原玉汝は昭和大学医学部第一薬理学教室から新潟医科大学教授に転じていました。

♪10月20日の日記に太田正雄は「午前9時より医科大學図書館会議。午後講義及び回診。5時半より雨月荘にて図書館会議懇親会」と書いています。

♪戦時下の東京大学に全国から集まった館長には、次の人々がいました。

赤野 六郎(京都府立醫科大學中央図書館)
津崎 孝道(京城帝國大學醫學部図書室)
木原 玉汝(新潟醫科大學附属図書館)
高木 耕三(大阪帝國大學附属図書館)
大谷佐重郎(金澤醫科大學附属図書館)
寺坂 源雄(長崎醫科大學附属図書館)
草間 良男(慶應義塾大學醫學部図書館)
鈴木 重武(千葉醫科大學附属図書館)
三輪  誠(名古屋帝國大學附属図書館)
関  正次(岡山醫科大學附属図書館)
本川 弘一(東北帝國大學附属図書館醫科分館)
太田 正雄(東京帝國大學醫學部図書室)

♪第15回協議会の記念写真には、太田正雄のほか、医学部長代理として出席し開会の挨拶を行った西成甫(東京帝国大学医学部解剖学教授)の顔もみえます。撮影は、本館前の階段を使用して行われたようです。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は image.png です

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撮影された場所

現在の東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館):赤門を入って突き当りの建物。

東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)(1985.11.4 堀江幸司撮影)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)

♪このときの協議事項には、次のようなものがありました。

(午前)午前9時開会 議長:太田正雄

1. 近時不定期に到着する雑誌の目次を各加盟館に送附する件(京城)
2. 南方醫學に関する文献目録編纂の件(新潟・東大)
3. 戦争の為未着の外国雑誌バックナンバーを後日補充する場合、対策あらば承りたし(金澤)
4. 共同図書目録編纂の件(慶應)
5. 学校図書館に対する新刊図書の優先配給を速かに実施さらるるよう、関係当局に要請するの件(慶應)
6. 皇漢醫學共同目録編纂の件(千葉)
7. 常任幹事校設置の可否(千葉)

(午後)午後2時再開 議長:木原玉汝
8. インフォーメーション・ビューローに関する件(名古屋)

 南方醫學の協議事項のなかで、太田正雄は議長として次のように述べています。


「要するに南方醫學と云ひましても文献的に見て一つはヨーロッパにて出版したものと他は現地に於て出したものですね、前者に就いては東北が一番多く持って居るのですが之に就いては私の方から出掛まして十種類許りの文献を集めて見ましたが・・・・・・で問題は後者ですね、例へばジャワの「GeneesKundig Tijdschrift voor Nederlandsch lndie」の様な本は現在一冊も無いのですから・・・・」

♪太田正雄は協議会を開催した昭和18年(1943)3月から雑草を写生し『百花譜』の画稿とし、二年後の昭和20年(1945)6月には『すかんぽ』(注)を発表しています。この6月中旬より胃腸疾患のため故郷の伊東に静養しますが、胃癌の疑いで東大柿沼内科に入院し、10月15日未明に逝去しました。

♪太田正雄は土肥慶蔵(東大・初代皮膚科講座教授)を恩師としており、宇野朗(うの・ほがら)とも繋がることになります。また、東京での住まいも、本郷西片町や白山御殿町などの本郷界隈であり、しばらく木下杢太郎の足跡を辿ってみたいと思います。

(注)すかんぽ:伊東では「ととぐさ」という草。木下杢太郎は随筆『すかんぽ』のなかで、晩年、東大農学部の構内の一角にすかんぽを見つけて食べた経緯を書いています。「大學構内の公開の場所には今やどこにもすかんぽは見つからなかった。恐らくは大震災後根が絶えたのであらう。所が農學部の裏門からはひる小径のわきの地面に其聚落の有ることを見付けたのである。」

(平成15年9月1日 記)(令和2年1月21日 追記)

88.『東北帝國大學醫學専門部在学記念 明治四十五年』写真帳と医学部構内絵葉書(Googleマイマップ 東北帝国大学医学部構内)

♪『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』を入手しましたので、その一部と、これまでに収集していた東北帝国大学医学部関係の絵葉書を紹介します。

『東北帝國大學醫學専門部在学記念 明治四十五年』(写真帳)
東北帝国大学医学部附属病院玄関(絵葉書)

♪「明治45年卒業記念写真集」からの写真と絵葉書を挿入した「東北帝国大学医学部構内」と題するGoogleマイマップにまとめてみました。

 

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♪明治45年(1912)当時の皮膚科教授は、のちに、土肥慶蔵のあとを継いで東京帝国大学医学部の教授となる遠山郁三でした。帝大を退職後の遠山郁三は、戦中、立教大学学長(1937-1943)をも務めることになります。

♪職員のなかには、魯迅(魯迅と東北大学)の恩師として知られる藤野厳九郎(解剖学)や井上達一(眼科)の名も見えます。皮膚科に太田正雄(詩人・木下杢太郎)が教授として赴任するのは、大正15年(1926)のことでした。

東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(1989.12.5 堀江幸司撮影)
東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(2020.2.15 加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館])

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 ・明治20年(1887)第二高等中学校医学部設置

 ・明治34年(1901)仙台医学専門学校設置(片平地区)

第二高等学校(仙台医学専門学校)(絵葉書)

 ・明治45年(1912)東北帝国大学医学専門部(星稜地区)

宮城病院建築平面図1(出典:宮城病院一覧
宮城病院建築平面図2(出典:宮城病院一覧

 ・大正4年(1915)東北帝国大学医科大学開設

東北帝国大学医学専門部・東北帝国大学医科大学正門(絵葉書)

 

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♪写真帳によると東北帝国大学医学専門部の職員は、以下の通りです。

大学総長(文学士)澤柳政太郎

主事(医学博士)山形仲藝(やまがた・なかき)

教授(医学博士)内田守一

教授(医学士)栗原永之助(産婦人科)

教授(薬学士)佐藤喜代作

教授(医学得業士)敷波重治郎(しきなみ・じゅうじろう)

 (得業士とは:医学専門学校の卒業生に与えられた称号 Diplom)

教授(医学士)柿澤信義(かきざわ・のぶよし)

教授(医学士)東 自助

教授 小高 玄

教授(医学士)小塚文治

教授(医学士)遠山郁三(とおやま・いくぞう)(皮膚科)

教授(文学士)古川義天

教授(医学士)小玉龍蔵

教授     藤野厳九郎(ふじの・げんくろう)(解剖学)

教授(医学士)加藤豊治郎(かとう・とよじろう)(内科)

教授(薬学士)細井美水

教授(薬学士)井川寛一郎

教授(医学士)和田徳治郎

教授(医学得業士)玉造弥七郎

教授(医学士)井上達一

助教授(薬学得業士)篠原吉祥

助教授       國岡三樹

助教授(医学得業士)大関隆輔

講師(薬学得業士)石丸生駒

講師(医学士)恒遠 新

教員(陸軍歩兵中尉)大石敬太夫

 

 

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[写真帳]

(左)主事 医学博士 山形仲藝先生 (右)病院長 医学博士 内田守一先生
(明治45年写真帳より)
宮城病院正門及本館(明治45年写真帳より)

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♪宮城病院(のちの東北帝国大学医学部附属病院)の正門は、現在の県道31号線(旧国道48号線)[北四番丁通り]と264号線[木町通り]とが交わる交差点(附属病院敷地の南東角)にありました。(病院前の道路、国道(48号線)は、2016年に県道となり、現在は県道31号線と呼ばれています。)

♪この東北帝国大学医学部附属病院正門には、4つの立派な門柱があり、平成2年(1990)に復元されましたが、その後、平成16年(2004)に、現在の場所(県道31号[北四番丁通り]に面した病院正門の左手)に移転整備されています。

 

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上段 校舎(左) 裏門(右)
下段 東北帝国大学医学専門部正門
(明治45年写真帳より)

現在の流体科学研究所(片平)のあたり

 

人物上段左から
大石教官、国岡助教授、古川教授、小高教授
人物下段左から
菅原書記、武田書記、宮崎書記、田総書記

庶務室  書籍室


(明治45年写真帳より)
上段 外科手術室外景(左) 病院外景(右)
下段 講義室(左) 婦人科手術室外景(右)
(明治45年写真帳より)
藤野厳九郎教授と解剖実習室(明治45年写真帳より)
藤野厳九郎教授

 

上段 遠山教授(左) 皮膚科診察室(右)
下段 皮膚科手術室(左) 皮膚科標本室(右)
(明治45年写真帳より)

 

四年級応援団(大運動会)(明治45年写真帳より)

 

 

 

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[絵葉書]

東北帝国大学医学部附属医院(絵葉書)
東北帝国大学医学部(絵葉書)
東北帝国大学医学部本館と同附属医院本館(絵葉書)

 

山形仲藝寿像とレリーフ

大正8年(1919)7月14日に除幕式が行われましたが、戦中の昭和18年(1943)7月3日に銅像は、供出されることになります。

戦後、昭和29年(1954)、艮陵同窓会創立70周年記念事業の一環としてレリーフをはめ込んだ記念碑が作られることになります。(医学部構内 一号館前)

山形仲藝博士レリーフ像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)

参考:

1)「東北大学百年史編纂室ニュース」(第4号 1999.8.31)

2) 冨永悌二(巻頭言 ~創立50年の年に)(PDF

 

東北帝国大学医学部(絵葉書) 山形仲藝寿像が写る(大正8年7月建築)
山形仲藝博士寿像(絵葉書)

 

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外科手術室と婦人科手術室の場所(出典:宮城病院一覧
東北帝国大学医学部附属病院 婦人科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに外科手術室とあるのは婦人科手術室の誤りと思われる)
東北帝国大学医学部附属病院 外科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに婦人科手術室とあるのは外科手術室の誤りと思われる)

 

 

参考:東北大学関係写真データベース

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(2020年1月12日 16日 記す)

 

87.「わが師わが友 (5)」(No.121-No.150)(「日本医事新報」)(最終回)

♪「わが師わが友」のデジタル化は、今回が最終回になります。欠ページがあるところもあり、完全とは言えませんが、先にデジタル化をした「東都掃苔記」「新東京・醫學きまぐれ散歩」とともに、明治から昭和にかけて活躍された医学者や事績を検索するときの手がかりとなればと思います。

♪各記事は、個人研究用にPDF化してEvernoteの共有ファイルとしてあります。将来的に各記事で出てくる人名索引のようなものが作成できればとも思っています。

「わが師わが友 No.121-No.150」(PDF)

121.久保猪之吉先生の思い出 先生の御勤務(山川強四郎) 或る日の先生(宮城冱山) 先生の片鱗(執行作彌) 1381 41[2777]-42[2778] 昭和25年10月14日

122.井街 謙君を思う (淺山亮二) 1385 34[3034] 昭和25年11月11日

123.楠木長三郎先生 (布施信良) 1386 37[3105]-38[3106]4段目 昭和25年11月18日

124.眞鍋嘉一郎先生 (三澤敬義) 1388 25[3237926[3238] 昭和25年12月2日

125.林 文雄博士を思う (塩沼英之助) 1391 33[3457]、32[3456]3段目 昭和25年12月25日

126.中西亀太郎先生 (三戸時雄) 1393 61[61]、60[60]3段目 昭和26年1月6日

127.浅田宗伯の師友喜多村栲窓 (安西安周) 1394 59[135]60[136] 昭和26年1月13日

128.堀内次雄先生と台湾 (森下 馨) 1398 23[387]-24[388] 昭和26年2月10日

129.島薗順次郎先生 (林 良材) 1399 26[450]-28[452] 昭和26年2月17日

130.島村俊一先生 (土屋榮吉) 1401 33[577] 昭和26年3月3日

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131.長與門下の三羽烏 (平野啓司) 1402 25[637]、24[636]4段目 昭和26年3月10日

132.京大創立時代の人々(其の一) (里見三男) 1404 29[769]、28[768]3段目 昭和26年3月24日

133.京大創立時代の人々(其の二) (里見三男) 1405 29[837]、28[836]3段目 昭和28年3月31日

134.石川知福博士 誠實と努力の業績(勝木新次)石川先生の思い出(松岡修吉) 1406 25[901]-27[903]  昭和26年4月7日

135.教授と将軍 (里見三男) 1410 35[1207]、37[1209]4段目 昭和26年5月5日

136.磐瀬雄一先生 (安井修平) 1412 29[1353]-30[1354] 昭和26年5月19日

137.噫!田村於兎博士 (寺師義信) 1414 23[1491] 昭和26年6月2日

138.北里・緒方両先生 (緒方規雄) 1415 29[1565]-30[1566] 昭和26年6月9日

139.明朗な近代的學究 中島 實先生 (小島 克) 1418 31[1771]-32[1772] 昭和26年6月30日

140.中村 登先生 (牟田哲三郎) 1420 29[1921] 昭和26年7月14日

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141.城井尚義のことども 上原太朗 1422 49[2077]、50[2078] 昭和26年7月28日

142.寺邑政徳君 秋田縣内小友村開業の恙虫病の研究家 緒方規雄 1423 55[2159]-56[2160] 昭和26年8月4日

143.宮路重嗣先生 伊藤泰一 1432 33[2777]-34[2778] 昭和26年10月6日

144.二木謙三先生 村山達三 1437 27[3131] 昭和26年11月3日

145.志賀先生を語る(一) 松岡憲固 1438 31[3207] 昭和26年11月17日

146.志賀先生を語る(二) 松岡憲固 1441 27[3419]-28[3420] 昭和26年12月8日

147.卒業五十年の同窓を語る(一) 小池 重 1442 31[3495]-32[3496] 昭和26年12月15日

148.卒業五十年の同窓を語る(二) 小池 重 1443 31[3563]-32[3564] 昭和26年12月22日

149.佐々木東洋先生と佛教醫學 安西安周 1446 53[169]-54[170] 昭和27年1月12日

150.泌尿器科學と土肥慶蔵先生 高橋 明 1450 35[495]-37[497] 昭和27年2月9日

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(令和元年[2019]12月13日 作成 堀江幸司)

86.「わが師わが友 (4)」(No.101-No.120)(「日本医事新報」)

♪今回の「わが師わが友」には、「江戸東京」にも関係深い、ウイリス(No.112)とポンぺ(No.119)が含まれています。また、東京大学医学部関係では、初代解剖学教授を務めた田口和美(No.109)が含まれています。

「わが師わが友(101-120)」PDF

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101.京大解剖の創設者 鈴木文太郎先生 國友 鼎 1347 21[429]-22[430]、20頁[428]4段目 昭和25年2月18日

102.飯島 魁先生 吉田 貞雄 1348 23[491]-24[492]、22頁[490]4段目 昭和25年2月25日

103.大五組の人々 西宮金三郎 1349 25[553]-26[554] 昭和25年3月4日

104.海人草の研究者田中正鐸 田中正太 1351 21[669]-22[670] 昭和25年3月18日

105.芳賀榮次郎君 三浦謹之助 1352 20[728]-21[729] 昭和25年3月25日

106.Dr. H. Heinemann 中澤 進 1355 46[958]-47[959] 昭和25年4月15日

107.大原八郎博士と野兎病の研究 岩永幾太郎 1356 32[1020]-33[1021] 昭和25年4月22日

108.田口和美先生を偲ぶ 大串菊太郎 1357 31[1087]-32[1088] 昭和25年4月29日

109.三宅速先生の思い出 須藤 求、隈 鎭雄 1359 28[1220]-29[1221] 昭和25年5月13日

110.武谷 廣君を憶う 小池 重 1360 29[1289]-30[1290] 昭和25年5月20日

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111.氏家信君を憶う 梅室痩庵 1362 33[1429]-34[1430] 昭和25年6月3日

112.ウイリスの事ども 鮫島近二 1363 27[1499]-28[1500] 昭和25年6月10日

113.村田宮吉先生 安田龍夫 1365 30[1646]-31[1647] 昭和25年6月24日

114.角尾先生を偲ぶ 楠井賢造 1371 41[2073]-42[2074] 昭和25年8月5日

115.淺井猛郎先生 戸苅近太郎 1372 43[2151]、44[2152]の4段目 昭和25年8月12日

116.關場不二彦先生の事ども 鮫島龍水 1374 32[2292]-33[2293]、34[2294]3段目 昭和25年8月26日

117.岡本梁松先生の逸話 小南又一郎 1375 26[2354] 昭和25年9月2日

118.山崎正薫先生を憶う 谷口彌三郎 1377 34[2498]、33[2497]4段目 昭和25年9月16日

119.蘭醫ポムぺの事 佐藤恒二 1378 29[2561]-30[2562] 昭和25年9月23日

120.佐多愛彦先生 吉田貞雄・大野内記 1379 27[2627]28[2628]2段目まで、29[2629]3段目から30[2630]4段目27行目 昭和25年9月30日

(令和元年[2019]12月7日 記す)