66.長谷川泰の真影と塑像

♪長谷川泰が亡くなったのは、明治45年(1912)3月11日のことでしたが、百か日にあたり「長谷川泰翁塑像」が彫塑家・牧野國助(当時の住所は東京市本郷區千駄木町272番地)によって製作され頒布(3円50銭)されることになります。

♪雑誌『日本之醫界』(第36号 明治45年7月15日)に「醫傑長谷川泰翁塑像成る!」の広告があり、長谷川泰の真影をもとに作られる石膏塑像の完成イメージ図が載っていました。

♪長谷川泰の真影(最後の写真)は、明治44年(1911)4月に同門の人々270余名が上野公園常盤華壇に長谷川泰を招いて謝恩の宴を催した折、来会者に記念品として贈るために撮影された写真です。長谷川泰の写真集『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和9年)に収載されています。

長谷川泰「最後の真影」(出典:『柳塘遺影』)

「長谷川泰を語る会」のブログによると、この塑像は、新潟県長岡の黒条地区で開業医を務められていた織田さん宅(医院)にも所蔵されていたそうです。

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長谷川泰石膏塑像(胸像)の裏側

♪「長谷川泰を語る会」(新潟県長岡市)の恩田富太さんから長谷川泰の石膏塑像の裏側の写真を送っていただきました。
そこには、「故長谷川泰先生像 牧野國助作」と刻まれていました。現在、この塑像の実物は、織田家(医院)より寄贈され「長谷川泰を語る会」で保管されているとのことです。

長谷川泰石膏塑像の裏面(「長谷川泰を語る会」提供)

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♪恩田富太さんからの連絡によると、長谷川泰から織田冬一へ宛てた書簡が残されており、北越戊辰戦争伝承館に預けてあるとのことで、撮影して送っていただきました。(令和元年[2019]11月30日)

♪封筒の表に押された消印は、(42.4.7)とあり、書簡の文末には、「四月六日 長谷川泰」とありますから、亡くなる3年前に書かれた書簡と思われます。

(平成31年3月26日 追記)(平成31年3月27日 追記)(令和令和元年[2019]12月14日 長谷川泰書簡追加)

65.長谷川泰の銅像があった場所を探る:湯島天神境内(湯島公園)

   
場 所:湯島天神境内の社務所から戸隠神社に続く回廊の辺り。

住 所:〒113-0034 東京都文京区湯島3-30-1

Googleマイマップ:「本郷界隈」

湯島天神(絵葉書)
島公園内の長谷川泰の銅像(絵葉書)(平成26年2月2日 追加)

■『柳塘遺影』(長谷川泰遺稿集刊行會)の銅像写真

♪長谷川泰の銅像については,『柳塘遺影』1)(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和九年)に写真があり,その存在についてはわかっていましたが,どこにあるのか,場所については,写真の説明に「ゆかりの地湯島薹上緑深きほとり」とあるだけで,具体的な記載はなく,はっきりしていませんでした。

♪説明文からは,銅像が武石弘三郎の作で台座の設計が岡田信一郎によることもわかります。武石弘三郎は,東京大学本郷キャンパス内にある教授たちの銅像の制作者でもありました。

出典:『柳塘遺影』:長谷川泰の銅像と説明文


♪『柳塘遺影』には,銅像の除幕式(大正5年[1916]4月20日)の写真もあり,その説明には,「湯島公園に於ける銅像除幕式」との記載があります。この「湯島公園」が,どこなのか,わからないでいました。「湯島公園」と長谷川泰の銅像の場所の調査が進んでいませんでした。

■雑誌論文の別刷をみる

♪文京区立真砂図書館に行った時のことでした。真砂図書館には,地域資料がよく収集されているのですが,そこに「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」2)というタイトルの別刷が,ファイルされて書棚にありました。雑誌の論文ですから,数頁のものです。このような資料まで収集・整理しておくのかと感心したものです。長谷川泰に関係の深い日本医科大学が文京区内にあり,タイトルに湯島とあるためではないかとも思われました。

♪文献によると長谷川泰の銅像は,湯島天神(湯島神社)の境内にあり,戦時中(昭和19年[1944])に強制供出されて台座だけが残っていたが,その台座も昭和61年(1986)年の夏に神社の回廊が新築されたときに撤去されたとありました。「湯島公園」が湯島神社の境内であったこともわかりました。

♪「湯島公園」の地図でもあれば,もう少し,はっきりと,長谷川泰の銅像の場所を特定できるのではないかと思って探していたのですが,その地図が見つかりました。・・・・・

■「湯島公園平面圖」を発見

♪古書店のサイト(「日本の古本屋」)を検索していたところ「湯島公園平面圖」がヒットしました。早速,問い合わせたところ,本郷の「湯島公園」の平面図だとのこと,興奮して注文しました。

♪はやる気持ちを抑えて,入手した「湯島公園平面圖」3)をみると,「長谷川泰銅像」の位置が,はっきりと,記載されていました。長年の疑問が,氷解した思いでした。銅像と本殿・社務所との位置関係も,確認できました。

「湯島公園平面圖」(縮尺六百分之一 所在地 東京市本郷區湯島天神社境内)

♪長谷川泰の銅像は,湯島天神社境内の切通電車通(現在の春日通り)に沿った台地上(崖上)に建っていたのでした。末社である戸隠神社と稲荷神社の並びの社務所寄りにありました。本郷台地へと繋がる湯島台上の見晴しのよい場所にありました。

■『湯島天神誌』(湯島神社編):付図(湯島神社見取圖 明治十八年)

♪文京区立本駒込図書館も,よく利用するのですが,郷土資料の書棚をみていたら『湯島天神誌』4)(湯島神社編 昭和53年)という資料がありました。そのなかに「湯島公園」についての記述がありました。

♪湯島神社の境内は,江戸時代から物見遊山の盛り場で,「飲食店・矢場・見晴し掛茶屋,見世物小屋などがあって,昼夜を問わず,非常に繁昌していたのを,明治23年(1890)2月7日,境内の約三千坪(崖地を含む)を公園地とした」とありました。

♪国立公文書館のデジタルアーカイブスにも資料がありました。「湯島公園」が正式に東京市の所属となったのは,明治23年(1890)8月12日のことでした。

♪湯島神社が,公園地となったときに,境内にあった飲食店などの建物は撤去され,そこに梅樹・雑木の数百株が植えられたとのことです。戦災後に境内が荒れ果てたときにも,復興を願って植えたのも梅樹でした。

♪長谷川泰の銅像の場所の調査から,湯島天神の梅園の由来がわかってきました。男坂と女坂の間には,楓樹もあったようです。湯島台地・本郷台地からの田園風景が想像されます。不忍池も見通せたのでしょう。

♪本駒込図書館から借りてきた『湯島天神誌』には付録の付図が付いていません。欠落してしまったようです。やはり,付図(境内図)(明治十八年)の付いた完全な『湯島天神誌』も入手しておくことにしました。

♪平成24年(2012)9月19日,『湯島天神誌』を本郷の文生書院から入手しました。付図は,一枚ものの見取図(境内図)でした。明治18年(1885)に本社・拝殿・神饌所が落成した際に作成された境内図のようです。

湯島神社見取圖(明治18年)(出典:『湯島天神誌付図の一部)

♪当時の雰囲気が,十分に伝わってきます。やはり,資料の探索は,散歩と同様に,よいものです。とくに絵地図からは,想像をかき立てられます。

♪戸隠山(地主),末社(イナリ),拝殿・本社の裏手には筆塚も描かれています。当時の拝殿と社務所は渡り廊下で繋がっていませんでした。社殿と社務所との間に廻廊(渡殿)が新築されたのは,明治25年(1892)になってからのことでした。

♪湯島神社境内が「湯島公園」となり,梅園となった経過をみておきます。

明治23年(1890):本社境内飲食店・矢場・見晴シ掛茶屋,其他各種ノ見世物等有之。昼夜ノ繁盛ナリシガ,上申ニ依リ市参事会ノ決議ヲ以テ公園地ニ編入セラレ,右建物悉皆取払ヒトナリ,梅樹・雑木数百株植附ケ,旧裏石坂ヲ更ニ現今ノ地ニ改築シ,又裏廻リ石垣ヲ改築ス,是ニ於テ永続資金トシテ金弐千五百円下渡サル。

明治23年[1890]8月12日:「湯島公園」が東京市の所属となる。

明治27年(1894):総代会及び世話係会の決定により,永続資金で軍事公債(額面弐千五百円)を買入れ,さらに日本銀行へ預け入れられる。

昭和24年(1949):公園地は,湯島神社に返還される。

昭和32年(1957):古梅樹数百本を植え,樹間に芝生を配して大梅園となる。

♪『湯島天神誌』の第51図(p.206)によると,長谷川泰の銅像が置かれていた場所は,見晴台となったようです。いま,その跡地は,回廊となり,春日通り沿いは,マンションだらけで,切通坂にも,昔の景色は感じられません。

♪湯島天神には,子どもの頃,初詣に行っていました。正面の鳥居から続く静かな境内と木造の拝殿,そして渡り廊下の雰囲気が好きでした。

♪男坂・女坂も,ゆっくり,上り下りしたことがありません。今度は,切通坂の方から,夫婦坂を,ひとり,登って,戸隠神社の前に出てみたいと思います。

参考文献・資料

1)『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和9年)

2)「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」(小関恒雄・尾崎邦雄共著)(「日本医事新報」No.3362[昭和63年10月1日]pp.63-65. : No.3363[昭和63年10月8日]pp.62-63.)

3)「湯島公園平面圖」(一枚もの)(古書店から入手)

4)『湯島天神誌』(湯島神社編 昭和53年)および付図(湯島神社見取圖 明治十八年)(注:付図は一枚もの)

(平成24年9月21日 記す)(平成31年3月17日 追記)

64. 木下正中:香港ペスト研究当時を語る (2):「青山胤通没後20年座談会」:座談会の内容

♪青山胤通の追悼会に出席した木下正中は,資料を配布したのち,香港でのペスト調査研究の当時を振り返って,入澤達吉,長與又郎らの質問にこたえています。

(1)英語の通訳

入澤達吉:では,木下君一つ。

木下正中:私は御手元へ差上げて置いた印刷物が代弁するのですから,茲ここで申上げる事は何も考へて居りませんが,ただ香港のペスト研究にお供した時一番困ったのは,青山先生も英語を話されない事でした。それで始終通辯に引っ張り出されたのですが,困った事には,私の英語は高等学校の一年半,毎週一二時間の第二外国語で学んだだけで甚だ薄弱なものでありました。

入澤:誰に対して英語を使うのか。

木下:買物に行っても,また第一に病院でも,病歴を誌しるそうと思うのだが病人の容体を訊くのに困っちゃったのです。腹が痛いか?と聞いても日本語は勿論解らず,独逸語も判らず,英語でも我々の英語は判らず,初めは日本人の通辯を頼んだが,通辯は逃げてしまった。ペストが怖いというのでしょう。それから漸ようやく印度人の巡査か兵隊が僅わずかに一人来た。それが英語を解する。私が高等学校で使っていたウィリアムのポケット・ディクショナリ―などを持って行き,先生が何か言はれると私がそれを英語に直して云う。すると,その印度人の看護人が支那語にして病人に訊くわけです。それを再び英語に直したのを聞いて独逸語にして病歴に書き付けると云う順序で,漸くやっていた。然し終には再び日本人の通譯が出来て少し便利でしたが,そんなわけで,街へ買物に行かれる時でも,私に一寸来てくれと云はれて,一緒に行く。随分困った事もある。単語を並べて辛かろうじて話をする。先生は初め胸の固いYシャツに固いカラーを着けて居られたが,とても暑い。その上,汗が出てグチャグチャになる。私は現今のソフトシャツと同じものを着ていたのですが,それがよい,その通りのものを造らせようというので,製造している店へ行った。が,何と言って注文してよいか判らない。それで私のシャツを見せて,これと同じ型のものをと注文した事があります。こんな様な事情で,あちらでは一ばん英語で苦労しました。併しかし先生は,時に依ると日本語で済まされた場合も沢山あります。

♪青山胤通は,英語ができなかったので,病歴を聞くのも困ったようです。学生の木下正中が,通訳として教授を助けました。英語の辞書を持参するなど,用意もよかったようです。

香港:The Peak(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪実用的なソフトシャツを着た木下正中を見て,それと同じものをつくりたいという。異国の地で,教授のわがままを聞く学生の困った顔が浮かんでくるようです。香港は,北回帰線の南に位置しており,一年を通して暑い所でした。

独逸留学当時の木下正中(明治30年7月10日)(木下實氏提供)

♪独逸医学のメッカである帝国大学医科大学(東京)から香港(英国領)に来て,ラウソン医師(労森 James Alfred Lowson,1866-1935)(スコットランド出身)の世話になる。英語で通訳しながら独逸語でカルテを作る。語学で苦労したことが,晩年,下瀬謙太郎(木下正中の義兄)と協力して編纂した『医学用語集』に繋がってくるようにも思えます。

♪北里柴三郎・青山胤通ら一行,六名が香港に上陸したのは,明治27年(1894)6月12日のことでした。ラウソン医師の歓迎を受けています。その三日後の6月15日には,エルザン医師(葉赫森 Alexandre Yersin, 1863-1943)がフランスを代表して,ベトナム・サイゴン[從越南 西貢]{現・ホーチミン}から船に乗り到着しています1)。

♪明治期の香港は,どのような所だったのでしょうか。岩倉使節団は,帰航日程のなかで,明治6年(1873)8月27日に香港に寄港しています。当時の香港を次のように記録しています2)。

香港港(絵葉書)

夜明け方,香港沖の群島の間を走った。どの島も山で,大小の島が不規則に海上に散らばっている。どの山も草は青々しているが,樹木はない。だいたい広東地方の山々は,その形がみな秀でており,細かい山襞の間の方々に岩石が露出し,まるで中国絵画の「点苔法」のようである。・・・

ここは広東省恵州新安県に属する島で,マカオから東へランタオ島,香港島と並ぶ諸島のひとつである。・・・海岸から山裾に向って階段状に街が開かれている。・・・ここから西へランタオ島との海峡を通って西北に六〇キロほど航行するとマカオに達する。早くからポルトガルが占領し,天正・慶長のころから東洋貿易の中継地とした。また湾を北に航行して川(珠江しゅこう)を一九二キロ遡ると広東に達する。・・・英国人は石の家を建てて中国人に貸して住まわせている。したがってこの街は中国人が多いけれども清潔である。・・・

 欧州人の多くは山手に住居を建て,明るく伸び伸びした建物である。庭をめぐらし,木々を植え,清潔で優雅である。ここは北回帰線の南で,四季を通じて暑く,寒い季節はない。市街地は南面しているし,島の北側には海峡を隔てて本土側の高い山が屹立しているので,南北とも風が通らず,暑さはとりわけ厳しい。・・・

 公園の前に総督邸があるが,これも花崗岩造りの美しい建物である。近くに兵営があり,英国から派遣された常備の兵士が八〇〇人いる。

◆◆◆

♪ラウソン医師は,香港でペストに罹った青山胤通と石神亨を救うことになるのですが,そのラウソン医師自身も九死に一生を得る経験をしていました。3)。

♪明治25年(1892)10月8日に上海でのクリケットの試合のあと,香港への帰路,ボカラ(Bokhara)号(蒸気船)に乗船します。当時,ラウソン医師は,香港のクリケットチームのメンバーでもありました3)。

♪10月10日,澎湖(ほうこ)諸島の砂礁で嵐(台風)にあって遭難し,砂浜に打ち上げられていたところを地元の漁師に救われます。助かった乗客は,ラウソン医師とマーカム中尉(軽歩兵師団)の2名だけだったそうです。

♪このボカラ号遭難のとき,ラウソン医師が助からなかったら,香港での青山胤通と北里柴三郎のペスト調査研究も,どのような方向に進んでいたかわかりません。人々の出会いには,運命の導きといったことを感じます。

(2)帰路,一時,長崎女神消毒所に留まる

林 春雄:・・・青山先生が例のペスト研究に香港へ行かれてペスト病に罹られた時(明治27年),あの頃は今の若い方は知らないかも知れませんが,新聞の号外を大きな字で新聞社の前へ貼り出したものだが,「青山氏脈拍悪し,熱度何度何分」などと書いてあったのを覚えて居る。私は,先生が出発される時にも新橋に一行を送って行ったのですが,どれが先生か知らなかった。それから7月10日,卒業式,濱尾(新)先生が総長でしたが演説された。本学の卒業生が年々各方面で活動して行くのは喜ばしい。青山,北里両氏が今香港でペスト病の研究をやっている事は世界的に有名で本学の誇とする處である。而しこうして青山氏がその病気に罹かられたことは,真に憂慮に堪えないと言われたのです。それから病気が癒って帰って来られたのは・・・何日でしたかね。

木下正中:8月下旬か,9月上旬です。

林 春雄:兎に角,日清戦争が始まってから後だ。まだ学校が始まらぬ間で,新橋のステーションへ僕等が迎えに行ったのです。大へんな人出で,停車場へ縄を張って通路を作った。あの時は,君は一緒だったかしら。

木下正中:僕は先へ帰ったのです。一緒に帰ったのは宮本叔君に高田畊安君でした。

長與又郎:此間高木友枝さんの話では,あれはペストではないという事だが・・・。

木下正中:十九體か,二十體かの解剖をやって,一ばん終の解剖のときに伝染したらしいのです。其時は宮本君も僕も関係せず,ちょうど手隙てすきだからというので石神君が解剖の手伝いをしたのでした。・・・

長與又郎:石神さんは何処から入ったのですか。

木下正中:やはり傷があったのでしょうが,青山先生の悪くなられた晩は,先ず両先生の研究も一段落ついたから此辺で切上げて広東へ立寄って其上で帰朝しようというので,香港で世話になった人々を御馳走した。政庁の書記長だの,病院長だの,有力な開業医だのが集まった。会を開く少し前に,先生に少し熱が出て来たので心配して居った。宮本君と僕と二人で会のときに先生を見ると,顔色が悪いから,二人で心配して居ったが,宴会が済むと,先生は熱が出て苦しいといわれた。そのときに先生の部屋は風通しが悪い。僕と石神君は同じ部屋にいたのですが,風通しのよい部屋ですから,代わりしましょうというので部屋を代へて,先生は私のベットへ寝られ,私は先生のベットへ寝た。

先生が悪いという事を聞いて,前夜のお客さんたちが見舞いに来た。ピークの病院をやって居るカントリーは,之はペストとじゃない,自分の病院へ預かろうという。市の病院長のラウソンはペストだから病院船へ預かうという。すると青山先生は,病院船の方へ行こうといわれたので,その順序に運んで行くと,今度は石神君が,どうも僕も昨夜から変だという。淋巴腺が腫れて何だか気分が悪い。僕も一緒に行くよという事になった。それでランチで一緒に行ったのですが,船の上で石神君は『やっぱり予定の通りやって来たよ,寒気がして来た』と言い始めた。・・・

林 春雄:木下君は試験があるので早く帰ったのだね。

木下正中:宮本君が心配してくれて,大丈夫だから帰ってよかろう。卒業試験も大切であるから,帰って支度をした方がよい。高田君が見舞いに来るというのだから,というので帰って来ました。それで船へ乗って帰ったのですが,長崎で僕の扱い方に困った。ゼクチオンの材料を大きな壜に入れて八,九個持っていたのです。その材料は宮本君と僕と半分宛持ったのです。それをどうするか?どこまで消毒するかという事が問題になったようです。香港出帆の後九日になるまで,長崎の女神消毒所で暮して,その後に漸ようやく神戸へ帰って来ました。

長與又郎:長崎へは上陸したのですか。

木下正中:いや長崎は消毒所まで上っただけで,市街へは上らなかった。神戸で上陸して,すぐに東京へ直行した。

♪木下正中が,帰京したのは,7月23日とあります4)。高田畊安が香港に到着したのが7月24日5)。その夜,高田畊安は,急ぎ小金井良精宛の書簡を認め,翌日出帆の廣島丸に託しています6)。

高田畊安は,中川恒次郎領事,高木友枝に面会しています。このとき高木友枝は,カントリー医師(Dr.Cantley)の病院の隔離病室にいたのですが,ハイジア号にいた青山胤通のところへ向かうための渡船の手配をしています。高木友枝自身は,ペストではなかったようです。

♪北里柴三郎が香港を出発したのは,7月21日のことでした7)。(長崎に到着したのは,7月25日の夜)この頃になると,青山胤通の病勢も治っていました。木下正中も,卒業試験のこともあり,宮本叔のすすめに従って帰途に就いたのでした。

♪高田畊安の電報は,「石神亨が,香港を発ったのは8月3日,青山胤通の出発は,8月20日頃」8)と,伝えています。

♪青山胤通が帰朝したのは,8月31日のことでした。当時の新聞は,「香港黒死病戦地より凱旋」と報じました9)。さながら凱旋将軍のような扱いでした。

♪木下正中は,香港からの帰途,一時,長崎の「女神消毒所」(女神検疫所)(長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ データベース収蔵)に留め置かれました。ペスト研究のための病理解剖の材料を持っていたのですから,検疫所でも,その扱いについては苦慮したのではないでしょうか。

         
長崎港女神検疫所(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪木下正中が,東京での研究報告のことを思い,家族のことを思いながら,何日かを過ごした女神消毒所(長崎台場跡)の周辺は,いま,どうなっているのでしょうか。「江戸東京」でも,いつか散策できる日が来ればと思います。

参考文献

1) 王道還著:科學史上的這個月 一八九四年七月葉赫森,北里柴三郎公布黑死病病原.張貼日期:2003/7/11.

2) 『特命全権大使 米欧回覧実記 第5巻 ヨーロッパ大陸編(下) 附 帰航日程』(久米邦武編著 慶應義塾大学出版会 2005)第100章 香港及び上海の記.pp.362-381.

3) 木下 實著:「ラウソン博士について(Dr. James Alfred Lowson)」(私家版)

4) 木下氏の帰京. 東京醫學會雑誌 8(15):707.

5) 高田学士の安着.東京醫學會雑誌 8(15):707.

6) 高田学士の書翰.東京醫學會雑誌 8(15):708.

7) 青山博士の近況.東京醫學會雑誌 8(15):707.

8) 香港発の最近報.東京醫學會雑誌 8(15):710.

9) 青山博士も全治,帰国.『明治ニュース事典 第五巻[明治26年―明治30年]』(毎日コミュニケーションズ 1985)

(平成24年8月22日  記す)(平成31年3月13日 追記)

63. 木下正中:香港ペスト研究当時を語る (1):「青山胤通没後20年座談会」で資料を配布

♪昭和11年(1936)12月7日(月),青山胤通の没後20年にあたって座談会が開かれました。主催したのは,日本醫事新報社長の梅澤彦太郎。池之端(下谷茅町)の「濱のや」(割烹・濱乃家)を会場として,午後5時から開始されています。


青山胤通没後20年座談会(昭和11年12月7日 池之端・濱乃家)
(後列右から3人目の和服姿が木下正中)

♪この座談会には,明治27年(1894)に,ペスト研究のために青山胤通に同行して香港へ渡った木下正中も出席しています。東京帝大(医学部)から,錚々たる面々が,出席しています。そのなかに岡田和一郎もいました。

♪岡田和一郎(耳鼻咽喉科)は,青山内科門下生ではないのですが,第二醫院で佐藤三吉(外科)の助手をしていた当時,青山内科と佐藤外科の医局が向かいあっていた関係から,青山胤通と近付きになっていたのでした。

医科大学三浦内科病室(時計塔)(絵葉書)(本稿構内)
医科大学近藤外科佐藤外科病室(絵葉書)(本郷構内)

東京帝国大学病院外科病室(絵葉書)(本郷構内)

青山胤通先生 没後20年の座談会

開催年月日:昭和11年12月7日(月)午後5時より。池之端「濱の家や」にて。

出席者:青山徹蔵(東京帝大教授),入澤達吉(東大名誉教授),稲田達吉(東大名誉教授),岡田和一郎(東大名誉教授),木下正中(前東京帝大教授),坂口康蔵(東京帝大教授),長與又郎(東京帝大教授),永井 潜(東大医学部長),林 春雄(東大名誉教授),林 曄はじめ(東京府医師会長),眞鍋嘉一郎(東京帝大教授),梅澤彦太郎(日本醫事新報社社長)

♪この座談会の出席者に長與又郎(東京帝国大学総長・第12代)がいました。長與は,その日の日記1)2)に次のように記しています。

[昭和十一年十二月七日]月 晴 六時 池の端浜の家。青山[胤通]先生座談会(日本醫事新報社主催)入澤(座長),岡田,林(春雄),木下,稲田,林曄,眞鍋,坂口,永井,及び青山徹蔵諸氏。 既に伝記あり。この夕は主に人としての青山先生を物語る。逸話,行跡に就て話し合えり。徹蔵君 青山家保存せる楷書遺墨を示さる。  玩物喪志 師者傳道 気韻高き書風なり。木下氏香港ペスト研究当時のことを語る。小冊子を頒つ。

♪『長與又郎日記(上)(下)』1)2)には,参考文献や註が丁寧についています。この青山胤通の座談会の参考文献に,『近代名醫一夕話』(日本醫事新報社 昭和十二年)とありました。

♪『近代名醫一夕話』3)は,以前,古書店で入手しておいたはずです。書棚を探してみました。ありました。青山胤通の座談会は,冒頭に載っていました。座談会の集合写真や,長與又郎が日記に書いた墨跡(玩物喪志)も口絵に掲載されていました。村山論文4)5),中瀬論文6)のなかにも掲載されている「香港ペスト研究当時の記念撮影」もありました。


『近代名醫一夕話』(日本醫事新報社 昭和12年)

♪座談会のなかで,木下正中が配った小冊子も転載・収録され,香港でのペスト解剖室の見取図も添付されていました。


香港ペスト研究解剖台見取図

♪木下正中が,当日,配布した資料の実物は,みつかっていませんので,小冊子そのものの体裁などは,わかりませんが,この転載記事から,その内容を知ることができました。

『香港「ペスト」研究當時の追憶』 醫學博士 木下 正中  出かけたのは明治二十七年六月五日横濱解䌫の米船「リオ・デ・ヂャネイロ」號に乗り,その日,日清戦争が始まるならんと云ふ確かな報告をきいた。直行して十二日,目的地の香港に着いた。同地には「ペスト」が猖獗しょうけつ註)を極めて居ったから,その研究の為め青山,北里両先生が我国政府から派遣せられたのであるが,その随行として助手宮本叔君及わたくし(当時大学四年生)又海軍軍医石神亨(後大阪濱寺研究所長),内務屬岡田義行君が一行に加った。  偖さて六月十三日には香港政廰,英ゼネラルホスピタル,日本領事館,病院船(Hygeia)等を歴訪し,十四日より「ケネデー・タウン・ホスピタル」Kennedy Town Hospitalにて愈々いよいよ研究を開始した。これは元警察であったのを臨時病院とせるものである。病人は上下にて四十人許り居り英醫ラウソン氏Dr.Lawsonが治療あたり居ったのである。其病院の「ベランダ」に急造の「テーブル」をおき,青山,北里両先生は共に研究を始められた。  第一に困りたるは言葉の通ぜぬ事であった。患者の病歴や訴を聞くにしても先づ最初には日本人の通譯を傭ひたるが,恐ろしがりて直ちに逃れ去った。次には男の看護人にて印度人であったか,マニラ人であったか,其男は支那語及英語が出来たから先生の質問を先づわたしがきゝそれを看護人に話し,更に患者に傳へると云ふ方法をとった。又その時ウィリアムス獨英字書をも利用したのを記憶して居る。その男は暫くやって居ったが,その中に廣東に居れる日本人が来り,日本人だけにて通ずる様になり便利を得たのである。短時日ではあたが朝は早くから午後は遅く迄勉強したので解剖は十九體か,二十體出来た。解剖につきては相當人知れぬ苦心を経験したのであった。解剖室は實にひどきものにて物置か小使室を臨時使用したものである。(見取圖末頁掲載) 一間半四方位の處は板間,たたきの所にて青山先生が解剖せられ,上の間より宮本君かわたくしが踞しゃがんで手助けをなしたのである。どちらか一人は筆記をした。又窻からの監視者を兼ね,もし人が通れば窻を急ぎ締める役をつとめた。と云ふのは土地の人は解剖を極度に嫌忌けんきしてそれを知つたら大騒動が起りそうであったから,人目を極度に恐れたのであった。  解剖器機は一具だけしか持ち行かずメスは宿に持ち帰りて日本砥其他皮砥などを用ゐて砥ぎ,又鋸は直ちに切れなくなり困ったから,土地で一挺の外科用弓鋸を辛うじて探し当てて買求めた。脛骨を縦にひき切る事二本に及びたるがその為に宮本君と共に困難を感じたのであった。血の交りたる水の捨て處に困り考案の末「タール」を交えて色を變へ又悪臭を誤魔化して捨てる事にした。 解剖は上記の如く禁制であったから解剖するのは消毒すると云ふ名目の下に上記の部屋に持ち來り,解剖を行ったあとは看護人が充分始末して,釘附にしておくり出されたのである。  かゝる事は約二週間つゞきたるが二十八日より青山先生には終に「ペスト」に罹られ大心配をしたのであるが幸ひにして九死に一生を得られ「ペスト」研究上の立派な業績を貽のこされたのである。その日は先ず大體仕事も進行したから両先生が主人役となり香港「ホテル」に主として英国側の人々の招待會を催したのであった。 即ち政廰の関係者,市内の外人,醫師等にて研究の為に世話になった人々を招き一行は六人,客側は十二三人,全體にて二十人以内であった。所が其會が始まる前から青山先生の顔色がわるく少し熱があったので一同心配の種となり,先生がやられたのではないかと眉をひそめた。其前には日本人にて感染せるものがなかったのである。「ホテル」では,わたくしと石神氏は同室,その部屋は西と北をうけ,先生の部屋は西向きで暑かったから先づ部屋を換へる事となり先生はわたくしの「ベット」に就褥しょうじゅく註)せられわたくしは先生の「ベット」に移った。 その晩先生には苦痛を忍耐して主人の役目をはたされたが果して高熱となってそのまゝ就褥せられ,翌朝に至るも下熱しない。宴會の晩にも,カントリー氏,Dr.Cantleyは「ペスト」にあらずとした。この人は「ピーク」の上に病院を有せる有力な醫師であった。自分の病院にて治療せんと申し出たが,ラウソン氏が自分の病院船「ハイジア」號Hygeiaにて治療することになった。即ち二十九日夕刻同病院にひき移らるゝ事になった。然るにその時石神氏まだ熱なかりしが既に腋窩腺が腫れ居り,自らも違和を覚えられたと見え同時に入院を希望したが,同船へ乗る迄の気艇の中で既に悪寒あり次で発熱し,つまり同時に二人が病気となったのである。 石神氏は更衣の際二十八日夜腋窩腺に疼痛を覚えそれから注意しだしたのである。 病院船には宮本君とわたしと泊り込み,先生の看護には普通の看護人の外パアマーMiss pa’mar嬢と云ふ人が居った。それは横濱の港などをつくりたるパアマー氏の令嬢であると云ふことであった。大に親切に看護せられた。其他に英国,マニラの看護婦や支那人の看護人も居った。 青山先生及石神氏は各単独の部屋にて治療を受けられた。宮本君と私とは其の向側の室に同室して交代しつゝ看護につとめたが,顔を見せると先生には興奮されるゝ故顔をなるべく見せずして番をするやり方をとったのであった。 石神君は病勢の盛んな時に譫せん語ご注)状態になった。其頃には支那人の看護人を見れば「スパイ」と思ひ込み之を殺さゞるべからずとしたから宮本君と相談の上石神君の短刀を「カバン」の中より取り出した事を覚えて居る。石神君の方は病気が割合に軽く七月十九日わたくしが帰朝注)の途につく時は同君は神識じんしき注)既に明かになり,青山先生は熱もなく予後は確かに良きを認めたるも,大層感動性となって居られたからそれとなく暇を告げ,言葉に現はしたる挨拶はわざと避けたのである。 わたくしは卒業の試験を控へて居り,もう大丈夫なれば帰れと云ふ宮本君の言葉に従ったのである。標本は半分を持ち帰りたるが,夫は大きな缶が九つか十個あり,第二醫院におきたる故焼けたるならん。尚看護中はラウソンが八釜しく忠告しくれたるにより後には隔日に交代にて上陸した。 蠅は病院に沢山居り,陸の方は大変でケネデータウン病院には砂糖をおけば真黒になる程であった。蚊は余り気がつかず,ケネデータウン病院にお茶によばれる時は蠅が砂糖につく故,誰も砂糖は用ゐなかった。蚤もひどいことがなかった。 先生の病気と同時に,日本人の医師にて中原氏と云ふ人も「ペスト」に罹った。最後の解剖の手伝いをし宮本君かわたくしが筆記をなし,その人に臓器を洗はせる位の事をなさしめ石神氏が解剖の助手をした。その時の解剖は,あるひは肺「ペスト」ならざりしかと思ふ。その例が三人の伝染原ならざりしかと思ふ。 中原氏も感染し「ハイジア」號にて治療を受けたりしもこれは不幸にして死亡せられた。 先生は「ハイジア」號に入りてよりはわたくしと宮本氏と代りあひて材料及「プロトコル」の整理をなした。あの報告(大学紀要をさす)には先生の病気の後に代りてわたくしが記載せる為わたくしの名も残って居るのである。 北里博士は青山先生の発病後は,急造「バラック」にてその後研究を続けられた。見舞には始終来られて心配せられた。 エールサン氏はケネデータウン病院の下方にある急造「バラック」にて研究し居り,我々とは交通が殆どなかった様に思ふ。 黒井大尉(のち大将)は我々の行きたる当時一,二日彼地に居られ非常に世話になったが中川領事は北里博士の親戚の関係もあり大層よく世話をせられた。政廰及英国医師も優遇して呉れた。彼地にては既に肉眼的の所見にて種々発見する所があったが,例へば臨床上の方では譫せん語ごが患者にあるのか無いのか解らなかった。それは言葉が不通の為で青山先生などの病気で始めて譫せん語ごが解った様な次第である。万事その通りで実に隔靴掻痒かっかそうよう注)の感があった。主な研究は内地に帰られてから出来たのである。 解剖には勿論大に緊張して行ひ,又「コロヂウム」を用ひ,「ゴム」の手袋等は無かった。昇汞水にて洗ふ丈であったがその中に稀鹽酸註)を加へて使った。 × × ×  青山先生は当時三十六歳,北里博士は三十九か四十,宮本君は二十九歳位,わたくしは二十六歳,岡田氏は三十三四歳,石神君は北里氏と同年か上位ならん。 わたくしの同行した理由は野次馬的であった。研究の方式などを実際に見せて貰へれば将来の参考になると云ふ事を単純に考へ先生に懇願したのであるが,父は喜んで承諾してくれた。 その時下瀬氏(謙太郎氏)と共に同じ下宿に住み居りしが,自分は行って見ることを先づ相談し,次で先生に伺ひに行くと同時に父に電報にて返事をして貰った。 × × ×  後の事であるが看病の余暇に散歩の時上陸して見ると青山先生と石神氏の棺が用意せられてあった。立派な棺は急には間にあわぬためである。先生及石神氏は,死は免れぬものと思はれたからであった。 今から考へれば実に感慨無量で,死生の間に出入りして,それでこはいと云ふ様な感がなく,先生の病気を看病しても別に恐ろしいとは思はなかった。 尚顧みれば今日現存するのは北里男爵とわたくしのみとなったが,更に当時の事を追懐して故人のことを思ふの情洵に切なるものがある。(了)

注)

猖獗(しょうけつ):わるいものの勢いが盛んなこと。

就褥(しょうじゅく):病床に就くこと。

譫語(せんご):うわごと。神識(じんしき):意識

隔靴掻痒(かっか・そうよう):靴の外部から足のかゆい所をかくように,はがゆく,もどかしいことをいう。[広辞苑]

稀鹽酸(きえんさん):希塩酸

注)木下正中が帰京したのは、7月23日7)。

♪木下正中が下瀬謙太郎の妹・泰子やすこと結婚したのは,明治26(1893)のことで,香港へ向かう一年前のことでした8)。香港へペスト研究に向った夫の帰りを信じて待つ,妻の気持ちはいかばかりであったでしょう。強い気持ちを感じます。長女の篤子(とくこ)をさずかったのは,明治28年(1895)になってからのことでした。

下瀬謙太郎は,『近代名醫一夕話』の北里柴三郎の座談会(昭和12年[1937]6月1日)に参加して,木下正中とのペスト時代のことを述べていますが,このことについては,稿をあらためます。

♪座談なかで,木下正中は,長與又郎や林春雄の質問にこたえ,青山胤通と石神亨に対して,どのような治療をしたかなどについても,述べています。

♪座談会の記録は,香港で、青山胤通と行動を共にした木下正中自身が語る「香港ペスト研究」の貴重な史料となっています。 (続く)

参考文献

1) 『長與又郎日記(上)』(小高 健編 学会出版センター 2001)


2) 『長與又郎日記(下)』(小高 健編 学会出版センター 2002)


3) 『近代名醫一夕話』(日本醫事新報臨時増刊)(梅澤彦太郎編 日本醫事新報社 昭和12年)


4) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本医事新報 第1369号, pp.1928-1930. 昭和25年.

5) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(2).  日本医事新報 第1370号, pp.1995-1998. 昭和25年.

6) 中瀬安清. 北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで. 日本細菌学雑誌 50(3):637-650, 1995.

7) 木下氏の帰京. 東京醫學會雑誌 8(15):707.8) 『先徳遺芳』(木下文書)(木下 實編)(私家版・平成23年7月):第三部(附録)「木下凞ひろむ・正中・東作の略年譜」.

(平成24年6月10日 入梅の日 記す)(平成31年2月28日 追記)