58. 盛岡行(3) 啄木、結婚前後の書簡より:駒込神明町442番地:駒込吉祥寺の側

♪啄木が駒込神明町にみつけたという新居となるはずの家は、どんな家であったのでしょうか。明治38年(1905)5月11日に牛込から出した上野広一宛の書簡に啄木は次のように書いています。1)

牛込より:5月11日 上野広一宛

「・・・家はもう見付けた、駒込神明町四百四十二番地の新らしい静かな所、吉祥寺の側に候。ヒドクよい所に候。炊事係の婆さんも頼んで置き候。兄を迎ふる時、青葉の中の我が新居、久し振りに画の話しでも可仕候。・・・」

 

11日夜 中館兄の机の上にて 啄木生

「・・・せつ子には御伝へ被下度候。天下の呑気男なる啄木の妻となるには、駒込名物の薮蚊に喰はれる覚悟で上京せなくてはならぬと。家の取片付け済み次第、せつ子を呼び寄せるつもりに候。ザット一週間の後ならむ。皆様に御心配かけたる段は真平御免。 小生の呑気にもあきれ候。しかし之れも一興也」

♪啄木が書簡を出した相手の上野広一(うえの・こういち)(1886-1964)は、中学時代の友人で、堀合節子との結婚に際して仲人を務めた人物で、のちに洋画家を目指して、同郷の政治家原敬の援助でフランスに留学しました。

♪当時の駒込神明町の天祖神社(神明社)周辺は、樹木も多く、春には杏や梅の花々が咲き乱れ、鶯のさえずりが聞こえるような、のどかで、自然に満ちあふれた場所でした。駒込名物の薮蚊も多かったことでしょうが、春になると、花々の間を、沸き上がるように、蝶たちが飛び交っていたのではないでしょうか。

♪『 明治四十年一月調査 東京市本郷區全圖』によると駒込神明町422番地は、岩槻街道(本郷通り)から天祖神社に向かう道の右手、現在、文京区立第九中学校が建っている先あたりです。近くには、もと鷹匠屋敷(避病院[東京都立駒込病院]の場所)もありました。相馬事件にも登場する富士神社の近くでもあります。

 

東京市本郷區全圖(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)


駒込天祖神社(神明社)

 

東京都立駒込病院(堀江幸司撮影)
富士神社(堀江幸司撮影)(平成28年10月

♪駒込吉祥寺の前を通る道が、岩槻街道[現在の本郷通り]です。街道をニ本榎のある西ヶ原一里塚の方向へと進むと、藍染川(現在の霜降り橋交差点)を過ぎたあたりから、樹木の陰で暗闇となるような淋しい場所も、まだまだ、残っていたようです。

♪駒込神明町442番地からは、森鴎外の住む観潮楼(駒込千駄木町21)、高村光太郎の住居(駒込千駄木林町)にも近く、啄木にとって、駒込という場所は、文学の香り高い場所であったのかもしれません。

♪そんな駒込神明町442番地での新婚生活をあきらめて、啄木は、上野から仙台経由で、ふるさとの好摩に向かうことになります。手紙からは、啄木の故郷を思う気持ちとともに東京での生活を諦め切れない思いも感じられます。盛岡での自分の結婚式に出ずに好摩に向かうのです。花嫁にはなんとも残酷なことでした。

 

仙台より:5月22日 金田一京助宛

「ふる里の閑古鳥聴かむと俄かに都門をのがれ来て、一昨夕よりこの広瀬川の岸に枕せる宿に夢の様なる思いに耽り居候、月末までには再び都門に入るつもり、この落人の心のかずかず、うさたのしさハ凡て故里より申上げ候」

好摩より:5月30日[結婚式の当日]上野広一宛

「友よ友よ、生は猶活きてあり、
二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。
三十日午前十一時十五分
好摩ステーションに下りて はじめ」

 

参考文献

1)『石川啄木全集 第七巻 書簡』(筑摩書房 1979)

(平成18年5月30日 記)(平成30年9月14日 追記)