46. 映画「狂った一頁」(2):川端康成の「撮影日記」

♪東京府巣鴨病院(前・東京府癲狂院)が茂原郡松澤村上北澤に移転して,東京府松澤病院(現在の東京都立松沢病院)となったのは,大正8年(1919)11月7日のことでした1)。榊俶のあとを継いだ呉秀三の理想に基づいて建設され,広大な構内には農場や庭園なども設けられました。

東京府松澤病院正門(絵葉書)
東京府松澤病院(病院鳥瞰)(絵葉書)
東京府松澤病院(病室の外観)(絵葉書)
東京府松澤病院(庭園の一部)(絵葉書)
東京府松澤病院(レントゲン室・治療室)(絵葉書)

♪当時,松澤病院に入院していた葦原将軍2)3)こと芦原金次郎(嘉永3年―昭和12年)は,明治43年(1910)7月9日に乃木希典(陸軍大将)と面会するなど,精神病者として新聞紙上を賑わした患者で,乃木を案内したのが呉秀三でした。明治から大正,昭和へと続く軍国化のなかで,精神病者への対応など「脳病院」が注目された時代でした。

♪衣笠貞之助が,いつ松澤病院を取材したか,その月日や院内を案内した医長については,わかりませんが,大正14年(1925)6月30日に呉秀三院長が退職して,三宅鑛一(三宅秀の長男)が院長になっていました。

♪開院当時の松澤病院は,病院全体がコロニーを形成しており,広大な敷地のなかに畑,水田,畜産場,園芸用地のほか,作業場などもあって「作業療法」も実施されていました。4)5)6)作業療法の建物には,男病者工作場(封筒貼り作業場),女病者工作場(裁縫作業場),大工工作場,印刷場などがあり,衣笠貞之助は,これらの施設も見学してまわったものと思われます。

 

(参考絵葉書)山形脳病院(現・山形さくら町病院)の作業療法

山形脳病院の作業療法(1)(絵葉書)
山形脳病院の作業療法(2)(絵葉書)

 

◆下賀茂松竹撮影所(京都)と川端康成の「撮影日記」

♪『狂った一頁』の撮影は,京都の下賀茂の松竹撮影所で行われました。撮影所は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(下鴨神社)の「糺(だだす)の森」の近く、加茂川沿いにありました。

♪「撮影のための宿舎からは、糺の森が見え、暗闇のなかでの脳病院風景の撮影は、恐ろしく、高笑いする女優の演技は、まさしく狂えるようなものであった」と川端康成は書いています。6)

下鴨神社と糺の森(絵葉書)
賀茂御祖神社(下賀茂神社)の賀茂祭(葵祭)

 

・・・踊子,気狂病院の病室にて踊り狂ふ卵色に塗りしトタン張りに鉄格子あるセットなり。踊子,支那米封筒の如き服を纏へり。肩腰など痛ましく破れ,腕と脚は露わにして素足なり。元来この狂へる踊子の役,格別に意味はなけれど,脳病院における小使と狂人の群の描写が大部分を占むるこの映画に色彩を与へ,時々気分を花(ママ)やかならしむる点において,甚だ重要なる役目なり。
始め須田美子出演の由を知り大いに喜びて,特にこの役を書き加へしなり。しかるに,高田雅夫氏の舞台の都合にて,出演せず,と聞きしかば,僕の失望甚だし。踊子なしでは,このシナリオの撮影不可能にあらずやと思ひし程なり。されば,踊子として現れたる南栄子氏は一人の救いの神なり。

15日
葵祭の日なり。
同志社大学の小壮教授谷川徹三氏注3)楽屋合宿所に来る。水上譲太郎氏より紹介さる。一高を僕より二三年前に出た人。一高の話少々。映画の観賞家なり。午後西田幾太郎博士の講義あればとて帰る。・・・
聯盟諸君は楽屋に合宿せり。井上正夫氏一党の俳優,渡瀬淳子氏一党の俳優は別に借家せり。働く者総勢七十名。経費莫大。世間の注目あり。且つ第一回作品なれば,シナリオ作者の肩重き以上に痛し。もし失敗せば,大半は僕の責任となるべし。聯盟員が粉骨砕身せる京都の地は二度と踏み難かるべし。

16日
隣室の井上正夫氏と話す。共に近所の玉突へ行く井上氏百点,僕当たらず。
・・・愛宕山なるべし。西の山へ紅色に沈む夕日を見る。宿の東はただすの森なり。・・・
今日も夜間撮影なり。小使が狂へる妻を盗み出さんとする場面なり。深夜の狂人の姿二。半裸体にて寝てゐる踊子。秋本梅子氏の扮せる女狂人の高笑ひ。クロズアップの壁の影と共に笑ひて,恐ろしきばかり狂へる深夜の感じなり。子供見るべからざる映画なり。
・・・三時過ぎ終る。宿に帰って眠れず。青磁色の暁をみる。(「撮影日記」)7)

注3) 谷川徹三:詩人・谷川俊太郎の父で哲学者

♪実験映画として評価される『狂った一頁』は,松澤病院で行われていた作業療法の「封筒貼り」の場面を再現することによって,精神病院の実態の一部を,記録として残そうとする映画でもあったのではないか・・・衣笠貞之助監督の精神科医療に対する冷静な眼を感じさせる映画と感じました。

 

◇封切館:旧武蔵野館(東京・新宿)

♪映画「狂った一頁」が上映された新宿の旧武蔵野館のあった場所へ行ってみることにしました。

♪映画『狂った一頁』が封切上映されたのは,洋画封切館の武蔵野館(大正9年[1920]6月30日開館)(3階建 定員600名)8)9)で大正15年[1926]9月24日のことでした。

♪当時,日本一の映画劇場といわれ,洋画ファンのメッカであった武蔵野館での上映が決まるまでには,いろいろの人の好意があり,徳川夢声もそのひとりで,上映の際に舞台で解説をしたそうです。

♪武蔵野館は,新宿通りに面した新宿三越があった場所にありました。三越が閉鎖(2012年3月閉店)されたあとビックロ(ビックカメラ+ユニクロ)となっています。なお,三越新宿店南館(1997年7月閉館)があった場所は,かつて新宿新歌舞伎座があった場所で,現在はIDC大塚家具の新宿ショールームとなっています。

 旧武蔵野館があった場所に建つビックロ (平成26年9月22日 堀江幸司撮影
戦前の新宿通り(絵葉書)(平成26年10月11日 追加) (左に伊勢丹、右に新宿三越、高野フルーツパーラーの看板。三越の場所に旧武蔵野館がありました)

♪新宿武蔵野館が現在地に移転したのは,昭和3年(1928)のことで,その建物も昭和41年(1966)に取り壊され,現在のビル(武蔵野ビル 東京都新宿区新宿3-27-10)に建て替えられています。新宿武蔵野館は,ビルの3階に入っています。

新宿武蔵野館(平成26年9月22日 堀江幸司撮影)

♪最近は,紀伊国屋書店新宿本店に行かなくなったせいか,JR新宿駅の東口側には,ほとんど降りなくなりました。画材・額縁の専門店の世界堂に行くのにも,四谷三丁目まで続く地下道を通って行くために,新宿通りを歩くということが,ほとんどなくなりました。

オークヴィレッジの東京ショールームが紀伊国屋書店新宿本店7階から自由が丘に移転してからは,なおさら新宿東口は,縁遠くなっていたのですが,今回,『狂った一頁』が,また東口への道を繋げてくれました。

参考文献

1)『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)
2)「将軍狂笑」:『明治医事往来』(立川昭二著 新潮社 1986)pp.375-382.
3)「芦原将軍のこと」:『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)pp.261-277.
4)「墳墓発掘」:『明治医事往来』(立川昭二著 新潮社 1986)pp.368-378.
5)「精神病の治療」:『松沢病院外史』(金子嗣郎著 日本評論社 1982)pp.109-133.
6) 「第二章 移転直後の医療」:『私説松沢病院史―1879-1980』:pp.455-488.
7)「『狂った一頁』撮影日記」(川端康成著):『衣笠貞之助 狂った一頁/十字路』(上演パンフ)PP.43-44.
8)『映画の殿堂新宿武蔵野館』(開発社 2011)
9)『新宿盛り場地図』(東京新宿区立新宿歴史博物館 平成17年5月発行)

(平成26年9月23日 記す)(平成30年3月28日 追記)