14. 「東京医学校本館」と「第一高等学校」の時計薹 ――無縁坂・根津に響く鐘の音

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[1] 東京医学校本館時計台

場 所:無縁坂上の「鐡門」を入った正面
建設年:明治9年(1876)
設 計:林忠恕(はやし・ただよし(ただひろ)注1)

♪「東京帝國大學病院」「東京本郷大学医学部」と題する絵葉書を入手しました(図1)(図1B)。時計台1)2)という名称で親しまれた「東京医学校本館」の建物です。建物全体と周囲の情景を写し込んでいます。

図1.東京医学校本館時計台(東京帝國大學病院) (明治9年から明治43年まで鐡門を入った所にあった時計台)
図1B. 東京本郷大学医学部

♪時計台の写真は,建物を正面から撮影したものが多く,このアングルの時計台は,見たことがありませんでした。本郷構内における時計台の周辺の雰囲気を知ることができる貴重な写真と思われます。鐘塔の外観もよく撮られています。図1の時計の針は,10時30分頃を指しているようです。

図1bの写真では、赤門の方向からくる道が、時計台の手前から坂道になっているのがわかります。現在の医学図書館(中央館)の方から撮った写真だと思われます。本郷キャンパス内は、公園のように、広く、樹木が多かったことがわかります。画面の奥が上野不忍池の方角になります。

♪逆に、上野不忍池の方角からみて時計台が移っている絵葉書があるのではないか、と思って随分と期間をかけて探しました。中央の太い木の右手の遠景にかすかに時計台が写っている絵葉書がありました。(図2

 

図2.上野不忍池から旧東京医学校時計台を望む(絵葉書)(平成26年10月13日 追加)―中央の木の遠景にかすかに時計台らしき影が見える―

♪明治9年(1876)11月27日に神田和泉橋より新築移転3)した東京医学校本館は,不忍池方面へ下る無縁坂上の鐡門を入った所にありました。森鴎外が『雁』で書いた鐡門です。建物は,2階建洋館で屋上に御輿型の鐘塔が設置されていました。2)(図3

図3.東京大學醫學部注2)時代の時計台(出典:『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』の口絵4))

♪『明治工業史 建築編1)によると,建物と時計塔の設計者は林忠恕はやしただよし(1835-1893)5)ということです注1)。時計の機械は,横濱の時計貿易商館ファブルブランド(James Favre-Brandt)注3)の手によって輸入され,ローマ数字の文字盤(直径約5尺),時打装置を持っていました。麗しい音色が,無縁坂の下あたりまで響いたそうです2)

♪林忠恕は,「上野教育博物館・書庫及び閲覧室(のち東京美術学校文庫)」(明治13年[1880]3月20日起工 10月21日竣工)(現・東京藝術大学赤レンガ1号館)を設計した人物としても知られています。

♪駅逓寮時計塔(明治6年[1873]12月13日起工 明治7年[1874]4月竣工),駒場農学校・教師館(明治9年[1876]10月10日起工 明治10年[1877]5月13日),生徒寄宿舎(明治9年[1876]10月14日起工 明治10年[1877]9月9日竣工)も林忠恕の設計です。

♪林忠恕は,伊勢國三重郡吉沢村の農家の出身で,はじめ鍛冶職,木挽きを業とし,のち三河の森川重範について大工の術を習ったそうです5)。

♪横濱に出て米国人ビールジェンス(R.P. Bridgens)に西洋建築法を学んでいます。明治4年[1871],大蔵省営繕寮に奉職後,東京医学校本館を設計した明治9年[1876]当時は,工部省に移っていました注1)。

◇◇

♪『東京區分全圖』(東京醫事新誌局発行 明治23年[1890]3月27日出版)の裏に「帝國醫科大學の略圖」が載っていました。(図4)鐡門を入った所に「帝國大學本部」と記載されています。これが時計台の建物です。

図4.「帝國醫科大學の略圖」(明治23年当時)

♪『帝國醫科大學の略圖』によると赤門を入った所に第一醫院の建物がありました。現在,医学部2号館本館、医学図書館(総合中央館)があるあたり一帯と思われます。研究室と病室の記述がみえます。のちに外科教授となる近藤次繁(第1外科講座)と佐藤三吉(第2外科講座)の病棟、三浦内科病棟(三浦謹之助)の絵葉書も残っています(図5 図5b)内科病棟の遠景には、時計台がみえ構内図(図6)により、その位置関係がわかります。

 

図5.医科大学佐藤外科・近藤外科病室
図5b。醫科大學三浦内科病室(絵葉書)(平成26年1月22日 追加)
図6.「東京帝国大学一覧」(. 明治37-38年)(国会図書館近代デジタル・ライブラリー)

 

♪時計台の建物は,医学部設置後は,「医学部本部」として利用されたようですが,絵葉書(図1)のキャプションには「東京帝國大學病院」あります。時計台が,大学のシンボル的な存在であったために時計台を病院と呼んでいたのかもしれません。

♪総長室も,この時計台にありました。『明治工業史 建築編』1)には,次のように記録されています。

大學総長たりし渡邊洪基,加藤弘之は,常に此の時計台下の階上室に座を占めたりしなり。又嘗て帝國大學醫院に行啓ありしとき,此の時計台下の室便殿に充てられたり。時に明治二十一年五月二十九日にして,帝國大學総長は渡邊洪基なりき。
♪明治43年(1910)末に時計台の建物は,解体され,一部は赤門前に,一部は学士会館(のち焼失)として移築されます。赤門横に移築された建物は,その後,史料編纂所や営繕課として使われました5)6)。現在,小石川植物園内に再移築され東京大学総合博物館小石川分館(東京医学校本館遺構)7)として遺されている建物です。

[参考:東京医学校本館の変遷]:198.東京大学本郷キャンパス案内:赤門の背景に写る旧東京医学校本館(旧史料編纂所)[絵葉書:(東京名所)帝國大學赤門]
(平成26年10月4日 参考リンクを追加)(平成29年6月7日 訂正・追記)

◇◇◇

♪実は「東京帝國大學病院」(図1)の絵葉書を入手する前に,もう一枚,「醫科大學外来患者診察所」と題する絵葉書(図7)を入手していました。「東京帝國大學病院」(図1)および「大學の時計薹と玄関」1)(図8)の写真と比べてみると時計塔の部分,バルノニーの形,玄関などの様子が違っています。

♪写真が不鮮明のため時計の文字盤の数字や針が確認できません。実際に時計が取り付けられていたかも、写真からではわかりません。この「醫科大學外来患者診察所」は,『東京大学の百年 1877-1977』8)の掲載されている写真と同様の建物です。アングルが違います。明治43年(1910)頃の撮影とされています。

図7.醫科大學外来患者診察所(絵葉書)
図8.大學の時計薹と玄関(出典:『明治工業史 4.建築編』)1)

♪東京医学校本館(時計台)の建物の玄関には,入り口部分に階段がついていますが,「醫科大學外来患者診察所」の玄関に階段はなく,バリアフリーになっています。いかにも病院の出入り口にふさわしい構造です。人力車も見えます。

♪「東京大学医学部時計塔」2)によると,鐡門の前に住んだ桐山富太郎氏(医学部御用商店・森田商店の支配人)と塩田広重(元医学部教授)の話として,明治43年(1910)末に東京医学校本館が解体された際に時計機械は取り外され,無縁坂下りる左側にあった医学部土蔵に保管されたようだとあります。そして,大学庶務課の談話として、戦時中に倉庫が取り払われた際に不要備品として処理されたと記録されています。

 

[2] 第一高等学校時計薹

場 所:旧本郷區向ヶ丘彌生町二番地(水戸藩邸跡)(現・東京大学農学部の場所)
建築年:明治22年(1889)
設 計:山口半六

♪第一高等学校の歴史を所在地別にみておきます9)10)。

1. 神田一ツ橋時代:明治8年(1875)-明治22年(1889)

明治8年(1875):東京英語学校にはじまる。神田一ツ橋の旧榊原藩邸跡の仮校舎で授業開始
明治9年(1876)11月27日:東京医学校が神田和泉橋より本郷旧前田藩邸跡へ新築移転
明治10年(1877)4月12日:東京英語学校を文部省直轄から東京大学附属とし,開成学校普通科(予科)を合併して東京大学予備門と改称
明治19年(1886)4月29日:第一高等中学校と改変

2. 本郷向ヶ丘時代:明治22年(1889)-昭和10年(1935)

明治22年(1889)3月22日:本郷弥生町(向ヶ丘,旧水戸藩邸跡)に移転
明治27年(1894)6月25日:高等学校令公布により第一高等学校と改称
昭和10年(1935) 2月1日:一高,「向陵碑」を遺跡記念として本郷の敷地内に建設する。この日除幕式挙行。(碑文:安井小太郎教授 書:菅虎雄教授)

3. 駒場向ヶ丘時代:昭和10年(1935)-昭和24年(1949)

昭和10年(1935)7月17日:一高,駒場の東京大学農学部と敷地を交換し本郷から駒場へ移転(東京市目黒区駒場町)
昭和24年(1949)5月31日:東京大学教養学部設置
昭和24年(1949)6月30日:一高は東京大学第一高等学校となる(校長・矢内原忠雄)
昭和25年(1949)3月24日:一高終焉により,麻生磯次校長の手により「第一高等学校」の門札を撤去

♪明治22年(1889)3月22日に旧水戸藩邸(現在の農学部がある場所)に第一高等中学校(現・東京大学教養学部[駒場]の前身)が一ツ橋から移転された際に建築された校舎にも時計薹(半円形の鐘塔)が付けられました11)。この設計は,山口半六(文部省建築課長)によります12)。山口半六は,上野の旧音楽学校奏楽堂(重要文化財)を設計した人物です。

山口半六(やまぐちはんろく)(1858-1900)の履歴を『明治過去帳』13)と当時の新聞記事からみ・ておきます。

安政5年(1858)8月:旧松江藩(現・島根県)の山口軍兵衛礼行の次男として生まれる。兄に日本銀行理事を務めた山口宗義がいる。弟に学習院長を務めた山口鋭之助がいる。
明治9年(1876):文部省留学生としてパリに行き12年(1879)8月建築工師の学称を受ける。(「東京日日」[明治12年(1879)10月16日付]によると,古市公威[明治8年(1875)派遣],沖野忠雄[明治9年(1876)派遣],山口半六[明治9年(1876)派遣]の3名がパリのエコールサントニール百工中央大学校(École Centrale Paris)を卒業している。)
明治14年(1881)6月:帰朝,三菱会社に入る。
明治19年(1886):文部書記官に任じる。
明治20年(1887):文部三等技師
明治21年(1888)6月末:東京美術学校は,上野公園内の教育博物館隣地に,仮校舎を建築することを決定。濱尾新(文部省専門学務局長),久保田譲(会計局長),山口半六(三等技師)の3氏によって該地見聞。
明治23年(1890):会計局建築掛長。
明治24年(1891):片山東熊,三好晋六郎らと工学博士となる。
明治33年(1900)8月23日:神戸で病没。享年43歳。

 

図9.第一高等学校(絵葉書)

図9の絵葉書は、国内から海外へ出されたものです。文面(宛名面)(図10)は英語で書かれており、J.KawanishiがAntwerp(Belgium)に送った絵葉書です。第一高等学校を卒業後,東京帝國大學の法科(law college)で2年間,学んでいることなどが書かれています。J.Kawanishiとは,文面から判断して川西實三(明治43年・一部甲)ではないかと思われます。

図10.「第一高等学校」絵葉書の宛名面

♪川西實三は,のち日本赤十字社の社長(第9代)を務めています。東京府知事も務め,知事は安井誠一郎,東龍太郎(一高,大正二・医科)と続きました。東龍太郎は,日本赤十字社社長(第10代)も務めています。

♪川西實三は、「新渡戸先生のことなど」14)のなかで「有り難き先輩」と題して次のように書いています。

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前田多門注4)、鶴見祐輔、岩永裕吉、藤井武、黒崎幸吉、黒木三次、金井清氏等、就中なかんずく、前田さんは先輩というよりも恩人。氏の人格の迸りの雄弁に感動の余り熱烈なる思慕の情を披攊した手紙を差上げたのがキッカケとなり、新渡戸先生に一入親近出来るようになり、上記の諸先輩も前田さんのお引き合せによるものである。附言すれば後年の帝国事務所勤務でジュネーヴに駐在することになった私の上長として前田さんが赴任して来られたり、新渡戸先生は国連の事務次長として内外信望の的となって居られたのであった。

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図11.第一高等學校正門(絵葉書)

 

図11の絵葉書は、本郷通り側から、正門を通して第一高等学校の時計台を見たものです。第一高等学校に入学し向陵生活をはじめた学生から尋常小学校時代の恩師に出されたもののようです。東寮を「監獄のような寄宿寮」と書いています。藤村操のことにもふれています。

♪第一高等学校の時計台の鐘の音について、藤島亥次郎(工学部教授)は,「その鐘の音は,余韻は短かったけれども,かん高く,夜間など根津あたりを散歩していても,聴かれた」11)と述べています。

♪室生犀星は,『ザボンの実る木のもとに15)のなかで一高の時計台について次のように書いています。時計台の鐘の音とともに,本郷台地上の茜色に染まる時計台の風景がよみがえります。

門からすこし出たところに根津八重垣町一帯の谷そこへ下る坂がありました。夕日が本郷高台一円の空を金色にそめてゐるのを私はよく見に出ました。高等学校の時計台が見えてゐます。坂はなめらかなけいしやで街へつづいて居り街には灯が入つて豆腐売や夕暮のもの騒がしい景色を点出してゐます。
♪大正12年(1923)9月1日の関東大震災で,一高(本郷)の象徴であった本館・時計台は被害を受け,爆破処理(解体爆破写真)(図12)(10月9日)されることになります。

図12. 関東大震災で被害を受けた統計台の爆破処理

♪昭和10年(1935)2月1日,一高,「向陵碑」を遺跡記念として敷地内に建設,除幕式を挙行します。碑文(碑陰)は,安井小太郎教授,書は菅虎雄教授によりました。現在、向陵碑は、農正門を入って右手の弥生ホールの一番奥の塀際に建っています。(図13 図13b 図13c

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図13. 向陵碑
図13b. 向陵碑(碑陰)

 

図13c. 向陵碑の碑文(案内板)

♪一高から東京大学医学部に進んだ沖中重雄(大正13年・理乙)(のち内科教授)と藤田恒太郎(のち解剖学教授)は同期でした。「医学界の先人たち16)のなかで,藤田恒太郎のことを次のように回想しています。

一高に入学した時,隣の席に居たのが藤田恒太郎君であった。藤田君は大変真面目な勉強家で,後に東大医学部解剖学教授になったが,学生の頃「自分は臨床医学をやりたいが,子供の時,片方の耳を中耳炎でやられているので,聴診器を使えなくては困るから,屍体を扱う解剖学をやるんだ」と言っていた。
♪木下正中(のち産婦人科教授)は,「第一高等学校」が「東京大学予備門」と呼ばれた明治18年(1885)入学,「第一高等中学校」と呼ばれた明治23年(1890)に卒業しています。同年帝國大學醫科大學に入学しています。17)

♪木下正中の弟の木下東作注5)は,明治28年(1895)に第一高等学校に入学し,明治33(1900)年卒業。同年東京帝國大學醫科大學に進んでいます。17)

♪一高から東大に進んだ東龍太郎は、座談會で一高・東大時代の漕艇部について語っています18)。当時の一高と東大の艇庫は、隅田川の向島にありました。東大の艇庫の設計は、東京驛を設計した辰野金吾によりました。

♪戦後,昭和25年(1950)3月末日をもって,一高は廃止され東京大学教養学部となります。昭和25年(1950)3月24日,一高の卒業式の日の日記に,校長であった麻生磯次は,一高の門札を外したことを,次のように書いています。19)図14

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一高最後の卒業式の日である。朝,安倍さん宅に,杉敏介先生を訪ね,祝辞を・時から茶話会,現旧職員,同窓会の役員,卒業生などが図書館に参集,杉・安倍・天野・田中耕太郎・高橋穣・柳沢健氏等に話してもらう。次いで一同門前に集まって,第一高等学校の門札を取り外す。七時から晩餐会,千数百名の卒業生先輩が食堂に参集し,すこぶる盛会であった。九時から寮歌祭に移り,庭上に篝火かがりびをたき,徹宵寮歌を合唱して,記念すべき日は終わった。

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図14. 一高最後の卒業式

♪農正門を入って真っすぐ、左手の一番奥に進むと向ヶ岡ファカルティハウスがあります。もと東京大学向ケ丘学寮があった場所です。ファカルティハウスの一階にはレストランがあるのですが、食事をしながら庭をみていたら隅になにか石碑が建っているのに気づきました。近寄ってみると、東京大学学寮址の石碑だったのです。(図15  図15b 図15c

図15, 東京大学向ケ岡学寮址の石碑 -農正門を入った一番奥の左手、向ケ岡ファカルティハウスの庭に建っているー
図15b. 東京大学向ヶ岡学寮址の案内板
図15c. 農学部キャンパス内にある向ケ岡ファカルティハウス(旧東京大学学寮跡地に建つ)

♪桜の季節になると,安田講堂時計塔(図16}の前庭に咲く枝垂れ桜(図17)が見事です。明治の文明開化とともに建築された学校建築に取り付けられた時計塔の鐘の音を想像しながら,無縁坂(図18)を下り、本郷と坂で繋がる谷中・根津・千駄木周辺を歩いてみたいと思います。(参考:本郷通りを歩く:日本医科大学附属病院界隈、旧真砂町・菊坂界隈)

図16. 東京帝国大学中央大講堂(絵葉書)
図17. 安田講堂前に咲く枝垂桜
図18. 上野不忍池から本郷台地を上がる無縁坂 -この坂上に鉄門があるー

 

注 記

1) 東京医学校本館の設計者:『明治工業史 建築編』1)によると林忠恕になっていますが,『日本近代建築史ノート』5)のなかにある「林忠恕・工部省在職中の関係建築」には,東京医学校本館の記載はありません。

2) 東京大学医学部の名称は,明治10年(1877)から明治19(1886)年までを第一次,昭和22年(1947)以降を第二次として,2回使われています。
関連第23回:東京大学医学部の名称の変遷

3) ファブルブランド(James Favre-Brandt)(1841-1923):スイス人貿易商。ロックル市出身。1863年遣日使節団の一員として来日。横濱居留地84番で開業し、のち175番地に移転。『時計心得草』の著がある。横濱外人墓地(9区)に家族とともに眠っています。(『図説横浜外国人居留地』20)による)

4) 前田多門の長女が神谷美恵子です。神谷美恵子は昭和19年(1944)東京女子医学専門学校を卒業後、東京帝國大學精神科に入局しています。ハンセン病について太田正雄(木下杢太郎)の指導も受けています。

5) 木下東作(1878-1952)17)
明治36年(1903):東京帝國大學醫科大學卒業、大学院
明治41年(1908):ウィーン大學留学、翌年帰国後、大阪府立高等医学校に復職
大正11年(1922):依願退職、大阪毎日新聞社に入社
大正15年(1926):日本女子スポーツ連盟設立―会長
昭和3年(1928):人見絹枝800m走銀メダル

 

参 考 文 献

1) 大學の時計台:『明治工業史 4.建築編』(日本工業会編 原書房 1994)pp.161-163.
2) 東京大学医学部時計塔:『明治・東京時計塔記』(平野光雄著 青蛙房 昭和33年)pp.70-78.
3) 「上野に校舎建築と決定」(明治21年7月1日 東京日日)
4) 東京大學醫學部時代の醫學部本部「所謂(時計台)」(口絵):『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』(古畑種基編 東京帝國大學醫學部法醫學教室発行 昭和18年刊)
5) 「林忠恕その他」:『日本近代建築史ノート ―西洋館を建てた人々』(村松貞次郎著 世界書院 昭和40年)pp.60-77.
6) 「史料編纂所の移転」:『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 平成3年)pp.111-114.
7) 東京医学校本館遺構: 医学図書館 33(3):289-291,1986.
8) 『東京大学の百年 1877-1977』(東京大学出版会 1977)
9) 「本郷から駒場へ」(小田村寅二郎)向陵 16(2)[一高百年記念]:76-80.
10) 「第一高等学校年表」(藤木邦彦編)向陵 16(2)[一高百年記念]:220-251.
11) 第一高等学校時計塔:『明治・東京時計塔記』(平野光雄著 青蛙房 昭和33年)pp.118-121.
12) 「(三 帝國大學理科大學本館其の他)第一高等中学校」『明治工業史 4.建築編』(日本工業会編 原書房 1994)p.207.
13) 『明治過去帳<物故人名辞典>』(大植四郎編 昭和10年)
14) 「新渡戸先生のことなど」(川西實三)向陵 16(2)[一高百年記念]:170-171.
15) 室生犀星 「ザボンの実る木のもとに 」- 青空文庫
16) 「医学界の先人たち」(沖中重雄)向陵 16(2)[一高百年記念]:63-66.
17) 「木下凞・正中・東作の略年譜」:『先徳遺芳(木下文書)』(木下實著)

(私家版 平成23年7月刊)の巻末。
18) 「日本漕艇界の先駆一高と東大」(東龍太郎・根岸 正・西浦義幸)向陵 16(2)[一高百年記念]:328-337.
19) 「一高の終焉」(麻生磯次)向陵 16(2)[一高百年記念]:47-49.
20) 『図説横浜外国人居留地』(横浜開港資料館 有隣堂 平成10年)

 

(平成25年12月9日 記す)(平成29年6月7日 訂正・追加)